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Page 1 北海道教育大学学術リポジトリ hue磐北海道教育大学
Title
東京都における教員レッド・パージ前史 : 多田小学校事件の研究
Author(s)
明神, 勲
Citation
釧路論集 : 北海道教育大学釧路校研究紀要, 第36号: 65-75
Issue Date
2004-11
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1321
Rights
本文ファイルはNIIから提供されたものである。
Hokkaido University of Education
釧路論集一北海道教育大学釧路校研究紀要一第36号(平成16年)
KushiroRonshu−JournalofHokkaidoUniversityofEducationatKushiro−No.36:65−75.
東京都における教員レッド・パージ前史
一多田小学校事件の研究−
明 神
勲
北海道教育大学釧路校教育学研究室
A prehistory of the Red Purge case of schoolteachers
in Tokyo Prefecture
−A study of Tada elementary schooIcase−
Isao MYOUJIN
Department of SchooIEducation,Kushiro Campus,Hokkaido University of Education
た際に党を十分理解しない父兄の不安をのぞくために授業
はじめに
から解雇問題に発展した東京都多田小学校事件は、東京都
時間外に行ったもの」(2)と説明している。多田小学校では、
学校運営と人事をめぐって校長と教員の間で、さらにPT
Aも巻き込んだ形で1年余にわたり紛争が続いており、校
における教員レッド・パージの前史をなすものであった。
長を批判する教員の先頭に立っていたのが入党宣言をした
東京都の教員レッド・パージは1950年2月に実施されるが、
討が欠かせない。本稿の第一の目的は、東京都における教
3名の教員であった。都教育庁は、「多田小学校三教員の場
合は、たまたま同校の人事問題にからむ内紛を調査中ビラ
配布の事実が明らかになった」(3)としているが、ビラ配布の
員レッド・パージの実態を解明することにある。
情報は3名の教員に反感を抱いていた校長或いは校長支持
教員の共産党への集団入党と家庭訪問における入党挨拶
その全容の解明のためには前史をなす多田小学校事件の検
派のPTA幹部からもたらされものと推測される。これが
占領軍・東京軍政部の知るところとなり、後に多田小学校
事件と呼ばれる事件に発展することになった。
1949年2月2日、東京軍政部は東京都教育庁にたいして
これに関する調査を命じ、教育庁は翌3日、早速軍政部に
報告書を提出した。これを受けて、東京軍政部は2月13日、
また、多田小学校事件は、教員の政治活動・政治教育の
あり方とその限界にかかわる教育基本法第8条解釈の問題
を大きな論点として提出した。文部省の教育基本法第8条
解釈の特徴を明らかにすることが、本稿の第二の目的であ
る。
さらに、多田小学校事件は、学校と教職員組合における
共産主義の問題をクローズアップさせることになった。地
方軍政部、CIEの多田小学校事件にかんする対応の検討
をつうじ、GHQの反共教育政策の特徴をあきらかにする
ことが、本稿の第三の目的であり、それは、占領下におけ
「かゝる行為は教育法の明文と精神をともに侵犯するもの
で、彼らの解職の理由となる」との声明を発表した。また、
東京軍政部教育課長デュペル(Capt.Paul.T.Duppel)は、
直接多田小学校に乗り込んで自ら調査を行った。2月17日、
調査報告として談話を発表したが、(4)このなかでデュペルは、
共産主義と共産党を激しく罵り、3名の教員の行為は教育
る反共教育政策展開の諸段階を明らかにする作業の一部を
なすものである。
基本法に違反するもので免職されるべきことを主張してい
る。
一 多田小学校事件の発生
さらにデュペルは2月25日、東京都教育委員会(以下、
都教委、と略)に対し150名の共産党教員の解職を要求する
として、そのための名簿と活動の詳細についての資料を都
教委に提供すると語った。(5)
1949年1月、総選挙の最中に東京都の教員150名が共産党
に集団入党し、そのうち多田小学校の3名の教員をはじめ
何名かの教員が担任児童・生徒の家庭を訪問して「入党に
他方、多田小学校教員等の行動は教育基本法に抵触する
ものではないという立場からの処分反対運動も組織された。
さいしてのご挨拶」と超するビラを渡したうえ、入党の趣
旨と共産党の教育政策について話をした。(1)共産党はこれを
共産党東京都委員会は、2月23日、「抗議書」を発表した。
「教員の集団入党あいさつは三百名の教員が新しく入党し
ー65−
明神
このなかで、「教員の入党挨拶は放課后なされたものであり、
この道動により社会党の一定部分が共産党の呼びか削こ
教育基本法にきめられている学校の政治教育その他政治活
応え入党したが、それが「社共合同」運動の成果として共
動ではなく、また特定の候補者を目的とする選挙運動でも
ない。」とした上で、今回の事件は「保守派教育委員と教育
官僚が多田校の校長、PTAの反動幹部と結び教員党員の
追い出し策動」を企図したものであり、「憲法に保障された
産党の機関紙「アカハタ」で大々的に宣伝されることになっ
思想・政党加入の自由奪い教育基本法に違反し特定の政党
社合同懇談会][共社の合同へ結集 宮城 一挙41名社党脱
に反対する政治活動を行っている。」(6)と抗議している。ま
党]等の見出しが躍っており、このような傾向は1949年初
頭の「アカハタ」では一層強められることになる。
た。たとえば、1948年12月26日付「アカハタ」には、[水上
敏英委員長ら一挙十七名入党 金石炭幹部そろって][中田
委員長も入党声明 日農熊本県連][愛知でも大量入党 共
た、1948年10月の第1回教育委員会委員選挙において共産
党公認で選出された堀江邑一委員は、追放に反対する父母
らの懇談会に出席しこれを激励し、あるいは文部省に対し
共産党の大衆化=「百甫の党」建設との関係でもう一つ
て質問書を提出したり教育委員会に公聴会開催の要求書を
重視されたのが、文化人、学者への働きかけと、公然とし
た入党宣伝・入党宣言運動であった。1948年の出隆東大教
提出するなど処分反対のために積極的な活動を展開してい
授、作家の森田草平、平林京大助教授、杉之原北大教授、
た。多田小学校の父母有志が集約した署名は、1ケ月足ら
ずの間に1000名を超えたと報じられている。(7)
こうしたなかで都教委は2月12日、多田小教員等の行動
が教育基本法に抵触するのかどうか、教育基本法第8条第
太田嘉四夫北大講師等の入党宣言に続き、1949年1月4日
付「アカハタ」は、「新春をいろどる≠入党〝」と超し次の
ような見出しで1面を飾っている。
[文学界 藤森成吉氏も “党以外に発展はない〝][映
2項の解釈上の問題点を文部省に照会する一方、2月17日、
画界 ふみきった岩崎氏 斉藤英雄民ら入党ニューフェ
秘密会の教育委員会を開催し関係教員の取り扱いについて
