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南京攻略について

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南京攻略について
南京攻略について
1、盧溝橋事件から第2次上海事変まで
南京攻略は、第2次上海事変を端緒として勃発した。
盧溝橋事件に端を発して、華北において戦火が広がった。第二次上海事変(だいにじシャ
ンハイじへん)は、1937年(昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐
とそれに続く日本軍との交戦である。1932年(昭和7年)1月28日に起きた第一次上海事
変に対してこう呼ぶ。上海戦(シャンハイせん)とも呼ぶ。盧溝橋事件により始まった華
北(北支)での戦闘は、いったんは停戦協定が結ばれたものの、7月25日の郎坊事件で停
戦が破られると、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生し、29日の通州事件では民
間人を含む230名が虐殺されたことにより、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河
辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。この事件以後華中(中支)において交戦が拡大するこ
とになった。
廊坊事件(ろうぼうじけん)は、1937年(昭和12年)7月25日から26日に中華民国の北
平(北京市)近郊にある廊坊駅(廊坊)で発生した日中間の武力衝突。7月7日夜の盧溝
橋事件勃発後、現地停戦協定が結ばれたものの国民革命軍第二十九軍の部隊は7月20日に
は盧溝橋城から日本軍に射撃を加え、同時に八宝山方面にあった部隊の一部も日本軍を攻
撃したため日本軍も応戦するという事件を起こしていた。
広安門事件(こうあんもんじけん)は、日中戦争初期(北支事変)の1937年(昭和12
年)7月26日、中華民国冀察政務委員会の支配地域であった北平(北京市)で起きた国民
革命軍第二十九軍による日本軍への襲撃事件。北平居留民保護の為に日本軍広部大隊[2]
は26台のトラックで北平城内の日本兵営に向かった。事前に松井特務機関長が部隊の北
平外城広安門通過について冀察政務委員会当局と交渉して秦徳純市長の承諾を得た上で連
絡の為に冀察政府軍事顧問桜井少佐が午後6時頃広安門に赴くと門を警備していた中国軍
が城門を閉鎖していたため開門について交渉した結果午後7時半頃開門され部隊が門を通
過を始めたが部隊の3分の2が通過した時に[5]突如門が閉ざされ広部部隊を城門の内と外
に分断した状態で不意に手榴弾と機関銃の猛射による攻撃を加えてきたため広部部隊も門
の内外から応戦した。 中国側は兵力を増強して大隊を包囲し、一方豊台の河辺旅団長に
より午後9時半救援隊が派遣されたところで折衝により中国軍は離れた場所に集結し、広
部部隊 の内、城内に入ったものは城内公使館区域に向かい、城外に残されたものは豊台
に向かうという案がまとめられ午後10時過ぎに停戦し、広部部隊は27日午前 2時頃公使
館区域の兵
営に入った。この戦闘における日本軍の死傷者の合計は19名で、その内訳は戦死が上等兵
2、負傷が少佐1、大尉1、軍曹1、上等兵2、一等兵1、二等兵7、軍属2、新聞記者1であ
り、桜井顧問に同行した通訳1名も戦死している。当時、既に中国軍は河北省南部の石家
荘・保定や山西省の大同に多数集結し、また豊台においては完全に日本軍を包囲してお
り、その一方で日本軍も新たに動員された関東軍・朝鮮軍の部隊が北平・天津地区に到着
しつつあり、両軍の間で緊迫の度が高まる中で起きた事件であった[7]。この事件は、直
前に起きた廊坊事件とともに中国側の規範意識の欠如と残酷な面を見せつけ、中国側に対
して全く反省を期待できない不誠意の表れであり和平解決の望みが絶たれたと判断した日
本軍支那駐屯軍は7月27日夜半になって前日の通告[9]を取消し、改めて冀察政務委員会委
員長であり、二十九軍軍長でもあった宋哲元に 対し「協定履行の不誠意と屡次(るじ)
の挑戦的行為とは、最早我軍の隠忍し能(あた)はざる所であり、就中(なかんずく)広
安門に於ける欺瞞(ぎまん)行 為は我軍を侮辱する甚(はなは)だしきものにして、断
じて赦すべからざるものであるから、軍は茲(ここ)に独自の行動を執(と)る」ことを
通告し、さらに 北平城内の戦禍を避けるために中国側が全ての軍隊を城内から撤退させ
ることを勧告した。日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を
加える為、必要な部署を用意し、河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益と そ
の居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同
じ内容が内閣書記官長談として発表された。駐屯軍は28日から北平周辺の中国軍に対し攻
撃を開始し、天津方面では28日夜半から中国軍の攻撃が開始され、各方面で日本軍が勝
利し2日間で中国軍の掃蕩が完了した。7月29日には、多くの女性子どもを始めとする在
留日本人数百人が「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)によって虐殺される通州事
