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一宇の雨乞い踊り−その歴史と伝承

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一宇の雨乞い踊り−その歴史と伝承
13-02_阿波学会_157-164_民俗 2011.7.20 2:16 PM ページ 157
阿波学会紀要 第57号(pp.157-163)
2011.7
一宇の雨乞い踊り−その歴史と伝承
―――――――――――――――――― 民俗班(徳島民俗学会)――――――――――――――――――
*
⁄橋 晋一
要旨:本稿では,つるぎ町一宇に伝えられている「一宇の雨乞い踊り」の概略を報告するとともに,その特色を指摘す
る。同地の雨乞い踊りは全国各地に見られる太鼓踊りの系統に属し,19世紀以前にさかのぼる歴史がある。県内の雨乞
い踊りは,小さな太鼓をたたき小歌に合わせて踊られるものが多いが,一宇の雨乞い踊りは素朴な唱えごとに合わせ,
大型の締太鼓・鉦・ホラ貝が囃子を入れ,大きなうちわ状の飾りの付いた「笠」が踊る勇壮なもので,県下でも特異な
形態を有している。雨乞い踊りの古風な形を伝えたものと考えられ,文化財的価値が高い。伝承組織は変容しているも
のの,詞章や芸態は古い形を受け継いでおり,今後の保存継承が望まれる。
キーワード:民俗芸能,雨乞い,文化変容,太鼓踊り
踊りもこうしたタイプに属する。
1.はじめに
徳島県内には「神踊り」と呼ばれる小歌をともな
本稿の目的は,つるぎ町一宇に伝えられている
「一宇の雨乞い踊り」の概略を報告するとともに,
その特色を指摘することにある。
う太鼓踊りが広く分布していたが,その半数近くは
雨乞いの主旨も込めて踊られていた2)。神山町下分
の雨乞い踊り,阿波市市場町日開谷のじょうれい踊
おたから
本論文に関連する調査は,平成22年(2010)6月
り,吉野川市山川町の神代御宝踊,三好市西祖谷山
8日(聞き取り)、9月18日(観察)の2回にわた
村の神代踊などは,こうした風流踊り・小歌踊りの
り実施した。なお,9月18日に撮影した一宇の雨乞
系統を引く雨乞い踊りである。
ふりゆう
い踊りについて,巻末のCD内に動画ファイルとし
こうした風流・小歌踊り系の雨乞い踊りとは別
て添付した。ファイルの保存形式はwmvであり,
に,比較的単純な唱えごとやかけ声による雨乞い踊
Windows Media Playerなどwmv形式に対応した動
りも行われていた。つるぎ町一宇,三好市井川町井
画再生プレーヤーで再生可能である。
内谷,那賀町木沢,那賀町木頭の雨乞い踊りなどは
それにあたる。
2.県下の雨乞い踊り
科学知識・技術が未熟な時代,干天の折には雨乞
干天続きの際,雨乞いを祈願して踊られる踊りを
い祈願をするしか術がなく,県下でも多くの地域に
「雨乞い踊り」と呼ぶ。近世の記録に残る雨乞い踊
雨乞い踊りが伝承されていた3)。しかし時代が下り
かつ こ
りのほとんどは,太鼓または羯鼓を腹につけ,背に
るにつれ雨乞い踊りは実用性を失い消滅の一途をた
へいそく
は幣束またはそれから変化したさまざまな飾りを背
1)
負って踊る「太鼓踊り」であるが ,一宇の雨乞い
どり,徳島県内で現在も伝承されている雨乞い踊り
系の芸能は,日開谷のじょうれい踊り,山川町の神
* 徳島大学大学院ソシオ・アーツ・アンド・サイエンス研究部
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一宇の雨乞い踊り−その歴史と伝承/民俗班
もうでん
代御宝踊,西祖谷の神代踊,一宇の雨乞い踊りのみ
宇では「1毛田」と呼ぶが,昔は1日に120毛田も
