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﹁三田義正﹂刊行にあたって

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﹁三田義正﹂刊行にあたって
(1) 平成4年(1992)12月1日 ㈹ 石桜同窓会報 第18号
合
格
発
表
1 月20日㈱
2 月8 日的)
3 月11即桐
入学手断 切日
1 月27日㈱
2月18日(
桐
3 月18日㈱
◆中学校は授業料を徴収 しません。
◆寄宿舎の施設があ ります。
事務局
〒020 盛岡市長田町 7 番60号
℡0196−
24−
4445㈹
液凡束為
遠藤前校長に松見同窓
会長から雷己念晶を贈呈
授
業
料
16.
000円
16,
000円
不
要
施
設
費
5.
000円
5,
000円
1.
000円
石桜 会費
700円
700円
700円
P T A 会費
200円
200円
200円
21,
900円
21.
900円
1,
900円
盛 岡 市 長 田 町
石桜同窓会
経 常 部 よ り編 入
利
子
金
計
4.
33 7,151
戯
年を迎えようとしている▽
抽鮎絹餉餌明紀晦棚
4.
937 .151
合
計
繰
金
越
﹁三田義正﹂刊行にあたって
となり、ひいてはこの学び
舎に学び学んだことの、幸
経 常 部 よ り編 入
利
子
500 ,
00 0
9 5.413
2.
74 1.738
合
私達はその牧童あっけ、
いと誇りを喚起することに
もなるのではないだろうか。
合
計
3.455 ,11さ
Ⅰ
Ⅰ 特 別 会 計 (基 金 部 )
0
合
計
3.
645 .531
11 特 別 会 計 (基 金 部 )
100 .
00 0
4,337 .15 1
繰
50 0.000
計
費
備
費
500 ,
00 0
625 .118
維
賛
基
金
部
編
入
60 ,
00 0
300 .
00 0
備
予
277 .365
1.
500 ,000
雑
費
基
金
部
編
入
60 .000
事
務
事
務
手
400 .
00 0
20 .
00 0
費
当
事
務
事
務
手
500 .
000
50 .
000
費
当
347 .332
3 .521
慶
通
弔
信
費
費
506 .245
62 .567
石 桜 会 補 助 金
印
刷
賢
毎
月
納
付
金
予
桜が校章に刻まれている。
機あるごと折にふれるご
とに校歌を歌い歌いつぎ、
費
議
費
費
弔
信
慶
通
議
会
700 .
000
300 .
000
石 桜 会 補 助 金
印
刷
費
遭
抜
方
法
費
720 ,551
168 ,
0 00
会
4.
486 ,
69 9
金
計
3 .455 ,
1 18
繰
越
合
支出の部
月星化成株式会社岩手県総代理店
履物総合卸商社
斎 福 商 事 株 式 会 社
岩手県紫波郡矢巾町流通センター南一丁目6−
4
T E L ㈹ (
38)2 1 3 1
東京石桜同窓会
盛会裡に開催
数 ・英 (
2 科目) 国脚 咲 (
5科目) 国語 ・算数
墓誓鶏 群
芸管 菅との齢 鞭
芸雷撃海霧讐陰
金
計
子
入
瑠 話 22 −9 3 46
総会後の懇親会場で
執筆者藤井茂氏のご苦
労はもとより、資料や談
岩手中・高等学校創立者
話を寄せて下さった皆様
のご協力ご厚情には感謝
の言葉に苦しんで余りあ
るものがあるが、されば
と言って充分な言葉があ
石桜岡至芸 枚
るわけではない。平凡に
﹁ありがとうございました﹂
と申しあげてお許しを願
う次第である。
定の創立者もなければ、
本校についていうなら
この企画は、第一回生
従って創立に当たっての
ば、創立者は郷土の偉人
として入学した私にとっ 建学の精神というものも 三田義正翁であり、その
てはかねての念願であり、 ないのが通例である。私
建学の精神は三綱即ち
全
会
券
試 .
験
科
目
2 月 1日鯛)
試
験
期
日
繰
越
合
支出 の部
12 1.000
1.
626 .498
500 .
000
10 .
000
80 .
000
利
雑
収
841 ,118
出
願
期
間
798 .000
代
子
入
捻
利
雑
収
590 .000
2 1,201
入
会
金
総
会
会
券
代
759 .
000
1.265 .
000
〒020t■胃市中のltilTl∋lホ▲tピルI
中 の 櫓 店 モ盛岡0196(53)3434
サ ン ビ ル 店 ℡盛岡0196(22)9595
■=■,Iルーム(水▲tピル2F)1さ盛網01,6(53)封35
コンタクトルーム(水▲tビル3F)廿盛粥0196(引)3636
−
20名
2 月22日(
月)
∼ 3 月5 日(
色事
3 月7 日(
日)
200名
1竺望月芝 目㈱
約50名
1月 8 日(
金)
∼ 1 月13日㈱
1 月18日的)
1.
