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ボーロナイフ

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ボーロナイフ
ーコ
金
二
.
.
,
ふ"::
"7
,
川良真理(かわら・まり)
嘉 村 国 男 ( かむら・くにお)
東京生まれ。
大 正 6年長崎市生まれ。
昭 和5
7年に長崎のタウン誌「ザ・ながさき」の編集長
昭 和 9年 に 長 崎 県 立 直 浦 〈 け い ほ 〉 中 学 校 ( 日 制 〉 卒
長崎肢送〉テレビの朝
と な り 、 平 成 元 年 に は NBC(
業。
1
7
年 に 長 崎 新 聞 社 に 入 社、編 集 担 当 取 締 役 を 経 て
の情報生ワイド番組つまっとポテト"のキャスターを
3
9
年に退社後、側長崎文献社を創立して長崎の資料復
勤める。
刻、普及出版を志す。刊行書として「長崎津学史_ji長
長崎の津館(呆奇運 動 や 街 並 み景 観 問 題 に も か か わ っ
ているが、去年暮れから今年の
T用いっぱし ¥
(
3
7日間〉
親子で地球半周船の旅を経験し、話題となる0
崎文献叢書_ji新長崎年表_ji長崎辞典_ji長崎への招待」
など、
7
0
数冊。
現 在 、側長 崎 文 献 社 代 表 取 締 役 社 長 を 勤 め る か だ わ ら
1
0力国を海から訪問しだが、個l性を自覚しだ街づくり
長 崎 市 歴 史 民 俗 資 料 館運 営 委 員、長 崎 国 際 文 化 協 会 理
をしている港が臼象的で、長崎もその特異な歴史や戸
事 、 グラ パ ー 園 運営委員などを勤めている。
ジ 戸 に 近 い と い う 地理 的 条 件、港の景 観 を 生 か せ ば も
平成
っと変わるなあ、と実感しだと述べ、どこにいっても
すぐ長崎と比べてしまう自他共に認める長崎フ戸ン
である。
2年 に 長 崎 市 内 を 主 会 場 と し て 開 催 さ れ 芝 長 崎
「旅 J博覧会の総合プロテ、ユーサーとして活躍し芝。
川良
昨年、長崎では「長崎旅博」が開催さ
れ、そのノマビリオンのひとつに私たち長崎市
民憧れの“出島"がリアルに再現されました。
今日は、あの旅博のプロテ、、ューサーとして活
躍され、長崎の歴史の普及に携わっておられ
る嘉村先生に「出島と文イヒ」について、いろ
い ろ と お 話 を お 伺 い し た い と 思 い ま す 。 どう
ぞ よ ろ し く お 願 い し ま す。
先 生 と お 会 い す る の は 旅 博 以 来 で す ね。
嘉村
はい、旅博ではマスコミのみなさんに
大 変 お 世 話 に な り ま し た。 あなたとも、あの
会 場 で 会 っ て 以 来 と い う こ と に な り ま す ね。
川良
久し振りにお会いしてなにからお話を
お伺いしょうか迷っているんですが、まず最
初に旅の博覧会と出島との結びつきについて
お 聞 か せ い た だ け ま す か。
嘉村
-出島内外クラブ〈現出島資料館〉
ご存知のように、昨年、一昨年は地方
博 ブ ー ム で し た 。 長崎 は そ の シ ン ガ リ と し て
ぐにイメージされてしまうシンボルが必要で
開催したわけですが、博覧会を成功させるに
しf
こ
。
はなにか強い特色、地域の独自性を打ち出す
川良
それが出島であると ・
・
・
必要がある。
嘉村
1ヵ 所 で も い い か ら 長 崎 の 歴 史 を イ メ
た と え ば 奈 良 の シ ル ク ロー ド博では「大
仏」、横浜博では「ミナト」、瀬戸大橋博では
I~頼戸大橋」といったように地域の特色がす
ージで受け取れるものがほしかったわけで
す。それが長崎では出島だと思いました。
旅の博覧会というタイトルは響きが非常に
いいんですが、
コ ン セ プ トは 解 釈 の 仕 方 に よ
って単純で、あり、複雑で畑もある。非常にむつ
かしいテーマなんですね。しかし私の場合、
旅ということと出島は、反射的に結びつくん
です。
それと同時に出島を中心として、長崎と旅
というのは歴史的に深い関わりがあったわけ
で す。 他の地域にはない旅の種類があった。
川良
たとえばどのような種類の旅があった
のでしょうか。
嘉村
大抵の人は、旅というとすぐ観光を連
想されますね。
川良
そうですね。ひと口に旅といっても人
司・オランヲ、、坂