となっている。
の誓願をしていたと言う。
それでも効果がないと,八面山(1,312メートル),
3.雨乞い踊りの歴史と変容
石堂山(1,636メートル),丸笹山(1,712メートル)
1)由来
など近隣の高山(雨乞い祈願の山)に上り,1日60
一宇の雨乞い踊りの起源については,明確な記録
毛田を踊った。これを「権現詰め」と言った。権現
がなく定かではない。しかし弘化5年(1848)の墨
詰めのときには,雨乞いの大笠の邪魔になるものは
4)
書がある雨乞いの幟が残っており ,現存最古の太
何でも切り払ったという9)。このように山頂で雨を
鼓に文化11年(1814)の銘がある5)ことから,少な
祈る事例は全国的にも多い10)。
くとも19世紀初めには踊られていたことがわかる。
それでも雨が降らないときは,山を下りて各集落
踊りの由来について,昔,あまりの日照りに名主
ごとに20毛田,なおも降らないときは1日休み2日
の娘が我が身を龍神渕に沈め雨を得たと伝えられ,
踊ることを雨が降るまで繰り返した。このように,
その霊を慰めるための踊りとも言われるが,口碑の
雨乞いはある手段で降らなければ次の手と,いくつ
域を出ない。
もの方法が用意されているのが常であった。
雨乞い踊りは祈祷踊りであり,娯楽の踊りではな
幸いにして雨が降ると,60毛田の御礼踊りを奉納
い。また,氏神の祭礼など決まった日に定期的に奉
した。祈願の踊りと御礼踊りがセットになっている
納されるものではなく,かつては干天が続き水不足
のも,各地の雨乞い踊りと共通している。
の際に臨時に踊られていた。毎年あるわけではない
6)
が,しばしば行われていたという 。一宇は四国山
地の剣山北麓に位置する標高1,500メートル級の
7)
3)雨乞い踊りの復活
雨乞い踊りはかつて一宇全域で踊られていたが,
太鼓の修理など道具の維持費が難しくなった,水道
山々に囲まれた山村で ,畑は急斜面に作られてい
施設の整備が進み雨乞いをする必要性がなくなって
る。干天が続けば作物の収穫に大きな影響が出るこ
きたなどの理由により,大正9年(1920)を最後に
とになるので,神仏に雨乞いを祈願して降雨を願っ
休止した11)。
たのである。
しかし,昭和43年(1968)の明治百年を期に,村
2)かつての雨乞い踊り
内有志が「一宇村雨乞い踊り保存会」を結成,古老
昔は日照りが続くと,各集落ごとに氏神または氏
から踊りを習って踊りを復活させた( 写真1 )。一
堂の境内で太鼓をたたき雨乞い踊りを踊り,降雨を
宇の雨乞い踊りは,昭和48年(1973)には徳島県無
祈願した。昔は各集落に2,3個の太鼓があったと
形民俗文化財に指定された。
いう。
雨乞い踊りは,必ず各戸1人以上が出て踊りを踊
った。太鼓を持たない人は,尻太鼓(つべだいこ)
を叩き,傍観は許されなかった。雨乞い踊りは重要
な「村祈祷」の行事だったのである。
かつて雨乞いの時には洗濯物を干してはいけない
と言われたというが,同様の伝承は県内をはじめ各
地に見られる(県内では三好市井川町井内谷,美馬
市木屋平など)。これは降雨への願いの表現である
とともに,村共同の念慮に対してこれを乱す行いは
いささかも許さないという意志の表れでもあった8)。
はじめの2日間は,氏神や氏堂の境内で雨乞い踊
りを踊り,願かけをした。踊りを1回踊ることを一
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写真1 復活後奉納された雨乞い踊り
[写真提供:粟飯原興禅氏]
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復活当時のメンバーは約20人で,60∼70代の人を
