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資料5 近代から現代に至る千鳥ケ淵の変遷

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資料5 近代から現代に至る千鳥ケ淵の変遷
資料5
近世から現代に至る千鳥ヶ淵の変遷
家康入城
明暦の大火
明治維新
代官町通り整備(M33)
近世
時代
1456 年∼1590 年
(太田道灌による江戸築城
∼徳川家康関東入府前)
1590 年∼1657 年
(徳川家康関東入府
∼明暦の大火前)
概要
江戸築城のため、武蔵野台地
の谷戸地形を活かして造成。
水源確保のため、自然地形を 明暦の大火以降、千鳥ヶ淵・
利 用 し て 小 河 川 に 堤 塘 を 築 牛ヶ淵沿いに火除地を設置、
き、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵を造成。 周辺の土地利用が変化。
地形
濠
1657 年∼1867 年
(明暦の大火後
∼江戸城開城)
1867 年∼1900 年
(明治維新
∼代官町通り整備前)
東京五輪(S39)
現代
1900∼1945 年
(代官町通り整備後
∼第二次世界大戦終戦)
1945 年∼1964 年
(第二次世界大戦終戦後
∼東京オリンピック前)
1964 年以降
(東京オリンピック後
∼現在)
近衛師団造営により大規模改 代官町通りの整備により、千
近衛師団兵営地跡は警察学校
修。千鳥ヶ淵周辺の火除地は、 鳥ヶ淵と半蔵濠に分かれる。
や官庁の庁舎として利用。
公的施設等に変化。
都電の開通のため、一部造成。
首都高速道路が千鳥ヶ淵の上
に開通。北の丸公園開園。
自然地形を活かして造成。水源としても利用。
石垣
・堤塘
植生
堤塘
第二次世界大戦終戦
近代
天下普請のもと、各地の大名により造成。
草地
北の丸
恰和園(近衛師団兵営地内)設置
マツ、イチョウ等の庭園的植栽
一部、堤塘にマツ、マキなど
サ クラ
靖国神社
常緑広葉樹等、公園植栽
M2(1869) 招魂社にサクラ献納、M20 年代にはサクラの名所に
英国
大使館前
M14(1881) アーネスト・サトウ氏によるサクラ手植え(英国公使館前)、T8(1919) 千鳥ヶ淵公園開園・天然記念物に指定(S41 解除)
千鳥ヶ淵
S11 頃 千鳥ヶ淵周囲にサクラが植えられていた記録あり
土 地利 用
北の丸
武家屋敷
番町
武家屋敷
火除地
九段
武家屋敷
火除地
牛ヶ淵
武家屋敷
火除地
田安家・清水家
1636 田安門
(重要文化財)
1658 清水門
(重要文化財)
近衛師団兵営地
S30 年代(1955∼) 千鳥ヶ淵緑道整備、北の丸公園
警察学校、官庁の庁舎
S38(1963)∼ 北の丸公園整備、
S44(1969)∼ 一般開放
官庁の庁舎、大使館(一部民間利用)、戦没者墓苑(S34)
政府高官・皇室関係者の住まいや外国の公使館
招魂社創建
招魂社を靖国神社と改称
招魂社(靖国神社)の付属地。軍人会館、パノラマ館など
M4(1871) 高燈篭
M36(1903) 北白川宮能久親王銅像
M41(1908) 恰和園碑
S42(1967)
近衛歩兵第一連隊跡記念碑
T8(1919) 大山巌銅像
歴史的資源
S15(1940) 皇紀二千六百年植樹記念碑
著作権保護のため
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著作権保護のため
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著作権保護のため
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著作権保護のため
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著作権保護のため
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H2(1990)
近衛歩兵第二連隊跡記念碑
著作権保護のため
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当時の地図
出典
江戸の原形(1540 年頃)
鈴木理生「江戸・東京の地理と
地名」
江戸大絵図(明暦)
江戸−東京市街地図集成1
分間江戸大絵図完
(安政 6 年(1859))
江戸−東京市街地図集成1
五千分一東京図測量原図
(明治 16 年(1833))
1
番地界入東京全図
(明治 44 年(1911))
江戸−東京市街地図集成2
東京三千分之一図(昭和
31(1956)∼34 年(1959))
江戸−東京市街地図集成2
千鳥ヶ淵周辺地図
(六千五百分の一)
年
