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愛は山を動かすか

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愛は山を動かすか
月報 2015年2月号
説教
愛は山を動かすか
マルコ二章一~一二節
スイスの法学者であり哲学者でもあったカール・ヒルティーの言葉に、
「決心ができていれば、
あなたの心にのしかかっている、たいていの問題は、その時、太陽の前の霧のように立ち消えて
しまうものです。
」というのがあります。
(ヒルティー著「眠られぬ夜のために
第一部・三月一
三日」より)
本日の聖書は、この決心が出来た四人の行いが記されています。ガリラヤ湖畔の町カファルナ
ウムを拠点に伝道を開始したイエスの力ある業と権威の噂は、瞬く間にイスラエル全土に広がっ
ていきました。その噂を聞きつけた人々は、イエスのおられるカファルナウムに続々と集まって
きて、その様は、「戸口の辺りまですきまもない」ほどの状態でした。時同じくして、四人の男
が中風の人を連れて来たのですが、大勢の人に遮られて、イエスのそばに行くことができません
でした。かといって中風の人をそのままにしておくこともできず、思案に暮れていたそんなとき、
屋根だけが空いていました。そこで男たちは、
「屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床を
つり降ろした」のでした。
その光景をつぶさに見ていたイエスは、
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。し
かし、このイエスの言葉を快く思わない律法学者たちがいました。
「この人は、なぜこういうこ
とを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことが
できるだろうか」と心の中で考えたのです。それを見抜いたイエスは、「なぜそんな考えを心に
抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、
『起きて、床を担いで歩け』とい
うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。
」と、
律法学者に注意を促し、敢えて中風の人に、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言わ
れました。すると中風の人は、回りにいた人々の目の前で、床を担いで出て行ったのでした。ご
一緒に、この中風の癒しを考えてみましょう。
ある年老いた男性が、息子夫婦と四歳の孫と同居していました。その老人の手は震え、視力は
弱く、歩くのもおぼつかないものでした。家族は毎晩、一緒に夕食をしていました。しかし、そ
の老人は不自由な手と衰えた視力のために、豆はスプーンから床に転げ落ち、グラスを持ち上げ
ると、牛乳がテーブルクロスに溢れることが一度や二度ではありませんでした。息子夫婦は、父
親に腹を立て、息子夫婦が家族と夕食を楽しむ間、父親は部屋の隅に置かれた小さなテーブルで、
一人寂しく食べました。
老人がお皿を一、二枚割って以来、彼の食事は木の器で出されました。時々、家族が老人に目
をやると、彼は目に涙を浮かべながら一人で食事をしていました。それでも口から出てくるのは、
老人がフォークや食べ物を落とした時のきつい言葉ばかりでした。彼らの四歳の息子はすべてを
黙ってじっと見ていました。
ある夜の夕食前、父は息子が床に座って木片で遊んでいるのに気づきました。父は優しい声で、
「そこで何をやっているんだい?」と尋ねと、息子は優しく、
「あのね、僕が大きくなったとき
に、パパとママがご飯を食べる器を作っているんだ」と答えました。その四歳の息子の言葉に両
親は衝撃を受け、声も出ませんでした。そして、いつしか涙が彼らの頬を伝わって流れ始めまし
た。自分たちが今まで、どれだけひどいことを父にして来たかを悟り、二人は息子を、そして父
を強く抱きしめました。その夜、夫はその老人の手を取り、家族の食卓に優しく招き戻しました。
老人はその日から亡くなるまで、毎食を家族と一緒に同じテーブルで食べました。そして夫も
妻も、老人のフォークが落ちようと、テーブルクロスが汚れようと、まったく気にしなくなりま
した。(
「The Wooden Bowl」より)
さて、中風の癒しについてですが、イエスは中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と
言われましたが、あなたの中風が癒されるとは言われていません。この言葉はどこか奇異に感じ
るかも知れませんが、ユダヤ人の考えでは、災いや苦しみは罪の一つの現れであり、神から離れ
ることが罪であり、罪の結果が苦しみと災いでした。ですから、中風の人が癒されたということ
は、イエスの力ある業には、罪を赦す権威が示されているのです。しかし、律法学者やファリサ
