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小林勝の近代日本認識と植民地朝鮮

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小林勝の近代日本認識と植民地朝鮮
小林勝の近代日本認識と植民地朝鮮
―小説「夜の次の風の夜」に描かれた暴力と抵抗の歴史―
原 佑介*
Hara Yusuke
<要旨>
Kobayashi Masaru’s Representations of Modern Japan based
on his experience in the Colonial Korea
―A History of Violence and Resistance as depicted in「夜の次の風の夜」―
In his later years, Kobayashi Masaru(小林勝. 1927-1971), a Korean-born novelist,
wrote not only a personal history of events he himself had experienced over a span
of 43 years, including Japan’s defeat and the Korean War, but went far beyond this,
attempting to grasp substantively the history of Japanese violence against Korea. One
of the capstones of his life and career was the novel 「夜の次の風の夜」(1967), which
attempted to capture this historical perspective. The novel is set in a small town
deep within the mountains of Korea in 1938. What sets this novel apart is not so much
its narrative content as its unique method of narration. Kobayashi demonstrates his
full powers of literary imagination in the novel’s depiction of the suffering of a
Korean youth under intense torture by the Japanese authorities, and in the passion
and anger of the Korean students who meet secretly in a dilapidated schoolhouse in
order to reclaim the language and education that was stolen from them. By superimposing
on this narrative the story of Toyotomi Hideyoshi’s invasion of Korea, Kobayashi
illustrates in three dimensions the anguish of the Korean people, and the genealogy
of ethnic self-awareness and pride fostered through resistance to Japanese aggression.
Keyword:小林勝(Kobayashi Masaru)、朝鮮(Korea)、戦後日本(Postwar Japan)、
植民地(Colony)
1.はじめに
こばやしまさる
小説家小林 勝 は、1927 年に植民地朝鮮慶尚道晋州で生まれた植民者二世である。
敗戦の年の春に陸軍士官学校入学のため日本に移住するまでの期間を、朝鮮、主に
*
立命館大学先端総合学術研究科博士課程。日本学術振興会特別研究員 (DC2)。
104
大邱で過ごした。戦後、日本共産党に入党し、朝鮮戦争時には非合法デモで火炎瓶
を投げ、投獄された。20 代後半から創作活動を本格的に始めるが、1959 年に実刑
判決を受け、
約半年間獄中生活を送る。1964 年、肺結核に侵されていることが判明、
1966 年に二度の肺切除手術を受ける。同年 9 月退院、以後およそ 5 年間、最後の旺
盛な執筆活動に入るが、1971 年 3 月、腸閉塞で病死した。43 歳であった。
彼が作家として活動した時期は、入院などの中断期間を含めおよそ 15 年間であ
る。1950 年代後半の初期作品を見ると、芥川賞候補作となった「フォード・一九二
七年」〔1956 年〕をはじめ、植民地朝鮮を生きる日本人少年を主人公にした小説が
目立つ。1960 年代半ば以降の晩年は、戦後日本で植民地朝鮮の記憶に苛まれ続ける
男の苦悩が描かれるようになる。また、三一独立運動を題にとるなど、小林個人の
実体験の範囲を超えた民族の歴史に対する関心が深まっていく。43 年という長いと
はいえない生涯であったが、彼の最大の文学的テーマは一貫して朝鮮であった。小
林勝は、朝鮮に人生を捧げて戦後日本を生きた稀有の日本人文学者であった。
小林と高等学校時代同じ寮で生活していたことがある歴史学者の斉藤孝は、彼の
ことを次のように回想している。「晩年の彼は、何かに憑かれたようであった。獄
中生活、そして入院生活と、彼の肉体はすでにボロボロになっていた。彼の精神に
憑いたものは、朝鮮であった1。」
小林はなぜ朝鮮にこだわり続けたのか。無論、朝鮮植民者二世として前半生を生
きたという自身の出自そのものが、彼を突き動かし、戦後も引き続き朝鮮に関心を
持たせることとなった大きな要因であろう。しかしそれだけでなく、彼は朝鮮を通
して、彼に違和感と憤りを覚えさせずにはおかない戦後の日本と日本人を批判的に
とらえ直そうとしたのであった。朝鮮を描くことで、彼はむしろ朝鮮の視座に立っ
た時に見える日本と日本人、そして自分自身を描こうとし、そこにこそ主眼が置か
れていたといえる2。
代表作「蹄の割れたもの」
〔1969 年〕の中で、小林の分身である主人公の医師が、
1
2
斉藤孝「小林勝と朝鮮」『季刊三千里』(1984 年秋号)14 頁
近代日本の植民地主義を厳しく批判し続けた小林勝であるが、その文学に表れた歴史認識
は、朝鮮=善、日本=悪という単純な二項対立の図式に当てはまるものではない。少年時
代のみを植民地朝鮮で生きた彼は、晩年の作品「目なし頭」〔1967 年〕などで、当時植民
者二世として、日本人であるというだけで朝鮮人たちから受けた精神的肉体的暴力につい
ても克明に描き、そのことで生じた彼らに対する憎悪や反感と、戦後的な贖罪意識ややま
しさとの間で葛藤する日本人の苦悩を浮き彫りにしている。この問題に関して、本稿筆者
は別の論文〔原佑介「朝鮮植民者二世作家小林勝と『内なる懐かしさ』への抵抗」『コリ
ア研究』1 号(立命館大学コリア研究センター、2010 年)〕で考察した。
105
朝鮮問題に取り組む大学生たちに向かって心中で次のように問う場面がある。「朝