イス][音楽界 関忠亮氏も入党][学界 学界人もつず
検討を開始した。都教委の審査状況について宇佐美教育長
は、2月27日付け「東京新聞」において、「中野多田校の三
く 小松摂郎、大野俊英民ら][バレー 梅村レイ子さん]
[山崎外史][さらに三氏]
かは事実を調査するとともに教育委員会で審査中である
文化人、学者の入党宣伝は以降も続けられるが、なかで
も1949年3月7日の前進座の集団入党(座員、家族のほと
百五十名にのぼるといわれる他の者の分はまだ調査してい
んど全員に近い71名)は大きな話題となった。
ないので、どう処置するか説明できない 目下第8条の解
法によって思想の自由が保障されているので特定の政党に
集団入党・入党宣言の波は教育界にも及んでいた。1949
年1月7日、日教組大学高専部長の鶴岡信三、都教組書記
長・金子霊学、埼玉県教育委員会委員・安部綱義、都教組
入っているということが処断の理由にならない 違反につ
板橋区執行委員長・伊神正夫の4名が共産党本部を訪れ入
教員が教育基本法第8条の‥・条項に違反しているか、どう
釈について文部省に問合わせ、その回答を待っている 憲
いて証拠が示唆されればもちろんそれに基いて調査した上
党を申し込み、「埼玉県では安部氏とともに十数名が、都内
委員会で取り扱いについて決定を行うことになる。」と語っ
でも金子、伊神両氏につづいて数十名の集団入党が予想さ
ている。
れている」(10)と伝えられていた。そして2月3日から開催
された日教組第4回臨時大会(別府大会)は、共産党の勢
結局、都教委の取り扱いは、文部省の教育基本法第8条
第2項解釈の回答待ちとなったが、文部省解釈が示された
力誇示の場とされた。日教組出身の参議院議員・岩間正男
のは約4ケ月後の6月20日であった。
が大会挨拶で共産党への入党を宣言したのに続き、日教組
こうして多田小学校事件は、東京という一地域の枠を越
えて、教育基本法第8条解釈と教育界における共産主義問
その様子は、「大会の最終日、深更に及んで会場を退出しよ
中央執行委員・代議員等289名の集団入党が明らかにされた。
題という二つの問題を教育界に浮上させることになった。
うとする者は出口の壁に貼られた「別府における入党者宣
スローガンを掲げ、1948年末より労働組合、農民組合等の
言書」なるものに目をみはらされた、これによると…合計
二百八十九名の入党を伝えている」(11)と報じられている。
教員の集団入党・入党宣言運動は、多くの場合政治活動を
伴いつつ全国各地で展開された。
たとえば、長野県の動向は、「十五日東京の教員三百名入
社会党幹部や社会党員に対して共産党への入党攻勢を積極
党と日を同じくして・・・長野県下進歩的教員の戦線統一懇談
的に展開した。「社共合同」運動とは、芦田政権に失望した
会がひらかれ「戦線統一とはわれわれがこぞって共産党に
大勢の社会党員・社会党支持者が存在するなかで、「社会党
左派や労農党的な大衆をわが党に統一する闘争」(8)であり、
入党することである」と意見がまとまり、全員高倉テル氏
自宅を訪問、…校長先生4名を含む四十名が高倉氏すいせ
これを通じて共産党の大衆化をはかり、共産党を中心とす
んでその場で入党のてつづきをとり、また当日参加できな
る民主民族戦線を強化と人民政権の樹立を目指すという共
産党の戦略に基づくものであった。
かった県下教員で入党を表明している人々が約百名に上っ
ニ 多田小学校事件の背景一共産党の公然化運動一
共産党は、来るべき総選挙の中心戦術に「社共合同」の
ていることも発表され感銘をうけた。」(13)と報じられている。
(9)
−66−
東京都における教員レッド・パージ前史
共産党は、1948年未から1949年にかけての「百万の党」
本国民の献身的努力と固い決意のみがよく事態をよく解決
をめざす積極的なキャンペーンを通じて組織的にも政治的
し得るものであることを了解しつつ、わが政府はこれら目
にも急速に発展をとげ、1949年には十数万の党員と三十万
的達成についての日本国民の能力に対する貴下の信頼に応
部の「アカハタ」を擁する強大な組織に成長し、「労働組合
運動、農民運動のなかにも大きな指導的影響力を確立する
ところまで到達した」(14)。しかし、その過程で展開された
集団入党・入党宣言・細胞(組織)公然化運動(15)は、後の
える決心であります。」旨の返書をマッカーサーに送り、積
極的な実施の決意を示した。
マッカーサーと吉田首相にとって、労働組合運動、特に
産別傘下の戦闘的労働組合とそれを指導する日本共産党の
勢力の弱体化と排除は、経済9原則、ドッジ・ラインをス
「団体等規正令」に基づく共産党員の登録方針と共通の思
想基盤を有する問題点を含むものであった。共産党員の登
録方針について共産党は、「吉田内閣が占領軍の指令にもと
づいて団規令を公布したときも、党は反対闘争を組織せず、
ムーズに実施するための不可欠の条件であった。GHQは、
2・1スト以降、労働運動から共産主義勢力とその影響力
排除の措置を積極化するが、その基本は、民同勢力の育成・
援助、労働者教育、近代的労使関係の定着化などどちらか
というと間接的方法によるものであった。しかし、9原則
実施を前後する時期には、GHQは反共を前面に押しだし、
その規定にしたがって十万をこえる党員を特別審査局(公
安調査庁の前身)に登録し、党組織の主要部分を敵にみず
から暴露する誤りをおかした。他方では、この方針は、情
勢や力関係の主観的な評価から、大衆の日常的な要求と闘
争を、機械的に権力の問題とむすびつける地域人民闘争な
を再編成させる方針に切りかえていく」(17)ことになる。「彼
どの左翼日和見主義の戦術をも生みだした」(16)と批判的に
らには消極的に出るよりは積極的に出た方が効果が期待さ
総括している。
れる」(18)という視点から、直接的規制、排除の措置が計画
「内密の直接指導を通して左翼分子を追放させ、労働運動
され積極化することになった。
多田小事件の発端とされた東京都における教員の集団入
こうしてGHQ、政府は、非米活動委員会を模した考査
党・入党宣伝は、以上のような当時の共産党の公然化政策
に基づいたものであり、後のレッド・パージのためのリス
特別委員会の設置(1949年3月)、政令第64号「団体等規正
トを自ら提供する結果となった。
令」の公布(1949年4月)、公安条例の制定など反共布陣・
治安体制強化をはかり、やがてはレッド・パージの実施に
乗り出すことになる。竹前栄治が指摘するように、経済9
三1949年初頭におけるGHQの共産主義対策の特徴
原則は、対日占領政策を「『処罰・改革・民主化』の政策か
ら『反共・規制・従属的に本資本主義復活』の政策へと大
(−)対日占領政策転換の“旋回機軸”としての経済九原則
きく転換」させる“旋回基軸”(19)であったと言えよう。
「またこれは日本人の生活のあらゆる面において、より
以上の耐乏を求め、自由な社会に与えられている特権と自
由の一部を一時的にも放棄することを求めるものである」−
(二)C】Eの反共政策の特徴
マッカーサーは、経済9原則に関する吉田首相宛書簡(1948
年12月18日付)においてこのように明言していた。経済9
初めの教育課の動向について、「目立って共産主義者の影響
原則=ドッジ・ラインの実施は、労働者、国民に多大の負
が増大し、総司令部の全レベルの勤務者をかき乱すことに
