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Title
月例研究発表要旨
Author(s)
Citation
Issue Date
Type
言語文化, 28: 71-81
1992-02-10
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/8937
Right
Hitotsubashi University Repository
月例研究発表要旨
行記への忠実さが色濃く残ってはいる。だ
第145回1990年5月30日
が,旅の記述を支える語り手としての「私」
「フランス・・マン派と東方の旅」
が担う機能が,シャトーブリアンのテクス
トにおいて大きく変化したのである。従前
野崎歓
の旅行記では,シャトーブリアンが先達と
仰ぐrエジプト・シリア旅行記』のヴォル
他処への憧憬を養うのはあらゆる「ロマ
ネーの場合に代表されるように,語り手の
ン派的魂」の常であるが,フランス・・マ
役割は記述の真率さと信愚性を保証するこ
ン派の場合,異国趣味の対象として偏愛し
とに限られており,「私」は,もっぱら異国
たのはとりわけオリエントの国々だった。
の事物に関する権威としてのみテクストの
いわゆる東方問題の緊迫や,学問としての
表面に登場できるのだった。それに対し,
オリエント学の成立といった,政治的,文
シャトーブリアンの書物の特徴は,語り手
化的背景のもと,十九世紀後半のフランス
にして登場人物である「私」の存在を表面
の文学者たちのあいだには,実際にオリエ
に押し出したことにある。旅行記が潜在的
ントの地にまで旅をし,その記録を書物と
にもつ自伝的側面を強調し,「私」の思考,
してまとめることが一種の慣習となった。
感情,冒険の物語によって読者の興味に訴
いわばジャンルとしての「東方紀行」の成
えようとするシャトーブリアンの流儀は,
立である。シャトーブリアン,ラマルチー
きわめて斬新であり,以降の東方紀行が急
ヌ,さらにはネルヴァルという三人の文学
速に「文学化」する噛矢となった。
者の残した,このジャンルを代表するもの
客観的記述が書く主体の印象を中心とす
と目される旅行記を読み直してみることは,
る記述へと移行し,旅する者の内面性が旅
われわれにとって,旅とその記述との変貌
行記の重要な素材になってゆくという,シ
の諸相を辿ることであると同時に,いわゆ
ャトーブリアンの書物が示唆した紀行文の
る大・マン派の世代から,・マン派末期の
あり方の変化を決定的に押し進めたのが,
世代へと到るあいだに,「書く」という営み
アルフォンス・ド・ラマルチーヌ(1790−
自体に生じた変容を探る契機となりうる。
1869)のr東方紀行』(1835)である。「私
フランソワ・ルネ。ド・シャトーブリア
は東方の旅を,わが内的人生にとっての重
ン(1768−1848〉が1811年に刊行した『パ
大事として夢みてきた」というラマルチー
リからエルサレムヘの旅』の成功が,東方
ヌの紀行には,オリエントの社会と文化に
の旅が流行する直接の原因となったことは
対する共感,連帯感があふれ,豊かな感動
間違いない。「旅行者は一種の歴史家であ
が行文に1張っている。「祈りの民族」の地
る」と述ぺ,異邦の地の現実よりも古典の
オリエントとは,彼にとって西欧の宗教的
記憶の確認ばかりに熱心な旅人シャトープ
秩序の中では満たされない内的欲求が救い
リアンの姿には,十八世紀の「学問的」旅
を見出しうる土地であり,そこを旅するこ
72言語文化 VoL28
とはひとつのイニシエーションに他ならな
底し,「心的」と呼ぶべき次元にまで浸透す
い。東方の旅は,ラマルチーヌと共に,霊
る記述の可能性を探り当てたのだ。
的探求の旅となった。
東方に内的冒険の舞台を求めるという点
第146回1990年10月24日
でラマルチーヌの旅行記を引き継ぐのがジ
rスゥィフトと医学」
ェラール・ド・ネルヴァル(1808−1855)の
橋沼克美
『東方紀行』(1851)である。ネルヴァルに
おいても,オリエントは日常と聖なるもの
との交流の場として積極的な価値を担う。
スウィフトは初期の作品『書物戦争』
だが同時に,シャトーブリアンやラマルチ
(1704年)の中で,新旧論争に触れている。
ーヌらの先行世代のまとっていた重厚な装
諸学芸において古代人と近代人のいずれが
いとは異質な,「トゥーリスム」の時代にふ
優れているかというこの論争を椰楡したの
さわしい軽さがネルヴァルの文章に表れて
だが,医学についてみると,ガレノスとパ
いることに注目しなければなるまい。友人
ラケルススの対決を描くにあたり前者に軍
の「きみ」への気軽な書簡という体裁の下
配を上げている。スウィフトの医学観は古
に書き出されるネルヴァルの『東方紀行』
典的なそれであった。彼の蔵書目録には医
は,あてどなくさまよい出た気まぐれな
学書は少ないが,ヒポクラテス,ガレノス,
「トゥーリスト」の印象記として綴られて
ケルスス,サレルノ養生書といった古典医
ゆくのであり,旅人のうわついた足取りに
学が目立つ。これに対して近代医学の書物
ぴったりと添うエクリチュールのしなやか
はパラケノレスス,フェルネル,トマス・ギ
さこそが,彼の書物の今なお変わらぬ魅力
ブスンのもののみであり,ヴェサリウスや
となっている。旅人の意識のささいな揺れ
ハーヴェイは見当らない。スウィフトは医
も捕捉する文章は,眠りに落ちる「私」の
学を専門的に学んだことはないので,その
知覚までをも掬い上げるに到る。それは旅
知識には自ずと限界があったが,当時の大
