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松山宿のおこりと発展 歴史・郷土学部A班(PDF:3.4MB)
13 期歴史・郷土学部A班 リーダー 田川 サブリーダー 木﨑 会計 小林 会計 大野 記録 小嶋 パワーポイント 田宮 編集・校正 江守 編集・校正 浜田 編集・校正 田中 編集・校正 住吉 目次 1 . ・・・・・・・は じ め に 3 . ・・・・・・・活 動 経 過 5 . 松 山 宿 の あ ゆ み ・・・・( 1) ∼ ( 11) 2 . ・・・・・・・活 動 計 画 4 . ・・・・・・・松 山 宿 年 表 【 松山 宿こぼれ話】 ( 1)・・・町 人 さ ば き の 松 山 ( 2)・・・上 沼・下 沼 の 伝 説 (3)… 松 山 宿 の 伝 説 【 松 山 歴 史 ・散 歩 】 ( 1) … 松 山 城 の 覇 権 と 十 界 曼 荼 羅 ( 2) … 松 山 城 攻 防 ( 3) … 松 山 宿 の 発 展 ( 4) … 箭 弓 稲 荷 神 社 夫 婦 狐 6.おわりに 1. はじめ に 私 達 、 歴 史 ・ 郷 土 学 部 A グ ル ー プ の 10 人 は 、 全 員 が こ の 地 、 東 松 山 市 の 出 身 で は あ り ま せ ん 。し か し 全 員 が 東 松 山 市 に 住 み 始 め て か ら 、数 十 年 に な り 、地 元 は ? と 聞 か れ る と 、迷 う こ と な く「 東 松 山 で す 」と 答 え ま す 。私 達 にとっての郷土は「東松山」なのです。 こ の メ ン バ ー 10 人 が 、課 題 研 究 の テ ー マ 決 め と グ ル ー プ 編 成 を す る 時 に 、 「松山宿」のテーマのもとに集まったのです。 「 松 山 宿 」に つ い て は 、き ら め き 大 学 1 年 の と き に 、東 松 山 市 観 光 ガ イ ド の西村さんから講義をうけて、 「宿場町」 「 市 の ま ち 」と い う 知 識 を 得 て い ま した。 研 究 を ス タ ー ト す る に あ た り 、メ ン バ ー で 話 し 合 い を し た 結 果 、 「松山宿」 はどのように発生して、どのように発展してきたのかを、更に詳しく知り、 そこで得たことを、東松山市の活性化に生かせないか、ということでした。 東 松 山 市 と い え ば 、箭 弓 神 社 、ヤ キ ト リ 、百 穴 、ス リ ― デ イ マ ー チ く ら い し か 思 い 浮 か び ま せ ん 。い ろ い ろ 考 え て も 、 「 歴 史 の ま ち 」と い う イ メ ー ジ は 浮かんできません。 武 蔵 の く に の「 松 山 」は 、江 戸 や 小 江 戸 の 川 越 に 匹 敵 す る 歴 史 が あ り ま す 。 課 題 研 究 で 、そ れ ら を 詳 し く 紹 介 し て 、 「 歴 史 の ま ち 、東 松 山 」を セ ー ル ス ポ イントにしたいと思います。 2 . 活動 計 画 ☆ テーマの選定:2月∼3月上旬 ☆ 講師:西村講師へ依頼「講義=3回・講義日=「3月∼4月」 ☆ 資料収集:学校(きらめき)・図書館・本町住民から「4月∼7月」 ☆ 現地調査:本町通り・松山城跡・上沼公園・八雲神社「4月」 ☆ 編集:A班全員「8月∼9月」 ☆ 校正:A班全員「10月∼11月」 ☆ 発表準備:パワーポイント作成(11月∼2月) ☆ 課題研究発表:平成28年2月14日 3. 活動経 過 2015 年 活動場所 1.28 大学 テーマ名 『松 山 宿 』とする。リーダー他 、役 割 ・分 担 決 定 。 2.4 大学 連 絡 名 簿 作 成 。役 割 ・分 担 追 加 。 2.18 シダックス 3.5 3.11 3.18 松山宿 活 動 センター 大学 松山城址 ACカフェ 大学 主 な 活 動 内 容 キックオフミーティング開 催 。テーマ名 『松 山 宿 の起 こり』で登 録 。 西 村 講 師 から松 山 宿 界 隈 (現 本 町 通 り)を実 地 検 分 するようアドバイ ス 受 ける。先 ずは役 割 もスムースに決 まり、楽 しくスタートしました。 松 山 宿 を西 村 講 師 の説 明 を聞 きながら辿 る。松 山 宿 の地 図 を入 手 。進 め方 について討 議 。西 村 講 師 の話 しに傾 聴 、自 分 たちの住 む町 の歴 史 に接 し、メンバー皆 やる気 が出 てきました。 西 村 講 師 から松 山 城 址 に関 する講 義 を受 ける。その後 松 山 城 址 を詳 細 に見 学 。殆 どのメンバーが初 めて知 る松 山 城 址 の歴 史 に感 動 。 松 山 宿 在 の糀 屋 旅 館 の子 孫 である新 井 治 男 氏 にインタビューし、伝 聞 や記 憶 を語 って頂 く。報 告 書 作 成 のタタキ台 として年 表 作 成 を開 始 。 3.30 大学 文 献 調 査 に 基 づき作 成 し た松 山 宿 年 表 内 容 について討 議 し 、更 に 深 堀 することを決 める。 4.1 ACカフェ 本 町 通 りに長 年 お住 いで、武 州 山 王 焼 きを復 活 された陶 芸 家 ・横 田 隆 史 氏 にインタビューし、伝 聞 や記 憶 を語 って頂 く。 4.8 大学 作 成 した松 山 宿 年 表 の古 い時 代 順 に東 松 山 史 資 料 編 に掲 載 の該 当 資 料 と突 合 せ、資 料 の理 解 を試 みる。地 味 な資 料 調 査 に励 む。 4.15 大学 先 週 に引 き続 き該 当 資 料 の調 査 と理 解 。 