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富士講 - 山梨県

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富士講 - 山梨県
富士講
信仰の大衆化 /富士吉田エリア
時代は古代から、中世、そして近世へ。
激しい噴火活動が収まってくると、まず富士山を目指したのは
山に籠って厳しい修行をする、山伏こと、「修験者」たちでした。
時を経て、富士山に登拝する一般の「道者」も増えはじめます。
この流れに火がつくのが、江戸時代。
庶民による富士山信仰、「富士講」の隆盛です。
富士山はより身近な存在として大衆にひらかれ
「講」を組むことで、誰もが富士山を目指せるようになりました。
麓の町には「御師町」という富士山信仰の一大聖地ができ
江戸から「富士みち」を旅してくる各講の道者で、大変にぎわいました。
16
富士講
誕 生
信仰の大衆化/富士吉田エリア
構成
資産
きゅう と がわ け じゅう たく
旧外川家住宅
江戸時代の富士講の歴史を
今に伝える
「御師の家」
荒ぶる山と美の源泉
表通りから奥まった「御師の家」へと通じる細
長い「タツミチ」が、神社の参道のようにも見え
る。これは古い 本御師の家 の特徴で、旧外川
家は250年の歴史をもつ。さらに中門をくぐる
る。往時には、富士山を目指し旅してきた道者
が、まずここで禊をした。
ここ上吉田の御師町には最盛期86軒の御師
の家が連なり、町の入口に立つ「金鳥居」から先は、すでに富士山の神聖な信仰世界とされていた。富士山の
信仰のめ ば え
と、玄関前に「ヤーナ川」
という小川が流れてい
遥 拝
麓の聖地がどのように機能していたか、その御師の歴史と、当時の富士山信仰の豊かな世界観を旧外川家は
今に伝えている。
江戸時代に庶民の間で爆発的に広まった「富士講」の隆盛の影には、
「御師」の発展存在が大きかったとい
う。御師の家は一般の住宅でありながら、富士山の登拝シーズンには、富士講の道者(登拝者)のための宿坊
富士講
として、食事・祈祷・案内など一切の世話をした。またオフシーズンには布教にも出向き、富士講の富士山信仰
信仰の大衆化
を支えていた。
もうひとつ、御師の家の最も大きな特徴として、
「神前の間」がある。
ここに神殿が置かれ、富士山の神様が祀られている。さらに外川家で
は、富士山信仰を庶民に浸透させた「食行身禄」の像が並んでいる。身
禄は、商人でありながら信仰を深め、正直さや慈悲、勤労、和合といっ
た日々の心がけが幸福と世直しに通じると説き、庶民による富士講の
中興の祖として敬われることになった。
古代には畏怖の対象であった富士山は、人々に身近な祈りのシンボ
ルへ。歴史ある御師の家には、平安で平等な世を富士山に託した庶民
の想いがつまっている。
巡 拝
神前の間
水の霊場巡り
大塚丘
北口本宮
冨士浅間神社
西念寺
吉祥寺
根神社
御師堀端屋
御師大弊司
御師大雁丸
御師大国屋
御師中雁丸
御師
旧外川家住宅
御師大注連
身禄堂
御師毘沙門屋
御師上文司
小御嶽神社
世界遺産
インフォメーション 社務所
センター
上吉田
コミュニニティセンター
御師
浅間坊
富士山駅
登 拝
金鳥居公園
「御師町」のなかでも「吉田口」は江戸時代に最
も多くの登拝者を集め、北口と呼ばれ親しまれ
鳥居は俗界と神域の境界を示すもので、吉田
の御師町の入口にたつ金鳥居は、一ノ鳥居 と
も呼ばれ、ここから先、富士山頂まで幾つも設
ていた。上吉田の町の中心にある金鳥居から、
