Comments
Description
Transcript
冷戦イデオロギーと中国認識―グローバル・モラル・ミニマムの構想
立命館国際地域研究 第32号 2010年 10月 35 <論文> 冷戦イデオロギーと中国認識 孫 歌 Cold War Ideology and Perception of China SUNG, Ge Keywords:Cold War Ideology, Japan-China Relations, Democracy, East Asia, Perception of China キーワード:冷戦イデオロギー、日中関係、民主主義、東アジア、中国認識 21 世紀において、東アジアを語るとき、日中関係はその中の一つのポイントになるのは間違 いありません。ただ、語り方はさまざまであり、現実的に、思想的に、日・中それぞれの社会 の中でも、決して共同認識ができているとは限りません。私には全体的に論じる力がありませ んので、ただ中国認識という位相において、日中関係を考えてみたいと思います。 日本で中国を見るとき、日本の一般的世論はどういう目で見るか、ということは私の議論の 出発点になります。まず確認すべき二つの事実があると思います。 第一、日本と中国は、近代化のプロセスが異なりますし、国の規模、人口の量も異なります。 日本は明治時代から、西洋式の近代、すなわち植民地を作って、植民地の搾取によって自分の 近代化を完成するという「国策」を定めており、近代化を遂げるようにしましたが、中国侵略 や第二次世界大戦で敗戦になって、戦後アメリカの占領のために、完全に冷戦構造の西側に立っ て、最初の予想よりはるかに歪んだ形で近代化を実現しました。中国の場合は日中戦争と内戦 で社会が激しく破壊されてしまっており、1949 年に初めて主権国家が成立し、そして近代化を スタートしました。日本の植民地を作るといったやり方と違って、中国は自力で内部の資本原 始蓄積を進め、厳しい条件のもとで近代化の環境を整えました。中国の近代はいまでも未完成 のような段階にあたりまして、文字通りの「途上国」となっています。 このような差異がありますので、普通の日本人の目からみれば、中国はいまでも日本ほど近 36 孫:冷戦イデオロギーと中国認識 代的ではない。生活様式から、社会秩序から、貧富の差から、さまざまな面から考えても、中 国は日本より「遅れている」。これは、おそらくかなりの日本人が持っている優越感の基盤と なっているでしょう。この優越感が壊れたとはいえ、今でもさまざまな形で存続していると思 います。 それから第二の事実、これは第一の事実とも関係があると思いますが、普通の日本人の中国 観には、「冷戦イデオロギー」の影が濃いと思います。具体的にいえば、このような視点にな ります―中国はいま急速に経済発展を遂げて、社会的に豊かになっていながら、独裁社会と いう特質は変わっていない。そのために、言論自由がない、民主主義がない、というのです。 この冷戦イデオロギーの特徴は、二年前に発生した一連の出来事に対する反応からみられる と思います。具体的にいえば、日本のマスメディアは 2008 年中国オリンピックをめぐっての 一連のトラブルを報道するとき、暗黙の前提となった価値判断は、冷戦イデオロギーそのもの でした、ということです。 まず最初に、2008 年 3 月に、チベット騒乱という事件が発生しました。日本のメディアの見 方に従えば、基本的なポイントが次の通りです。一、この騒乱は、チベットの僧侶を中心にし て起こされたという点です。それが発生した理由は、チベットに自由を与えてほしいというも のでした。ただし、その自由の中身について、メディアはほとんど論じられなくて、結局、宗 教の自由がない、というきわめて抽象的な結論が付けられました。二、近年の漢族によるチベッ ト地域の支配、あるいは進出に対して、チベット族が反発した、というのです。これは、事件 のときに、漢族の店が襲われてチベット族の店は無事だったということで立証されました。三、 中国政府の対応。『毎日新聞』の報道によりますと、少なくとも二つの伝え方があります。一 つは、中国の軍隊はそれほど弾圧せず、むしろ防衛的な治安維持という形で、この事件をなる べく小さくしようとした、というものです。