鮮人にとっての日本人とは、一六世紀末豊臣秀吉による文禄・慶長の役以来の、征
韓論以来の、江華島事件以来の、日清戦争以来の、日韓併合条約以来の、土地収奪
以来の、いわゆる三・一万歳事件以来の、憲兵・警察・監獄網以来の、朝鮮語禁止
以来の、『皇国臣民の誓詞』以来の、創氏改名以来の、強制連行以来の、強制労働
以来の、それから朝鮮戦争と特需景気による日本産業復興以来の、その他もろもろ
、、、
以来の、その総合的統一体としての日本人なのですよ、これと関係のない別の日本
人というのは、一つの抽象であって、つまり、あなたが何時どんなところで、どん
な朝鮮人とむかいあおうとも、あなたは、あなたによって代表される『日本人』と
いう存在以外のなにものでもないのだというふうに自分を実感したことがありま
すか〔傍点原文〕3?」
ある面では朝鮮人にとっても日本人にとってもきわめて強迫的だともとれるこ
うした一種極端な日本人観は、小林勝の死後彼の文学を取り上げた数少ない先行研
究の中でも冷笑的な態度で受け流されることがあった。しかし、そのような見方は、
少なくとも小林個人の実人生に裏打ちされたものではあったと推察できる 4。また
3
4
『小林勝作品集』4 巻 29-30 頁。以下、本稿における小林勝の文章の引用を『小林勝作品集』
全 5 巻(白川書院、1975-1976 年)から行なう場合、注の簡略化のため、巻数およびページ数
を、本文、注ともに引用文の直後に〔 〕でくくった上で挿入する。表記の方法としては、
たとえば 1 巻の 2 頁から 3 頁にかけて文章を引用した場合、〔①2-3〕とする。ただし、「夜
の次の風の夜」〔⑤191-249〕からの引用の注は、煩雑になるため省略した。同作品集以外
からの引用の場合は、その都度記す。なお、明らかな誤字、脱字を改めた箇所がある。
小林は、朝鮮人が日本人を揶揄する際に用いる隠語「チョッパリ(草履や下駄など、足の親
指と人差し指の間を割る履物を履く習俗を持つ日本人を茶化す語。日本人を豚や牛になぞ
らえる)」の帯びる歴史的意味に着目し、「蹄の割れたもの」という表題の小説を書き、さ
らに文字通り『チョッパリ』という表題の作品集を出版までした。文芸評論家の川村湊は、
こうした小林の強いこだわりを、「思い込み過剰の深刻癖」とし、「小林勝の錯誤は、『朝
鮮』が自分の内部にある『贖罪』の対象であって、現実的な個人や国家の存在とは切り離
されている観念的で抽象的なものでしかなかったことではないだろうか」と批判している
(『満洲崩壊』213-215 頁)。
一方の小林は、朝鮮人と向かい合う時は常に日本人を代表せざるを得ないという、ある意
味ではきわめてナイーブともいえる感覚の必然性を、様々な小説に逸話として挿入しなが
ら訴えかけた。文学の中に創作として溶けこんでいるこれらの逸話は、小林の実体験に基
づいたものであろうと推測される。たとえば、戦後日本共産党に入党し、朝鮮戦争時には
戦争反対運動で朝鮮人とも共闘した経験を持つ小林は、中編「目なし頭」の中で、ある朝
鮮人共産主義者が、植民者二世で戦後共産主義者になった日本人主人公に対して、国際連
帯を標榜する共産主義の理念以前の民族的憎悪を告白する場面を描いている。それは、植
民地朝鮮に生きた日本人に対する「話を聞く朝鮮人の思想が進歩的であるか否か以前の、
血の騒ぎ〔……〕どうしようもない苦痛と憎悪との沸騰」であった。戦後日本において多
くの在日朝鮮人と交流、衝突する中で、小林はこのような「血の騒ぎ」に幾度となく直面
106
彼は、日本人社会の共同性にまったく与しない「根なし草」的な植民者が否応なく
日本人としての立場に追いこまれていく小説を繰り返し書き、民族性を漂白した裸
一貫の個人というような観念の非現実性を訴えた5。時に「朝鮮コンプレックス6」
、、、
と揶揄されることもあった、「総合的統一体としての日本人」を代表する存在であ
る自分、という小林の気負いが、彼の文学に独特の重苦しさや閉塞感、ぎこちなさ
をもたらしていることは否めない。しかし同時にそのことによってまた、同時代の
多くの在日朝鮮人文学者の支持を集めたある種の率直さや誠実さが付与され 7、さ
したと思われる。
その好例が、朝鮮全土を席巻した三一独立運動の渦に呑みこまれる山奥の町の日本人社会
を描いた中編「万歳・明治五十二年」である。窮屈な郷里に嫌気がさした主人公の青年大
村は、「無限の自由の土地」と思われた植民地朝鮮に脱出する。たまたま流れついた小さ
な町で、農業学校の書記という地味な職を得て暮らすようになったが、他の日本人たちと
はちがい、その土地にほとんど何の愛着も所有意識も持たずにいた。しかし、突如として
巻き起こった 1919 年 3 月の騒乱の中で、警察署に押しかけた朝鮮人群集に向かって恐怖の
あまり無意識的に猟銃を発砲し、数人の朝鮮人を虐殺してしまう。そのことがきっかけと
なり、敵意に満ちた朝鮮人たちの眼差しにさらされるようになった大村は、激しい恐怖に
捕らわれる。そして、自らが望むと望まざるとにかかわらず、植民地においては自分は日
本人以外の何者でもあり得ないのだということを悟り、一刻も早く植民地を脱出したいと
いう衝動に襲われる。
町で騒動が起こる前は、「おれは確かに日本人であるかもしれない、しかし、おれはこの
、、、、
町の岸本たちのような日本人とは違うはずだ、それはこの町の日本人たちに、いや朝鮮人
、、、、、、、、
たちにもわかっているはずだ、おれはこんなことにはかかわりたくないし、かかわらない
、、、、、、
でおられるはずだ〔傍点原文〕」という希望的観測にしがみついていた大村であったが、
この幻想は実際に騒乱の渦中に放りこまれることになるとたちまち打ち砕かれる。自警団
の一員として警察署に駆けつけ、銃の安全装置を解きながら、彼は朝鮮人から見た日本人
としての自分という存在を初めて現実的に認識するようになる。
「おれには関係ないんだ、
こんな山奥へ来ちまったのは、ほんとに偶然なんだ、しかし、やつらはおれを区別しはせ
んだろう、日本人めといって同じように来やがるだろう、ああ、やつらがおれめがけて襲
撃してきたら。」この直後、意図せざる殺戮に手を染めてしまう大村は、自分を日本人と
して見る朝鮮人たちの眼差しに貫かれることを通して、自らが植民地において日本人であ
ることの厳粛な意味を悟っていくようになるのである。
6
後藤明生「グロテスクな〈記憶〉」『文芸』(1970 年 7 月号)207 頁。このように小林の文
学を批判した小説家後藤明生は、小林と同じく朝鮮植民者二世であった。
7
たとえば金石範は、『小林勝作品集』の最終巻に評論を寄稿しているが、「私はいま小林
勝のいくつかの作品を読んで重苦しい感動で心が重い」と書き起こし、「われわれはすぐ
れた作家を、朝鮮のよき友人を失った」と結んでいる(「『懐しさ』を拒否するもの」〔⑤
371-379〕)。
また、在日朝鮮人詩人呉林俊は、小林文学の最良の読者の一人であったと思われる。小林
の死の 3 ヶ月後に開かれた小林文学を論じ合う討論会の中に、
次のようなやりとりがある。
「菅原〔克己〕 朝鮮も日本もない一匹の作家として考えるとね、やっぱり、大義名分みた
いなのがあってそれでカチンカチンになってね……。
、、、、、、
呉 そういうしゃちこばるみたいなところ、悪いけど、わかるんですよ。一人で日本と朝
5
107
