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イエスの愛しておられた弟子 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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イエスの愛しておられた弟子 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
「イエスの愛しておられた弟子」
ヨハネによる福音 74
「イエスの愛しておられた弟子」
21:18-25
今の朗読をご一緒に聞いて、最後の 2 行の表現が面白いですね。現代式に
言い直すなら、
「地球の表面を全部、原稿用紙にしても書き切れないくらい、
イエス様のなさったことはもっとたくさんある。」―これはヘブライ式の
オーバーなユーモアと言って良いのでしょうが、すぐ前の重々しい宣言に続
くと、いっそう愉快に聞こえます。聖書を書いた人たちも私たちに通じるよ
うなウィットやユーモアの持ち主だったのです。
こういう後書きはヨハネ福音書以外にも例があります。次のはラビ・ヨハ
ナン・ベン・ザッカイの言葉で、年代も、それに名前までヨハネと同じなの
ですが、こう書いています。「たとえ空全体が羊皮紙になったとしても、森
の木々がすべてペンになり、海の水がインキになったとしても、わが師父ら
より学んだわが知恵はそこに書き切れないのである。」
こういうユダヤ的伝統を、著者も受け継いでいました。「ヨハネ」と言い
ましたが、文章自体からはヨハネかどうか、明らかではありません。でもこ
の証言と文章は、24 節によると、「この弟子」から出ていると言います。「こ
の弟子」というのは誰かというと、15 行程さかのぼった所、20 節に、「イエ
スの愛しておられた弟子」という、匿名の不思議な人物がいます。この人は、
このガリラヤ湖の夜明けの場面に初めから、七人の中に交じって出ているだ
けでなく、すでに三つの場面でシモン・ペトロと一緒に、ペトロの一番親し
い仲間として登場します。古代の教会がこの福音書に「ヨハネによる」
という標題を付けたのは、それがヨハネその人だという、当
時のコンセンサスによるものでした。
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「イエスの愛しておられた弟子」
私自身はやはり、この福音書全体に証言者ヨハネの息がかかっていると思
っています。もしヨハネ直筆の書き下ろしでなかったとしても、ペトロの福
音をマルコが書き留めたように、パウロの福音をルカがあの形にしたのと同
じような意味で、ヨハネその人の福音が、イエス様の息がかかる至近距離に
いた直弟子の証言として、この本の隅々まで行き渡っているというか、内容
になっているのだと理解しています。ただ、その人は自分を、決してヨハネ
だとは言わないのですね。彼は自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」
とだけ名乗ります。
福音書の最後のページ、ラストシーンは湖畔で御一緒した七人の弟子たち
の中から、二人だけをイエスの前に立たせて、ライトを絞って消して行くよ
うに、終わります。一人は終始無言のままです。話している方の人物、シモ
ン・ペトロと主の会話の最後のところ―18 節の 1 行前、新共同訳では上段
の末行からです。
1.ペトロの最後について、主の預言。
18-19.
イエスは言われた。
「わたしの羊を飼いなさい。 18.はっきり言っておく。
あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。
しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくな
いところへ連れて行かれる。」 19.ペトロがどのような死に方で、神の栄光
を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。この
ように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
三度まで「私を愛しているか?」とお尋ねになって、その度に「私の羊の
世話をお前に委ねる」と言われた。これがシモン・ペトロへの全面的信任の
確認であったことは、前回に学びましたが、ここのお言葉はそれに続いて、
ペトロがその信任された使命を果たすに当たって、どんな結末を覚悟してお
くべきかを、明らかにします。
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「イエスの愛しておられた弟子」
若い時には自分の服装は自分で整えたし、自由に歩き回れた人が、年を取
って、帯を締めるのもままならず、両手を伸ばして人に帯を締められ、自分
の意志でない場所へ人に連れて行かれる。不思議な絵のような言葉、殉教の
死の悲愴感などみじんも感じさせない表現を使って、イエスはペトロに「お
前はその羊飼いの使命を果たして、私と同じ所へ来ることになる」と言われ
ます。ヨハネ伝の読者にはすでに伏線がある訳で、「主よ、なぜ今ついて行
けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と申し上げた 13 章の終り
の文章とつながります。
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でつい
て来ることになる」というお言葉を記憶する読者には、こう話してからペト
ロに「わたしに従いなさい」と言われた……という所も結びの言葉以上の響
きを持ちます。ヨハネ福音書の構成はまことに緻密です。
こうして「主よ、私があなたを愛しておりますことは、あなたがご存じで
す」と言った人は、イエスに命を捧げて、神の栄光を現すことを暗示してか
ら、カメラはもう一人の人物を捕らえます。
2.もう一人の弟子の最期について、イエスの注意。
20-22.