千鳥ヶ淵に関わる歴史的変遷
年
1456
1590
1592
千鳥ヶ淵周辺に関するできごと
長禄元
天正 18
文禄元
明治以前
明治
1603
慶長 8
1606
慶長 11
1624
寛永元
1636
寛永 13
1653
承応 3
1654
承応 4
1657
明暦 3
1730
1759
1868
享保 15
宝暦 9
明治元
1869
明治 2
1867
明治 4
1874
1879
1881
明治 7
明治 12
明治 14
1894
明治 27
1897
明治 30
1898
明治 31
明治 32
1900
明治 33
1903
明治 36
1907
明治 40
1908
明治 41
1910
明治 43
1919
大正 8
1919
大正 8
1923
大正 12
昭和 32
1958
昭和 33
1959
昭和 34
1960
1961
昭和 35
昭和 36
1963
昭和 38
1964
昭和 39
●田安門、清水門が重要文化財指定。
●「皇居周辺北の丸地区の整備について」閣議決定。
北の丸地区を皇居外苑の一部とし、森林公園として
建設省が整備することとなる。
●日本武道館、科学技術館竣工。
●千鳥ヶ淵の上に首都高速道路が開通。
1965
昭和 40
●千鳥ヶ淵に主と高速道路の排水を放流。
1966
昭和 41
1967
昭和 42
1968
昭和 43
1969
昭和 44
1971
昭和 46
1972
昭和 47
●「江戸城跡のヒカリゴケ生育地」天然記念物に指定
(北の丸公園の濠に面する石垣の隙間)。
●東京招魂社を靖国神社と改称。
1977
1979
昭和 52
昭和 54
●千鳥ヶ淵緑道が整備される。
●上水改良事業で東京市上水を半蔵門樋枡から皇居内に
導水、流末を濠に放流。
1981
昭和 56
●濠の水草管理のためソウギョ 99(半蔵濠、牛ヶ淵、日比
谷濠)を放流。
1982
昭和 57
●(財)国民公園保存協会設立。国民公園の 3 苑の管理をそ
れぞれに行っていた、皇居外苑保存協会、京都御苑保存
協会、新宿御苑保存協会が統合。
1983
昭和 58
1987
昭和 62
1989
1990
1995
平成元
平成 2
平成 7
1999
平成 11
2003
平成 15
●牛ヶ淵のかい掘りを実施(目的:投棄ゴミの回収、
外来魚駆除)。この後、水生植物が繁茂(昭和 30
年ごろの状態)。
2005
2006
平成 17
平成 18
●千鳥ヶ淵でウシガエルを確認。
●千鳥ヶ淵でアメリカザリガニを確認。
2007
平成 19
●都下水道からの汚水流入について、下水道局が止水
壁を設置。
●飲料水確保のため、番町∼千鳥ヶ淵∼乾門∼城下門
∼日比谷入江への河流を代官町の谷川堰き止めによ
り、千鳥ヶ淵を建設。
●平川右岸河岸段丘と武蔵台地東麓部湧水線との間の
低地に水を貯めて、牛ヶ淵を建設。
●現在の田安門が築造される。
●明暦の大火以降、千鳥ヶ淵・牛ヶ淵沿いに火除地を
整備。
●招魂社建設後、園内に陸海軍の戦友会が桜を献納し
ていき、桜の名所として親しまれる。
●常燈明台建設(九段坂の陸軍省御用地内、昭和 5 年
に現在地へ移設)。
●近衛師団兵営地設置。
●徳川家康、江戸幕府を開く。江戸城が幕府の本拠となる。
●江戸城の改修工事を開始(二代将軍秀忠)。
●日比谷入江埋め立て(1606∼1607 年)。
●千鳥ヶ淵、牛ヶ淵と本丸との間に内郭を築造し、北の丸
と称した(1606∼1607 年)。
●寛永 20 年にかけて我が国最初の水道である神田上水が
整備される。
●江戸城完成(三代将軍家光)。
●承応 2 年の玉川上水開設に伴い、大木戸水門から四谷見
附、麹町を経て江戸城へ導水。流末水を濠に放流。江戸
の人口が 30 万人になる。
●麹町から江戸城二の丸まで導水。
●明暦の大火で江戸城本丸、二の丸、三の丸、天守閣が焼
け落ち市中 6 割を焼失。
●8 代将軍吉宗の第二子宗武が北の丸に田安家を興す。
●9 代将軍家重の第二子重好が北の丸に清水家を興す。
●江戸城開城。明治天皇が入城し「東京城」に改称。
●東京城を皇城と称し旧西丸を皇居とする。宮内庁設置。
●東京招魂社(現靖国神社)創建。
●英国公使館前にアーネスト・サトウ氏が桜を手植え。
●英国公使館前のサクラが東京市に寄贈される。
●英国公使館前に桜並木が植樹され、千鳥ヶ淵沿いが
サクラの名所として親しまれるようになる。
●淀橋浄水場の完成に伴い玉川上水からの導水で浄水場
からの給水を開始。
●代官町通りの整備。新たに土橋が築かれ、千鳥ヶ淵
は、千鳥ヶ淵と半蔵濠に分かれる。
●北白川宮能久親王銅像建立。
●牛ヶ淵、千鳥ヶ淵の土手を削り、坂下から坂上に市
電を開通(∼昭和 38 年まで運行)。
●石碑「怡和園跡」設置。
●旧近衛師団司令部庁舎(現東京国立近代美術館工芸館)
建設。
●明治期の市区改正事業の一環として千鳥ヶ淵公園開