件が起き、日本世論は激昂することとなった。
通州事件(つうしゅうじけん)とは、多分、中国第二十九軍の裏工作があったのだろう、
1937年(昭和12年)7月29日に、中国の通州において冀東防共自治政府保安隊(中国人
部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した事件。日本軍は
壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害
され、殺害方法も猟奇的なものがおおかった。
ここで簡単に冀東防共自治政府について説明しておこう。満州事変の停戦協定(塘沽協
定)によって、中国側に非武装地帯を設定し、治安は中国側警察が担当することとされ
た。これが冀東防共自治政府である。地方自治を求める民衆を背景に中国側の努力により
成立したもので、まあいうなれば政府というより自治体と考えた方が良いかも知れない。
日本の都道府県は軍隊を持っていないけれど、アメリカの州は軍隊を持っていますね。ア
メリカの州みたいなものと考えると良いかもしれません。区域は下図の通り。
冀東防共自治政府
(この図はウィキペディアによるものですが、ここでは字が見えにくいですね。
ウィキペディアを開き、その中の図をクリックすると図が拡大し、字が見えやすくなるので、
是非、そうして下さい!)
そういった華北の戦火の広がりを見て、1937(昭和12)年8月初め、 漢口、 長
沙、重慶など長江沿岸の日本人居留民に上海への引き揚げが命じられた。この早い対応は
日本人居留民240名が中国保安隊に虐殺された通州事件 (1937年7月)の二の舞
を避けるためだったといわれている。
上海はアヘン戦争後に生まれた租界があり、フランス租界、共同租界にわかれ、両租界
とも90%が中国人、残る10%が英、米、仏人などであった。日本人は約2万人だった
という。
長江の流域には、下流から上海、南京、武漢、重慶、 成都という大都市がある。
長江(チャン川 Chang River)流域の大都市
( http://blogs.yahoo.co.jp/sakura_3939_ing/20002636.html より)
漢口は、現在の武漢市の一部に当たる。漢口は1858年に結ばれた天津条約により開港
し、イギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本の5カ国の租界が置かれた。これ以後、
経済が高度に発展した漢口は「東方のシカゴ」とも呼ばれた。長江は古くから水上交易の
盛んだった華中でも中心的な交通路として利用されてきた。
長沙は、早くも『逸周書』にその名が見え、春秋戦国時代には楚国に属し、成王のとき黔
中郡が置かれたことに始まる。秦代に秦36郡のひとつとして長沙郡が設置されている。漢
代初には呉芮を封じて臨湘県を都とする長沙王国が設置され、5代46年間続いた。長沙王
国の相である軑侯利蒼一族の墓所として有名な馬王堆漢墓を今に伝える。隋唐代から清末
にかけて潭州の中心として発展し、中華民国が成立すると1933年に長沙市と改称、湖南
省の省都とされ現在に至っている。1938年の長沙大火では多くの文化財を失うと同時に
1939年から1944年にかけては日中戦争の戦場ともなっている。
長沙の位置は、次のグーグルマップによって確認できる。https://maps.google.co.jp/
maps?oe=utf-8&hl=ja&client=firefox-a&q=
%E9%95%B7%E6%B2%99&ie=UTF-8&hq=&hnear=0x342735f39e1c64c5:0xb1e5bb9
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d=0CL4BELYD
武漢の上流400kmぐらいのところにあるのを確認してほしい。
重慶は、古代の巴国の地である。巴国は紀元前316年に秦国に滅ぼされた。南北朝時代に
宋が渝州と命名した。これを略した「渝」は現在も重慶の略称として自動車のナンバープ
レート等に使われている。1189年(淳熙16年)南宋の光宗により重慶と命名された。
1891年長江沿岸の港湾として対外開放され、1929年重慶市政府が成立した。日中戦争で
首都であった南京が陥落すると、1938年に蒋介石の中国国民党は首都機能を重慶に移転
させるというほどに、重慶は北京や南京などに次ぐ大都市である。当時、その重慶に日本
人の居留民が結構いたのである。
せっかくの機会なので、この際、現在の重慶を紹介しておきたい。重慶は中国内陸の西南
部に位置し、特別な地理環境と特別な気候のため、いろいろな別称があり、例えば、夏は
酷暑となり、武漢、南京と並んで 「三大火炉」と呼ばれ;美しい山々に囲まれているこ
とから、「山城(山の町)」とも呼ばれ;冬、春時期に、霧が多くて、「霧城」と呼ばれ
ている。重慶は四 川盆地の東南部、中国最長の川--長江(ようすこう揚子江)上流の丘陵
部に位置している。人口は約3144万人、面積は約8万2,400平方キロメート ル、中国で一
番若い直轄市である。人口3000万人ですよ。凄い大都市ですね。重慶は亜熱帯湿潤季
風性気候に属し、冬は暖かく、夏は酷暑。年平均気温は18℃くらい、一年中降雨量は十
分である。美し い山水都市重慶は、また中国で有名な歴史文化名城、中国優秀な観光都