5.17 大学 松 山 宿 年 表 の解 説 記 事 を読 み合 せ且 つ理 解 を深 める。テーマ『松 山 宿 の起 こり』の起 点 を決 め、解 説 記 事 の簡 易 文 章 化 を年 代 別 に全 員 に割 り振 る。いよいよ報 告 書 の作 成 に取 り掛 かりました。 6.10 大学 課 題 研 究 報 告 書 の構 成 について大 筋 を決 める。報 告 書 に掲 載 可 能 な 関 連 イラストや写 真 の調 査 の必 要 性 を確 認 。 6.17 大学 図書館 2 か所 に分 かれ、年 表 の記 事 に関 連 する文 献 ・資 料 やイラスト・写 真 など の調 査 とスキャナーでの取 り込 み作 業 。 7.1 大学 松 山 宿 年 表 にその時 代 の主 な出 来 事 を追 加 することを確 認 。 7.8 大学 テーマ名 を『松 山 宿 のおこりと発 展 』と決 定 。全 員 から提 出 された年 代 毎 の記 事 と挿 入 イラスト・写 真 を全 員 で確 認 。 8.20 大学 全 員 の 原 稿 が 掲 載 され た報 告 書 初 版 が 渡 され 、全 体 の 構 成 、 及 び 本 文 以 外 の表 紙 を含 めた前 段 ページの内 容 について検 討 し修 正 する。 ようやく報 告 書 が出 来 ました。活 動 の大 詰 に来 た感 じです。 9.2 大学 清 正 公 堂 内 の十 界 曼 荼 羅 を実 地 検 分 する。 10.14 大学 報 告 書 の校 正 及 び発 表 資 料 作 成 に関 する意 思 統 一 を図 る。 10.21 大学 発 表 資 料 の作 成 分 担 パートを決 め、作 成 に取 り掛 かる。 11.4 大学 全 員 で提 出 用 報 告 書 の最 終 確 認 をして、提 出 へ。 4.松 山 宿 年 表 松 山 の 地 名 が 初 め て 表 記 さ れ た の は 、西 暦 846 年 で し た 。以 後 松 山 城 を 中心とした松山宿に関する出来事を、松山市史(2巻)より抜粋して年 表にした。 年号 松 山 宿 に関 する出 来 事 承 和 12 年 846 武 蔵 押 領 使 、淳 和 天 皇 第 二 皇 子 、平 信 清 、横 見 郡 御 坂 郷 松 山 に館 を築 く、松 山 の地 名 の起 源 応永 6 年 1399 上 田 左 衛 門 太 夫 友 直 、秩 父 郡 御 堂 より移 りて 松 山 城 を築 く 応 永 16 年 1409 太 夫 公 及 び重 増 、比 企 郡 松 山 内 本 郷 、羽 柴 苗 字 一 円 の旦 食 を熊 野 那 智 山 実 報 院 に永 代 沽 却 する 応 永 23 年 1416 松 山 城 主 、上 田 上 野 介 討 死 (鎌 倉 大 草 紙 ) 永正 7 年 1510 松 山 の儀 につき将 軍 足 義 稙 より御 内 書 が下 る 永禄 2 年 1559 北 条 氏 家 臣 の知 行 吉 田 勘 解 由 五 貫 文 松 山 本 郷内 永禄 5 年 1562 北 条 氏 松 山 本 郷 の 町 人 衆 の た め に 、 掟 を 定 めて 【1561 年 】 川 中 島 の戦 い 4 度 松 山 本 郷 に北 条 軍 の陣 衆 の出 入 り禁 ずる 目 元亀 2 年 1571 北 条 氏 松 山 本 郷 町 人 に市 、宿 の掟 、六 ヶ条 を下 付 する 【1571 年 】 信長延 暦寺を焼 打ち 松 山 本 宿 から本 町 通 りへの宿 の移 転 【1573 年 】 室町幕府滅亡 天正 4 年頃 1576 歴 史 年 表 【 1397 年 】 足 利 義 満:北 山 に 金閣寺建てる 【 1467∼ 1477 年 】 応仁の乱 【 1495 年 】 北条早雲、 小田原城奪取 【 1554 年 】 北 条 氏 康 、古 河 城 を 落 と す 。古 河 公 方事実上滅亡 【1560 年 】 桶 狭 間 の戦 い 天正 6 年 1578 上 田 長 則 、松 山 本 郷 宿 中 に茂 呂 在 陣 衆 に対 し 【戦 国 時 代 】 て、兵 粮 、馬 飼 料 等 を売 渡 すことを禁 止 する 天正 9 年 1581 上 田 長 則 、松 山 本 郷 の代 官 と町 人 衆 に三 ヶ条 の 法 度 を定 め、松 山 領 外 の商 人 と領 内 の、郷 村 民 が 本 郷 の市 以 外 に於 いて売 買 を行 うことを禁 止 し 応 仁 の乱 (1467 年 ) から足 利 義 昭 追 放 (1573年 ) まで 売 手 の取 締 りを命 令 する 天 正 10 年 1582 上 田 長 則 、松 山 本 郷 の代 官 岡 部 越 中 に命 じて本 【1582 年 】 本 能 寺 の変 郷 宿 町 人 衆 に 松 山 領 から 、他 郷 の 市 へ の 商 品 の 荷 留 めの取 締 りを強 化 させる 天 正 12 年 1584 上 田 憲 定 、松 山 本 郷 町 人 の岩 崎 対 馬 守 、池 谷 肥 【1583 年 】 前 守 に、連 雀 商 人 衆 の棟 別 銭 を永 く免 除 すること 秀 吉 大 阪 城 築 城 を証 する 天 正 13 年 1585 松 山 本 郷 町 人 の岩 崎 対 馬 守 、池 谷 肥 前 守 、大 畠 備 後 守 に 新 市 場 創 設 の 功 を 賞 し て宿 々の 問 屋 を 抱 える権 利 を保 障 し、合 わせて本 宿 、新 宿 ともに 町 人 衆 に任 せることを認 める 天 正 14 年 1586 松 山 城 主 上 田 憲 定 松 山 本 郷 新 市 場 に、市 日 の 制 礼 五 ケ条 を定 め、町 人 さばきとする 天 正 18 年 1590 松 山 城 主 上 田 憲 定 小 田 原 陣 中 から 、松 