Comments
Description
Transcript
試みからの脱出 - church.ne.jp
2015/9/6 門戸聖書教会 礼拝説教 コリント人への手紙第一 講 解 22 Ⅰコリント 10:1-13 試みからの脱出 1.聖書をじっくり読む方法 夏 休 みも終 わり、この頃 は朝 晩 も涼 しさを感じるようになってまいりました。また、気 持 ちも新 たに、 実りの秋に向けて、みことばにじっくり取り組みたいと思わされております。 聖書 にじっくりと取 り組んでいく時に大 切なことのひとつは、新 約 聖 書と旧 約聖 書のつながりを、し っかりと押さえながら読んでいくということです。 新約 聖 書の著 者たちは、旧約 聖 書をほとんど暗記 するほどによく読 んでいました。ですから、縦 横 無 尽 に旧 約 聖 書 のみことばを引 用 したり、ちょっとし た言い回しで、「ここは、あの出来事のことを言っていますよ」とほのめかしたりするのですね。 今日お読みいただいた聖書箇所などは、まさに、旧約聖書 のオンパレードのような箇所です。例え ば、Ⅰコリント 10:1 を見てみましょう。 Ⅰコリント 10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私た ちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。 「私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通 って行きました」-これを聞 いても、日 本人 である私たちには、ちょっとピンときませんね。こういう時に役立つのが下の脚注欄 です。年配の方で 小 さい字 が見 えないと言 われる方 はごめんなさい。お家で虫 眼 鏡 でご確 認 ください。その下の脚 注 で 1 節の②のところを見ますと、「出 13:21」と書いてある。これは出エジプト記 13:2 のことです。そ こを開いてみるとこうあるわけです。 出エジプト 13:21 【主】は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、 火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行 くためであった。 これを読 むと、ああそうか、この「雲 の下 」というのは、神 様 が荒 野 を旅 するイスラエルの民 を、雲 の 柱によって導かれたことを言っているのか、と分かる。 また、「みな海を通って行きました」の脚注を見ると、出 14:22 とある。 出エジプト 14:22 そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らの ために右と左で壁となった。 出 エジプト記 のクライマックス。迫 りくるエジプト軍 を後 目 に、モーセが神 の杖 を海 にかざすと、 海 が分 かれてその真 ん中 を歩 いていった、映 画 『十 戒 』にも描 かれた、あの名 場 面 のことだと、分 かる わけです。 1 2.恵みの経験にもかかわらず とはいえ、「先生、こんな読み方していたら日が暮れます」と言われる方もいるでしょう。でも、ご安心 ください。聖書を毎日読んでいたら、自然と、ああ、これはあの箇所 の出 来事だなとピンとくるようにな ります。そうなるとしめたものです。そうなると、旧約 聖 書に記されているイスラエルの民の歩みが、自 分 の信 仰 人 生 の歩 みと重 なってくる。三 千 年 以 上 も昔 の話 が、現 代 に生 きる私 たちとも、 決 して無 関係ではないことが分かってくるのです。 この手 紙を書 いたパウロは、この箇所でイスラエルの民の歩みは、私たちクリスチャンの人生と同じ だと言っているのです。 Ⅰコリント 10:1 私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。 10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受 け、10:3 みな同じ御霊 の食べ物 を食 べ、10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御 霊の岩から飲んだ からです。その岩とはキリストです。 イスラエルの民は、奴 隷 の国エジプトから、海 を通り抜 けて出エジプトを果 たしました。それは 、クリ スチャンが、罪 の中からキリストによって救 われてバプテスマ=洗 礼 を受けたのと同 じだというわけで す。先 週、ちょうどバプテスマ式をいたしました。水の中をくぐって 出てくるわけです。イスラエルの民 も、二つに分かれた葦の海をかいくぐって救われた。 そして、彼 らは食 べ物 の無 い荒 野 で、天 から降るマナによって養 われ、岩 からほとばしり出 た水 に よって渇きを癒された。