けられている鳥居の一番目にあたる。同時にこ
富士山に向かって真っすぐ伸びる町並みには、
こは、江戸方面から富士山を目指す道者たちが
400年以上も昔に整然と 敷き割り された町の
遠路はるばる旅してきた「富士みち」の終着点。
形状の跡がそのまま残されている。
いよいよ、ここより神聖な富士山の信仰世界。
山頂へ至る道
富士山の各登山口に形成されていた宿坊街
金鳥居
御師まち
富士吉田観光案内所
17
富士講
信仰の大衆化 /富士吉田エリア
富士山北口の中心に
位置する荘厳な古社
大塚丘
構成
資産
きた ぐち ほん ぐう
ふ
じ
せん げん じん じゃ
北口本宮冨士浅間神社
神社の起源は、日本武尊が東征のおり、今の神社から少し登った「大塚丘」で
西暦110年日本武尊が東征の折に立ち寄り、
「北
方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より
拝すべし」と言葉を残したと伝わる。北口本宮冨
士浅間神社の発祥の地として、現在は日本武尊
が祀られ、パワースポットとしても人気がある。
霊峰富士を遥拝したことから、ここに浅間大神を祀ったこととされ、およそ
1,900年の歴史があるといわれる。
富士山の度重なる噴火の中、781年の大噴火をうけ、788年に現在の地に、
浅間大神を遷座し社殿を建立と伝えられる。その後の武田信玄をはじめ時代
の権力者による造営が重ねられ、近世以降には、富士講により大造営が行われ
現在の姿に至っている。
富士の遥拝所を示す、木造日本一の冨士山大鳥居、荘厳な建築の随神門や
神楽殿、つづいて樹齢千年の御神木を両脇に配した拝殿が構え、その奥に国
指定重要文化財の本殿が鎮座している。さらに、本殿の両脇には現存最古の東
登山門
宮本殿(武田信玄造営)と西宮本殿、背後には富士を迎える恵毘寿神社がある。 本殿に向かって右手奥にある鳥居が、吉田口登
山道の起点である「登山門」だ。富士山の歴史
杉桧の幽玄な杜にのびる参道の中ほどには、富士講の開祖とされる角行が ある登山道のなかで今も唯一、麓から登ることが
富士を遥拝しながら荒行をした「立行石」があり、登山門付近に並ぶ石碑など、 できる。富士山の御山開きの前日には古式ゆか
しい「御道開き」の神事が執り行われている。
境内を巡れば北麓に栄えた富士信仰の豊かさをしのぶことができる。
コラ
コラム
6
「富士みち」一世一代の巡礼の旅を人々は楽しんだ
「富士みち」は、
その名のとおり富士山に通じる道。富士講の道者が江戸方面からはる
ばる富士山を目指した巡礼の道。江戸の日本橋を起点に甲州道中を大月で分岐、谷村や
現在の西桂町などを通り、吉田の町の金鳥居へと通じていた。江戸八百八講といわれた
各富士講は、数人から数十人の構成員が積み立てをしあって、毎年の代参者をクジや順
番で決めていたという。選ばれれば一世一代の旅で、
その旅は多
分に遊行的な要素もあったらしい。日本橋からなら片道3∼4日。
とっておきの酒をヒョウタンに仕込んだり、道中の風景や旅人同士
の出会いなど、富士山への道のりをたっぷりと満喫していた。
冨士みちに残る石標
富士みちは、現在の国道139号線にほぼ重なっていて、辿って
みれば、路傍に往時の古い道標や素朴な石仏を発見もできる。途
中の「明見(あすみ)」は、 飾北斎の「冨嶽百景」に「阿須見村の不二」
として描かれる地
で、富士講の時代に「内八海巡り」が行われた「明見湖」
もある。今は池一面に広がる美し
いハスの花の名所になっている。
18
冨岳百景「阿須見村の不二」
富士講