の記録が,夢の記述へと転ずる瞬間だ。旅
学出の知識人に比して劣っていたわけでは
行記の「科学的」コードから遠く,シャト
決してない。
ーブリアン以降の「東方紀行」作者が拠り
スウィフトの書簡には健康と病気の話題
所とした自伝としての枠組みをも逸脱する,
が頻繁にみられる。スウィフトは22歳の
ある異なる書法の可能性が,ネルヴァルと
ときから宿痢ともいうべき耳の病気に生涯
ともに開かれているのである。
悩まされた。難聴,目まい,吐き気,耳鳴
こうして,ロマン派的「東方紀行」の系
りを伴うこの病気は,19世紀後半に「メニ
譜に,旅行記をとおして「私」の文学の可
エル症候群」と名づけられるまで,その原
能性を探る一貫した試みを見出すことがで
因も治療法も不明であった。スウィフトは
きる。シャトーブリアン,ラマルチーヌは
当時の著名な医師たちの診察を受け様々な
旅の記録を科学的,資料的有用性という束
治療法を試みたが,満足の行く結果は得ら
縛から解放し,自伝としての旅行記を成立
れなかった。二うした個人的体験が,スウ
させた。ネルヴァルはさらにその方向を徹
ィフトの近代医学観に反映されているのか
月例研究発表要旨
73
もしれない。16世紀以後,解剖学・生理
『神聖病について』におけるような,臨床観
学・薬学においては著しい刷新がみられた
察老の眼差しがあるように思われる。また,
けれども,現実の医療は何も変わっていな
「狂気に関する脱線」の中の「皮を剥がれた
いという感覚は,スウィフトに限らず一般
女」と「伊達男の死体」について述べた一
の人々が抱いていた感覚であった。
節は,明らかに解剖学者のことぱで書かれ
スウィフトは狂気に対して早くから強い
ている。他にも,人間の身体的・生理的側
関心をもっていた。『桶物語』の中の「狂気
面を微に入り細を穿って描いた作品を容易
に関する脱線」には,・ンドンのベドラム
に挙げることができる。℃うした側面によ
癩狂院の患者たちの様子を子細に描いた個
ってスウィフトは下品な作家であるとみら
所がある。当時ベドラムは一般に公開され,
れるのであるが,その下品さの中に実はグ
・ンドンの名所の一つであった。スウィフ
ロテスクな笑いと怜1利な人間観察が含まれ
トは自らの目で見た経験を基に書いたのだ
ていることは案外見落とされがちである。
と思われる。今から40年ほど前に発見さ
初期の政治的パンフレットや雑誌記事か
れた手紙によると,スウィフトは1714年
ら後年の『ガリヴァー旅行記』に至るまで,
にベドラムの運営委員の一人に任命されて
政治体の病いのメタファーがスウィフト的
いる。彼はまた,アイルランドにおける狂
レトリックの重要な構成要素となっている。
人収容施設の設立案を長年にわたって抱い
これは伝統的な「政治体(国家〉一身体」
ており,この案は死後に彼の遺言と遺産に
のアナロジーに,病いのメタファーが結び
よって聖パトリック病院として実現をみた。
ついたものであるが,多様な形をとって表
この他にもスウィフトはダブリンのいくつ
われ重層的な意味合いをもつ。たとえぱ
かの医療施設の運営に関わっていた。聖パ
『ガリヴァー旅行記』で,ラガード学士院の
トリック教会の主任司祭という公的立場は,
政治企画士が,党派争いの解決法として,
スウィフトの医療制度との関わりと無縁で
互いの政党のリーダーたちの脳を半分に切
はないが,この点を考慮しても,彼の狂人
って繋ぎ合わせる手術を提案する。その際,
や病人に対する配慮には尋常ならざるもの
個々の脳の質的量的差異は無視してよいと
があったといえよう。
いう。例によってスウィフトは,手術の手
スウィフトと医学の問題は伝記的にのみ
順を詳細かつリアルに描く。一見して滑稽
ならず作品論的にも興味深い問題である。
でグロテスクな企画なので,政治企画士な
スウィフトの作品において,医のことばは
るものの愚かさが椰楡されているのは明ら
しぱしば支配的である。たとえば,『霊の
かである。しかしながら,政争に嫌気がさ
機械作用』はクウェイカー教の信者たちの
して苛立っているスウィフト自身の怒りの
法悦を描いた作品であるが,スウィフトは
表現として読めないこともない。この場合,
反ピューリタン的宗教論を踏まえてはいる
『ガリヴァー旅行記』そのものが政治の腐
ものの,信者の表情や身体の動きを極めて
敗に対する乱暴な外科手術なのである。
即物的なことぱを用いて描いている。ここ
には,「てんかん」が神がかりではなくて病
気であることを論証したヒポクラテスの
74 言語文化 VoL28
byname in regular use and,in these cen・
第147回1990年12月19日
turies,their children came more and
「British Family Names」
more to call themselves by,and to be
known by,the byname of their father.By
P.E.Davenport
the end of the15th century almost every・
one in England possessed an inherited
The lecture gave a general and
byname,i.e.a family name.
copiously illustrated survey of the origin
The characteristics of each of the four
and character of British family names.