の太鼓は西祖谷の神代踊に見られるのみである 12)。
中心に,一宇村役場(当時)の職員が参加していた。
太鼓の重さは15キロほどある。皮の直径は約1メー
その後も会員は15∼20人程度で推移してきた。平成
トル,胴の長さは約1.2メートル。太鼓の皮は昔は
3年(1991)から地元・一宇中学校での指導を開始,
カモシカの皮を使っていたが,最近は牛の皮を使っ
学校の文化祭や運動会などで披露するようになった。
ている。カモシカ皮の太鼓は薄くてよく響き,その
平成17年(2005),旧一宇村は旧貞光町・半田町
音は山を越えて聞こえたという。
と合併,新たにつるぎ町が発足したが,役場の統合
現在保存会として8台の太鼓があるが,一番古い
再編にともない保存会の役場職員が練習に参加でき
ものは解体しており,使用できるのは7台。そのう
なくなるなど伝承の危機が生じた。その後も一宇中
ち実際に使うのは4∼6台ほどである。太鼓はいず
学校の生徒により踊りが受け継がれてきたが,中学
れも江戸∼明治頃のものと思われる。皮は張り替え
校は平成22年3月で休校となったため,同年4月か
ているが,本体は昔のままである。
ら,一宇地区の中学生も通学する貞光中学校(つる
笠(写真3)は,直径60センチほどの小笠(頭に
ぎ町貞光)の生徒が伝承する形になり,現在に至っ
かぶる部分)の上に2メートルほどの大きなうちわ
ている。
状の飾りを垂直に立てたものである。うちわの輪の
復活以後,雨乞い踊りは中学校の運動会や文化祭,
中には竹を2本ずつ十文字に組み合わせ,支柱とす
美馬市の音楽発表会,地区内外のさまざまなイベン
る。輪の左右に縄を束ねた飾りを付ける。笠は竹の
トで披露されてきた。
芯に縄を巻いて作るが,今は水道のビニル管(軽い
ので)を使用している。
4.雨乞い踊りの形態
1)踊りの構成
雨乞い踊りの基本的な構成は,太鼓4∼6名,笠
2∼4名,鉦1名,ホラ貝2名,幟持ち1,2名,
囃子方(歌)4,5名。そのほか,水撒き(手桶で
水を撒く役)が1,2名入ることもある。鉦は雷光,
笠はうちわで風を起こし,太鼓は雷鳴を表している
という。
太鼓(写真2)は寄せ木の桶胴型(朴の木または
桐製)で,県下ではまれに見る大型のもので,同様
写真3 笠(現在使われているもの)
笠の上部のうちわ飾りは,昔は直径3メートルく
らいの大きなものであったが,中学校で伝承するよ
うになってから子供用に少し小さく(直径約2メー
トル)作り替えた。笠は小さく切った色紙で包み,
うちわの中央部に稲妻の飾り,頂部に金銀の竜の飾
り物を付ける。現在使用している笠の重さは約9キ
ロである。
全国各地の雨乞い踊りにおいて,背中や頭に負う
写真2 太鼓(現在使われているもの)
飾りには地域性がある。うちわ状の飾りは,兵庫県
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一宇の雨乞い踊り−その歴史と伝承/民俗班
但馬地方に伝わる「ざんざか踊」「ざんざこ踊」と
雨乞いの幟は,弘化5年(1848)奉納,明治40年
呼ばれる太鼓踊りに見られる。兵庫県養父市大屋町
(1907)奉納の二本がある。長さ約15メートル,い
大杉のざんざこ踊で使われるうちわは,直径1メー
ずれも似たデザインで,剣を捧持し雨雲に乗った龍
トルの輪に色紙の短冊をびっしり飾ったものである
神と,右手に小槌,左手に珠を持った雷神が描かれ
(写真4)。兵庫県朝来市和田山町寺内のざんざか踊,
ている。江戸期のものには「弘化五年(1848)申六
山口県長門市湯本の南条踊のうちわは丸に十字の大
月吉日」
「風雨順時五穀成就」
「九藤中 旗元袈裟吉」
きな造り物である( 写真5 )13)。一宇の雨乞い踊り