らには植民地主義問題を考える上で再読し参照するに足るような今日性が備わる
ことになったともいえるだろう8。
死後に公刊された最後の小説集『朝鮮・明治五十二年』〔1971 年〕のあとがきで
も小林は、ベトナム戦争に触れ、「アジアにおいて、日本および日本人は、ヴィエ
トナム人に対する個々人の善意などにかかわりなく、アジアにおける『存在』それ
自身において悪である姿を、ついに物質的に証明するにいたるだろう〔⑤319〕」
と述べている。こうした彼の極端ともいえる日本人観をどう受け止めるかという問
題は、その文学を理解する上で最も重要な鍵の一つである。この日本人観は一体何
を根拠とし、彼はそれを文学においてどのように表現しようとしたのだろうか。
、、、
「総合的統一体としての日本人」をより立体的に描くための手法として、特に晩
年の小林は歴史的な文脈の中で日本と朝鮮の関係を掘り下げようと試みることが
多くなっていった。本稿では、彼が書き残したいくつかの歴史的要素の強い小説の
うち、「夜の次の風の夜」〔1967 年〕を主要な分析対象とし、彼が文学で描き出し
た日本と朝鮮の歴史の絡まり合いについて検討し、それが彼の日本人観とどのよう
に連関しているのかを明らかにする。
従来の研究では、晩年の 2 冊の小説集のうち、『チョッパリ』〔1970 年〕に関心
が集中してきた感がある。歴史を題材とした作品のみを集めた『朝鮮・明治五十二
年』に比べ、『チョッパリ』所収の諸小説は自伝的要素が非常に強い。そのため、
作家研究自体があまり進んでいない段階では、『チョッパリ』に注目が集まること
は、作家の全体像を明らかにするためにも合理的なことではあった。しかし、「夜
の次の風の夜」を収録した最後の作品集『朝鮮・明治五十二年』は、『チョッパリ』
以上に(死によって途絶した)作者の文学的意志が鮮明に表れており、また植民地に
8
鮮の問題を背負うことないのに、苦しんで、そういうとこわかるんだ、わたしは〔傍点原
文〕。(「小林勝における〈表現〉と〈現実〉」『新日本文学』(1971 年 12 月号)123 頁)」
この箇所だけでなく、討論会全体に、小林文学の本質に目を向けない日本人文学者たちに
対する呉林俊の苛立ちが垣間見える。小林勝の文学を論じる場で、小林を親しく知ってい
た日本人文学者の口から「朝鮮も日本もない一匹の作家」という発言が出ること自体が、
彼がその文学で訴えようとした朝鮮の苦悩と日本の傲慢に対する真摯な理解からはほど遠
い次元にある戦後日本の問題性を暗に物語っているように思われる。
たとえば、比較的最近小林勝の文学を論じた高澤秀次は、彼の文学を次のように評してい
る。
「彼〔小林勝〕の殆どの日本人から忘れられた作品群は、金石範に代表される優れた在日
朝鮮人作家の文学作品に例外的に拮抗する、植民地体験を持った日本人による『マイナー
な日本文学』として戦後文学史に再登録される資格を有していよう〔ルビ原文〕。(「小林
勝論」『言語文化』17 号(明治学院大学言語文化研究所、2000 年)15 頁)」
108
関連する文学・思想史研究における重要な論点が数多く含まれている。三一独立運
動から大戦末期の朝鮮人志願兵まで、その内容は多岐に渡り、また歴史学にも深く
関わるため、小説集全体を概観する余裕はない。そこで本稿では、「夜の次の風の
夜」に対象をしぼり、その作品分析に努める。その上で、作品に表れている小林勝
の日本人および日本史認識の特徴を考察することとする。
2.「明治百年」と「明治五十二年」
「夜の次の風の夜」は、どのような文脈の中で書かれたのだろうか。
1970 年、親交の深かった在日朝鮮人詩人呉林俊との公開往復書簡の締めくくりで、
小林勝は次のように述べている。この時、彼の余命はおよそ 1 年であった。「私自
身についていうならば、朝鮮をぬきにしては明治百年はナンセンス以外の何もので
もなく、朝鮮および朝鮮人の実在そのものが日本の現代社会および日本人の実態を
最も明らかに照らしだしているものの一つである以上、そして日本の未来のイメー
ジは、それとのかかわりをぬきにしては考えられない以上、既に歩みはじめた道を
歩きつづけるしかないのだ、と思い定めているのであります9。」
小林勝が最後の文学的光芒を放った 1960 年代後半からの数年間は、政府が明治
百年記念事業を盛んに展開した時期を含む。この時期に彼が残した諸作品を見渡す
と、彼がこのことを強く意識し、「光栄ある明治」という一般的な歴史イメージの
隆盛に盛んに警鐘を鳴らしていたことがわかる。最後の小説集『朝鮮・明治五十二
年』は、明治 100 周年を祝う戦後日本の一部の風潮を批判するという目的のもとで
編まれた。表題にある「明治五十二年」とは、言うまでもなく架空の年であって、
実際の歴史上の年としては大正 8 年〔1919 年〕に該当する。植民地朝鮮で三一独立
運動(当時の日本でいうところの「万歳事件」)が勃発した年である。同書の巻頭に
は、「万歳・明治五十二年」〔1969 年〕が収録されているが、小林は当初小説集の
表題もこちらを採用するつもりであった。しかしこの「万歳」が意味するところを
理解する読者があまりにも少なかったため、「朝鮮」の語に替えてよりわかりやす
い題名を採用したという。
同小説集には 4 編の作品が収録されているが、三一独立運動を題にとった「万歳・
9
小林勝「あなたの『日本』わたしの『朝鮮』」『新日本文学』(1970 年 2 月号)84 頁
109
明治五十二年」をはじめ、いずれも植民地朝鮮を舞台としている。残りの 3 編には
、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、
それぞれ「光栄ある明治七十年」「光栄ある明治七十一年」「光栄ある明治七十八
、
年」〔傍点すべて原文〕という副題が付され、「光栄ある明治」という語を露骨に
皮肉っているが、これらの副題はいずれも初出時にはなかった。したがって、「光
栄ある明治」言説を批判するという明確な方針のもとでこの小説集が編まれたこと
は明らかである。1919 年(明治 52 年に相当)の三一独立運動弾圧、1930 年代後半(明
治 70 年ごろに相当)の日中戦争突入後の戦時動員体制強化、1945 年(明治 78 年に相
当)の敗戦まで実施された朝鮮人徴用という一連の抑圧の歴史が、「光栄ある明治」
に淵源を持つものであることを示すために、小林はこうした仮構の明治の年号を用
いた。ここで描かれた植民地支配の歴史とは、「脱亜」をその存立の前提条件とし
た明治の歴史とその延長であり、本質的にそれは二度の改元によっても、敗戦の衝
撃によっても切断されることがなかった。
近代日本のナショナリズムを牽引してきた「光栄ある明治」という歴史像は、日
清・日露両戦争における勝利を一つの原点として脈々と受け継がれ、現在に至るま
で日本国民の自己イメージを支える中心的な柱の一つであり続けている。総じて、
敗戦とそれにともなう植民地帝国の崩壊という近代日本史上未曾有の破局に至る
までの昭和前期は、暗く閉塞した時代という色合いが濃い。この昭和とは対照的な
イメージを一般的に喚起するのが明治である10。いわゆる「司馬史観」に代表され
るとおり、明治は、幕末と明治維新という数多の英雄的イメージに彩られた激動の
時代の続編としても、また近代化という明快な国家目標があった成長と改革の時代