担と過酷な犠牲を強いるものであったから、多くの社会問
なり、教育課には、必然的にいっそう積極的な対抗措置を
CIE教育課長M.T.オア(Mark T.Orr)は、1949年
題の発生や労働運動等の激しい抵抗を予想させるものであっ
とるように圧力がかけられた。共産党はいっそう遠慮なく
た。しかしこの実施はマッカーサーにとってワシントンか
発言していたし、左翼の大学生の戦闘性、マルクス主義教
らの至上命令であった。マッカーサーは、「今後経営者も、
授の著作や教育、日本教職員組合への共産主義者の浸透を
労働者も、生産の促進を妨害することは絶対に許されない
だろう。<中略>また今回の措置が目指している目的につ
懸念した。」(20)と回想している。オアが指摘するように、1949
いて、政治的紛争が起こることも、絶対に許されないだろ
として設定されることになった。
年1月には反共政策の強化・推進がCIE全体の重点課題
う。これらの目的は、一点の疑問の余地もないほど、明白
1949年1月3日、CIE局長D.R.ニュージェント(Donald
に述べられているからである。さらにその日的が日本人全
R.Nugent)は、1949年のCIEの年間活動計画(CIE
体に共通のものである以上、これに対して思想的立場から
反対を唱えることは許されず、その達成を遅らせたり、く
じいたりしようとする企図は、公共の福祉を脅かすものと
して、抑圧されなければならない。」と高言した。経済9原
則政策は、批判、反対はもとより疑問を抱くことさえも許
されない絶対的な指針であるとして、政府と国民に無条件
の実行を強く求めた。これに対して吉田首相はただちに、「‥・
その重要性は十分わが政府の承知するところあります。目
Program for Calender Year1949)策定にあたっての基
本的観点をCIE各課に指示した。その中でニュージェン
トは、「考慮されるべきもう一つの問題は、文化分野におけ
る共産主義者の浸透の問題である。この間題に対処する方
法に関しては、教育課、情報課、宗教課および文化財課か
ら提出されるプランにおいて高度の優先権が与えられるべ
きである。」(21)として共産主義に対する対抗措置の重視を指
示した。この指示に応えて教育課はその年間活動計画にお
−67−
明神
いて、「教育課長のオフィスは、教育活動及び文化活動への
共産主義者の浸透の問題についてのCIE全体での検討に
頭から末にかけて、地方軍政部(1949年7月より地方民事
部)及びCICによる共産主義勢力とその影響力を学校、
関する指導、援助、調整とこの危険に対抗する提案の準備
に責任を負っている。」(22)と明記し、CIE内に共産主義対
教員組合から排除することを意図した反共攻勢が全国各地
スコミ対策など教育・情報に関する広範な反共計画の検討
で大々的に展開された。もちろん、その具体的態様は軍団
や地方軍政部によって相違が見られた。反共攻勢の展開が
顕著に見られた地域は東北、関東地域であり、宮城軍政部
教育課長デリカ、山形軍政部教育課長ボーガス、関東民事
部教育担当官フォックス、埼玉軍政部教育課長ピーア、群
馬軍政部教育課長ストラウド、東京軍政部教育課長デュペ
ルなどの教育担当官がその積極的推進者であった。なかで
を開始している。(23)ここではたとえば、天皇をラジオ番組
も東京軍政部教育課長デュペルは強烈な反共主義と強引な
に登場させ反共宣伝に利用しようとする案さえ話題にのぼっ
手法でその最先端に立っていた。
策のための特別の委員会(Committeeto StudyMethods
to Combat Communism)の新設を提案した。この委員
会は、2月から3月にかけ週2回以上のペースで頻繁に開
催され、共産党勢力・戦術の分析、政治教育、反共パンフ
レット・著作の作成・翻訳・出版計画、用紙割当制度、マ
デュペルは、1946年3月、東京地方軍政部に教育担当官
ていた。
また、CIEは1月8日付でG−IIに「(a)日本共産党
として就任し、1949年6月まで一貫して東京地方軍政部に
の組織構成、綱領、活動、人事、戦術等の一般的な説明、(b)
日本の教育制度に侵入している共産主義者の特徴、勢力、
方法等や関連する機構、組織、活動」を内容とする説明会
属していた。本国では高校教師と大学教師の経歴を有して
いたとされているが、その振る舞いは強圧的で粗野であっ
たため、彼と接した教育関係者は、「絵に描いた悪代官さな
の開催を要請し、2月4日、19名のCIEの代表がこの会
がら」(27)とか「『泣く子も黙る』という言葉がぴったりする
議に参加しG−Ⅱと反共対策を協議している。(24)
ようないかにも悪代官みたいな男」(28)と一様に評していた。
また、CIE内ではW.Cイールズ(WalterClosbyEells)
デュペルは、その振る舞いにおいて「悪代官さながら」で
と双璧をなす反共教育政策推進論者で、共産主義を民主主
あるのみならず反共的攻撃の活発さにおいても際立ってお
義に敵対する独裁主義と断じる社会科教科書『民主主義』
作成の陣頭指揮をとったH.ベル(Howard Bell)は、教
り、それは“デュペル旋風”として知られていた。これに
関して、たとえば、当時都教組委員長の伊藤吉春氏は次の
育課長M.T.オア宛の1949年1月21日付けメモランダムにお
ように回想している。
いて次のような提言を行い、これにもとづく反共教育・情
報プランを提案している。
定期会見の席上で、或時ジュッペルは私にこういい
ました。「ミスター・イトウ、共産党の方の情勢はどう
だ。」と。私は変な質問だなと思いましたが、私を共産
学校、大学、労働組合そして文化組織における民主
主義と全体主義とのいよいよ激しさを増すイデオロギー
党員と思いこんでの質問と判断しましたので、「私は共
的衝突を考慮すると、1949年には政治教育が相当に強
産党員ではないから知らない。」と答えました。「いや
化され強調されることは必要であるばかりでなく緊要
お前が共産党員だということはちゃんと調べがついて
の課題となっている。<中略>理想的な環境の下では、
いる。」「そんなことはない。本当に共産党員であるな
そのような計画は基本的に民主主義の素晴しさを示し
らそういわれても支障がないが、そうでないものをそ
付随的にのみ共産主義理論の虚偽と危険性を指摘する
うだと断定するのは不当である。」「よし、それならも
という建設的なものであるべきだろう。しかし[現在
う一度調べてやる。すぐわかることだ。」こうしてその
の危機的情勢の下では]・‥われわれの計画の重点は、
日は別れました。その次の時、彼はこういいました。「お
より有効に否定的側面・・・共産主義を国家主義的独裁主
前が共産党員でないことはわかった。しかしお前の考
義であるとして暴露することに置かれるべきだろう。
え方は左翼的である。」と。(29)
(25)
また、伊藤吉春と同時期に都教組執行委員を務めた片岡
並男も同様の回想をしている。
こうしてCIEは、1949年1月には“反共”を明確な政
策シンボルとして位置づけ、共産主義に対する積極的攻勢
に組織をあをヂて着手することになった。
彼は、自ら反共のチャンピオンを以って任じていた
が、教組幹部を呼びつけて反共的助言を与えたり、威
嚇したり、また、民主的教育研究団体に威力を示した
四 東京軍政部デュペルの反共攻勢と彼の解任
りした。ある日、彼はMPを帯同して突如、民科や民