20.ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見
えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、
「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。 21.ペトロは彼を見て、
「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。 22.イエスは言われた。
「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、
あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
シモンがどんな意味で、もう一人の弟子の運命を知りたがったのか、理由
は分かりません。この人も自分と運命を共にしてくれるのか……独りでは不
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「イエスの愛しておられた弟子」
安だったのか……と、ここでシモン・ペトロの動機を詮索して責めるのは当
を欠くでしょう。ペトロの質問はたった三語で;英語なら“But
this man what?”「この人はしかし、どうなります?」私たちが想像する
よりも高貴な、純粋な質問だったのかも知れません。
しかし、信仰の事柄は、未来を「知って」安心するのではなくて、すべて
未定のまま、信頼する方にお委ねする所にあります。自分の運命について、
そうであるだけではなく、友の運命、同志の最期についても、「知ろうと」
しないで、一人の方を「信頼できる」から委ねる所に、信仰の道があります。
「シモンよ、それは私が彼に与える彼の道だ。お前が知るべきことではない」
と、イエスはペトロをたしなめます。
宗教の信者というものは、得てして、お互いの顔を見合って、同じ船に乗
っている安易な連帯感と、私だけが損を見る恐れはなかろうという「馴れ合
い」に似た安心感で結ばれていることがあります。一つの宗教の信者がみん
な同じ顔をしていると、よく言われる所以です。しかし、キリストを信じる
信仰、福音の信仰だけが、外の人の顔を見ないでも独りで立てる「個人」を
作ります。ペテロが誰よりも先に主に命を献げ、ヨハネが高齢に至るまで弟
子たちの指導を続けて生き残る。これは各人に与えられる恵みなのです。健
康も、病気も、苦労も、慰めも、孤独も、みなそうです。ただ、一番貴重な
もの(罪の赦し・神の義・永遠の命)をキリストから受けた人は、「主よ、
この人は」という問いを忘れます。
さて、ペトロへの主の御注意の言葉は、不幸にして曲げて伝えられたため、
弟子たちの間に無用の誤解を招いたのでした。次の 23 節から後はそれを正す
ための付けたりですが、「うわさ」の事情を窺わせます。
3.不正確な言い伝えに対する著者の訂正。 23-24.
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「イエスの愛しておられた弟子」
23.それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。
しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの
来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何
の関係があるか」と言われたのである。24.これらのことについて証しをし、
それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実である
ことを知っている。
最後の 1 行は、恐らく、使徒たちを知っていた最初の教会の人たちの裏書
と言いましょうか、この福音書の中で語っている人を私たちは個人的に知っ
ているという、初代教会の証言が、こういう形で残ったものだと思います。
私たちはこの人の教えを直接受けた。この福音書の資料も彼から出ている。
彼の証言が真実であることは私たちの経験から言える。
ヨハネ福音書の最後のこの 21 章の前と後ろから、結びの言葉がなぜか二回
繰り返されているような印象を、私たちは受けるのですが、その事情が少し
ずつ分かって来るような気がします。著者は多分、20 章の結びの言葉を書い
て、一度ペンを措いたのでしょう。「これらのことが書かれたのは、あなた
がたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイ
エスの名により命を受けるためである。」
その後の 2 頁を著者がなぜ書いたか? 多分その理由は、イエスのお言葉に
関する不正確な情報だったのでしょう。ギリシャ語でまとめられた福音の、
事実上全部の内容に責任のあったこの弟子は、自分の地上の使命も終りに近
付くのを覚えながら、一つのことを心配しました。自分の死が間近になった
ら、一部の者たちは主の再臨について誤ったフィーバーを起こしかねない。
また自分が死んだ後に、思い違いをしている兄弟たちは主の言葉への信仰を
失うことになるかも知れない。彼は自分の息のある内に、この誤解を正して
おく必要を覚えて、再びペンを執りました。
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「イエスの愛しておられた弟子」