それぞれにいろいろあると思います。
長崎の人は 、東洋人以外の
外国人を全て“オランダさ
れ/'と呼んでい芝ので、居
-留地にある坂はオラ ンヲ、さ
3んの通るオランダ坂である。
嘉村
仮に人の旅だけをとってみても、大変
な種類がありますよ。人がある場所から違う
場所へ移る旅を長崎とし、う土地の歴史性で捉
えると、バラ エ ティに富んだ特殊な旅がたく
さんあるんです。海の旅、陸の旅、そして目
-出島庭園の出島ミ二チユ戸模型
に 見 え な い 旅 も あ る わ け で す。
j
毎の旅というのは、唐人屋敷にきた唐人船
像を集約して、記念像として保存したいと考
え て い る ん で す。
出島にきた南蛮船やオランダ船が代表的なも
川良
のですね。これらの船が荒海を渡って、長崎
長 崎 の 旅 に は 深 い 歴 史 が あ った の で す ね。
に生糸や薬などを運んできたわけです。j
毎を
嘉村
j
度る旅というのは、ほとんど出島につながっ
目したのは、実は目に見えない旅の方なんで
今 まで あ ま り 考 え て い ま せ ん で し た が
そうなんです。 しかし私がいちばん注
て き ま す ね。
す 。文 明 の 旅 と い う の は 目 に 見 え ま せ ん よ ね 。
川良
海の旅といえば、日本人が交易の旅を
川良
ええ 。
この目に見えない旅は、文化的には日
した御朱印船も長崎から出たといわれていま
嘉村
すが、長崎は海の旅の基地でもあり、情報の
本の近代化の終着点である出島に上陸し、こ
発 信地 だ っ た の で す ね 。 と こ ろ で 、 陸 上 の 方
こ で オ ラ ン ダ 通 詞 や 洋 学 者 た ち に よ って 受 容
は、どのような旅があったのでしょうか。
嘉村
陸上の方は、長崎が天領でしたから幕
さ れ 、 そ し て 日 本 列 島 へ 中 継 さ れ て い っ た。
つ ま り 日 本 列 島 を 旅 し て い っ た わ け で す ね。
府 の 奉 行 が 江戸 か ら 行 列 の 旅 を し て き ま し た
川良
し、出島甲比丹の将軍家へのご機嫌伺いの旅
てい っ た
・
オランダ通詞たちを媒介として広ま っ
。
出 島 に 入 っ て き た 洋学 を 出 島 に い た オ
甲 比 丹 行 列 と い う も の が あ り ま し た 。 それと
嘉村
出 島 と い う 海 外 知 識 の メ ッカ に 、 日 本 全 国 の
ランダ通詞たちがまず消化し、それから市中
各藩から若い エ リートたちが遊学の旅にきて
の学 者に伝わり、全国に広が って い き ま し た。
います。 公 的 私 的 を 含 め る と 、 私 の 推 定 で は
驚くほどスムーズに、しかも速やかに世界の
2,000人は下りません。
文 明 を 吸 収 し て い った わ け で す。
旅博では、長崎遊学生の記念碑として「長
川良
そうしますと、目に見えない旅の実体
崎 説学 の 標」 を 造 り ま し た が 、 身 元 、 目 的 な
を 捉 え る こ と は で き な い の で し ょ う か。
ど が は っ き り し て い る 人 だ け で 1,000人近く
嘉村
になり、今もその数を正確に調査していると
ね。 し か し 、 出 島 に 上 陸 し て 日 本 に 深 く 根 ざ
なに分にも目に見えないものですから
ころです。 こ れ は 永 久 に 保 存 し な く て は い け
し た も の と し て は 、 洋学 、 宗 教 、 政 治 、 近 代
な い 記 録 で す 。 こ の 遊学 生 た ち と 長 崎 で 活 躍
制 度 、 軍 事 、 そ の 他 の 科学 、 そ し て 芸 術 、 音
して日本の近代化に貢献した外国人たちの群
楽などあらゆる分野のものがあるんです。こ
れ に 味 覚 、 生 活 風 俗 な ど も あ り ます し ね。
川良
出島に上陸して日本列島に定着した出
島へのこれらの目に見えない旅というものが
今日、長崎そして日本にどれほどの影響を与
え て い る の か 、 な に か わ か っ た 気 が し ま す。
-平 成 2年 に 開催 さ れ だ 長 崎 「 旅 」 博 覧 会 会 場 風 景
それではこの出島の歴史と経緯についてお
伺いしたいと思いますが、出島を築造した目
際のモラル、常識が西欧的に自由で、教会が
的はなにだったのでしょう。