としても、しばしばきわめて肯定的な歴史像を国民に提供する。このような構造は
昭和の大戦争と敗戦をくぐり抜け、ほとんど損なわれることなく戦後にまで持ち越
10
このことは、明治 100 周年時点での世論に如実に表れている。昭和 43 年(1968 年)3 月に
実施された「明治百年記念に関する世論調査」によれば、「明治時代の日本の歩みは、全
体として、良かったと思いますか、良くなかったと思いますか」という質問に対して、
50.7%の人が「良かった」と答えたのに対し、「良くなかった」と答えた人はわずか 6.3%
であった。この比率は、時代が下るにつれて明快に逆転していく。「大正時代」は「良か
った」が 24.1%、「良くなかった」が 17.9%となり、「昭和の初めから昭和 20 年まで」
は「良かった」が 12.5%、「良くなかった」が 58.2%で、明治とほぼ逆の評価となる。
一方、「昭和 20 年から現在まで」ではまた評価が一気に覆り、「良かった」が 50.3%、
「良くなかった」が 17.7%となる。この変遷を概観すると、日本国民の明治時代に対す
るきわめて肯定的な評価と、昭和前期に対する否定的な評価という対極的な歴史認識のほ
か、いわゆる戦前・戦後という用語法に表れているとおり、昭和 20 年に決定的な断絶が
生じたとする歴史区分の感覚が一般化していることがわかる。内閣総理大臣官房広報室編
『昭和 43 年度版世論調査年鑑』(大蔵省印刷局、1970 年)206-207 頁参照。
110
された。むしろ、破滅的な昭和があるからこそ、その陰惨なイメージの向こう側に
ある明治の輝きが一層引き立ち、神話的な、あるいはある種ノスタルジックなイメ
ージが惹起される、という一面的な歴史像の再生産装置が補強されたといえるだろ
う11。小林が小説集『朝鮮・明治五十二年』で批判したのはまさにそこであった。
焦土からの劇的な復興とそれに次ぐ空前の経済的繁栄を、近代日本の先達が積み重
ねた功業の一大集成と見る「明治百年」に小林が敢えて対置させた「明治五十二年」
とは、日本国民が抱く輝かしい自己の来歴のイメージに含まれる歴史の闇を象徴す
る年であった。
小林勝は、西洋列強に伍する世界唯一の非白人植民地帝国を建設した偉大な近代
日本という歴史像の致命的な欠陥として、「朝鮮・中国を中心とするアジアが完全
に欠落している」点を挙げている。彼はアジアとの関わり、特に植民地支配という
暴力的な関わりの歴史ぬきに、真の近代日本史は記述し得ないと考えた。そして、
アジアが欠落した近代日本史像が戦後も継続していることは、「明治百年」を寿ぐ
雰囲気に明瞭に露呈している、と指摘した。そこには、目下継続中であったベトナ
ム戦争と、日本が間接的に参戦したといえる朝鮮戦争、さらには帝国時代のアジア
侵略と植民地支配を、戦前・戦後という歴史の区分法を取り払って、互いに絡まり
合う一連の歴史事象としてとらえようとする彼の特徴的な眼差しがあった。
しかし、「明治百年」の歴史に含まれる闇の系譜は、小林勝によれば、近代にと
どまるものではない。朝鮮を主題とした彼の諸作品を見渡すと、「フォード・一九
二七年」をはじめ、初期は作者自身の植民地朝鮮における少年時の体験と直結する
一人称的な作品が多いのに対し、後期作品では、彼個人の生活史の範囲を超えた民
族の歴史に迫ろうとする傾向が強まっていることがわかる。こうした歴史的展望へ
の意志の一つの到達点が、最後の小説集『朝鮮・明治五十二年』である。
晩年の小林勝は、豊臣秀吉の朝鮮侵略に立ち向かい朝鮮史上屈指の民族的英雄と
なった李舜臣を主人公とする朝鮮民衆の抵抗の物語を構想し、準備を進めていたと
いう。結果的には手がつけられることのなかったこの物語の先触れ的な位置づけも
11
1960 年代後半のみならず、この構造は韓国併合 100 周年を迎えた 2010 年現在も基本的に
変わっていないように思われる。一例として、ジャーナリスト神保太郎が、NHKの大河
ドラマ「坂の上の雲」や「龍馬伝」に関連して次のような指摘をしている。「公共放送N
HKの大河ドラマは、戦国時代と幕末・維新に多く題材を求めてきた。ことに明治維新に
関しては、その後のアジア・太平洋戦争とは対照的に、“清新の気あふれる時代”として
描かれてきた。しかし、NHKにはそうした放送が『やむをえざる植民地主義』のイデオ
ロギーを増幅しているという自意識はない。(「メディア批評第 34 回」『世界』(2010 年
10 月号)55 頁)」
111
できるのが、『朝鮮・明治五十二年』に収録されている「夜の次の風の夜」〔1967
年〕である。
小林は、植民地期と戦後の断絶という近代日本史の見方を解体し、その歴史的連
続性を示すために、戦後日本の植民地主義的状況の中に植民者二世の主人公をまず
置き、その状況を生み出した原型としての植民地朝鮮をめぐる主人公の記憶を浮上
させる、という構造を持つ小説を好んで書いた。その際、二つの時代を接合する役
割を担うのが、戦前も戦後も同じように苦しめられ続ける朝鮮人たちであり、また
植民地喪失後も植民地主義の呪縛から逃れられずにいる日本人たちである。これに
対して、小林の個人史をはるかに超越し、近代植民地支配の時代と前近代が明確に
関連づけられた小説としては、この「夜の次の風の夜」が唯一のものである。その
意味でこの作品は、死によって途絶えた小林勝の文学の方向性を今に示す重要な作
品であるといえる。
この作品は、近代日本の植民地支配に豊臣秀吉の侵略戦争を重ね合わせ、それぞ
れの時代に通底する朝鮮民衆の苦悩と彼らの果敢な抵抗を同時並行的に描く重層
的な物語構造を備えている。「夜の次の風の夜」という、「夜」が 2 回、「の」が
3 回も繰り返される一風変わったタイトルは、歴史の連続性や反復性を暗示してい
るように思われる。その内容から、最初の「夜」は豊臣秀吉の朝鮮侵略を、その次
なる「風の夜」は日本による植民地支配を指していると解釈できる。
斉藤孝は、歴史を扱った小林の小説はしかし「いわゆる歴史小説ではない」とい
う。「過去の一齣と現在の一齣とが重なり合う形式で書かれた作品が強く訴えるも
のは、日本の朝鮮に対する関係の汚さである。それは、過去においてそうであった
し、また現在においてもそうである。これらの作品では、朝鮮は彼の故郷というリ
リシズムの対象ではない。朝鮮民族の怒り、朝鮮民族の恨みというものに努めて内
在的に感情移入しようとしている12。」
こうした見方は、小林の小説だけでなく、彼の直接の言葉からも導き出される。
しばしば小林文学の代表作と評価される「蹄の割れたもの」〔1969 年〕と「目なし
頭」〔1967 年〕の 2 作を収録した小説集『チョッパリ』〔1970 年〕のあとがきで、
彼は次のように述べている。
私にとって朝鮮とは何か、という問題を考える時、私は、私がかつて「植民地朝鮮」
で生まれ、軍の学校へ入校するまでの十六年間をそこで過したという直接体験を含む
12
斉藤孝「小林勝と朝鮮」『季刊三千里』(1984 年秋号)16 頁
112
「過去」の問題としてそれを捉えようとするわけではありません。もちろん、日本およ
び日本人の歴史にとって、朝鮮および中国に対するその「過去」は、現在の日本と日本
人形成について考える場合にぬきさしならない重要なものではありますが、私は、それ
を、すでに終ったもの、完了したもの、断絶したものと考えることができません。いや
