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「ルーシの地の滅亡の物語」 について Слово о погибели Рускыя земли

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「ルーシの地の滅亡の物語」 について Слово о погибели Рускыя земли
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「ルーシの地の滅亡の物語」について Слово о
погибели Рускыя земли
中村, 喜和
スラヴ研究(Slavic Studies), 5: 73-95
1961
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/4956
Right
Type
bulletin
Additional
Information
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Information
KJ00000113159.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
「ノレーシの地の滅亡の物語Jについて
CJIOBO 0 IIOnl6eJIH PyCKbI兄 3eMJIH
試訳
試訳
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ず
1
/レーシの地の滅亡の物語
z アレクサンド/レ・ネフスキィ一代記
中
村
吾
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ト
平
日
1. 支 え が き
ある意味において,古代ロシヤ文学の歴史は受難の藍史である.それは畏族として藍
史に登場して以来,
Lて き た と い う ロ シ ヤ
たえず、周辺の異民挨三込ら深刻な育成にさらさ1.
史の苛再告さに由来する:王かりではない.その最も人間的な吉分はつねに権力と卑俗の無
知の撰]から迫害を受げてきた.代表的とされる作品のいくつかがきわめて偶然的なかた
A
.ブーシキンが
ちでしか伝わらなかったということ自体,それをき震設的に示して L、
る
そ の 晩 年 に , や は り た っ た 一 部 の 写 本 で カ ろ う じ て 伝 わ っ た 「 イ ー ゴ リ 遠 征 誇 J C江 OBO
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o nOJIKy Y
lropeBe を 吾 し て 「 わ が 古 代 文 学 の 荒 地 に お け る 広 独 な 作 品 J1
〉と述べたと
き
,
受難のヴェーんは主だ深々と古代ロシヤ文学の面をおおっていた.元来,完全に孤
乍品なととしうものは堅史の論理に反する.古代ロシヤ文学史の研究とはこの
独 な 文 学i
ヴェーノしを:ヱがし,
その発展を断絶なしにあとづけることであった.事実,
以後の研究によって,
プーシキン
こ の 作 品 が 決 し て 全 く の 「 荒 地 Jに 生 い 出 た も の で は な く , そ の
文学的完成度にふさわしい文化的・社会的背景をもつことが明らかにされつつある.そ
れはまた
7
孤 独J なものでもなかった. さまざまな事 i
書でキーエフ時代の文学は断片的
にしかわ,hわれに知られていないが
1ーゴリ遠征誇-.Jヱトゥーロフのキリーノレの説
教や「流罪人ダニイノしの祈顎U MmleHUe 瓦aHIu
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宗く結びついている.約
成,千ラリオンの著{下や原初年代記をつらぬ L、ている思想性と i
2世紀のち乃作品アサエドンシチナ J3a.
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IIHa(主この作品の創造的エネルギイを最もよ
く証明しているといえよう. ま た , そ の 文 体 と 思 想 に お L、て一言{イーゴリ遠征露 j に
)は
,
近 い 「 ル ー シ の 地 の 減 亡 の 物 語 J (以下{減亡の物語 j と略称 J
キーエフ時代から
モスクワ時代に受げつがれる古代ロシヤの文学的伝統の存在を確実に示寸鎮の一環と考
えら7,1,る.
「イーゴリ遠征誇 J が深刻化するんーシの封建的指分と諸侯の内紛,
および絶えざる
遊牧民の来襲による民族の危機をするどく意議して書かれたとするならば
I
滅亡の物
語 Jは ( 現 存 す る テ グ ス ト か ら 知 り う る か ぎ り 〉 す で に そ の 危 機 が 設 冒 と な っ て 現 実 化
し た 時 期 に , 民 族 の 過 去 の 栄 光 へ の 追 需 と , 祖 国 に た い 寸 る な お 衰 え ぬ っ 工 L、受精から
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中村喜和
生 ま れ て い る . こ の ふ た つ の 作 品 を へ だ て て い る 12世 紀 の 末 か ら 13世 紀 の 前 半 ま で の
約半世紀はロシヤ史上でもたぐいの少ない動揺と混乱の時期である.それは,決定的に
小侯冨に分裂したノレーシが東の蒙古・西のゲノレマン騎士宮から,
いわば背腹に外敵の攻
撃 を 受 け た 時 代 と い う だ け で は 充 分 で は な い . こ の 時 代 こ そ 第 4田 十 字 軍 に よ る 正 教 の
聖都コンスタンチノポザス焔落をもひきおこした西欧カトリック世界の異常な勃興,前
代のベチェネークやボーロヴエツとは比較にならぬ徹志的な破壊力をもった東方の異民
族の突然の出現にはさまれたロシヤ民族が,そのもてる力のすべてをつくして生き抜い
た時代で、島る.
i
滅 亡 の 物 語J に み な ぎ っ て い る 詠 嘆 の 持 情 は こ の よ う な 緊 迫 し た 感 情
にささえられているのではないだろうか.
もっとも,
X
.ロ パ リ ョ フ に よ っ て 前 世 紀 の 末 に は じ め て そ の テ ク ス ト が 刊 行 さ れ て 以
来 「 滅 亡 の 物 語 Jが 一 貫 し て 高 い 評 価 を あ た え ら れ て き た わ け で 、 は な い . 刊 行 者 自 身 は
こ の 作 品 を 「 ル ー シ の 美 と 栄 光 を た た え , そ の 滅 亡 を い た む 壮 大 な 詩 の 冒 頭 の 部 分 J2)
と考えていたにしても,
河時代の抱の文学史家,
たとえば 1
1
. ジダーノフ,
M. クソレシ
n
.ヴ ラ ヂ ー ミ ロ フ ら の 態 度 は き わ め て 冷 淡 な も の で あ っ た と い わ れ る . ぬ
し か し 比 較 的 最 近 に な っ て , し か も 注 目 す べ き こ と に は ド イ ツ の W. フィリップ。Y フ
ェフスキィ,
ランスの
M.ゴノレラン
5)
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.ソ ロ ヴ イ ヨ フ の な ど 外 国 の 研 究 者 に よ っ て ふ た
誠
た び こ の 作 品 が 注 呂 さ れ は じ め , そ れ ぞ れ の 立 場 か ら 新 し い 解 明 が こ こ ろ み ら れ た .i
亡 の 物 語j の こ の 「 復 活J は ソ ヴ ェ ト の 学 界 で も み ら れ
イシェフによる新しいテクストの脊行,7)M.チホミーロフ,
ノフ 10) ら の 研 究 が あ ら わ れ て い る ,
40年 代 の 後 半 以 後
8)
H. グーヂィ
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ソロヴイヨフ自身みとめているように,これらの諸
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員 mをCbMeHHOCTHの XXXIV巻とし
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2年に出版されたが,筆者はそれを直接参照することができなかったので,以下彼の所説誌 ry
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員 Solovievその飽による.この引黒は注雪〉の論文 C
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.528 より.
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. しかし A.H.口bInH
廷は例外で,そお文学史のなかでかなりのスペースをこの作品にさき,
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Berlin,1
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PJI と略称) XV,1958,CTp.78・115
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のテクストは注川の論文および 1
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. 5eryHoB の ABTope中epaT .
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llCCepTaUHH (
注 10)) とともに
MaJIbIlII沼教授のご厚意で手に入れることができた.
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.この議文は THXOMllpOB教授のご厚意で読むことができた.
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「ノレーシの地の滅亡の物語Jについて
論文はいずれもこの作品の個々の若干の側面をテーマとしたもの,
あるいは研究史のレ
ジュメであって,将来総合的なモノグラフの出現が期待されているのが現状であるが
11)
本稿で法いままで論じられたいくつかの問題点を紹介いあわせて今後の研究の方向を
さぐってみたい.
l
l
.聖 者 伝 と の 関 係
「滅亡の物語」は二本の写本で(云わっている. 1892年 ロ バ リ ョ フ に よ っ て は じ め て 刊
行されたものはプスコフのベチェルスキィ修道院に所蔵されていたもので, 15世 紀 の 写
8教 徒 の 共 同 体 で 発 見 さ れ
本とされる.第二の写本法リガの [
12)
マノレイシェフによって
1947年 に 刊 行 さ れ た 16世 紀 の も の で あ る 〈 こ の 写 本 は お な じ 年 に ゴ ル ラ ン に よ っ て も 刊
行された).ふたつの写本のあいだには正書法と句読点の若干の異同(試訳
iへの注参照〉
を の ぞ い て 椙 違 は み と め ら れ な い . ソロヴィヨフ;ヱリガ本がプスコフ本からの不完全江
転写にすぎないと考えており
ると,
13)
グーヂィもほぼこの説にしたがっている
14)
これによ
r
滅 亡 の 物 語 j は厳密な意味ではただ一本の写本だげで、伝わったことになる.しか
しブスコフ本では CJIOBO 0 nOrn6eJUI PyCKbI兄 3eM九 日 と い う 標 題 の あ と に 「 ヤ ロ ス ラ
フ大民の死について j 0 CMepTH BeJIHKOrO K淑 3兄只 pOCJIaBa という句がつづき,
さらに
本文に亘接ひきつづいてアレクサンドル・ネブスキィ{云の不完全なテ Y ス ト が み ら
れること,一方リガ本では「全ノレーシの大侯聖アレクサンドノレ・ヤロスラヴイチ伝 J
~HTne 6JIa~eHHarO BeJIHKarO KH兄3兄 AJIeKCaHJ
lpa 兄pOCJIa
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兄 PycmI と題され
た写本の冒頭にこの作品が収められていたことから,
この作品の本質的住格にかかわる
いくつかの重要な問題がおこっている.
まず第ーに研究者のあいだに議議をひきおこしたのは,
ノレーシの自然の豊かさと政治
的 強 盛 を た た え た 200語 あ ま り の こ の 断 片 的 な 作 品 が , 不 幸 に し て 現 在 ま で 伝 わ ら な か
ったある作品の一部をなすものであるか,それともヤロスラフ大俣の克にかんする物語
への,あるいはその子アレクサンドル・ネフスキィ大民伝への序文であるのか,
問題であった.最初ロバリョブ;工
i
という
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域亡の物語ーがヤロスラフの死についての物語,ネ
L, このう
フ ス キ ィ 伝 と な ら ん で 局 ー の 作 者 に よ る 三 部 作 を な す も の で あ る こ と を 主 張:
ちネフスキィ伝のみが完全に(云わり「滅亡の物語ーは最初の部分だげが残り,
フの物語法全く失われてしまったのであると考えた
の標題にネフスキィ伝がぬけていること, (
2
15)
ヤロスラ
この説に之はじゐから, (
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)写 本
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1 no ~こ訂正されてい
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, XV,CTp. 79
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) この写本の発見のくわしい事清 i
こついて :
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PyCKbIH 3eMλU (
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1CTOpH匁 OTKbITUH),SlaaaX X V ml1,1959,p
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) ObITIHH は JIonapeB のころ説をそ心主主受け入れている • o
75
中村喜和
る形跡があり,
このことからこの写本の成立当時すでにヤロスラフの死にかんする物語
が知られていなかったと推察されること,
などの欠路があったが,ついにザガ本の発見
に よ っ て 現 自 に 成 立 し が た L、ものと考えられるにいたった,
ロパザョフの三部作説にたいして最初に疑問を表明したのは
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.セレプリャンスキィ
であっためこれは一般に聖者{云成立の興味ある過程とも関連するのでややくわしく紹
分 す る こ と に し よ う . 設 は ま ず ネ フ ス キ ィ の 父 ヤ ロ ス ラ フ (1191-1246) が 凡 庸 な 侯 に
すぎず,その死について何か特別な記録が残されるほどの君主ではなかったと考える.
