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1965-1968年までのボストン・ニューヨーク留学体験と現況について

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1965-1968年までのボストン・ニューヨーク留学体験と現況について
1965 年から 1968 年までの Boston New York 留学体験と現況
─とくに医学・医療の進歩の一端について
太田
宏
前回の近況報告に 2010 年 11 月に、医師の生涯教育に貢献したとして、日本医師会最高
優功賞を受賞したと手紙に書いたことが本日星野靖雄先生から話すことを依頼された一因
と思い、光栄に存じます。
言うまでもなくフルブライト資金は、日米の研究者の交流促進を目指してフルブライト
外交委員長が日本の若手研究者に渡航費用その他の一部を負担するというものですが、47
年前には今の円高の1ドル 78~79 円と異なり、公定相場 360 円で、実勢は1ドル 380 円で
当時名古屋大学大学院(医学系内科)の院生から無給医局員であった私には一家(妻、3 歳
と 8 ヵ月の男児)を連れての費用は手の及ばないほどのものでした。しかし、親に援助を
頼んだりして渡航費用を工面し、大学院の博士課程の学位論文その他の多くの英語の論文、
さらに外国人のアメリカ医師試験(ECFMG)
、フルブライト試験を受けたり、後輩への
仕事の引き継ぎなど多忙を極めました。従って、英会話を外国人に習ったのは 2、3 回程度、
書けるけれど話せないという状態で渡米してしまいました。往きは幸い主人が先にアメリ
カに渡って仕事をしている若い奥さんと一緒で、いろいろサポートを受け、ボストンまで
の直行便はないので、ハワイ、サンフランシスコ、そしてボストンへ到着しました。
サンフランシスコでは機内までフルブライト関係の事務の方に出迎えて頂きました。ボス
トンへ着くやいなや先住していた日本人数人から大歓迎をしてもらいました。
さて、私の仕事については、白血球を細かく砕いて細胞内小器官を詳細に生化学的に研
究したものですが、上司の教授はそれについてはよく知っておられ、着いた途端お前の仕
事について一時間ほど話せと命じられました。このセミナーは多分言葉では十分通じない
と考え、秘書に全文をタイプしてもらって配布し話しました。思ったとおり、後で秘書か
らお前の書いたものと話しは随分違うと言われてしまいました。実際テレビでも当時有名
だったウォーター・クロンカイトのニュース速報、そして、漫談などがよく分かるように
なるのは半年ぐらい先でした。
さて、教授は早速私共夫妻を招宴してくれましたが、小さな子供をそのまま家に残し、
大泣きしていたことを後で知り、ベビーシッターを頼まなかった不明を恥じました。
ボストンのハーバード大学には私が赴任したマサチューセッツ総合病院(Mass General
Hospital─MGH)の他、ボストン小児病院、ベス・イスラエル病院、ジョスリンクリニ
ックという糖尿病専門病院などがあり、まさに学園都市です。マサチューセッツ総合病院
では 18 世紀にエーテル麻痺による公開手術が行われたということで有名なイーサー(エー
テル)ドーム(講堂)があり、そこで週1回興味ある症例の呈示と討論があり(昼の1時
間)
、それはアメリカの一流誌 New England Journal of Internal Medicine(1924 より)
と日本の「医学のあゆみ」にも掲載され続けております。研修医が紹介する症例のヒスト
リーとデータを暗記して、早口で喋り、それに各自が活発に討論するというものでした。
後年、アメリカの普通雑誌に病院ランキングが示されましたが、マサチューセッツ総合病
院が1位、2位はボルチモア、3位スタンフォード大学、4位コロンビア大学病院だった
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と記憶しています。
さて、仕事のほうは教授が白血球研究の先駆者でしたので、それを続けてできるかと思
っておりましたが、すでにビタミンB12 活性化酵素の方に移り、研究助手をつけてもらいそ
の仕事をしました。ビタミンB12 は胃で内因子とういうもので吸収され易くなり、小腸で吸
収されるのですが、胃の全摘手術をして(小腸手術でも)、ビタミンB12 が欠乏すると大球
性高色素貧血が生じ、以前は悪性貧血と呼ばれていました。事実かどうか知りませんが、