教協の事務所を捜索し、役員名簿や会員名簿を持ち去っ
たが、まもなく、都教組の幹部をとおして、「民科や民
教協はアカの出先機関である。これらの会の会員となっ
GHQ、CIEの反共攻勢の積極化は、その「『ライン』
機能=『手足』としての機能を果たす存在」(26)である地方
軍政機構の政策と活動に反映され具体化された。1949年初
−68−
東京都における教員レッド・パージ前史
ている教員は、すべて共産党員および同調者とみなさ
されます。<中略>皆さんは子供のからだをわざわざ
れる。一週間の猶予を与える。この間に退会しない者
は首域首を覚悟しなければならない」と通達してきた。
ここで、わたしは、これらの研究団体に属する教員の
会員にはいちおう退会を勧めなければならなかったが、
毒蛇にかませるでしょうか、そんなことは考えられま
せん。しからば、なぜ毒悪な熱狂者が皆さんの子供の
精神を毒するのをそのまゝ許しておくのですか。この
質問に対して満足な解答を見出すならば皆さんは民主
しかし、自分自身はあくまでも役員としてふみとどまっ
的教育の意義を理解する鍵を発見したことになります。
た。(30)
(32)
デュペルの反共攻勢は、1949年初頭から本格的に展開さ
れ、学生ストライキの禁止・ストライキ参加学生の退学処
このように教員レッド・パージを使峡したのは、占領軍
関係者のなかではデュペルが初めてであった。この段階で
は、GSはレッド・パージ政策に消極的であり、(33)cIE
分勧告から始まり、学校における共産党細胞の禁止、教員
レッド・パージの実施にまで及ぶことになる。たとえば、
2月3日、日大工学部における「大学の教師と学生の政治
的活動」と題する講演においてデュペルは、共産主義を非
た。CIE内で反共主義者と目されているイールズは、憲
難し教育界における共産主義者の危険性と排除の必要性に
法で言論の自由が保障されかつ共産党は合法政党であるの
も反共教育政策の強化には乗り出していたがレッド・パー
ジ政策はまだそのメニューのなかには書き込まれていなかっ
ついて次のように述べている。
で、「信条の自由や表現の自由、大学レベルにおける学生や
教授の思想の自由を否定する」レッド・パージはこれと「全
共産主義は、大きな槌で打ち込む鋼鉄のくさびに誓
えられています。その目的は、すべての国民の国力と
統一を分割し、征服し、破壊し、かつ切断することで
あります。<中略>それは汚物の中に膿んで行く病の
ように失意、憎悪及び混乱の中に蔓延するものであり
ます。教師は共産主義者にとって、特に望ましい言は
ば戦利品であります。一度に二三人の教師が共産主義
者となって結束するならば、一学校に徹底的な動乱を
引き起こすに足る紛争をかもすことができます。<中
略>合衆国における共産主義者は、合衆国以外の外国
く矛盾」するとしてこれに反対していた。(34)この時点でC
IE内において最も反共教育政策の推進を主張していたの
は、局長のニュージュントにならび政治教育を担当してい
たベルであるが、彼とても教科書『民主主義』の活用を中
心とする政治教育強化がその中心でありレッド・パージに
ついては全く言及していない。その意味でデュペルは、本
国におけるワシントン大学の共産主義教授追放などのプレ・
マッカーシズム現象の動向に突き動かされつつ、CIEの
政策を先取りする形でレッド・パージや学校における共産
党細胞禁止などのアドバルーンをあげたといえよう。
しかし、このようなデュペルの反共ドライブは、日本側
関係者の反発を招いただけでなく、GHQ内でも問題視さ
れることになった。実は、デュペルは3月に東京軍政部内
の権力に忠誠を誓っているから、我々の学校では共産
主義者の教師を、情を知りながら、採用することはあ
りません。卑しくも、共産主義の宣伝をしていること
が発見されゝば、その教師は即座に免職されます。<
中略>学校に於て共産主義的教育を許すことは、誓え
で詰責に付されその活動を制限されるという処分をうけて
いた。3月14日、第8軍の代表シェフアード准将(Bring.
Gen.Shepherd)ら3名と東京軍政部長のホリングスヘッ
て言えば諸君に毒を盛ることを公言する料理人を雇い
入れると、理論上同じであります。(31)
ド(Col.Hollingshead)の会談において、デュペルの行動
が取り上げられた。ここでは、シェフアードが、「デュペル
さらに、3月22日、東京女子経済専門学校の卒業式にお
いてデュペルは、アメリカの事例を紹介しつつ、教員レッ
の一般的態度、あらゆるレベルにおける彼の日本の教育当
局に対する働きかけ方や折衝の仕方を大きく改めさせるこ
とを請け合う」ことを誓い、(35)デュペルの詰責が日本側に
ド・パージを使嚇するに至る。
は知られていないだろうから彼を解任することは避けるこ
とを確認した。さらにシェフアードは、「MG担当官と日本
一人の人が同時によい共産主義者であると共によい
民主的教師であることは不可能であります。<中略>
私は三年間東京都軍政部民間教育将校であったから、
の学校当局間に良好な関係を保つことが緊要の課題である
東京の学校ストライキ又は学校騒動はどの一ツでも皆
ことを力説し、そのような関係が保たれるよう彼自身が努
力すること」を請合った。(35)他方、詰責中にもかかわらず
共産主義者の起こしたものであることを断言すること
デュペルは精力的に活動を続け、1949年3月に、東京地域
ができます。こゝにわたしは米国に於て正当と考えら
で毎回1500人∼1600人を集めた35回連続の民主主義にかん
れていることをみなさんにお話しいたしましょう。<
する講演会を計画し、これについての意見をCIE教育課
中略>・・・皆さん自身米国では情を知りながら共産党の
のベルに求めた。これに対してベルは、「承認、不承認は、
教師を採用しないことを承知されているでしょう。共
その集会で何が話されるか、そして同様に重要なことは、
産主義者であるとわかった教師はすぐに教職から追放
どのように話されるかにすべてかかっている。」と答え、「デュ
−69−
明神
ペルの公の場でのこれまでの話し振りや内容から判断する
ることはできない。学生の思想問題もこれからは教育委員
と、民主主義のスポークスマンとして彼の資格は疑わしい
ように思える。」と報告している。(36)ベルが指摘しているよ
会が行うことになろう」(40)と消極的な姿勢を示している。
また、1949年2月の文部省「月例報告」のなかでは、1
うにデュペルの行動は「民主主義のスポークスマンとして
月総選挙をへて教師と学生の左翼化の傾向が顕著に見られ
彼の資格は疑わしい」という評価は、GHQ内では周知の
事実となっていた。イールズは共産主義的影響との対抗策
を論じたレポートで、「共産主義に代わるものとして民主主
ることから教師の政治的活動をめぐってさまざまな問題が
今後生起すると予想される、としたうえで「われわれは学
校と教師の中立性を維持するために最大限の努力をするの
義を宣伝するための最も効果的な方法は、それを教えたり
説いたりするだけでなく、実際に生かし実践することであ
と同じように思想の自由を保障しなければならない」(41)と
極めて冷静な判断を示していた。
る。<中略>未熟な軍政部教育担当官が、大学の学長や他
命令をしているのを聞くと、恥ずかしさや失望で身をすく