園。沢山のサクラが公園に植樹された。
●大山巌銅像建設(現在地への移設年月日不明)
●帝都復興事業により、九段から半蔵門方面へ抜ける
内堀通りが作られ、桜並木も英国公使館前から靖国
神社まで続くように植えられた。
江戸城・皇居・周辺地域に関するできごと
●濠の水草管理のためソウギョ 150(清水濠、大手濠、桔
梗濠、蛤濠)、ハクレン 150(桜田濠、二重橋濠、日比
谷濠、馬場先濠)を放流)。
1957
●扇谷上杉氏の重臣太田道灌が、江戸築城
●徳川家康、江戸城に入り(関東入府)、江戸普請を行う。
平成
大正
1899
江戸城・皇居・周辺地域に関するできごと
千鳥ヶ淵周辺に関するできごと
●関東大震災。
昭和
昭和 8
1934
昭和 9
1940
昭和 15
●起源 2600 年記念式典(宮城前広場)が行われる。
●東京市による濠への注水弁及び水管築造工事竣工と桜
田濠と半蔵濠へ放流(着工は 1937 年)。
1946
昭和 21
●皇居周辺一体を含む東京都区別都市計画緑地を整備す
る都市計画決定。
1950
昭和 25
1954
昭和 25
●「江戸城跡」史跡指定。
●江戸城外桜田門、重要文化財指定。
●「江戸城跡」特別史跡指定。
●淀橋浄水場の閉鎖・移転に伴い、半蔵・桜田濠への水道
余水放流が停止し、以降濠の水質が悪化する。
●首都高速 4 号線千代田トンネル地下水、路面排水を千鳥
ヶ淵、半蔵濠・桜田濠へ放流。
●濠の水質管理のためソウギョ 100、ハクレン 100 を放流
(放流濠不明)。
●近衛歩兵第一聯隊跡記念碑建立
●千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会により、千鳥ヶ淵に毎年
コイの放流が行われた(∼昭和 60 年まで)。
●北の丸地区整備完了により、厚生省に移管。国民公園皇
居外苑の一部、北の丸公園として一般に開放される。
●東京国立近代美術館完成。
●皇居外苑(北の丸地区を含む)を厚生省から環境庁に移
管。
●国立公文書館竣工。
●千鳥ヶ淵、牛ヶ淵、半蔵濠など 12 濠の底泥量を計測(昭
和 47、49 年)。
●近衛師団司令部重要文化財指定。
●近代美術館分室(工芸美術館)竣工。
●吉田茂像建立
●東京駅の JR 京葉線工事による地下水を濠に導入したが、
T-N、T-P が高くとりやめる(昭和 62 年 6 月∼平成元年
7 月)。
●千鳥ヶ淵浚渫約 11,700 立米(平均採掘深さ 0.63m)。
●近衛歩兵第二聯隊跡記念碑建立
●皇居外苑濠水浄化施設竣工、本格稼動開始。
●JR 総武線のトンネル地下水利用を検討したが、塩素イオ
ン値が高く断念。
2008 平成 20 ●牛ヶ淵のかい掘りを実施(目的:水質改善、調査)。
※参考:『事務提要(国民公園)』、『皇居外苑風致考』(池辺武人著)、小平市図書館 HP 江戸年表、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵、北の丸公園
及び周辺地区
●濠周辺、都市計画法に基づく美観地区に指定(建築物の
高さ 31m までに規制)。
1933
●納涼とうろう流し開始。
●「国民公園及び千鳥ヶ淵戦没者墓苑管理規則」公布。
●千鳥ヶ淵戦没者墓苑建設。
●軍人会館(現九段会館)完成。
●千鳥ヶ淵の区営ボート場が開設され、ボート利用が
始まる。
●さくらまつり開始。
2
(1)古代
(2)1456 年∼1590 年(太田道灌による江戸築城∼徳川家康関東入府前)
・約 1 万年前の縄文前期の東京湾は、内陸部の奥深く、現在の栗橋あたりまで海が入り込んでいた。
・現在の皇居一帯は、武蔵野台地の東端にあ
・この時期の東京地方は概ね武蔵野台地の麓が波打ち際で、東側の東京下町低地の大部分は海であった。
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り、台地と小河川のつくった谷地が複雑に
入り組んだ地形で、東には東京湾が入り込
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んだ日比谷の入江が広がっていた。
・1456(長禄元)年に、扇谷上杉氏の重臣太
田道灌が谷戸地形を活かして江戸築城。
・1590(文禄元)年、徳川家康が江戸城に入
り(関東入府)、江戸普請を行う。水源確保
のために、自然地形を利用して小河川に堤
塘を築き、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵が造成された。
図 近世江戸の原地形(1590 年頃)
出典:鈴木理生「江戸・東京の地理と地名」
表
①
江戸の形成まで(∼1636 年頃)
1540 年頃
江戸の原形
東京都心の本来の地形。