と染め抜かれている( 写真6 )。明治期の方には
の笠のうちわ飾りも同種のものの一変形と考えら
「明治四十年未六月吉日」「風雨順時五穀成就」「九
れ,これらの地域との伝播関係も考えられる。
藤中 旗元奥藤源之助」とある。幟は現在,保存会
で作ったレプリカを使用し,古い幟は出さずに保管
している。
写真4 兵庫県養父市大屋町
大杉・ざんざこ踊の「うちわ」
[出典:神戸観光壁紙写真集 http://kobe-mari.maxs.jp]
写真6 雨乞いの幟(弘化5年)
踊り手の服装は,現在は保存会で作った作務衣を
着用し頭に黄色いはちまきを巻くが,昔は着物に草
鞋履きであった。
2)芸態
雨乞い踊りは,「道行き」と呼ばれる入場行進か
ら始まる。先頭に旗元(幟持ち),続いて山伏(ホ
ラ貝),鉦,太鼓,笠の順に並び,山伏の吹くホラ
貝を合図に入場してくる。その際,鉦・太鼓は「テ
写真5 山口県長門市湯本・南条踊の「うちわ」
[出典:九州がんセンター癒し憩い画像
データベース/撮影 健 http://iyashi.midb.jp]
ン,テンテン,テンテン,テンテン」というゆっく
りしたリズムの「道太鼓」をたたく。
入場が終わると隊列を整え「道太鼓」を止める。
ホラ貝は復活当初は地元の修験者が山伏の服装で
吹いていたが,現在は中学生が吹いている。ホラ貝
は保存会で2つ購入して使っている。
鉦は直径20センチほどで,左手で紐を持って吊り
幟が両端(2本の場合),鉦,ホラ貝が前,太鼓は
中央に一列に並び,その後方に笠の列が並ぶ。
指揮者の号令で,鉦・太鼓・ホラ貝に合わせ雨乞
い踊りを踊る。1回踊ることを「1毛田」と言い,
しゆもく
下げ,右手に持った撞木で鉦の内側をたたく。
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これを5∼7毛田踊るのが基本である。
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太鼓の打ち方には「八つ拍子(八つ)」「十六拍子
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に2回くらい実施,9月に入ると練習は本格化し,
(十六)」
「雨だれ拍子(雨だれ)」の3種類があるが,
隔週あるいは毎週,学校の体育館で行っていた。練
「八つ」「雨だれ」は単調なので14),現在はもっぱら
習時間は1回1,2時間程度。経験者はだいたいわ
十六拍子を使っている。太鼓を打ちながらステップ
かっているので,主に新入生に指導を行った。平成
を踏み,腰をひねって踊る。
22年(2010)から貞光中学校での伝承に変わり,生
笠は頭上の小笠の縁を両腕で支えながら,うちわ
飾りの部分を左右に振り回すようにして踊る。
囃子方は鉦・太鼓・ホラ貝に合わせ,以下のよう
な唱えごとをする。
呼べ飛べ竜王よ 水たんもれ水神よ ソリャ
徒全員が初めての参加ということで,夏休みから集
中的に練習を行った。保存会会長の粟飯原興禅氏が
指導に当たっている。
保存会で作成した太鼓の譜面があり,伝承に活用
している。譜面には右手,左手の打ち方が示されて
もうでん
ソーリャ 毛田じゃ
いる。太鼓の打ち方には上から下へ,バチの底で打
そうじゃそうじゃ そこじゃそうじゃ
つ打ち方,太鼓の皮でなく左右の隅を叩く打ち方
そう舞えそう舞え そこじゃそう舞え
(コケコケ)がある。「天天∼」と打ち方を声に出し
そこじゃそこじゃ そうじゃそうじゃ
かつては「大けな毛田じゃ」「ほら毛田じゃ」な
ながら覚える。
3)文化祭での上演
どいろいろなかけ声があった。現在は保存会として
平成22年(2010)9月18日g,貞光中学校の文化