瑞穂区の石川橋付近でその因子欲しさに殺人事件が起きたと聞きました。しかし、今やと
くに整形外科などでは赤いビタミンとして、ビタミンB12 が毎回のように出されています。
ビタミンの過剰投与は余分なものは尿に排出されてしまうので、実害はないですが(ホル
モンはあります)
、一度整形外科医会と話し合ってみたいと思っています。
ビタミンB12 の活性化酵素は光線過敏ですので、いつも暗室でつけてもらった実験助手の女
性とともに働き続けました。私どもの仕事は助手に朝9時から夕方5時まで過不足なく働
いてもらうよう一日の実験スケジュールを話すことだと思っています。
私は病院の近くのアパートに住んでいましたので、日本でも夜遅くまで働く癖が残ってお
り、夜中に出かけて実験をし、夜、病院を掃除する黒人の人々と仲良くなりました。井上
彰さんが昨年5月言語の多様性に向けてハワイ・クレオールについて話されたのを想起し
ます。
黒人固有の発音があり、トエンティー(20)では通じず、トエニーと発音しておりました。
その他ヒスパニック人も多かったです。
教授は親切にも2年目にはハーバード大学の血液学の講義を全て聞くことを許してくれま
した。中でも圧巻は Prof.S.Farber が毒ガス成分イペリットから 6MPという白血病最初の
化学療法物質を抽出してそれを 2、3 歳の女の子に投与し、思春期まで生存した図(スライ
ド)を見た時でした。日本での学術誌に S.Farber の講義を聴いたと記したら、広島赤十字
病院の現院長に羨ましがられました。
さて、血液研究室は私が日本から、そして西ドイツ、南アフリカ、臨床を主にするアメ
リカ人医師、実験助手、秘書(2 人)など二十人近くの構成でした。クリスマスイブでは研
究室のドアの飾り付けなど雰囲気は盛り上がり、お国自慢の料理を持ち寄りましたが、他
国人の食の好みが最初は分からず、おにぎり、寿司、あられなどを持って行き、余り好ま
れなかったようです。クリスマスでお祝い気分を満喫したものの、正月は 2 日から仕事─
正月三が日というか正月気分を味わえなかったことに私はややホームシックの気分を感じ
たりしました。
ボストンは中央にチャールズ川という大きな川が流れ、病院(アパートも)の対岸には
プルデンシャルビル(生保会社)が高く聳え、向こうにマサチューセッツ工科大学、ハー
バード大学、図書館などがあり、まさに学園都市でした。
その他にボストンコマンという名古屋の鶴舞公園より小さい公園があり、春から秋までの
木々の緑から紅葉、そして冬の雪など各季節の風情を歩いて訪れて楽しんだりしました。
有名なボストン美術館はゆっくり見た記憶がありません。2 年目の夏は、オンボロ車でニュ
ーヨーク州北部からナイアガラの滝を見てカナダへ、東方を巡りオタワでの儀仗兵の交替、
モントリオールのヨーロッパ調都市を見て南下してボストンへ戻りましたが、宿を予約も
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せず、米、炊飯器など持参の旅で、ある都市では最後にホテルが空いていてホッとしまし
た。
広漠のアメリカと比べヨーロッパ式のカナダを見て、ヨーロッパへいつか行きたいと思っ
たものでした。ただ、ボストンは緯度は北海道の北に位置しますが、坂道に止めた車が雪
のため動かなかったり苦労しましたが、北のニューハンプシャーは一面の紅葉で(日本は
まだら模様)実に見事なものでした。
さて、ビタミンB12 活性化酵素の研究では日本で続けられないと思い、3 年目の 1967 年 7
月からは多発性骨髄腫で有名なニューヨークコロンビア大学附属がん研究所の
Dr.Ossermann 教授のもとへ留学することにしました。名大では血液内科の中で免疫部分だ
け欠けておりました。京大卒の高月先生はそこで数々の業績を挙げておられ、高月先生に
紹介して頂いて、ニューヨークへ赴くことになりました。Do it yourself
でオンボロ車
に引越し車を付けて、名古屋~東京間ぐらいを喘ぎ喘ぎニューヨークへ向かい、急な坂道
では車を休ませ、着いたのは午後 9 時過ぎ、しかし、マンションの住民は親切に引越し荷
物の運搬を手伝ってもらいました。御存知のようにニューヨークマンハッタン島の中心部
は住居環境が悪く、北部のすこし離れたマンションを選び、自動車で通勤しました。コロ
ンビア大学はニューヨークの北部にあり、自動車で 15~20 分の距離でした。
免疫グロブリンの研究をできると期待していましたが、教授は単球白血病という白血病で