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図 1万年前の関東地方
※東木竜七、1926 より一部改変。 出典:鈴木理生「江戸・東京の地理と地名」
江戸前島とは本郷台地の南に続く日本橋波
蝕台地のことである。近世都市江戸はこの低
い台地を中心に、その周囲を埋め立てなが
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ら、いわゆる大江戸を形成させていった。
②
1590 年頃
家康入城当時の江戸
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江戸前島付近の拡大図。
日比谷入江は現在の JR 浜松町駅付近で海に
続き、その沿岸の村々や平川河口の村々はの
ちの大伝馬町・小伝馬町・南伝馬町の位置に
移され幕府の伝馬役を務めた。太田道灌依頼
の城は図の本丸の範囲にあった。
図 武蔵野台地の遺跡分布(縄文時代)
※「千代田区史」より 出典:鈴木理生「江戸・東京の地理と地名」
3
③ 1590∼92 年ごろ 徳川直営の江戸普請
⑥
城普請により緊急の都市整備を優先し、平川
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1620 年頃
第三次天下普請
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の河口部を A・B・C のように付けかえて日
秀忠に代替わりした最初の工事(元和 6 年に
開始)では、平川・小石川の放水路を駿河台
比谷入江の埋立てをはじめた。同時に A’∼C
に掘り割って神田川につなげ、城と市街地の
までの道三堀と日本橋川を掘り、海と城を結
水害に備えた。並行して本丸の天守台・北の
んだ。短い赤線は上水確保のダムである。
丸・三の丸の石垣も築いた。この時期に海の
埋立てもかなり進んだ。
④ 1606∼07 年頃 第一次天下普請
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⑦ 1628∼35 年頃 第四次天下普請
幕府は江戸城建設のために全国の大名を動
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図の鎖線の内側が江戸西湖の都市図「武州豊
員し、図のように本丸・二の丸・北の丸の工
島郡江戸庄図」略称「寛永図」の範囲にあた
事と、日比谷入江を埋め立てて大名屋敷地区
る。江戸前島の外濠にも城門と石垣が築かれ
とし、この地区の上水源の溜池をつくり、江
た。城郭工事は何度も同じ場所を補修する形
戸前島に外濠を掘り城郭と市街地と江戸湊
で繰り返されたのが特徴である。
の区別をつけた。また日本橋を基点に五街道
制度を定め、それぞれの道路を確定した。
⑤ 1612∼15 年頃 第二次天下普請と舟入掘
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⑧
この工事用に石船 3,000 艘が建造され、伊豆
1636 年頃
第五次天下普請
著作権保護のため図を表示しません。
山の手の外濠は台地内の谷を利用したこと
半島から石を輸送し、その陸揚げ用に 10 本
がよくわかる。濠幅は当時の大砲の射程距離
の舟入掘と八町堀舟入をつくり大規模な本
を考慮したもので、艦砲射撃対策は八町堀舟
城の規模拡大と石垣築造をした。また日比谷
入によった。この時期は海の埋立ても進み佃
入江跡を整備し、西の丸下・大名小路を確定
島も視界に入り、後の大江戸の範囲(神田川
し、一方、石神井川の放水路として神田川の
が完成した万治 3(1660)年)が定まりつつ
原形もつくり水害に備えた。
ある。
出典:鈴木理生「江戸・東京の地理と地名」
4
(3)近世:1590 年∼1657 年(徳川家康関東入府∼明暦の大火前)
■参考資料
・水源確保のため、自然地形を利用して小河川に堤塘を築き、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵を造成。
<江戸大絵図(明暦 3(1657)年頃)>
・堤塘斜面は、草地として維持され、マツが点在していた。
・堤塘の天端は、針葉樹(マツ、マキ等)を主体とする樹林帯を形成。
著作権保護のため図を表示しません。
出典:江戸大絵図(明暦 3(1657)年頃)
<明暦の大火前の江戸城を中心とした鳥瞰図>
著作権保護のため図を表示しません。
「立川博章画『江戸鳥瞰図
出典:立川博章画「江戸鳥瞰図 江戸城図(明暦)」
北の丸は主に徳川家ゆかりの人の住まいとして利用。庶民は立ち入れない徳川家の住まいであった。
江戸城図(明暦)
』」をもとに作成
番町∼小川町は江戸城防備のための旗本・御家人を中心とした武家屋敷地帯となっていた。
5