山 本 宿 、 【1590 年 】 秀吉小田原城攻 新 宿 町 人 衆 に宿 中 の者 すべてに籠 城 をよびかけ、 め 戦 後 の引 きたてを約 す 天 正 18 年 1590 松山城開城 松 山 城 主 、松 平 家 広 【1598 年 】 秀吉死去 慶長 6 年 1601 松 山 城 廃 城 松 山 宿 は天 領 となる 【1600 年 】 関 ヶ原 の戦 い 寛 永 18 年 1641 松 山 宿 は嶋 田 弾 正 利 政 の知 行 となる 天文元年 1736 武 州 比 企 郡 本 郷 松 山 絵 図 が残 っている 文化 8 年 1811 文 化 10 年 文 化 13 年 1813∼1816 川 越 松 平 大 和 守 の知 行 となる 箭 弓 神 社 前 の旅 館 ・茶 屋 と松 山 町 との間 で紛 争 原 因 は客 の奪 い合 い 【1603 年 】 徳川家康征夷大 将 軍 、江 戸 幕 府 を 開く 【1615 年 】 大 阪 夏 の陣 、 豊臣氏滅亡 【1809 年 】 間 宮 林 蔵 、樺 太 を 探 検 し、島 と確 定 天保 7 年 1836 弘化 4 年 1847 米 の安 売 りを要 求 して「町 人 200 人 」が下 沼 堤 に 【1837 年 】 大 塩 平 八 郎 の乱 集 まる。主 謀 者 は逮 捕 される 糀 屋 喜 兵 衛 が髪 結 床 の株 を買 う 【1853 年 】 ペリー来 航 慶応 2 年 1866 6 月 15 日 ∼6 月 16 日 …武 州 一 揆 第 二 次 長 州 征 伐 の為 、米 の高 騰 により 18 軒 の商 店 打 ち壊 し 【1867 年 】 大 政 奉 還 を奉 上 松 山 陣 屋 発 足 川 越 藩 より 258 戸 の藩 士 が移 住 【1867 年 】 坂 本 竜 馬 ・中 岡 慎 太 郎 暗 殺 される 松 山 陣 屋 廃 止 松 山 人 口 =2600 余 人 【1868 年 】 江戸城無血開城 慶 応 3年 1867 明治 4 年 1871 明治 4 年 ∼ 明 治 9年 昭 和 29 年 1954 前 橋 藩 ⇒ 前 橋 県 (7 月 ) ⇒ 群 馬 県 (10 月 ) 入 間 県 (4 年 11 月 )⇒熊 谷 県 (6 年 6 月 )⇒埼 玉 県 (9 年 8 月 ) 松 山 の戸 数 =817 戸 松 山 の人 口 =3514 人 町 村 合 併 にて東 松 山 市 へ(松 山 町 ・大 岡 村 ・唐 子 村 ・高 坂 村 ・野 本 村) 5.【松山宿のあゆみ】 (1)永 禄 2 年 ∼ 元亀 2 年 永 禄 2 年 ( 1559) 北 条 氏 康 が 小 田 原 衆 所 領 役 帳 を 発 行 す る 。そ の 中 で 松 山 衆 の 知 行 役 高 を 定 め て い る 。 こ こ で 初 め て 、「 松 山 本 郷 」 の 地 名 が み ら れ る 。 松山を支配した、北条氏康の松山城中心地域は、城下東の「山の 根・村上・羽黒・村中」であった。 松山宿の本郷は「町人さばき」を与えられた町人地域であった。 山の根 村中 羽黒 村上 武蔵松山城想像図 松山城実測図(吉見町教委原図) 永 禄 5 年 ( 1562) 北条氏が松山本郷の町人衆のために、掟を定めて、松山本郷に北条軍 の陣衆の出入りを禁じた。 天 正 4 年 ( 1576) 松山城主の上田長則が松山本郷町人に「定」 「 掟 」を 与 え る 。竹 木 を 軍 需 物 資 と し て 村 外 へ の 持 ち 出 し を 禁 じ な が ら 、松 山 本 郷 の 町 に 商 品 と し て 出 荷 し 、万 民 の 所 用 に 立 て る こ と は認めた。宿の町人は非課税の特権を与えられた。 吉 見:山 の 根 足 軽 衆 に 宛 (2)天 正 4 年 ∼ 天正 9 年 てた上田長則印判状 元 亀 2 年 ( 1571) 北条氏が松山本郷町人に、市、宿の掟、6 カ条を下付する。 6 カ条の掟の骨子 ・市の日にやってくる商人の保護 ・濁酒屋で乱暴するものの取締り ・松山宿への陣夫以外の課役免除 天 正 6 年 (1578) 8 月 16 日 松山城主の上田長則は、松山本郷宿中に、茂呂在陣衆に対して、兵糧 馬飼料等を売り渡すことを禁じた。茂呂在陣衆とは、未詳だが北条氏 の軍陣と推測される。 天 正 9 年 (1581) 松山城主の上田長則は、松山本郷 の代官、岡部越中守と本郷町人衆 に 3 カ条の法度を定めた。 3 カ条の法度とは松山領内の郷村の者と他所の商人が、松山本郷の市 を経由せずに売買することを禁じた。この目的は、松山領内の商取引 を松山本郷の市に集中することによって、町の繁栄をはかり、商業流 通の統制を行おうとした。 (3) 天 正 10 年 ∼ 12 年 天 正 10 年 (1582)8 月 16 日 昨 年 (天 正 9 年 )の法 度 で、松 山 領 の者 が松 山 本 郷 の市 を経 由 しないで、他 郷 の市 へ商 品 を出 荷 することを禁 止 したが、違 法 行 為 はやまない。 そこで、松 山 城 主 上 田 長 則 は 、松 山 本 郷 の 代 官 岡 部 越 中 守 に 命 じて本 郷 宿 町 人 衆 に今 後 は商 品 と馬 を差 し押 さえるだけでなく、制 止 をきかない者 は 打 ち殺 してもかまわないと再 令 し、商 品 荷 留 めの取 締 りを強 化 させた。 天 正 12 年 ( 1584) 12 月 13 日 松 山 城 主 上 田 憲 定 は 、松 山 本 郷 町人衆の代表岩 崎 対馬 守 ・ 池 谷 肥 前 守 の 2人 に、 支配する 知行分に住む連雀商人 連雀商人 (行 商 人 )の棟 別 銭 を長 期 間 に亘 って免 除 することを保 証 した。 