市である。観光地が多く、有名な長江三峡もここにある。重慶市は世界文化遺産が1ヵ
所、国家級観光地が21ヵ所、国家級森林公園が22ヵ所である。
現在の重慶
( http://www.dojintabi.com/travel-guide/city_chongqing.html より)
なお、「習 近平は今何をかんがえているのか?・・・北戴河会議で行われた演説・全訳」
という貴重なページを見つけたので、この際、ここに紹介しておきたい。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36792
私は、習 近平の素晴らしい決意に大きな希望を感じている。これからの中国の改革と発
展は、習 近平により、多分、重慶を中心に行なわれていくのではないかと推察してお
り、これからは重慶の動きに目が離せないと考えている。「明日の中国は習 近平と共に
あり、そして明日の中国は重慶と共にあり!」・・・という訳だ。
話が少し横道にそれたので、もとに戻す。上海にはアヘン戦争後に生まれた租界があり、
フランス租界、共同租界にわかれ、両租界とも90%が中国人、残る10%が英、米、仏
人などであった。日本人は約2万人だったという。そこへ、漢口、 長沙、重慶など長江
沿岸の日本人居留民が、多数、日本国の命令によって、避難してきたのである。日本国と
しては、上海における新旧慰留民の生命と財産は絶対に守らなければならない。当然のこ
とであろう。ところが、 1937年8月13日、日本人保護と上海市街警備のために駐
留していた海軍陸戦隊 (約4000人)の本部付近に、蒋介石直系の中央軍が山砲、迫
撃砲による集中砲火を浴びせてきたのである。第2次上海事変の始まりである。第2次上
海事変の詳細を述べる前に、上海の租界地のことを説明しておきたい。
第二次上海事件が起こった頃の外灘(バンド):この左側が英国の租界地
( http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1429/colo/shanghai.html より)
上海の租界地
( http://www.shanghai-guide.jp/shanghai_tips/history_concession.html より)
上の図で、英国租界に隣接して共同租界、米国租界に隣接して共同租界があり、その北側
に虹口超界築区域というのがあるが、ここが日本人街になっていた。その日本人街の北側
に魯迅公園がある。魯迅公園はかつては虹口公園と呼ばれており、清朝時代の1896年に
上海共同租界工部局(市役所に相当)が租界の外にあった農地を取得して造営された。当
時の虹口区には日本人居留者が多く、日本租界とも呼ばれていた。小説家の魯迅や、その
友人で古書店主でもある内山完造もこの付近に居住していた。この公園では1932年には
日本人要人が多数殺傷した上海天長節爆弾事件が発生した。1937年に日華事変で上海に
侵攻した日本軍によって公園内の建物は破壊された。1942年には完全に日本軍の軍事用
地として接収された。日本が敗北し撤退した1945年に蒋介石に因んだ「中正公園」に改
称されたが、1950年に旧称に復した。現在は市民の憩いの場となっており、特に早朝は
社交ダンスや太極拳の練習で賑わう。
この魯迅公園は私のお勧めする上海観光スポットである。是非次をご覧戴きたい。
http://www.youtube.com/watch?v=ePce7vHLb8o なお、一般的な上海観光については、次をご覧戴きたい。
http://www.shanghai-guide.jp/shanghai_sightseeing/index.html
2、第2次上海事変
先に述べたように、 1937年8月13日、日本人保護と上海市街警備のために駐留し
ていた海軍陸戦隊 (約4000人)の本部付近に、蒋介石直系の中央軍が山砲、迫撃砲
による集中砲火を浴びせてきたのである。第2次上海事変の始まりである。 攻撃の命令
者は蒋介石、実行部隊である中央軍の指揮官は張 治中 であった。この張 治中は共産党に
入党していた、つまり、隠れ共産党員 だったことが最近になって指摘されている。
なお、 砲撃4日前の8月9日、大山勇夫中尉(陸戦隊の第1中隊長)の乗った陸戦隊の
乗用車が中国保安隊に襲われ、運転していた兵ともども惨殺された事件が起こるなど、中
国側からの挑発、敵対行為が目立っていたのであるが、遂に、1937年(昭和12年)8
月13日、第2次上海事変が勃発したのである。
華中を足場とする蒋介石は、華北の戦いに重点を置くのは用兵上からも不利と判断し、主
戦場を華北から華中に移そうと企てていたので、挑発・敵対行為はこの文脈に沿ったもの
だったのであろう。蒋介石にすれば日本軍を華中に引き込めば勝算ありと考えたに違いな
い。 というのも、満州事変のとき、上海は戦火が満州から飛び火し、日本軍と2ヵ月近
くにわたって激戦のあった地域であった(第1次上海事変)。両者の間で停戦協定が結ば
れ、非武装地帯が作られるが、蒋介石はドイツ人軍事顧問団の協力のもと、非武装地帯と
なった上海の北に網の目のように走るクリークを活用した強固なトーチカ陣地を、また上
海と南京の間にも堅固な陣地を構築し、日本軍との戦に備えていたのである。準備万端お
さおさ怠りなしという訳だ。しかも集結した中央軍主力は20万人という大兵力であった
のである。これで日本軍に負ける訳がない、と蒋介石は考えていたのだ。
