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ただ十字架のキリストを - church.ne.jp

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ただ十字架のキリストを - church.ne.jp
2014/7/20
門戸聖書教会 礼拝説教
コリント人への手紙第一 講 解 5
Ⅰコリント 2:1-5
ただ十字架のキリストを
1.教えること、伝えることの難しさ
何 かを教 えるということ、何 かを伝 えるということ、それはなかなか難 しいことです。単 なる知 識 であ
ればともかく、それが「信仰」という目に見 えないものであれば、なおさらのことです。
最 後 の宮 大 工 と言 われ、法 隆 寺 の再 建 を果 たした西 岡 常 一 さんという名 棟 梁 がおられました。こ
の方は、弟 子に何かを教えるのでも、一 切、手取り足取 り教 えるということをなさらなかったそうです 。
今ではあまり用いられない槍鉋(やりがんな)の使い方ひとつにしても、ただ、自分の削った鉋屑を目
の前 に持ってきて、「これが鉋屑 っちゅうもんや」と見せるだけ。弟 子がそれを手にとると、それはまる
で薄 く透 明 なセロハン紙 のように、どこにもムラがなくて、向 こうが透 けて見 える。(こんな鉋 屑 が出る
ように削 りなさい)ということなのでしょうね。暗 記 すればすむ試 験 用 の知 識 とは違 って、匠 の技 です
からね。こうしなさいとか、ああしなさいとか、口で教えたとしても、結局のところ、本人 が自分で考 え、
実際にやってみて、失敗しながら学んでいくしかない。自分の身体で体得してゆく他はない。芸を身
に着 けるには、「教 えてもらおうと思 うな。師 匠 の技 を盗 め」とよく言 われますが、そういう心 構 えでな
ければならないのでしょう。
信 仰について教 える、伝 えるということは、これは、さらに難しい面があるわけです。「これが信 仰っ
ちゅうもんや」と見 せることのできる鉋 屑 があるわけではない。見 えない心や魂 の事 柄 について、どう
したら伝 えられるのだろう。どうすれば、本 当に、イエス・キリストを信じる信 仰をお伝 えできるのだろう。
一人の伝道者として、しみじみと思わされることです。
2.すぐれたことば、すぐれた知恵を用いず
さて、今日お読みいただいたⅠコリント 2 章の最初のところは、使徒パウロがコリントのクリスチャン
たちに、自 分 がどのような心 構 えでイエス・キリストのことを伝 えたのか、なぜそうしたのかを語 ってい
るところです。
コリントはギリシャの東 西交 通の要 衝に位置し、交易で栄えた貿 易 都市でした。同時 に、愛と豊穣
の女神アフロディテの神殿には千人以上 の神殿娼婦がおり、偶像と性的な頽廃に満ちた街でもあり
ました。パウロは、知的でありながらも、道徳的に歪んだこのコリントの街に 1 年半腰を落ち着けて伝
道し、できたのがコリント教会でした。しかし、そのコリント教 会が 争いと様々な問 題 で分裂しそうにな
っている。空 中 分解しそうになっている。そんな彼らに、もう一 度、信 仰の何なるか、神の愛の何たる
かを伝えているのが、この『コリント人への手紙 第 1』であるのです。
1
ここでパウロはコリントのクリスチャンたちに、このように呼びかけております。
Ⅰコリント 2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれ
た知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
ここに「神のあかし」という言葉が出てまいります。この「あかし(マルテュリオン)」という言葉は、下の
脚注にもありますが、写 本によっては「ミュステリオン(奥義)」となっていたりもします。いずれにせよ、
神 様 のお心 深 くに私たちに伝 えたいことがあるということですね。神 様 が、どうしても私 たちにこれだ
けは伝えたいと、思っていらっしゃることがあるというわけです。
その「神のあかし」「神の奥義」を、パウロは伝えられたわけですね。神様の胸のうちにある私たちへ
の燃 えるような熱 い思 い、何 としても私 たちを救 いたいという願 いを知 らされたわけです。パウロは、
その「神のあかし」を伝えに海 越え山 越 え、はるばるギリシャのコリントまでやってきた。さあ、どう伝 え
よう、どのように伝えたら、この神様の愛を伝えることができるのかと、はたと考えたわけです。
ひとつの可 能 性、それは「すぐれたことば、すぐれた知 恵を用 いて」 伝えるということです。これはど
ういうことかというと、やはりコリントはギリシャの都 市なのですね。ギリシャと言えば、何といっても雄弁
術です。教養あるギリシャ人は雄 弁 術の訓練 をいたしました。ちゃんと様 式や形 式 を踏まえて、哲学
者の文章を散りばめた独特の雄弁術を習 ったのです。
