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人生の真価 - church.ne.jp
2014/9/21 門戸聖書教会 礼拝説教 コリント人への手紙第一 講 解 8 Ⅰコリント 3:10-15 人生の真価 1.後に残る仕事、生き方 少し前 に、何 気なくテレビを見ておりましたら、少し爽 やかな気 持ちにさせられるドキュメンタリーを やっておりました。それは、社 会の色々なところで頑 張っている人 を取 り上げて応援 しようという番 組 だったのですが、その時 は、「土 木 女 子 」の奮 闘 記 という感 じで、 大 規 模 な高 速 道 路 工 事 の現 場 と いう過酷な世界に飛び込んだ、弱冠 25 歳のうら若き女性現場監督さんの奮闘ぶりが取り上げてお りました。 1 現 場 監督というのは、実 に大 変な仕 事 ですね。測 量 士 や鉄 筋 工 や左 官といった色々な専 門の職 人さんたちを束ねて、工期どおりに仕事を進めなければならない。専門 知 識が必 要 なことはもちろん、 人 間 的 にもタフでなければ務 まりません。現 場 に女 性 は彼 女 一 人 。荒 くれ男たちに「ねえちゃん」と 呼ばれながら、一筋縄ではいかない叩き上げの職人さんたちに指示を出しておられました。 どうしてこんな世界に飛び込んだんですかという質問に、彼女はこう答えておられました。 「土木って、もつものは 100 年もつし、長い間、自分が造ったものが残るのっていいなって思って」 その言 葉 が心 に残って、何 か心 探 られるように思 いました。「ああ、 自 分 の仕 事 は何 かあとに残 る ようなものなのだろうか。自 分 は何 かを後 世 に残 すような、さらに言 えば、永 遠 につながるような生き 方をしているだろうか?」-そう思わされたのです。 今日 お読 みいただいた箇 所で、パウロが私たちにしている問いかけもそういうことですね。 ここでパ ウロが問いかけているのは、私たちの働きの真 価、人 生の真 価です。あなたの人生 、あなたの働き、 そして何 よりあなた自 身 は、本 当 に神 様 のさばきに耐 えうるものになっているのか?と いうことです。 聖い神様、永遠の神様、愛と義の神様の前に、私たちの生き方はどのように見えているのか? 今日は、私たちの人生の真価についてごいっしょに考えてまいりたいと思います。 2.人生の土台 今日、読んでいただいた『コリント人への第一の手紙』で、使徒パウロは、コリントの教会、コリントの クリスチャンたちを、前回学んだ 6-8 節のところでは「畑」に植えられた植物に例 え、今日のところで は、ひとつの「建物」に例えております。 Ⅰコリント 3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。 1 NHK 「応 援 ドキュメント-明 日はどっちだ」より 1 パウロはコリント教 会 の創 立 者 でした。初 代 の宣 教 師 、牧 師 だったのです。いわば教 会 の基 礎 工 事 、土 台 を据 える係 ですね。パウロの後 にもアポロで すとか、色 々な働 き人 がコリントの教 会 にはや ってきました。そういう働き人 に対してパウロが一 言物 申しているのが、今日の箇 所 であるわけです。 しかし、それはただ働 き人 に対しての言 葉 であるだけではなくて、やはり、 私たち全てのクリスチャン への忠 告ととらえてよいでしょう。私たちの生き方そのものへの問 いかけとして読んで差 支えないこと だと思います。 パウロが最 初に問 いかけていること。それは、私 たちの人 生の土 台です。私たちそれぞれが、何 を 人生 の土 台にしているか。クリスチャンの集まりである教 会が、何を本当 の土 台にしているのかという ことです。 Ⅰコリント 3:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建 築家 のように、土 台を据えました。そし て、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注 意 しなければなりません。 建 築 物 を見 る時 、ついつい目 が行 くのは、当 たり前 のことかもしれませんが、地 面 より上 の建 物 の 部分です。それがどれほど立派であるかというところに、つい私たちは目を奪われます。