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アカデミアの経験をビジネスに活かす

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アカデミアの経験をビジネスに活かす
2005/1/4
投資先社長インタビュー
株式会社エムズサイエンス
三田四郎社長
アカデミアの経験をビジネスに活かす
会社を設立してから五年目に入った創薬ベンチャ
ー。創薬とは、薬を作り出すことだが、その時に大
事なのは新薬のアイデアを生むプロセスだ、という
のが同社の考え方。現在は3つのプロジェクトと取
り組んでいる。
出口までの道程が遠いといわれるバイオベンチャ
ーのこれまでの足取りと問題点を聞いた。
始まりは癌研究
IGC:東京大学薬学部、慶応大学医学部、ワシントン大学と、研究環境としては一流の場所をご
経験なさっておられますが、素人に分かり易く言えば、専らなさっておられたのはどのよ
うな研究なのでしょうか?
三田:研究と言えるようなことは東大の大学院に進んでか
らしかしていません。基本的には癌に関連した研究をして
きました。
IGC:癌そのものなんですか、癌治療の研究なんでしょう
か?
三田:癌そのものです。癌というのは、細胞が異常増殖す
る病気ですから、どういう風に増殖するのかというメカニ
ズムを追及するのが大きな課題となります。これを解明することは癌治療にも繋がります。
従って、癌治療の研究も含まれることになります。
IGC:なぜ、癌にご興味を持たれたんですか?
三田:大学院に入ったのは 1970 年代でした。当時は遺伝子の研究がこれからの学問だと考えられ
始めていた時代です。なぜか、と改めて問われますと明快な答えはありませんが、癌研究
もそういう考え方の中から出てきた研究対象です。
IGC:大学院をご卒業なさったのが 1979 年ですから、大学院には 5 年在籍なさってたんですね。
その間を通じて癌一筋なんですか?
三田:癌以外ではホルモンの研究なんかもしました。あとの方では癌に絞っておりましたがね。
IGC:70 年代なら、大学は騒然としていた頃ではなかったんですか?
三田:一段落した頃です。
IGC:すでに、ゆっくり研究できる時代に戻っていたんですか?
三田:そうです。
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IGC:癌というテーマは、学部のころから、何か萌芽があったんでしょうか?
三田:いいえ。学部の頃はボーとしていました。先ほども言いましたように、研究と言えるよう
な事は大学院へ進んでからの事です。
IGC:その後、慶応大学で助手をなさっておられますね。助手というのはどういう仕事をする職
業なんですか?
三田:大学というのは教育と研究が大きな役割です。慶応の助手は、どちらかと言えば研究の比
重が高いところで、時間の9割くらいを使っていました。残りの1割は講義の手伝いとか、
学生指導でした。
刺激を受けたのは慶応時代。違いは仕組み
IGC:院生の時代と比べれば、充実度は上がりましたか?
三田:刺激という点では、圧倒的に慶応時代の方が高かったと言えます。
IGC:刺激というのは、分かり易く言えばどんなことですか?
三田:東大というのは日本の大学の、一つのシンボル的存在です。敢えて言うならば、日本の大
学は完璧な官僚主義で形成されています。この結果、学問的な点での競争意識が生じにく
い組織になっています。よく言われることですが、あれだけの予算があり、研究者が居る
のにノーベル賞受賞者が出ないというのはなぜだ、というのがあります。予算規模や研究
陣を、スタンフォードやハーバードと比較すれば遜色がないのに、結果としてノーベル賞
の件数ではなぜ差が出てしまうのか、はその仕組みに問題があるからだと思います。
IGC:慶応は違いましたか?
三田:教授の考え方にもよると思いますが、慶応は助手をはじめとする学位保持者が教室の中心
で学生がほとんど居なかったのに対し、東大薬学部は大学院生の数が多く、院生中心の雰
囲気でした。慶応は研究者として一人前の助手が中心となった研究者集団であったため、
精神構造も、競争的で健全な考え方があったように思います。
IGC:慶応時代、10%を割いて居られた部分の自己評価として、いい先生でしたか?
三田:はい。熱心だったと思います。
IGC:教育というのは、これまでの体系を教えることですが、研究というのはこれまでの体系を
壊す事ですね。9割の破壊創造行為と、1割の伝達行為の間に矛盾は生じませんでしたか?