第2次上海事変では蒋介石から仕掛けられて、日本は受けて立った。当初は、作戦本部の
命令により、作戦地域は「蘇州・嘉興ヲ連ネル線以東」に制限されていた。しかし、11月
24日になって、第1回大本営御前会議で中支那方面軍の作戦地域の制限が解除される。た
だしこの場合でも、多田次長より南京方面への進撃はしないよう打電されている。にもか
かわらず、翌日の11月25日に、中支那方面軍が独断で南京へ進撃開始した。軍規違反で
ある。
そして、12月1日遂に、大本営は大陸命第七号を発令し中支那方面軍戦闘序列を編成、大
陸命第八号「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」を発令
し、南京攻略を命令するに至るのである。その間、南京攻略に消極的な者と積極的な者と
でいろんな駆け引きがあったらしい。しかし、遂に、中支那方面軍の動きを擁護する積極
派が勝って、南京攻略の命令が下ることになるのである。
では、ここで上海における日本軍の闘いぶりを見ておこう。もの凄い激戦であったのであ
る。
中国側の圧倒的な戦力の前に、少数の海軍陸戦隊だけで足りるはずもなく、日本は8月1
5日、上海派遣軍 (司令官・松井石根大将)を編成、この基幹部隊となった2個師団
(第3、第11師団)を上海の北方に投入する。だが、日本軍の損害は甚大で敵堅陣の前
に釘づけになってしまう。
そこで9月初旬、第2次派遣部隊として3個師団 (第9、13、101師団)ほかに
動員が下令された。だが、中国軍の火力は想像以上で、死傷者が続出する。それでも日本
軍は前進をつづけ、大場鎮(だいじょうちん)に迫ります。大場鎮は上海の守備には死活
的に重要な陣地でした。2ヵ月間にわたる戦闘の損害は日露戦争における旅順攻略戦を上
回るといわれるほど、日本軍は大打撃をうけたのである。
大場鎮の敵陣地に雨と降る弾丸を冒して突撃する日本兵
( http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/archive/2012/5/24 より)
ここで参謀本部は10月下旬、「上海派遣軍の任務達成を容易ならしむため」に3個師
団 (第6、18、114師団)を基幹に第10軍 (司令官・柳川平助 中将)を編成す
る。第10軍は11月初め、杭州湾に上陸、敵の退路を断つ布陣に入りました。一方、北
支の第16師団を上海派遣軍に組み入れ、揚子江上流の白卯江に上陸させた。
ところが、第10軍の上陸前の10月末、要所・大場鎮が落ちたことにより、中国軍は
総崩れとなり、南京に向けて退却する。そして、遂に、11月の初めに上海地区は日本軍
の占領下に入ったのである。
第2次上海事変における中国軍と日本軍の戦力は、最終的には、中国軍が兵力60万人、
航空機200機であるのに対し、日本軍は、兵力25万人、航空機500機、戦車300
両、軍艦130隻であり、兵隊の数は少ないが、兵器において圧倒的な戦力を有していた
のである。これでは、蒋介石が事前に強固なトーチカ陣地を構築するなど、中国として最
大の準備をしていたとはいえ、日本軍に勝てる訳がない。しかし、上述のように、大場鎮
(だいじょうちん)では、2ヵ月間にわたる激戦の結果、日露戦争における旅順攻略戦を
上回るといわれるほど、日本軍は大打撃をうけたのである。このような犠牲の上に日本軍
は上海で勝利を収めたのだが、その勝利を確実にした戦いのひとつに、上述したように、
杭州湾の上陸作戦がある。
杭州湾の敵前上陸
( http://vaccine.sblo.jp/article/11759107.html より)
日本軍7万増派の杭州湾上陸
( http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col7189.html より)
以上のような状況の下、日本軍は第2次上海事変に圧勝するのだが、戦場においては、勢
い余った行動として南京へと飛び火していく。上述したように、中支那方面軍が独断で南
京へ進撃開始したのである。動物には逃げる者を追いかける習性があるので、中支那方面
軍が独断で逃げる中国軍を追撃したからといって、特に軍紀違反と行って非難する訳にも
行かないだろう。私はそう思う。(しかしながら、南京陥落後の日本陸軍の野蛮な振舞
い、つまり南京虐殺については、頑強に守られた陣地が遂に陥落したので、一時手に負え
なくなった軍隊の行為であるとして免責することはできない。これは絶対にできないの
だ。南京虐殺についてはこの後述べる。)上述したように、当初は南京攻略を考えてもい
なかった大本営は、中支那方面軍の進撃に引きづられるように、最終的には南京攻略を命
令する。そして、12月7日、日本軍は南京防衛軍の外郭防御陣を突破し、午後一時には南
京市へ攻撃を開始する。中国軍は防衛司令長官唐生智を残して総統蒋介石ら中国軍首脳陣
が南京を脱出。続いて中国政府要人や地方公務員等が南京を脱出した為、無政府状態とな
り市民は混乱状態に陥る。これにより電話不通、電気水道が停止。中支那方面軍は「南京
城攻略要領」を示達 。
日本軍による南京城への入城式
(1937年12月17日)
「日本軍万歳」を叫ぶ南京の避難民
(日本側撮影、1937年12月17日)
さあそれでは、ここらで、第2次上海事変と南京攻略について、ひとつのYouTubeを紹介
しておきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=fSMZnOsEy4A