330 .000
募
集
定
員
費
費
金
会
会
入
会
般
一
薦
推
額
算
決
真創れ水晶堂
中
学‥
校
高
等
学
校
収入 の部
収入の部
いい視力・いつまでも
大小御宴会・
榊商談等に
御利用下さい。
御食事処
:
;: 菅 の え ね 支 店
岩手高等学校内
印刷 山口北州印刷
久しぶりに交歓する同期生
l
項
要
募 集
徒
l 昔年貨 生
平 成 3 年 度 同 来 会 決 算 報 告
平 成 4 年 度 同 窓 会 予 算 案
目
科
本年度 予算額
目
科
日 17 −6
てこ= …己一二i・▲−:■■・・
のア
10月17日出第一〇回の
東ルカディア市谷で約90
京石桜同窓会は、東京九名
段の参加者で盛会だった。
山中傾三元校長も来会さ
れ、松見同窓会長、西在家
松見同裔会長挨拶
◇⋮平成4年度石桜同窓会定時総会は去る10月叩︰◇
ここ数年、必ず8月に大
校長のほか同窓会事務局か
西在女権長より祝辞
事件が起きている▽噸序は
◇⋮日随盛岡駅タ1、、ナルのホテルメトロポリタン⋮◇
ら
中
甜
件
悦
、
佐
藤
正
俊
両
先
松
見
得
明
同
窓
会
長
は
1
0
月
もはや定かではないが、ジ
◇⋮盛岡で午後6時から開会、今回は遠藤貫中前校⋮◇
生が
出席した。
17日開催の東京石桜同窓
会
ャンボ機が些落した。潜水
?=最の着手県県勢功労葺受章の祝賀も兼ねて行わ⋮◇
に出席したこと、平成7年開会の辞は原章副会長
艦と釣り舟が衝突した。連
◇⋮れた。 ⋮◇
の母校創立
07
周年が迫って︵旧18回︶、雪ノ浦弘会長︵旧
続幼女殺害犯が逮捕され
17回︶が挨拶のあと、山中
いること、また石桜振興会
た。イラクがクウェートを
順三元校長、西在家校長、
から母校創謹者の﹁三田義
併合した。ソ連で革命が起
松見同窓会長の塀で来賓と
正伝﹂の刊行が間近である
こった⋮▽夏の甲子園大会
して挨拶。懇親会に入る前、
ことなどを含めて冒頭挨拶
のテレビ観戦中に毎年、こ
玉川大学コーラス部の特別
れらの事件が速報で知らさ
があった。
れてきた▽条件反射で夏の
西在家校長は本年4月遠出演があった。
甲子園大会中には必ず何か
藤前校長に代わって校長に新12回卒の国立音楽大学
が起こるという予感さえ持
就任されたが、同窓生各助
位教授瀬川武君の好意で同
ち始めていた▽今年は何事
署が日頃指導している玉川
には校長就任以来はじめて
もなく甲子園大会も閉幕す
遠藤前校長からの謝辞の
の挨拶とあって、総会祝大
辞学のコーラス部が招かれ、 歌、応援歌は極めて新鮮で が捷案され、説明のあと可
るかと思われたが、その高
あと、下河原善嗣郎同密会 校野球そのものに大事件
の中で、枚長就任として親
のしみのもてる数曲のあと、 快い刺激だった。収録のテ 決した。
校歌、応援歌の合唱もあっ
ープが後日事務局へ送られ
副会長の音頭で乾杯し、懇
挨拶も痴ねた。
︵?︶が起こった▽明徳義塾
一〇〇名余の懇親会
た。専門家の指導による校 る等なので利用されたい。
親会に入った。
が星横の強打者松井を徹底
懇親会の席上、栃内松四
その中で、松見得明会長
的に敬遠、一点差で逃げ切
窓会活動がいよいよ盛んな 郎同窓会副会長が、県勢功 が旧13回卒の大西博君を紹 った▽マスコミは社会面に
遠藤前校最挨拶
まで大きく取り上げ、日本
ことを祝して退任の挨拶と 労章を受章した遠藤前校長 介。大西君は鹿児島大学教
本年3月で勇退された遠 した。
の経歴を改めて紹介、松見
授を退官して本年郷里盛岡 中が突然、教育評論家、ス
藤前校長は、自分の岩手中
同窓会長が同窓会からの祝 に戻り、去る9月5日母校 ポーツ評論家であふれ、侃々
同窓会決算、予算を響醜
学在学時代の思い出にはじ
賀記念品として校章の入っ の石桜祭第一日目に体育館 謂々▽高野連会長も異例の
談話を轟表し、それが更に
次いで平成3年度同窓会 た木製レリーフを遠藤前校 で全生徒を前に講演したこ
まり、校舎建築など、校長
論議を呼び、明徳チームは
として在任中の忘れ難い思 決算案と4年度予算︵別表︶ 長に贈呈した。
となどを伝えた。
外出もできず、練習に護衛
い出の数々など、人生の大
がつくという異常事癒にま
半を母校と共に歩んだ五十
で発展した▽明徳の監督は
有余年をふり返り、また同
沈黙を守っていたが、後白
ある雑誌にその心情を吐露
した▽﹁一人一人の技量は
三田義正翁の伝記刊行
且つ三田翁生誕二二〇年
学には必ずそれがある。
﹁積農﹂﹁重昭﹂﹁兼正﹂で
石桜精神の発揚に努め自
はるかに劣っていても、皆
を思いたってから既に五
を期してとの願いもあり、 両もそれぞれの独自性を ある。校歌にはこれを﹁神 己実現に精進しいたって
で力を合わせれば強い相手
年有余。ようやくその刊
気が気でなかった。
もち、自尊の気概さえも
と祖国と人道﹂と歌い、そ いるのである。
や困難にもうち勝つことが