めてきた。」(37)と指摘している。この指摘は、明らかにデュ
ペルを念頭においたものであった。また、CIE局長ニュー
ジェントは、新制大学の開学式の機会を利用し学問の自由
このような姿勢をもとに、多田小学校事件にかかわる政
治教育・政治活動の問題について文部省は、教育基本法第
8条の解釈については基本的に法務府に委ね、具体的対処
については教育委員会に委ねるという形で、自ら積極的に
方針を提起するということはしなかった。
他方、CIEもこの間題に重大な関心を抱いていたが、
にかんする反共メッセージをSCAPの誰かが演説するこ
文部省に対しては情報を求める程度で介入や協議を行った
とを提案した文書のなかで「そのようなメッセージは“デュ
ペル風”ではなく学問的で分別あるものでなければならな
形跡は見られず、静観していた。
教育課の連絡・調査係が、G−2から提供された東京の
い」(38)と注意をうながしていた。
共産党教員グループの活動に関する報告書の分析を行った
の教育指導者に面子を台無しにするような言葉で独裁的な
東京軍政部は、4月19日、デュペルの更迭を発表し、後
り、(42)政治教育のプログラムの1項目に「教室内外におけ
任にはアメリカンスクール校長ミラン・ステイグが任命さ
る教師の党活動規制に関する法の施行」を入れるなどの提
れ7月1日から就任することになった。これ以降、デュペ
案はなされたが、(43)具体的な対応策は何も立てられなかっ
ルは表舞台に出ることはなかったが、軍政部によるこのよ
うに早い時期の更迭発表は異常であり、それは事実上の解
任を意味した。デュペルは3年間の勤務を終え、7月7日、
た。
CIE局長ニュージェントは、1949年3月14日の高瀬文
部大臣との定例会談において多田小学校問題をとりあげ、
その重要性は指摘しているが、対応策については文部省に
重ねている。
飛行機でカリフォルニアにむけ飛び立った。彼が情熱を傾
けた教員組合と共産主義者に対する攻勢のバトンは既に関
東民事部教育官フォックスに渡されており、彼が公言した
教員レッド・パージは、10数日後に新潟大学においてイー
ニューゼント 本日の新聞によれば文部省は東京都の
ルズが占領軍の公認の見解として披漉することになる。
共産系教員に関する方針を決定したと報ぜられてい
る。
大臣 その記事は誤りである。文部省では目下研究中
五 文部省の教育基本第8条解釈の内容と特徴
で近く決定に達する。
(−)文部省、CIEの方針
ニューゼント 法律の解釈に関する問題であるとすれ
ば法務総裁に相談すべきものと思う。
文部省は、学生達動対策には積極的であったが、教員の
政治活動や共産主義対策についてはこの段階では必ずしも
大臣 法務総裁のみならず関係閣僚にも相談中である。
積極的でなくむしろ慎重な姿勢を堅持していた。たとえば、
ニューゼント 本件は先例となり日本各地で之に従う
下条文相(1948・10・19∼1949・2・16)は、1949年1月
であろうから重大な決定である。
大臣 その意味でも慎重に研究している。(44)
28日、総選挙における共産党の飛躍的進出が教育界におけ
る左傾化を促し学校における教育の中立性を危うくする虞
このようななかで、教育基本法第8条解釈は、法務府、
GS、そして文部省の間で進められることになった。
があるのではないか、という記者の質問に「そのような事
情になることは一応考えられるが、具体的な事実が出てき
てから適切な措置を講じたい」(39)と答えている。また、法
(二)文部省の教育基本法第8条解釈の内容と特徴
隆寺焼失の責任をとり辞任した下条文相の後任の高瀬文相
部数重からの照会を受けて以降、文部省は法務府などと
の検討を重ねていたが、約4ケ月後の6月20日付で都教委
(1949・2・16∼1950・5・6)も、「現在の文部省のやり
方で、政治教育の問題に結論をつけないでいるのはまずい
と思う。結論をつけないことが結論ということになるのか」
に回答(文部省大臣官房総務課長「教育基本法第8条の解
という記者の質問に、「だが今これを国家的に統一すること
釈について」)するとともに、全国の都道府県知事、各教育
委員会教育長、国公私立高専学長にも参考として通知した。
はできない。制度としては個人の思想が入りこむのを認め
−70−
東京都における教員レッド㌧パージ前史
あるもの評価できる。そして限定的解釈の背景にあったの
は、当時の文部省が持していた憲法が保障している「思想
(文末の【資料紹介 その2】参照)
文部省回答のポイントは、教育基本法第8条第2項の趣
旨を「学校の政治的中立性を確保するところにあります」
の自由」の規定にたいする一定の配慮であり、これとの関
としたうえで、「もとよりここに規定されているのは教育活
動の主体としての学校の活動についてでありまして、学校
連で教育基本法第8条第2項を解釈しようとするバランス
のある姿勢であったと考えられる。
をはなれた一公民としての教員の行為についてではありま
せん。教員が学校教育活動として、または学校を代表して
なす等の行為は、学校の活動と考えられるのであります」
という指摘に示されている。すなわち、第2項で禁じられ
六 多田小学校事件の終結
都教委は、文部省回答をうけて棚上げ状態にしていた多
田小学校事件にかかわる処分の検討を開始した模様である。
ている「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための
政治教育その他政治的活動」とは、学校の教育活動として
なされた教員の活動でかつそれが「特定の政党を支持し、
都教育庁川島次長は「文部省の回答があってから23日の定
例委員会で問題の教員に対する態度をきめることになろう」
(4即と語っていた。しかし、最終的に何らの処分もなされる
ことなく事件は終結した。
その理由の一つは、文部省回答が基本的考え方を示すに
とどまり、「教員の個々の行為が法第八条第二項に抵触する
か否かは、上記の立法趣旨にのっとり、具体的実情を精査
又はこれに反対するための」内容を含んでいる場合に限定
されるもので、一公民としての教員の政治活動等はこれを
容認するという点に特徴があった。
第二に、このような基本的見解を示したうえで、教員の
個々の行為が第8条第2項に抵触するか否かは、具体的実
情を精査して、当該教育委員会等が判断すべきであるとし、
都教委から照会のあった10の事例について回答している。
文部省回答について、日教組は、教育基本法第8条の趣
して、…教育委員会において適切な判断がなされるべきで
あります」として多田小学校の事例が法に抵触するかどう
かについては直接答えず、ボールを都教委に投げ返したこ
るに文部省は同法第8条第2項の極めて特殊的な場合のみ
とである。もし文部省回答が、多田小学校の事例が法に抵
触するとする内容を含んでいたなら、都教委による処分は
を一方的に歪曲強調し、政治的教養の向上どころか、逆に
不可避であったろう。
政治的教養の低下に敢えて努力せんとする暴挙」と厳しく
第二に、ボールを投げ返された東京都教育委員会内にお
いて、処分に強く反対する委員が存在したことである。共
旨が公民としての政治的教養の向上に置かれているのに「然
批判する見解を発表した。鈴木英一も、文部省回答の問題
点について、第8条の趣旨が第1項の政治的教養を高める
教育の尊重にあり、第2項はこの政治教育を進めるにあたっ