むしろ私は日本にとっての朝鮮や中国とは、その「過去」から現在へ、現在から未来へ
と連続して生きつづける一つの生きた総体と考えるのです〔④252〕。
「夜の次の風の夜」は、「明治百年」言説が飛び交う 1967 年に発表された。物
語の主要な舞台は、「光栄ある明治七十一年」の副題のとおり、「北支事変」勃発
の翌年、1938 年の植民地朝鮮である。この年を「現在」と設定するならば、「明治
百年」を祝い、ベトナム戦争に加担する戦後日本の植民地主義的状況は、その「現
在」が必然的に招来する「未来」の姿だということになるだろう。
3.植民地支配と「壬辰の乱」
では、そのような「明治百年」の母胎となる明治 71 年に、植民地朝鮮では何が
起こっていたのか。小林勝の文学的想像力が提示したのは、貧しい朝鮮人青年に苛
烈な拷問を加える日本の官憲のきわめて抑圧的な姿と、かつては地方の学問の中心
であり多くの朝鮮人に読み書きを教えていたが、今は見る影もなく荒れ果てた玉泉
書院という学堂に集って密かに読書会を開き、奪われた民族の言葉と教育を取り戻
そうとする若い朝鮮人たちの情熱と怒りであった。
小林はそうした植民地の光景に、300 年前その町に突如降りかかった戦禍を重ね
合わせる。警察署における朝鮮人青年の取調べと、植民地支配に呻吟する民衆がひ
しめき合って暮らす貧民窟のような朝鮮人集落、さらに玉泉書院で朝鮮史や植民地
支配について論じ合う若い朝鮮人たちの集会が近景に、「壬辰の乱」に際して玉泉
書院の前の広場で篝火を焚き、危機の中で必死に民族の過去を顧み未来を模索する
朝鮮民衆の姿が遠景に、それぞれ配置される。こうして、暴力の歴史に奥行きを持
たせることで、真冬に朝鮮人青年を裸にして水をかけ、「鮮人は不潔だからね」と
戯れに彼の体をたわしでこすり、気絶するまで竹刀でその全身を殴打する植民地の
暴虐の向こうに、殺害した男子の数勘定のために鼻から上唇までをそぎ落とす「倭
113
奴13」の蛮行が透けて見えるようになる。これにより、過去から現在、未来へとつ
ながる連続体としての朝鮮民族の立体的な歴史像が浮かび上がる。しかし、小林勝
がその流れの核心に見出しているのは、虐げられ続ける弱者としての朝鮮民衆の貧
窮や嘆きの連鎖ではなく、むしろ日本の侵略に抗うことを通して彼らがたくましく
培っていく民族の自覚と誇りの継承であった。
1938 年と 16 世紀末という二つのかけ離れた時代を接合する回路のように機能す
るのが、物語全体を通じて執拗に町に吹きつける烈しい夜風である。風はうらぶれ
た植民地の町を山襞から根こそぎはぎとるかのように、「過去」と「現在」をしき
りに往来しながら吹きすさぶ。この夜風は、「李朝宣祖壬辰の年に、不意にこの山
奥の小さな町になだれ込んできた異様な殺戮者の一団」になぞらえられる。その軍
隊は、当時の朝鮮民衆の目には「金色と銀色、赤と黒の見馴れぬ甲冑に身をおし包
んだ一団」と映った。彼らには、その軍隊が持つ刀は「魔性のもの」に見えた。
風はいま闇の中をまっしぐらに駆けて、あたかもその千の細い刀を頭上にふりかざし
た魔物のように、この小さな町の山裾にこびりついた終着駅の平べったい駅舎と信号燈
と電線をわななかせ、小高い山の中腹に激突し、いくつもの小さな集団にわかれて町の
まがりくねった小道を走り、裸のプラタナスの坂道を駈けおりて、古びた木造の郡庁の
建物にぶつかってぎいぎい呻かせる。
嵐のような風は、「壬辰の乱」で殺戮と略奪の限りを尽くした「倭奴」たちの亡
霊さながら、植民地の町の隅々まで這い回り駆けめぐる。風が植民地の町に吹きつ
けて建物に次々にぶつかる様子が、「壬辰の乱」のむごたらしい虐殺の描写をはさ
む形で語られる。あたかも、1938 年の暴風が日本刀となって 16 世紀末の朝鮮民衆
の首を次々に跳ね飛ばしていくかのような叙述の仕方である。
そのような不気味な風が吹き荒れる夜、日本人少年須永和之が、昨晩親しい朝鮮
人青年崔天海が警察署で拷問を受けて泣き叫んでいるのを目撃した、と大人たちに
訴える場面から物語は始まる。場所は警察署に隣接する和之の自宅である。和之の
父で教師の大伍、母の里子、拷問に参加した巡査の加納田が居合わせるのだが、拷
13
小林は「夜の次の風の夜」の中で、「倭奴」に「いのむ」というルビを繰り返し付してい
るが、本来この朝鮮語は、より正確に日本語の発音に変換するならば「うぇのむ」と読ま
れるべき語である。金石範が上掲の評論の末尾でこの問題に批判的に触れ、「小林勝にし
て、『倭奴』を『いのむ』としか表現できなかった。つまり彼も自ら認めるように植民者
の子なのである」と指摘している〔⑤379〕。
114
問の様子を詳細に語り出す和之の話を彼らは真面目にとり合おうとせず、また子供
が首を突っこむなとばかりに恐い顔をして黙らせようとする。崔天海は、和之の父
大伍が教師として勤務する農林学校の「小使い」だが、和之は橇や凧などいろいろ
な遊び道具を作ってくれなどした彼を慕っていた。大伍や里子にとっても、崔天海
は誠実でよく気がつく好青年であった。和之は壁の穴からのぞき見た恐ろしい光景
を大人たちに執拗に伝達しようとするが、大人たちの話題は警察署の人事やおよそ
20 年前の「万歳騒動」などあちこちに飛ぶ。苛立つ和之は何度も強引に話に割って
入ろうとする。崔天海が吐血したのを見た、と言い出そうとする和之だが、大人た
ちはなかなかその声に耳を傾けようとしない。
加納田巡査がその時大きく背のびして欠伸をした。
おんどる
「熱いな、この温 突 は」と彼は言った。
「それからぼく、見たんだよ」と須永和之が言った。
「もういい、しつこいな」考えこんだ顔つきで須永大伍が和之を叱った。
「だって見たんだもの」
「和ちゃん、くどいと、お父さんに叱られるよ」と須永里子が言った〔ルビ原文〕。
水をかけられ、また竹刀で滅多打ちにされて気絶した崔天海を、加納田が抱き起
こして引きずっていき、その途中で崔天海は突然吐血した、と和之は主張する。温
厚な崔天海がなぜそのような目に遭うのか理解できない和之は、しきりにその理由
を大人たちに問うのだが、和之の声は彼らに届かない。
崔天海は、郡庁の下級官吏である羅力根が一年ほど前に開いていた小さな集会に
時折参加していた。その後、密かに開かれている玉泉書院の読書会の存在を羅力根
から一月前に直接聞き、参加を志望していた。実際にはまだ参加はしていなかった
ものの、読書会の中心人物が羅力根であり、彼以外は全員が農林学校の学生である
ことは知っていた。官憲はそのことをかぎつけ、学生たちに本や知識を提供するの
が誰なのかを突き止めるために崔天海を捕らえたのであった。
崔天海が「小使い」として勤める農林学校であるが、農林学校や実業学校、中等
学校は、地方に住む朝鮮人たちにとって事実上の最高学府であった。これらの学校
は、同盟休校や「反日独立運動」などが画策される場所として、小林勝の小説に頻
115
繁に登場する14。これは、彼の父が実際に農業学校の生物の教師であったことの影
響が大きいと思われるが、和之の父の大伍も、農林学校の生物の教師である 15。こ
うした各種の学校は、植民地朝鮮における民族主義運動の主要な拠点の一つであっ
た。玉泉書院の読書会には 7 人の朝鮮人学生が登場する。年齢や容貌に関する具体
的な記述こそないが、少なくとも 14、5 歳の年若い者ばかりでない可能性は高い。