行をみるに至った。思え
っているのが常である。
の靖的象徴としての石割
然しながら創立以来七
憶うに国公立枚には特
できる、ということを教え
ば遠い道程であった。
〇年に及んでは、校風継
るのは教育ではないのです
か?﹂▽ここにアメリカの
承の中に生かされてはい
少年野灘指導者の言葉があ
るものの、歴史性のなか
る▽﹁我々がこの子達にし
に埋没し本然の光輝に浴
てやれることは、こんなに
するに遠さ感、なきにし
楽しい野球を明日もやりた
もあらず土憂うるのである。
い、あさっても、5年後、
かかる折、翁の伝記の
10年後もやりたいと思わせ
刊行は、改めて岩手中・高
ることだ﹂▽学問に王道が
見 得 明
等学校創立の趣意とその
ないのと同じく、教育にも
経緯を詳らかにし、建学の
また王道はない▽様々な考
えや信念を持った人が様々
の方法で、それでも若者に
気を配るのは社会生酒を嘗
精神を顕在ならしめること
経 常部
Ⅰ
撞常部
l
盛岡 市本町 通 l T
二三 播箪 一 _:・■.′
報
会
窓
同
3回生︶
了私が歩いた道\
大西博君︵旧1
さわやかな秋を迎えた9月5・6日の両日にわたり、45回目の石桜祭
が開催された。その初日、大西博君︵旧13回生︶による剛濃が行われ、
感銘を受けた恩師の青葉や研究に対する情熱を語り、 生徒たちに大きな
刺激を与えた。
酵母の研究で発見の連続
お互いに鍛え上げられると
もう一つ、先生が言われ られる時は、思い切って飛
を倍ぜよ﹂ということなん
いう面があるわけです。い たことで思い出すのは、中 び込んでみたまえ﹂と言わ です。要するに〝勇気を出し
ろんな考え方の若い者が学 国の書物にr中庸﹂という
れるんです。
て物事に挑戦して、努力を
校に入って来る。それは非
のがあります。r誠は天の道
﹁思い切って飛び込んで
すれば、必ず成功する″とい
常にいいことなんですね。 なり。これを誠にするは、
みたまえ﹂とは、﹁〝人間は うのが、先生の教えだった
個性が逮う。しかも感受性 人の道なり﹂と轡いてある 金づちではない″ということ わけです。
が豊かだ。若いからですね。
わけですが、これの先生の
そういう人が、自分をさら 解釈は﹁人間の生まれつき
け出し、ぶつかり合って、
というものは、神様が決め
てくださったものであって、
わったわけです。
農芸化学科時代
どうにもならない。しかし、
有機化学の先生で、後藤
切磋琢磨というか、お互い
に磨きをかけるわけです。
そういうのがまさに、教育
の理想だと思っています。
考えてみると、私の高校
時代は、戦時中の暗い時代
はいろいろありますが、糀
でも沈まないという。ある
は冷蔵庫もあるし、うす塩
の食品も出ていますが、昔
カビとか酵母とか、あるい いは塩田。日本にはもうな
は バ ク テ リ ア と い う よ う なくなりましたが、昔、塩田
ものの働きを上手に利用し というのがあって、そこで
て、それを人間の生活に役
塩をつくっていたのです。
立たせようという学問です。 外国には今も堀田がありま
応用微生物学には、どん
す。あるいは塩の魚などに
な分野があるかといえば、
好塩性の微生物はいるんで
す。塩漬けといっても、今
まずお酒にしても、醤油に
しても、そういう日本古来
の伝統的な醸造工葉という
つまり、あなた方が生物の
時間に習われるこの原核生
物と真核生物、そういう二
つの生物界のほかに、実は
第三の生物界がある、とい
うことになりまして、好塩
菌というのが、にわかに注
目を浴びるようになってき
たわけです。
たような塩田とか塩湖にお
ります。生命が誕生したの
は、35億年前だとか、40億
年前だとか、いろいろ言わ
一生懸命努力をして、それ
私は食品の製造とか、あ
格次先生という方がおられ のがあります。それから今 は、塩の塊がくっついてい
は、いろんな酵素を微生物
るような塩迄の魚があって、
を高めるということは、人 るいは農産物の加工という ました。その先生は﹁知ら
の道だ﹂ということです。 ようなことに興味がありま ざるを恥とせず。学ばざる
でつくる。それから、化学 そういうのにいるわけです。
私は盛岡から上京して高 したので、大学は農学部の
を恥とする﹂としょっちゅ 調味料も微生物の発酵でつ
さらに中皮好塩菌と高度
校に入ったら、周りの奴は
農芸化学科に進みました。 う言われておりました。﹁世 くる。それから抗生物質を 好塩菌というのに分かれ、
今は、全国の大学の農学部
の中にはいろんなことがあ つくる。そういうような、 この中座というほうは、醤
油なんかにいるわけです。
高度というのは、いま言っ
頭がいい。秀才に見えてし
ょうがなかったんですが、
の改革が行われ、農芸化学
科という科の名前は段々消
えてきて、応用生物化学科
とか生物資源化学科という
ようになっています。
私の大学の農芸化学科の