イ派は、それを認めようとしないのです。つまり、律法学者の「神おひとりのほかに、いったい
だれが、罪を赦すことができるだろうか」という言葉が示すように、罪を赦すことのできるのは、
神のみであるというのがユダヤ教の信仰でした。すると、彼らにとってイエスが罪を赦すという
ことは、ユダヤ教信仰の根幹を揺るがし、ユダヤ人として先祖から引き継がれた信仰、ひいては
民族の結束ということにおいて極めて重大なことでした。また、イエスのすぐそばに律法学者が
いたのは、たまたまいたというより、噂のイエスの行いや言葉の一つひとつを監視するためにい
たと言っても過言ではありません。その彼らの前でイエスは、
「子よ、あなたの罪は赦される」
と言われたのです。それは、イエスを神の子と信じない彼らには神の冒涜としか映らなかったの
です。
ところで、この中風の男は体が不自由なため、自力でイエスのところへ行くことは出来ません
でした。それを見かねた人たち四人が、その中風の人をイエスのところへ連れて来たのですが、
あまりにも大勢の人のために、中風の人をイエスのもとに連れていくことが出来ませんでした。
ここで、私たちはどうするでしょう。大きな壁にぶつかり、それ以上身動き出来ず、進むことが
出来なくなったとしたら。ある人は立ち止まり、思い通りにならないことに対して、何のための
人生かと悔いることになるのかも知れません。しかし、この四人はそれで立ち止まることはしま
せんでした。それどころか、人には考えられない天井を破るという行為に至ったのです。この四
人の男たちの、さまざまな障害をものともせず、懸命に他者のためにとる行為、それも病を癒す
のはイエスをおいて他になしと信じて止まない姿、彼らの、天井に穴を開けるという極めて非常
識なその行為を、イエスは信仰と呼び赦されたのです。しかし律法学者は、
「この人は、なぜこ
ういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦
すことができるか」と、どこまでもイエスを信じることが出来なかったのでした。
本来、罪人とは、神から遠く離れている人のことです。そうすると、ここでは神から遠く離れ
ていた人々がイエスの一番近い者として癒され、また律法を厳守することを生きる基としていた
律法学者が、変化を望まず、頑なまでに自分の信じていることが一番と思った人々で、実は神か
ら一番遠い存在として浮かび上がってきます。
ただ、本日の聖書箇所に記されていることは、罪を赦し、病を癒されるイエスの姿で、紛れも
なくイエスは、神の子であるということです。そしてその神の姿は、愛そのもので、赦し、癒し、
恵まれるのです。罪の赦しは、まさに神の愛ゆえになし得るものと言えるでしょう。ここで、私
たちは大切なことを見ないでしょうか。先ほどの身体の動きもままならず、一人ではどうしよう
もなく、片隅に追いやられるしかない父の置かれた状況がありました。しかし、四歳の息子の行
動をとおして、両親の老父に対する反省を促すことになりました。幼い子どもは、意地悪で将来
の両親のための木の器を造っていたのではありません。それどころか、子どもの両親の父親に対
する態度は、愛の現れとして、幼い子どもには映ったのでした。このとき、起こりえないこと、
信じ難いことが起こっています。人を愛するということです。同様のことは、四人の行動にもあ
りました。彼らと中風の人との関係は定かではありません。しかし、中風の人は、彼ら四人にと
っては掛け替えのない存在であったに違いありません。だからこそ、非常識と思える手段であっ
たとしても、すべてを尽くしてこの中風の人を癒してもらいたいとイエスに願ったのです。彼ら
の姿と行動の中に、イエスは彼らの信仰を見られたのです。そして、それは絶望を、苦難を、悲
嘆を超えて山をも動かす大きな力となったようです。同時に、これは私たちの日々の祈り、他者
への祈りにも通じるものでしょう。祈りは決して空しくなることはありません。私たちの姿は、
あるときには律法学者の立場であったり、中風の人のように自分の力では歩くこともできない者
であったり、あるときは、担いだ者の一人であるのかも知れません。しかし、そんな私たちに、
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。
」と手を差し伸べて、
「起き上が
り、床を担いで家に帰りなさい。」と罪を赦すイエスがおられるのです。
もう一度、私たちは誰もが、山をも動かす信仰を供えられていることを憶え、どのような試練
に遭遇しても諦めることはいらないのです。あのヒルティーの言葉の「決心ができていれば、あ
なたの心にのしかかっている、たいていの問題は、その時、太陽の前の霧のように立ち消えてし
まうものです。
」のように、不可能と思える状況に遭遇しても、そこで諦めることはいりません。
すべてを神様に委ね、感謝を持ってこの一週間を過ごして参りましょう。
(2015年2月8日)
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