(4)近世:1657 年∼1867 年(明暦の大火後∼江戸城開城)
■参考資料
<文久 2(1862)年の江戸城を中心とした鳥瞰図>
・明暦の大火後、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵周辺は火除地として利用される。
<千代田区内の火除地分布>
・千鳥ヶ淵の谷筋に沿って、二股に突き出していた部分は埋め立てられている。
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著作権保護のため図を表示しません。
明暦の大火後、武家屋敷帯であった千鳥ヶ淵、牛ヶ淵周辺には火除地が設置される。
出典:立川博章画「江戸鳥瞰図
江戸城図(幕末)」
出典:千代田区史上巻
<浮世絵に描かれた九段坂と牛ヶ淵の風景>
著作権保護のため図を表示しません。
<浮世絵に描かれた堤塘の植生>
著作権保護のため
図を表示しません。
著作権保護のため
図を表示しません。
手前が牛ヶ淵、奥が千鳥ヶ淵
図 くだんうしがふち 葛飾北斎画
出典:
「北斎」全集浮世絵版画5
図
外桜田弁慶堀糀町
図 糀町一丁目山王祭ねり込み
弁慶橋付近や桜田堀を描いた浮世絵では、
堤塘斜面は草地にマツ、マキが点在している。
出典:歌川広重「名所江戸百景」
(安政 3-5 年(1856 - 1858))
「立川博章画『江戸鳥瞰図
江戸城図(幕末)
』」をもとに作成
6
(5)近代:1867 年∼1900 年(明治維新∼代官町通り整備前)
■参考資料
・明治維新以後、江戸城内は荒廃したが、北の丸の造成を行い、近衛師団兵営地を設置。その際、濠や堤塘はそ
<江戸開城後の荒廃した田安門、清水門の様子>
のまま残された。
著作権保護のため図を表示しません。
・火除地跡には、政府高官・皇室関係者の住まいや外国の公使館が置かれ、公的な土地利用がなされた。
図
著作権保護のため図を表示しません。
田安門(第四十四図)
図 清水門(第四十五図)
出典:蜷川式胤編「旧江戸城写真帖」明治 4 年(1871)
<近衛師団兵営地設置後の地形図>
著作権保護のため図を表示しません。
北の丸は兵営地として利用するため、平坦でほとんど植栽がされていない。
出典:五千分一東京図測量原図(明治 16 年(1833))
五千分一東京図測量原図(明治 16 年(1833))をもとに作成
7
(6)近代:1900∼1945 年(代官町通り整備後∼第二次世界大戦終戦)
■参考資料
・明治 33(1900)年の代官町通り整備により、千鳥ヶ淵に新たに土橋が設けられ、千鳥ヶ淵と半蔵濠に分かれる。
<千鳥ヶ淵沿いを市電が通っていた時代の地形図>
・明治 40(1907)年には、急坂の九段坂を避け、牛ヶ淵、千鳥ヶ淵の土手を削り、坂下から坂上に市電を開通。
著作権保護のため図を表示しません。
<市電が内堀通りに切り替えられた後の地形図>
著作権保護のため図を表示しません。
・関東大震災(1923 年)を機に、九段坂が拡幅され、市電は道路の中央部を走るようになる。また、千鳥ヶ淵沿い
の線路は廃止され、現在の内堀通りに切り替えられた。市電は昭和 38(1963)年まで運行。
出典:一万分の一地形図 都心周辺
大正 10(1921)年修正 陸地測量部
出典:一万分の一地形図 都心周辺
昭和 5(1930)年測図 昭和 12(1937)年修正 地理調査所発行
<田安門前から九段牛ヶ淵沿いを走る市電を撮影した絵葉書>
<市電が牛ヶ渕沿いを走る様子が描かれた絵葉書>
著作権保護のため図を表示しません。
濠沿いを掘削した様子がわかる
出典:明治・大正・昭和東京写真集大成
※「一万分の一地形図 都心周辺大正 10(1921)年修正 陸地測量部」をもとに作成
8
著作権保護のため図を表示しません。
軌道が田安門前の土手下を潜っている。田安門前のサクラ
は描かれていないため、大正時代までのものと思われる。
(7)現代:1945 年∼1964 年(第二次世界大戦終戦後∼東京オリンピック前)
・終戦後、近衛師団兵営地跡は警察学校や宮内庁、法務省などの官庁の庁舎として利用。
■参考資料
・千鳥ヶ淵沿いの旧火除地は、北からインド大使館、九段坂病院、農林水産省分庁舎、千鳥ヶ淵戦没者墓苑(昭和
<1947∼1948 年の空中写真>
34(1959))となった。
著作権保護のため図を表示しません。
終戦後の千鳥ヶ淵周辺の空中写真。近衛師団兵営地跡が残されている。
<1963 年の空中写真>
著作権保護のため図を表示しません。
公園整備前の様子。科学技術館、日本武道館は昭和 39 年に開館。
出典:国土地理院(上記 2 枚とも)
※「東京三千分之一図(昭和 31∼34 年)」をもとに作成
9
(8)現代:1964 年以降(東京オリンピック後∼現在)
・昭和 37(1962)年から首都高速道路の工事がはじまり、東京オリンピックの昭和 39(1964)年に開通。千鳥ヶ