それはちょうど、私 たちが聖餐式でパンとぶどう酒 を霊の糧としていただくのと 同じだというのです。 つまり、イスラエルの民は、非 常に大きな経験をした。神 様の奇跡 を目 の当たりにし 、荒野という過 酷な土地で、主が養い守ってくださる恵みを体験したわけです。 しかし、5 節「にもかかわらず」、この「にもかかわらず」は、太字にしてもいいくらいですね。そんな大 きな恵みを経 験した「にもかかわらず、彼らの大 部 分は神 のみこころにかなわず、荒 野 で滅ぼされま した。」 イスラエルの民 は、主 に逆らい、「荒 野で滅ぼされ」てしまった。この「滅 ぼされました」と言う言 葉も、 ある英訳はこう訳しています。 their bodies were scattered in the wilderness. (1Co 10:5 NIV) 「彼らの死体は、荒野に撒き散らされた」-むしろ、こちらの方が、直訳に近いでしょう。 先 週、洗 礼 式 があったばかりで、こんなことを言 うのも何ですが、洗 礼を受 けたから、バプテスマの 恵 みに与 ったから、大 丈 夫 ということはないわけです。それは信 仰 生 活 のゴールではない。スタート に過ぎないわけです。 イスラエルの民は、出エジプトをして、葦 の海をくぐって救われた。マナを食べ、御 霊の岩から飲 ん だ。「にもかかわらず」荒野の試練の中で、神に逆らい、裁きを受け、屍を野にさらした。 パウロは、それは悪い模範、私たちのための反面教師なのだと言うのです。 Ⅰコリント 10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼっ たように私たちが悪をむさぼることのないためです。 2 これは本当に笑えないですよ。日本の教会では、毎年、7、8 千人洗礼を受けられる方がおられる と言 われていますが、ほぼ同 じくらいの方 が教 会 を去っていかれている。 つまり、日 本でもキリスト信 仰 を持 つ人 はそこそこいるわけです。しかし、皆 が生 涯 を通してその信 仰 を全 うしているか、キリスト に従い続けているのかというと、そうでもない。 先 週、ご紹 介した柏 木 先 生 の本 の中で、奥 様 の柏 木 道 子 先 生 が、だんだんと自 分 の人 生 の残 り 時 間 が少なくなって人 生 の晩 秋 にさしかかっていく中で、自 分 に神 様が求 められることは、何だろう と自 問 自 答 したということが書かれていました。その時、『ヨシュア記』のみことばが心 に留 まった。短 い箇所で 3 回も「ヨシュアは主に従い通した」(ヨシュア 14:8,9,14)とあった。ただ、「従った」というの ではない。生涯を通して、「従い通した」と。道子先生はこう述べておられます。 「職業的には「終わり」がありましたが、主に従うというのは、これからずっと死ぬまで続く。…信仰生 活を全うしたい。…『主に従い通す』ということの重みを、このところとても感じているんです」。 1 3.みことばを自分のこととして聞く 7 節から 12 節のところは、「主に従い通 」さなかった、イスラエルの民の実例です。下の脚注にそれ ぞれ、旧約聖書のどこに出てくる話かが記 されています。 アロンが造った金の子 牛の偶 像を、イスラエルの民 が礼 拝し、どんちゃん騒 ぎをしたという話 (出 エ ジプト記 32 章)。モアブに滞在していた時、イスラエルの民が異邦の娘たちと「みだらなことをし」、姦 淫の罪に陥り、2 万 3 千人とも 4 千人ともいわれる人々が神罰で死んだという話(民 数記 25 章)。イ スラエルの民が、神とモーセに逆らい、「なぜ、あなたは私たちをこんな荒 野に連 れ上ったのだ。こん なみじめな食物には飽き飽きした」と、主を試みて、燃える蛇に咬まれたという話 (民数記 21:1-9)。 コラをはじめとする名のあるリーダーたちが、反乱を起 こし、あげくに生きながら裂 けた大地に飲み込 まれたという話(民数記 16 章)。 パウロは、あれやこれやと、旧約聖書の実例、イスラエルの民の歴史の話を引き合いに出します。 それは新約 聖書の時 代からしても、千年以 上も前の話です。しかも、コリントのクリスチャンにとって は、外 国 の話 です。そういう話 を聞 く時 に、ああ、それは自 分 とは関 係 のない 、大 昔 の話 だと聞 くの か、それとも、それはまさしく自分のことだと聞くのか。それで、全く聖書の読み方が変わってくる。 全部の実例を見るのは、時間的に無理なので、一か所だけ開きましょう。出エジプト記の 32 章。 出エジプト記 32:1 民はモーセが山から降りて来るのに手 間取っているのを見て、アロンのもとに 集 まり、彼 に言った。「さあ、私たちに先 立って行 く神 を、造ってください。私たちをエ ジプトの地から 連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」 32:2 それで、アロンは彼 らに言 った。