歌や踊り,太鼓の打ち方を統一しているが,昔は地
祭のオープニングで雨乞い踊りが披露された
域によって歌や踊りも少しずつ違っていた。
(写真7)。
「毛田」ということばの意味について,「詣でる」
が転訛したのではないかという説もあるが,四国や
近畿など各地の念仏踊りの影響を受けた雨乞い踊り
(雨乞い念仏踊り,ナモデ踊り)の中に「ナモデ」
「ナ
ムデ」(南無阿弥陀仏)という言葉の入るものがあ
り,この「ナモデ」から来た可能性も考えられる15)。
昔は鉦2,太鼓6を打ち鳴らし,直径3メートル
あまりの笠4を頭上高くかぶり,その周囲に大勢が
輪になって踊って願かけをした16)。鉦・太鼓・笠な
どは少人数なので,昔は,残りの人は踊っている人
の足元に水を撒くとか,うちわであおいだりした。残
写真7 現在の雨乞い踊り(2010年9月18日)
りの者は全員「つべ(尻)太鼓」をたたいて踊った。
当日,保存会のメンバーは朝8時過ぎに体育館に
5.現在の雨乞い踊り
集合し,衣装に着替える。背中に竜の絵の入った揃
1)伝承組織
いの紺の作務衣(上下)を着て腰に黄色い帯を締め,
雨乞い踊りは平成22年(2010)3月まで一宇中学
頭に黄色い鉢巻きを巻き,運動靴を履く。以前は着
校の生徒が伝承してきたが,同校の休校にともない
物姿であった。
現在は貞光中学校の生徒が伝承している。メンバー
体育館にはパイプ椅子が並べてあり,教職員や来
は約15∼20名で,女子も含まれる。笠や太鼓は重い
賓,保護者,生徒が着席する。雨乞い踊りの概要の
ので体力のある男子が中心であるが,基本的に希望
紹介のあと,体育館の左手袖から,太鼓と鉦で「テ
する役を担当している。
ン,テンテン,テンテン,テンテン」というリズム
2)練習
の「道太鼓」を奏しながら,幟1を先頭に,鉦1,
一宇中学校で伝承していた時は練習は夏休みまで
ホラ貝2,太鼓6,笠2,囃子方(歌)4の順に隊
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一宇の雨乞い踊り−その歴史と伝承/民俗班
列を組んでゆっくりと体育館の前方正面に入場して
のぼる歴史を持ち,各地に伝わる太鼓踊り(雨乞い
くる。
太鼓踊り)の系統を引くものである。県下の雨乞い
正面に入ってきたメンバーは,図1のように体育
踊りは,「神踊」の影響もあり,小さな太鼓をたた
館のステージの上下に分かれて陣形を整える。太
きながら小歌(風流歌)に合わせて踊るものが多い
鼓・笠・ホラ貝は正面に向き直り(鉦は背中向き),
が,一宇の雨乞い踊りは素朴な唱えごとに合わせ,
かけ声とともに,太鼓・鉦の基本リズムが始まる。
大型の締太鼓・鉦・ホラ貝が囃子を入れ,大きなう
ホラ貝がそこに重なり,囃子方は本稿4−2)で紹
ちわ状の飾りの付いた「笠」が踊る勇壮なもので,
介した「呼べ飛べ竜王よ 水たんもれ水神よ」から
県下でも特異な形態を有している。素朴ではあるが
始まる歌を歌う。
雨乞い踊りの古風な形を伝えたものと考えられ,文
化財的に価値が高い。本文で触れたように伝承組織
笠
は変容しているものの,詞章や芸態は古い形を受け
ステージ上
継いでおり,今後の保存継承が望まれる。
太鼓
謝辞:調査に当たっては,粟飯原興禅氏(一宇の雨
乞い踊り保存会会長)にたいへんお世話になりまし
歌
た。ここに記して謝意を表します。
太鼓
幟
鉦
ステージ下
ホラ貝
図1 雨乞い踊りの隊形
太鼓は左右にステップを踏み腰を入れる動き,そ
の場で体をぐるりと回す動きを入れながら太鼓を打
ち続ける。笠はステップを踏みながら,うちわ飾り
を左,右にゆっくりと大きく回す。
踊りを1回(1サイクル)踊ることを「1毛田」
注
1)高谷(1982):79頁.