なお、南京虐殺についてはこの後に説明するので、このYouTubeの最後の方の南京虐殺に
関連する部分に関しては、この後に記述する私の説明を重視してもらいたい。南京虐殺の
問題についてはたいへん微妙な問題を含んでいるからである。
3、南京虐殺について
南京大虐殺紀念館
( 画像は、http://www.eonet.ne.jp/ shiyokkyo/nanjing/nanjing.html より)
南京大虐殺紀念館は、中華人民共和国の博物館。
中国での正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」。
日本では、屠殺を虐殺と訳して南京大虐殺紀念館と呼ばれる。
抗日記念館の代表格として中国共産党により愛国主義教育基地に指定されている。
この南京大虐殺記念館については、中国政府の鄧小平ならびに中国共産党中央委員会が、
全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を
出したことから建設の動きが始まる。すなわち、この支持を受けて、1983年、中国共産
党江蘇省委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館を設立することを決定し、中国共産党南
京市委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。鄧小平は1985年2月に南京を視察に
訪れ、建設予定の紀念館のために「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫
し、鄧小平の視察直後に紀念館の建設が着工され、抗日戦争終結40周年に当たる同年8月
15日にオープンした。南京大虐殺記念館の建設目的は、愛国主義教育と言われているが、
この愛国主義ということについては注意を要する。私は、政府側の期待する「愛国心」と
は現政府に対する「忠誠心」と理解している。イデオロギー的なものでなく、純粋な意味
での愛国であれば良いのだが・・・。
日中両国の歴史研究者交流を進めている東京財団主催の講演会が2007年1月30日、
東京都港区の日本財団ビルで行われ、程兆奇・上海社会科学院歴史研究所教授と張連紅・
南京師範大教授が中国における南京事件研究の現状などを紹介した。
南京事件は日中間の歴史認識の隔たりの最大のテーマのひとつ。中国では「日本軍国主義
のシンボル」と位置づけられ、南京軍事裁判で示された30万人の犠 牲者数は「南京大虐
殺記念館」にも刻まれている。これに対し程教授は「現在の資料で犠牲者数を確定するこ
とはできない」と述べ、30万の数字が学術的根拠 を欠くことを認めた上、今後、幅広い
学術研究を進める考えを示した。
南京軍事法廷は、1946年に蒋介石率いる中国国民党政府によって開かれた戦犯裁判であ
る。中国で戦争犯罪を犯したと目された日本軍関係者が日中戦争中の行為をもとにこの法
廷で裁かれた。南京事件関連では、第6師団長谷寿夫、同師団の歩兵第45連隊中隊長田中
軍吉、および、戦時中の新聞で百人斬り競争を実施したと報じられた向井敏明少尉と野田
毅少尉が起訴され、谷が1947年4月に、残る3人が1947年12月に死刑判決を受け、処刑さ
れた。判決では「被害者総数は三〇万人以上に達する。」と認定され、現在の中国政府が
主張する犠牲者三十万人以上説の根拠となっている。
両教授によると中国で南京事件の研究が始まったのは1980年代以降。当時、南京に在住
した外国人や中国人の日記、生存者の目撃談など28巻1,500万字分の資料が集まってお
り、年内にはさらに20巻の資料が整備される予定という。
「学術的根拠がないのなら虐殺記念館の30万人の数字は削るべきではないか」との会場
からの質問に、張教授は、「一学者として決められる問題ではないが、自分が経営してい
るのであればこの数字は使わない」と答えた。
歴史問題は日中間の最大の政治問題にもなっており、さらに日中の共同研究を進めるべ
きであろう。
現在、日本では、南京虐殺についてさまざまな説が百花繚乱のごとく乱舞している。その
詳細については、ウィキペディアに解説されているので、それをご覧戴くとして、ここで
は、 そのような南京大虐殺論争に対して、各方面の識者から批判がなされていることを指
摘しておきたい。その代表的なものは、次の通りである。
心理学者の中山治は、「互いに誹謗中傷、揚げ足の取り合いをし、ドロ試合を繰り広げて
いる。事実をしっかり確認するどころの騒ぎではなくなっているのである。こうなったら
残念ながら収拾が付かない。」と論評している。
政治学者の藤原帰一は、 論争は「生産的な形を取ることはなかった。論争当事者が自分
の判断については疑いを持たず、相手の判断を基本的に信用しないため、自分の偏見を棚
に上げ て、相手の偏見を暴露するという形でしか、この議論は進みようがなかったから
である。(中略)新たな認識を生むというよりは、偏見の補強しか招いていな い」と論
評している。
と学会会長の山本弘は、 この論争は学術論争ではなくイデオロギー論争であり、左寄り
の論者(30万人虐殺肯定派)は、中国人の犠牲者数を多くしたいために、「南京」「虐
殺」の範 囲を広くしようとし、右寄りの論者(30万人虐殺批判派)は、中国人の犠牲者
数を少なくしたい(なかったことにしたい)ために「南京」「虐殺」の範囲を狭 くして