ての注意を促した補助規定であるのに、回答は「第2項の
産党公認で東京都の教育委員に当選した堀江邑一委員は、
先に紹介したように事件の発生時から処分に反対する行動
を積極的に展開し、教育委員会においても同じ態度を明確
にしていた。
そして最後に、これが最も大きな理由であったが、常に
注意事項のみをとりだし…第8条全体を通した『政治教育』
の根本を正しく説明するという態度をとっていない。この
ような態度は、第1項と第2項を切断し、世人の注意を第
2項の方へ、そしてそれのみに向けさせることになる。こ
うして、第2項の政治教育にあたっての注意事項は、さな
攻撃の先頭に立ち都教委に追放を強要していた当のデュペ
ルが讃責・解任処分に付され、この間題に介入することが
できなくなったことである。
以上のような理由から、多田小学校教員の件が教育基本
がら、単独の禁止規定として取り扱われるようになる。」と
指摘している。(45)鈴木の指摘は、その後の経過をみても正
法に抵触するか否かがあいまいなまま事件は尻切れトンボ
鵠を得たものであるが、文部省1司答が第2項に限定された
の形で終結することになった。
のは都教委の照会が第2項の解釈を求めるものであったと
しかし、東京都における教員追放がこれによって終わっ
いう事情も考慮されるべきと思われる。また鈴木は、「第2
項の『法律に定める学校』について、『教育活動の主体とし
ての学校』というように、限定的に解釈し、学校の活動と
認められない教員の活動は、教育基本法第8条第2項に抵
協議会(5月9日∼11日、日光)を皮切りとするフォック
ス旋風が関東地域を席巻していた。それは、教員組合から
共産党・左派の勢力と影響力を一掃し、反共化、職能団体
触しないとした」点を積極面として評価し、同時期にださ
化へと誘導する教員組合の「再教育と再組織」(フォックス)
れた関東民事部の見解「教育計画における政治活動」に比
の大規模な攻勢であった。(49)この攻勢により関東を中心と
べると「相対的には教育基本法にそったものといえよう」
する各地の教員組合内に、
反共的雰囲気の増大、左右両派
の対立激化と左派勢力の後退、闘争力の弱体化という現象
が共通して見られるようになった。そしてそのような中で、
た訳ではなかった。関東軍政部主催の第5回関東地区教育
としている。(46)
文部省の教育基本法第8条第2項解釈の基本的性格は、「(教
育基本法制定の)立法者意思や当初の文部大臣の見解を理
7月19日、新潟大学においてイールズはレッド・パージを
解するために最も貴重な文献」(47)とされる文部省法令研究
公言していた。本格的なレッド・パージの舞台づくりが進
会『教育基本法の解説』(1947年)の解釈とほぼ同一線上に
行していた。
−71−
誓っている。日本の共産党だと感違いしている。
共産主義が民主々義と思っているのは馬鹿げている。ロ
ま と め
シヤの教師が飛び下りた(ソ連に帰るのがいやだから)六
本稿では、以下の諸点を明らかにした。
(1)多田小学校事件の経緯と背景を分析し、この事件が共
十万の日本人がソ連に居る。日本人が返してほしいと言つ
てアメリカが舟を向けても其捕虜を帰さない。その実情を
知らないからだ。チエツコのニチリンの町では自由主義者
産党の公然化運動と反共のチャンピオン・デュペルの反
(共産党)が町を全部焼き沸い住民を殺りくをした。警察
を乗り取った。真の自由はない。そういうのが共産党であ
る。なんでも命令一つで動いている。共産主義は民主々義
ではありえない。然し日本の憲法では思想の自由を認めて
いるので教師が共産党に入ることを止めることは出来ない。
自分はやがて日本の法律を大きく変へ様と思っている。生
徒に共産主義を教へたり、教育に織り込んだら厳重に虞罰
する。共産党は学校に硝子を入れると言っているが、アメ
共ドライブとの交点で生じたものであることを明らかに
した。
(2)文部省が示した教育基本法第8条解釈は、比較的良識
的なものであった。その理由は、この間題に関してはC
IEからの入力が殆どなく、法務府と文部省のイニシア
ティブでなされたこと、さらにこの時点において文部省
が憲法に規定された「思想の自由」に一定の配慮をはら
い、反共政策の推進に積極的でなかったことにあったこ
とを明らかにした。
リカが硝子の原料を運んでいるのに共産党は三菱化成株式
(3)1949年1月∼6月の共産主義対策の特徴は、反共教育
会社を乗り取って生産を塞いだ。硝子を入れることに協力
した人は一人も屏ない。共産党はウソ付である。軍国主義
政策の強化からレッド・パージ政策採用の過渡期にあっ
たことを明らかにした。デュペルの解任は、それを象徴
的に示すものであった。デュペルの解任は、主には彼の
者と兵隊とは大変違う。立派な兵隊は尊敬する。良いアメ
リカ人と日本人は似ている。皆さんはアメリカのドレイは
望まないだらう。アメリカもドレイ化しやうと思っていな
い。アメリカは日本が第二のチエツコになることをきらう。
振舞い方が反共政策の効果的推進を阻害するという点に
あったが、同時に彼がCIEもGHQのどの機関も公認
していないレッド・パージ政策をこの段階で声高に叫び
世界中で共産国で民主国と言へるものは一つもない(例)
振りかざしたことにもその理由があったと思われる。そ
二世の一人がアメリカにわたってアメリカの待遇を受けた。
アメリカで腐廃(ママー引用者)して悪いものはない。本
や言論の自由がある。共産党が将来敗けることは事実だ。
此の学校の三人の先生の事実を見ればわかる。三人のビラ
を撒いた先生は正しい教育の為だと言っている。極東委員
会の原則でやっているといふがはずれている。民族の独立
を共産党が言うが共産党のやり方は反対である。堀江の書
記の稲垣は教組に入り込んで種々やった。いやらしい奴だ。
民教協は共産党の宣停戦をやる。
第一の目的は教組の中に共産党を植付けるもの。次に学
の意味で、デュペルは、“早く来すぎたイールズ”であっ
たとも言えよう。
【資料紹介 その1】
㊨ 中野区多田小学校調査報告(2月17日)
デッペル大尉の話(50)
見童の座席表がない。能力別にしてない。古い式の教育
をやっている者がいる。P・T・Aの細則を再編成する必要
がある。教師は実際に活躍すべきである。学生が掃除をす
るのは好まない(小便四人いる)給食は父兄に手伝はせる。
教育予算の少ないことは知っている。
此の学校は大異動しなければ駄目だ。自分は都で四百校
見たが、此の学校は一番悪い。学校全体の出席簿がない。
学校全体として時間割がない。教師は半分で間に合う。教
室を十分利用していない。職員室、音楽室を普通教室にす
校にトラブルを起こさせる。D.のマークは共産党のマーク
だ。教師に政治思想を教へる権利はない。パンフレットの
中に種々のことが書いてある。東京の教育を知っていれば
馬鹿げているということがわかる。四谷第六新制高校では
一人の教員が生徒にストライキを指導している。他の先生
は反対している。だから起こらない。其の教師は軍政部が
知っていることを知らない。三人に対して手袋を抜いで警
 ̄こ■■こ■ ればよい。学籍簿は備へてあるが記入していない。配給帳
告を与へる。先生は公務員である。先生は平日家庭訪問を
した。外の政治宣樽をした時免職に曾う。教育法にこの学
校は行き過ぎている。教育当局に厳重に注意している。
簿は事務室に置くべきだ。此の学校には良い授業をしてい