句切
そ し て プ ス コ フ 本 の 標 題 に み ら れ る o CMepTH Be~HKOrO KHH3冗日pOCλaBaは o CM
BeJIHKOrO KHH3
冗
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a の誤記であるとし, し た が っ て 「 滅 亡 の 物
語」はネフスキィ伝の序文であると主張した.授によると,この伝記の作者はネフスキ
ィの従士で,俣の死後まもなく書かれたものであるが,世俗的な要素があまりにもいち
じるしかったため,
これをもとにして 13世 紀 の 末 教 会 関 謀 者 が 宗 教 的 色 彩 の 濃 い 聖 者
伝 に 書 き 直 し た も の で あ る と い う . 14世 紀 に は こ れ ら ふ た つ の 伝 記 が と も に 流 布 し て い
たが,次第に教会聖者{云が擾勢となり,それがプスコフあるいはノヴゴロドの年代記に
の注参
収めちれたのであるく両年代記にふくまれているネフスキィ伝については試訳 E
R
む.このさいには当:た世{谷的な浮文,すなわち「減亡の物語 Jは と り の ぞ か れ た わ け
であるが,
プ ス コ フ 本 の 写 字 生 だ け は 何 か の 事i
育で教会聖者{云の前に機械的に世{在的{云
記への序文を量いた,
と い う の が セ レ ブ リ ャ ン ス キ ィ の 意 見 で あ っ た . しかしヤロスラ
フが凡庸な侯であったという説には異論があるし
17)0CMepTH ーの読み方にしてもフグー
ゲ ィ の 指 摘 lの を ま つ ま で も な く , そ の ま ま で は 受 汁 入 れ が た い . ま た 二 系 統 の ネ フ ス キ
ィ伝と L、う仮説にた L、しては,現存する伝記が後世の編集になるものではなく, 13世 紀
に す で に 教 会 的 要 素 と 世f
f
i的要素の結びついた新しい聖者{云のジャンノレが成立していた
とするフィリップの異説があるのさらにもっと重要なことは, もし「滅亡の物語」が
ネフスキィの死後に書かれたものであるとすれば, そのなかの HbIHelllHH 員兄 poc~aB と
い う 匂 が 理 解 で き な い こ と で あ る . ネフスキィ{云が彼の父のヤロスラフの存命中に書か
れ る と い う ア ナ グ ロ ニ ズ ム を 生 じ さ せ な L、ようなこの匂の解釈はまだ確立していなし、 20)•
当然生ずるもうひとつの疑問,
すなわちネフスキィのように勇名の高い侯とノレーシの滅
亡という観念の結びつきの不自然さについては,
ネフスキィ伝の最初の刊行者
B
.マン
シカが, こ の 聖 者 伝 の 末 尾 で 設 の 死 に の ぞ ん で 人 び と の 叫 ぶ 「 も は や わ れ ら は 滅 び る で
:6aeM を あ げ て 説 明 し て い る 21)しカミしこの説明はややこじつけの感
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誠亡の物語」にかんする
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誌の最も主要な論文江 l
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) ヤロスラフ侯の人となりと業績を特に高く評錯していることは Soloviev の諸論文の特徴のひと
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,XV,CTp.94・101 (ー煎3aypH,
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, CTp.532
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誌を <<CnOBO0 nonKyHropeBe>>からの信用で格別の意味がないとする説 (
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.Co詰),ヤロスラフ賢侯と区別するためのエピテットとする説 (
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.r予Y国 eBCKH邑〉などがある.
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.M. 1915.しかしこれは直接参照できなかった.以下は
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「ノレーシの地の誠亡の物語Jについて
じがする. 以上のよう に
I こ「誠亡の物語」をネフスキイの聖 i
搭谷いず
云来写本がふたつながらネフスキィ
ることにはいくつカか込の難点があるにもカかミカかミわらずず、. i
伝の産前に置方通れていたという事楕もあって,
とえば.
この説の支持者はいまなお少くない.た
M.スベランスキィはすでにその文学史のなかでロパリョフの説を批判しつつ,
ネフスキィ伝序文読を主張しているし
22)
リカ宗本の刊行者マノレイシェフは f
滅亡の物語」
とネフスキィ伝のあいだには向ーの作品とみなすことをさまたげ、るようないちじるしい
誠 亡 の 物 語J の 内 容 は ネ フ ス キ ィ が 負 わ な げ れ ば な ら な か っ た 困 難 な
桔違は全くなく, r
政治的諸条件を示してお丸再者は有機的に結びついていると述べている
ョフ
24)
D. チジェフ九キィ,
25)
23)
江.!Jハチ
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.ヤ コ ブ ソ ン 26) ら の 研 究 者 も ネ フ ス キ ィ 伝 序 文 説 に か
たむいている.ここで注意を要するのは
A
.シ ュ テ ン ダ ー ・ ベ ー テ ル セ ン の 見 解 で あ る .
後 は 1952年 に 出 寂 さ れ た 「 ロ シ ヤ 文 学 史 」 の 第 1巻で,
J
リハチョフ同様にガリーチ・
ヴォノレイニ年代記とネフスキィ伝の関需には疑問の余地がなし、と L,I
滅 亡 の 物 語J は 完
全には現存し主い大規模な詩の断片で,
おり,
しかもネフスキィ伝への序文的な役割を果して
あたかもガリーチ・ヴォノレイニ年代記におけるエムシャンの物語とおなじような
位置を占めていると述べている
27)
しかしそれから二年後に出版された「古代ロシヤ文
学詞華集」ではこの説を捨て, I
誠 亡 の 物 語J と ネ フ ス キ ィ 伝 の 文 体 お よ び 言 語 に お け る
相違は非常にいちじるしいので, ω 前 者 は 現 存 し な い 叙 事 詩 の 断 片 と み な す べ き で あ る
としている
2の こ の よ う な 見 解 の 変 化 に は の ち に 述 べ る ソ ロ ヴ イ ヨ フ の 論 文 く 1
953年〉
の影響があるのかもしれない.
ロパジョフによって想定された三部作の一部をなすヤロスラフ畏の克についての物語
は,すで;こ述べたように,早くからその存在が疑問規され,大多設の研究者は否定的な態
. ボ グ ス ラ フ ス キ ィ の み は 「 滅 亡 の 物 語J の プ ス コ フ 本 の
震をとっていたが,ひとり C
標 題 に み ら れ る o CMepTHー の 匂 を 重 視 し て , ヤ ロ ス ラ フ 伝 が か つ て 実 際 に 存 在 し た こ
とを主張していた
3の1
947年 に 発 表 さ
hたゴノレランの論文〈書かれたの法 1940年〉はこ
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毘-il)作者を推定せしめるほどに近いものであると述べている (Hcmopu51dpeBHeiipyccKoii.
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7
中村喜和
の ポ グ ス ラ フ ス キ ィ の 考 え を 一 層 発 展 さ せ た も の で あ る . この論文で彼は 1
6世 紀 に 編
まれた「系譜の書 JCTerreHH組
KHllraのなかのヤロスラフ{云およびいくつかの年代記に
み ら れ る ヤ ロ ス ラ フ の 死 に か ん す る 記 事 に も と づ い て , そ の 13世紀の原型と君、われる
滅亡の物語」をその f
f
=文と断定した. i系 譜 の 書j に は 実 さ い 「 誠 亡 の
ものを復元し, i
物 語 J の初めの部分と非常によく似たノレーシの自然讃美をふくむヤロスラフ伝が収めら
れ,その終りに近く,やはり「滅亡の物語」同様異民族の列挙がみられる
によれば
3D
ゴ、ノレラン
i系 譜 の 書J で、は若干の敷伝や誇張をのぞいて新しい事実の記入がおこなわ
れていないのが普通であるから,
ヤロスラフ伝は彼の不幸な死後〈蒙吉の宮廷における
毒 殺 〉 ま も な く そ の 聖 列 加 入 を E的として書かれたものにちがし、なく,編集の都合で序
文の一部が伝記の末屠に収められたのであるという.創意、に富んだこの論文はセレプリ
ャンスキィ以後最初にあらわれたものであり,
40年 代 以 後 の 最 も 注 自 す べ き 労 作 で あ
る. しかしこのゴルランの主張にたいして,ソロヴィヨフは,
になぜ、
HbIHeUIHll
註という語があるのか,
(
1
)侯 の 死 後 書 か れ た 聖 者 伝
(
2
)i
滅 亡 の 物 語j の 伝 来 写 本 で ヤ ロ ス ラ フ 誌
が欠けている理由が明らかでない, (
3
)異 民 族 の 列 挙 だ け が な ぜ 「 系 譜 の 書Jの末尾にあ
るのか, (
4
)
文体の相違,
などの理由をあげ
32)
グーヂィはさらにヤロスラフの貧弱な個
性は「滅亡の物語 J
の雄大さ,壮重さにふさわしくないこと, f系譜の書」が 1
3世 紀 の 資 料
をそのまま取り入れているという説に立充分な根拠がなし、ことを指摘して
33)
ともに反
対の立場をとっている. グーヂィによる最後の指摘法すでにセレプリヤ γ スキィによっ
ても注意きれ,
ヤロスラフ伝は 16世紀の成立にかかるものと説かれていたので、あるが,
最近でほベグーノフがこの聖者伝はチェルニゴフのミハイノレ侯の伝記の作りかえである
と断定している
34)
ところでソロヴィヨフのあげた第 3の理由,異民族の列挙の{立置の
前後の問題についてはかならずしも研究者の意晃が一致しているわけではない.すなわ
ち グ ー ヂ ィ は 「 系 譜 の 書J にみられる列挙は「滅工ごの物語」のそれと共通の源泉にさか
のぼると考えているが
35)
ソロヴィヨフとベグーノフはこの説をとらず,前者はヤロス
ラフ伝の列挙は「系譜の書」の序文にあたる「系図 J P OぇOCJlOB伐 の み を 通 じ て 「 滅 亡
の 物 語 Jから常用されたものであると説き
36)
後 者 は 単 に 年 代 的 に 「 系 図J に お け る 列
挙がヤロスラフ伝のそれより早いだけでi
f
>るとしている
37)すなわちベグーノフは
16世
紀 の ヤ ロ ス ラ フ 伝 の 作 者 が 重 接 「 滅 亡 の 物 語J を参照したとし、う可能性を誹捻していな
い. これはモスグワ・ノレーシにおいてキーエフ・ノレーシの文学作品がどれほど広く読ま
れていたかとしう問題と関連してはなはだ興味深い見解である. しかしいずれにしても
31
) 1"系譜の書J~主今日最も研究のおくれているものである.ヤロスラフ訟のテグストは Gorlin, oρ.
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後者ではあげられていない.