このことから、岩 崎 ・池 谷 の二 人 は、城 主 上 田 憲 定 から松 山 町 に知 行 地 を与 えられたことになる。そこに住 んでいた多 くの連 雀 商 人 (行 商 人 )を支 配 するの も「知 行 」の内 容 の一 であったものと思 われる。 (注 )知 行 … 領 主 が 行 使 し た 所 領 支 配 権 棟別銭…中世、家屋の棟数別に賦課された税。初めは寺社や朝廷の修 造のために臨時に課されたが、室町中期以後はしだいに定期的なもの になった。 (4)天 正 13 年 ∼ 天 正 14 年 天 正 13 年 ( 1585) 松山城主の上田氏は松山本郷の本宿が手狭に な っ た た め に 新 市 場 を お こ し 、そ の 働 き の あ っ 町人さばき 3 人衆 た松山本郷町人の岩崎対馬守・池ノ谷肥前守・ 大畠備後守に新市場創設の功を賞して宿々の問屋を抱える権利を保証、 併せて本宿・新宿ともに町民衆に任せることを認める。 以前から宿々問題及び本宿の支配を保証し、年貢五百疋の上納を認め た。本宿は元宿(今の東松山市松本町の一帯)をさす。 新宿 元宿 元宿と新宿絵図 天 正 14 年 ( 1586) 松山城主上田憲定は松山本郷の新市場のために、市日の制令五ヶ条を 定めて交付した。 一. 市の平和と秩序を守ること 二 . 市 の 日 は 荷 留 め を 解 除 し 、商 品 の 流 通 を 認 め る 。た だ し 兵 粮・竹 木( 軍 事物資)は別 三. 市で扱われる商品は非課税とする 四. 市にやってくる者については債務のあるものやその関係者に対し、 債権取立ての行為をしてはならない 五 . 市 の 日 の 商 人 た ち の も め ご と に 、武 士 の 介 入 を 禁 止 し 、 「町人さばき」 「町人自治」とする もしこの市場法に違反するものがあったら、代官(岡部越中守)か 町人衆の責任で松山城に届け出る。これは町民の自治を明示した政 令である。なお、制令の日からみて新市場の市の日も五・十の六斎 市であったと推定される。 (5)天 正 18 年 天 正 18 年 ( 1590) 3 月 11 日 松山宿の住民は代官を通じて、 その頃小田原陣中にあった上田憲 定 に 、松 山 城 の 危 急 の 際 は 籠 城 し て 防衛につくそうとそろって決意し 申 し 出 た 。憲 定 は 印 判 状 を 発 し 、長 年この松山宿で生計を立てている か ら に は 、こ の 非 常 時 に 松 山 の た め に奔走するのは当然の務めであり、 籠城して戦う者はたとえ小身の者 上田 憲定印判状 でもきっと望み通りに引き立てる と 伝 え 、恩 賞・取 り 立 て を 条 件 に 参 陣を求めるだけでなく、松山城と松山宿の一体性を強調している。 天 正 18 年 ( 1590) 4 月 16 日 この時期、北条方支城である岩附・鉢形・八王子・忍・津久井の五城 は豊臣軍の猛攻にさらされ落城しているが、松山城は前田・上杉 2 万 の軍勢に包囲され戦わずに開城した。 (6)文 化 10 年 ∼ 文 化 13 年 文 化 10 年 ( 1813) 【箭弓神社前の旅館・茶屋と松山町との間で 紛争 原因は客の奪い合い】 松山町では江戸時代後期に、箭弓稲荷が信仰 を集め参詣人が増したことから、その境内、 門前に町屋ができ、新たな繁栄となったが、箭 弓茶屋の増加は町の旅籠屋にとっては死活問題に成りかねず、客足を 巡って凌ぎを削る事になった。 文 化 年 間 両 者 は 紛 争 を 起 こ し 、 文 化 10 年 ( 1813) に ま ず は 和 解 し て 議定が結ばれたが、守られず再々の出入りと成った。その後松山の商 人 3 名 が 仲 介 に 立 ち 、 文 化 10 年 の 議 定 を 守 る こ と 、 藩 の 意 向 を 確 か め て 掛 札 を す る こ と 、等 の 決 ま り を 定 め 、済 口 証 文 と し て 文 化 13 年 3 月 2 日 に 提 出 し た 。 こ の 時 に 連 印 し た も の は 箭 弓 茶 屋 21 名 、 町 方 旅 籠 屋 11 名 に も 及 ん で い る 。 文 化 13 年 ( 1816) 【町の繁盛を垣間見る】 市 店 (庭 見 世 )賃 銭 ( 出 店 料 ) を 巡 る 出 入 り 、 上 町 下 町 交 互 市 立 の 出 入 り に せ よ 、近 隣 久 保 田 村 新市との争い白座と松山商人の長期にわたる 紛 争 に せ よ 、松 山 町 が 地 域 発 展 を 踏 ま え て 、戦 湯 屋 国 以 来 の 宿 と 市 と の 両 面 か ら 、上 町 山 王・下 町・ 横町・本宿・箭弓・という町組から構成される町へと大きく発展する 動向に根ざしていた。 こうして町として発展すると、湯屋や髪結いも 店を出すようになり、文献によると町組ごとに 1軒ずつの髪結いが店を営んでいた。 ま た 文 化 14 年 ご ろ に は 庭 見 世 だ け で な く 店 舗 を 借りて商売を営むものにも、多くの他所者が増 えてきており、これら商工の店舗が活況をみせ 髪結床 る の は 、「 五・十 」に 留 ま ら ず 、近 郊 の 村 々 か ら 市日以外にも買物に訪れるようになって来た。 しかし、今日江戸時代の松山町の状況を描き出すには、当時の古い文 書類を伝えている家が余りにも少数でしかなく、おそらく町場の常と して火災が度々あったと思われ。 そ の 火 災 の 資 料 と し て は た だ 一 つ 、天 保 7 年( 1837)12 月 の 焼 失 場 絵 図 面 が 残 っ て い る 。