しかし、建築 で本当に大 切なのは、土 台の部 分なのですね。建物の基 礎がどれくらいしっかりしたものであるかと いうことです。 午後の信 徒集 会でもご報 告いたしますが、7 月に尼 崎 福音 教 会の献堂 式に出 席させていただき ました。そこで会堂建築の過 程の説明がなされたのですが、ひとつのことをとても強調しておられまし た。それは、基礎工事をしっかりなさったということでした。 古い会堂を取り壊して、さあ、これからという矢先、その辺りが非常にゆるい地盤だということが分か った。このままではせっかく美しい会 堂を建てても、すぐに地 盤 沈 下してしまう。そこで、当初 予 定 に なかった地盤の強化工事をされたのだそうです。地面に深く穴を空けて、50 か所にコンクリートを流 し込む工事をされた。50 本のコンクリートの杭を打ち込んだ格好になるわけですね。その杭をコンク リートの根っこのようにして会堂をその上に建てられたのです。 私たちの人 生の地 盤 は、意 外と脆 いことがある。試 練 にあって初 めて、自 分 がどれほど脆 く、儚 い ものを信 頼し、そこに依って立っていたのかが分 かる。お金 や地 位や名 誉などとことさらいうまでもあ りませんが、家族とか、仕事とか、健康とか、ごく普通に生きることの前提が、どれほど普通ではなく、 大きな恵みであったか、私 たちはそれを失 って初 めて気 づかされるということがある。人 生 の土 台 に 一 撃 を食 らって初 めて、私たちは自 分 が何 を信じているのかを問 われるわけです。「本 当 に自 分 は 信じるに足るものを信じているのか」「自分は、自分の人生を何の上に築きあげているのか」 パウロはここで言うのです。 Ⅰコリント 3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることは できないからです。その土台とはイエス・キリストです。 本当 に信 頼できるもの、本 当に信じるに足る人生 の土 台。それは、神ご自 身と、神が遣 わされた、 御子イエス・キリストだけであると。 2 目 に見 えるもの-それは一 見 確 かなように思 うけれども、それらはやがて朽 ちてなくなってしまうも のです。人は変わり、会社もつぶれ、国もやがて亡びる。それらは永遠のものではない。 しかし、永 遠のものがある。イエス・キリストの十字 架に現 された神の愛! パウロはコリントで、ただ ひたすら、このイエス・キリストの十 字 架のことを伝 えました。愚 直なほどに、十 字 架 につけられたキリ ストを伝 えることに徹 したのです。それは、十 字 架 のキリストにこそ、神 の真の愛 が啓 示 され、露 わに されているからです。十 字 架 が分かる時 に神が分 かるからです。反 対 に言 えば、十 字 架 が分からな ければ、どれほど深い聖 書知識があっても、何も分かっていないのに等しいからです。この十字 架の キリスト、よみがえられたいのちの主だけがいつまでも変 わらない教 会 の土 台であり、私たちひとり一 人の人生の土台であるのです。 3.人生の土台を問う しかし、私たちクリスチャンは、このキリストを信じます、キリストを人 生の土 台としますと言いながら、 えてして、キリスト以外のものに信頼 したり、執着したりすることがあるわけです。 先 週 の、リトリートで、片 岡 栄 子 先 生 が恩 師 のハンス・ビュルキ先 生 との色 々なやり取 りをお証 しく ださいましたね。6 畳二間のアパートに大勢の人を迎えて集会をしていた。ビュルキ先生のお話がそ ろそろ終 わりそうだと、お茶の用 意 に立ち上 がった時、“Eiko、 sit down!”とビュルキ先 生が言 わ れた。「私はあなたに、この話を聞いてほしいのです」と。 「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心 配して、気を使っています。しかし、どうしても必 要な ことはわずかです。いや、一つだけです。」(ルカ 10:41-42)。 私たち、キリストのための活動である、奉仕であると、忙しくしていてすら、キリストご自身と心が直結 していないことがあるわけですね。キリストを信じている、信 仰 があると言 っていても、いつの間にか、 全然 自分 の人 生の土台が別のものにすり替わっているということはあるのではないでしょうか。