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とつ. A.3HMHH,K H3y明 郎 防 HCTO鴨 HKOB CTeneHHo註 KHHrH,TO
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「滅亡の物語」をヤロスラフ伝への序文とするゴルラ γの夜説は今石ほとんと支持者を
見 出 し て い な い . つ い で な が ら 彼 の 仮 設 が そ の 根 去 に お い て イ ー ゴ リ 遠 征 謹 J を 18
世紀の偽作と考え,
この作品によって代表されるような文学的缶統がキーエフ・/レージ
に存在しなかったという彼の師 A
.マゾンの主張と結びついていることは見落すべきで
t
まず;tl¥
「滅亡の物語」をヤロスラフ伝ある Lペヱネフスキィ伝の序文とする誌にた L、して,特に
50年代になってから,
これをいず',1Lの聖者伝とも亘接的な関係をもたぬ独立した作品の
ー音s
とみる領自がつよまってきた. と り わ け ソ ロ ヴ ィ ヨ フ は 雑 誌 「 ビ ザ ン チ オ ン j "こ発
表した論文で,
こ比肩するような雄大な叙事詩の美しい
この作品を「イーコ、リ遠征語 j v
. そこにあふれている愛国的な惑請は河時代の他の三一ロッパ諸国
断片であると推断 L
のいかなる文学作品にも関を見ないものであることを強調している. この論文ははじめ
て「滅亡の物語」を一個の文学作品とみとめ,その芸較的・思想的内容を詳細に分析した
ものであって,劃期的な意義をもってし、る.またこの論文は最初の完全な外国語訳である
フランス語への全訳をふくんでいる. ソ ロ ヴ ィ ヨ フ が こ の 作 品 を 独 立 し た 叙 事 詩 的 作 品
1,そこにみなぎって L、る深し、詩的な情緒と.ヤロスラフやネフスキィの
とみなした根拠'
聖者伝と質的に全くことなる完成された技巧である,
ソロヴィヨフのこの論文より一年
まえにあらわれたチホミーロフの論文,それからややおくれて発表されたグーヂィ紛‘ベ
グーノフちの論文i
弘、ずれも「滅亡の物語」を独立した作品とする点で共通している.ベ
グーノフは特にネフスキィ伝の諸写本の{云来経路を追求し,すべての写本の祖型たる最
古の写本には「滅亡の物語」がふくまれていなかったと推定している
ーテノレセン. lO.サザノヴァ,
H. ヴォドヴォゾフ,
40)
39)
シュテンダー・ベ
4 0I1.エリョーミン 42)
らの文学史家
もこの説をとっている.しかしこの独立作品説にしたがう場合(私自身にもこの説が最も
真実に近いと思われるのであるが),
プスコフの標題にみられる o CMepTH____ を ど う 解
釈するかということが当熟問題となる. プスコア本ではこの O は オ メ ガ ω をもって書
かれており,そのすぐ上に短い横棒があってさちにそれとならんで小さな
O
が書かれて
いるのであるが,ロパリョフはこれを写字生による o
→ロ0 へ の あ や ま れ る 訂 正 で あ る と
し
,
これにもとづいて三部作説を提唱したのであった.フィリップはロパリョフの訂正
説を否定して,
この匂が作品の標題の一部をなすと考えた.すなわち徒は
fヤロスラフ
大侯死後のノレーシの地の滅亡の物語」が完全な題であるとし,そのさいヤロスラフ大侯
と は ヤ ロ ス ラ フ 賢 侯 く1115-1154) を 指 す の で あ る と 主 張 し た
43)
こ れ に し た が え ば γ滅
亡 JrrorH6eあ と は 11世 紀 の 中 頃 か ら 13世 紀 の 前 半 ま で の 約 2世 紀 関 の 諸 事 件 を 指 す
3
8
) もっともその文学史における彼の叙述はかなりあいまいであって. Cepe6p先日CKH訪の説を批判
するにとどまる CHcmopUH,
CTp. 1
8
8・1
9
2
)
_ 伎の最近の論文は現在までの諸説の批判的列挙と研究史
の概観である.
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Jepam δuccepmat~uu, CTp. 6-8
3
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) EeryHoB,ABmopei
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) BoえOB030B,
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. EpeMHH,X yδO:JICeCmBeHHaH npo3aKueBcKou Pycu XI-XI
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, XV,CTp. 1
1
5による.
7
9
中村喜和
ことになり,
あまりにも長すぎるし,モノマフ畏以下この期間の諸侯の偉大さへの讃美
がすべて無意味なものになってしまう. ソロヴィヨフとグーヂィはともにロパリョフの
訂正説をみとめているが,それならばなぜ、この句がここにあるかについては全く説明を
加えていない. こ れ は 独 立 作 品 説 に と っ て fアキレウスのかかと」であり,
この説が
communis opiniodoctorum V
こなりうるか L、なか法この句の解明にかかっているように
思われる.
以上ながながと,聖者{云と「誠亡の物語 Jの 関 誌 に つ い て 諸 家 の 説 を 紹 介 し た が , そ
の理由は,普通,この問題が作品の芸結性の理解と密接に結びついていると考えられて
おり,かつ最も熱心に論じられているためである.
J[.作者と或立年代
「滅亡の物語 j の作者およびその成立の年代と場所についても,すで、に述べた問題と
関連して,
いまなおさまざまな意見が対立している.チホミーロフ辻特にこの問題を扱
った論文のなかで,
この作品はカノレカ河畔でソレーシ諸侯が蒙古軍から大教をこうむって
か ら 2年 昌 の 1225年に,
ヤロスラフが君臨していたノヴゴロドで、書かれたものである
と主張した. ヤロスラフの従士たる作者はこの未曾有の敗北のなかにノレーシの誠亡を直
観 し た と い う わ け で あ る . こ れ と 類 似 の 考 え は す で に ソ ボ レ フ ス キ fに あ ら わ れ て い る
が
,
ソロヴィヨフとグーヂィはともに,カルカ河の戦は南ルーシでおこったものであ
り,作者とされる北ルーシの住人にはその敗北がおそらくただちに全ルーシの誠亡とい
う危機惑を生み出すことはなかったで、あろうとしてこの説に反対している. グ ー ヂ ィ
に よ る と , ル ー シ の 地 の 滅 亡 の 危 機 が 北 部 地 方 に お い て 意 識 さ れ は じ め た の は 1237年
に開始されたパツーの東北ルーシ侵入以後のことであり,
しかも作品のなかでヤロスラ
フ の 兄 の ユ ー リ ィ が ヴ ラ ヂ ー ミ ル 侯 と し て 言 及 さ れ て い る こ と は シ チ で 復 の 戦 死 (1238
年〉以前にこの作品が成立したことを示すものである,
タタールの名はおそらく現存し
ままた,その生涯を通
ない続きの部分で言及されていたはず、で、あるとされる. グーヂィ i
じてベレヤスラヴリと最も深い関係をもっていたヤロスラフが同時代の第ーの侯にあげ
られていることから,作者はベレヤスラヴリの住人であったと考えている
44)
これにた
いしてソロヴィヨフは作品におけるヤロスラフの位置をさらに重読し,作品中「ここよ
り… JOTCeJIe と あ る の は キ ー エ フ を 中 心 と し て の 発 言 で あ る と 推 定 し て ,
ユーリィ侯
の 死 後 作 者 が ヤ ロ ス ラ フ に し た が っ て こ こ に 滞 在 し た 1240年 を も っ て 成 立 の 年 と 主 張
している.設はさらに作者がこの年パツーのキーエフ襲撃に際会して戦死し,そのため
序文以下を完成させることができなかったのではないかと考えている
45)
エリョーミン
も や は り 「 滅 亡 の 物 語j を ユ ー リ ィ の 戦 死 以 後 で 島 る と し , 新 し い 大 渓 ヤ ロ ス ラ フ に
よる後の盛大な葬儀がこの作品の生まれる直接の動機となったのであろうと述べてい
4
4
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H,CTp. 5
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fy).l.3時は異本にしたがってこの史実に疑問を表現している (TOOPJ
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, X
H CTp. 540).その後 50
・
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vはさらに後者を反駁 CTOOP
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. この論争の判定は, 史料がネフスキイ伝のみ
に授られているので函難でるる.
8
0
「
ノ
レ
ー γ の地の減亡の物語 j について
る
46)
ベグーノフもこの説に近い
4η
一方ゴノレランのように「滅亡の物語 J がヤロスラフ伝への序文と考えるならば,
その
成立は必然、的にこの侯が蒙吉宮廷の内紛にからんで毒殺された 1246年 以 後 の こ と と な
り
,
さらにセレブリャンスキィ流にネフスキィ伝への序文ととるならば,その成立は
1263年 を さ か の ぼ る は ず が な い . こ の 点 で 興 味 を ひ く の は ワ ハ チ ョ フ と ヴ ォ ド ヴ ォ ソο フ
の説である.前者:ヱネフスキィ伝のなかには明らかにガリツィヤの文学的伝統がみとめ
られるという認識にもとづいて,
r
減 亡 の 物 語 ー を ふ く む こ の 聖 者 去 の 作 者 は 1250年 に
ガリツィヤからネフスキィのもとにおもむいた大主教キリールか,
ひとりではないかと考える
48)
ある L、はその弟子の
(ネフスキィ伝の末尾にはキリールの百撃した奇蹟が語
られている←一一試訳 E参照.)後者は「滅亡の物語 J と ネ フ ス キ ィ 伝 は 別 々 の 時 期 に 同 ー
の作者によって書かれたものでこの作者の死後写字生が無意識にふたつの作品を結ひ、つ
け た た め に 伝 来 写 本 の よ う な 形 が 成 立 し た と 主 張 す る . さらにヴォドヴォゾブはロパリ
ョフの説をひき,
I
流罪人ダニイノレの祈願}のな元主の pHTOpb と pa6b の 2語 が 同 時 代 の
作 品 の な か に は そ れ ぞ れ 「 滅 亡 の 物 語J と ネ フ ス キ ィ 伝 に だ げ あ ら わ れ る こ と , 強 力 な
侯権を主張する政治的思想,
はなやかな文学的手法,成立の場所の近さ,などをあげて
このダニイノレこそ「滅亡の物語 jお よ び ネ フ ス キ ィ 伝 の 作 者 で も あ る と い う 大 胆 な 仮 説 を
提出している
4
の し か し 「 流 罪 人 ダ ニ イ ル の 祈 穎 J には対立する
2系統の写本があり,
その相互関係は未解決のままという事清もあって,授の説;三若干突飛の観がある
50)
総 じ て こ の 短 い 断 片 が 書 か れ た 事 情 に つ い て は さ ま ざ ま な 事i
育が考えられ,作者と成
立 年 代 を 薮 密 に 淀 定 す る こ と ほ ほ と ん ど 不 可 能 で あ ろ う . しかし,作品の完全な理解の
ために一一軒に「減亡の物語」のように断片的な作品の場合一ーその作者の属した身分
や 思 想 的 な 立 場 な ど に つ い て の 探 索 が 不 可 欠 な こ と は L、うまでもない. (作者がガリツ
ィヤ出身者か生粋の北東ノレーシ人かそれともノヴゴロド人かということはモスグワ文学
の成立にとって非常に大きな問題である.)この面の研究は之学史家のみならず,壁史家
にとっても重要な課題である.