一方、これはアメリカのメディアの説ですが、大 規模な武力による弾圧と虐殺として報じられました。そして、ほどなくすると、大量のチベッ ト族が逮捕され監禁された、というものでした。これについても最後まではっきりしませんで した。中国政府が外部からの記者のたち入りを禁じたから、という理由が強調されました。こ の「弾圧」のポイントを補強するために、 「天安門事件」のイメージが動員され、 「ああ、それか」 という雰囲気で、チベット騒乱の真相が曖昧なまま決着が付けられました。 それからほとんど間を置かず、第二の事件が発生しました。それが聖火リレーという事件で す。あの時期はどのメディアも聖火リレー一色に塗りつぶされるばかりでしたが、その報道も まことに混乱して、その表象がなにを意味するか、ということまでには追究の手が及ばず、結 局、奇妙な印象が残されたままでした。リレーを妨害しようとする暴力的な行為が各地で祭典 の進行を乱したけれど、暴力を振るわない「中国」のほうが怖い、というイメージがメディア によって定着させられました。ここには、ある飛躍があります。チベット騒乱で補強された、 中国政府が天安門事件以後も変わることなく独裁を続けてきたという基本的なイメージが、そ 立命館国際地域研究 第32号 2010年 10月 37 のまま聖火リレーの妨害場面に持ち込まれました。しかし、聖火リレーに関しては、このイメー ジの活用はいささか苦しいのです。聖火リレーは、中国が主催しているとはいっても、国際的 なイベントなので、そしてこのイベントをフォローする義務は各国政府に付されているため、 妨害行為に対しては、各国の警察が地元で動員されました。中国政府にとって、暴力を振るう 必要はありませんし、リレーを応援する中国人にも、その必要がなかった。局部的に発生した 衝突は、ほとんど地元の警察と妨害者の間において、でした。結局、このような複雑な局面を 単純化し、すべてのことを「中国が怖い」というイメージに帰するのには、技術的に無理があ りました。ですから、われわれには、たとえばテレビで見た画面と、耳に入ってきた解説の間 には大きなギャップがありました。日本のいろいろなメディアの間に程度の差はあれ、チベッ ト騒乱の場面と聖火リレー妨害の場面が、まったく媒介なしに重ねられてしまった点では、ほ とんど同じですね。 チベット問題が発生する前に、フランスのある人権団体がこれを政治的に利用しようと計画 を立てました。その後チベット問題が発生して、それと合流したという経緯もあります。とに かく、聖火リレーの妨害に合流するためには、どうしても単純化しないと行動が乱れますから、 結局チベット問題=人権問題としてのイメージが一人歩きして、聖火リレーに対する妨害も、 「人権」という理由で正当化されました。 そしてリレーがまだ終わっていない段階で、三番目の事件が起きます。これは自然災害とし ての四川省の大地震です。大地震が起きたとき、世界中のメディアはまだ聖火リレーの妨害活 動から自由になっていませんでした。日本で言えば、四月の下旬に行われた長野での聖火リレー に対する日本市民の不満、中国人のナショナリズム、それから中国政府が操ってしまったリレー の応援、そういう報道が繰り返されました。その間に地震が起きたのでした。 地震は前二者とは、全く異質な事件となります。それは自然災害、恐らく人類史上最も大き な規模の一つでした。日本ではかつて関西で大地震がありましたから、日本の市民たちは痛ま しい記憶をまだ抱いています。ですから、四川省の大地震が起きると日本の一部のメディアは 温かいメッセージを送りました。欧米のメディアと比べれば、この点では非常に人情味に溢れ たものでした。 しかし、この人情味溢れるメッセージが送られるまでには多少の時間がかかりました。つま り、聖火リレーの宣伝から脱出するために、日本のメディアは少なくとも三、四日くらいの時 間を要しました。地震が発生したのは五月一二日でした。その翌日からメディアはこれについ て報道し始めましたが、惨状を報道する以外にはコメントを付け加えませんでした。そしてそ の翌日から、聖火リレーを続けるかどうか、中国政府が言論の自由を抑えるかどうか、そうい うところに注目した報道とコメントが出始めました。そしてそれが二、三日続くうち、そのよ うな批判は弱まっていきます。