こ れ に よ る と 横 町( 現 材 木 町 通 り )両 側 34 軒 を 類 焼したほか、南方へ飛び火で箭弓稲荷道一軒と土蔵とあり、その他被 災した土蔵 2 軒の場合には、上屋根ばかり焼失しているのが注目され る。松山町でもこの頃になると土蔵造りが、実際の防火の効果を見せ ていた事が伺える。 (7)天 保 7 年 ∼ 弘化 4 年 天 保 7 年 ( 1837) 米 の 安 売 り を 要 求 し て「 町 人 200 人 」 が下沼堤に集まる。首謀者は逮捕さ れる。 松山町では米や雑穀を買って生活す る人々が多く、飢餓の影響は米価の高騰としてあらわれた。天保7年 8 月 5 日 の 夜 、 200 人 ほ ど の 町 人 ( 農 民 ) が 米 の 安 売 り な ど を 要 求 し て、下沼の堤に集まるという事件が起きた。しかし、町民たちの要求 した米の安売りは行われなかったが、町民が自らの要求の実現の為に 行動を起こしたという意味で、これは重要な事件であった。 弘 化 4 年 ( 1847) 松 山 町 の 顔 役:白 座( 反 物 )松 屋 平 兵 衛 は 上 町 の 七 兵 衛 か ら 酒 造 株・ 酒造家・酒造道具を借りて、酒造渡世を始めるに当たって、下町の 伝兵衛・清右衛門を請け入れとして、七兵衛と交わした「借家幷び に、酒造株、諸道具借用証文」は以下に記す。 ( 4 代 将 軍 徳 川 家 綱 は 、 酒 株 を 設 け 免 許 制 を 導 入 し 製 造 を 制 限 し た 。) 一、酒造株 一、酒造家 一、土蔵 一、町並家壱軒(但太物座「白座=反物」附也) 一 、 四 尺 酒 樽 ( 以 下 19 件 略 ) 平兵衛は酒造を営んでいたが、文政五年春に類焼した際、仲介人を 入 れ て 、 10 両 支 払 貸 与 物 件 一 切 を 引 き 取 っ た 。 平兵衛は酒造目的ではなく太座付き(反物)の町並み家 1 軒こそが 目標だったと言われている。 (8)弘 化 4 年 弘 化 4 年 (1847) 【松山町民の役負担】 松 山 町 民 は 、百 姓 に か か る 村 役( 道・橋・用 水・堤 等 の 普 請 )を 負 担 しないですむ代わりに、伝馬役を担った。松山町と同様に馬継の高坂 宿の場合も住民は百姓身分でありながら、伝馬役を担うことで町人身 分に近い存在であった。 松山町民の役負担について詳細にわかる資料は残っていない。 弘 化 4 年 ( 1847) 髪結床譲渡証文に髪結床となると 「 先 例 に 任 せ て 町 伝 場・軒 別・右 両 役相除け遣し候」とあることから 伝馬役が松山町民の身分と関わる ことが伺えるのみである。 髪結職は、人口の集中する町で成 り立つ職人稼業であった。 地方によって、例えば江戸で床番 所といって町々の木戸番を担い、 明 治 19 年 東 松 山 秋田城下町では牢の鍵を預かるなど様々な治安上の役を担っていた。 前 掲 髪 結 床 譲 渡 証 文 に よ れ ば 、松 山 町 で は 5 軒 の 髪 結 床 が 、高 札 番・ 出 役( で や く )等 の 役 人 の 髪 結 役 を 条 件 に 町 か ら 営 業 を 許 さ れ て い た 。 馬継場であったことから髪結床は利益が上がり、その営業権は売買・ 譲渡の対象となった。札の辻上町西角の旅籠麴屋喜兵衛が髪結床重次 郎 か ら 、金 10 両 の 金 銭 で「 職 分 」す な わ ち 営 業 権 を 譲 り 請 け て い る 。 松山町の髪結床はいわ ば 町 抱 え の 職 人 と し て 、5 軒で同業の仲間を結んで おり、譲渡には髪結床全 員の同意が必要であっ た。証文は重次郎から喜 兵 衛 に あ て 、以 上 の 諸 条 件 を 認 め た も の で 、特 に 町 役 人 が 証 印 を 連 ね 、高 札 番 役 人 の 髪 結 の 勤 め を 果たさないときは、町の掟で処分すること、町伝馬と軒別と両役を免 除することを書き渡している。 喜 兵 衛 は「 老 衰 」 ( 証 文 の 譲 渡 理 由 と し て 記 し て あ る )の 重 次 郎 か ら 髪 結床の営業権を買って、髪結職人を雇うか、下請けさせるかして営業 したのであろう。 その場合町民の身分に関わる伝馬役等を放棄し、髪結職人の身分に 関わる高札番・髪結いの勤めを担うことになったのは、どういうわけ であろうか。松山町が町場として発展し、様々な商人・職人が店を構 え、伝馬等の役負担が必ずしも営業の保証にはならなくなった、とい う。 (9)文 政 12 年 ∼ 慶 応 3 年 慶 応 2 年 ( 1866)【 東 松 山 市 宗 門 人 別 書 上 帳 】 これは江戸時代後期の人々 の 動 き を 表 す「 宗 門 人 別 書 上 帳 」 です。 我 々 が 他 市 町 村 へ の 移 動 、或 は 他市町村から移動の場合には 該当する役所に「転出・転入」 届 を 行 い ま す が 、そ れ に 相 当 す るものとして「送り一札の事」 を 転 出 す る 側 の 名 主 へ 、「 落 着 き一札の事」をその逆に名主から名主へと宛てられる文章で、これら に よ っ て「 名 主 は 村 内 の 人 別 を 把 握 し て 、毎 年 宗 門 人 別 書 上 帳 を 作 成 」 して領主に提出する。 内容的に大別すると、嫁入、婿入り、養子、養女、離縁、店借りなど を 見 て み る と 、嫁 入 の 年 齢 は 16 歳 ∼ 22 歳 で す 。婿 入 り の 年 齢 は 18 歳 ∼ 26 歳 で す 。 通 婚 圏 は 比 企 郡 内 及 び 埼 玉 、 秩 父 、 那 智 、 賀 美 、 高 麗 、 上州といった広い範囲に及びます。 養子では、後家の養子、潰れた百姓の跡の相続としての夫婦養子が割 合多くみられる。 