N.lイ ー ゴ ヲ 遠 征 誇J との関係
「滅亡の物語 j が 「 イ ー ゴ リ 遠 征 諜J とごく近い関誌に立っていることはすでにロパ
リョフによって指摘された.設は CBeTγIO CBeTJIaH.3eMAI PycbKa5Iと CBeTJIoe H TpeCBeTJIOe COJIH
.
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CTp. 39,Jakobson. 182),
oT BeJIHKOrO 完pOCJIaBa一 双
46) EpeMHH,
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.CTp.352
) EeryHoB,
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.CTp. 13
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JI
,X
I
I CTp.533による.
48) rY
49) BO.
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1p
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.CTp.120-122.この設にたいする反駁として λ臼xa可eB,PenJIHKH,T
OllPJI
,
xV,1958,CTp.500参照
50) THXOMHpOB によると夕、、ニイルがこの書状を提出したのはネフスキイの父のヤロスラフにあてて
,
a
OllPJ1
,X,CT手
.269),J
1HXaQeB もこの説を
であるとされ(“HanHcaHHe“瓦aHHHJIa3aTOQHHKa,T
官官提としてその作者の笥題を論じているが (COUHaJIbHbIe OCHOBbI CT日瓦兄“ MOJIeHHH“瓦aHHHJIa3a,
a
PJ
l
, X,CTp. 106・119),M. CKpHnUJIb ばこの{乍品が「イーゴリ遠征護」より数十年
TOQHHKa,TO
,
a
PJ
l
, 沼. CTp.72・95)
も早いことを主張している〔“ CJIOBO 兵aHHUJIa3aτOQHHKa",TO
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中村喜和
.
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o完pOCJIaBa と OT CTaparO B
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hIHeU
lH完了 o Hrop
匁
CTp. 5
,J
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.6) などのパラレノレをあげている
(E. P.,
51)つづいてグルシェフスキィも諸侯やそ
の支配下の諸民族の列挙,日目前田部員の用い方の共通性に着目して
1
滅亡の物語 j は
イーゴリ遠征謹J の模倣であるとさえ述べた
「ザドンシチナ J と同様, 1
52)
しかし「滅亡の物語 j の芸街的制面に最も大きな注意、を払い,その見地から「イーゴ
リ遠征書」との関係を熱心に追求しているのはソロヴィヨフで忘る.彼は「滅亡の物語 j
にかんする最近の三つの論文を通じてこの問題をくわしく論じているが,
とりわけ最後
の論文で法内容と表現上の類以点として 24の項巨をあげている. そ の う ち 特 に 注 目 す
べきものはつぎのとおりである.
(
1
)ともに
CJIOBO という標題によって規定されている
2
)自由なリズムをもっ詩的性格,
こと,ならびに [slovo 0 po'"]としづ音声的同一世, (
t
3
lPyccKa兄 3eMJI51 にたいするつよい愛着, (
4
1自然にたし、する行属的感情,
譜にたいする配意,
l
6
l
歴史と地理についての作者の博識, l
7
1表 現 上 の も ろ も ろ の 類 似 :
opyccKa
兄 3
e
M
J
I
e
.
.
.,eCM
,a6hI をふくむ条件法,
はこれらの類訟にもとづいて,
うたがし、もなく
Lている
(
5
1侯 家 の 系
基本的語葉の同一性…. ソロヴイヨフ
1
滅 亡 の 物 語Jは「イーゴヲ遠征謹」の模倣ではないが,
1
1
弓ーの詩的流派Jthe same poetic schoolに属するものであると結論
54)このふたつの作品のうち一方は断片にすぎず,他方もそれほど長いもので
はないうえに,
同時代の詑の再種の作品が知られぬことから,この結論の妥当性はかな
らずしもすべての研究者によって承認されえないであろうが,
の慎重さで,
グーヂィがし、つもながら
ソロヴィヨフのあげているパラレんがー設的性格しかもたず,
したがって
ふたつの CJIOBO の あ い だ に 何 ら か の 関 誌 が あ っ た と 推 定 す る こ と は 不 可 能 で あ る と 述
べている 5のことには賛成できない
が
,
1
詩的流派」としづ言葉の定義にもよるであろう
南ノレーシの作品である「イーゴリ遠征語j にみられる高い務調と洗錬された手法は
その本質的特徴を失うことなし約半世紀の期間をおいてこの北東ルーシの作品に再現
しているとみることはできないであろうか.
ソロヴィヨフは最初から「滅亡の物語 Jが詩作品であることを主張していたが,最も
新しい論文ではこれを 40行に分けるこころみを示している.彼によると各行は 10ない
し誌の音節からなり不揃いで辻怠るが,これと同様のことは fシッド Jやブィリーナに
もみられ,かならずしもこの作品を詩とみることをさまたげないという.
しかしソロヴィヨフ自身が述べているように,
1
滅亡の物語」を純粋に文学{乍品とし
51
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2による.
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v
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vの説がこじつけであるとさえ述べている.
これにたいして Solovievは TOllP
J
l
, X V,C
T
p
.1
1
0で反駁している.五沼 xa
可e
Bの意晃は一般的な
ものではあるが,問題の本質をよくついているように思われる.i
祖霞をばあたかも壮大な,生命あるもの
にみられ,ノレ
として,すべての歴史・文化・自黙の総体として感じとる方法はすでに「イーゴリ遠征謹J
ーシの地という広大な形象はロシヤ文学の発展の全過程にあらわれている. [J減亡の物語Jも 7イーゴ
リ遠征護』とおなじ手法をもって書かれている.J CHaquoHa
.
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HOe Ca.MOC03HaHue apeOHeu
M.-J
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5,
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Pycu,
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2
E
「ルーシの地の誠亡の物語j について
て評価しようとするこころみはようやく端緒についたゴかりである. 今後は丈学史的見
地からの研究がますます深められることが予想される. さまざまに解釈され,その実体
さ え 明 瞭 に 把 握 し が た い 「 文 体Jに つ い て の 問 題 が 早 急 に 解 決 さ れ る と は 忠 わ れ な い
が
,
ガリーチ・ヴォ/レイニ年代記や「イーゴリ遠証書」などのキーユフ三寺代の文学作品
と の 思 想 的 ・ 言 語 的 関 係 が 次 第 に 解 明 さ れ て L、く可能性は充分にある.
滅 亡 の 物 語J が 独 立 の 作 品 か い な か と い う こ と は 作 品 の 芸 術 性 の 根 本 に
このさい, I
か か わ る 問 題 で は な い と 私 は 思 う . よ し ん ば そ れ が ネ フ ス キ ィ 侯 の 聖 者 伝 の 序 文 と Lて
の役割をもっていたにせよ,その荘重なひびきのなかにこめられたつよい清熱は決して
聖 者 伝 の パトスと矛盾することがないと豆、われるからである.聖者伝を全く常套的で無
味乾燥な文学のジャンルとみることは誤りであろう.それは吉代ロシヤにおいて最も一
般的で,最も多面的なジャンノレであったはず、て‘ある.ある意味でネフスキィ伝:土キーエ
フ文学の矯子で‘あったとさえいえなくもない.もっともゴ、/レラン流に「滅亡の物語」を
ヤロスラフ伝と結びつけるとなると,事清はことなる.それはキーエフ・ノレーシの文学
の否定に通ずることはすでに指捕したとおりである. しかしベグーノフらの研究からも
I
系譜の書」のヤロス、ラフ伝との関係も次第に明確にされるであろ
う. ア カ デ ミ ヤ 所 員 の ロ シ ヤ 文 学 研 究 所 は 6
0年代のなかばまでに, 訟 の 諸 作 品 と な ら
予想されるように
ん で 「 滅 亡 の 物 語j と ネ フ ス キ ィ 伝 り テ ク ス ト お よ び モ ノ グ ラ フ を 刊 行 す る む ね 予 告 し
て い る の で 5の ほ ど な く わ れ わ れ は ソ ヴ ェ ト 学 界 の 最 新 の 研 究 に ふ れ る こ と が で き る で
あろう.
5
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Tp.4
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2
. こ の 編 者 は EeryHoB
8
3
中村喜和
試訳
I
ノレーシの地の滅亡の物語
この
5本 訳 は プ ス コ フ 本 に よ る . 参 照 し た テ ク ス ト は つ ぎ の と お り で あ る .
H.K
.ry)(3H註,XpeCmO
.M
amU
5
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M. 1
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予 1
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5
A. Stender-Petersen,S
. Congrat-Butlar,A
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g
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.
.
.,p
.1
7
5
・
1
7
6 (このテクストは
完全ではなく,詩行に分られている〉
M.H. TllXOM
勾 OB
, Xpecmo
.M
amu
5
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o ucmopuu CCCP
,T
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,M
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こ の ほ か Ob
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.CTp. 199・
200;I
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. Ca3aHoBa,o
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t
. CTp.3
9
5
3
9
6
; Solo・
viev,TO
,
a
PJI
,X V
,C
T
p
.8
8に も 全 文 の 引 用 が み ら れ る が 異 同 は ほ と ん ど な い .
ザガ本のテグス村主,
M. Gorlin,o
t
.c
i
t
.p
.2
7
2
8
B
.1
1
.M
a
J
I
b
l
l
l
l
e
B,o
t
.c
i
t
.CTp. 1
8
8
復元テクスト;主,
M. Gorlin,o
t
.c
i
t
.p
.2
3
2
4 くこのうち日本語訳に影響をおよぼす修正については,
註 1) お よ び 7) 参 照 )
現代語訳はロシヤ語 1
1
.EpeMHH,o
t
.c
i
t
.CTp.253, フ ラ ン ス 語 Soloviev,Byzantion
XXIIp
.1
0
9
1
1
0
; 日本語,田中揚児氏世界歴史事典 2
4,平凡社, 30ペ ー ジ を 参 照 し た .
アラピヤ数字の注はテクストの異読,
ローマ文字の注は地理的・産史的事実にかんす
るもので島る,
/Vー
シの地の滅亡の物語
ヤロスラフ大侯の死について.
おお,光みちみち,げにうるわしきノレーシの地よ.なれ立あなたの美もつ妙なる地な
り.妙なるなれのもてるは,
数多き、海,
山,高き丘,清き森1)妙なる広野,
おのがじし崇めをうけるJiIと泉,
さまざまなる獣たち,
けわしき山
数知れぬ鳥とも,大いなる
町々,妙なる村々. f
曽援のぶどうの園,神の聖堂,さらにはおそるべき侯,ほまれある
貴族,あまたのすぐれし人士.ノレージの地よ,なべてのものになれはみてり,おお,キ
リストのまことの正教よ.
1
) J
I
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Bは「しげれる森」と訂正 EpeMHH,S
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v,S
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P
e
t
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s
e
n もこれにしたがう.
また Gorlinはエピテットを組み替え,この蔀を「…月!と泉,聖なる山々,けわしき丘,高き森,漕き
広野,妙なる獣たち,さまざまなる・数知れぬ鳥ども…」と読む. ,¥ 、ずれの説も根拠が薄弱と思われる
のでしりぞけた.