るが、それを全部覚えるわ いわゆる発酵工業に関する
けにはいかないから、決し もの、それから、先端技術
て物知りである必要はない としてのバイオテクノロジ
んだ。しかし、自分が仕事
ーといったものも、もちろ
をしていく上に、あるいは ん含まれています。
生きていく上に必要である
私は大学を出てすぐ、キ
この安倍先生がおっしゃる
ように、生まれつきはどう
にもならないんで、私の頭
はこれくらいの頭かもしれ
ない。しかし、自分で努力
時代は、種なしブドウに使
うジベレリンという、植物
ホルモンの発見で有名な薮
田貞治郎先生、住木諭介先
生、あるいは醸造学の大家
で、自分の教室の連中には、 ければ、おいしい醤油はで
よく言っていたことです。 きない。酵母の作用が大事
なんだから、酵母の研究を
キッコーマンに入社して
するように﹂と貰われ、ず
さて、私の専門とする応
っとそういう関係の仕事を
用微生物学とはどういう学 するようになったんです。
問かといいますと、微生物
醤油酵母というのは、醤
私の仕事は、醤油のモロ
一つの発見から始まった
ッコーマンに入社して、野 れていますが、こちらは驚
田農業科学研究所というと くなかれ、古細菌という、
ころにおりました。﹁酵母に そのころできた細菌です。
よって盛んに発酵していな
をして、その頭を鍛えてい
くのは、これは各人の問題
であって、それは大事なこ
とだ。私も〝なるほど、そう
だ″と思って、今でも先生の
油のモロミの中で盛んに発
酵します。もちろん、中で
と思ったことは、自分で進
んでそれを学び取らなけれ
ばいけない﹂ということで
す。これは私も鹿児島大学
製作所とか、川崎の三菱重
工業という所に、勤労動員
をさせられました。いくら
勉強をしたくても、させて
もらえない時代だったんで
言葉は忘れられません。
で、お酒の先生としても有
名な坂口鰹一郎という先生
人間は金づちではない
がおられました。蔽田先生
高校時代に立沢先生とい と坂口先生は、文化勲章を
うドイツ語の先生がいまし お貰いになった先生であり
た。これはもう強烈な個性 ますが、そういう方から教
の持ち主で散々な目に遭っ
たんです。
い入
うことで﹁思いつくまま いう相撲取りが優勝した﹂ でありましたが、それでも
私は昭和13年、本校に
に、
想を交えながら、わ
とか﹁支部事変で南京が陥
人間形成の基礎というよう
学して戦争中の昭和18
年感に
た、
しの実際の体験談をお話 落して、提灯行列をした﹂
なものは、あの時代に、同
卒業して後、高校、大学
とか、それくらいのことは、 じ蓋の飯を食って培われた
しの
しょ
就職と50年もの間、こ
盛う﹂と思います。
私は社会に出てから、キ
この中学1年の英語の新開 ような気がしております。
岡を離れておりまし
0た。5
ッっ
コーマンの野田産業科学
に書いてあった。
両校で満足に教室で授業
年も経ちますと、もうす
研で
究所というところで26年 このような国際化の時代 ができたのは、たった1年
かり変わってしまうもの
余り
、その後、鹿児島大学
になりますと、どんな仕事 間です。あとは茨城の日立
すが、本校は、校舎は新
し
の農
くなってたいへん立派に
な学部で17年余り、終始、 をするにしても語学という
応用
っても、私どもが仁王田
圃徴生物学という字間を ものは、たいへん重要にな
研究
ってきます。どうか英語だ
といった思い出の多いこ
のし、またその教育の仕
事をしてまいりました。
けはと百うと叱られるかも
土地に、そのままある。
しれませんが、しっかり勉
今日は〝私が歩いた道″と
強してほしいと思います。
それから、思い出される
岩中時代の勇気と自信
す。そういう場合に、工場
のわずかの休み時間に、岩
波文庫を食り読むとか、あ
るいは夜になると、寄宿舎
に先生が来られて、多少の
講義をしてくだきるという
ようなことがあった。そう
いう大変な時代でした。
生育もします。醤油という
のは、ご承知のように、食
塩が18%も入っていて塩辛 ミの熟成期間における酵母
い。ということは、多くの の種類と数がどのように移
微生物にとっては、たいへ り変わるかということを調
んに厳しい環境なわけです。 べることから始まりました。
たとえば、お酒の酵母とか、
それにはどうするかとい
ビールの酵母を醤油の中に う と 、 こ う い う シ ャ ー レ ー
善
山
桜
石
のは漢文の先生で、竜沢良
書というカイゼルひげを生
やした、老大家の風格のあ
る先生のことです。非常に
格調高い講義をなきった。
ですから漢文の力は﹁私は
〝懲らしめてこその教習で
ある″ということがあります
どこにも負けない﹂という
ぐらい、自信がついたんで
忘れられない校長の青葉
って勇気づけちれました。
佐々木校長先生の次の校
長先生は、山中鱒二先生で、
私は英語を教わりました。
先生は、独特の系統的な英