kinds of byname that provided family
Family names have their origin’in
names were then discussed.Anglo・Saxon
bynames,descriptive words or phrases
personal names,which were typically
used from ancient times to distinguish
two−element compomds of a co㎜on
among people bearing the same personal
Indo・European pattem,such as/Elfr詑d
name,thus‘Alfred Cuthbert’s son’(using
(a》1f‘elf,r詑d‘counse1’,modem Alfred),
the father’s name),‘Alfred(the)smith’
Eadmund(ead‘prosperity’,mund‘protec・
(the person’s occupation),‘Alfred(at
tor’,modem Edmund),declined in popu・
the) hil1’(his place of residence;or,if
1arity after the Norman Conquest of
he had come from elsewhere,his place of
1066,and by廿1e end of the13nl century
origin,thus‘Alfred(of)London’),‘Al−
over50%of men bore the Norman Fren・
fred black’(i。e. having black hair, a
ch names Henry,Richard,Robert,or
nickname).Such bynames were not
William(all of which are in fact ulti−
hereditary,so that if William,the son of
mately Germanic in origin:the ancestors
the man usually known as Alfred(the)
of the Nomlans were in large part
smith,became a carpenter,he would not
Franks who had migrated from farther
be known asWilliam(the)smith but as
east〉.Although Anglo−Saxon England
William(the)carpenter or by some
was a Christian society,it was not until
other byname,and the same person
after the Norman Conquest that biblical
might also be known by different
names and saints7names,mostly from
bynames among different groups of peo−
Hebrew or Greek and such as Danie1,
ple.In the 12th and 13th centuries the
Jo㎞,and Margaret,became popular.In
towns grew greatly and in such commu−
addition to merely apposing the father’s
nities stabilized bynames became neces−
name to a personys given name,thus
sary to identify people more clearly,
William Thomas,two other ways in
especially on the documentary level,and
which a personal name was made into a
to maintain the identity of families.In
byname were to attach to it the
the13th and14th centuries many people
su伍x・son,thus William Johnson,or to
in the towns appear to have had just one
add to it 廿1e possessive su伍x ・(e)s,
月例研究発表要旨
meaning by ellipsis‘son etc.of so・and・soy
75
(the blacksmith)。Some of the major
or‘servant or worker or apPrentice at
industries in the towns are reflected in
the house of so−and・so’,thus William
names such as Collier(who prepared and
Roberts,William Jones(based on
sold charcoal for cooking),Weaver,
‘John’).