8
4
1
]
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i
I
・l.
j
I
・
邑
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・",_.11歯止
守
、
,
-
~τ
「ノレー γ の地の減亡の物語」について
こ こ よ ワ ウ グ ル 人 a} ま で , お よ び リ ャ フ 人 治 ま で
ト ヴ ャ グ 人 d) ま で
3)
ャ フ 人c) ま で , チ ャ フ 人 よ り ヤ
さ ら に ヤ ト ヴ ャ グ 人 よ り リ ト ヴ ァ 人 e) まで4)ネメツ人。まで,
メツ人よりコレラ入。まで,
ネ
コレラ人より異教徒トイマ人討の住むウスチューグひまで,
お よ び 息 づ く 海 j)のかなたまで,
ス 人 n まで,
2) チ
この海よりボルガル人註〉まで,
ブ 〉 レ タ ス 人 よ り チ ェ ル ミ ス 人 ω まで,
ポノレガノレ人よワブノレタ
チェ/レミス人よりモノレドヴァ人 n) ま
で,すべてこれら異教の国々は,梓のみ心もてキリスト教徒に服したり. フセーヴォロ
ト大侯 o} に
,
その父キーエフ侯ユーリィ
p)
に
,
そ の 祖 父 ヴ ラ ヂ ー ミ ル ・ モ ノ マ フ ψ に.
ボ ー ロ ヴ ェ ツ 人 r勺 ヱ モ ノ マ フ 来 た る と お ど し て の お の が 子 を ゆ り か ご に 寝 せ ,
入は沼より外にあらわれず,
ザトヴア
ウグノレ人は大いなるヴラヂーミノレの攻め登るをおそれて,
石の砦のを鉄の門もて屈めたり. しかしてネメツ人は青き海のはるかかなたにあるを喜
ベり.プノレタス人,チェレミス人,
めに蜂蜜を集め,
ヴャーダ人
s)
モ ル ド ヴ ァ 人 は ヴ ラ ヂ ー ミ fレ 大 侯 の た
ツ ア ー リ グ ラ ト ο のマヌエノレ苦心{主,
ヴラヂーミノレ大侯におのが都を
うばわれんことをおそれ,大いなる貢を伎におくりたり.
さて,かの時代にはキリスト教徒にわざわいありき.大いなるヤロスラフよりヴラヂ
ーミノレまで7)いまのヤロスラフりまで,その兄ヴラヂーミル侯ユーリイ同まで…
2
) Stender-Pεtersen はここに「リヤフ人より J OT'
bJ
I兄XOB
'bを挿入
3) r
ここより… j 以下ここまで Soloviev による修正では「ウグル人よりチャフ人まで,チヤフ入
よりリヤフ人まで, リヤプ入よりヤトヴャグ入まで j
4
) Soloviev の仏訳はここに「リトヴア人より Jを捕入
5
) プスコフ本, リガ本ともに HOIllaxy. これは JIonapeB によって n
O
J
I
O回 axyあるいは CT
抑留axy の誤りと指摘さる. THXOMHpOB を の ぞ き 初 出axyはとられていない.
6
) S
o
l
o
v
i
e
¥
" の修正で法「石の山々」
7
) Gorlinの復元テクストでは「およびヴラヂーミルより J(:こ修正.
a) ハンガリヤ人
b) ポーランド人
c) チエク人
d) プーク・ネマン再湾問のりトアニヤ系民族
e) リトアニヤ人
f) 普通にはドイツ人を指すが,ここではスヴェーデ γ入ともされる.
g) ネヴァ河,ラドガ・オネガ滞周辺 t
こ住んだフィノ・ウグノレ系の人種
h) 北ドヴィナの支流トイマ河畔に生んだフィノ・ウグル系の人種
i) 北ドヴィナ河畔の都市
j) 北氷洋あるいは白海
k) いわゆるヴォルガ・ブルガール人
1) ヴォルガ・ブルガールとハザーノレ汗置のあいだに往んだフィノ・ウグル系の人種
m) ヴォルガの西の民族
n) やはりヴオ/レガ西岸のフィノ・ウグル系の民族
0) いわゆるポリシ三イ・グネズド.ヴラヂーミル・スーズダリの侯(在位1
1
7
6
・
1
2
1
2
)
p) フセーヴォロトの文.キーエフ,ロストフ,スーズダリに君臨(在位 1
1
3
2
1
1
5
7
)
q) ユーリィの父.キーエフ大侯(在位 1
0
9
3
1
1
2
5
)
r) 南ロシヤの草原を遊牧していたトルコ系の民族
s) 北東ルーシのヴャトカ流域に住んだフィノ・ウグ/レ系と推定される民族. ネヴァの南に住んだ
BO)
l
.b 人 (
f
Y)l.3目白),ヴオノレガ右岸のモルドヴアのー支族 (Soloviev) とする説あり.
t) コンスタンチノポリス
u) コムネーノス王朝第三代の皇帝(在位 1
1
4
3
1
1
8
0
),この部分は明白なアナクロニズム
v) フセーヴォロトの第三子,ネフスキイの父で,ベレヤスラヴリ,ノヴゴロドの畏 (
1
1号1
1
2
4
6
)
w) フセーヴォロトの第二子,ヴラヂーミル・スーズダリの侯(在位 1
2日 1
2
3
8
)
8
5
中村喜和
試訳
E
アレクサンドル・ネフスキィ侯一代記
以下の日本訳のために最も代表的なつぎの諸校本を参照した.
1
. A.H.HaCOHOB
,H08Z0podc1
C
a
f
l nep8afl JlemOnUCb cmapmezo U .MJladmezo U3
・
8odo8
,AHCCCP
,M.立. 1
950
,C
T
p
.2
8
9
3
0
6
,6
748年
"
,
, 6759年
(
5
1用 は
HIT
瓦
〉
2
. A.H.HacoHoB.n
CK08C
κueJlemonucu,B
h
U
I
.2,AHCCCP
,M. 1
955
,c
cp.11・1
6
〈日瓦〉
3
. B
.1
1
.M初 日 出eB
,ot. cit. CTp. 188・193 くp
r
)
4
. H
.K
.ry
,
l
l
3H
註,XpecmO
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m
u
f
l
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.
.
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C
T
p
. 156・1
6
2 (r
且
〉
A. S
t
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r
P
e
t
e
r
s
e
n,Anthology._.p. 100・106 (SP)
R
.Trautmann,op. c
i
t
. 120
・1
27 (Tr) - 抜 葦
現 代 語 訳 と し て ロ シ ヤ 語 EpeMHH
,o
p
.c
i
t
.CTp.257・263 (Ep), ドイツ語 W. Fritze,
Russische Heiligenlegenden,Z
urich,1953,S
.2
5
5
2
6
5(
F
r
)
.
な お 4の テ ク ス ト 立 す べ て B
.MaHcHKKa,)J(umue AJleKCandpaHe8cKozo. Pa360p
pedaK
,uuii u meKcm (ITaM兄THlfK,ll予eBHe詰 IIlfChMeHHOCTlfl
fl
f
c
K
y
c
c
T
B
a,CLXXX,c
r
r
r
,
1
9
1
3
) によるところが大きい.
ま 本 に し た の は 最 も 完 全 な 4の グ ル ー プ に 属 す る も の で , 段 落 は 便 宜 上 SPに し た が
っ た . し か し SPに お け る 大 段 落 と 小 段 落 の 区 別 〈 前 者 は 行 あ け , 後 者 は 行 か え で 示 さ
れる)および詩になぞらえた区切り方はこれを無視した. (
) は SPに お け る 復 元 を
示す.
アラピヤ数字の注はテクストの異読にかんするもの,
ローマ文字の注は歴史的事実に
かんするものである.なお前者においては特別の指定がなし、かぎり異読は句読点のまえ
にさかのぼらない.
ア レ ク サ ン ド ノv • ネアユキィ侯一代記 1)
6771年 a)1
1万 23Bアレクサンドノレ・ヤロスラヴィチ大震が没した
2
)
彼の人となりと生涯を語ろう.おわれらの主,神の子イエス・キリスト心の御名にお
。
いて,
心まずしく,
コノ標題ハ
2
)
罪ふかくして,
H
n
J
I,n
J
Iニ ナ シ
いやしむべきぬわれもまた
6)
フセーヴォロトの
τ
r
コ ノ 節 ハ Hn
瓦
, n
J
I,SPニ ナ シ .r
ム
ニヨル
3) コ ノ 節 ハ
ニナシ
ニナシ〈以下
ハニ脱落ノ節・語多シ〉
斗〉 コ ノ 語 ハ
5
) HnJ
1
, n
J
I
:思意あさき
p
r
p
r
p
r
6
) Tr:われは
a) ロシヤ宇宙開顧紀元.西暦 1
2
6
3年に当る.なおこれは実さいにはアレクサンドノレの死んだ日で
はなく,葬られた日である
8
6
I
言
「ノレーシの地の滅亡の物語 j について
孫アレクサンドノレ・ヤロスラヴィチ大侯 7) 。 生 涯 を し る さ ん と し て い る . こ れ は , わ れ
がおのが父誼より物話を開き,みずから設の成年期の昌撃者であるためであって,名誉
にとみ栄光にあふれたそのとおとき生涯を喜んで物語ろうと思うのであるが,第言の作
者 の 述 べ7
こごとく,
たのなかに立ち,
せよ,
r
よこしまなる心に智恵、入ることなしそは高きところにあり,
ちま
つ よ き 門 の か た わ ら に 坐 し お る ゆ え な り .jb〉われ:工おろかなるものに
とおとき聖母の折りと,アレクサンドノレ・ヤロスラヴィチ聖民り場けによって,
i
工じめること t
こしよう.
このアレクサンドル・ヤロスラヴィチ良之,
神のみ心により,め敬げんにして慈悲ふ
かくしかも柔和なる父ヤロスラフ大侯巴〉と,敬げんなる母フェオドーシヤより生まれた.
予言者イザヤが述べたごとく,
r
主はかく言いたもう.
われは侯を立つ,
彼らはきょめ
ち れ た る も の な れ ば な 仇 わ れ は ま こ と へ と 彼 ら を み ち び か ん .jl)d)神 の 命 な く し て ア
レクサンドノレ・ヤロスラヴィチ侯の君臨法なく,
夜の君臨は神によって祝福されていた
からである.
設 の 身 の 丈 10)注 入 並 す ぐ れ , そ の 声 は 人 び と の な か に あ っ て ラ ッ パ の ご と く , そ の 顔
はエジプトの王がエジプトの副王にすえたヨセフの顔のごとくであった.設はサムソン
の力を分けもち,
ソロモンの智恵、をそなえていた.神は彼に,ネロ音の子にして,ユダ
ヤの地を征寂したローマ皇帝ヴュスパシアヌスむ勇敢さをあたえた.かつてヴェスパシ
アヌスはヨタパタに近づかんとして戦い,その市民たちが出撃して彼の軍をやぶると,
ただひとつ取りのこされたが,
後らを域門まで追いかえして,おのれの親兵援をあざげ
1
長らをなじっていった.
り
,
「汝らは予をただひとり置きざりにした.J
ア レ ク サ ン ド ル ・ ヤ ロ ス ラ ヴ ィ チ も こ の よ う に 需 に 勝 ち , や ぶ れ る こ と が な か っ た 11)
さ て ゆ 西 の 国 か ら 「 神 の し も ベ J と名のるやからのひとり
13)e)
が伎のおどろくべき容
姿を晃ょうとしてやってきた.あたかもいにしえに,南の国の女王がその智恵を関かん
としてソロモンをおとずれたごとく. ア ン ド レ ア ス と 名 の る こ の 者 も , ア レ ク サ ン ド
ル・ヤロスラヴィチ侯を見,
「予誌もろもろの国,
おのが国に戻って言った.