パウロという人 は、ユダヤ人でありましたが、大 変な教 養の持ち主で、このギリシャ風 の雄 弁 術にも
通 じていた。ギリシャ人 が喜 ぶような、「すぐれたことば、すぐれた知 恵 」を用 いて話 すこともできたの
です。そして、実際にギリシャ文 化 の中 心 地アテネでは、多 少そういう試みもしてみた。アレオパゴス
の丘で、哲学者や議員たちを相手に、堂々とした演説を行ったのです。
しかし、それはあまり成 功しなかった。 彼 らは肝 心なイエス・キリストの復 活 の話 を聞 くと、「ある者た
ちはあざ笑 い、ほかの者 たちは、『このことについては、またいつか聞 くことにしよう』と言 った」(使 徒
17:32)のでした。
聖書には、あらゆる時代の哲学・宗教を凌駕する、素晴らしい教えや道徳が記されています。人生
を生きていく上での、実 際 的な知 恵 にも満ちています。イエス様 のなさったこと、その言 葉や業や人
格、それも素 晴らしいものです。そうした教 えの数々を、「すぐれたことば、すぐれた知 恵」で伝えるこ
とも素晴 らしいことかもしれない。ギリシャ人には喜ばれるかもしれない。しかし、それで本当に、神様
の胸のうちにある深いお心 を伝えたことになるのか。「神の奥義」「神のあかし」を宣 べ伝えたことにな
るのだろうか。いったい何を、どのように伝 えれば、神様の心を心として伝えたことになるのか?
パウロはアテネから、コリントに来た時に、一つの決心をするのです。
「もう、私は、すぐれたことば、すぐれた知 恵 を用 いて、神のあかし を宣べ伝 えることはするまい。人
間の知恵に訴えることはするまい」
そのようなやり方では、本当に、この神様 のことを伝えることはできない。ひとつここは腹を括ろう。
Ⅰコリント 2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方
のほかは、何も知らないことに決心したからです。
2
私はただイエス・キリストの十字 架のみを宣べ伝える。そのことに徹する。もはやキリストの十字 架以
外のことは「何 も知らない」者として、ただただひたすらに、この十 字 架を語る。パウロはそのように決
心するのです。
3.なぜそこまで「十字架」なのか
何でパウロはそこまで「十字架、十字架」と言うのでしょうか?
それは、神 様 について神 学 の論 文 が書 けるほどの知 識 があったとしても、 十 字 架 が分 からなけれ
ば、神様のことが全 く分かっていないことになるからです。反対に、神様についてほとんど何も知って
いなくても、この十字 架に現された神の愛 を受け入れるならば、それは神について一番大 切なことを
理解していると言ってよいからです。
ルカの福音書 15 章に、有名な「放蕩息 子のたとえ」というたとえ話が出てきます。
ある大 農 園を経 営 していた人に息 子 が二 人 いた。この弟 息 子 が、まだ生きている父 親 に、財 産の
半 分 を分 けてくれと願 い出 て、それをもらうや、さっさと遠 い国 に旅 立 っていった。そして、そこで放
蕩 三 昧の限 りを尽 くし、あっと言 う間に財 産を使 い果たしてしまった。折悪しく、飢 饉が来た。この息
子は食うや食わずで、豚の餌をして何とか飢えをしのいでいた。しかし、我に返り、そうだ父の所に帰
ろう。あそこにはパンの有り余っている雇人も大ぜいいる。その雇人の一人にしてもらおうと言った。
郷 里 の近 くまで帰 ってきた息 子 が見たのは、村 はずれに立っていた父 の姿だった。父 親 はこの息
子を見るや、「走り寄って彼を抱き、口づけし」、こう言った。
ルカ 15:22‐24 「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪
を填 めさせ、足 にくつをはかせなさい。そして肥 えた子 牛 を引 いて来 てほふりなさい。食 べて祝 おう
ではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」
私は、もう何度 このたとえ話を読み、みなさんにもお話ししたかしれませんが、この話を読むたびに
思 うのです。この息 子 は、父 のことをどれだけ理 解 していたのだろうかと。もちろん、親 子 で、同 じ屋
根の下に住んでいたわけですから、父のことをある程度分かっていたでしょう。名前 も知 っていれば、
父の好みや、癖なども知っていたでしょう。きっと、遊び好きな息 子 の目から見れば、真 面目 一 本 や
りで融通の利かないケチな親父だくらいに映っていたのではないでしょうか。
しかし、この息 子 は父 親 のすぐそばに生 きていながら、肝 心 なことが分 かっていなかった。 この父
がどれだけ自 分 のことを愛 していてくれていたのか。どれほど自 分 のことを大 事 に思 っていてくれて
いたのか。その父の愛 を踏みにじり、遠 い国 に旅 立って、全てを失 い、ぼろぼろになって帰 ってきて