2)檜(2004):754頁.
3)高谷(1982):639−640頁. 一宇の雨乞い踊りをはじめ,
県内15ヵ所の雨乞い踊りが列挙されている。
4)檜(2004):754−756頁. この雨乞幟は,かつては九藤中
の奥藤弥左衛門家に所蔵されていたという(一宇村史編纂
委員会(1972):1449頁)。同家は隣家の旗元が一家断絶した
ことにより,弘化年間より旗元の株を引き継ぎ,雨乞幟を所
有することになったという。このことから,幟を所有する
「旗元」の雨乞い踊りにおける位置の重要性がよくわかる。
という。昔は何毛田も踊ったが,今は5毛田から,
5)一宇村企画課編(2005):356頁.
多くて7毛田。時間にして10分もないが,道具が重
6)一宇村史編纂委員会(1972):1448頁.
いため相当に体力がいる踊りである。
途中までは一定の速さで踊りを繰り返すが,最後
7)角川日本地名大辞典編集委員会(1986)
:935頁.
8)高谷(1982):110-111頁.
9)一宇村編纂委員会(1972):1449頁.
に「はやもうでん」といって急にテンポアップして
10)高谷(1982):56頁.
速いスピードで舞う(最後の2毛田)。演出効果と
11)最後まで踊りが残っていたのは大野・子安・九藤中の三地
区であった(一宇村史編纂委員会(1972):1449頁)。
いう面もあるが,もとは風や雨を呼ぶために急テン
ポで舞ったものとも考えられる。
踊り終わると一同退場方向に向きを変え,入場の
時と同様,太鼓と鉦のゆっくりとした「道太鼓」に
合わせながら隊列を組んで退場する。
6.おわりに
以上,一宇の雨乞い踊りの歴史と現状について整
理してきた。同地の雨乞い踊りは19世紀以前にさか
162
12)高谷(1982):655頁.
13)一宇にはかつては風流歌をともなう「太鼓踊り」も伝承さ
れていた。雨乞い踊りと同じ太鼓を使っていたが,雨乞いと
は別の機会に踊られていた。太鼓踊りの詞章を書いた明治年
間の資料が現存している。
14)徳島県教育委員会(1985):82頁.
15)奈良県北葛城郡王寺町では歌の間の囃子に「サーサノナモ
デ」という文句が入った。磯城郡川西町のナモデ踊りでは,
歌の間に「ナモデヤサイサイ」という囃子ことばが入る(高
谷(1982):624)。
16)一宇村史編纂委員会(1972):1448頁.
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阿波学会紀要 第57号(pp.157-163)
文献
2011.7
典 徳島県』角川書店.
一宇村史編纂委員会編(1972)『一宇村史』一宇村役場.
高谷重夫(1982)『雨乞習俗の研究』法政大学出版局.
一宇村企画課編(2005)『閉村記念誌 一宇村百十六年の歴史
に幕』一宇村役場.
徳島県教育委員会編(1985)『徳島県の民俗芸能』同委員会.
角川日本地名大辞典編集委員会編(1986)『角川日本地名大辞
檜 瑛司(2004)『徳島県民俗芸能誌』錦正社.
徳島県教育委員会編(1998)『徳島県の民俗芸能』同委員会.
History and Tradition of Amagoi Dance of Ichiu, Tokushima, Japan.
TAKAHASHI Shinichi,
Proceedings of Awagakkai, No. 57(2011), pp. 157−163.
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