いくらうるさく注意しても、なかなか聞く耳
嘉村
実は長崎実録大成という古記に次のよ
うなことが書かれています。ちょっと引用し
てみましょう 。
「寛永 1
1年 、 出 島 屋 舗 を 新 た に 造 っ た。 そ
れまで南蛮人が長崎市中に自由に居住してい
たので邪宗門(キリシタン)を断絶すること
を 持 た な か っ た よ うです。
だから、この風俗習慣、気質の違いから日
本人との間にしばしばトラフ'ルが生じたわけ
で す 。彼 ら に と っ て は な ん と も な い こ と で も 、
日本人には憤慨のタネになっていた。
その頃、女性問題で刃傷沙汰がずい分起こ
ができなかった」 と い う 前 置 き を し て ・
・
・
・
・
・
そ
っているんです。話はちょっと外れますが、
こで市中を離れて海中に出嶋を築き、屋舗を
このことが南蛮外科の発達に大きく寄与して
建 て、南蛮人を住まわせ、商売の用向き以外
いるんですね。
は一切 無 用 の 者 を 出 入 り さ せ な い よ う に し た
川良
ど う し て で す か。
という意味のことが書かれているんで
嘉村
刃傷沙汰が起きて、日本人は傷がなお
るのに 1ヵ月も 2ヵ 月 も か か る 。 し か し 、 南
す。
つまり、南蛮人を強制収容するために出島
蛮 人 の 方 は 1週 間 ほ ど で ケ ロ ッ と し て 出 て く
を造ったということになっているんです。手ム
る。 な ん で か な と い う こ と で 調 べ る と 、 薬 の
た ち は そ ん な 風 に 教 え ら れ て き た わ け で す。
違いなんですね。そこで長崎の医者たちが南
私もそうなんです。だから正直なとこ
蛮 医学 を 教 え て も ら い 、 発 達 し て い っ た と い
川良
ろ出島にはあまりいいイメ ー ジは持っていな
か った の で す 。
うわけです。こういう副産物もあった。
しかし、南蛮人の存在は幕府にとっても一
一般の人はそうでしょうね。そこで私
部の日本人にも、あまり快い存在ではなかっ
は こ の 問 題 に 興 味 を 持 って 、 も う 少 し 調 べ て
た よ う で す。 もっとも風俗やモラルの問題よ
み た ん で す。
り、いちばんの理由は彼らがキリシタンを増
嘉村
確かに幕府がキリシタンを 嫌っ ていたのは
やすということでした。ところが幕府も、キ
当然 だ し 、 ま た 、 南 蛮 人 が 市 中 に い て 日 本 女
リシタンは 嫌 い だ が 貿 易 は 捨 て ら れ な い と い
性 と 数 多 く 交 渉 を 持 ったことも 事 実 で し た 。
う二律背反の大前提がありましたので、長崎
た と え ば 、 じ ゃが た らお 春 は 実 話 な ん で す。
市中から出ていけとは簡単にはいえなかった
お父さんはイタリア人で、日本人のお母さん
と 思 い ま す ね。
と恋愛結婚をしている 。
ところが、南蛮人が商品を保管していた倉
当時 、 南 蛮 人 た ち は 結 婚 、 恋 愛 、 浮 気 、 乱
庫 で 夜 な 夜 な 火 事 が 起 き る ん で す 。 火事 が 頻
暴沙汰に至るまで、日本人以上に異常なエネ
繁に起きるものだから当然商品はどんどん減
ル ギ ー を 持 て 余 し て い ま し た 。 また 、 男 女 交
っていく 。 そ こ で 奉 行 所 に 願 い 出 て 、 火事 の
川良
そうでしたか。初めて聞くお話です。
それにしても当時としては、あんな立派な人
工の島がよくできましたね。大変な土木工事
であったと思いますが・・
嘉村 私 も こ れ に は 感 心 し て い ま す 。 推 測 な
んですが、この頃に戦国の乱世のあおりをく
って、特に関ヶ原合戦などの武士たちが平和
を求めて町人に転向して、南蛮ブームで賑わ
う長崎にきている者が多かったようです。そ
の中に工兵、築城など土木工事を経験した優
秀な技術者がかなりいたのではないかと思っ
ています。
この出島ができる前年頃には、昔の干潟の
流れが大川となっていた流れに護岸工事を施
-浦よ天主堂
して、今の中島川にしているんです。その工
現在の建物は、昭和 5
6
年に
事をした技術者たちが出島の築造に参加して
ローマ法王を迎えて美しく
いるはずです。眼鏡橋を架けたり、当時の土
改装され疋ものである。
木屋さんは優秀だったんですね。
川良