もろもろの民のあいだを経めぐったが,諸王のなかにかかる王
を,諸i
芙{のなかにかかる侯を克たことがなかった.」
するとローマ領域の北冨の王。がアレクサンド/レ・ヤロスラヴィチ畏のかかる人とな
7
) Hn瓦:ヤロスラフの子にしてブセーヴオロト D係なるアレクサンドル霊侯
8) 口五ニナシ
9
) Hn刀,耳瓦, E
p
:i…われ誌〔彼らを王座へと一一豆必みちび、かん .
J まこと f;::"'; r.
a
: i…われ
はみちびかん,まことに…」
1
0
)
日瓦:観光
1
1
) SP ハ (6
も〕挿入 H口 瓦 ハ 保 存
1
2
) 口瓦:さてこのため
1
3
) 口五:……力つよきひとり
b) 震言 8:2-3か
c) キーエフ大震およびヴラヂーミノレ・スーズダリ俣(12
3
8
4
6
)
d) イザヤ書か.薮言 8:1
5
1
6参照
e) リヴオニヤの聖十字架ドイツ窮土自の頭目 A
n
d
r
e
a
s¥
V
e
l
w
e
n
f) スウェーデン王 E
r
i
k(
12
5
0年没入しかし実擦に遠径してきたりは伎の摂政 B
i
r
g
e
rJ
a
rl
. ロ
ーマ領域とはカトリック圏のこと.
8
7
中村和喜
りを聞いて,いった
14)
「行って,アレクサンドルの地を征践しよう
そして大軍をあつめ
15)
.
J
多くの踏をおのが軍勢で、みたし,関志にもえ,大挙して出揮
し無智によろめきつつネヴァ河害〉を越えた
16)
彼はおごりたかぶって,
大ノヴゴロド
なるアレクサンドル・ヤロスラヴィチに使者をおくって,いった.
「汝は予に刃向いうるか.予はすでにここに来た.そして汝の地を征服するであろ
う.
J
アレクサンドル・ヤロスラヴィチ侯はこのことばを聞いて,はげしく心をもやし,聖
ソフィヤの寺院に入って,祭壇のまえにひざまづき,涙とともに神に祈りはじめて,い
った.口まめたとうべき正しき神よ,つよき大いなる神よ. 天と地と,
I
Iとをつく
海と J
直人の土地を
りたもうたとこしえなる神よ.汝はもろもろの民のために境界をもうけ. f
おかすことなく住むように命じたもうた.
J
そして彼は詩篇の歌を患いおこして,いった.
「主よ,わが争いをさばきたまえ.われをはずかしめる者をさばきたまえ.われと戦
h
>
う も の を お さ え た ま え . 武 器 と 楯 を と り て , わ が 助 け に 立 ち 出 で た ま え .J
そして祈ワをおえて立ち上がり,大主教に敬礼した.大主教スピりドンは祝福して,
彼を去らせた.アレグサンド)レ・ヤロスラヴィチは涙をぬぐいつつ教会を出て,
おのが
親兵隊をあつめはじめた.そしていった.
「神はカのなかならず,
う.
まことのなかにおわすのだ.詩篇の作者ダピデを思いおこそ
r
このやから立武具に身をかため,
馬にまたがりたり. わ れ ら は 主 な る 神 の 名 を 呼
ば ん . 後 ら は 打 ち く だ か れ , た お れ 伏 し ぬj
J
l7)i)
そしておのが軍勢の多くを待たずして,聖なる三位一体をたのみつつ,わずかの親兵
隊をひきいて後らにむかつて出陣した.
開くもいたましきことには,彼の父,誠実にして大いなるヤロスラフはおのがし、とし
子 ア レ グ サ ン ド ル ・ ヤ ロ ス ラ ヴ ィ チ 1坊 に ふ り か か っ た か か る 事 変 を 知 ら ず , ア レ ク サ ン
ドルもキーエフなる ρ 父 に 知 ら せ を お く る い と ま が な か っ た . す で に 敵 軍 が せ ま り , ま
た大侯が出陣をいそいだために,
るJ
.
lの
多くのノヴゴロド人があつまらなかった
Uこ め で あ
そ し て 伎 は 臼 躍 k)に 敵 と 遭 遇 し た 2の そ れ は カ ノ レ ケ ド ン で お こ な わ れ た 宗 教 会 議 D の
1
4
) 日立:心のなかで考えた
1
5
) H口瓦:侯たちと司教たちムルマ γ ,スム,エムを連れ,多くの・・
1
6
) H訂 λ: ラドガ,ノヴゴロドおよびすべてのノヴゴロドの地域を取らんとして
1
7
) n
瓦:r
……われらは立ち上がりたり .
J;Ep:r
……われらは立ち上がり,いままっすぐに立つJ
1
8
) Tr:……大侯
1
9
) n
J
Iハ 60 ヲ保存
2む) n瓦ニコノ節ナシ.代リニ 7月 1
5Sに.
g) ラドガ湖からバルト準にそそぐ河. この河畔での勝利がアレグサンドルにネフスキィの名をあ
たえた.
h) 詩第か. 35:1
・
2参照. Frは 7
9
,35:1-2;43:1を指摘
i) Frによると詩篇 20:8
9
j) ヤロスラフは実際にはこのときヴラヂーミルにいたとする説あり C
f.
l
l
)
.
k) 1
2
4
0年 7月 汚 呂
1) 第四国宗教会議(4
5
1年)
8
8
「ノレーシの地の滅亡の物語j について
630人の教父の命日であり,
聖キワロスとユヲタ凶の,
またノレーシの地に洗礼をさずげ
たヴラヂーミノレ聖震の合日であった.
侯は聖なる受難者ボリースとグレープを深く{言{却していた.
イジョラの地ロ〉の頭目で,
名をベクソレシ 21)0) という者注入、た.早朝の己2)海 の 見 張 ワ が
この者にゆだねられていた度;主とおとき涜干しを受け,なお異教を詰ずるおのが民族の
なかに注んでいた. とおとき洗干しのさいフィリップという名が彼にあたえられた.そし
て 神 の 教 え に Lた が っ て 生 活 し , 水 曜 と 金 曜 に ユ 断 食 を お こ な っ て い た . そ こ で 神 は お
そ ろ Lき ま ぼ ろ し を 目 に す る こ と を 筏 に ゆ る さ れ た
23)
手みじかに語ろう
24)
彼 は ア レ ク サ ン ド ル ・ ヤ ロ ス ラ ヴ ィ チ 侯 に む か つ て す す ん で い く 軍 勢 を み た . ヴァリ
ャークの兵力とその陣立てを畏につたえるため
がら目ざめていた.太揚がのぷりはじめたとき,
25)
その進路を晃張りつつ,設は夜もす
t
支は海の上に大きな物音を聞いた.見
曹
三f
すすみ,舟の中央には真紅の衣をまとったポリースとグ
ると海の上をーそうの舟がi
レープが立ち,
たがし、の肩に手をかけていた.濯ぎ、手たちはあたかも狭霧を着ているか
のように坐っていた.ボリースがク、、レープにいった.
曹がしめよ,
「弟グレープよの i
われらの車つづきのアレクサンドル・ヤロスラヴィ
チ大戻を前l
すんために .
J
ベノレグシはかかるまぼろしを見,
ふたりの聖なる受難者のかかる声を聞いて,身をお
ののかせつつ立っていた.やがて舟立見えなくなった.
そしてまもなくアレクサンドル・ヤロスラヅィチが到着した.ベノレグシは喜んで伎を
むかえ,大侯のみにま;ぎるしのことを語った.すると侯はいった.
「だれにもそれを語るな .
J
侯は昼の第六時に散を急襲した. ローマ人とのあいだに大いなる載がおこった. f
実は
無数の敵をたおし,
おの jLのするどい憶で王自身の頭、にきずをあたえた.
〆
27)このときアレクサン下ルの軍勢のなかに,六人のつよい勇士があらわれ,侯ととも
には庁しく勇敢に戦った.
主アレクシチなる力、、ヴリーロ茂支 :
主
1オ七、舟をおそ い
L
、
,
第 一l
子
子
乙
泌
的
8
紛 〉を見ると,敵がの迂って舟に入った板の
I
~l
tを 馬 で 乗 り 入 J
l, 王 自 身 2U) にせ主った.
敵;工彼のまえから逃げ散った. し か し ふ た た び と っ て 返 す と , 援 を 号 も ろ と も 板 の 上 が
ら毎のなかに突きおとした史;主神のご Ú~l 護によって高から無傷で i 主い上がり,またし
2
1
) SP,ner
J
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cH;Hnλ ,neJlrycHl
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江λ,f
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,
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, EerJ
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2
2
) HOλ ,Tr ニナシ;口 J
I
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2
3
) 口λ,Tr: この日に
2
4
) ぇ:彼らの力を手みじかに語るう
:
z
.
J
)
r
2
5
) 0江:毎辺に立ちて,その……
2
6
) HnJ1:速く
2
7
) OJI ニハ以下,一・ーすべて心しか i
;
:むがそこにあったのである
マデ説#
2
8
) Ep: ……王
2
ヲ
) Ep:)
なまで (
F
rモ)
m) C
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r
i
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o
sと J
u
l
i
t
t
a
. 生註記 3聖人
n) ネグァ i
可の}主流域
0) SP によるとフィン志の姓 Pe
1konen あるし、は PelkoInen むなまり
8
9
中村喜和
ても馬に乗って,敵軍のさなかで招手の司令官とは{ずしく戦った
30)
つぎはズプィスラフ・ヤクノヴィチなるノヴゴロド人.後は幾たびも散をおそい,心
にすこしも恐れをいだかず,斧ひとつで、戦った.伎の斧のために幾人もがたおれた.ア
レグサンド〉レ・ヤロスラヴィチ侯 31)は筏の力とその勇敢さに驚嘆した.
第三はボーロツグ人で、侯の狩番たりしヤコフ.伎は万をふるって敵軍に攻め入り,い
さましく戦った.侯は伎をたたえた.
第四はミーシャ 32)なるノヴゴロド.人.設はおのれの窺兵隊とかちですすみ,
ローマ人
の船を三隻沈めた.
第五は侯の小姓のひとワサヴァ.彼は黄金の頂きもつ敵王の大天幕をおそい天幕の柱
を切りたおした. アレクサンドノレ・ヤロスラヴィチ大俣の軍勢は天幕のたおれるのを見
て大いに喜んだ.
第六は侯の従僕のひとりラトミーノレ.復はかちであったが 33)大ぜいの敵にかこまれ,
多くの蕩を受けてたおれ,息絶えた.
われはすべてこれらのことを,わが主アレグサンドル・ヤロスラヴィチ侯およびこの
ときこの戦に加わった也の者たちから開いたのである.