この時代「その日暮らし」の市民が溢れていた。口減らしに子供を年 季奉公に出し娘を身売りさせるのは農村ばかりではなかった。 糀屋喜兵衛店の奉公人の親元の 5 人は江戸市民であったように、江戸 本 郷 の 大 家 さ ん も 例 外 で は な か っ た 。5 人 の 子 供 を 養 い か ね 喜 三 郎 は 、 娘の「もと」を松山町の糀屋に売ったのであった。 ゆくゆく いずかた みぐるしき 「往々は何方へなりとも御片付け下さるべく候、尤も見苦敷奉公には ま じ く 決して御出し下さる間敷候」と言葉が添えられてあります。 「養女」であれ年季奉公であれ、主家が親代わりとなって嫁にやるの は、主人の心がけであった。但し前借のある場合、結婚相手がこれを 払うのが慣例であった。 寛永 3 年町内の市五郎は糀谷の召使い「よし」を見染め前借 5 両を払 って嫁に貰い受けた。 ま た 働 き 者 の 奉 公 人「 ち よ 」は 江 戸 牛 込 改 代 町 の 布 屋 松 三 郎 に 金 10 両 で抱替されたのであった。また町内の若者の中には糀屋の召使いと馴 れ初めあげく無断で連れ出し匿うものもあった。 <松山町糀屋喜兵衛店奉公人> 西暦 年 号 ・月 親 元 の所 奉公人 給金 年季 1829 文 政 12・2 野 本 村 たけ 金 2 両 2分 (前 借 ) 文 政 12(1 年 季 ) 1830 文 政 13・2 〃 〃 文 政 13(1 年 季 ) 1834 天 保 7・6 江戸本郷 もと (祝 金 15 両 (身 売 1836 天 保 7・6 江戸紺屋町 よね り) 天 保 7 年 (7 年 季 ) 1845 弘 化 2・8 越後頸城郡 ます 5 両 (前 借 ) 弘 化 2 年 (5 年 季 ) 1845 弘 化 2・8 松山町上町 ひさ 5 両 (前 借 ) 1851 嘉 永 4・10 桶川宿 さと (祝 金 )8 両 (身 売 り) 寛 永 4 年 (3 年 季 ) 1852 嘉 永 5・6 江戸本所茅場町 くみ 5 両 (前 借 ) 寛 永 5 年 (1 年 季 ) 1852 嘉 永 5・7 江戸本郷 梅 2 両( 〃 ) 寛 永 5 年 (1 年 季 ) 1854 嘉 永 7・2 吉見岩殿村 まつ 3 両( 〃 ) 寛 永 7 年 (1 年 季 ) 1865 元 治 2・4 江戸浅草安倍川 よし 7 両( 〃 ) 元 治 2 年 (2 年 季 ) 1866 慶 応 2・2 大里郡津田村 まき 8 両( 〃 ) 慶 応 2年 (1 年 季 ) 〃 (10) 慶応 2 年 ( 6 月 13 日)∼ 同年(6 月 16 日) 慶 応 2 年 ( 1866) 6 月 13 日 【 世 直 し の 旋 風 武 州 一 揆 】 大 政 奉 還 前 江 戸 幕 府 が 第 二 次 長 州 征 伐 に 踏 み 切 っ た 慶 応 2 年( 1866) 米価高騰が原因となって、全国各地で大規模な百姓一揆が起った。 一週間程の間に武蔵国の西半分と上野国の一部を巻き込んだ武州一揆 も、世直し一揆の一つである。この一揆の主体は、小作をしたり諸稼 ぎ・諸商いに従事したりしていた下層農民だった。 世直し一揆 <武州一揆の主な要求事項は> ① 物価の引き下げ特に米の安売り ② 質に入れた物品と借用証文の返還 ③ 質地と質地証文の返還 ④ 米や金の施しなどであった。 一揆参加者が打ち壊しの対象としたのは、自分たちが直接、小作人と なったり、金を借りたり、穀物などを購入したりする自村又は近村の 地主、質屋、穀屋だけではなかった。自分たちの生活を安定させる為 には、世の中全体を良くしなければ成らないという考えから、一揆の 行く先々の町や村の地主、質屋、穀屋に要求を突きつけ、それを拒ん だ者の家宅を打ち壊したことである。 正に世直しの意識に支えられた一揆となり、武蔵国の広い範囲に広が った。 慶 応 2 年 ( 6 月 15 日 )【 東 松 山 市 街 の 打 ち 壊 し 】 松山市街を武州一揆が通過したのは、6 月 15 日 か ら 16 日 に か け て で あ っ た 。 一 揆 は 坂 戸から来て、昼食の炊き出しを高坂村で受け る。 米 問 屋 、呉 服 屋 、油 屋 、座 頭 な ど 18 軒 を 打 ち 壊 し 、1 部 を 壊 し た 家 は 多 数 。夜 に 入 っ て 一 揆 武州一揆 は 、箭 弓 稲 荷 大 門 の 茶 屋 2 軒 を 打 ち 壊 し 、松 山 町 に 夜 食 を 炊 き 出 さ せ 稲 荷 社 内 に 泊 ま っ た 。泊 ま り き れ な い 200 人 程 は、野本村に行き、炊き出しをさせ旅館を申付けた。 江戸末期松山町も大きな被害があった事が伺える。 (11) 慶応 3 年 前橋藩松山陣屋 慶応3年正月川越藩主松平氏が前橋に転地となり、松山の 6 万石余 の領地が前橋藩から見て飛び地になることから、松山の統治を行う目 的で陣屋が計画された。 前橋藩が選んだ予定地は、現在の松葉町 1 丁目のほぼ全域で、当時 は 畑 の 六 町 五 反 程 だ っ た 。 50 人 の 百 姓 に 対 し 、 藩 は 松 山 の 町 人 78 人 か ら 献 金 さ せ た 153 両 を 補 償の意味で耕作面積に比例 して各人に配分した。 土地が定まったところ で、同年 2 月前橋藩領の 村々惣代は、 「年来の御恩に 報いるために、陣屋普請に 必要な土方人足はすべて自 弁で各村から差し出すか ら 、是 非 許 可 を 頂 き た い 」と い う 願 書 を 、藩 に 提 出 し た 。 百姓が本当にそう考えた 明治:松山町にて軍隊列 か、或は藩が半強制的に仕 向けたのかはわからないが、早速願いは認められた。 