語の教授法で、非常に分か
りがいい。私などは今でも
す。1年から5年まで、同
当時の校長先生は安倍能 が、とにかく、あれくらい
じ先生にずっと習ったのは、 成先生で、哲学者でした。
苛められますと、まさにい
漢文だけでした。5年まで
先生は常に、﹁自分自身で飯 い意味の〝懲らしめてこその
の教科番を、4年生の時に
を食わなければ、自分の腹
教育″です。﹁その実がまさ
全部終わっちゃったんです
ね。後の1年間は、もっと
入れると、みな死んでしま
に、寒天を固めて、醤油の
う。ところがそういう厳し モロミを適当に薄めて巻く
い環境でも、それに耐えて
と、酵母のコロニーが出て
生育し、発酵作用をするの
きます。これを今までの一
が醤油酵母であり、耐塩性
般の人が使っていた培地を
酵母といわれているのです。 使ってやりますと、ブタブ
タ発酵しているにもかかわ
好塩性の微生物
らずごんなに酵母の数が少
ないのか″と思われるくらい
この他に塩を好む、好塩
性の微生物もおりまして、 少なかった。たとえば、1
これはどういう故生物かと 血のモロミの中に、10の5
いうと、水とか海の中にも 乗、数10万、多くても棚方
住めない。どこに住んでい ぐらいしかいない。﹁そんな
るかというと、死海︵デッ ことはない。これはおかし
ド・シー︶ です。イスラエ いぞ﹂ということで、醤油
ルの近くにあり、飛び込ん の食塩の濃度は、さっきも
盛 岡 市材 木 町 2 − 21
T E L (
22)2 6 1 8
盛 岡市大通 1 丁 目8 − 4
ニ
コッ ト
キョー
ゴ
ク
℡盛 岡2 5 −9 4 5 9 ㈹
本当にありがたく思ってお
ります。先生は、我々が中
学の1年の時から、﹁ウィー
クリー﹂という、1枚の紙
ベラですが、週刊の時事英
語新聞があって、それを教
はきつくならないよ﹂と言 に上がっている﹂と百わざ
われておった。他人がいく
るを得ないくらい、いろん
ら飯を食ってくれても、自 なことを教わりました。私
分のひもじさは決して直ら の試験が0点だったという
ない。つまり、自分自身で んです。それを﹁50点につ
汗を流して、苦労をして、
けておいたから、今度はl00
物事を習得しなければ、本
点満点取って、50点返して
当に身につかない。社会に くれ﹂というわけです。
出て、あなた方も仕事をし
その先生は、常に﹁〝人間
てみるとよく分かりますが、は金づちではない″というこ
学校でちょっと試験のため とを侶ぜよ﹂と冒うんです。
に勉強したなんてものは、 金づちですと、水の中に入
すぐ忘れてしまいますが、 れるとブタブタ沈んでしま
私などが実験で自分で苦労 う。そして浮かび上がって
してやったことは、全部面 こない。ところが﹁人間は
白 い よ う に 体 に つ い て 、 こ 金づちではないんだから、
れはもう忘れない。もうひ 水に入っても必ず浮かぶ﹂
とりでに体が動くのです。 と。よく﹁できが悪くて叱
盛岡市中ノ橋通1 丁目5番25号
電
話
代表 (
24)2 0 3 6 番
屋
◎
和 洋 酒 ・食 料 品
株式会社 鍵
銘藁 の店
お
お 贈
お 土 物
茶 産 に
う に
け
に
ご昼 食 ・ご商 談 ・ご 宴 会
㊨ 料亭哀 超
私の岩中時代の校長先生
は、佐々木哲郎先生でした。
私が高校受験の時に、恐る
恐る校長先生に﹁一高を受
験したいと思いますが﹂と
申し上げたら、先生は即座
に﹁やってみるか﹂と、こ
う習われたんですね。それ
は私にとって、非常に強い
印象として残っています。
その当時は戦争中で、日
本も容易なちぎる時代でし
た。学徒出陣といって、大
人間形成の基礎を築く
学生などがどんどん兵隊に 科昏以外に皆に渡して、生 高度の教科杏を貿わせまし
いく。今ですと受験に失敗 きた英語を低学年のころか て、それについて習ったこ
したって、﹁予備校に入って
ら教えてくださった。思い とが思い出されます。
やり直せばいいじゃないか﹂ 出してみますとr双葉山と
と、気楽なものですが、当
時はそうはいかなかった。
もしも受験に失敗すれば〝す
ぐ兵隊にいく″という覚悟を という訳で、背水の陣で 授業時間だけでなく、24時
しなければならない時代で 臨んだ一高の入学試験に
間起居を共にして、いわゆ
した。
も、さいわい受かったわけ るr同じ釜の飯を食う﹂と
そういう時に、校長先生 です。二両というところは いう形ですね。そうすると
は﹁この際、もっと確実に 全寮制度なんです。全校生
四六時中、自分のクラスの
入れるような所に、志望を 徒が全部、寄宿舎に入る。
者でないいろんな奴とも、
変えてみたらどうか﹂とい たとえ学校の隣に自分の家 しょっちゅう顔を合わせて
うようなことは、一切なか があったとしても、自宅か 話し合いをしているから、
ったのです。私はこれによ ら通学することは許さない。友達もたくさんできるし、