忙しさ のうちに気づかずにということもあるでしょうし、この世 の富や楽しみ、思 い煩 いにかまけているうちに、 自 分 が本 当 に土 台 にしているものが何 かを見 失 ってしまっていることもあるでしょう。静 まりを持 つと いうこと、毎週、礼拝に出るということの大切さもそういうところにあると思うのです。 イエス様がなさった、「家を建てた人」という有名なたとえ話がありますね(マタイ 7:24-27)。二人の 人 がそれぞれ家を建てた。賢い人 は岩 の上 に家を建て、愚かな人 は砂 の上に家 を建てた。雨 が降 って洪 水 が押 し寄 せ、風 が吹 き付 けた時 、岩 の上 に建 てられた家 はびくともしなかった。しかし、砂 の上に建てた人の家は、倒れてしまったという話です。 あのたとえ話で、イエス様は、どういう人 を岩の上に建てた人、砂の上に建てた人 にたとえておられ たか覚えておいででしょうか。こうあります。 マタイ 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞 いてそれを行う者はみな、岩 の上 に自 分の家 を 建てた賢い人に比べることができます。」 マタイ 7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を 建てた愚かな人に比べることができます。 3 聞 くだけ聞いて、それで終わりということでは、それは、本 当 の信 仰ではない。聞 いたみことばに心 探られ、自らが問われ、本 当に主の御 前 に砕かれる。祈らされる。十字 架の主を仰 がされる。主と結 びつくのです。地 面 を掘って掘って土 台 であるキリストの十 字 架 に突 き当 たるのです。そして、御 霊 によって、みことばを実行する者 にされていく。信仰 の実 質ですね。それが本 当にあるのかが問われ るのです。 4.人生の真価が問われる時 パウロは、さらにその土台の上にどのような家を建てるかということも語っています。これは直接には 教 会 を建て上 げることについて言 っているわけですが、私 たちひとり一 人 の信 仰 生 活 に置き換 えて もよいでしょう。 Ⅰコリント 3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、 3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火 とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 私 たちが、イエス・キリストを信 じる、その土 台 の上 にどのような 働 き、生 き方 を建 て上 げたのか- 「その日」がそれを明らかにする。「その日」というのは、神 様の裁きの時ですね。イエス・キリストの再 臨の時と言ってもよいでしょう。神の御前 に、私たちの働きの真価、人生の真価が問われる時が来る とパウロは言 うのです。それが、「金 、銀 、宝 石 」といった、火 によっても消 えることのない、天 の御 国 の永遠 の報 いにつながるようなものなのか。それとも、「木、草、わら」といった、火の中で燃えて跡形 もなくなってしまうものなのか。「この火がその力で各人の働きの真価をためすからです」とパウロは言 うのです。 3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自 身は、火の中をく ぐるようにして助かります。 これは、救 われるかどうかということとはまた違 うことですね。主 の裁きの 火 に耐 えうる働きは報 いを 受 けるのです。しかしたとえ、建 物 が焼 けてしまっても、 土 台 があれば、イエス様 を信じ、土 台 がしっ かりあるのであれば、「火の中をくぐるようにして」ではありますが、「助かります」。 みなさん。私たちの生き方、なしたわざで、永遠に残るものって、何なのでしょう。 私たち、自 分の人 生を顧 みて、ああ、本 当に大したことができていないなあと思 わされます。さらに、 神様のために自分がなにをしたのか、何 ができたのかと言えば、本 当に何もできていないと 思わざる を得ない。 しかし、片 岡栄 子先 生がしてくださった、マルタとマリヤの話ではありませんが、イエス様は、私たち に何 ができたかということよりも、主の御 前 でみことばに耳 を傾 けることを喜んでくださいます。 Doing よりも Being。