中国政府の対応の素早さ、そして民間の相互扶助も報道されま した。なぜこのような変化があるかといえば、日本社会は地震という自然災害の酷さを深く理 38 孫:冷戦イデオロギーと中国認識 解している社会だからでしょう。こういう体験を持たない社会には同じような反応はできない だろうと思います。 私たちはこの三つの事件を僅か二ヶ月の間に経験し、チベット問題から地震まで、事件の性 質はそれぞれに変わりながら、私たちにはある種の一貫した基本的なイメージを与えられたの ではないでしょうか。メディアの宣伝は、この三つの事件をある同質化の努力によって、中国 政府の一貫した独裁、あるいは政治統治システムとして全体主義というイメージに転化させま した。さらにもう一つのイメージは、中国人のナショナリズムです。これはチベット問題に対 しても聖火リレーに対しても地震に対しても、そのナショナリズムの基盤は同じだというもの です。それから、もう一つは人権問題です。最初の二つの事件について、人権という概念が抽 象性によってキーワードになりました。地震の場合には人権問題は前面には出されませんでし たが、恐らく潜在的に被災者の人権問題として提出されるだろうと考えられます。 2008 年から、二年経ちました。東アジアの状況は変わってきまして、いま「東アジア共同体」 という政治的な目標も提出されました。それにも関らず、日中関係をどう考えるか、という問 題を思想的に検討するために、必要不可欠な認識論が依然として蓄積されていません。そのた めか、冷戦イデオロギーはやはり生きています。 2008 年ごろ、普通の中国人はいわば先進国の冷戦イデオロギー的宣伝に対して、強い反感を 示しました。しかし、その反感は歴史認識を踏まえたものではなく、基本的にそれは、冷戦イ デオロギーの刺激によって物理的な反発として作用されていました。その故に、中国人も冷戦 イデオロギーから自由になっていません。事件が終わって、社会生活が日常に戻ってから、一 部の中国人はむしろ西側の冷戦イデオロギーと似たような発想で物事を考えるという傾向を示 しました。というのは、つぎの理由があるからです。中国はいま激動的な転換期にあたりまし て、政治秩序、社会生活などがきわめて流動的になるのは否定できません。このような中国社 会を考えるとき、中で生きている中国人でさえもときどき迷っていて、物事をうまく判断でき ないようになってしまいます。特にいわゆる「市場経済化」が広げられる中、西側の冷戦イデ オロギーは、その抽象性のゆえに、中国市民の不満や不平を表現するには、恰好な媒介になり、 そのような意味において、一部の中国人もかなり冷戦イデオロギーを消費しているとは言える でしょう。 たとえば、台湾出身の評論家竜応台という方がいます。彼女は基本的に、大陸には民主主義 がない、言論自由がない、人権が踏みにじられるという持論で中国批判をやってきました。興 味深いことに、彼女には大陸の愛読者があります。その現象から短絡的に、「中国は全体主義 の国家だから」という結論を出すことは性急すぎるでしょう。つまり、その結論はうまく事実 に当てはまらないからです。問題はむしろ次の点にあります。それにしても、なぜ竜氏は大陸 である程度「売れている」のでしょうか。 まず、竜氏の判断はなぜ事実に当てはまらないかということを簡単に説明します。いま中国 立命館国際地域研究 第32号 2010年 10月 39 の様々な局面には、言論自由、人権などを基準にして考えれば、確かに問題があると思います。 しかし、政治と社会の全体構造からみれば、そのような問題は中国社会の基本的な問題になっ ていない、というのは明らかです。なぜなら、民主主義、人権などの概念が非常に抽象的なも のであり、それが具体化されたときに、結局、選挙という制度が実質的にあるかないか、反体 制勢力の発言権利があるかないかなどのみに絞られて、それはいまの中国にとって最重要な問 題ではないのはいうまでもない。というのは、このような観念によって中国の難局を突破する ことは到底考えられないからです。 第二次世界大戦後、冷戦構造ができてから、中国は常にこの冷戦構造の中で第三地帯として 努力してきました。特に 1950 年代後半から、中国はソ連のコントロールの元から離れるよう に努めて、自力で近代化の基盤を作り上げました。