三田:一流と二流の研究者の差はそこにあります。オリジナリティがある発想をどの程度持って
いるかに関わる問題ですから。矛盾は、オリジナル度合いによるんではないでしょうか。
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IGC:そういう考え方は東大時代からありましたか?
三田:慶応に入ってから鮮明になって行きました。慶応の助手になってから、オリジナリティを
持った取組みの必要性と、研究者として名を上げるにはどうするか、
という事を学びました。ただ、ここには矛盾する問題がありまして、
論文の数を競うということになれば粗製濫造する研究者も出てきま
す。価値もさることながら、数で勝負だというタイプですね。自分で
振り返っても、慶応の時代は論文を書くことがひとつの明確な目標に
なっていました。東大時代は、論文の数こそ少ないんですが、じっく
りと研究して面白い結果を出したなあと思うこともあります。
IGC:見方によっては、いずれの時代も充実していたと言えますか?
三田:もう少し上手いやり方がなかったものかと思います。もっと勤勉だったら良かったのにと
は思います。
IGC:余り勤勉ではなかったんですか?
三田:ボーっとしていましたからね。
IGC:アメリカ型なら、粗製濫造でも論文を書け、ということになりますね。慶応の頃はそれに
倣って一生懸命に論文を書いて居られたんですね?
三田:そりゃ、本数で言えば東大時代とは比べものにならないくらい量産しました。
成果があったし、違いも知ったワシントン大学時代
IGC:その後ワシントン大学へ移られたのはどういう経緯だったんですか?
三田:慶応で助手をしていた薬理学教室の教授が、ワシントン大学の教授とNIH(米国保健衛生
研究所)に留学していた時代親しい関係をお持ちだったことが縁でご紹介いただいたんで
す。
IGC:ワシントン大学ではどういうご研究をされておられましたか?
三田:癌のDNA複製へ戻ったんです。
IGC:一貫して癌をテーマになさっていたわけですが、慶応時代に主に研究されていたものとは
どう違うのでしょうか?
三田:慶応時代は発癌物質の代謝という分野でした。
IGC:博士号は東大ですね。学位論文はどういうテーマだったんですか?
三田:
「哺乳動物細胞の温度感受性変異株について」というテーマでした。普通よりも一寸低い温
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度だったら増殖するのに、高温になれば増殖が止まる性質を持たせればどうなるか、という
ことです。高温と言っても微妙な差なんですが、その状態になれば何らの原因で蛋白が微妙
な機能変化を起こしているんです。その蛋白を見つければ細胞増殖のところでどう関わって
いるかが分かってくるんです。これは、50∼60 年代にはバクテリアで盛んに行われた手法
なんです。それを動物細胞で行なったわけです。
IGC:これは癌研究と繋がるものなんですか?
三田:細胞が増殖するためには、DNAの複製が重要です。癌というのは、その細胞の増殖に歯
止めがかからなくなって、際限なく分裂を繰り返す病気です。従って、細胞がなぜ増殖す
るのか、という所が分かれば癌治療へも応用ができるはずなんです。ただ、癌の増殖とい
うのは大変複雑で、多くの蛋白が関与しています。
IGC:三田社長における研究の方法というのはいつ頃確立なさいましたか?
三田:慶応の時代ですねえ。その意味では、慶応で助手を過ごしたのは大変有用でした。教育に
割く時間は短いと言いましたが、そうは言っても薬理学というのは学生を実習で指導しな
ければなりません。そうすると、薬理学を広く浅く勉強する必要にも迫られます。ところ
が、大学院での専門的な研究というのは、
「それ」しかしません。このため、極めて偏った
知識しか蓄積できないんです。ある程度教育行為を行なったことで、自分自身で得る物は
大きかったと思っています。
IGC:という事は、研究者というのは教育の現場にも直面して教育者の側面も持っていなければ、
いい考え方、いい研究方法というのを確立できないかも知れないと言えますか?