いる。論争の当事者達は歴史の真実を知りたいのではなく、自分たちの信条を正当化した
いだけである、と論評している。
このような状態であるので、私は、中立的な立場で事実誤認をしているもっとも権威ある
ものとして、極東国際軍事裁判(東京裁判)における「南京虐殺にかんする事実認定」を
このあとで紹介することとしたい。
極東国際軍事裁判は、第二次世界大戦で日本が降伏した後、連合国軍が「戦争犯罪人」と
して指定した日本の指導者を裁いた裁判のことである。この中に南京虐殺事件関係者とし
ては、松井石根がいる。この他に、南京虐殺事件関係者としては、第6師団長谷寿夫、同
師団の歩兵第45連隊中隊長田中軍吉、および戦時中の新聞で百人斬り競争を実施したと
報じられた向井敏明少尉と野田毅少尉がいるが、これらの人は上述したように南京軍事裁
判で裁かれている。南京軍事裁判とは、1946年に蒋介石率いる中国国民党政府によって
開かれた戦犯裁判のことであるが、これと極東国際軍事裁判とはどう違うのか? 俗な言
葉で言えば、極東国際軍事裁判は第2次世界大戦の戦争責任者(大物被告)、南京軍事裁
判は支那事変に関する戦争責任者(小物被告)をそれぞれ裁いた、と思えば判りよいであ
ろう。松井石根は、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官であり、陸軍大将という大物
である。したがって、彼は南京軍事裁判ではなく極東国際軍事裁判で裁かれたのである。
では、極東国際軍事裁判における南京虐殺事件に関する事実認定の全文を次に紹介してお
く。
一九三七年十二月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万
の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国
人の全部とは、この市から避難した。
中国軍は、この市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した。一九三七年十二月
十二日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西
門から退却した。
中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難し
たので、一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なく
なっていた。
日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵
は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。
目撃者達によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は
単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、戦いに勝った日本軍は、その獲物
に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。
兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・掠
奪・放火を行った。そこには、なんの規律もな かった。多くの兵は酔っていた。それら
しい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわ
り、遂には所によって大通りや 裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。
他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたも
のはだれでも射撃された。
これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少くと
も一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。
多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗す
ると、その罰としてしばしば殺されてしまった。幼い少女と老女さえ も、全市で多数に
強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あっ
た。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体 は切断された。占領後の最初の一
カ月の間に、約二万の強姦事件が市内に発生した。
日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。兵が道路で武器をもたない一般人を
呼び止め、体を調ベ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射 殺することが目
撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラック
で運び去られた。
日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。最も重要