その基盤の完成は、文革中でした。中国の 独立した「近代」というプロセスに対して、西側は強烈な敵意を示して、それを破壊し続ける ことは、中国の 1949 年以後の歴史をみればよくわかります。特に改革開放以後、中国社会は 閉鎖状態から脱出して、グローバルなシステムにかかわっていたため、外部の資本だけではな く、外部の思想やイデオロギーも入ってきました。そこで一つの問題が発生しました。いわゆ る「反体制」の勢力は、ほとんどその背後に西側(とりわけアメリカ)の介入が見られる、と いうことです。かくしてもともと中国内部の問題としてはずの「言論自由」や「人権問題」な どは、ほとんど国際政治の表象になってしまいます。近年における中国政治の中でおこった「分 離主義」の動きが、外部勢力の介入や支持を無視しては論じられないことでありまして、ただ の「言論自由」や「人権」という抽象された位相にとどまるものではないのですが、それにも かかわらず、この構造は世界のメディアによって真正面から論じられることはほとんどなかっ た。というのは、このような「内外勢力」が交えた形態は、今日の冷戦イデオロギーのもっと も隠蔽しようとしたところでしょう。 もしこのような歴史の流れから考えれば、竜応台の冷戦的な批判が的はずれということは一 目瞭然のはずですが、問題はつぎの点にある。なぜ中国人の中で彼女の発言に反響がかなり あったのでしょうか、と。 その理由は少なくとも二つあると思います。一つは、中国社会において、いま「民主主義」 という民衆からの要求は制度化に向かって確実に発展しています。そのために、個人の権利、 司法の公正などは、普通の中国人にとって身近な問題として理解されるようになってきました。 市場化という過程の中、たくさんの問題が生じまして、社会分化の現象も激しくなり、不平や 不満がたまっているだけではなく、民衆は自主的にそれを解決しようとする動きも顕著になっ てきました。中国政府は、さまざまな調整によって、いま民衆の政治的社会的な要求に応じる ようになってきましたが、制度上でそれを「形式化」する作業がいまだにまだ試行錯誤の段階 にあたります。そのうえ、官僚主義、部門利益など実際の問題は、民衆の政治参加を妨害して いる。構成原理からみれば、中国社会における「人権」や「自由」などの要素は、アメリカの 40 孫:冷戦イデオロギーと中国認識 それと同じ役割に果たすことにはなり得ないし、アメリカを基準にして中国を判断すること自 体はナンセンスであります。そこで、中国の状況にふさわしい分析が要求されており、その分 析が成り立つために、どうしても原理的な探究が先立たなければならないわけですが、その作 業がなかなか進んでいないのは実情です。そこで一種の方便として、西側の発想に従った「民 主主義」観念は、中国人の社会感覚をすり替えて、代案になりやすくなります。そのような代 案によって、中国人は自分の不満を表現することができるが、社会改革を有効に行うことがで きない、というのは特徴です。 もう一つの理由は、冷戦構造の崩壊とも関係していますが、すなわち中国では現在、毛沢東 時代のイデオロギーはほとんど有効に機能していないということです。このイデオロギーの中 身は、基本的に「階級論」を中心とします。いまは階級分析で中国の状況を説明すること、特 に階級分析で中国の求心力を作ることはできなくなりました。それと関連して、今日中国の統 制原理を、イデオロギーにまとめて的確的に表現するということは、極めて難しい作業になり ます。中国の知識人は、それを模索してきましたが、いまだに完成していません。その模索が 基づいている思想資源は、毛沢東時代の思想遺産と西側の自由主義理論、および西側の左翼批 判理論など、さまざまなものですが、言うまでもなく、これらの理論資源の間に、互いに対立 しあう関係があり、そのままでは結合できるわけではない。そこで中国の知識人の間に分裂や 対立などが生じるということはほとんど避けられませんが、問題は、そのような分裂は決して 現実そのものを如実に反映しているとは言えません。そして、そのような対立のために、西側 の冷戦イデオロギーは、その抽象性と精神性によって、利用されやすい道具になりますし、そ の理念上の「彼岸性」によって、現実に不満を抱いた民衆にとっては、感情的に受け入れやす いものとなりました。