三田:その可能性はあります。研究者は教育者であれという側面は重要なんですが、アメリカへ
行って分かったことがあります。アメリカの大学院生の知識というのは、日本の大学院の
学生よりも高く、良く物事を知っていますよ。平均的に、学位を持っている人の知識レベ
ルは日本の学位取得者よりもかなり高いのではないでしょうか。大学もそうですが、日本
の大学院は入ってしまえば学位をとるのは簡単です。アメリカの大学院は教育がハードで
学位をとれずにドロップする学生は大勢います。日本の大学院の教育システムはアメリカ
とはかなり異なっており、優秀な研究者を育てるのにはアメリカ的な大学院の教育が必要
だと思います。
IGC:ワシントン大学へはどの位居られたんですか?
三田:2年3ヵ月でした。
IGC:生活はいかがでしたか?
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三田:シアトルは大変住みやすい街でした。遊んだという意味ではありませんが、余裕がありま
した。ワシントン大学の研究員というのは有給で、貯金ができると言うほどではありませ
んが経済的に困るということはありませんでした。
IGC:ワシントン大学では、慶応でなさっていたことをさらに進めることができたんでしょうか?
三田:いいえ、慶応時代とは無関係のことをしていたんです。ここに連続性はなかったんです。
研究テーマは、ワシントン大学の研究室の教授がいくつかを挙げて、そこから選べという
形でしたから。
IGC:ワシントン大学時代の研究成果はどのようなものですか?
三田:DNAを複製する時にはエラーが生じます。そのエラーがどういう頻度で、どんなパター
ーンのものが起きるのかというのをある程度明らかにできました。この分野ではある発見
をしたと思っています。私自身は面白い結果が出
たと満足しています。ワシントン大学のその研究
室は、極めて独自色の強いところでした。要する
に、いろんな人が取り組んでいるような分野では
なくて、他人が余りしていないようなテーマと取
り組んでいました。このため、私が出した研究成
果を他の人が発展させるという事にはなりませ
んでした。
カネと時間だけで新薬が創れるわけではない
IGC:その後参天製薬へお入りになりましたが、実業界へお入りになる事に迷いはありませんで
したか?
三田:ずっとワシントン大学にいるという選択もないではなかったんです。ただ、その時すでに
35 歳になっていました。この年齢は、アメリカで研究者としてやって行くには歳を取り過
ぎているように感じたんです。
IGC:参天製薬では、こんなことを研究しようと言ったプランをお持ちだったんですか?
三田:企業ですから、純学問的研究というのは難しい話です。そんな研究をできるとは最初から
思っていませんでした。製薬会社の研究部門は、新製品を出すという大きな義務を背負っ
ています。従って、その時に参天製薬が持っていたリソースを見極めてからでなければ研
究は出発できませんでした。
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IGC:とすれば、それまでの研究とは関係ない分野で始まったわけですね?
三田:その通りです。
IGC:例えば履歴書に書くとすれば、参天製薬ではどのような研究成果をお出しになりましたか?
三田:研究開発本部長という立場にいましたから、その時に承認を取った製品を並べて年商いく
ら、というのを履歴書に書いています。そういうのを成果といえば成果というのだろうと
思います。製薬会社が新製品を出す、と言う時にはいろんなやり方があります。特許切れ
のものを製品化するのも、一つの方法です。他社製品を見て類似品を出すというのも有力
な方法でほとんどの製薬会社はこのやり方を取ります。ただ、このような模倣的な企画は
ビジネス的には面白くてもオリジナリティーが低く、研究的興味を掻き立てるものだとは
感じられませんでした。やはり、オリジナリティーの高い新薬を創製するということが研
究者としての夢であり、研究力で勝負する製薬会社の本道であると思います。
IGC:会社へお入りになってから、研究とマネジメントの時間配分はどういう配分でしたか?
三田:入社当初は自分で研究をしていましたから9割を研究に割いていました。間もなく臨床な
ど、他の分野も見るようになって、マネジメントと逆転してしまいました。3年目くらいか
らはっきり分かってきたのは、製薬会社にとって新薬を出すというのがいかに困難であるか、
というものでした。お金と時間を掛ければ確実に成果が上がるというのであれば簡単な話で、
その場合は必ず大手が勝つに決まっています。ところが、大手でも容易に新薬を出せないん
です。
IGC:心の充実感はいかがでしたか?
三田:そりゃ、最高に高かったのはシアトル時代です。研究だけをしていればいいんですから。
創薬のための創業には助走期間が十分にあった
IGC:14 年参天製薬に居られて 2000 年にエムズサイエンスを創業なさいましたね。これは、どの
ような心の動きだったんでしょうか?
