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罪人を招く主

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罪人を招く主
罪人を招く主
日本基督教団中京教会牧師 高 橋 潤
マタイによる福音書 9章9~13節
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを
見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従っ
た。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大
勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを
見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をす
るのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、
丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえ
ではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい
人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
人生を変える決定的な言葉があります。徴税人マタイの人生は、主イエスが
語った言葉によって収税所をやめて主イエスに従い、主の弟子になりました。
マタイの心に届いた決定的な言葉とは、「わたしに従いなさい」という短い言
葉でした。マタイはこの言葉を聞いて立ち上がったのです。主イエスの言葉は、
私たちを立ち上がらせる力があります。
主イエスはどのようにして徴税人マタイに声をかけたのでしょうか。主イエ
スは、「通りがかりに」マタイが「座っているのを見かけ」たと聖書に記され
ています。「見かけた」というのは、私たちが歩いている時に何気なくちらっ
と見ただけという印象を与える言葉です。しかし、新約聖書原典ギリシャ語で
は「エイデン」と記され、その意味は直視する、見抜くと説明されています。
すなわち、主イエスがマタイを直視し、見抜いたということです。これは、マ
タイは収税所で座っている時、神に見られたということなのです。神は私たち
を見ているということです。私たちは神に見つめられ、見抜かれているという
ことです。私たちは、神に直視されて生きているのです。
マタイは「座って」いました。税金を集める仕事に熱中して座っていたのか、
人生の岐路に立たされ悩みつつ座っていたのか、その心情は分かりません。し
かし、主イエスは、神のまなざしでマタイを見たのです。そして、「わたしに
従いなさい」と言われたのです。主イエスは、見かけたすべての人にあたりか
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まわず声を掛けていたのではありません。そうではなく、主イエスはマタイの
何かを見抜いたのです。それは、何でしょうか。
私たちも主イエスに見つめられています。その時、主イエスは私たちの何を
見ているのでしょうか。第一に主イエスがマタイの中に見たのは、救いを求め
る信仰です。それは、主イエスの招きに即答し、「主イエスに従った」マタイ
の姿勢を見れば分かるのではないでしょうか。主イエスは神の救いを求めるマ
タイの心を見抜いておられたのです。
当時の社会においてマタイのような徴税人は罪人と見なされていました。誰
もが、「徴税人と罪人」はセットで理解していました。主イエスの時代、ユダ
ヤ社会はローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は、ユダヤの民から税
金を集める方法をローマ人ではなくユダヤ人に行わせる方法を編み出しまし
た。その方法とは、ユダヤ人にユダヤ地方の徴税権を競り落とさせる方法です。
同胞に嫌われようとも徴税権を獲得したマタイ達はローマ帝国のお墨付きに守
られて好きなだけ税金を集めたのです。故に、ローマ帝国側に立つ非国民とし
て嫌われ、不当な徴税をする「罪人」と見なされていたのです。当時のユダヤ
の社会では、誰一人徴税人に信仰を見出す者はいませんでした。しかし、主イ
エスは、マタイの中に信仰を見出したのです。主イエスは、マタイが心の底で
神に従いたいと願う心を持っていることを見抜いて「わたしに従いなさい」と
言葉を与えたのです。だからこそ、マタイも主イエスに従ったのです。
主イエスがマタイの中に見出したのは、主イエスに従う信仰だけではありま
せん。「わたしが来たのは罪人を招くためである」とあるように、主イエスは
マタイの「罪」をも見出して下さったのです。マタイは徴税人としての自分を
もてあましていたのではないかと思います。心の奥底で、赦しを求めていたの
ではないでしょうか。私たちも同じではないでしょうか。赦されたい。神の御
赦しにあずかりたい。赦されて、再出発したい。私たちの願いです。
ファリサイ派の人々は主イエスの弟子達になぜあなたたちの先生は徴税人や
罪人と一緒に食事をするのかと言いました。主イエスは罪人の中にある信仰と
罪を見つけ出すために、徴税人や罪人と積極的に交わりを持ってくれるので
す。徴税人や罪人と一緒に食事をしたということは、マタイだけでなくその他
の「罪人」の中からも信仰と罪を見いだして主の道へ招いておられるのです。
だれもがこの人だけは救われないだろうと思う人がいます。しかし、主イエス
はそのような救いがたいと思われる者の中から信仰と罪を見い出し、「わたし
に従いなさい」と声を掛け、喜びの食卓を囲んで下さるのです。我らの主イエ
スは、私たちの信仰と罪を引き出して、喜びの食卓へ招いて下さるのです。
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マタイは「立ち上がってイエスに従」いました。
「立ち上がる」という言葉は、
新しく生きるとか復活するという意味を持つ言葉です。収税所に座っていたマ
タイが、主イエスの言葉を聴いて、新しく生きる力を与えられたのです。
今日、私たちは主イエスに見つめられています。主イエスは私たちを罪の只
中から招きだしてくれるお方です。主イエスは、今朝私たちに、あのマタイに
与えた言葉を語りかけて下さっています。「わたしに従いなさい」。主の声を心
の内に響かせつつ一日を過ごしましょう。
2012年9月27日 朝の礼拝
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