しかし、中国社会の激しい変動は、社会主義対資本主義、あるいは独裁 対民主という対立の構図では解説しがたいもので、その変動原理を新たな枠組みで説明しなけ ればならない。日中関係という認識論は、この原理的な枠組みを無視して成立するといったこ とは、到底できないでしょう。 その枠組みを求めて、 私は 1950 年代日本の言論界の思想生産を注目しています。少なくとも、 つぎの点について、その時代の日本人は認識論の位相において示唆を残したと思います。 まず、中国革命を「もう一つの近代」として考えることです。たとえば、1954 年、創元社の 『現代史講座』別巻の座談会第二部「世界と日本」の中で、鈴木成高はつぎのことを指摘しま した。 アジアの革命を代表している中国革命は、二つの面がある。一つはボルシェヴィズム世界革 命の一環という面、もう一つは自生的な、当然起こるべき革命という面である。「ところがア メリカはその点まったく認識不足であった。アメリカはただ中共革命がコンミュニズム革命で あるという一面においてのみしかあの革命の意味をみることができなかった。だから世界赤化 を防止する、と言う甚だお粗末な公式一本で中共革命に対処しようとした。そこにアメリカの 立命館国際地域研究 第32号 2010年 10月 41 大きな錯誤があった」 、と。 丸山真男は鈴木の発言のすぐ後、つぎのようにこの問題を展開した。「アメリカでもマッカー シーイズムの雰囲気が濃くなる前までは、極東関係の一流の専門学者はほとんど一致して中共 の革命というのは西欧的な共産主義革命のカテゴリーでは捉えられない、ちょうど西欧でいえ ば、近代化に当たるようなものを結果としてもたらすような種類の革命だということを言って いましたね」 、と。 近代を中国革命の結果として考えるという当時の日本知識人の発想は、言うまでもなく、ラ スキの『現代革命の考察』から受けた影響も大きかったと思います。そのような立場にたって 見れば、いわゆる社会主義社会というのは、途上国の近代の一つのモデルとして考えることが 可能になります。 さらに、もうひとつの点も大切だと思います。当時、冷戦イデオロギーを突破するために、 「中立」という視座の重要性が強調されています。たとえば、1959 年チベット事件が発生した 当時、「世界」1959 年 7 月号はネルー首相のインド上院での演説や人民日報のこれに対する社 説を同時に載せまして、また蝋山芳郎と加藤周一の対談(吉野源三郎司会)「チベット問題と 中印関係」を発表し、ネルー首相の「中立」の姿勢を高く評価しながら、その姿勢を保つため の重要性や困難さをも分析して、さらに、中国とインドの友好関係が平和五原則の実現にどう かかわるかということをも鋭く指摘しました。この議論の中で、冷戦イデオロギーでチベット 問題を考える人は、インド人にしても、中国人にしても誰にしても、愚かな人だということを 何度も強調されました。その分析から、当時の日本人は平和を維持することの重要性、冷戦イ デオロギーの危険性など、非常に深い認識をもつということはよくのぞかれます。今日におい て、このような立場をどう生かすか、ということは、われわれの思想課題になるでしょう。 第三点として、 「アジアにおける中国と日本」という発想です。1950 年代の日本思想界は、 「アジア」を一つの世界の転機として見ていました。その中で、特に日本と中国の関係を考え るとき、中国革命をアジア的な社会変動として見るべきだという意識はきわめて強い。たとえ ば、 「世界」1957 年 2 月号に発表した座談会「中国革命の思想と日本」、同 5 月号の座談会「革 命の論理と平和の論理」などは、いずれも中国革命にはらまれた原理性を追究して、中国革命 における思想経験と日本の主体形成といった問題をアジアというコンテクストの中に位置づけ ました。 以上のような視点を、今日においてそのままいかすということは、当然できないと思われま すが、しかし、冷戦イデオロギーを絶対化しない、それ自体を歴史化するといった作業を行う 際には、これらの日本思想史の資源がきわめて大切な示唆を提供してくれたと思います。中国 とはなにか、日中関係とは何かを論じる前に、まずわれわれの認識論を整理するということは、 おそらく必要不可欠な作業でしょう。