三田:私の強みは、詰まるところは研究なんです。なおかつ、自分で企画を立てて行くことに関
心が強いんです。製薬会社も新薬開発という点ではこれに近いんですが、半面は営業の拡
充も欠かせないというのが実情です。これは、お金を掛ければ新製品が出てくるのかとい
う議論とも繋がります。医薬品会社の営業分析によれば、MRの医院への訪問回数に応じ
て売上が上がるという調査結果があるんです。じゃあ、研究開発も一緒か、という話にな
ります。でも研究開発は、毎年確実に成果が上がるものではありません。場合によっては
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5年に 1 回しか成果として出てこないこともあります。つまり、成果が投資額に比例して
出てくるかどうかは分からないんです。私の考えでは、比例はしません。専門性が高い新
薬の企画は個人に依存する面が極めて大きく、投下資金の大小で成果が左右されるという
ビジネススクール的な発想では対処できないと思います。そうはいっても、個人に依存す
るということ自体が大企業的ではないわけであり、ベンチャーをやらざるを得ないという
ことになるわけです。
IGC:でも、会社を辞めてしまうには不安はありませんでしたか?
三田:いま思えば、良くそこまでやってしまったもんだと思います。
IGC:ご家族の反対などはありませんでしたか?
三田:それはありませんでした。自分で決めれば突っ走ってしまう方ですから。当時は、バイオ
ベンチャーが次々と出てくるような雰囲気がありました。薬品会社が真剣に多くの研究と取
り組んでも、新薬にまで繋がる研究なんて少ないことも良く分かっていましたから、リスク
が高いし、先行きも危ないとは思っていましたよ。ただ、自分で借金をしてまでのリスクを
取った訳ではないんです。当然、自己資金も入れましたが、失敗してもマイナスにはならな
いところで始めた訳です。借金を背負ってのスタートだったならば始めてはいなかったでし
ょうねえ。先行き、夜逃げか自殺しかないようなことは出来ませんから。
IGC:自分で会社を始めようというとき、どなたかと相談なさいましたか?
三田:そこが弱いところで、いま投資家の皆さんから経営がなっていない、とか言われている訳
ですよね。
IGC:でも、参天製薬時代に会社経営のあり方や問題点はある程度経験されたわけですね?
三田:それはあります。社長というのは、会社では最高権力を握っていますから、社長がどんな
スタンスで経営を進めていくのかで会社は決まります。多くの会社を見ていますと、社長
がリーダーシップをとって進めている方が上手く行っているんではないでしょうか。悪く
言えばワンマン経営で、悪化した場合には瞬間的に行き詰まる場合もありますが。でも、
そうしないと経営はできないでしょう。いろんな人の意見を聞くことは大事ですが、意思
決定も多数意見に従うようでは、前へ進めなくなります。
IGC:創業の時は、いきなり参天製薬へ辞表を出されたんですか?
三田:外見はそうですが、参天製薬と喧嘩別れした訳ではないんです。社長とはベンチャー・ビ
ジネスを始めたいということを相談していたんです。ですから、十分な準備期間を貰って
はいました。会社創業は 2000 年 11 月ですが、退社は 9 月でした。その前年の年末から、
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社長とは相談して了解を得ていました。社員にもある程度話してはいましたから、急にと
いう事ではありませんでした。
IGC:従業員の中から、一緒に行きたいと言う方は居られませんでしたか?
三田:何人かは引き連れて独立することになりました。ただ、参天製薬の業務上、キーとなって
いる人には声をかけることはできませんでした。また、声をかけても彼らは動かなかったか
も知れませんけれども。充実感を持って仕事と取り組んでいましたから。ですから、一緒に
出たのは優秀だけれども一匹狼的であるとか、若い研究者でした。
IGC:創業までに 1 年の余裕があったという事は、こんな会社をこんな風に作り上げて行こうと
いうプランを練り上げる時間的余裕があったということですか?
三田:ありました。いまは、メーンテーマを二つに絞っていますが、その当時はもっと他にもプ
ロジェクトのアイデアはありました。その当時はゲノム創薬というのが華々しく言われて
いた時代です。ゲノム解析で薬を作る研究にカネを出してくれる人がいるんなら取り組ん
でも良いと思っていました。そういうテーマも持っていた、という事です。テーマの絞込
みは準備期間中にある程度は進めていたんです。
IGC:ゆっくりと準備ができたというのは、ベンチャー・ビジネスとしては恵まれた形でのスタ
ートですね?