■参考資料
淵の風景が大きく変化した。
空中写真を見ると、当初はまばらに植えられていた堤塘や北の丸公園内の変化がよくわかる。
・近衛師団兵営地跡は、昭和 38(1963)年の閣議決定に基づき、森林公園としての整備が開始され、昭和 44(1969)
年に、国民公園皇居外苑の一部として、北の丸公園が開放された。
<1974 年の空中写真>
<1984 年の空中写真>
<1992 年の空中写真>
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・濠、石垣・堤塘は、一部改変されているものの、近世に造成した形態が現存している。
北の丸公園開放から 5 年経過。
北の丸公園開放から 15 年が経過。
北の丸公園開放から 20 年以上経過。
千鳥ヶ淵沿い、園内ともに植栽はまばら。 当初はまばらであった植栽が成長している。 芝生広場内に植栽し、現在に至る。
出典:国土地理院
千鳥ヶ淵
図 現代の東京の地形図
江戸の現地形(3 頁)と比較すると、開発は進んでも従来の自然地形を活かした土地利用であることがわかる。
※国土地理院、国土交通省 水管理・国土保全局作成の「基盤地図情報(5m メッシュ標高)
」を
「カシミール 3D」により加工し作成
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千鳥ヶ淵周辺におけるサクラ植栽の経緯
1.ソメイヨシノの群植発祥地について
■明治 14 年、アーネスト・サトウにより英国大使館前にソメイヨシノが植栽された
・英国大使館前の道路では、明治 14(1881)年に、英国駐日公使のアーネスト・サトウが手植えでソメイヨシ
■ソメイヨシノは江戸中期または末期に、江戸・染井村で人為交配によって誕生
ノを植栽した。(「東京のさくら名所今昔」相関芳郎、東京都公園協会監修、郷学舎、1981)
・ソメイヨシノの作出は、江戸中期(1730 年頃)の伊藤伊兵衛政武によるとする説や、江戸末期の河島権兵衛
・明治 31(1898)年に、上記の英国公使館前の桜が東京市に寄贈されたことに端を発して、寄贈された数百本
によるとする説などがある。(「桜Ⅱ」有岡利幸、法政大学出版局、2007)
のサクラ(ソメイヨシノ)が英国公使館前と現在の千鳥ヶ淵公園付近に植栽される。
・ソメイヨシノの起源はエドヒガンとオオシマザクラの人為交配によって生まれたというのが通説である。
(た
だし自然交配説などの異説あり。)
(「ソメイヨシノの起源に関する諸文献の調査結果」岩崎文夫、筑波大農林
■大正9年、英国大使館一帯が天然記念物に指定され「東京の名所」となった
研報 1、1989)
・大正 8 年に市区改正事業により千鳥ヶ淵公園が開園し、大正 9 年には英国大使館前および千鳥ヶ淵公園一帯
・ソメイヨシノの発生地は郷土史研究家などに江戸の染井村(現在の駒込)であると伝承されている。
(「駒込・
の桜並木が東京府史的紀念物・天然記念物勝地保存心得によって東京府の天然記念物に指定された。その後、
巣鴨の園芸史料」豊島区郷土資料館、豊島区教育委員会、1985 年)
文化財保護法に継承されるが、昭和 41 年に解除される。
・大正 12(1923)年帝都復興事業により、九段から半蔵門方面へ抜ける内堀通りがつくられ、サクラ並木も英
■江戸末期、墨田川堤にソメイヨシノが植栽され、群植の起源となった
国公使館前から靖国神社まで続くように植えられた。
・江戸末期において墨(隅)田川堤に吉野桜(ソメイヨシノ)が弘化年間(1844∼48 年)にまず植えられ、嘉
・昭和 11(1936)年の記録によれば、富士見町∼半蔵門において 170 本の吉野桜(ソメイヨシノ)、代官町通り
永年間(1848 年∼54 年)にも植えられた。明治期になると明治 16(1883)年に 1000 本という多数のソメイ
に 219 本のヤマザクラが街路樹として植栽されており、三宅阪方面のサクラ並木とともに「東京の名所」と
ヨシノが植えられた。(「桜Ⅱ」有岡利幸、法政大学出版局、2007)
なっていた。(「東京のさくら名所今昔」相関芳郎、東京都公園協会監修、郷学舎、1981)
■江戸期のサクラの名所は、明治期の太政官布達公園等として引き継がれた
■戦後、北の丸法面や緑道側に大規模にソメイヨシノが植栽され、現在に至っている
・浅草寺、上野寛永寺、飛鳥山、増上寺、富岡八幡などの江戸期のサクラの花見の名所は、明治 6 年の太政官
布達等によりその多くが官営公園に取り込まれた。いずれもヤマザクラを主体とする植栽であったが、次第
・昭和 30 年代に千代田区の直営事業により、千鳥ヶ淵の土手にソメイヨシノが植栽された。
にソメイヨシノに置き換えられた。(「東京のさくら名所今昔」相関芳郎、東京都公園協会監修、郷学舎、1981)