全在校生を前に講演をする大西博君
平成 4 年(1992)12月1日 吹)(2)
第18号
会
報
窓
同
桜
石
アとか中国、カナダなどに
のショウをいざれば、食ら
●テニスクラブ
新人戦・県ジュニア・東
北ジュニア上位入賞 中学
校大会優勝
●物理部
ちは豆だけ。豆全部を椛に
ちょっと違うのですが、材
てくる汁などを取って使っ
どうも独創性がない﹂﹁何で
も外国の其似ぽっかりして
でいえるような状態になっ
た。これなどは、我々の先
祖の大きな発明だと思われ
ます。
﹁後世おそるべし﹂′の願い
いう名前が文献に初めて出
ともっと立派にやってほし
てくるのは室町時代のこと
松下幸之助さんが、成人
で、名前だけでなく、作り
式のお祝いの時に﹁自分の
い﹂と思うわけです。
皆さんも大事な若さと青
方までちゃんと書いてある 全都の物を投げ捨ててもい
のは、江戸時代の元禄前後
いから、若さと取り替えた 春ですので、それを卑しく
だと言われている。そのこ い﹂と言われました。こう も、おろそかにするという
して若い皆さんの前に立つ ことのないように、しっか
と、私も全く同じ考えにな り勉励してほしいと廟うも
ります。学校の教師をして のであります。
おりますと、孔子様のいう
ご静聴ありがとうござい
﹁後世おそるべし﹂というこ ました。
とが、本当にそうあってほ
ろになると、いま日本の醤
我々の使っている味吋のル
ーツだ。
油業をやっているようなお
それに対してシのほうは、 うちは、大概、仕事を始め
煮た豆を全部椛にしてしま られたというわけです。
うわけですから、今の醤油
初めは、豆を全部椛にし
のルーツだ。今の醤油は、
て、そして仕込んで醤油が
﹁科学の祭典﹂出演 火
の玉実験
●方浪見将人︵3F︶
高文祭美工部門︵立体部
庭 真一︵1E︶
︵水 泳︶
若沢英領︵3C︶
・第44回高総体l仙m平泳
第二位
これから申し上げるように できていた。つまり、垂れ しい。﹁後を継ぐ者が、もっ
門︶特賞﹁l弓.〇ku﹂
・第44回県民体棚m個人メ
ドレー 第三位
中沢英人︵1D︶
長岡真髄︵1C︶
村谷成基︵1C︶
T E L (24 )65 65
盛岡 市上 田 一 丁 目 7 の 11
世界では、独創性というこ
高総体・市民体・県民体・
新人戦上位入賞
いうか、オリジナルだとま
とが一番大事なんだ″という 客員教授などで呼ばれて出 わずJ − ﹁ショウがなけ しちゃうんです。そして垣 料全体を椛にしてしまうと ていた。今でいうタマリ醤
●大西博君嶋虚
いう点が、たいへん違って 油のようなものだった。そ いる﹂というふうに言われ
旧13回生。卒業後旧ことを、よく教えられたわ 掛けたりしました。一昨年 れば食べない﹂と言ってい と混ぜてつくる。
けです。2年間オタワにお は 、 ス ペ イ ン の ヨ ー ロ ッ パ る。そういうショウが、周 シのほうはどういうこと いるというか、面白いとこ れが、いつのころからか、 ていますが、いま雷いまし
制一高、東大農学部と
たように、元を正せば、醤
になるかというと、全部を ろです。名古屋地方にある 大豆のほかに、小麦も使う
進み㈱野田瞥油壷キ り、その後、鹿児島大学に 微生物学会連合の国際学会 の時代にちゃんとあった。
まいったのですが、鹿児島
椛にするもんですから、蛋
タマリというようなものに、ようになった。今は、﹁そう 油というものは中国由来の
に招待講演を頼まれ、バイ
そうして時代が下って、
ッコーマン︶入社。昭
大学では、主にこの好塩菌
白などの分解もよく、味が 今も名残としてあります。 すると一番おいしい﹂とい ものではあるけれども、そ
オ・リアクターを使った、 漠の時代になると、このシ
和36年、抗淋透圧性
酵
の仕事をしておりました。 好塩菌の利用面のことをお ョウが肉だけでなくて、大 いいわけです;調味料とし
うことになり、大豆と小麦 れを我々の先祖が、ただそ
母の研究により、日本
日本の醤油はオリジナル
話ししてきました。そうい 豆を使ってショウをつくる。 ては、どうもこのシのほう
を半々に使って、それを椛
のまま真似をしているだけ
やってみますと、好塩菌
農芸化学賞受賞。昭和
もいろんなことがありまし う意味で私としては、研究
がおいしそうだ″ということ きて、こうして漢の時代 にして仕込む。小麦が入る ではなくて、日本の風土に
ですから、この漠の時代の
49年より鹿児島大学農
ことによって、澱粉質が入
合ったように、これを上手
て、それが段々認められる
者という仕事がよかったん
ト ー シ ョ ウ と い う の は 、 大が分かります。
に、発酵調味料がいろいろ
学部教授となり平成3
につくり変えた。そして今
よ う に な り 、 オ ー ス ト ラ リだと思っているわけです。
豆に穀類の椛を加えて、塩
実際の使い方を見ると、