出島の形ですけど、どうして扇型にし
たのでしょうか。
嘉村
-側面からの大浦天主堂
1
8
5
4
年
、 2
6聖人の霊に捧げられだ教会で、殉教地であ
i
l
こ向かって建てられている。
る西坂の f
日本最古の木造ゴシック様式の教会である。
出島を造るため、奉行と老中は幕府に
陳情にいっているんです。そしてどんな形に
造ろうかという相談のとき、将軍家光は子に
持っていた扇子を開いてこの形はどうかとい
った説か‘ありますが、これは文字通りナンセ
恐れのない場所へ自分たちの倉庫を移してほ
ンスな話です。(笑い)実際は西役所の崖下(現
しいと陳情したわけです。
在の県庁下)が扇の要の縁のようにカーブし
J
今まで日本人とトラブルが絶えずに奉行所
ていて、その辺は岩場だったようですが、そ
も手を焼いていましたので、まさに渡りに船
の線に沿って埋め立てていったので自然に扇
でした。
型になったという説が正しいようですね。
川良
川良
ということは、幕府から強制的に隔離
将軍の話はできすぎていますものね。
させられていたわけではなかった。
この築造費用は幕府が出したのですか。
嘉村
嘉村
そう、幕府の一方的措置とばかりはい
えない。
幕府というのは、後世のわれわれにはなん
いえいえ、全部町人が出したんです。
こ の と き の 築 造 財 源 は 市 中 の 25人 の 金 持 ち た
ちが出し、工事区画も等分して行いました。
だ か 強 権 の か た ま り の よ う な イ メ ー ジがあり
川良
すごいですね。どのような造り方で築
ますが、たとえば鎖国を行うにしても、実に
いたのですか。
慎 重 に 年 月 を か け て 実 施 し て い ます 。 出 島 を
6
9坪 で
嘉 村 完 成 し た 人 工 島 の 大 き さ は 3,9
造るに当たっても十分の思慮が尽きれ、たま
し た が 、 昔 の 1聞 は 6尺 5寸 で す か ら 今 に 直
たま南蛮人側から「火事の恐れのない別な場
す と 約 4,2
9
8坪 の 大 き さ に な り ま す 。 こ の 扇 面
所に倉庫を建ててほしい」という陳情が提出
を 岸 か ら 海 面 へ 25等 分 に し て 、 先 ほ ど 申 し 上
されたので、この出島が築造されたのではな
げ た 25人 の 出 資 者 の 工 事 分 担 に し た わ け で
いかと私は考えています。
す
。
大体推定される工法としては、沿岸の岩場
嘉村
オランダ人はケチで商売上手なんです
を小石や泥で埋めて足場を造り、その先の線
ね。 だ か ら こ ぎ ら れ た ( 値 切 ら れ た ) ょ う で
を 海 岸 の 曲 線 に 沿 って 大 石 、 小 石 で 石 垣 部 分
す。 しかし、オランダ人のもうひとつのヰ寺長
を固め、それを末広がりに伸ばした線の平面
である契約マニア、文書マニアという面には
を大石、小石を投じて基礎を固め、固めると
われわれは非常に恩恵を受けているんです
き に 松 の 木 を 埋 め 込 ん で い た よ う で す。 同 時
よ。
に大石、小石で固定し、その隙間に木の枝葉
川良
たとえばどのようなことですか。
な ど を 詰 め て い た ん で す。
その上をヨイトマケで地ならしをして、な
ん 度 も 小 石 や 砂 利 を 敷 き 詰 め 、 約 4,000
坪の扇
型の平地を造成して家屋、施設などを建てた
1
わ け で す。 土 木 と 建 築 は そ れ ぞ れ 専 門 家 が 受
け 持 っ たと思われます。
中 に 埋 め 込 ん だ 松 の 木 な ど は 潮 に 強 く 、 200
年ほどは海中での使用に耐えるそうで、ここ
にも当時の土木工事の水準の高さを伺い知る
ことができますよね。
嘉村
歴史がよくわかるんです。今でもオラ
ンダの古文書から古い出来事を知ることがで
きます。西洋の文書は客観的に記録されてい
るケースが多いので、史実を正しく見ること
ができるんですよ。
川良
そうすると、長崎の歴史が古い時代ま
でわかるというのは外国、とりわけオランダ
川良
どれくらいの期間ででき上がったので
し ょ う か。
嘉村
1年 ( 16
3
4
)から丸
寛永1
2年 か か っ て
寛 永1
3年 ( 16
3
6
) に初期南蛮貿易時代の出島
が 完 成 し ま し た。
完成後、
2
5人 の 出 資 者 た ち は ポ ル ト ガ ル 人
やオランダ人から家賃をとっているんですが