計画では関東最大級の陣屋建設のため村々惣代が見積もった必要な人 夫 数 述 べ 31,000 人 、日 当 に 換 算 す る と 2,098 両 と な る 大 規 模 な 工 事 だ った。こうして慶応3年の末には陣屋が出来上がり、翌明治元年には 258 人 の 藩 士 が 家 族 と 共 に 移 住 し た 。 藩士の集住による急激な人口増加は、米をはじめとする日常物資の取 引を盛んにし、商業の中心地といて松山の地位を一段と高めた。 こ の よ う に 、 松 山 は 明 治 4 年 ( 1871) の 廃 藩 置 県 ま で の 、 ご く 短 い 期 間だったが、事実上の城下町としての機能を果たした。 ≪松山宿こぼれ話≫ ( 1) 町 人 さ ば き の 松 山 松山本郷は平和領域として、町の警察権は町人衆にゆだねられた。 こ れ を「 町 人 さ ば き 」と 言 い 、町 人 の 自 治 区 と し て 認 め ら れ た 地 域 で す 。 町人さばきでは、楽市楽座の堺が有名ですが、松山宿も堺と同じ時代に 町人さばきとなった。 ま た 堺 の 楽 市 楽 座 と 同 じ よ う に 、五・十 市 が 開 か れ て い た 商 業 の 町 で す 。 松 山 宿 の 特 徴 は 、こ の「 町 人 さ ば き 」と「 五・ 十市」にあり、この時代では、非常にまれ な町の形態であり、関西の堺とならんで、 今も残る五・十の市跡 関東の松山宿であった。 この松山宿で町人衆の代表として町をまと め て い た の が 、松 山 宿 3 人 衆 、岩 崎 、池 ノ 谷、大畠の3家であった。 今も残る五・十市の跡 ( 2 ) 上沼・下 沼 の伝説 こ の 伝 説 は 永 禄 12 年( 1569)の 事として出ている。 小田原の北条氏から松山城主の 上田朝直へ、甲州の武田信玄が 攻めてきたので援軍を頼むとの 命令が入った。 そこで上田朝 明治後期の上沼 直は松山宿の 町人衆に従軍 のお達しを出しました。 松山の下沼の近くに与四郎という 新婚の若者が母親と暮らしていた。 与四郎は小田原へ戦いに行った。 与四郎の軍は小田原城で北条軍の をんな橋 先鋒として出陣したが、強力な武 田軍に敗れ、与四郎も手傷を負い、気の弱い与四郎 は逃げ帰った。 松山の我が家に帰ってみると誰もいない。仏壇を見 おとこ橋 上沼からの参道 ると新しい位牌が二つある。 近 く の 叔 父 の 家 に 行 っ て 聞 く と 、小 田 原 で の 戦 闘 の 様 子 が 松 山 に 伝 わ り 、与 四郎が戦死したと知らせが入ったとのこと。 与 四 郎 の 母 は 嘆 き 悲 し み 、死 ん で し ま い ま し た 。新 妻 も 母 の 後 を 追 い 、下 沼 に 身 を 投 げ て し ま い ま し た 。与 四 郎 は 二 つ の 位 牌 を 抱 い て 上 沼 へ 身 を 投 げ て 果ててしまったということだ。 そ の 後 上 沼 の こ と を 男 沼 、下 沼 の こ と を 女 沼 と 呼 ぶようになった。 現 在 上 沼 は 一 つ の 池 だ が 、当 時 の 上 沼 は 三 つ の 池 に 分 か れ て い た 。現 在 池 の 中 央 に あ ず ま や が あ る が、そのあたりに道があった。 今 で も 現 存 す る 参 道 か ら 、こ の 池 の 中 を 通 っ て い た道は、真福寺への通ずる参道であった。今は、 真 福 寺 は 残 っ て い な い が 、山 門 だ け が な ご り を と どめている。 ( 3 )松山 宿の産 業 ここで松山宿の産業に触れておきたい。 上 沼 の 西 か ら き れ い な 湧 水 が 流 れ 出 て い た 。そ の 水 を 利 用 し て「 染 物 屋 」 が 盛 ん に な っ た 。「 紺 屋 」 で あ る 。 や き とり「こうやんち」は先祖が紺屋 で あ っ た そ う な 。こ の 染 物 産 業 は 現 代 ま で続いている。 ま た こ の き れ い な 湧 水 を つ か っ て「 造 り 酒 屋 」 が あ っ た 。「 ま る や 酒 蔵 」 と い う 造 り 酒 屋 だ が 、現 在 は 廃 業 し て い る 。ど ん な お 酒 な の か 、飲 ん で み た い も の で あ る 。上 沼 近 辺 で は 、よ い 粘 土 が 産 大正 4 年:日野酒造場上棟式 出されたので、陶芸が盛んになった。 銘柄:敷島盛 「 山 王 焼 き 」と 呼 ば れ 人 気 を 博 し た 。現 在「山王焼き」は市内、日吉町に住む横田隆史さんが継承されている。 上沼東側の「まちカフェ」では横田隆史さん作の山王焼きが展示されて いる。しっとりした、味わい深い焼き物である。ぜひご上覧あれ。 他に松山宿の当時の商売というと、 「 鍛 冶 屋 」が あ っ た 。こ れ は 松 山 宿 が 宿 場 な の で 「 旅 館 」「 割 烹 旅 館 」「 旅 籠 」 が 沢 山 あ っ た 。 本 町 一 丁 目 角 に あ っ た「 糀 屋 旅 館 」は 松 山 城 落 城 後 、松 山 城 中 に い た「 上 田 左 ェ 門 ノ 丞 」 の3男が城を逃げおち、松山本郷にて宿屋を始めた。 糀屋の当主は代々「新井喜兵衛」を名乗り、宿屋をつづけて、糀屋旅館 は昭和の太平洋戦争終戦まで、綿々とつづいた。 ≪松山歴史・散歩≫ ( 1) 松 山 城 の 覇 権 と 十 界 曼 荼 羅 戦 国 の 昔 、武 蔵 の 国 の 戦 乱 の 中 で 、扇 谷 上 杉 氏 と 古 河 公 方 の 確 執 、そ れ から天文 6 年以来の関東争乱は、松山城の戦いの歴史であった。 