な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに 市の商業区域が一劃々々と相ついで焼き
払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。このよう
な放火は、数日後になると、一 貫した計画に従っているように思われ、六週間も続い
た。こうして、全市の約三分の一が破壊された。
男子の一般人に対する組織立った大畳の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に
混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって 行われた。中国の
一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣に
よって、そこで集団ごとに殺害された。兵役年齢にあった中国人男子二万人は、こうして
死んだことがわかっている。
ドイツ政府は、その代表者から、『個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの
暴虐と犯罪行為』について報告を受けた。この報告の後の方で、『日本軍』のことを『畜
生のような集団』と形容している。
城外の人々は、城内のものよりもややましであった。南京から二百中国里(約六十六マ
イル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった。
住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を
組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えた
と同じような仕打ちをした。
南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収
容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの
多くは、機関銃と銃剣で殺された。
中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時
間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。
このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところ
の、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。
後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害
された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積り
が誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実
によって証明されている。
これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これら
の数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、または
その他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。十二月十四日に、一大
使館員は、『陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩
和せしめんとしつつあり』と南京国際安全地帯委員会に通告した。
大使館員はまた委員に対して、同市を占領した当時、市内の秩序を維持するために、陸
軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、十七名にすぎなかったことを知らせた。
軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかったときに、これらの大使館員は、外国
の宣教師たちに対して、宣教師たちの方で日本 内地に実情を知れわたらせるように試
み、それによって、日本政府が世論によって陸軍を抑制しないわけには行かなくなるよう
にしてはどうかといった。
ベーツ博士の証言によると、同市の陥落後、二週間半から三週間にわたって恐怖はきわ
めて激しく、六週間から七週間にわたっては深刻であった。
国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出した。
中支那方面軍司令官・松井石根大将は十二月十七日まで後方地区にいたが、この日に入
城式を行い、十二月十八日に戦没者の慰霊祭を催し、その後に声明を発し、その中で次の
ように述べた。
『自分は戦争に禍せられた幾百万の江浙地方無辜の民衆の損害に対し、一層の同情の念
に堪えぬ。今や旭旗南京城内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亜復興の曙光将に来らんと
す。この際特に支那四億万蒼生に対し反省を期待するものである』と。松井は約一週間市
内に滞在した。
当時大佐であった武藤は、一九三七年十一月十日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の