初めてその愛が分かった。まだ家までは遠いのに毎 日村 はずれで自分の帰りを待 ってくれていた父。
罪 以 外 に何 もない自 分 に向 かって走 り寄 ってくれた父。汚 い浮 浪 者 同 然 の自 分 を抱 きしめて喜 び
の涙にくれた父。そういう父を初めて知った。この弟息子は、父を初めて理解したのです。
このイエス様のたとえ話に出てくる父 親とは、もちろん神 様 のことを指しておりますし、息 子は私 た
ち人 間のことです。私たち人 間は、神 様 の近くにいながら、神を無 視し、自 分の自 己 中 心 的な思 い
の中で生きている。自分中心だから、神様のことが分からないのです。神様を信じていると言っても
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それは、自分が作り出した神のイメージであったりするのです。
パウロはイエス様 を信じる前、熱 心 なユダヤ教 徒でしたから、もちろん神を信 じていました。礼 拝 も
祈 りも欠 かさず、旧 約 聖 書 の律 法 を熱 心 に守っていました。でも、パウロの神 様 のイメージは、律 法
を守 りぬいた者 だけを天 国 に入 れてくれる厳 格 な試 験 監 督 のような神 でした。それ以 外 に考 えられ
なかったのです。ですから、「信じるだけで救 われる」などという目 障 りなキリスト教 徒 を迫 害し、老 若
男 女 を問 わず、みな牢 屋 にぶち込 みました。しかし、そんな彼 が迫 害 へと急 ぐダマスコへの道 で復
活のイエス様と出会ったのです。
パウロは、あの「放蕩息子」のように、自分が全く神のことを知らなかったことを知りました。自分がど
れほど神様を誤 解していたのか。神は恐 ろしい試験 監 督のような神ではなかった。それどころか、罪
人に駆け寄る神。罪人のために命を捨てる神。そのひとり子を十字架にかけてまでも、私たちを救お
うとしてくださる神であった。パウロは十字 架が分かった。十字架がわかって、初めて神がわかった。
4.弱さと恐れの中で
この十 字 架にご自 身を現 された神の愛 を、パウロは何としても伝 えなければと思 った。それ以 外の
ことは後回しにしても、神の愛の本質が、最も露わになったところ、十字架のキリストを伝えることに徹
したのです。
それは実に単 純で、シンプルなメッセージです。修辞 法をこらした演説とか、深 淵 な哲学の議論で
伝えるべきものではないのですね。伝わらないんです。そんなやり方では。
パウロは自分がコリントにいた時の様子をこう語っていますね。
Ⅰコリント 2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
パウロは弱 さを覚 えていました。恐 れていました。そして、「おののく」と訳 されているこの言 葉 は、
「震えていた」という意 味の言 葉です。パウロは震 えていたのです。後に「肉 体 に一 つのとげ」を与え
らえたという、その病 気 が既 に始 まっていたのかもしれません。コリントでも、激しい迫 害 がありました
から、精神的に追い詰められた状態であったのかもしれません。パウロは、「もう止めた!」と、コリント
を去ろうともしていたのですね。しかし、イエス様が幻のうちにパウロにこう語られ、励まされたのです。
使徒 18:9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
18:10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲 って、危 害を加 える者 はない。この町 に
は、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。
18:11 そこでパウロは、一年半ここに腰 を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。
弱さの中で、恐れの中で、震 えながら、語る。自分 の弱 さも率 直に、ありのまま示 して語る。全然立
派な自分でなくてもよい。どもりながらでも、どんなにたどたどしくてもよい。イエス様はこんな私のため
に十字 架にかかってくださったのだ。そこまで私を愛してくださったのだ。これほどまでに、私のことを
愛し、救い、慈しんでくださる神がおられる。真の神 は、こんな方なのですよ!ただ、 自分に注 がれ、
溢れる神の愛を、その愛される喜びそのままに、示す。自分の立派な証しを立てようようというのでは
なくて、「神の証し」をする。ただ十字架のキリストを伝える。
4
5.ただ十字架のキリストを
先月から、門戸 聖 書 教会でも正 田眞 次 先生 が講 師をしてくだり三 浦綾 子 読 書会 がスタートいたし
ました。土曜日ということもあって、私は、出席 しないで牧師室で仕事をさせていただいていたのです
が、正田先生のお声が十分大きいため、ほとんどの内容を聞くことができました。