小林自身が様々な小説の中で証言しているとおり、植民地朝鮮における中学校は、
20 代の晩学の徒も決して少なくなかったからである16。
「夜の次の風の夜」では、崔天海への拷問が植民地暴力の具体的な表れであるが、
それと交錯するように語られるのが、1938 年と 16 世紀末という二つの危機の時代
に玉泉書院に集った朝鮮人たちの姿である。一方は羅力根を中心として軒の傾いた
玉泉書院に集まって読書会を開く農林学校の学生たちであり、他方は夜風が猛威を
14
15
16
小説集『朝鮮・明治五十二年』に収録されている「瞻星」は、戦争末期、創氏改名して陸
軍航空士官学校に入学した 1927 年(小林の生年)生まれで大邱出身の朝鮮人達城天池を主
人公とした小説である。その中で作者の小林は、「中等学校」について次のような説明を
加えている。
「彼〔達城天池〕は自分の祖国では、中等学校の学生がずっと昔から、独立運動の中心勢
力の一つを形成してきていることもはっきりと知っていたのだ。〔……〕
〔……〕植民地となった貧しい朝鮮で、朝鮮人の多くが進み得たのは、中等学校までであ
った。そして、道庁所在地の中等学校はともかくとして、地方の農村の中心にある小都市
の中等学校には、年齢の多い、二十歳をすぎた学生も大勢いたのである。〔……〕
だから植民地朝鮮の中等学校の生徒を、未熟で卵の殻をつけた日本の中学生と同じように
考えるのはまったく間違っている。彼等の多くは、中学、商業、農林などの生徒ではあっ
ても、すでに祖国を代表する知識階級であるということを自覚していた〔⑤286-287〕。」
斉藤孝が小林勝の両親について次のように書き残している。
「小林の父は、一九一四年、二十歳のときに、年若い新妻を連れて朝鮮へ渡った。父が朝
鮮へ行かざるを得なかった事情については、このとき新妻の年齢が十五歳であったことか
らも察せられるであろう。要するに、二人は食うや食わずやで朝鮮へ駆け落ちしたのであ
る。したがって、小林の父を明白な植民地主義者とか帝国主義者とかいうことは無理であ
る。しかし、父は晋州公立農業学校の教師となり、植民地の諸手当を含めて、日本の同格
の職種では得られない多額の収入をもらうことになった。その上、人件費がとんでもなく
安い植民地にあって、『女中』はいくらでも調達できた。小林が育ったのは、こういう環
境である。そして、小林の父は、その当時、それを当然のことと思っていた。植民地主義
者とは、こういう階層も含むのだと小林が悟ったのは、いつのことであったのか。理屈の
上では、戦後二、三年の間だといえるであろう。しかし、彼が、自分を植民地主義者の子
として自覚したのは、おそらく彼が火炎瓶事件で逮捕されてから後のことのように思える。
(「小林勝と朝鮮」16 頁)」
ちなみに、こうした学校の「小使い」崔天海の分身も小林の他の小説に散見され、拷問の
後日本人を呪いながら衰弱死する者や、逆に朝鮮に絶望し、同化政策の波に乗って帝国の
ヒエラルキーを駆け上がっていこうとする者など、様々な型が描かれている。「無名の旗
手」〔1962 年〕、「目なし頭」〔1967 年〕などを参照。
金成植『抗日韓国学生運動史』(高麗書林、1974 年)2 頁参照。
116
ふるう夜に書院前の広場に集まって、「倭奴」がいかに冷酷で凶暴か、どうやって
彼らを撃退するか、自国の何がこのような事態を生む要因になったのかなどについ
て激論を戦わせる儒生や農民たちである。普段は薪一本の工面すら苦労する貧しい
民衆であったが、人数を多く見せかけるために、「倭奴」に破壊された家の木材な
どで篝火を盛んに焚く。夜空に立つ火炎は、人々の恐怖や混乱、怒りの表象である
かのように激しく燃え上がる。「あきらめはしない、だからどうすればいいといっ
ているのだ、あの恐ろしい倭奴にむかうにはどうすればいいのかといっているのだ、
と一人がいい、どうすればいいか、どうすればいいかと広場のみんながいっせいに
叫んで、烈しく火柱がおどり狂う……」
300 年前に燃え上がったこの火柱のような熱意と憤怒をもって、羅力根のもとに
集まった朝鮮人学生たちは議論する。「夜の次の風の夜」では、日本の官憲の暴力
や市井の日本人たちの植民地主義言説が描写されるが、作者の力点は植民地支配の
残虐性や醜悪さよりも、むしろそれに対抗する朝鮮人たちの尊厳を描き出すことに
置かれているように思われる。その意味で、羅力根や学生たちが読書会という形で
遂行する植民地における末端の独立闘争のほうが、この小説の主題だといえるだろ
う。そしてその闘争は暴力的なものではなく、奪われた言葉と教育を奪還するため
の内面的な戦いであった。羅力根は、農林学校を主席で卒業し日本の私立大学の法
科を出た知識人でありながら、その地方の郡庁の下級職員に過ぎなかった。表向き
はそのような地位に甘んじながらも、彼は朝鮮の歴史や日本の植民地支配について
学ぶ読書会などを密かに開き、朝鮮人学生たちの啓蒙に努めていた。
4.善意の植民地主義と奪われた言葉
ところで、1938 年とは植民地の朝鮮人学生たちにとってどのような年だったのか。
前年の 1937 年 7 月、ついに日中戦争が勃発し、帝国は戦時総動員体制の構築を急
速に突き進めていくようになる。10 月には朝鮮で「皇国臣民の誓詞」の暗記と朗唱
の強要が始まっていた。そして 1938 年 3 月、神社参拝拒否によって崇実専門学校、
崇実中学校、崇義女学校などが閉校処分を受ける。4 月、学校教育から朝鮮語教育
が排除され、さらに陸軍特別志願兵制度が実施される。5 月には国民総動員令が施
行される。「夜の次の風の夜」の舞台は、こうした圧迫が相次いで起こったあとの
117
冬である。その後 1940 年には、ついに「創氏改名」が始まる17。読書会を導く羅力
、、、
根が「みんながわめきたくなる気持はわかる。わめきたい、叫びたい、だから静か
な声で落ち着いて考えていこう〔傍点原文〕」と学生たちに呼びかけたのは、この
ように朝鮮人が言葉と名前を奪われていく暗雲漂う時代の最中であった。
「言葉は、奪われようとした時、そして、奪われてしまった今、それが民族にとって
どんなに恐ろしいことなのかを、おれたちは骨身にこたえて知ったが、日本人にはわ
からないんだ」と羅力根は言った。「言葉は民族の思想だし、魂だ。うばわれたこと
のない日本人は、だから言語というものに対して実に薄っぺらな認識しか持っていな
、、、、、、
い。それだから、奴等は、朝鮮の興隆にすぐ役に立つというふうに教育を考えたし、
言葉をとりあつかったんだよ〔傍点原文〕」
言葉を奪われた時、彼らはどうなるのか。朝鮮人の魂である言葉が奪われていく
時代を、奪う側の人間として生きた小林勝は、その恐ろしさと悲しさの一端を、読
書会の朝鮮人学生たちの会話に織りこみながら浮き彫りにしている。
30 年におよぼうとしている植民地支配の間に、自分たちの住む町に日本人が作っ
たものは何か、と羅力根が一人一人に問いかけ、それに朴晋という学生が答える。
「一個大隊の兵が乗りこんで来たんです。そして、独立守備隊として駐屯した。そ
の本部はここです。この玉泉書院だ。書院の儒生をみんな追い出して、ここを占領
し、ここを本部にして、三・一独立運動をやった、おれたちの祖父や父たちを取締
ったんだ」これを受けて、金元明という学生が口にした言葉が、ちょっとした口論
の火種となる。
「治安がよくなると」と金元明が言いかけ、「治安がよくなる?