このときおどろくべき奇襲がおこった,かつてエゼキエ/レ王のさい,アッシリア王セ
ナケザブが聖なる都を征振せんとしてエノレサレムに押し寄せたとき,突然、主の御使いが
あらわれ,
8万 6千 人 34) を打ちたおした.彼らは車互になって
アッシリアの軍勢のうち 1
立ち上がり,多くのしかばねを見たのである. アレグサンドノレ・ヤロスラヴィチ侯がイ
ジョラ河 p) のむこう岸で王を打ちゃぶって勝手IJをおさめたときも同様であった. そ こ を
アレクサンドルの軍勢は通過することができなかった.神の普天捷のためにたおされた
すべてのしかばねがそこにあったので、ある.残った者どもは逃げ去った. しかばねは船
になげこまれ海に沈められた
35)
36)アレクサンド、ノレ・ヤロスラヴィチ侯は勝利とともに帰還した.持を讃美し,おのが
造り主,父と子と聖霊をいまより未来永劫とこしえにたたえつつ,
アーメン.
ア レ ク サ ン ド ル ・ ヤ ロ ス ラ ヴ ィ チ 侯 の 艶 旋 後 第 二 年 目 に 37)西 の 冨 か ら 散 が や っ て き
て,アレクサンド、ノレの国に町をきずいた. アレクサ γ ドル・ヤロスラヴィチ大侯辻たち
まち後らをおそ L、,その町を攻めほろぼし,ある者は殺し,ある者はおのれとともに連
れ帰仇
またある者はあわれんで放してやった.伎はこの上なく清けぶかかったからで
ある.
3
0
) HnJI:彼らの司令官スピリドン江ここで殺された.彼らの主教もおなじ場所で、殺された.
31
) Tr ニナシ
3
2
) Tr:Mも盟8
3
3
) HnJI,Tr:伎はかちで戦い
3
4
) HnJI: 1
0
0I
I8
0II 5000 (
18万 5千人.いざや書 37:3
6
)
3
5
) H丹江:以下位の者のためには穴を握り,そのなかに数知れず投げこんだ. ほかにくさった者
も多かった,ノヴゴロド人もまたここで、たおれた……〔以下戦死シタのうごろど人ノ名ヲ列挙〉
3
6
) Hn
瓦ニハ以下……勝科をおさめてから第三年吾の冬 マデナシ
3
7
) 口瓦:……ふたたび…
υ
p) ネグア再のー支流
9
0
."._--
,
'
.
車
f
'
レーシの地の滅亡の物語」について
アレグサンドルが王をやぶって務利をおさめてから第三年目の冬,紛伎は大軍をひき
いてネメェツの地を攻めた. これは装らが「スラヴの地をはずかしめよう
J32〉
といっ
て,たかぶらぬようにするためで、あった.
敵はすでにプスコフの町を取り
q)
そこに代官が置かれていたので、ある
ド、ノレ・ヤロスラヴィチ大畏辻その代官たちをとらえ
40
40) ア レ グ サ
プスコアのI
B
Jを解放し,
γ
敵の地
を 征 寂 し て 境 き は ら い , 無 数 の 捕 賓 を と ら え , あ る 者 は 切 り 殺 し た . 位 の 者 42)は 町 に あ
つまっていった.
「アレグサンドル・ヤロスラヴィチ侯を打ちまかし,生けどりにしよう
.
J
敵軍が近づいたとき,アレグサンドノレ・ヤロスヲヴィチ大侯の見張りはこれを知っ
た. ア レ ク サ γ ド ル 侯 は 兵 を あ つ め , 敵 に た い し て 出 撃 し た . 伎 ら は チ ュ ー ド 瀕 に つ い
た.両軍の数は多数であった.筏の父ヤロスラフは伎を助げるため,弟のアンドレイ侯
を多くの親兵とともに送った.かくてアレクサンドル俣のもとには,いにしえのダピデ
王のもとと同様に多くの勇敢な戦士たちがし、た. ア レ グ サ γ ドノレの戦士たちはまた不屈
で
,
勇敢であった.彼らは関志にみちあふれていた.後らの心は藤子の心のようであっ
た.彼らはいった.
fわ れ が し た う 43)栄 為 る 侯 よ . い ま こ そ 汝 の た め に わ れ ら の こ う べ を 横 た え る べ き と
きがきた.J
アレグサンドル・ヤロスラヴィチ侯はもろ手を天にさしのベて,いった.
「主よ,わが争いをさばきたまえ.高言してはばからぬ民よりわれをすくいたまえ.
主よ,われを助けたまえ.かつてアマレキトにたいしてモーゼを助け,呪われたスヴャ
トポ/レグを攻めたわが曾祖父ヤロスラフのを助けたごとく
.
J
それは土曜日。であった.太陽ののぼるころ,再軍が衝突した.はげしい戦がおこり,
槍のふれ合うひびき,
くだける吾,切りむすぶ剣のひびきは凍った湖をゆるがすばかり
であった.そして氷は晃えず,一面血でおおわれた.われ法これを巨撃者から開いたの
である.彼はいった.
「われらはアレグサンドル・ヤロスラヴィチを劫けるために神の軍勢が宙天にあらわ
れるのを見た.しかして設は神の助げをもって, ω 敵 を ゃ ぶ り , 伎 ら は き び す を 返 し
た.味方ば富を行くごとく追いかけて教を切りころした
45)
敢には逃げるべきところが
なかった. こ こ で 神 は 全 軍 の ま え で ア レ グ サ ン ド ル ・ ヤ ロ ス ラ ヴ ィ チ 大 畏 の 名 を 高 か ら
3
8
) Hn江デハ以下……ローマにいたるまで 67
均年ノ項
3
9
) SP Y
pOKOMb…… ceoe意味不明.コノ訳ハ F,
瓦 Epニヨル
4
0
) SP,(o
説I
I
I
a
J ヲ挿入
41
) 口五:神を知らぬネメエツ入から…
4
2
) 日瓦:心おごれる者たち
4
3
) 口瓦ニナシ
4
4
) Hn瓦:聖ソブイヤと,かつて患を流した聖なる受難者ボリースとグレープの劫げをもって
4
5
) Hn瓦デハココニ戦闘ノ;場所,タオレタどいつ人ノ数が入ル
q) プスコフはドイツ騎士自によって 1
2
4
0年あるいは 1
2
4
1年に占領された.
r) ヤロスラフ賢 i
実(10
19・1
0
5
4
)
. 彼はみずからの弟ボリースとグレープをころした兄スヴャトポ
ノレクをたおして侯位についた〈福岡星史民ポリースとグレープの物語「スラヴ研究 J3
,1
0
1
1
2
4参照)
‘
s) 1
2
4
2年 4月ラ日
9
1
中村喜和
しめたもうたのである.あたかもエリホンにおいでヨシュアの名を高からしめたごと
く.
r
アレクサ λ ドノレ・ヤロスラヴイチ大設を生けどりにしよう』
といった者どもを,
神 は 彼 の 手 に あ た え た も う た の で あ る .J46)
忌かして戦において彼に刃舟うものはひとりもなかった.
アレクサンドノレ・ヤロ九ラヴィチ侯は大いなる栄光とともに凱旋した.読の軍勢のな
か に は き わ め て 多 く の 捕 虜 が L、 た . 馬 の わ き に は 騎 士 と 呼 ば れ る 者 た ち が ひ か れ て き
T
こ.
アレクサンドノレ・ヤロ九ラグィチ長がプスコアの可に近づくと,祭最をつけた諺道{曽
と僧話たち,
および多くの人びとが神をたたえ,主君アレクサンドル大侯に誌め歌をさ
さげつつ,十字架をもって町のまえに出むかえた.
「主よ,汝は柔和なるダピデが異邦人を打ちまかすのを場けたもうたが,こんどはわ
れらの正しきアレクサンドル誌が十字架の武器もて異邦人を打ちゃぶり,
アレクサンド
ルの手もてプスコフの町を解放するのを助けたもうた.
J
〔そしてアレクサンドル・ヤロ只ラヴィチ侯はいった.)47)
「おお,おろかなるプスコプ人よ.汝らがもしアレクサンドルの子孫にいたるまで,
径を紛忘れることがあるならば,かつてエジプトの浮図からみずからを解き放したもう
た神と,すべてのことを忘れ,荒野においてマンナと焼きうずらで凱えをしのいだユダ
ヤ 人4ののごとくなるであろう.J
すべての昌々にアレクサンドノレ・ヤロスラヴィチ大侯の名がひびきはじめた一一ベー
シの海 5のまで..アラピヤの山々まで,
ヴァリャーグの仁海の〕国まで
50
そしてローマ
にいたるまで.
52)こむころりトヴァむ民がふえた.そしてアレクサンドノレの領土で人びとをおそって
殺し
53) 悪 事 を は た ら き は じ め た . そ こ で 伎 は あ る と き 出 撃 し , 敵 の 七 部 隊 を 打 ち ゃ ぶ
り,多くの侯や号令官を殺した.島る者は生けどりにし,彼をののしった者たちを馬の
尾にゆわえつけた
54)
人びとは殺の名をおそれはじめた.
このころ,東の国にさるつよい王があらわれた.そして梓は彼に東から西にいたる多
くの国々をしたがえさせた
55)
王はアレクサンドル・ヤロスラヴィチ侯の勇敢さと名声
を聞いて,彼に使者をおくって,いった.
「アレクサンドノレよ.汝は神が予に多くの国々を服従せしめたことを知らぬか.汝だ
け が 予 の 力 に し た が う こ と を の ぞ ま ぬ の か . もしおのれの地を取られたくないならば,
4
6
) f,
l
) Epハコノ引用ヲ子…ーあらわれるむを見た Jマデニト下メノレ
4
7
) H
n
J
I,r
,
.
l
) Epニナシ.以下ハ作者ノ呼ピ掛ケ;日立:そしてアレクサンドル泣言った
4
8
) r
ぇ:アレクサンドノレ侯とノヴゴロドの戦士たちを
4
9
) Hn
瓦
, nJ
1
, f)l.:主がやしないたもうたユダヤ人
5
0
) 口刀:ホヌージ;r
,江:エジプトの海;Ep:ポント海
5
1
) r
為 E
p: ヴアリーグの海の両岸から
5
2
) Hn
J1ニハ以下……多くの国々をしたがえさせた マデナシ
5
3
) r
,
l
) Epデハコノ句ツギノ館エツク〈アレクサンドノレは〉出撃して彼らをころしはじめた
5
4
) n
J
1
, r
,
.
l
) Ep:被の従者たちはののしりつつ,後らを馬の尾にゆわえつけた.
5
5
) Hn
J1デハ以下……彼を退出せしめた マデ 6
7
5
4年ノ項
92
f
/
レーシの地の滅亡の物語j について
た だ ち に 予 の も と に 来 た れ , 汝 は 予 の 王 直 の 栄 光 を 見 る で あ ろ う .J
アレクサンドノレ・ヤロスラヴィチ民法,
父の死後t)大軍をひきいてヴラヂーミノレに
お も む い た . 彼 の 到 着 は お そ ろ し い も の で あ っ た . この知らせはヴォノレガの河口に達し
た . そ し て モ ア ビ ト 心 の 立 ー た ち は 「 ア レ ク サ ン ド ル ・ ヤ ロ ス ラ ヴ ィ チ 侯 が く る J といっ
て子供をおどかしはじめた.
ア レ ケ サ ン ド ノ レ ・ ヤ ロ ス ラ ヴ ィ チ 大 侯 は , 相 談 の す え 56)一一そして主教キリーノレの祝
福をうけてから一一王のもとに行った.けパツ王は伎を見ておどろき,
こち
お の が 貴 族f
I
こL、
っf
ニ
.