期間中、松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。
南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行われている残虐行為を聞い
たということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗
議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。
この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。松井が南京にい
たとき、十二月十九日に市の商業区域は燃え 上っていたという証拠が、一人の目撃者に
よって、本法廷に提出された。この証人は、その日に、主要商業街だけで、十四件の火事
を目撃した。松井と武藤が入 城してからも、事態は幾週間も改められなかった。
南京における外交団の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその附近で行われて
いた残虐行為の詳細を報告した。
中国へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、一九三七年九月から一九三八年二月ま
で上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞
記者から報告を受け、日本の外務大臣広田に、その報告の大要を送った。
南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他
の多くの報告は、中国にいた日本の外交官から送られ、広田はそれらを陸軍省に送った。
その陸軍省では、梅津が次官であった。これらは連絡会議で討議された。その会議に
は、総理大臣・陸海軍大臣・外務大臣広田・大蔵大臣賀屋・参謀総長及び軍令部総長が出
席するのが通例であった。
残虐行為についての新聞報道は各地にひろまった。当時朝鮮総督として勤務していた南
は、このような報道を新聞紙上で読んだことを認めている。
このような不利な報道や、全世界の諸国で巻き起された世論の圧迫の結果として、日本
政府は松井とその部下の将校約八十名を召還し たが、かれらを処罰する措置は何もとら
なかった。一九三八年三月五日に日本に帰ってから、松井は内閣参議に任命され、一九四
〇年四月二十九日に、日本政府 から中日戦争における『功労』によって叙勲された。
松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を
犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思ったから
であると述べている。かれは遂に処罰されなかった。
日本陸軍の野蛮な振舞いは、頑強に守られた陣地が遂に陥落したので、一時手に負えな
くなった軍隊の行為であるとして免責することはできない。強姦・放火 及び殺人は、南
京が攻略されてから少くとも六週間、そして松井と武藤が入城してから少くとも四週間に
わたって、引続き大規模に行われたのである。
一九三八年二月五日に、新任の守備隊司令官天谷少将は、南京の日本大使館で外国の外
交団に対して、南京における日本人の残虐について報告を諸外国に送っ ていた外国人の
態度をとがめ、またこれらの外国人が中国人に反日感情を煽動していると非難する声明を
行った。
この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行うという日本
の方針に敵意をもっていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映し
ものである。
(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P395∼P398)
ドイツにおけるニュルンベルク裁判に対する批判はあまり聞かれないが、日本における極
東国際軍事裁判については戦勝国の報復という意見など批判的意見が多く見られる。例え
ば、イギリス領インドの法学者ラダ・ビノード・パール判事は判決に際して「意見書」
(通称「パール判決書」)を発表し、全員無罪を主張した。彼は、「司法裁判所は政治的
目的を達成するものであってはならない」という法理論的な認識のもと、反対意見を述べ
たものである。なお、極東国際軍事裁判の評価をめぐっては研究が続けられており、今の
ところ結論が確定するには至っていない。
このように極東国際軍事裁判(東京裁判)については批判的意見があるものの、中支那方
面軍司令官兼上海派遣軍司令官であった松井石根大将に対する裁判そのものについては、
私は特に問題点があったとは思わない。事実認定も客観的になされており、判決も妥当な
ものであったと考える。 南京陥落後の日本陸軍の野蛮な振舞い、つまり南京虐殺につい
ては、頑強に守られた陣地が遂に陥落したので、一時手に負えなくなった軍隊の行為であ
るとして免責することはできない。これは絶対にできないのだ。
南京軍事裁判で示された南京虐殺30万人説も、極東国際軍事裁判で示された南京虐殺2
0万人説も、大同小異である。以上、私は、南京大虐殺は事実あったと考える次第であ
る。
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