こ れ ら の 戦 乱 の と き 、町 人 に 対 し て も 、火 急 の 時 に は 城 に こ も る こ と を 強 い、ある時は市や宿の保護策を積極的に推し 進 め 、松 山 宿 の 源 を 作 っ た の は 、松 山 城 の あ る じであった。 ま た 松 山 本 郷 の「 妙 賢 寺 」に 伝 わ る「 十 界 曼 荼 羅 」は 、神 明 町 地 内 の 清 正 公 境 内 の 板 石 塔 婆 と ともに、松山城主が遺した数少ない遺物であ る。 上田朝直の塔婆、神明町地内の清正公境内に 建 っ て い る 総 高 2.16m の 大 杉 板 碑 は 、 松 山 城 主上田朝直の建立塔婆として、県の指定文化 財になっている。 上田朝直の板石塔婆 ( 2)松 山 城 攻 防 天 正 18 年( 1590) 戦 国 時 代 も 終 わ り に 近 い 、天 正 18 年 5 月 に 、豊 臣 方 北 方 軍 団 の 前 田 利 家 、 上杉景勝、真田昌幸らが松山城を落とさんと包囲した。 寄 手 の 総 大 将 、前 田 利 家 は 、大 谷 の 雷 電 山 に 、総 軍 師 の 真 田 昌 幸 は 、松 山 本 郷 地 内 に 、搦 め 手 の 大 将 の 上 杉 景 勝 は 、古 凍 の す わ 山 に 、寄 手 総 軍 監 の 大 谷 吉 継 は 、野 本 の 八 幡 山 に そ れ ぞ れ 陣 を 構 え た 。圧 倒 的 に 寄 手 が 優 位 で あった。 松 山 城 側 は 、城 主 の 上 田 憲 定 を は じ め 主 だ っ た 武 将 が 、小 田 原 へ 出 張 籠 城 し て い た た め 、 武 将 、 軽 卒 、 町 人 を あ わ せ て 2,000 人 が 城 に 籠 っ た 。 し か し 戦 っ た 記 録 は な く 、豊 臣 方 主 力 軍 が 、徳 川 家 康 を 先 兵 と し て 北 条 方 の 重 要 拠 点 を 次 々 と 落 と し 、勢 い に 乗 っ た 豊 臣 方 に よ っ て 松 山 城 は 、無 血 開城となった。それゆえ松山宿は、戦火に合わずにすんだ。 ( 3) 松 山 宿 の 発 展 市史の資料によれば、戦国期から続いた五・十(ご・とう)の市を中 心とした「宿」と「市」のまちから、上町、山王、下町、横町、箭弓な ど という町組によって構成されるまちへと発展していった。 当時活躍した松山商人の主だったところとして以下の店をあげている。 穀屋の谷屋・小橋屋、塩商の永楽屋、油屋嘉兵衛、糀屋留五郎、提灯張 りの松坂屋善右衛門、宿・料理の糀屋・吉見屋などである。 こ こ に 揚 げ ら れ て い る 屋 号 を 持 つ 商 人 が 、旧 本 町 一 丁 目 か ら 四 丁 目 の い わゆる本町通りに、集中しているところを見ると、江戸期のかなり早い 時期に戦国松山城の足下に在った宿屋・市の中心がこの本町通りに移っ たのが歴史の流れであった。 ( 4) 箭 弓 稲 荷 神 社 夫 婦 狐 江 戸 の 大 工 職 人 定 助 は 、流 行 目 で 両 目 が 見えなくなっていた。そんな時、武州箭弓 稲荷神社がご利益あらたかな神様と聞き、 師走の江戸から駕籠でやってきて、箭弓神 社前の松屋旅館に宿を取った。 21 日 の 御 参 拝 を し て 、今 日 が 満 願 の 日 を 迎 えた。寒気が身に凍みる中、夫婦は一心不 乱に祈願し夜明けを待った。三番鶏が鳴い たころ、自分の目で両手が見えた。夢じゃ ねえ両手が見えたと夫婦で喜んだ。 定助は、お礼に絵師・安東雪村、飾師・山 畑源治に横 6 尺縦 5 尺程の銭絵夫婦狐の大 絵馬を作らせ、箭弓稲荷神社拝殿南側に奉 納した。 「 胴 銭 押 し 込 み 式 の 銭 絵 夫 婦 狐 」が それである。 6 . おわ り に 西村講師の授業に感銘を受けて、始まった我々の課題研究は、講師の 案内で、本町通りに残っている、松山宿の名残りの場所を見学し、さら に松山城址の説明を受けてから、我々の課題研究は始まりました。 最初の仕事は、松山宿の年表作成です。 松 山 宿 は 、1571 年 頃 と き の 支 配 者 北 条 氏 に 対 し 、町 の 平 和 領 域 を 守 る た め 町 人 が 訴 え 、「 五 ・ 十 の 市 」 が 認 め ら れ た の が 始 ま り で し た 。 こ う し た 松 山 の 繁 栄 の 基 礎 を 造 り 上 げ た 、 先 人 の 命 懸 け の 努 力 と 、歴 史 の 積 み 重 ね で 現 在 の 東 松 山 市 に は 、多 く の 遺 産 が あ る こ と を 課 題 研 究 で知りました。 それは「蔵、神社、仏閣、松山城址、染物、焼き物、等」です。この 多 く の 松 山 市 文 化 遺 産 を 観 光 の 目 玉 に 、是 非 取 り 上 げ て い た だ き 観 光 客 の誘致をお願いするものであります。 我 々 も 東 松 山 の 観 光 発 展 に 寄 与 す る た め 、次 の 世 代 に 繋 げ て い く 決 意 で、おわりの言葉と致します。 参考文献 東 松 山 市 史 資 料 東 松 山 の 歴 松 山 城 合 東 松 山 市 の 地 編( 2 巻 ) 史 戦 図 東 松 山 市 ・ 伝 説 と 夜 話( 上 ) 歴 史 散 歩 IN ふ る さ と 松 山 城 実 測 地 図 梅沢太久夫(著) 東松山市史資料編(2 巻) 「添付地図」 田村宗順(著) 小峰敬太郎(著) 吉見町教委原図 イ ン タ ー ネ ッ ト: Google 画 像 画 像: 東 松 山 図 書 館 ホ ー ム ペ ー ジ < フ ォ ト 歴 東 松 山 > 取 材 者: 横 田 隆 史 氏 講 ・ 新井治男氏 師: 東 松 山 市 観 光 ガ イ ド ク ラ ブ 会 長 西村裕氏