分かれて、今日のそういう るので、糀カどや酵母やバ
年に退官、郷里に戻る。
や、醤油は日本の特産品と
醤油は先祖の大発明
平成1年度の石桜振興会
奨励対象は次の7団休1個
百楔振興会からの
奨励対濠
ショウの他にシというもの
案外大事なことになる。そ
と長持ちする。それだけじ
てある。ここで大事なのは、
していろんなことが開けて ゃなくて、かえっておいし このショウというのは動物 が出てきた。このシという
くる﹂ということです。
くなることがある、という 性のものが原料で、大豆な
のはどういうものかという
その後、私は昭和38年に、 ことに気が付いて、中国で
どを使っているのではなく、 と、大豆を煮て、それを椛
カナダのオタワのナショナ は赦千年の昔に、このショ
にしちゃうんですね。大豆
獣の肉を使っているのです。
ル・リサーチ・カウンセル ウが生まれたんです。
このショウというのは、 の椛。ショウというのは、
という国立の研究所にまい
中国の周の王朝時代の制 たいへんにおいしいもので、 大豆は煮て、別に置いて、
りました。そこでギポンス 度や、儀礼を記したr周礼﹂
日常の食膳には欠かせなか
それに粟とか穀類の椛を加
先生という、世界で一番の
という書物にショウという ったらしく、孔子様もrそ
えてつくるんですが、こっ
クテリアの分解作用とか、
を加えてつくるのです。こ ショウは今の日本風に貰う 食品の基礎が出来上がり、
こで初めて植物性のショウ と、ソースのように食べ物 それから日本や朝鮮に伝わ 発酵作用を受けて、おいし
ってきたわけです。
くなることは分かるわけで
育ったように18%です。こ それが学会で認められて、
が生まれてきたわけです。
にかけて食べる。シは、水
れを加えた培地を使ったら、 農芸化学賞ということにな
記載があります。このショ これが醤油と味噌のルーツ を加えてシジルとして、煮
日本にはこういうものが、 す。これが実は、我々の先
醤油の起源は数千年前
これがたくさん出てきたわ ったわけです。
ウというのは、獣の肉とか
に関しているようで、私の 物用とか味付け用に使って
奈良時代に伝わったといわ
祖の非常に優れた発明では
れていますが、それがどう ないかと思うのです。
けです。数十倍から百倍く
私があなた方に申し上げ
では、″醤油の起源″とい 魚の肉を、粟の椛と混ぜる。 恩師の坂口先生の学説によ いました。
らいもコロニーが出てきた たいのは、﹁いつも同じ方向 うようなお話を、ちょっと それにさらに塩を加えて〝美 ると、この漢の時代に、シ
ショウというのは、豆を いう形で今日のような醤油
﹁日本の科学技術には、
のです。
になったかということは、
からものを見ているけれど してみたいと思います。
酒″とありますから、おいし ョウがこのように増えた。 煮て、それに穀類の椛を加
はっきりしません。醤油と
これが、私の駆け出し時
も︵私もそうですが︶、ちょ
醤油の起源を辿ってみる
いお酒を混ぜてr壷で漬け
えてつくる。日本の味噌の
多目的な調味料として
代の一つの発見であり、こ っと角度を違えて見ただけ と、どうも中国の〝ショウ″込むこと畑日にして成る︼
つくり方が今もそうなんで
れから私の仕事が進むこと で、今まで見えなかったも
と い う こ と に い き つ く よ うつまり﹁壷に畑日間漬けて
その他に、日本読みにす
すね。大豆を煮る。コメの
になったのです。この発見
のが見えてくるということ です。魚の肉でも、家畜の
お く と 、 こ の シ ョ ウ と い うると、イシオと読み、こっ 椛とか、あるいは麦の椛、
ちはかかと読むんですが、
と は ど う い う こ と か と い う があるんだ。そしてそれが、 肉でも、塩漬けにしておく ものが出来上がる﹂と書い
そういうものを加えてつく
ります。ですから、ショウ
やヒシュウのほうが、いま
と、耐塩性酵母というもの
は、塩に耐える、そういう
遺伝的な性質は持っている
んです。ところが、そうい
う耐塩性酵母であっても、
この食塩が0のところから、
急に18%のところに移る、
変化する。あるいは18%の
食塩の環境から突然、食塩
が0のところに移された場 好塩菌の学者から、私が学
合は、かなりのストレスを んだことは、実験の技術と
いうようなものよりも、む
しろ研究者の態度というよ
うなことでした。
どういうことかといいま
受ける。大部分は参ってし
まう。この耐塩性酵母を取
り扱う場合に、何が一番大
事かというと〝食塩の濃度
を、常に注意しておかなけ
すと、日本人というのは、
ればいけない″ということを、
得てしてそうですが、外国
この簡単な仕事から気が付
いたわけです。
」
鴎 藤沢体亘堂
割 烹
「こ う 弥
あ なたの 妃鑓 モ新 に役立 つ スポ ー ツ品
盛岡市菜園2の8 の36
T E L (
23)2 6 2 2
,亡
,.