・昭和 41(1966)年「日本のさくら百景」のキャンペーンで日本花の会と日本さくらの会からソメイヨシノの
苗木 400 万本が全国に提供された。千鳥ヶ淵緑道の現在のソメイヨシノはその頃植栽されたとされる。
2.千鳥ヶ淵周辺におけるサクラ植栽の経緯
・昭和 54(1980)年に千鳥ヶ淵緑道は「四季の道」として整備され、長く楽しめるように早咲きのサクラ、ソ
メイヨシノ、遅咲きのサクラが植栽された。
■明治2年創建の招魂社(靖国神社)にサクラが植栽され、サクラの名所となった
・昭和 60(1986)年に北の丸公園北側斜面に環境庁が昭和天皇在位 60 周年記念事業として、ケヤキとともにソ
・招魂社(靖国神社)は明治 2 年に建設され、庭園に陸海軍の戦友会等がサクラを献納しはじめた。
メイヨシノを植栽した。
・創建当時は、庭園を中心にマツやウメとともにサクラが植栽された。庭園には他の植物とともに単木で植栽
されたサクラが描かれており、当初植栽されたサクラがソメイヨシノであったかは不明である。(「桜が創っ
た「日本」-ソメイヨシノ起源への旅-」佐藤俊樹、岩波新書、2005)
・明治 20 年代に入ると、靖国神社が「サクラの名所」として広く知れ渡るようになる。明治 24∼25 年には、
吉野桜が 300 本群植されたとの記録があり、明治 30 年代の図絵には参道に列植されて一斉開花するソメイヨ
シノと思われるサクラが名所として描かれる。(「東京名所図会」宮尾しげを監修、睦書房、1969)
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参考資料)
a 「ソメイヨシノの合成」竹中要、遺伝 16(1)、1962
b 「駒込・巣鴨の園芸資料」豊島区教育委員会、豊島区郷土資料館、1985
c 「桜Ⅱ」有岡利幸、法政大学出版局、2007
d 「豊島の歳時記」豊島区、豊島区図書館、1978
e 「豊島区の歴史」林英夫、名著出版、1977
f 「ソメイヨシノの起源に関する諸文献の調査結果」岩崎文夫、筑波大農林研報 1、1989
g 「豊島区立郷土資料館 常設展図録」豊島区郷土資料館、豊島区郷土資料館、1984
h 「東京人 no.297_特集歴史で歩く東京の公園」都市出版株式会社、2011
i 「桜が創った「日本」-ソメイヨシノ起源への旅-」佐藤俊樹、岩波新書、2005
j 「東京のさくら名所今昔」相関芳郎、東京都公園協会監修、郷学舎、1981
k 「東京名所図会」宮尾しげを監修、睦書房、1969.
l 「千鳥ヶ淵公園の桜について」千代田区土木部公園河川課、公園緑地 VOL57No2、1996
m 「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」石黒敬章、角川学芸出版、2011
n 「千鳥ヶ淵東側堤塘樹木植栽工事写真」㈱富士植木、昭和 53 年
表 千鳥ヶ淵周辺におけるサクラ植栽の経緯
年号
明治 2 年
千鳥ヶ淵周辺におけるサクラ植栽の経緯
招魂社(後の靖国神社)建設後、国内に陸海軍の戦友会がサクラを献納していき、サ
クラの名所として親しまれるようになる。
創建当時は、庭園を中心にマツやウメとともに植栽された。庭園には単木で植栽され
たサクラが描かれており、当初植栽されたサクラがソメイヨシノであったかは不明で
ある。
(「桜が創った「日本」-ソメイヨシノ起源への旅-」佐藤俊樹、岩波新書、2005)
明治 14 年
東京市が英国大使館前の道路(現、内堀通り)に同国代表と協議してソメイヨシノを
植栽(アーネスト・サトウがサクラを手植えした)。
明治 20 年代
靖国神社が「サクラの名所」として広く知れ渡るようになる。明治 24∼25 年には、吉
野桜が 300 本群植されたとの記録があり、明治 30 年代の図絵には参道に列植されて一
斉開花するソメイヨシノと思われるサクラが描かれる。(「東京名所図会」宮尾しげを
明治 31 年
監修、睦書房、1969)
駐日英国公使のサー・アーネスト・サトウより寄贈された数百本のサクラ(ソメイヨ
シノ)が英国公使館前と現在の千鳥ヶ淵公園付近に植栽される。
明治 30 年代
当時の千鳥ヶ淵の図絵では、皇居側の堤塘にはサクラの植栽がみられないが、同時代
の外堀の弁慶橋周辺の堤塘にはサクラの一斉開花が描かれており、サクラの名所とな
っていた。(「東京名所図会」宮尾しげを監修、睦書房、1969)
大正 8 年
明治期の市区改正事業の一環として千鳥ヶ淵公園が開園した。
大正 9 年
英国大使館前および千鳥ヶ淵公園一帯の桜並木が東京府史的紀念物・天然記念物勝地
保存心得によって東京府の天然記念物に指定された。
大正 12 年
帝都復興事業により、九段から半蔵門方面へ抜ける内堀通りがつくられ、サクラ並木
も英国公使館前から靖国神社まで続くように植えられた。
昭和 5 年