当 初 、 金 銀8
0貫 (
8,000両 ) と い わ れ て い ま す。
し か し 、 ポ ル ト ガ ル 人 は 出 島 完 成 後 か ら 3年
後の寛永1
6年 ( 16
3
9
) に出島から追放されて
いますので、南蛮貿易時代の出島資料は残念
な が ら ほ と ん ど 残 って い ま せ ん。
川良
そのあとにきたオランダ人も同様に家
賃 を 払 って い た の で し ょ う か。
嘉村
払 っ ていましたが、ポルト力、、ル時代よ
り か 安 く な っ た よ う で す。
川良
ど う し て で す か。
との交易でなんでも記していく習慣が身につ
い た お 陰 げ か も し れ ま せ ん ね。
嘉村
い い と こ ろ に 気 が つ き ま し た ね。 そ の
通 り な ん で す。 だ か ら 出 島 に 関 し て も 結 構 資
料,が残 っ て い る わ け で す 。
川良
-ォルト邸
は幕末明
英人オルトは製茶業・貿易商であっ定。日as
治期 、わが国の職人ガ建てだといわれてお り
、 高い天
井を吏えているヲス力ン様式の列柱ガ印象的である。
その出島を舞台に外国人との貿易が展
こ れ らの 貿 易 全 体 を 取 り 仕 切 っ た の が 長 崎
開されていくわけですが、どのような状態だ
会所という所で、貿易に直接携わる人を海手、
ったのでしょう 。
出島の日常的な商売は、コンブラドー
市 中 で 貿 易 を パ ッ クア ッ プす る 仕事 を す る 市
ルという出島の中に出入りする鑑札を受けた
民 を 陸 手 ( く が て ) と 呼 ん で い ま し た 。 この
嘉村
商 売 人 が 行 って い ま し た 。 そ の 商 人 が オ ラ ン
長 崎 会 所 に 勤 め て い た の が 地 役 人 と い って
、
ダ 人 に 日 用 品 な ど を 提 供 し て い た わ け で す。
地 元の 長 崎 で 育 った 役 人 で す。 しかし身分は
出島のいちばん最初の貿易は生糸の取り引
全 員 町人で、長崎には武士はし、ませんでした 。
昔の絵を見ると、地役人たちは町人と
きでした 。 こ の 生 糸 は 南 蛮 船 の 中 継 貿 易 に よ
川良
り 中 国 か ら 持 っ てこられたものなんですが、
は い え 、 い つ も 万 を 差 し て い ま す ね。
当時の中国、日月の時代ですけど、実は鎖国を
嘉村
していました。
ていますが、昔は玄関口であ ったから相当の
川良
貿 易 を し て い な か った と い う こ と で す
プ ラ イ ド を 持 って い た よ う で す 。 だ か ら 町 人
とはい って も 教 養 も あ っ た し 、 武 士 の 感 覚 を
力
、。
嘉村
今、長崎は西の果てといういい方をし
ええ、われわれは唐人貿易は公式な貿
易 と 思 っていましたが、実際のところ私貿易。
持 って い た の か も し れ ま せ ん ね。
0
0人以上も
長 崎 会 所 と い う の は 、 全 員 で 2,0
そ れ が 二 百 何 十 年 も 続 い た ん で す。 な ぜ こ ん
いた大会社で、貿易収支から配分まで全部を
なに長く続いたのかというと、幕府は相方の
まかな っ て い て 、 幕 府 に も 多 い と き で 年 間 七
事情や公私の問題にはおかまいなしでした。
万両から五万両、少ないときでも三万両とい
交易したい船はオランダ船であれ、明、清の
う 運 上 金 を 献 じ て い ま し た。 そ し て 会 所 の 人
船 で あ れ 、 平等 公 平 に 対 応 し て 貿 易 の 利 益 を
件費すべてを取り扱い、長崎の全市民に貿易
優 先 し た わ け で す。
利 益の 一 部 を 分 配 し た わ け で す 。
五 ヂ デイ _
--
---う
そうい った こ と が で き る ほ ど 、 長 崎 会 所 の
役 人 た ち は一 生懸 命 貿 易 に 力 を 注 ぎ 、 そ の バ
ランスシートは誰が見ても絶対にわからない
-出 昌 利 蘭 商 館跡 (
現 歴 史 民俗 資 料 館 〉
s
-リンガ a
英商フ レデリツク ・
リンガーの遺邸。
外壁ガ石造りの木造住宅で
、 わが国
には例のない重厚優雅な南欧風建築
-出畠庭園横にあるめずら
しい形のV字 溝
-元 イギ 1)ス領 事 館
であ る。