Walker(who fulled the cloth woven by
There were two types of local byname,
the weaver),Potter,Tumer(a carpen・
The first indicated the place,natural or
ter,‘tuming’wood on a lathe),Chandler
man・made,where,or near which,a per・
(who made and sold candles),Wright(a
son lived,thus Bridge,Hill,Wood.The
carpenter,or a wheelwright or a cart−
second type,very much the larger,in・
wright),and Mercer(a trader or mer−
dicated the place from which a man had
chant).
come when he moved elsewhere,and
Nicknames were based on physical or
these are place・names proper,mainly the
on mental and moral characteristics.
names of hamlets and villages.The great
Most of the nrst type refer to physical
majority of such names are of Anglo・
size,thus Grant(from a French word,
Saxon origin and often refer to features
meaning‘ta11’),Long(i.e.ta11〉,Short,or
of the environment in which the settle−
to the colour of a person”s hair (or,in
ment was established,thus Eaton,Old
some cases,complexion),thus Black,
English6a−tOn‘village by a river’,Calver−
Brown,Gray,White.Names of the sec−
ley,Old English c紀lf・16ah‘calf・pasture’,
ond type are usually complimentary:
or sometimes to the founders of the set・
Gay,Hardy,Sharp,Smart,though a few
tlement,thus Bimingham,Old English
uncomplimentary nicknames have sur−
Beommundinga・ham ‘the village of
vived as family names:Best(from a
Beommund7s people”.
French word,meaning‘beast7〉,Pretty
Bynames based on occupations reHect
(01d English pra∋ttig‘cunning’),Savage.
both the dominant feuda1−agrarian struc−
The lecture concluded with a brief
ture of medieval English society and the
discussion of Celtic family names,most
growingindustriesinthetowns,Workers
of which have their origin in patronymic
in the manor・house of the feudal lord
bynames,asseen in Irish Mac珂ahon‘son
were such as the Butler,Chambeτ1ain,
of Mahon’and O’Comor‘grandson of
Clark(a minor cleric who kept records),
Connor,,
and Stewart(i.e.steward),and those
who worked on the manor were such as
the Knight(usually a tenant who held
land in retum for military service),
Miller,Baker,Carpenter,Brewer,Cow・
ard(cow・herd),Shepherd,and Smith
76 言語文化 VoL28
一トピアも,教養文化や芸術,哲学,学問
第148回1991年1月23日
への礼賛と同様,芳しい状況にはない。物
「ナショナリズムとドイツ再統一」
質的,性愛的消費,文化産業が人々の衝動
願望を満たさない限り,ナショナリズムが,
R,Habermeier
単純かつ暗示的に,人々の無意識に訴えか
けるようになる。特に東欧などでは,先進
1 ナショナリズムを強化,増長させる
諸国の消費レベルに達しておらず,その傾
社会構造や文化的要因として,今日,次の
向は一層顕著になるだろう。
ようなことが考えられる。
2他方,ナショナリズムの進展を阻み,
①世界国家や国家に代わる世界機構を作
少なくとも弱める構造や傾向も考えられる。