1予 の 毘 い た こ と は 真 実 で あ っ た , 伎 の 国 に は 彼 の ご と き 畏 ;
μ
、ない .
J
そ し て , 大 い な る 名 誉 5τ3 と と も に 設 を 選 出 せ し め た .
そ の の ち 5分 パ ツ 王 ( 主 筏 の 弟 ア ン ド レ イ に た い し て 立 腹
L, 伎 に た L、しておのれの司令
官ネウ、ゾレィを送った.伎はスーズ夕、りの地を荒した.ネヴルィがとらえられてのち,ア
レグサンドノレ・ヤロスラヴィチ大誌は教会を建て,
a
rをみたし,
J
1
主l
子散った人びとをそ
の家々に連れ戻した.
かかる苔について予言者イザャ;心、った.
f国 々 の よ き 俣 と は , 静 か で も
53)
愛想、よく,おだやかで,つつましく,神の姿に似た
るものにて,富を追わず,正しき者のJI[J.を軽んぜず
ってさばき,
情(
tふカミく,
6の
みなし子と寡婦を真実にしたが
お の れ の 下 僕i
こも能人の下畏i
こも親切で,
る者をこころよくもてなす者なり
61)神は天使を愛し,
(異〕国カミらきた
人間i
二f
ニL、してめぐみをたれ,
6
わけ
全世界にその活;十を示したもうゆえなり.J
かくて神は彼の地を富と栄光もてひろげられ,夜によわし、をめぐまれた
あるとき大ローマの教皇豆〉からの技者がきて,
いった.
「 教 皇 は つ ぎ の よ う に L、った-
63)
アレグサンドノレ・ヤロスラヴィチ侯に
u
われらは汝が心正しきすぐれた俣であり,
汝の地が
5
6
) 日口瓦:大いなる智恵をもって考え, ただちに主教キリールのもとにおもむき, おのれの言葉を
父よ,予は汗国の壬のもとにおもむかんとす .j;EP:親兵球と担設して
述べた. I
ラ7
) H n瓦:大いなる愛とともに
5
8
) H口瓦デハ以下 2f
問所ノ脱落ヲノゾキ最詮マデ 6
7ラ9年ノ項
5
9
) r
,
.
l
) TeX'b
6
0
) r
)l.:正しき者の血を見ず;Ep ニナシ
61
) 口五:かかる者を持は守りたもう.持は天使を…・
6
2
) r
A
:……真実にしたがってさばき, おのが下僕にも, 異菌より来たれる者にも親切で, みなし
子をやしない,神に祈り,天疫を愛し, 〈天使を愛さずー-sP. 訳ハ Fぇニヨノレ〕入にはめぐみをた
れ,全世界におのが'情けを示す Ep ニ 情けふかく 以下ナシ
6
3
) r
,
.
l
) Epデハココマデ聖書ヨリノ引用
t) ヤロスラフは 1
2
4
6年 9月 3
0Bに蒙古宮廷の舟紛 t
こからんで毒殺された.
u) SP によるとヴラヂーミノレ・スーズダリ侯国の近くに住んでいたフィン系窪族 Epは 1
8約聖書
にあらわれる謹技ととり,ここでi主蒙吉人を意味すると考える.
v) 1
2ラ2年のこと.このとき彼はヴラヂーミル・スーズダリの侯領を安靖され, 大侯の称号ーをみと
められた.実際にはこれ以前にも護度か筏辻汗の宮廷に伺侯じている.
w) イザヤ書か. 1:1
7と 3
2
. エレミヤ書 23:5参照.
x) インノケンチウス買が 1
2
5
2年におくった使者. 1
2
4
2年以来教皇はアレクサンドルにカトリッ
グ改宗をすすめ,蒙吉にたし、する軍事的再盟を提案してしばしば{吏者を派遣した.
9
3
中村喜和
栄 え て お り 大 い な る こ と を 開 い た . こ の ゆ え に 予 は 12人の区機郷のうち,
最もかしこ
きふたり 64)を汝のもとに送った.汝は彼らの教えを開くであろう..llと J
アレクサンドノレ・ヤロスラヴィチ大侯はおのれの賢者たちと相談したのち,
後らにむ
かつて叫んでいった.
「ア夕、、ムから大洪水,
もろもろの民の離散,アブラハムの初めにいたるまで,アプラ
ハムからイスラエル人のチェノレム語通過まで,
イスラエノレの子らのエジプト出国からダ
ピデ王の死まで,
ソロモンの治世の初めからアウグストゥス,キヲストの誕生,受難と
よみがえりまで,
よみがえりと昇天からコンスタンチヌスの治世まで,第一回の宗教会
議 か ら 第 七 回 ま でω 一 一 予 は こ れ ら す べ て を よ く 知 っ て い る .
J
そしていった
66)
「われらは汝らから教えを受けぬ.
J
彼らはおのが国に帰った.
67)アレクサンドノレ・ヤロスラヴィチ大侯のよわいが 68) ま し た
6の 彼 辻 聖 職 者 と 修 道 僧
を愛し,造り主自身をあがめるように,府主教と主教らをあがめた.
そのころ異教徒のために大いなる災いがあった一一一彼らは人びとにおのれらとともに
戦に出かけることを命じたので、ある
y)
アレクサンドノレ・ヤロスラグィチ大震は人びと
をこの不幸からすくうことを乞わんため,
王のもとにおもむいた.そして弟ヤロスラフ
と患子ドミトリィをノヴゴロド人とともに西の国々におくり,おのが軍勢?のをもすべて
彼 ら と と も に 出 発 さ せ た . ヤ ロ ス ラ フ は お の れ の 息 子 た ち z} と と も に 71)大軍をひきいて
出 陣 し , ネ メ エ ツ の 町 ユ ー リ ェ フ aa)を と り , 多 く の 捕 虜 を と も な い , 大 い な る 名 誉 72)と
ともに帰還した. ア レ ク サ ン ド ノ レ ・ ヤ ロ ス ラ ヴ ィ チ 大 畏 辻 異 邦 人 の も と か ら ニ ー ジ ニ イ
・ ノ ヴ ゴ ロ ド に 到 着 L, 数 日 の あ い だ そ こ に つ つ が な く と ど ま っ た . し か し ノ グ ゴ ロ ド
に到着するとわずらいはじめた.
73)
おお悲しきかな,汝,あわれなる者よ.汝はいかにしておのが主君の最期を書くこと
ができょう.いかにして汝のまなこは涙とともに閉じずにいられよう.その絢はにがき
6
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) H口瓦:……ふたり. faJI.
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瓦
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5
) 瓦:コンスタンチヌスの治世の初めから第一および第七宗教会議まで
6
6
) f.llニナシ
6
7
) H口瓦ニ以下……わずらいはじめた マデナシ
6
8
) 訂江:大いなる栄光のうちに・
6
9
) Ep:.
神はアレクサンドル・ヤロスラヴィチ侯の百々を祝福したもうた
7
0
) 日瓦:……そして f
予告身につかえるごとく,全力をつくして予の忌子らにつよえよ」と言って,
おのれの従僕たちを
71
) 口瓦:ドミトリィ侯は
72) 口五:大いなる戦利品
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I,fぇ:ゴロデーツ;Ep: ゴロドク
7
3
) n
y) ロシヤの諸侯は当時キプチャク汗匿に一定数の軍滋を提洪する義務を負わされていた. 1
2
6
2年
アレクサンドノレはこの制震の廃止を要請するため汗のもとにおもむいた.
z) 実際は甥たち.古代ロシヤ特有の呼び方.
a
a
) ヤロスラフ賢侯によって建設されたエストニヤの町デ‘ノレプト. 実さいにはヤロスラフとドミト
リイの連合軍はこの町を占領できなかった.
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9
4
E
司
わレーシの地の滅亡の物語」について
悲しみのゆえに,
いかなればはりさげずにいら,hょ う . ひ と は 父 親 を 忘 れ る こ と は で き
る. し か し よ き 主 君 を 忘 れ る こ と は で き ぬ . あ た か も 主 君 と と も に 生 き な が ら 桔 に 入 っ
たごとく.
74)
アレクサンドノレ・ヤロスラヴィチ大侯はひたすらにおのが主なる神をあこがれ,地
上の王国を去り,
天の王国をのぞみつつ,
参道{曽の天夜の聖橡を受;子た
な お 神i
主伎
bb)
がより大レなる{立,スヒーマ cc) を受;テることをゆるしたもうた.かくて伎はやすらかに
お の が 魂 を 主 に φf
ごねた.設は聖{吏徒ピリポの命日 1
1月 14日にこの世を去った.
府主教キリール法人びとにいった.
「わが子らよ,
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こころせよ一一ーすで乙スーズダ、りの地の太陽は沈んだのだ .
修道院長. f
曽i
呂,補祭,務道 i
曽
,
そしてゆたかなる者もまずしき者も多くの人びとが
すべて大声をあげて泣いた.
「もはやわれらはほろびるであろう .
J
彼の聖なるむくろはヴラヂーミノレに運;まれた.すべての聖職者をしたがえた府主教,
諸侯,貴族およびすべての人びと法,老いも若きも,ろうそくと香のうをもってボゴり
ューポフまで出むかえた.多くの人びとが彼のとおとき棺に近づくことをのぞんでひし
めき合った. き わ め て 大 い な る 泣 き 声 が お こ り , 多 く の 嘆 き の ヰ び が あ が っ た . そ れ 誌
いまだかつてなかったほどで,
大地もふるえんゴかりであった.
こ の と き 記i
意にあたし、すべきおどろくべき奇墳がおこった.彼のむくるにたいする聖
なる法要がおわったとき,府主教キリーんがお〉畏の手をひろ;子教会の書状を量かんとし
て近づいた.すると侯はあた会ミも生げるもののごとく両手をひろげ,府主教からこの書
状を受けとったのすべての者の上にいとも大いなる恐怖がおそった.
1月三 3r
lに
,
そ し て 彼 の 聖 な る む く ろ は 聖 ア ン プ イ ロ テ ウ ス 主 教 dd)の 命 日 に あ た る 1
聖 歌 , 讃 美 歌 と と も に 聖 母 生 誕 教 会 に 三 お む ら れ た . 父 と 子 と 聖 霊 り 三 位 一 砕 を L、まよ
り未来永劫とこしえにたたえつつ,
アーメン
7
4
) Hn刀ニ以下:…この世を去った マデナシ
7
5
) HnJI,n江:このとき記1
意にあたし、するおどろくべき奇蹟……以下ココマデ, ツギノ埋葬ノ記事
ノアトニ入レラレ,ソノアトサラニツギノヨウニツヅク このことは府主教キリールと彼の執事セヴア
スチアンによってすべての者 t
こったえられた.兄弟よ,これを開き,魂なきむくろでありながら,冬の
時期にはるかな国から運ばれたこの侯についておどろかぬ者があろうか.神は,おのれの生命を捨てて
ノヴゴロドのため,プスコブのため,それに全ルーシの地のために多くをつくしたおのが聖者を,かく
もよみされたのである.コノウチ おのれの生命をすてて…-一多くをつくした ハ日瓦ニカケテイル
bb) 死の宣言iI修道{曽になるのは古代ノレーシの侯たちのならわしであった.
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) 修道 f
曽のうち或律の最もきびしい位.
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s主教にして殉教者. Trは A
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むとする .
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