「あなたがたの妻や、息 子、娘たちの耳にある金 の耳 輪をは ずして、私のところに持って来なさい。」 32:3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。 1 『育 てるいのち・看 取 るいのち』(柏 木 哲 夫 ・道 子 著 、いのちのことば社)p121 3 32:4 彼がそれを、彼 らの手 から受 け取り、のみで型 を造り、鋳 物 の子 牛にした。彼 らは、「イスラエ ルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。 32:5 アロンはこれを見 て、その前 に祭 壇 を築 いた。そして、アロンは呼 ばわって言 った。「あすは 【主】への祭りである。」 32:6 そこで、翌 日 、朝 早 く彼 らは全 焼 のいけにえをささげ、和 解 のいけにえを供 えた。そして、民 はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。 私 たちは別 に、実 際 に金 の子 牛 を造 りもしませんし、それを拝 んだりもしません。しかし、私 はこの みことばを改 めて読んで、どきっとしました。32:5「あすは主 への祭 りである」-彼らは、自 分 で自 分 の願 ったような神 を造 り、それを「主 」と呼 んでいる。バアルとか他 の神 様 を拝 んでいるのではない。 偶 像 崇 拝 とは、自 分 の願 い、欲 望 、自 分 自 身 を神 とすることです。それでいて、その罪 に気 付 かな いことです。イエス様が言われていますね。 ルカ 6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。 マタイ 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におら れるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 姦淫の罪もしかり、主を試みることもしかり、つぶやくこともしかり。 イスラエルの民の経験は、みんな 私たちに起こってくることです。決して無関係な話ではない。 Ⅰコリント 10:11 これらのことが彼らに起 こったのは、戒 めのためであり、それが書 かれたのは、世 の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。 私たちは、聖書のみことばを、自分のこととして聞いているでしょうか。 4.試みからの脱出 こういう話をしたところで、あの有名なみことばが出てくるのです。 Ⅰコリント 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方 ですから、あなたがたを、耐 えられないほどの試 練 に会 わせることはなさいません。むしろ、耐 えられ るように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 このみことばは、どちらかというと、人生 において出会う苦しみや悩み、そういった「試練」があっても、 神 様 が脱 出 の道 を備 えてくださると私 たち受 け取 っています 。でも、この「試 練 」という言 葉 は、「誘 惑」という意味もある言葉です。そういう意味では苦しみや罪の誘惑のどちらをも指す「試み」という言 葉に訳した方が良いかもしれません。 つまり、それは荒 野 におけるイスラエルの民の歩 みそのものを言 っているわけです。荒 野は厳 しい ところです。人 生 の厳 しさが凝 縮 されているようなところです。イスラエルの民 は、そんな荒 野 で、神 への信 仰が揺すぶられ、罪の誘 惑に合い、まさに「試みられた」。それと同じように、私たち信 仰者も、 それぞれに試みを受けるのだと言っているわけです。 4 少し前に、知人から中澤利江さんという方のお証しを送っていただきました。 2 中澤さんは元気なお子さんでしたが、小学校 1 年生の時、初めての遠足で途中 から足が痛くて歩 けなくなってしまいました。病 院 で調 べると、進 行 性 の 筋 ジストロフィーと判 明 した。全 身 の筋 肉 が 徐々に麻痺していく難病中の難病です。4 年生で階段が登れなくなり、5 年で床から起き上がれなく なり、6 年生の時には歩けるのは平らな廊下だけとなってしまいました。それからも病はどんどん進み、 ついには車イスの生活になってしまった。 「なぜ自 分 だけ動 けないの?なぜこんな病 気 になってしまったの? 何 も悪 いことはしていないの に!」-やり場のない怒りに心はすさむ一 方でした。 利江さんはピアノを弾くのが好きでした。4 歳から 11 年続けてきた。しかし、それも腕や肩の筋肉が 弱り、弾けなくなってしまった。やりたいこと、好きなことが全 部 病に奪われてしまう。健康な体への羨 望、それを得られない悔しさ、悲しさ、怒りが心に深く根付いていきました。 そんな中、高校 1 年生の時、クラスのクリスチャンの友人に誘われて教会に行った。