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レポート3「木津呂~嶋津~湯ノ口」

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レポート3「木津呂~嶋津~湯ノ口」
レポート3「木津呂~嶋津~湯ノ口」
北山川・熊野川沿いには、良い所が沢山ある。今回訪問したのは、私のホー
ムグラウンドと言っても過言ではない場所、木津呂、嶋津、湯ノ口である。私
は新宮市熊野川町嶋津で生まれ育ち、今現在も住んでいる。
初めに木津呂から紹介する事にしよう。
■紀和町木津呂(きづろ)
木津呂に行かれた事はあるだろうか?
この木津呂は三重県熊野市紀和町、最近雑誌や TV で丸い集落として紹介され、
少し知名度が上がってきた。風水でいう龍穴(りゅうけつ)というパワースポ
ットでもある。
対岸から臨む木津呂
私は小学 4 年生まで、この集落にあった小学校へ、山を越え、渡し舟に乗り、
通っていた。
≪紀和町立入鹿小学校木津呂分校≫
私が入学した時の生徒数は私を含め全学年で 8 名、分校なので校歌はなく、
本校である入鹿小学校の校歌を唄っていた。だが、全然知らない景色がつづら
れている校歌を、大声で唄っている事が「何か違う気がする」と子供ながらに
感じていた。
入学した年に一度だけ運動会がおこなわれた事がある。「8 名で運動会は寂し
いな」と思われる方もいるだろうが、当時は木津呂で運動会をおこなうとなれ
ば、近くの玉置口や本校から生徒達が川を渡り山を越え、駆け付けるのである。
名づけるならば出張運動会だ。しかし小さなグラウンド、100m 走など出来る
はずもなく、適当にコースを作り競争するのである。小さなグラウンドに沢山
の子供達、それを応援する大人達。石垣の上を陣取っている親、親戚、畑を陣
取って応援している近所のおばちゃん。【子供は地域の宝、みんなで育てよう、
地域みんなで盛りあがろう】
これが当たり前の時代、とても賑やかな運動会
だったのは確かだ。
しかし川が増水して渡し船が出せなくなると、晴れていようがイベントは全
て中止。数日間は学校に行けないのだ。台風シーズンは学校にいても「今から、
すぐに帰りなさい」とよく言われた。川が増水してしまったら帰れなくなるか
らだ。子供だから「これで 3~4 日は休みかなぁ~、川で魚釣りでもするか~」
と落ち着いてはいたが、周りの大人は、増える川の水を見ながら、片付や持舟
の移動など大変だったと思う。楽しい思い出でもあるが、もしかしたら大災害
になったと思うとゾッとする話だ。あの時間を利用し、もっと勉強しておくべ
きだったと反省している。
残念な事に、私が 5 年生になる前に、この学校は廃校になってしまった。
旧木津呂分校(現集会所)
渡し場があった場所
木津呂という所は、材木で栄えた地区でもある。多くの筏師が住み、また筏
の中継地点として宿もあった。当時は電話などあるはずもなく、筏を流して来
た筏師が、川から大声で「お~い、今日は泊まれるか~?」と叫び、宿から「泊
まれるよ~」と叫び返す・・・こんな光景が見られた所でもある。
宿の近くには店もあり、私が学校に通っていた頃はまだ営業していた。当時
としては洒落たお菓子、かっぱえびせんやポテトチップスが売られていたよう
な記憶がうっすら残っている。
話は代わるが、筏師は新宮から歩いて帰って来たという話は地元では有名で、
その道の事を『筏師の道』と呼んでいる。
『サンマ道』という別名があるのはご
存知だろうか?筏師が新宮でサンマを買い、塩をして持ち帰っている、という
のを知った魚売りが、新宮からサンマを売りに来たのが由来だとか・・・。
そういう話があるので、もう亡くなられた筏師の息子さんに「お父さんは新
宮まで筏を流したあと、サンマを買って来ましたか?」とたずねた事がある。
その息子さんは「いいや、牛肉買ってきた」と言っていた。意外とここら辺り
の人は良いモノを食べていたみたいである。そのことを当時の肉屋が知って売
りに来ていたら『牛肉道』になっていたかも知れない。