る試みが今のところ成功していない。
①経済のグ・一バル化によって国民国家
② 東西対立,ヤルタ体制で二分されてい
の主権が制限されるという論議があげられ
た先進工業諸国の支配体制が崩れ,戦前同
る。しかしR.アローが語るように,国家
様,国民国家間,地域問での紛争の可能性
の主権が根本から脅かされるわけではない。
がでてきた。
② 今日の軍事技術の破壊力は極度に達し
③ 経済活動に国境がなくなったとはいっ
ており,先進国家間の戦争は起こりにくく
ても,国民国家は依然として,その経済的
なっている。だが,第三世界では事情が異
繁栄や政治権力,国際的威信を保持すべく
なる。また,上述の事実も国家主権を制限
努めている。国家収支や経済力の国際比較
するだけであって,その本質を崩すもので
は,国家間の代理戦争として,社会内部の
はない。
不満や攻撃性に対する安全弁となっている。
③ 国際通信網の発達や一般人の海外観光
④富の配分の国際的不均衡,また将来に
旅行の増加で,極端な無知や歪んだ偏見は
おいては環境の悪化のために,大量の難民
なくなるだろう。また,道徳的判断を下す
が北の主要都市へ流出する。この難民と,
世界共通の世論が技術の発展とともに確立
受け入れ諸国の特に下層階級との対抗は,
されてきた。だが,その世論の関心も情報
外国人嫌い,防衛的ナショナリズムの原因
市場の原則に左右され,情報の氾濫も避け
となる。
られない。
⑤ 依然先進社会にひろまっている権威主
他方,現代の芸術や学問,文化産業がも
義的精神構造も,難民問題に同様の反応を
つ普遍愛は文化交流の必要性を唱えてきた
ひきおこす。この問題が存在しなくとも,
が,通信網や観光旅行はこれを容易にする。
権威主義は,攻撃的な人種差別,ナショナ
④先進資本主義社会は現在,過剰蓄積,
リズムや民族主義,軍国主義といった形で
過剰消費という新段階にあり,多面的消費
あらわれる。
を促す圧力が存在する一方,脱物質主義的
⑥ 先進社会において,普遍主義的な高度
な社会的性格も現れている。これは投資や
宗教は衰退の一途をたどっている。また,
貯蓄を志向する禁欲的資本主義の価値体系
18世紀以来,既成宗教に代わった自由主
や,権威主義的で獲得志向の社会的性格に
義,社会民主主義,あるいは共産主義的ユ
対立するものである。脱物質主義も,消費
月例研究発表要旨
77
志向のナルシシズムもともに,個人主義的
第二帝国の成立以来,前近代的な権威主義
で普遍主義的な価値観に傾き,国民国家に
的ナショナリズムが支配的であった。
はさほど関心を示さない。殊に環境危機と
ドイツでは最初の2つの波と異なり,労
いう地球規模の問題に人類が対峙する今日,
働運動が高度に組織化される等,第3の波
脱物質主義者にとって,国民国家へのこだ
が比較的早期に成功した。こうして,ドイ
わりは時代遅れである。
ツの近代化に特徴的なダイナミズムが,根
3 ナショナリズムとは,国民意識が強
強く残る前近代性と,急速に発展する社会
度化した状態であり,近代社会の社会アイ
主義の対立とから生ずる。このダイナミズ
デンティティを形成している。他の社会ア
ムは,後にドイツ帝国主義が第一次世界大
イデンティティとしては,部族主義,民族
戦やファシズムにそのはけ口を求める原動
主義,自民族中心主義,国際主義などがあ
力ともなった。戦後のドイツ分割も,ドイ
げられる。コールバーグやハーバーマスの
ツ内部に受け継がれた反目のダイナミズム
道徳性の発達段階論を社会及ぴ社会アイデ
が影響している。
ンティティの発達段階に適用すると,表に
60年代からは第4,5の波の発展がめざ
示すようになる。(78,79ぺ一ジ参照〉
ましかった。全人口の約7.5%が外国人と
4 近代化の歴史において,構造的には
いうことも反映して,社会民主主義勢力と
これまで5つの進歩の波がある。自由主義,
共に,多様な文化,民族社会が目標とされ
民主主義,社会主義という最初の3つの波
た(表V)。
の担い手は,社会運動によって利益を追求
だが90年,旧西ドイツの保守派がその
しようとする階級だった。だが,第4の波
経済力によって,旧東ドイツの革命に歯止
は新しい社会運動一依然権利の行使や機
めをかけた。近代以後の社会主義の計画を
会に恵まれない,女性,老人,若者,外国
新たに築き,第4,5の波を進めようとする
人らの集団運動である。第5の波は自然環
試みは阻止された。保守派は国民に対して,
境や社会文化的な伝統の保護,さらに侵略
再ぴ民族的な国家意識を扇動することに成
的な経済・官僚主義の膨張に対抗する第三
功した。こうして,ドイツの第3,4,5の波
世界から成り立つ。その波の担い手は,物
の力は崩れたようにみえた。しかし,これ
質的な欲求に固執しない脱物質主義的な社
は脱物質的・脱獲得的傾向の進展を妨げる
会的性格である。
ものではない。現にドイツで,あの国家統
国民意識の内容や強度は,その社会の近
一の熱狂が冷めてしまったのは周知のとお
代化の過程によって決定される。近代化の
りである。(訳・ハーバーマイヤー乃里子)
波の強さが,国民意識に影響するのである。
第3の近代化の波はすでに国民意識と二律
背反的な関係にあるが,第4と第5の波は
その国際主義の見地から,国民意識に対し
ては無関心か拒否の傾向が強い。
5 16世紀以来,ドイツは不均一に,部
分的に,遅れて近代化された。したがって,
78 言語文化 VoL28
道徳性の発達段階
社会の発達段階
1.社会アイデンティティ[同一性1,役割能力をもたない
利己主義
1 快楽志向で不快なことを避ける快楽主義的な利己主
(動物の社会:群れ,ホルド)
義
「動物的」権力行動
II 交換と計算的協力の目的合理的利己主義
自由主義者のユートピア?