仕組みになっていたようですね。
川良
先生は今、全市民に利益を分配したと
いわれましたが、かまど銀のことですか。
嘉村
そうです。土地持ちの金持ちには箇所
あったと思いますね。でも、貰わないよりま
しだったので、かまど銀で市中が潤っていた
ことも事実でしょうね。
川良
かまど銀の影響もあるんでしょうが、
銀、借家住まいの一般庶民に配ったのをかま
長崎独自の祭りがずい分あったようですね。
ど銀といったわけです。かまどというのは、
私は「おくんち」がいちばんピーンとくるん
今でいう世帯単位を表わしていまして、これ
ですけどー・…。
が盆と暮れに全市に行き渡ります。税金もそ
嘉村
れからヲ│いてあったので、市民には大変嬉し
生み出していくものなんですね。そのいちば
いボーナスでした。
川良
長崎の風習で今でも残っていてほしか
ったのは、このかまど銀です。(笑い)
私たち庶民としましては、かまど銀として
どれくらい貰っていたのか、非常に気になる
の で す が・
嘉村
それがね、諸説あってよくわからない
やはり文化、文明というものは、金が
ん源泉になる貿易が長崎を潤していたんで
す。特に長崎の場合は、国際交流といった面
で他の都市とは違った面を持っていたわけで
す。
当初、日本の祭りというのは自分たちで楽
しむものだったんですね。つまりストレス解
消。盆踊りなどは日本の祭りの原型ですよ。
んです。今のお金に換算して、箇所銀が 7-8
長崎の場合は、外国人に見せようというお祭
万円、かまど銀が 7-8,0
0
0円 ほ ど で あ っ た と
りが生まれました。これは今でいう一種のイ
い う 説 や 、 箇 所 金 が1
2
0万 円 、 か ま ど 銀 が 3
0万
ベントですね。オランダ人や中国人たちに、
円 な ど さ ま ざ までした。 し か し 税 金 を 払 う 必
長 崎 は こ れ だ け や れ る ん だ ぞ と い う デ モンス
要がなかったので、金額がいくらにせよ丸取
トレーションの意味も含まれていたと思われ
りということになり ますね。
ます。
長崎人は遊び好きのお祭り気狂いとよくい
川良
自分たちが楽しむというより、人を楽
われますが、現実はそんなにドンチャン騒ぎ
しませる祭りですね。
をするほど貰ったわけでもなかったんです。
嘉村
「お く ん ち 」 は 全 国 に も 見 ら れ な い く
出島での長崎貿易が全市民にとって、あるい
らい金のかかった祭りで、
は市民自治にとって、どれくらい重要で、あっ
が変わるくらいバラエティに富んだ祭りで
たか、それに対する僅かの配分がかまど銀で
しかも毎年出し物
す。その理由としては、奉行所がキリシタン
勢力を抑えるために後押しをしたといわれて
いますが、諏訪神社の奉納踊りなどは、出島
や新地からの文明が長崎人に受容され、それ
を長崎人が工夫し発展したものです。これは、
まさに祭りの文化といっていいのではないで
しょうか。
川良
そのほかに、外国からどのような文化
が入ってきたのでしょうか。
嘉村
この場合、二通りの文化が考えられる
んです。つまり、西欧や中国の文化がそのま
まの形で長崎に所を変え存在したものと、外
-ウオー力邸
口パート・ウオー力ーは、初期の日本海運業界に多大
な功績を残し、日本初の清涼飲料水の会社を経営し
だ。住宅にも日本様式をとり入れだほどの親日家でも
ある。
国から入ってきた文明を長崎人が消化して育
て、独自の文化としたものに分けられると思
います。
出島へ外国の文明が入ってくる。文明は非
-グラパー邸
幕末日本の近代化に思力し芝英商トーマス グラパー
の日邸。オペラ「蝶々夫人」ゆかりの地でもあり、現
存する木造洋館ではわが国最古のものである。
-クラパーが若き志士を説得
している部屋の風景
常に科学的なもの、教育的なもの、いわゆる
ものとして入ってくるんです。文明というの
は 動 く ん で す ね。
一般に「出島における西欧文化の受容」と
-グラパー園からの長崎港眺望
いう表現を使いますが、生の文化が入ってく
る 場 合 も あ れ ば 、 文 明 が 入 って き て 長 崎 で 育
てられ、消化され、永年培われて、そこの文
もっとわかりやすくいえばカステラがそう
なんです。
イヒになるものも多いんじゃないかと思いま
川良
南 蛮 渡 来 の も の で す ね。
す。
嘉村
今でこそ長崎名物の高級菓子ですが、
たとえば洋学にしても、その論理は生のも