先程紹介した小学校は、現在集会所として使われている。グラウンドは舗装
してしまったが、滑り台や登り棒などがない分、広く感じる駐車場になってい
る。車など殆ど止まっていないので是非出掛けて行って、
「昔はにぎやかだった
んだろうなぁ~」と想像しながら、適当に自分の足で走り回ってもらえたら、
個人的に大変嬉しい。
他に見て頂きたいのは、今もキッチリと残る『筏師の宿』である。宿の前に
は昔ながらの道標も残っている。
宿の前に立つと、これから新宮まで筏を流そうとする筏師の姿、筏師の道を
玉置口や瀞峡に向かう人々の姿、当時の賑やかだった時代が蘇えってくるよう
だ。
元筏師の宿
道標
そして木津呂の元小学校から 300m 程進んだ所に、川原へ下りる道がある。
そこを下りて広~い川原を満喫して欲しい。たぶん誰もいない。目の前には北
山川が流れ、よく見るとゆる~く蛇行しているのが分かると思う。新宮から瀞
峡までで一番キツイと言われる大瀬(オオセ)と呼ばれる急流もあり、昔筏師
たちは、この蛇行した川を曲るために、一人は筏をあやつり、一人はロープを
持って川原を走ったのだという。威勢のいい筏師の声が響いていた場所だ。一
人になって当時を想像するには最高の場所である。今は、ウォータージェット
船のエンジン音が響いている。
まだまだお伝えしたい事は沢山あるが、下流に進もうと思う。
■嶋津(しまづ)
木津呂から川を下る事約3㎞、私の生まれ育った場所、新宮市熊野川町嶋津
である。
川を下れば3㎞だが、川を渡り山を越えれば約1㎞で嶋津の集落に到着する、
川が蛇行しているので歩く方がとても早いのだ。
嶋津の集落に来たかと思うと、また目の前には川がある。対岸は三重県熊野
市紀和町小川口、対岸に行こうと思うとまた渡し舟を使うのだ。
嶋津の川原と北山川
対岸から臨む嶋津
橋や道路がなかった頃は、嶋津に来る人、嶋津から出ていく人、嶋津を通り
過ぎるだけの人、沢山の人が利用していた。この渡し舟を生業とした人もいた
そうだ。
50年以上前になるが、私の母はこの渡し舟に乗って嶋津に嫁に来たのだと
いう。白無垢、角隠し姿で渡し舟に乗り、川原を歩き、筏師の道を歩き、多く
の人々に見守られながら家に着いたのだという。
子供達にとっての渡し場は、簡単には通過できない難所であった。まず木津
呂に行く場合、船頭さんは木津呂側の小さな小屋か、船頭さんの家で待機して
いる。船頭さんに渡る事を知らせる為、山の中腹(ちゅうふく)で木に吊るし
ている釣鐘を叩き、渡し船を呼ぶ。そして川原まで下りて行き、渡し舟に乗る
のだが・・・船頭さんが気付いてくれない事も多々あるのだ。その場合、また
山を登り鐘を叩く、これの繰り返しで気付いてくれるのを待つのである。山を
登ったり下りたりと、過酷な運動だ。
また小川口の場合、船頭さんは食料品や雑貨を売る店の店主だった。ここを
渡るのは少しハードルが高い。
・買い物客がいる時は、帰るまで待つ。
・嶋津に渡る人が数名集まるまで黙って待つ。
・どうしても早く渡りたい時は、そのお店で買い物をする。
どれだけの時間で渡れるのか、毎回ゲームの様だ。便利になりすぎた今では味
わう事のない、ゆったりとした時間がそこにはあった。
北山川沿いはどの集落にも筏師がいたという。嶋津もその中の1つで、人数
は定かではないが多くの筏師が住み、月夜には夜中2時から新宮河口へ筏を流
したのだという。私の父や祖父も筏師をしていた。
新宮河口まで筏を流した後、宿に泊まり飲んで騒いでお金を使い、次の日に
歩いて帰って来たのだろうと想像していたが、父に聞くと全く違っていた。
新宮河口へ筏を流す日は、弁当を3個持ち家を出る。夜が明ける頃、嶋津を
出発、筏の上で1個目のお弁当を食べる、これが昼飯だ。
続いて新宮の河口に到着、2個目のお弁当を食べる、これが夕飯だ。
そして、なんとすぐ帰路につくのである。家に到着するのは夜中であろう・・・
途中で3個目のお弁当を食べる、これが夜食になるのであろうか・・・。
そしてまた次の朝、筏師の道を北山村の大沼に向かって歩き、大沼から筏を
流す事もあったという。真面目で体力があった父だから出来たことなのだろう
か?