リゾチームという酵素(日本ではノイチームとして発売されています)が上昇しているか
ら単球にのみリゾチームが含まれているかを確かめて欲しいということでした。
白血球には好中球、リンパ球、好酸球(アレルギー性疾患で増える)
、そして単球といって
10%以下の比率で存在するのがこの系列のみ幼若のものから著増するのを単球白血病とい
います。コロンビア大学付属病院のその病気の黒人の患者さんから何回も採血させてもら
って、単球と好中球に分けても細胞 1 個当たりでは同量のリゾチームを含み、単球のみと
いうことは多くの手法を使っても証明されませんでした。教授の仮説を証明できず帰国し
ましたが、その理由は帰国後(教授が他界されてから)証明することができました。
さて、ニューヨークは多彩な民族の混淆と言われ、中心のセントラル公園は昼間は安全
であるが、夜は危ない、しかし、怖いもの見たさにハーレムの横を通ったりしました。子
供たちは消火栓の水をばらまいて遊んでいました。ある日、北のコロンビアからマンハッ
タン南東部にあるがん研究所に勤める後輩を訪ねるのにバスに乗りました。バスが北から
南へ移動するにつれ、人種が変わり、ハーレム近くになるとほとんどが黒人、しかし、す
ぐ近くの 5 番街ティファニー近くになるとすべて白人になるといった具合でありました。
ただ、とくに巾広いニューヨークのマンションがある敷地のベンチでは高齢の婦人がハー
イ、キュートといつも声をかけてくれました。
帰国 10 年近くたって、ボストン、ニューヨークを再び訪れてみるとボストンは市の南西部
は官公庁を始め高層ビルが乱立し、街の様相は一変していました。
そして、ニューヨークではあの高層のツインタワーが建ち、市の南部は中心部のエンパイ
アステイトビルディングを凌ぐ圧倒的な高層ビル群を形成していました。向かいの自由の
女神の島から見るマンハッタン島は一変していましたが、2001.9.11 のテロで高層ビル破
壊と数千人の犠牲を知るにつけ、その暴挙は許し難い思いがしています。
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ニューヨークには留学当時 6000 人を超える日本人会社員が駐留されており、近くのマンシ
ョンに住まれる会社員家族とは親しく付き合いさせて頂いていました。正月になるとその
会社員の人々が集まって、
「年の始めのためしとて、終わりなき世の目出度さを~」などを
歌ったりして、正月祝いをされました。私たち貧乏留学生もその会に出席させて頂き、美
味しい日本料理を頂いたものでした。さらに、ヤンキースタジアムではニューヨークヤン
キースの野球を見たり、メトロポリタン歌劇場では「アイーダ」
「カルメン」などの壮大な
歌劇、さらにはミュージカル“Fiddler on the Roof”(屋根の上のバイオリン弾き─その
後日本でも上演)は、忘れ難い印象的なミュージカルでありました。その他野口英世も研
究したロックフェラーセンターと研究所など、ニューヨークは学問だけでなく、エンター
テイメント溢れる大都会でありました。
そして、私は 1968 年ニューヨークで開催された国際血液学会に出席し、その会に出席され
た日本の名大第1内科の恩師のお手伝い(数多くの電話など)をして帰国しました。
1 ドル実勢 380 円で最初 6000 ドルの年俸、すぐ 7000 ドルへ、ニューヨークでは 1 万ドルの
年俸で当時の日本人の給料より多く、帰国したら伯父から往きは親に出費を頼み、帰りは
貯金して帰国したと言われたりしました。さらに忘れ得ない記憶として、John F Kennedy
がダラスで暗殺された後、滞米中に弟のロバート・ケネディも凶弾に倒れ、人々から深く
愛されたロバートがニューヨークのイースター教会へ着くまで駅々で実に多くの人々に哀
悼深く送られたことが心に残っています。
血液について
赤血球 寿命は 120 日といわれるが、できたてのもの古いもの合わせて約 60 日間
白血球
3000~11000/cmm と個人差も多く、血中滞留時間は半減期 8 時間、この短さを補うため
に骨髄や胸・腹腔などに 60 倍の予備軍(bone marrow reserve)がある。虫垂炎などにな
るとこれが動員されて虫垂の細菌と闘い(白血球数 15000~20000 ぐらい)
、その塊が化膿
(うみ)であります。
なお、白血球には好中球、リンパ球、好酸球、単球などであり、好中球は細菌と闘い、リ