南 蛮 船 が 最 初 に 平 戸 へ 持 って き た と き は 単 な
のが入ってきています。それを消化して日本
るコ ッ ペ パ ン で し た 。 そ れ が 日 本 人 の 子 で カ
風に解釈して体系づけることを最初にしてい
スドースにな ったり、今日のおいしいカステ
るのが出島のオランダ通詞なんです。それが
ラになったわけです。
出島、長崎の中で洋学の文化として存在し、
最終的に全国に流布されたんです。
出島というのは、長崎で異種文化を上陸さ
最初からカステラは、あんなにおいしくは
な か っ た ん で す。 特 に 長 崎 は 出 島 や 新 地 か ら
貿易で砂糖が子に入りやすい環境にあったか
せて、そこで日本のものに仕立て、日本列島
ら、よけいにうまくなったんだと思いますね。
に 中 継 し た。 そ う い う 意 義 を 持 つ と 思 う ん で
川良
す。 こ の こ と が 出 島 に お け る 文 化 と い う も の
が、出島での文化の受容の実態についてお聞
のし、ちばん重要なポイントなんです。
か せ い た だ け ま す か。 今 の カ ス テ ラ 以 外 に も
文明と文化との考え方はわかりました
中 に 自 然 科学 、 人 文 科学 、そして思想、 宗 教
身 近 か な 食 べ 物 と し て ケ ー キ 、 ボ ーロ 類、 コ
などがあ って 、 そ の ま ま 長 崎 に 文 化 と し て 住
ンペイ糖など、いろいろあると思いますが
みついているものもありますが、ほとんどは
これらの生のものが日本人に育てられ、そし
最初にお話した南蛮船やオランダ船や
て伝統的な存在になりました。 そのとき初め
唐人船が長崎に運んできた目に見えない旅の
て「文イヒ」といえるものにな っ たと手ムは思う
嘉村
圃出島阿蘭陀屋舗景
当時の「出島」を克明に描いたものとしては
最高の作品である 。特 に 、 オ ランダ尾敷 の 内
部などは史料的にも貴重と いわれている 。
-蘭船入津之図
入 港 の 合 図 の 石 火 矢 ( 大 砲 ) が 蘭 船 か ら発 射
され、 雷鳴 の よ う に 港 内 に 響 く 。 大 波 止 の 広
場 に 見 物 人 がつ め か け て 巨 大 な 西 洋のp:船 を
眺 め 、 好 奇 と驚 き の 目 を 見 張 るの で あ っ た。
フ ェ ル ト ラ シ ャ の 帽 子 を 被 って い ま し た。 こ
の 帽 子 の こ と を 日 本 人 た ち は 「南蛮笠 」 と 呼
-育名な長崎皿うどんとチャンポン
んでいました。
また、南蛮更紗や良質のドンスが流行し、
んです。
ラ シ ャ の カ ッ パ は 宣教 師 が 着 て い た も の を 長
出島から流入した西欧文化と文明は、日本
崎 人 が 真 似 を し た も の で す。 こ れ は 後 に 「 縞
の明治以降における近代化の基礎となったこ
の 合 羽 に 三 度 笠」 に 変 化 し て 、 や く ざ 社 会 や
と は 知 ら れ る と こ ろ で す。
旅人風俗に定着したものだといえば、わかり
文化では、ファッションの世界が影響を受
やすいでしょう 。
けましたね。
川良
あのスタイルは日本古来のものと思っ
ファ ッ ション関イ系は、オランダ日寺代;はほと
ていましたが、南蛮からの影響を受けていた
んど出島内での生活でしたから、さほどのこ
の で す ね 。 そ の ほ か に は ど の ようなも の が あ
とはないんですが、南蛮貿易時代には華やか
っ た の で し ょ う か。
で 合 理 的 で あ っ たため、長崎の人はもちろん、
嘉村
京、江戸にまで影響が及んでいるんです。
ハンカチ、砂時計、日時計、印刷機まで、数
川良
具f
本的にはどのようなファッションだ
え あ げ れ ば キ リ が な い ほ ど で す ね。
っ た の で し ょ う か。
嘉村
キ セ ル も そ う で す し 、 鉛筆、 サイコ口、
それと日本の卑俗な歌がこの時代に姿を消
衣服類では高貴な武家の家族の衣服。
しているんです。
日本の貿易商人たちはラシャの羽織を着て、
川良
どうしてですか。
-蘭人会食之図
西洋人がどんな食事をしているのか、当時の
人 た ち は 好 奇 心 を そ そ っ た。
ブ タ の 丸 煮 や 鶏 の カ ラ 揚 げ 、 ナ イ フ ・フ ォ ー
ク ・ス プ ー ン な ど め ず ら し い も の ば か り で あ