その中で、春 光台というところに、三 浦 綾 子さんの自 伝 的 小説『道ありき』の文 学 碑が立ったという
お話をしておられました。そこはどういう場 所 かというと、三 浦 綾 子 さんに前 川 正 さんという幼 馴 染 が
キリストを伝えた場所なのです。 1
戦前、小 学 生の代 用 教 員として子どもたちに「お国のために死ぬ」ことを教 えた自分 が赦せず、三
浦綾子 さんは、戦後、虚 無の深みに陥り、結核を病み、投げやりな療養生 活をしていたのでした。し
かし、クリスチャンであった前 川 正 さんは、そんな綾 子 さんが何 とか 立 ち直るように、お見 舞 いし、励
まし、キリストを伝えていたのです。
その日も、旭 川 を見 下 ろす春 光 台 の丘 で、「死」をほのめかす綾 子 さんに対 して、前 川 さんは「綾
ちゃんおねがいだから、もっとまじめに生きてください」と願うのです。
しかし、それに対して綾子さんはこう言葉を投げ返すのですね。
「正 さん、またお説 教なの。まじめっていったいどんなことなの?何 のためにまじめに生きなければ
ならないの。戦 争 中、わたしは馬 鹿みたいに大まじめに生きて来たわ。まじめに生きたその結果はど
うだったの。もしまじめに生きなければ、わたしはもっと気楽に敗戦を迎えることができたはずだわ。生
徒たちにすまないと思わないですんだはずだわ。正 さん、まじめに生きてわたしはただ傷ついただけ
じゃないの」
その言 葉 を聞 いて、前 川 正 さんの声 がとぎれた。大 粒 の涙 が頬を伝 ってこぼれた。しかし、そんな
彼を横目に綾子さんはタバコに火をつけるのです。
すると突 然、前川 さんは、「綾ちゃん!だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」そう叫ぶ
と、近くにあった石を拾い上げ、自分の足を激しく打ち付けた。
「綾ちゃん。ぼくはいままで、綾ちゃんが元気で生き続 けてくれるように、どんなに激しく祈って来た
かわかりませんよ。(そのためになら)自分 の命もいらないと思ったほどです。けれども信仰のうすいぼ
くには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから不甲斐ない自分を罰するために、
こうして自分を打ちつけているのです」
いつの間 にか綾 子 さんも泣 いていました。「久 しぶりに流す人 間 らしい涙」でした。その時、 綾 子 さ
んは自 分を大きな愛が貫 くのを感じた。それは単なる男 女の愛 ではなかった。もっと大きなひたすら
に生かす愛であった。
「自分を責めて、自分の身に石を打つ姿の背 後に、わたしはかつて知らなかった光を見たような気
がした。彼の背 後 にある不 思 議な光 は何 だろうと、わたしは思 った。それは、あるいはキリスト教では
ないか・・・わたしを女としてではなく、人 間として、人 格として愛してくれたこの人 の信じるキリストを、
1
『道 ありき』(三 浦 綾 子 著 、新 潮 文 庫 p64)参 考
5
わたしはわたしなりに尋 ね求めたいと思 った。・・・丘の上で、吾とわが身を打ち付 けた前 川 正の、わ
たしへの愛だけは、信じなければならないと思った。もし信じることができなければ、それは、わたしと
いう人間の、ほんとうの終わりのような気がしたのである。」
Ⅰコリント 2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたもの
ではなく、御霊と御力の現れでした。
パウロはそう言いました。私が伝えたことば、私が語ったこと、それは頭で考えたことではない。 人間
の知恵が生み出したものではない。聖霊 からくる留めることのできない愛の力、何としてもこの人を救
いたいという神 の、やむにやまれぬ愛 の力 に押 し出 されてのことであったのですとパウロは証 しする
のです。
2:5 それは、あなたがたの持 つ信 仰 が、人 間 の知 恵 にささえられず、神 の力 にささえられるためで
した。
このみことばは、直 訳 すると、「あなたがたの信 仰 が人 間 の知 恵 の中 にではなく、神 の力 の中 にあ
るためでした」となります。頭でしっかり信 仰を理 解するのも大 切です。しかし、信仰 は人 間の知恵か
ら出てくるものではない。単なる知的な納 得ではない。十字 架の愛 に貫かれること。私を愛し、赦し、
罪と死と滅びから救い出すために、十字架におかかりくださったイエス・キリストの愛に砕かれることで
す。この十字 架に生 かされる信 仰は、大 いなる神の愛の力、愛の御 手の中にある。人間の力 にでは
なく、神 の力 によって支 えられる。あなたがたの信 仰が、そういう信仰 になるようにと、パウロはただひ
たすら十字架のキリストを伝えたのです。
私もそうしたいと思います。どうぞこの十字架のキリストを受け入れてください。
祈ります。
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