三田:そう思います。しかも、独立に当って私の要求を、参天製薬の社長はある程度飲んでくれ
ました。当時は不遜な考えを持って居りまして、参天製薬の子会社にはなりたくない、ま
た参天製薬もエムズサイエンスのような会社を子会社にするのは不本意でしょ、と。経営
方針に則って設立するわけではないんですからね。だから関連会社ではないようにしまし
ょう、と言ったんです。但し、出資がゼロでは喧嘩別れのようになるので、少しだけ出し
て下さいって言ったら、参天製薬の社長はOKを出してくれたんです。また、私が参天で
やっていたプロジェクトの一つが眼科ではなかったため、開発をすべてエムズに任せると
いうことを了解してくれました。大変温情的な方ですよ。
思いを通すには自分が動かなければならない
IGC:小心サラリーマンの感覚でいえば、そのまま企業内研究者でいれば気楽な人生を送ること
ができたかも知れないのにと思いますがねえ?
三田:
「釣りバカ日誌」のように、別の所で趣味を持っているような生き方ならよかったでしょう
ねえ。でも結局自分がやりたい事をしようということです。参天製薬で出来なかったのは、
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それを押し通せなかったからです。企業内に居たのでは、参天製薬の事業と余りにも繋が
らない事ばかりはできないでしょう。経歴書をご覧になればお分かりでしょうが、
私は 1995
年から探索研究本部という少人数部隊を作り、それに専念していたんです。なぜ、そんな
組織を作ったのかと言えば、新製品というのは企画が大事だという考え方からでした。企
画する場合には二つの方法があります。自社の研究から企画する方法と、他社製品をライ
センスインするやり方です。前者の方法は成功すれば利益率は高いものの、失敗する確率
も高いわけで、他社製品のライセンスインのほうが安全確実という考え方が出来ます。私
は、全研究開発費の5%程度なら自社研究からの創薬研究に使っても許される範囲ではな
いかと考えまして了解を貰い、結構好きな事をしました。
IGC:いい成果が出ましたか?
三田:まちまちです。ただ、中の一つに、面白いものがありました。2003 年のノーベル化学賞受
賞者にピーター・アグリというジョンズ・ホプキンス大学の教授が居られます。彼は水チャ
ンネル(アクアポリン)を発見したんです。細胞の中には水を通す穴があるんですが、彼はそ
れを発見した人です。参天製薬の研究所では、3人のチームで涙腺の水チャンネルの研究を
し、結構面白い成果が出てきてアグリ博士とも知り合いになれました。ですが、そこまでが
当時の限界でした。
IGC:好きな研究をしたとは言え、徹底してできなかったということですか?
三田:水チャンネルの研究は面白くて、一流ジャーナルに出せるような結果までは出たんですが、
そこからビジネスにどう繋げるんだ、という問題があったんです。そこを突かれると、回
答が出せなかったんです。そこをさらに進めれば何らかの治療薬に繋がるとは言えたかも
知れませんが、それには時間がかかり過ぎると感じていました。そんな事なら自分で好き
なように研究したいと思ったんです。
IGC:それは、独立への大きなきっかけだったんでしょうか?
三田:多くある要因の一つです。だからと言って切羽詰まった状態ではありませんでしたし、水
チャンネルの研究も会社から中止しろと言われたことも、そんな雰囲気を感じたこともあ
りませんでしたから。辞めたのは複合的要素ですよ。
IGC:準備期間中には会社組織の事もお考えになって居られましたか?
三田:それは余り考えていませんでした。研究テーマを主に考えていましたから。
IGC:研究テーマで言えば、それをいかに商品として市場へ出し、お金を回収するかという事を
問われますね。つまり事業計画という事ですが、それは社長がお書きになったんですか?
