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神の愛
神の愛 日本基督教団愛知守山教会牧師 鎌 田 在 弥 ヨハネによる福音書 1 章 1 ~ 5 節 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神 と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったも のは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は 暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 旧約聖書と新約聖書を貫いている考えがあるとするならば、それは神の愛と いうことだと思います。この神の愛とは、思想であると共に、現実でもありま す。今日の聖書の箇所には、言、命、光という単語が多く使用されています。 この 3 つの言葉、言、命、光は、主イエスという一人の人間として、この世界 に出現されたメシヤつまり救い主であるキリストを表しているのです。 3 節に「万物は言によって成った」とあります。これは、旧約聖書の創世記 の冒頭にあります天地創造のことですが、そこには、「初めに、神は天地を創 造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いて いた。神は言われた。『光あれ。』こうして。光があった。…神はお造りになっ たすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」聖書によれ ば、天地創造は、神の言葉かけで始まったのですが、その動機は愛そのもので す。創造を引き起こす言葉は、 愛に裏うちされた意思であると言ってよいで しょう。愛からすべて良いものは生まれるのです。愛は何らかの行動を取らせ るのです。ちょうど、子供を産む前の母親と似ていると思います。産まれる日 のことを思って、期待と不安の中、色々な準備をします。産着のこと、沐浴の こと、名前はどうしようかなど。好き嫌いの激しかった人は、生まれようとす るわが子のことを思い、食べることの努力をするかもしれませんし、たとえば、 タバコを吸っていた女性は、 子供の健康を思って止めるかもしれません。子供 に対する愛が、おのずから、母親に成る人に、あるいは父親に成る者に行動を とらせるのではないでしょうか。愛は自分を変えて行く勇気を呼び起こします。 愛は人間の心を自由にします。人を愛する、こんなすばらしいことは、他に ないかもしれません。現代の社会は、 愛という言葉は氾濫していますが、 内容 が欠落していると指摘されています。家庭の中に、夫婦や親子の中に、愛の交 ― 24 ― わりがあるでしょうか。ひとすじの意志に裏打ちされた愛は、言、命、光その ものです。この3つの言葉、言、命、光に共通していることは、何より人を生 かすものだということです。人を生かす、これが難しいのですが大切です。 昨年の日本シリーズで楽天が優勝しましたが、他の球団から移って来た選手 が多いということです。ある選手が言っていましたが、自分には、プロの選手 として劣っているところがたくさんある。でも、楽天のコーチは、自分の欠点 ではなく良いところを認め、 励ましてくれた。互いに良いところを認め合うこ と、どんなグループでも大切なことではないでしょうか。どんな人にも欠点は あるものです。完全な人はいません。人は、認められて生かされ、成長してい くのです。創造から始まった、神の愛の行動は時いたって、主イエスという一 人の人として地上に実現した、受肉つまり言葉は肉体を取った、これが聖書の 主張なのです。神の愛の極まったところに、受肉という形があらわれたのです。 逆のことも言えるのではないでしょうか。地上を生きた主イエスのあゆみ、主 イエスの姿、人となり、人格と行動そのものを真剣に見れば、そこには人を生 かす、言、命、光というものがあり、そこから根源的な神の愛が見えてくるの です。 わたしたちは、歴史を生きた主イエスをとおして、 神の愛を知り、目に見え ない神御自身を認識できるのです。これは、学問で身につく認識ではないので す。主イエスは、人間であると共に、 神のひとり子であり、メシヤ、救い主キ リストであると信じるのです。 キリスト者詩人である八木重吉の『神を呼ぼう』という詩集の中に、「真理」 という名の詩があります。「真理によって基督を解くのではない。基督によっ て真理のなんであるかを知るのだ」。わたしたちイエス・キリストと出会うこと により、神の言、 命、光に生かされる者となるのです。 2014年 6 月 2 日 朝の礼拝 ― 25 ―