信仰の大衆化/ちょっと足をのばして 静岡県富士宮市・須山市・御殿場市・小山町
構成
資産
むら やま せん げん じん じゃ
村山浅間神社と
大宮•村山口(富士宮口)登山道
おお みや
むら やま ぐち
ふ じ みやぐち
と
ざん どう
構成
資産
ふ じ せん げん じん じゃ
須山浅間神社と
須山口(御殿場口)登山道
す やま ぐち と ざん どう
ご てん ば ぐち
神社の創建は神代の時代に遡るとされる。
宝永大噴火(1797年)により社殿と登山道
は甚大な被害を受けた。後に再建復旧され
南口登山道として栄えたが、御殿場口登山
道の開通により衰退。現在は登山歩道として
整備されている。
富士講
すばしりせんげんじんじゃ
冨士浅間神社(須走浅間神社)と
須走口登山道
す ばしりぐち と ざん どう
巡 拝
冨士浅間神社
じき ぎょう み ろく
食行身禄と庶民信仰
恐ろしい噴火が鎮まってきた中世、富士山は他の日本の霊山と同じく、山中で山
伏が厳しい修行をする、修験道の山になった。この時代には、南麓の大宮・村山口を
拠点として、
日本古来の山岳信仰と仏教が習合する「富士修験」が確立されてい
た。それは主に仏教者や修験者による厳かで深淵な富士山信仰であった。14世紀
のずと世直しが実現されると、誰にもわかりやすい富士山信仰を説いた。
また当時の政治体制に反抗し、
“ 乞食
身禄”
と称されるほど質素な暮らしを貫きながら布教を続け、ついには富士山中での断食の末に入定。身禄の
思想と実践は庶民の心をつかみ、今度は北麓を中心とした富士講の爆発的なブームが到来することとなった。
登 拝
山頂へ至る道
頃から、極楽への往生を願い、多くの一般の人々も登拝を行ったが、
これを、
もっと庶
民にも身近な信仰へと変えたのが戦国時代末期に登場した行者「 長谷川角行 」
だった。角行は富士山麓の人穴で苦行を積み、富士山の神による法力を得て、現世
木造身禄像
での救いを求める庶民に応えたという。こうして富士山信仰は大衆化され、江戸時代
の「富士講」へと導かれていく。さらに江戸時代、角行の教えを継承する
「食行身禄」が登場。身禄は角行のよ
うな法力ではなく、正直、慈悲、勤勉といった各自の日々の行いが、富士の神に届き、人は
“生まれ増し”
、
またお
水の霊場巡り
7
村山浅間神社
やま せん げん じん じゃ
延暦の大噴火(802年)の際に須走の地
に斎場を設け祈願したところ噴火が収まり、
跡地に神社が建立されたと伝わる。須走口
登山道は東口登山道として栄え、八合目で吉
田口登山道と合流した。現在は五合目から
山頂までが構成資産。
コラ
コラム
信仰の大衆化
須山浅間神社
す
遥 拝
信仰のめ ば え
最も古い歴史がある「大宮・村山口登山
道」は、表口登山道ともよばれた。
「村山浅
間神社(興法寺)」は、中世に始まった富士
山修験道の拠点となり、山伏が入山する前
に身を清めた水垢離場や護摩壇などが残さ
れている。宝永火山にも近い登山道。
構成
資産
荒ぶる山と美の源泉
誕 生
19
富士講
富士吉田周辺エリアマップ
河口湖オルゴールの森美術館
古賀政男記念館公園
(音楽碑)
長崎公園
河口湖美術館
うの島
富
士
見
孝
徳
公
園
八木崎公園 文学の碑群
芭蕉句碑
シッコゴ公園
田中冬二詩碑
産屋ヶ崎
河口湖北原ミュージアム
大池公園
谷崎潤一郎文学碑
湖畔遊歩道
小海公園
新
倉
山
浅
間
公
園
山梨宝石博物館
富士勝山スズ竹
伝統工芸センター
天上山富士見台
羽根子山
天神社
道の駅かつやま
河口湖
新倉堀抜史跡館
富士河口湖町役場
富士河口湖観光総合案内所