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三田:私がやっている以上は、私の思想で書かないと投資家へは通じないでしょう。これまでに
大きな資金調達を3回しました。このうちの 1 回は全くの失敗だったんです。8億円を調達
する予定だったのが、2億円しか集まらなかったからです。その最たる理由は、きちっとし
た事業計画も作らずに、寄せ集めの材料でVCに説明したのが原因です。これでは、会社の
思想が全く投資家には伝わらなかったわけです。そこで、今回は自分で事業計画を書き、V
Cの意見も聞いて計画をまとめ上げました。そうしなければ、思いは他人に伝わりませんね。
IGC:ベンチャー・ビジネスは熱意を持った創業者が最初にお金集めのところにかなりのエネル
ギーを投入しなければ船出もできないという事でしょうか?
三田:その通りですね。ですから、かなりの時間を割きましたよ、事業計画の策定には。
IGC:その間、研究の方はどうなっていたんですか?
三田:これはスタッフの問題もあります。当社の現状は、基礎研究に資源を投入できる状況では
ないんです。ステージの進んでいるプロジェクトを少しでも前へ進めるのが第一義である
ので、そこはスタッフに任せられる部分です。それでも実情は人手不足なんですが。進行
中の研究が上手く行けば、薬品会社と提携して売上が立つようになり、余裕が出来てくれ
ばもっと基礎的な研究へも資源を割くことができると思います。
IGC:平均点を上げようとするときに、弱点を補強するか、優位点を徹底的に強化するかという
選択があると思います。現在の選択は、不得意科目を捨て、得意科目で徹底的に稼ぎ出そ
うという選択ですね?
三田:近い考えです。いま先行しているプロジェクトはかなり進んでいるんです。その推進に必
要な人材も漸く揃ってきました。なおかつ、経営体制を強化することにも取り組んでいま
す。いかに、我々のプロジェクトは進んでいるといっても、薬品会社に評価して買っても
らう必要もあります。それには営業的な要員も必要になります。そんな人材の強化は喫緊
の課題です。
ベンチャー・ビジネスを刺激するには改善すべき点が多い
IGC:これまで社長の個人的人脈で人材を集めて来られたと思います。ただ、その場合の人材は
研究分野だったんではないかと推測されます。これからは、財務、管理、営業ということ
になれば、別の人脈が必要になると思います。それはどのようになさっておられますか?
三田:広くお願いして回るしかありません。事業を始める際にはお金と人材という大きなファク
ターが欠かせません。お金の面では参天製薬やVCの力を借りて大変上手く離陸できました
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が、人材の面では難しい所が残っています。日本の社会ではなおも、人材の流動性が乏しい
のではないかとも思っています。
IGC:それは、いい人が来ないということですか、それとも、そんな人材が日本では不足してい
るということですか?
三田:日本人の一般的な考え方として、やはり大企業志向といった集団主義的なカルチャーが根
深いということではないでしょうか。仕事をするなら名の通った大企業でという考え方が
一般的なため、名もなきベンチゃーに対する拒否反応といったものがあるのではないでし
ょうか。特に製薬業界は保守的ですから。
IGC:折角ワシントン大学に居られたんですから、会社創業の時に、アメリカで創業するという
手はなかったんですか?
三田:なくはなかったでしょうが、そこまでアメリカ文化にどっぷり浸かっていた訳ではありま
せんでした。アメリカに居たと言っても、大学へ行って研究していただけの話ですから。
IGC:しかし、アメリカの方がいろんな面で流動的ですね。人集め、チーム作りなどでは5年を
経ずして今の形にできていたかも知れないのではないでしょうか?
三田:アメリカはいろんな面で流動的です
よ。確かに、アメリカで創業していればも
っと早くここまで到達できていたかも知
れません。アメリカには専門性の高い人が
流動的で、やりやすいのは確かでしょう。
日本にもそういう能力を持った人は沢山
いるんですが、動きませんからねえ。土地
も建物も、実験器具もアメリカの方がずっ
と安いのも確かです。その点で、ベンチャ
ーを創業するにはもってこいだといえます。でも、日本で研究した成果を日本のベンチャ
ーとして成果を上げて行きたいと思っています。
IGC:結果としては神戸で創業なさったんですが、それは良い選択でしたか?