ガリラヤ湖の美しい朝の物語が、こうしてヨハネ伝の末尾を飾ることにな
りました。それに二人の厚い友情はどうでしょう。著者の忘れ得ぬ友シモン
の最後の言葉は、主のお叱りを受けはしたものの、自分を思ってくれる真実
の言葉でした。「主よ、この人は、どうなります……?」そして著者が友の
ために残した最後の証言は、三度主を否定した友の信頼性と権威を疑問視す
るかも知れない人たちへの、力をこめた友情の証言だったのです。私はその
温かい心がこの結語に溢れているのを感じます。
「シモンを軽んじるな! 主はおっしゃったのだ。『ヨハネの子シモン、私
を愛するか?―そうか。宜しい! では、私の羊をお前に委ねる』と。あの
お言葉は私の耳の中でまだ鳴っている。」
《 結 論 》
「主の愛しておられた弟子」というのが、この覆面作者の自称です。これ
に比べると、ひとつ前の場の主人公の名は「主を愛していた弟子」と言って
もいいでしょう。私は前回、あそこのペトロの精一杯の本気の返事が好きだ
と申しました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛
していることを、あなたはよく知っておられます。」
それに対して、この「もう一人の弟子」のほうは、「主が愛しておられた
弟子」という呼び名で、いつも自分を登場させるのです。最後の晩餐のシー
ンでもそうでした。「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛
しておられた者が食事の席に着いていた。」ペトロの合図でイエスにそっと
尋ねる場面です。「主よ、それはだれのことですか……?」
十字架の下にいた四人の婦人たちが追い払われるまで、一緒に主の最期を
見守ったのも「主が愛しておられた弟子」だった。そう著者は言います。イ
エスは最後にマリアのことを彼に託した位だったとも……た。「見よ。あな
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「イエスの愛しておられた弟子」
たの母だ。」―感動的な場面です。
主が復活された朝、マグダラのマリアの急報に墓場へ急ぎ、途中ペトロを
追い越して先に墓に着いたのも、「イエスが愛しておられた弟子」でした。
彼は空になった洞穴を見て「信じた」のだと、著者は書きます。そして、ガ
リラヤ湖の朝靄です。「主だ!」と真っ先にペトロに教えたのは、「イエス
の愛しておられた弟子」であった……と。
若いころヨハネの福音を読んだ私は、「いい気なものだ」と思ったもので
す。イエス様がほかの人を愛される以上に、この人を愛しなさった筈はない。
それなのに、そんな大それた名をよく独占、自称したものだ。ところが、あ
るとき、ふと「この人はそんな風に人と比較していたのではなかった!」と
気付きました。この人はイエスが自分を愛して下さったということだけ、大
声で言いたかったのです。イエスはこんな私を確かに愛して下さった。私を
清くするために十字架で命を与えて下さった。私のために復活して、私を天
の命につないで下さった。彼はそのことを言いたいために、自分のことを「私
は」とも「ヨハネは」とも言わずに、「イエスの愛しておられたその弟子は」
と言ったのに違いない!
商標や特許とは関わりないですけれど、やはり一度、最初にこの弟子が使
ったあとは、だれが真似をしても「二番煎じ」になりましょうか。私も自分
の作品や日記に「私は」と書くかわりに「イエスの愛しておられたその弟子
は」と書くのは、やはり気恥ずかしさを隠せません。でも、私たちは、少な
くともその気持ちと実感を込めて「私は」と言うことができます。「織田昭」
と署名しながら、そこに「イエスの愛しておられた弟子」という字を、二重
写しにして感謝できるのです。ヨハネはそのことを私に教えてくれました。
同じ名の弟子がここにもいるのです。
ヨハネによる福音書。3 年と 1 箇月かけて読み終わりました。そしてその
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「イエスの愛しておられた弟子」
最後の章の末尾からは、二人の人物が私たちに手を振っています。ヨハネの
子シモンと、そして多分、ゼベダイの子ヨハネ。二人の友情も心を打ちます
が、それ以上に、美しい呼び名と、素晴らしい告白を、私たちに残してくれ
ました。一つは、「主が愛しておられた弟子。」そしてもう一つは、彼の友
シモンがイエスに申し上げた言葉。「主よ、あなたはすべてをご存じです。
私があなたを愛しておりますことも!」
(1988/04/03)
《研究者のための注》
1.第四福音書の資料と著者については、第 1 講「真実の証しの書」でも扱いました。
2.21 章の七人の登場人物中、「ゼベダイの子たち」の一人を「イエスの愛しておられた
弟子」と見た訳ですが、「ほかの二人の弟子」も名を挙げられていません。
3.自分を「イエスの愛しておられた弟子」の位置においてみる見方は、特に変わったも
のではありませんが、私のスピーチの中では、1971 年、東京中野教会での講演「私の
福音」以来、変わらぬ感動として持ち続けています。友人河口秀氏の「恵みの福音社」
から刊行された 24 頁の小冊子「私の福音」を参照して下さい。
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