おい、治安がよくな
るって、金元明、お前はなにを喋っているんだ」と学生の一人が言った。
「なにを喋っているかくらいはおれはちゃんと知っている」と金元明が気色ばんで言い
返した。「この読書会にお前をひっぱったのはおれだぞ」
「言葉は気をつけて使えといっているんだ。ここは学校じゃないし、片野や須永はいな
んだからな」その学生がいいかえした。
「治安がよくなると、でいいんだ」と羅力根が言った。「そうだ。まさしく、治安はよ
くなったんだからな。そしてそれがどういうことかはお前たちがみんながよく知ってい
るんだからな」
17
水野直樹『創氏改名』(岩波新書、2008 年)参照。
118
「でもね、そういう言葉が気にいらないんですよ」とさいぜんの学生が執拗に言った。
「なにもかも日帝の言葉ですよ。その言葉をなんの気なしにおれたちが口にするってこ
とはね」
「なんの気なしにとは無礼なことを言うな」金元明がまた顔色を変えた。「日帝の言葉
をなんの気なしにとは、張、きさまはなにを言うか」
「もういいというんだ」と幾分声を荒げて羅力根が手をふった。「いまも、これからも
だ、この国で認められているのは日本語であって、朝鮮語ではない。そうすると、町の
誰もが、日帝から言葉を教えられ、あいつらの言葉と文字で考える。それがどんなこと
かは、お前たちがこの読書会にはいってきた時に、おれがまず最初に教えたことだ。日
本人の言葉を使いながら、つねにそれと正反対の意味をしっかりとみつめていかなくて
はいけないということをだ。だからもうそれはいいんだ」
須永和之が大人たちに崔天海の惨状を必死で訴えていたその風の夜、羅力根の呼
びかけで朝鮮人学生たちが玉泉書院に集まったのは、その地方の思想的中心と目さ
れる農林学校校長片野の教育思想の根本を批判的に明らかにするためであった。羅
力根は、朝鮮人教師に対する差別待遇など、片野のやり方が気に入らないから校長
排斥運動をしようとはやる朝鮮人学生たちを諌め、「日本人がおれたち朝鮮人から
奪った教育と言葉と、あいつらがそのかわりにおれたちに与えてきた教育と日本語
の、その最初の歴史や片野の思想的根拠をしっかりみきわめようとしたうえで運動
を起さなければ、おれたちのやることがあとあとまでこの町の朝鮮人の中に生きつ
づけていく思想そのものとはならないのだ」と諭す。
片野は、その農林学校を道内の模範校と呼ばれるまでにした熱心な校長で、巡査
の加納田や教師の須永大伍ら日本人たちが「人格者」として敬意を寄せる人物であ
った。彼は韓国併合前、朝鮮が日本の「保護国」であって、「日本人教師なんてい
う者は恐ろしいほど排撃された時代」に教師として朝鮮に渡った最古参の植民者の
一人であった。須永大伍によると、日本の寺小屋のようなものに過ぎなかった当時
の朝鮮の書堂で「漢文素読ばっかり教えている儒学の先生たち」の非難を浴びなが
らも、片野は情熱的に「新教育制度」の普及に勤しんだ。1938 年現在も、「未開と
荒廃の中に放りだされていた朝鮮のために骨をうずめるつもりだ」と常々口にして
いる片野は、「朝鮮人教育についての確かな理論」の持ち主であった。その片野が
最近、全校生徒を対象とした毎年の特別講義で、「大東亜の育成とその将来」とい
う題の訓話を 3 時間にわたって行なった。その中で彼は、李朝時代の書院の歴史か
ら説き起こして「朝鮮の教育というものがなぜ滅亡するに到ったか」を説明し、
「そ
119
の滅亡の教育にかわる新理念の教育とはなにか」について持論を展開したのであっ
た。読書会の朝鮮人学生たちは、そこに含まれる「日本人の植民地思想、植民地教
育に対する思想」の朝鮮人にとっての本質について議論する。
片野曰く、「朝鮮の今日は国家の滅亡ではなくて日本民族との一体化による民族
の新生興隆である。第二点は、日本の朝鮮に対する歴史的関係は、征服にあらずし
て協力である。第三点は、朝鮮は欧米にいうところの近代植民地とはちがい完全に
質の異なる同化である」、「欧米諸国ではインドシナにしてもインドにしてもアフ
リカにしても中東にしても、はっきり植民地だと明言している」が、「日本はいま
だかつてそのような言葉は一度もつかわないし、大体、欧米の植民地概念は日本の
アジア思想にはない」、
「朝鮮は植民地ではなくて一体化された日本の外地であり、
これは単なる言葉の使いわけではない」。これらは本国や総督府の植民地支配イデ
オロギーの引き写しであり、「文明化の使命」という独善的な義務感に基づいた善
意の植民地主義の典型である。
普段は冷静な羅力根が、片野のこの訓話の要点を学生から伝え聞いて、初めて怒
りをあらわにする。「自分はこの思想のために、朝鮮教育振興の礎になるために、
この朝鮮へ骨をうずめる」と宣言している片野は、「勅任官」になるだろうとの噂
が立つほど将来を嘱望され、実際に総督府が中央に引き立てようと働きかけていた。
しかし、それが日本人たちから「人格者」と称される所以なのか、片野はそうした
名誉には興味を示さず、退官後はその地方に土地を買って林檎園を経営しながら著
述活動に専念する、という。一見無私無欲であり、実際に本人もそのように思って
いるのであろうが、羅力根に言わせれば、こうした草の根の、善意の植民主義者こ
そが、むしろ朝鮮を根元から蝕む最も警戒すべき敵であった。
その夜の読書会は、羅力根の次のような言葉で締めくくられる。「たとえ今はど
んなに無力に見えても、玉泉書院のこの会をやりつづけなくてはならん。これがま
ぎれもない朝鮮の真の学校なんだ」。しかしその後、拷問に耐えかねた崔天海が、
読書会の指導者として密かに朝鮮人学生たちに本を提供してきた羅力根の名を官
憲に明かしてしまったことが、須永大伍と巡査の加納田の会話によって暗示される。
緊急招集を受けた加納田が顔面蒼白になって須永の家を飛び出していくところで、
物語は終わる。
120
5.植民地朝鮮が照らし出す近代日本史
小林勝は、羅力根の口を借りて、西洋列強による植民地支配の危機を切り抜けた
近代日本が、逆に朝鮮の植民地支配へと乗り出していく矛盾に満ちた姿について語
る。圧倒的に強大な西洋列強に対する日本人の「劣等感は恐ろしく深いものだし、
その劣等感はすさまじい恐怖でいろどられている」。羅力根によれば、この欧米に
対する「すさまじい恐怖」が、朝鮮を見る日本の眼差しを決定的に歪ませた。近代
国家の身なりを急ごしらえで整えた日本は、隣国朝鮮に、かつての日本、もしくは
それよりも「もっと遅れて、もっと無力で救いようのないほど荒れ果てた姿」を見
出した。日本人は、西洋列強に対する劣等感と恐怖のゆえに、かつての醜悪な自分
自身をさらに戯画化したように映る朝鮮を、そこに何があるかではなく何がないか
によってしか認識できない植民地主義的な眼差しを内面化した。その日本人が見た
朝鮮には、当然近代的なものはなかった。そして、近代的なものがないということ
は、つまり何もないことを意味したのである。
羅力根は、「朝鮮の教育に対する日本人の思想の根底にあったもの」について次
のように力説する。それは教育のみならず、広く日本人の朝鮮観全般に当てはまっ
たものであろう。「わが国の先人が声を涸して教育や文化がないことはない、とい
ってもあいつらの眼には、それは全滅した姿とうつったんだ。教育は全滅していな
い、それは確かに衰えてはいるが、李朝には李朝の永い教育の歴史がある。〔……〕