るのが一人あった。悪い教師が一人あった。先生全体とし
て程度が落ちている。三人の先生は懲役に行くかも知れぬ。
今迄自分は五十人を懲役にした。一月二十一日家庭訪問を
共産党を恐れることはない。毒蛇を扱うように扱へばよ
い。日本の反逆者として扱へばよい。日本でもよい学校は
ある。月島第二、第三師範附属小学校である。自分の教育
に対する意見は教育事報にのせてある。アメリカンスクー
ルの校長として形式、様式を入れている。
興味ある者、教育当局の出している雑誌では新教育研究
会 参考になるようにしたい。この学校もそれをとればよ
した。選挙違反として懲役にやる。私がどうして調べたか
は其の方法があった。教育法にも違反している。此の学校
には三名の共産党員の外に新派(ママー引用者)がたくさ
んいる。アメリカでは共産党員とわかれば首になる。アメ
リカの共産党と日本の共産党は変りはない。ソ連に忠誠を
−72−
東京都における教員レッド・パージ前史
い。野口という人に連絡すればよい。この学校もそれによっ
ある或る父兄に対しては意見を求めた点について尚懇
て議論をすればよい。学校争議として四谷第六高校で生徒
談のため来校も促した右の事実の如く特定の政党の政
にストライキをやれと言っている。この先生は首になるか
治活動の鳥教員が家庭訪問を行い学校教育活動の内容
もしれない。立教大学で平野というのがストライキをセン
が含まれている場合第8備に抵触するものと思うが如
動する講義をした。それは解職になる。大学教師の資格は
ない。労働基準法十一備によって提訴できるが解職の理由
何ですか。
答 教員が家庭訪問を行い、特定の政党を支持し、ま
たはこれに反対するための政治活動を行った場合に、
が別であるから無駄である。
自分は良い先生の味方である。アメリカの先生が日本の
先生とディスカッションを希望している。アメリカの良い
方法もそのまままねてはいけない。自分は軍服を着ている
その家庭訪問に学校教育活動の内容が含まれていると
きは、法第8候2項に抵触するものと解する。
二、間 教員が学校外において自校の生徒あるいは他校の
生徒に対し研究会等の形式で特定の政党のイデオロギー
ので個人の意見は全然はさんでいない。
に基づく政治教育を行うことが第8備に抵触するか疑
義があるので承りたい。
【資料紹介 その2】
教育基本法第8候の解釈について
答 教員が自校の生徒に対して校外で特定の政党のイ
デオロギーに基づく政治教育を行う場合は、生徒の年
(昭和24年6月1日委総第一号
令にもよるが、通常は該当学校の教育活動と認められ
文部省官房総務課長から東京都教育庁へ)
る。従って自校の生徒を対象とする場合は、通常法第
8候2項に抵触するものと解する。これに反して、他
このことについて昭和24年2月12日教職発第4号を持って
照会がありましたが、教育基本法(以下法という。)第8候
第1項は、良識ある公民たるに必要な政治的教養は教育上尊
重しなければならないと規定し、同僚第2項において法律
に定める学校すなわち学校教育法第1備に定める学校は、
特定の政党を支持し、またはこれに反対するための政治教
育その他政治的活動をしてはならないと規定しています。
第2項の趣旨は、学校の政治的中立性を確保するところに
あります。もとよりここに規定されているのは教育活動の
主体としての学校の活動についてでありまして、学校を離
校の生徒を対象とする場合は当該他校の教員と連絡を
執り相互に意志を通じていわゆる交換校外教育を行う
場合等を除き通常は法第8候2項に抵触しない。
三、間 前項同様の方法によって自校生徒の父兄に行う場
合も疑義があるから承りたい。
答 生徒の学校教育に影響を及ぼすような場合及び学
校の活動と認められる場合を除き法第8傾2項に抵触
しないものと解する。
四、間 前2項同様の方法によって一般社会人に対して行
れた一公民としての教員の行為についてではありません。
うことは第8候とは関係ないと思うが如何ですか?
教員が学校教育活動として、または学校を代表してなす等
の行馬は、学校の活動と考えられるものであります。教員
の個々の行馬が法第8候2項に抵触するか否かは、上記の
立法趣旨にのつとり、具体的実情を精査して、大学以上の
公立校にあっては、所轄庁たる教育委員会において適切な
判断がなされるべきであります。
答 学校の活動と認められない限り法第8傭2項に抵
触しないものと解する。
五、間 数員が授業時間外に校外において某政党党員が党
宣樽のために紙芝居を行っているところへ自校の見童
を引き連れて見せることは法第8傭2項に抵触すると
思うが如何ですか。
なお、法第8候2項には直接抵触することはなくても、
答 鬼童を引き連れて見せること自体が、特定の政党
を支持し、またはこれに対するための意図をもってな
上記の立法精神からして学校教育上避けなければならない
ものもありますが、これらについても適当な留意が排われ
されたと認められるときは、法第8候2項に抵触する
ものと解する。
六、間 教員が校内職員会議において特定の政党に入党を
るべきでありましよう。
照会の事例についても、具体的事情の精査の上適当な判
断が下されるべきであります。照会の文面だけでは正確な
判断はできませんが、おおよそ左記のとおりと考えられま
すので、参考のため回答します。
勧誘すること又は校内に於いて多数生徒の居合はす所
で他の教員を勧誘することが第8候2項に抵触すると
思うが如何ですか。
答 前段の場合、当該行馬が校内職員会議で学校教育
に影響を輿える目的をもって会議の議題に供して行わ
記
れるとき以外は、法第8傭2項に抵触しないものと解
する。後段の場合はその行馬によって生徒に教育的影
響を及ぼすものと認められるときは、法第8候2項に
教育基本法第8候の解釈について
一、間 数員が某政党に入党したことを受特鬼童の父兄に
話し、且入党したことに対し意見を求めるため勤務時
間外に家庭訪問を行った。訪問中に於いては某政党の
抵触するものと解する。
七、間 教員が学校を会場にして自己の加入政党員を講師
宣俸をなし且鬼童の教育問題にも言及されていた節が
−73−
明神
として招き懇談会等を開き自ら司会の挨拶等を行うこ
委員会『日本共産党の六十年』日本共産党中央委員会
とは第8備に抵触するか疑義があるので承りたい。
出版局、1982年、125頁)。
(10)アカハタ」1949年1月9日。
(11)「日本教育新聞」1949年2月15日。
(12)このような共産党員の教員の公然たる運動は、地方
軍政部、教育委員会による「赤い教員追放」事件とし
て問題にされたり、特に保守的な農村部においては地
答 生徒を対象としない通常の懇談会の場合には法第
8候2項に抵触しないものと解する。
八、間 数員が校地外にある教員住宅(校宅)を特定政党
支部の事務所となし或は選挙の際選挙事務所となす場
合は第8備に抵触するか疑義があるので承りたい。
答 法第8候2項に抵触しないものと解するが教員住
疑義があるので承りたい。
域住民の不安と反発を強め、教員排撃運動に発展した
事例も少なからずみられた。それらの事例として、沼
田中学校事件(群馬)、「北の父」事件(埼玉)、宗岡村
中学校事件(埼玉)、糸魚川高校事件(新潟)、大綱木
中学校事件(福島)、前進座事件(宮城)、鎌倉高校事
件(神奈川)などを挙げることができる。
(13)「アカハタ」1949年1月21日。