何をしたかというよりも、いかに主の前にあるかを主は大切にしてくださる。多くの献金 をした人ではなくて、たった 2 レプタの献金を投げ入れた貧しいやもめを、イエス様は「この貧しいや 4 もめは…どの人よりもたくさん投げ入れました」(マルコ 12:43)と喜ばれました。また、一見無駄遣い のような、ナルドの壺の香油を注いだ女性 を主はかばわれました(マルコ 14:3-9)。業績でなないの です。人 前 にほめられるような働きかどうかではないのです。神 様 は、やはり、心をご覧 になる。どの ような心で、私たちがそれをなしたのか。そのことを主はご覧になっておられる。 5.人生の真価 私はこのことを思う時、母教会におられた林弥生姉のことを思い出すのですね。 この姉 妹は何か特 別なことをされた方ではありませんでした。晩年はリュウマチで苦しまれ、杖を突 きながら教会に来ておられました。ただ、いつもニコニコと笑っておられました。 しかし、そのお葬式 にはびっくりいたしました。日本 中から驚 くほど多 くの方が駆けつけてこられた のです。そしてお一 人お一 人 の思 い出 を聞 いているうちに、この方 がいったいどういう方 であったか パズルを嵌めるように見えてきたのです。 ある方 は九 州 からこられた牧 師 先 生 でした。神 学 生 の時 、林 さんのアパートの壁 に張 ってあった 銀行 のカレンダーを「きれいですね」と言 った。卒業 後 九州 に牧 師になって赴任 されたのですが、そ れから 30 年あまり、毎年暮れになると、あれこれの好物と共にその銀行のカレンダーが届いたという のです。 他 にも多 くの方 が同じような思 い出を語られた。その一 つ一つは実にささいなことでありました。し かし、それが、あの人 も、この人も、林 さんからこんな親 切 をされた、こんなに支 えてもらった、話 しを 聞いてもらった、と延々と続 く。私はその話しを聞きながら途 中まで、「ああ、林さんはなんとすごい愛 の人であったかなあ」と感動していました。でも、それがそこでは終らない。もっともっと続いていく。そ の時自 然と、「主よ、あなたの御名をほめたたえます」と言わずにはおれませんでした。「ああ、これは 人 間 のわざではないなあ。主 の恵 みなのだなあ」そう思 わずにおれなかった。林 さんは構 えたところ のない、自 然な方でした。良 い行 いをしなければなんて、肩 に力 のはいったところは全 然なかった。 きっと、天から自 分のお葬 式を見て、ただ主に示 されたことをしただけですよ。と照れられたのではな いかと思います。 葬儀の司式をされた舟喜信先生は、エペソ 2: 10 の 「 私たちは神の作品であって、良い行な いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、そ の良い行ないをもあらかじめ備 えてくださったのです。」というみことばを引いて、声 をつまらせつつこ う語られました。「クリスチャンはすべて良 い行いに歩むように神様につくられた神の作品です。でも、 林 姉 妹 は神 の最 高 傑 作 でした。でもそれは、彼 女 が立 派 であったからというよりは、彼 女 が本 当 に 救われた、そして自分を救ってくださった方をよく知っていたということだと思います。」 林 姉 妹 は若い時 に結 婚に失 敗し、それからずっと一 人 暮しを続 けておられた方でした。それがイ エス様 と出 会 った。本 当 に十 字 架 にかかりよみがえられた主 と出 会 った。人 間 的 に見 れば「さびし い」と形容するしかない人生であったかもしれません。でも、しかし、十字 架の主イエスを土台とした。 主イエスといつも深くつながっておられた。主の愛に生かされておられた。 5 私は、どんなにめだたないことであっても、ささいなことであっても、主を喜んで、主 の愛 に促 されて なされたことというのは、それは神 の前に、「金、銀、宝 石」のようなものだと思います。それは永 遠に 残る。 反 対 に、どれほど人 の目 に偉 大 な業 績 であっても、それが自 分 の栄 光 のためになされたものであ れば、「木・草・わら」にすぎない。それは、人には見えない。裁きの火で試される他にはない。 私たちの人 生は、主 の前 にどのようなものなのでしょう。キリストを土 台としているのでしょうか。その 上に何で建てているのでしょうか。もう一度心を静め、考えたいのです。 祈りましょう。 6