よ
し
い
け
お
ん
せ
ん
ま
え
急行
士
中
央
天神峠
霜山
河口湖
線
構成
資産
富
冨士御室 構資 成産
浅間神社
動
自
車
道
西桂町
き
ぶ
こと
倉見山
葭之池温泉
向原峠
堂尾山公園
しだ
しもよ
かわぐちこ
げっ
こう
じ
小室浅間神社
河口湖IC ふじ
富士山世界遺産センター
明見湖
金鳥居
きゅ
うハ
イラ
ンド
富士吉田
市役所
富士急ハイランド
富士吉田市
ふじさん
金鳥居インフォメーションセンター
富士吉田市観光案内所
富士吉田IC
富士河口湖町
山 梨 県
構成
資産
御師まち
富士北麓駐車場観光案内所
北口本宮冨士浅間神社
大塚丘
河口湖フィールドセンター
南 都 留 郡
鳴沢村
構成
資産
小佐野家住宅(非公開) 鳥居地峠
新屋山神社
構成
資産
泉端
浅間神社
忍野村役場
ふじさんミュージアム
富
士
散
策
公
園
構成
北口本宮冨士浅間神社
資 産 吉田胎内樹型
鉄道■富士急行線富士山駅より富士急バス乗車。
「浅間神社前」バス
停で下車。所要時間約7分。
中ノ茶屋
車■中央自動車道河口湖IC/東富士五湖道富士吉田ICより約5分。
民俗資料館
東海
忍野温泉
富
士
見
公
園
四季の杜・おしの公園
小池邦夫絵手紙美術館
自然歩道
柳原公園
梨ヶ原噴火口列
道の駅富士吉田(リフレふじよしだエリア)
ふじやまビール館
「PLATZ」
富士山レーダードーム館
富士山アリーナ
山中湖IC
紅冨士の湯
富士講集うまち(おし街さんぽ)
まず最初に富士山信仰の中心地は、富士山本宮浅間大社と富士修験の拠点となった大宮・村山口のある
南麓にあった。中世から近世にかけて各登山口に御師町が形成され勢力を競っていた時代もあり、
それが、江
戸時代に隆盛した「富士講」の中興の祖とされる
「食行身禄」が修行の本道を吉田口としたため、富士信仰の
中心地は北口へと移ることになった。江戸時代に江戸八百八講と謳われるほどに拡大した各講社が、富士み
ちを通って吉田の御師まちへと集まった。最盛期に86軒もの御師の家が連なり、庶民による富士山信仰の一
大聖地が形成された。
それが今の富士吉田市の上吉田の街。富士吉田は富士山のすそ野の
溶岩台地の上に形成された街で、街のどこからでも大きな富士山が正面に
望める。現在も登山道のなかで唯一、麓から山頂を目指せる
「吉田口登山
道」の起点にもなっている。また伝統の「吉田の火祭り」では、富士山の北
口に今も変わらず根づく信仰のエネルギーを感じることができる。
そんな富士講の歴史文化が色濃く残る上吉田の御師まちを案内する
「おし街さんぽ」
ガイドツアーがある。
「世界遺産ガイドマスター」の案内によ
り、御師の家や北口本宮冨士浅間神社などの構成資産を巡る。
「世界遺
産 金鳥居インフォメーションセンター」にて受付ている。
20
ハリモミ純林
花の都公園
清流の里
フローラルドームふらら
一合目
8
承天寺
さかな公園
富士湧水の里水族館
「森の中の水族館」
森の学習館
芝生公園
岡田紅陽写真美術館
雁ノ穴
旧外川家住宅
鉄道■富士急行線富士山駅から徒歩。所要約8分。
車■中央自動車道河口湖IC/東富士五湖道富士吉田ICより約5分。
コラ
コラム
忍野村民
ふれあいホール
農村公園
東富
士
五
湖
道
路
富士北麓公園
高座山
忍野村
忍野八海
小倉山
恩賜林庭園・恩賜林憩いの家
各構成資産へのアクセス
旧外川家住宅
鐘
山
温
泉
諏訪の森自然公園
(富士パインズパーク)
船津胎内樹型 構資 成産
構成
資産
北口本宮冨士浅間神社 参道
Fly UP