答 当該運動が特定の政党を支持し、又はこれに反対
(14)日本共産党中央委員会、前掲書、125頁。
するために鬼童を指導して行われたものと認められる
(15)共産党は1948年より公開細胞会議の開催と細胞公然
宅(校宅)が公的性質を持つのであることにかんがみ、
かかる行篤は避けるべきである。
九、間 教員が受持鬼童を使そうして自治会の運動として
ポールをよこせ運動、ノートをよこせ運動等をなすこ
とは政治活動の如く見られるので第8備に抵触するか
場合には、法第8傭第2項に抵触するものと解する。
化を方針としていた(たとえば、徳田球一「党活動に
ついて」『前衛』第27号、1948年5月)。
十、間 教員が校内において特定の政党に関係ある歌を生
徒に歌はしむることは第8備に抵触するものと思うが
(16)日本共産党中央委員会、前掲書、128頁。
如何ですか。
(17)竹前栄治『アメリカ対日労働政策の研究』日本評論
答 関係の程度によると思われるが、通常は第8候第
社、1970年、243頁。
(18)竹前栄治、前掲書、244頁。
(19)竹前栄治、前掲書、210頁。
(20)マーク.T.オア/土持ゲーリー法一訳『占領下日本
2項に抵触するものと解する。
[注]
の教育改革政策』玉川大学出版部、1993年、32頁。
(21)“CIE Program for Calender Year1949”,3
January194玖GHQ/SCAP Records,CIE(B)−
(1)多田小学校事件の経緯については、鈴木英一『戦後
日本の教育改革3 教育行政』(東京大学出版会、1970
年)に拠っている。
06701。
(2)「アカハタ」1949年2月19日。
(3)「朝日新聞」1949年2月15日。
(22)“Education Division Plan for1949”,GHQ/S
(4)「⑳中野区多田小学校調査報告(二月十七日) デッ
(23)この委員会の論議について、マーク.T.オアは「教
CAP Records,CIE(B)−0113。
育課には戦略委員会が設置され、時に応じて会合をもっ
ペル大尉の話」(日教組所蔵資料「日教組運動資料」所
収)。
(5)「東京新聞」1949年2月27日。
たが、確固とした活動方針で一致するには至らなかっ
た。」としている(マーク.T.オア、前掲書、32頁)。
(24)GHQ/SCAP Records,CIE(C)−005
(6)1949年2月23日付日本共産党東京都委員会委員長白
11,CIE(B)−00395.なお、この会議に
川暗一の「抗議書」(日教組所蔵資料「日教組運動資料」
所収)。
(7)「アカハタ」1949年2月26日。
(8)「アカハタ」1949年1月1日。
おいてG−Ⅱは「(共産主義者の)学生全体への影響は
小さく、高等教育機関における共産主義的影響力は減
退しつつある」と報告していた(GHQ/SCAP R
ecords,CIE(B)qO O387)。
(25)GHQ/SCAP Records,CIE(C)−0428
(9)当時「百萬の党の建設」がスローガンとされていた
(たとえば、「アカハタ」1948年12月26日付には「働く
8。
人民の『百菌の党』をめざす共社合同運動」のタイト
ル記事があり、1月4日付「主張」のタイトルは『百
た「社共合同」戦術について共産党は、「入党条件を厳
(26)竹前栄治、前掲書、67頁。
(27)白井春男「教師とは、このように毅然とした存在に
なれるのだ」『ひと』第64号、1978年4月、80頁。
格に守らず不純分子の党への流入をゆるす党建設上の
(28)伊藤吉春「占領軍の前で居眠り」東京都教職員組合
無原則的な方針であると同時に、統一戦線政策の上で
も、共、社両党間の関係の原則的な基礎を破壊する二
重の誤りであった。」と総括している(日本共産党中央
『ふだん着のままの証言』労働旬報社、1963年、56頁。
(29)伊藤吉春、前掲論文、58−59頁。
萬の党をきずけ』であった)。なお、この選挙で採用し
(30)片岡並男「レッド・パージーある中立主義者のたどっ
−74−
東京都における教員レッド・パージ前史
た道−」勝田守一他編『戦後教員物語(1)』三一書房、
1960年、167−168頁。
[補注1] 引用した資料の旧字体の一部を改めている。
[補注2] 本稿は、平成16年度文部科学省科学研究費補
(31)ポール・テイ・デュペル「大学の教師と学生の政治
運動」『教育時報』1949年3月号、26−28頁。
助金交付による研究(課題番号:14510
256 研究課題名:占領下における教職追
(32)デュペル大尉「民主的教育の意義」『教育時報』1949
年4月号、5頁。
(33)例えば、GHQ民間通信局(CCS)次長W.L.Wardell
の1948年11月30日付民間通信局長宛メモ.GHQ/S
放政策の変化と教育における「逆コース論」
の検証)の一部をなすものである。
CAP Records,GS(B)−01522。
(34)“PLANFOR HIGHEREDUCATIONIN1949”,
Eells Papers,E−11。
(35)GHQ/SCAP Records,CIE(C)−005
06,..
(37)GHQ/SCAP Records,CIE(A)−029
39,..
(38)GHQ/SCAP Records,CIE(C)−042
88,..
(39)「日本教育新聞」1949年2月3日。
(40)「日本教育新聞」1949年3月8日。
(41)Monthly Report February1949Ministry of
Education,GHQ/SCAP Records,CIE(A)−
03124。
(42)WeeklyReport ofEducation Division forWeek
Ending 10 March 1949,
(43)ルーミス教育課次長からオア教育課課長宛1949年2
月24日付メモ。GHQ/SCAP Records,CIE(B)−
01618。
(44)「ニューゼント氏との会談要旨」国立教育政策研究所
所蔵「戦後教育資料 1−39」。
(45)鈴木英一、前掲書、375頁。なお、多田小学校事件と
教育基本法第8条解釈については、永田照夫『教育基
本法第8条(政治教育)小史』(西村信天堂、1985年)
及び安達健二『教員の政治活動』(文教情報社、1950年)
も参照した。
(46)鈴木英一、前掲書、376頁。
(47)永田照夫、前掲書、10頁。
(48)「朝日新聞」1949年6月21日。
(49)1948年11月のG−Ⅱ報告によると、日教組は共産党
の影響力が最も少ない「E」ランク(「共産党の影響力
が僅か」)と評価されていた(G−ⅡからCIE宛1948年
11月15目付メモ、GHQ/SCAP Records,CIE
(B)一00402)。しかし、GHQは,多田小学校
事件を契機に教職員組合に対する共産党の影響力を警
戒し、これに対する積極的な対抗策を講じるようになっ
た。フォックスの攻勢はその現われであった。
(50)日教組所蔵資料「日教組運動資料」所収。この資料
の作成者は不明であるが、「ママ」という書き込みがあ
ることから、デュペルの話を記録した別の文書をその
まま原稿用紙に写したものと推察される。
−75−
[本学教授・釧路校]
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