(市場と目的合理的な組織か
らのみ成り立つ利己主義者の
経済社会)
2.「人倫」(へ一ゲル):「自己二我々」/[良い内側]対「彼
ら」/[悪い外側]
m 第1次集団(家族・単系的親族・近隣集団)と感情
1親族社会,古代人の第1次
的に強く結ぴ付いた役割追随主義
集団(家族,単系的親族)
インフォーマルで「自然発生的な」伝統と,インフ
2部族社会,階層化した集団
ォーマルな集団階層における権威
IV 国家への法的忠誠主義 国家の原理と抽象的規範か
伝統的社会
らなりたつフォーマルな体系における義務的倫理と美
1家産制社会
徳の倫理:伝統的慣習や形式的権威に忠実に従い,外
2封建社会
国人,アウトサイダーに対抗し,国家の階層秩序を自
3帝国主義的・官僚的社会
己を犠牲にして防衛
3.手続き上の普遍主義:[内]対[外〕の対立の止揚,道
徳性の根拠としての手続き
V 民主主義的個人主義
近代社会
1)普遍主義の諸原則(すべての個人の平等と自由,
1自由民主主義的社会
人道,人権)について省察する道徳性
2社会民主主義的社会
2) 社会契約,形式的民主主義,法律万能主義
3エコ・民主主義的社会
3) 私有財産(市場),相対的信条・意見をもつ私的個 (加えて権威主義的な誤っ
人の任意の自由
VIディスクルス[対話]的道徳性
た型の社会)
近代以降の世界社会?
関係する人すべてによる普遍主義的な議論:社会,
(対話的道徳性を備えるす
文化,精神構造に関する進歩的な研究と新たな決定
べての個人の連合体)
)
79
月例研究発表要旨
用語
独語
Herde
英語
herd
ude1;
ack;
orde
orde
社会アイデンティティ[同一性]
強度な社会アイ
とっての最重要要素と動機
ンティティ
日本語
群れ
(本能に動かされる集合体)一
衝動に動かされる権力行動)一
ルド
交換ないし組織の相互の利益?
Familie,
Clan
親族
tribe
部族
ippe
Stamm
血縁関係ないしトーテミズム
共有する社会制度
共通の祖先(「人種」等)という神話
家族主義
族主義
部族主義
共有する,特に婚姻に基づく社会
度
(Staats・)
olk,
伝統のイデオ・ギー}
peOPle,
民族
and
ountry
eich
mpire
帝国
nation
国民
Nation
(伝統的な)
一ないし共通の言語,文化,社会
族主義
文化,政治,あるいは経済
民族中心主義
当性をもった共通の社会制度
社会契約とそれに伴って民主主義的
に成立する社会制度
ナショナリズム
国主義
ョーヴィニズム
Mensch・
eit
human・
ind
人類
すべての個人の対話的道徳性の能
?