昔は嶋津にも沢山の人達が暮らし、筏師の道を生活の道として、商業の道と
して利用していた。父から聞いたのだが、今は大企業になったスーパー・オー
クワの創業者も、衣類を風呂敷に包み、この道を歩いて売りに来たという。ま
た、あの博物学者の南方熊楠も、この道を通って玉置神社に向かっているよう
だ。
今は住民も少なくなってしまい、限界集落と呼ばれるようになってしまった
が、この筏師の道は今も残っており、南紀熊野ジオパークのジオサイトの1つ
になっている。
ぜひ一度歩いて頂き、筏師、スーパーオークワの創業者、南方熊楠を感じて
欲しい。
またジオサイトには登録されていないが北山川の中州に森がある。森といっ
ても1周ぐるっと散歩して30分、あまり知られていないが新宮市の天然記念
物になっている。
私の一番好きな場所だ。嶋津に来たら、絶対ここを見逃してはいけない。
森の中で迷子になったとしても、すぐ川原に出る事ができ、巨木あり、筏師
の道あり、隠れた歴史あり(聞かないと分からないが・・・)の素晴らしい場
所である。たま~に鹿やイノシシ、イモリなど野生動物に出会えるし、まだあ
まり知られていない場所なのでコケがジュウタンのように広がって、まるで絵
本の世界。ぜひ一度、足を運んで頂きたい。
嶋津の森・筏師の道
嶋津の森・ムクノキの巨木
■紀和町湯ノ口(ゆのくち)
嶋津の下流に位置する湯ノ口は文字通り、昔は岩の間から湯が沸き出ていた
らしい。地域住民はそれを桶に溜め何回も往復して運び、風呂に使っていたと
いう。
湯ノ口の、物知りお婆ちゃんに聞いたところ「近くの鉱山が掘り始めたら、
自然とお湯が出なくなった」と言っていた。鉱山閉山後に再度温泉を採掘し今
に至っている。
湯ノ口温泉
他にも、地元のお年寄りが「子供の頃、学校の帰りに道草してマツタケをい
っぱい採ったもんや」と言っていた。これも鉱山が盛んになり、みんなが山に
入るようになってしまい、採り尽してしまったのか採れなくなったという。
昭和 53 年に紀和町の鉱山が閉山し、落ち込んでいる地域を元気にしようと頑
張っている人々がいた。
「これからは観光や~!」と『マツタケ狩りツアー』を
企画したのだ。参加費はわからないが、みんなでマツタケを採り、そのマツタ
ケを回収してマツタケ汁を作るというイベントだ。
採れなかった時を想定し、マツタケを用意しておいたそうなのだが、みんな
がその事を知っていたためか、当日 80 名参加したにも関わらず、採れたマツタ
ケはわずか 1 本だけ。自己申告せず持ち帰った人達が何人かいたとの証言もあ
る。マツタケ汁の他にもキジ肉のバーベキューも付いていたそうだ。このよう
な豪華イベントの企画があれば是非参加したい。
(個人の山なので勝手な入山は
ご遠慮下さい)
現在、湯ノ口に行くには車の他に、小川口からトロッコ電車という方法があ
る。鉱山で実際に使われていた坑道とトロッコが観光用として復活したのだ。
このイベントの時も、このトロッコ電車が利用されている。
トロッコ電車に乗った事はあるだろうか?
この時乗った方の感想は
・全身マッサージ機みたいだ!
・狭い。
・うるさい。
トロッコ電車
・真っ暗で何も見えない。(現在は車内に明かりがついています)
と、色々な感想があるので、是非乗って体感して欲しい。片道約 10 分の小旅
行です。なかなか味わえない体験ですよ。
この湯ノ口、覚えておいて欲しい事が一つある。
この地域は木で潤っていた。木を育て、切り出し、筏にし、川を流していた。
その最後の筏が出発した場所が湯ノ口である。
今から 52 年前、1964 年、東京オリンピックの年である。東海道新幹線開業
の年である。かっぱえびせんが誕生した年でもある。
最後の筏を流した筏師は誰だったんだろう?この年に多くの筏師が職を失っ
たことになる。どんな気持ちで流したのだろうか?御存命なら是非お話を伺い
たいものである。
≪炭鉱の町≫
三重県熊野市紀和町はかつて鉱山の町として有名で、1200 年以上も昔から銅
が採掘されていた。昭和 9 年に紀州鉱山が開設。全盛期は 10000 人を超える人々
が暮らし、毎年最大 3000 トンの銅を産出していたが、昭和 53 年に閉山。現
在では 1200 人に満たない人口になっている。
平野
皓大
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