っアこ。
.紙鳶放
春先の南風が吹きはじめる、これは外国船入
港の前触れである 。浮き立つような心は、出
島の蘭人も市内の長崎町人もまったく同じで
ある。そこで、出島と江戸町側から凧(はた)
合 戦 が勇 む 心 を さ ら に は ず ま せ た の である 。
(資料提供:~槻長崎文献社)
嘉村
キリスト教が入ってきたでしょう。讃
美歌の影響なんです。
特にシーボルトの医療と蘭学者の指導につ
いてはよく知られるところです。このシーボ
また、西洋式の造園が流行し、日本庭園と
ルトが偉いのは臨床医学だけでなく、鳴滝塾
十字架、西洋草花のアレンジメントが人気を
というものを開設して、社会医学への目を日
集めていました。
本の門人たちに聞かせたところにあると思い
日曜日が休日になったのも西洋文化の影響
ますね。
ですね。それまでは、日本には日曜日に休む
習慣はありませんでしたからね。
川良
そのように、ありとあらゆる方向から
出島に外国の文化が入ってきたわけですが、
川良
ということは、日本の生活習慣に相当
それがストレートに日本国中に広まるのでは
な影響を与えたわけですね。
なく、ワンクッションをおいて出ていった。
嘉村
たとえば医療の世界からも、まじない
こう考えますと、長崎の人たちが果たした役
呪術などがシャットアウトされて、古来の習
割というのは非常に大きかったといえます
慣が僅かずつですが崩れ始めています。
ね
。
川良
確かに医学の発展はめざましいものが
あったようですね。
幕 府 が 長 崎 の 出 島 を た だ 1ヵ 所 だ け 開 港 し
たのは、今となってはよかったんじゃないで
嘉 村 慶 安 2年 (
1
6
4
9
) 頃 か ら オ ラ ン ダ医 学
しょうか。
の 伝 来 が 本 格 化 し た わ け で す 。 そ の 後 も ケン
嘉 村 私 も そ う 思 い ま す。 日 本 の 国 際 化 の 源
ペ ル 、 シ ーボルトなど多くのお 医者さんが日
本を訪れ、日本の研究紹介とともに日本の学
界にも大きく貢献しています。
-女l性に人気のある“べつ甲細工"
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はだ〉のいろいろ
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荒がここにあるわけですからね。
情緒なんですね。私はこの異国情緒というの
川良
日本が仮に鎖国をしないで外国人を受
はやはり出島から入ってきたものだと思いま
け入れていたとすると、多分今ある文化はな
す。 もし出島がなかったら、長崎は異国情緒
か っ た で し ょ う ね。 ど の よ う な 違 っ た 文 化 が
のない単なる造船工場のある町に過ぎなかっ
形成されていたかはわかりませんが、出島を
た わ け で す。
通しである程度中和された形で、外国文化が入
出島があったということは、歴史上大変あ
って き た こ と が よ か った の か も し れ ま せ ん
りがたいことだったと私は思いますね。
ね。
川良
嘉村
私 は 長 崎 の フ ァ ン な ん で す 。 今日こう
して長崎、特に出島の歴史についていろいろ
そ う で す ね。 ただし、ちょ っ と付け加
えさせてください。
とお教えいただき、ますます長崎が好きにな
りました。本日はどうもありがとうございま
長崎は今、観光都市だといわれていますが
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こ。
その中心になるものはなにかというと、異国
.銅 掛 改 請 取 図
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日本の輸入品の代価は銅で支払われた。蘭人
の立ち会いで樟銅が天秤にかけられ、箱詰め
にして蘭船に積まれるのである。絵は、貿易
取り引きの風景である。
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-蘭 船
絵の枠からはみ出すメインマスト。当時の人
たちは、蘭船はマンモス船のように見えたそ
うである。また、船尾の豪華な飾りは世界の
海を圧倒するほどであったようである。
(資料提供:~楠長崎文献社)
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