ンパ球は細胞性免疫を担い(Tリンパ球はエイズで著減)、好中球は急性の細菌との闘いで
寿命がつきる(dying cell)であるが、単球(MO と検査箋に書かれている)は発展的ポテ
ンシャルを有し、寿命も長く、酵素活性も強くなり、いわゆるマクロファージに発展する。
これこそ単球白血病で、リゾチームが増加する原因でもあり、好中球、単球などを培養し
ようとして、プラスチック板で何回も失敗、日本血液学会のシンポジウム発表(1973)の 4、
5 ヶ月前にスライドガラスの上に 8 個のマイクロチエインバーの器具が提供され、世界で初
めて血液単球の培養に成功、さらにある抗体で覆われた赤血球の貪食像と電子顕微鏡像、
さらに自分の前腕をメスで何ヶ所か傷つけてカバーガラスを貼り、時間をおいてはがして、
次第にマクロファージの酵素が増加して行くことを証明することができました(皮膚病の
実験)
。
この血液単球からマクロファージへの発展的変貌はマクロファージの起源について局所の
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腹腔などから来るという説と骨髄さらに血液単球から由来するという二つの説が闘わされ、
昭和 30 年代(1955 年以降)の日本血液学会の最も大きな論争点であったと名古屋大学、広
島大学の学長をされた故飯島宗一先生が雑誌「科学」に記されております。私はいろいろ
な手法でマクロファージが血液単球由来であることを直接証明でき、その発表時には多く
の賞賛を頂きました。さらにこの結果は誰かのすいせんで通常臨床記事しか扱わない日本
医師会雑誌の中央のカラーページ(ステトスコープ)に採用掲載されました。なお、この
マクロファージにはコレステロールなどが付着して血管を塞ぐなど、心筋梗塞や動脈硬化
の最大の原因となります。
さらに、血液の成分として血小板があります。通常 15~30×104/cmm で、これが病的に減少
する病気があり、3×104 以下だとすぐどこからか出血する。1×104 以下では必ず出血します。
抗血小板薬という言葉をお聞きになったことがありますか。心筋梗塞といって心臓を養う
冠動脈が閉塞して、その先の心筋が壊死というか壊れて、それを広げるステントという細
い金属を入れると血管が閉塞しないよう抗血小板薬という血小板の作用を抑える薬を使用
することになります。また、65 歳以上の 15 人に 1 人ぐらいあるという心房細動といって心
房が不規則に振動して心室に不規則に繋がる絶対性不整脈では心房に血栓が溜り、それが
脳へ飛んで脳塞栓を起こす危険が高いです。長嶋茂雄氏のように半身不随など後遺症を残
すことが多く、抗凝固剤を服用してもらっています。
さて、現在問題の病気として、今日は何日ということも言えない認知症が 150~200 万人と
多く、高齢社会にとって大きな問題です。仕事一筋で定年後すぐ重度の認知症になる人が
多く、仕事とともに楽器、絵を描く、マージャン、ダンスでも何でも右脳を動かせる“遊
びが勝ち”と言っています。絵描きさんが右脳、左脳両方を働かせ、長命である人が多く、
脳を多様に働かせる重要性が示唆されています。日本人の死因の時代的推移を図示してあ
りますが、戦前は結核と疫痢といわれる急性胃腸炎による死亡が多く、日本人の平均寿命
が 50 歳を超えたのは昭和 21~22 年ごろ、1976 年には高血圧治療と減塩で脳出血が最多だ
ったのが減少、代わってがんによる死亡が増加しています。年間の総死亡 104 万人のうち
がん死は 33 万人と約 1/3 ですが、がんにかかった人、または治療中は 50 万人、分子標的
療法といってがんそのものを目がけて治療する手段が発達し、かなり高率に治療できるよ
うになりました。
白血病についても、小児、思春期、成人にピークがありますが、小児白血病は治癒し易く、
やはり新薬の登場で治し得る症例も多くなりました。少し古いですが、夏目雅子、本田美
奈子さんは死去、渡辺 謙さんは治って活躍中です。
高齢者の死亡の多くを占める肺炎もワクチン接種で予防可能となり、今や 95 歳ぐらいで元
気な女性が多いです。しかし、先に述べた認知症や骨折などによる寝たきりの介護の難し
さなど生活の質の低下が問題です。
以上はるかかなたのボストン、ニューヨークの留学時代の思い出、そして、最近の医学の
進歩の一端をお話致しました。
以下簡単に英語でその要約を記します。
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