温かい雰囲気 には惹 かれましたが、心 は神 への怒 りでいっぱいでした。「神 様 は愛 だというのに、なぜ病 気 を治 し てくれないの?私 が苦しんでいても平 気 なの?」と。でも、どれだけ妬んでも、悔しがっても現実は変 わらない。「神 様 助けてください、もうお手 上げです。こんな醜い心 を変えてくださるのは神 様 だ けで す」-そう祈って、高 2 のイースターに洗 礼を受けられた。けれども、心の中には相変わらず、神への 不 満 と葛 藤 で満 ちていたそうです。自 分 は奇 跡 が起 こって、病 気 が治 らない限 り、幸 せにはなれな いと感じていた。 そんな時 、筋 ジストロフィー専 門 の病 棟 にしばらく入 院 することになった そうです。そこには、人 工 呼吸器を付けなければ呼吸もできない、中澤さんよりも、もっと重症の患者さんもおられた。中澤さん には、そんな人の痛みと孤 独が痛いほどわかった。それである重症の青 年を足しげく訪ね、励まして おられたそうです。ところが、入 院が長 引 くと、他の患 者 さんとの交 わりも増え、いつしか重症 の方 の ことをころっと忘れていた。そして、ある時 、はっと気づかされたそうです。自分は中 学の頃から、何度 も友だちにとり残された。しばらくは優しい言葉をかけてくれても、元気な友人はどんどんと楽しいこと の方へ行って、自分のことを忘れてしまう。その寂しさを知っていたはずなのに・・・自分を 中心として しか生きられない人 間の自 我の姿 に、「これが罪だったのか」と愕 然とさせられた。「神さま、私は怒り 憎しみを抱え、自 己中 心にしか生きられない罪人です。どうかお赦しください」 そう祈った時、キリスト の十 字 架が初 めて分かった。と同 時に、「この罪を赦すために十 字 架 にかかってくださったイエス様 の愛が身近に感じられ」るようになった。 自分は病気が治らなければ、もう幸せにはなれない-そう思っていたけれども、もう一度、祈 りの中 で神に問いかける心が与えられた。 「神さま、あなたが私に与えてくださっているこのいのち、この人生を、感謝して幸 せに生きるために はどうすればいいですか。」 2 『いのちの花が咲 いてから』(中 澤 利 江 、いのちのことば社 ) 5 すると、みことばから答があった。 「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ 10:10) それから、不 思 議とみことばが「印刷 された活 字ではなく、神 さまから私 への生きた語 りかけとして心 に届くように」なった。わからないことがあれば、率直に神様に祈り、不思議と聖書 から心に響くみこと ばが与えられた。 しかし、信 仰が深 まるにつれ、どんどんと病 状は進 み、試 練 は続 いていきました。洗 面や排せつな ど日常の全てを介助なくしてはできなくなった。人工呼 吸器が必要になり、ほんのわずかに残ってい た利 き手 の力 も奪 われ、電 動 車 いすのレバーも引 けなくなった。ああ、自 分 はどこまで動 けなくなる んだろう。そう不安に思った時、みことばが来た。 「門 番 は彼のために開き、羊 はその声を聞 き分けます。彼 は自 分の羊をその名で呼 んで連れ出 し ます。」(ヨハネ 10:3) ああ、神 さまは私 の事 を知 っていてくださる。「お前 のことをよく見 ているよ。お前 の限 界 をよく知 っ ているよ」と言われている。ああ、そうだ。神様は、私を耐えられない試練に遭わせられない。むしろ、 この動かなくなった右 手のことで、より深く神 様を信頼するように導いておられるのだ。「やはり、人 は 試練や困難を通ることによって磨かれ、成長していけるのだと思いました」 そして、それから中澤さんは、左手の訓 練をはじめられ、パソコンも扱うようになられた。何が自分に できるだろうとの祈りの中で、刑務所の受 刑者の方に励ましの手紙を書かれたり、このような証しを記 して多くの方を励ましておられます。 神 様 は「試 練 とともに脱 出 の道 も備 えてくださいます」 -この「脱 出 の道 」という言 葉 は、山 の中 の 渓 谷 の道 のような、狭 く細 い道 を指 す言 葉 です。それは、試 練 を脱 け出 すことだと私 たちは単 純 に 受けとめてしまうかもしれません。が、もっと大きく、もっと深い、神 様の恵みに目が開かれるということ ではないか。試 みの中 で、試 練 の中 にあっても、神 が私 たち一 人 一 人 に向 けて備 えてくださってい る恵みの道がある。なお深い信頼へと導 かれる恵みの小 道 がある。荒 野とは主への信頼 が問 われ、 神の恵みを学ぶ場、この神へつながっていくいのちの道に気づかせていただく場 です。 どうか、私 たちが、試 みの中 でも、主 に信 頼 し、信 仰 の生 涯 を全 うできますように。共に祈 り合 い、 励まし合ってまいりましょう。 お祈りいたします。 6