国際主義
80 言語文化 VoL28
で破産すら体験した家具職人の息子である。
第149回1991年2月20日
しかし,ここには,もっと大きな時代的背
「二人のノーベル賞作家
景の問題がある。マンは,彼自身よく意識
トーマス。マンとハインリヒ・ベノレ」
していたように,市民時代の末喬であった
が,ベルは市民時代の崩壊を幼年時代にす
青木順三
でに強烈に体験しつつ育ったということで
ある。
20世紀の前半および後半のドイツ文学
若かりし頃のベルには,当時は禁書だっ
の,それぞれ代表的作家であるマンとベル
たマンの作品にふれる機会は極めて乏しか
は,ともに単なる作家以上の存在だった。
った。そのベルが,従軍中フランスで偶然
二人の社会的発言が常に注目されたことは,
入手したマンの著書が,「よりによって」
彼らの作品の全集の中で,評論や講演,イ
『非政治的人間の考察』だったこと,そして
ンタビューなどの直接的発言が極めて大き
それを読んで,「あの本の奇妙なナショナ
な部分を占めていることにもよく現われて
リズムとプロイセンかぶれは,どうもあま
いる。両者には,共に時代に積極的に関わ
り感心しませんでした」とベルが語ってい
ろうとする姿勢,あるいは時代への責任感
るのは,いささか滑稽味のある,だが極め
が鮮明であり,彼らはそれぞれの時代にあ
て示唆的なエピソードである。マンにとっ
って反ファシズム,反戦平和,デモクラシ
ては苦渋にみちた精神の必死の戦い,「ド
ーの擁護といった発言をし続け,そしてこ
イツ的・マン主義的市民性の最後の壮大な
れによってドイツの中では共に孤立したり,
退却戦」も,ベルにとっては,殊に1942年
反体制的な立場に立つことになったりもし
という時期には,ほとんど理解の外にあっ
たのである。ところで,こうしたヒューマ
ただろう。ここには,時代の違いという問
ニスティックな立場からする批判的姿勢は,
題の上に,さらにベルの出身地ケルン,あ
一つの伝統あるいは遺産として,マンから
るいはラインラントとプロイセンとの関係
ベルに受け継がれたのか,というと,こと
という複合錯綜した問題が加わっている。
はそれほど簡単ではない。そこにはさまざ
さらにいま一つ,二人の相違点の重要な
まな,特にドイツ固有の問題がある。
要素として,戦争体験の違いがある。マン
ベルがマンを直接的に論じた文章はない。
は,いわば亡命文学者の代表的存在だった
しかし,折りにふれて言及した言葉から推
のに対して,ベルには五年間にわたる,最
察すると,ベルにはマンに対する反感とま
後まで下積みの一兵卒としての体験がある。
では言えないにしても,違和感ないし共感
戦争を空襲下のドイツ国内や最前線の戦火
の欠如のようなものが感じられる。これは
の下で過ごした人々が,亡命作家に対して
どこから来るものだろうか。
感じた違和感については,すでに多く指摘
このような共感の欠如は,マンとベルの
されているが,ベルも,亡命者への非難に
場合,まず生まれ育った家庭環境の違いに
なることを慎重に避けながらも,やはりこ
原因がある。一方は富裕な商家の生まれで
の違和感を語っている。そしてまた,アメ
あり,他方は第一次戦後の経済的困難の中
リカ軍の捕虜収容所で「ドイツのナチ野
月例研究発表要旨
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郎」と呼ぱれ続けた時に心の中に生まれた
這いずるようにして生きていた人々の,身
ある種の自尊心のようなもの,つまり「よ
近な「人間的な」生活を描くことのできる
うし,くそくらえ。それだって俺はドイツ
言葉,ベルが求めていたこの言葉は,いか
人だ。俺は書くんだぞ」といった抵抗感を,
にも亡命作家の言葉ではなかっただろう。
むしろ肯定的に評価している。
晩年のベルの,放恣であるとしてしぱしぱ
ところで,こうした違和感をさらに強め
非難された文体は,西ドイツの戦後の現実
た重要な一要素として,ナチと戦争の時代
の中で,「住むことのできる言葉」を求める
に生じたドイツ語の変化の問題がある。ベ
絶えざる試みから出てきたものと言ってよ
ルによれぱ,この変化は,ナチズムによる
いのではないだろうか。
ドイツ語の汚染といったネガティプな面の
敗戦後のいわゆる「零時」にあって,文
みにとどまらず,ある種の脱内面化と,ボ
学伝統の連続性と断絶のどちらがより強く
キャブラリーの変化があった。そして,こ
見いだされるか。一つのケーススタディと
のようにして生まれたドイツ語は市井の
して,ベルの目を通してマンを見ると,微
人々の言葉であって,同時にまたベル自身
視的にはやはり断絶の方がより強く意識さ
の言葉でもあり,しかも「そこには,亡命
れていることがわかる。それにもかかわら
文学の言葉と結ぴ付くものはほとんどなか
ず必らずや存在するはずの連続面を見るに
った」という。ベルが亡命作家たちの言葉
は,おそらくはまだ時間的距離が足りない
に対して感じた違和感は,理解できなくは
のであろうか。
ない。空襲で破壊し尽くされた廃嘘で地を
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