、、
たとえそれがどのように幼稚で衰微しているとしてもあるというその歴史をみろ
、、
といっても、あいつらはひたすら慨嘆してあるのは荒廃のみと言ったんだ。あるも
のならばそれを土台にしてそこから教育文化を育てよう、あるものをむざと踏みつ
ぶしはしない、しかし、現に教育とよび得るものは、この荒廃した朝鮮にはなにも
、、
ないではないか、なにもないのだから育てるも踏みつぶすもへちまももともとあり
、、
、、
得ない、なにもないところへは、日本から持って来るより仕方がない、なにもない
のだから、全部を持って来るより仕方がない〔傍点原文〕。」
小林勝は、西洋と東洋の狭間で揺れ動く近代日本の精神史において、西洋列強の
衝撃がもたらした自らの苦しみが朝鮮に対する共感や同情ではなくむしろ攻撃性
となって発現したという、戦後にも引き継がれている矛盾を、朝鮮人を触媒として
語り出す。それは、朝鮮人の苦しみを語ることであると同時に、日本人の苦しみを
語ることでもあり、さらには朝鮮を踏み台にしてその苦しみから逃れようとする日
本人の欺瞞を批判することでもあった。
121
羅力根は、日本人の朝鮮に対する強権主義的な姿勢の裏には、彼らの恐怖と弱さ
があることを見抜いていた。幕末、日本に通商開国を迫ったハリスは、日本の官吏
が「下田の港で六十屯以上の船を七百艘もいっぺんに見たなんてしゃあしゃあと嘘
をつくが、それなら日本の船は世界一ではないか、嘘もやすみやすみいえ」と激怒
し、彼らを軽蔑した。しかし、羅力根はむしろそこに、「強大な武力を背中にしょ
ったハリスの恐ろしい傲慢、鼻もちならぬ優越感」と、さらに敢えてそのような嘘
をつきとおさなければならなかった幕府の「背骨の折れそうな苦労」を見出した。
嘘とはいったい何であるか、その嘘の苦労を骨の髄まで知っている筈のその日本人が、
今度は朝鮮へやってきて、朝鮮のうわっつらだけを見て、そして朝鮮人はどいつもこい
つも平気で嘘をつくと言ったんだ。そして、それが奴等の朝鮮人観というものになった
し、いまのいまでも、この町の日本人の小商人にいたるまで、朝鮮人は嘘つきだという
だろう。
このように小林は、朝鮮人の立場へと深く沈潜していくことで、そこから見える
日本人の姿に光を当てようとした。そのことを文芸評論家の磯貝治良は、「小林勝
がふみこんだ地平は、たんに朝鮮人や朝鮮人像を作品のなかで描くというよりは、
そこから照射されてくる日本人の意識と存在を抉りだし、負の呪縛から自由を奪い
かえす」ためのものであった、と述べている18。こうした志向性を持った彼の文学
活動の核心には、植民者の子という自己認識が常にあった。その出自は彼にとって、
植民地が消滅した戦後も、死に至るまで彼を朝鮮に釘づけにし続けた苦悩の源泉で
あった。しかし彼はそれを単なるトラウマや負い目として処理するのではなく、む
しろ朝鮮人の目に映る日本と日本人、さらには自分自身の闇を照らし出すための文
学上の武器として積極的に活用したのである。
6.おわりに
自身も小林勝と同様朝鮮植民者の子であった詩人の村松武司〔1924-1993〕は、
憤怒に満ちた小林の文学は「断罪人として日本の罪をひっかぶって懺悔文学を書く、
などという次元の言葉」ではなく、そのような言葉を書く小林の姿は、「日本の全
18
磯貝治良「照射するもの、されるもの」『季刊三千里』(1982 年夏号)183 頁
122
体を巻きぞえにしながら、朝鮮という炎のまえで、みずからの身を焼いてゆく姿と
して映る」と評した。
日本を巻きぞえにできる自信はどこから湧いてくるのか。自信はひとつ、日本という
国、自分という個人の、過去・現在にわたる歴史の、彼は証人であったというそのこと
につきる。彼は植民者であったことを最も有効な戦術的武器として、再起しようとする
日本に挑んでいったのである19。
「明治百年」から「明治五十二年」へ。崔天海に対する拷問と羅力根たちの読書
会から「壬辰の乱」へ。「夜の次の風の夜」で象徴的に表わされたように、小林勝
は朝鮮を、「その『過去』から現在へ、現在から未来へと連続して生きつづける一
つの生きた総体」としてつかみとろうとした。死によって途絶したが、それが彼の
文学が目指していた地平であったと思われる。
小林勝は、自らが実際に生きた植民地期から明治 100 周年を迎えた 1970 年ごろま
でのおよそ 40 年にわたる歴史の変遷を、植民者の子という地点から離れることな
く定点観測し、そこに時代が変わっても変わることのない日本の植民地主義を発見
した。敗戦と朝鮮戦争という激震を含む 40 年間を貫くその歴史の不変性を発見す
ることによって、彼は一般的には断絶があると見なされている戦後日本と植民地朝
鮮を結びつけた。それだけでなく、その歴史の糸をさらに過去へと伸ばし、彼が生
まれる前に朝鮮で起きた三一独立運動や韓国併合、最終的には「壬辰の乱」にまで、
その視野を拡大していったのである。小林勝は、忘却の淵に沈んでいる「壬辰の乱」
から植民地期を経て伸びるその歴史の闇の糸は、朝鮮戦争やベトナム戦争に対する
戦後日本の態度によって現在にまで連綿とつながっているということが証明され
た、と主張した。そしてまた、それが明治 101 年、明治 102 年と未来へとつながっ
ていくならば、「明治五十二年」の過ちは必ず繰り返されるだろう、と。
今年〔本稿執筆時〕2010 年は、韓国併合 100 周年に当たる年である。「光栄ある
明治」表象の源泉の一つである日露戦争に対する一般の肯定的なイメージと比較し
た場合、ある意味でそれと表裏を成す韓国併合に対する認識は、どれほど深まって
きただろうか。2010 年は、「明治百年」を批判した小林勝の問題提起を、深く再考
すべき年でもあるだろう。
19
村松武司「植民者作家の死」『朝鮮研究』(1972 年 3 月号)45 頁
123
〈参考文献〉
・磯貝治良「照射するもの、されるもの―小林勝の後期作品」『季刊三千里』1982 年夏号
・川村湊『満洲崩壊―「大東亜文学」と作家たち』文藝春秋、1997 年
・金成植『抗日韓国学生運動史』高麗書林、1974 年
・小林勝「あなたの『日本』わたしの『朝鮮』」『新日本文学』1970 年 2 月号
・___『小林勝作品集』全 5 巻、白川書院、1975-1976 年
・神保太郎「メディア批評 第 34 回」『世界』2010 年 10 月号
・高澤秀次「小林勝論―植民地朝鮮の日本人」『言語文化』17 号、明治学院大学言語文化研
究所、2000 年
・内閣総理大臣官房広報室編『昭和 43 年度版世論調査年鑑』大蔵省印刷局、1970 年
・原佑介「朝鮮植民者二世作家小林勝と『内なる懐かしさ』への抵抗」『コリア研究』1 号、
立命館大学コリア研究センター、2010 年
・村松武司「植民者作家の死―小林勝について」『朝鮮研究』1972 年 3 月号、1972 年
原佑介(Hara Yusuke)
E-mail: [email protected]
論文投稿日:2010 年 9 月 27 日 / 審査開始日:2010 年 10 月 17 日
審査完了日:2010 年 11 月 17 日 / 掲載決定日:2010 年 11 月 22 日
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