近衛師団の記念により、田安門前のソメイヨシノが植栽された。
昭和 10 年代
昭和 11 年東京市発行の「東京の四季」によると、富士見町∼半蔵門において 170 本の
吉野桜が、五番町∼竹橋において 219 本の山桜が植えられていた。(「東京のさくら名
所今昔」相関芳郎、東京都公園協会監修、郷学舎、1981))
昭和 29 年
千代田区が千鳥ヶ淵で「さくらまつり」を開催する。
昭和 32 年
千代田区の直営事業により千鳥ヶ淵の土手にソメイヨシノを植栽。昭和 30 年代に、代
昭和 39 年
千鳥ヶ淵公園に首都高速道路建設に伴う条件工事として目通り 45 ㎝のソメイヨシノ
昭和 41 年
「日本のさくら百景」のキャンペーンで日本花の会と日本さくらの会からソメイヨシ
官町通りに大規模に補植。その後も数度にわたって補植。ヤマザクラ主体。
を植栽。昭和 40 年にはヤマザクラを植栽。
ノの苗木 400 万本が全国に提供された。千鳥ヶ淵緑道の現在のソメイヨシノはその頃
植栽されたとされる。
英国大使館前一帯で東京都の天然記念物に指定されていた「桜並木」が解除される。
昭和 54 年
千鳥ヶ淵緑道は「四季の道」として整備され、長く楽しめるように早咲きのサクラ、
ソメイヨシノ、遅咲きのサクラが植栽された。
昭和 60 年
北の丸公園北側斜面に環境庁が昭和天皇在位 60 周年記念事業として、ケヤキとともに
ソメイヨシノを植栽した。
昭和 62 年頃
昭和 60 年から数年後、九段坂に沿った牛ヶ淵の法肩に環境庁がソメイヨシノを植栽。
平成 16 年
千代田区が「区の花さくら再生計画」を策定。
平成 21 年
千代田区が千鳥ヶ淵緑道を再整備
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■明治 30 年代の図絵や写真における千鳥ヶ淵の風景
■明治 13 年の図絵にある靖国神社への皇族の参拝風景
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(東京名所九段坂上靖国神社、歌川広重(三代目)画、明治 13 年)
(東京名所図会、宮尾しげを監修、睦書房、1969)
明治 10 年代では、靖国神社の境内にはマツやモミ等とともにサクラが単木で描かれている。
著作権保護のため図を表示しません。
■明治 30 年代の図絵や写真における靖国神社のサクラの風景
著作権保護のため図を表示しません。
(明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋、石黒敬章、角川学芸出版、2011)
明治 30 年代の図絵や写真では、千鳥ヶ淵の東側堤塘にサクラは植栽されておらず、マツ林の大木が対岸の主景
となっている。西側堤塘法肩には、植栽が見られる。
(東京名所図会、宮尾しげを監修、睦書房、1969)
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■明治 30 年代の図絵における弁慶橋の風景
著作権保護のため図を表示しません。
(明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋、石黒敬章、角川学芸出版、2011)
明治 30 年代の図絵や写真には参道に列植されて一斉開花するソメイヨシノと思われるサクラが記録されており、
靖国神社がサクラの名所として広く知られていた。
(東京名所図会、宮尾しげを監修、睦書房、1969)
明治 30 年代、外堀の弁慶橋付近の堤塘にはサクラの一斉開花が描かれており、サクラの名所になっていた。
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■大正時代の写真における英国大使館前および千鳥ヶ淵公園の風景
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(明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋、石黒敬章、角川学芸出版、2011)
駐日公使アーネスト・サトウによるサクラの寄贈を端にして植栽整備された英国大使館前および千鳥ヶ淵公園
周辺は桜並木の名所となり、一斉開花している風景が写真絵はがきに記録されている。
■昭和 50 年代の写真における千鳥ヶ淵東側堤塘の風景
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(千鳥ヶ淵東側堤塘樹木植栽工事写真l、昭和 53 年)
昭和 50 年代の写真では、千鳥ヶ淵東側堤塘は現在のようにサクラの大木が樹冠を鬱閉している状況になく、サ
クラは散立している。
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