三田:実験室も持ちたいという希望を持っていましたが設備面でこの希望を受けてくれるところ
は神戸以外ではありませんでした。神戸が良かったのは、資金的な援助というよりは、医療
産業都市として行政が開発理念を明確にしてアピールしていることです。それによって、メ
ディアへの露出機会が増えます。当社が入居した時もバイオベンチャー第一号としてマスコ
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ミで取り上げられました。このために、ベンチャー・キャピタル各社との付き合いも、当社
から探し求めるのではなく、自然と集まってもらった格好です。
IGC:会社創業の場所も、ベンチャー・ビジネスを始めるに当っては良く考える必要があると思
われますか?
三田:重要なポイントだと思います。ただ、走り出してしまえば中身が重要になってきます。神
戸に会社を置いていることで特別に有利なことはありませんが、他方でまずい点は全くあ
りません。日本の社会は業界団体を作り、中央政府とのパイプを重視し、実際その方が有
利なこともあるでしょうから、将来的には東京の方が有利となる局面が生まれるかも知れ
ませんが。
IGC:三田社長のようなご経歴の方はそれ程多くはないと思いますので、実際に相談に来られる
方は少ないかも知れませんが、例えば会社勤めをしつつも面白そうな研究テーマに目処を
つけた人がいて、ベンチャー企業を始めようと思っているけれどもどうするべきか、とい
う類の相談を持ち込まれたら、どうお答えになりますか?
三田:自分でベンチャー企業をやっている手前、止しなさいとは言えないでしょうねえ。挑戦さ
れたら良いのではないのですか。新薬に限らず、新しい挑戦に対しては、これを否定する
「常識的な」考え方というのは極めて沢山出てきます。ベンチャー・キャピタリストの中
にも、「抗うつ薬は難しいですね」とか、最初から「無理でしょ」とか、「前例がありません」
なんて事を言う評論家的な人も居ます。そんな考えを持ってるんなら、ベンチャー投資を
するなんて最初から言うなよ、と思います。ベンチャー・ビジネスというのは前例がない、
確実性の保証できないもんです。だから、基本的なチャレンジ精神がないんだったら最初
からベンチャー・ビジネスなんかするべきではないでしょう。逆に、少しでも可能性を考
えているのならば挑戦すればいいと思います。勿論、是非やれとも思いませんが。
IGC:でも、そこへ踏み出す人はそれほど多くはありません。日本の教育とか、社会のシステム
上の問題なのでしょうか?
三田:私の経歴に特徴があるとすれば、大学院へ行き、慶応で5年間助手を勤め、ワシントン大
学で研究生活を送ったことです。そういうアカデミアの世界で 30 歳半ばまで過ごしました。
そこから、インダストリーに入って新薬開発の現場に携わってきました。こういう経歴を
持っている人は少ないのではないでしょうか。まれにそういう人が居ても、日本の会社で
はロクに重用されないのが現実です。十分に、アカデミアの経験を発揮できるような仕事
を与えられないんです。失礼かもしれませんが、インダストリーの研究のトップが、アカ
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デミアの何たるかを理解していないように思います。
IGC:何を変えるべきでしょう?
三田:大学制度が根本的に間違っています。明治以来
の講座制度を維持し、総定員数が決まっていて、教授
は一旦そのポストを得れば寝ていても給料が保証され
て一生安泰。逆に、物凄い研究を成し遂げても、眠っ
ている人と給料は同じ、予算もスタッフも同じ。こん
な仕組みで世界最先端の分野で勝負をできるのは、余
程意欲と能力に秀でた人くらいです。日本へも外国か
ら優秀な留学生が来ますが、本当にそれで生きて行こうとする人はその後にアメリカへ行っ
てしまっています。だから、サイエンスの言語も英語になってしまう流れは止まりません。
ベンチャー・ビジネスも同じです。
(語り手:みた・しろう=薬学博士・エムズサイエンス代表取締役、
訊き手:IGC じんぼう・としあき=池銀キャピタル投資業務部
2004 年 11 月 30 日)
◆事業内容
■Msc1--------------------------------------------------シグマ受容体アゴニスト。既存の抗うつ薬とは全く異なる作用機序を持つ新しいタイプの新薬を
うつ病および薬物依存症をターゲットとして開発。
■Msc2--------------------------------------------------単純ヘルペスウイルス(HSV)を用いた新規ガン治療法の開発。
■Msc3--------------------------------------------------角膜ヘルペス治療用点眼剤。ウイルスによる眼疾患の一つである角膜ヘルペスの治療に用いる
点眼用液剤を開発 。
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