5
3
− 1 4
℡ (
0 196 )2 3
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大▲t■ lO■
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三吉●轟
行七
●
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研究者として
\t.i∴︰
勝勝膠
庭 其一TE︶
屯野正幸TD︶
団体の部
・第13回県ジュニア・
テ第
ニ
4
4
ス
回県民体刑mリレー
︿ハンドボール部︶
選手権大会1
6歳以下男第三位
・第44回高総体 琴二位子シングルス第二位 ・第44回県民体棚mメドレ
ーリレー第二位
︿アイスホッケー部︶ 贈中・亀野組
・第1
4回高総体
・第13回県ジュニアテニス
選手権大会16歳以下男
・第25回県民体
・第28回新人大会 子ダブルス健勝
ラニ
スバンド部
・第14回東北ジュニ0
アブテ
個人の部
ス選手権大会16歳以下 全国高文祭沖縄大会出場
記念パレード、マーチン
男子ダブルス第三位
︵テニス︶
グ発
畑中等倍︵3甲︶
︵畑中2
は月
1にアメリカ・
フ表
正部
・第3
1回県ジュニアテニ
ロス
リダ州のハリーホッ○
プ義マ
15回岩手県高文祭︵書
選手権大会場歳以下男ンテニスキャンプに派遣第さ
道部門二二名入選
子シングルス優勝
れる予定︶
優優健
肉
の
デパ
ー ト
丸
岩
盛 岡 市 大通 3 丁 目 2 − 5
●ハンドボール部
の人のたいへん摩れた論文
人と決まり、11月12日校長
を読むとそれを真似してみ 室において松見振興会長よ
高総体三位
たいような気が起こり、私 り、それぞれに褒賞金が授
●野球部
もちょっと人の論文と似通 与された。
秋の県大会に出場︵6年
ぶり︶
●アイスホッケー部
県選手権優勝 インター
ハイ出場
そうなると次は、私はこ ったようなことをやってみ ●軟式庭球部
ようと思って、ギポンス先
市民休優勝 新人戦・ジ
の耐塩性酵母を使って、食
塩の0のところと、18%の 生に言ったところが、﹁オー
ュニア選抜上位入賞
食塩のところで、生育とか、 ル・レディー・スタディー ●水泳部
発酵作用にどんな違いがあ ズ﹂だと冒うんですね。﹁そ
るか、ということを調べよ れはもうほかの奴が、すで
うと思い、それをいろんな に研究して分かっているこ
項目について、詳しく調べ とだ。そんなものをやる奴
たんです。そうしたら、面 があるか﹂と言って、もう
白いように、いろんなこと 全然話に乗らないわけです。
が見つかってきた。今まで
つまり先生は〝常に独創
知られなかったことがいろ 的なものでなければ、仕事
いろ見つかってきて、学術 にならない″という考え方で
論文にどんどん載りますし、 すので、私も〝やはり我々の
2年連続で特賞を受賞した
方汝見君の作品rJ臼rok山
第18号
(3) 平成4 年(1992)12月 1日 ㈹
報
会
窓
岡
桜
石
っきりしていました。黒人 いうことは、絶対思っては
−≡≡≡一芸−≡≡≡≡≡■≡≡≡−≡≡≡
間環を﹁イコール・アンド・ いけません。
●牟岐鹿癒着略歴
旧16回生。昭和20年 セバレイティド﹂−平等だ 皆さんが今勉強されてい
卒業後、慶応大学工学 けれども分離されている、 ることは、いろいろな知識
に幅や深さを加えることに
部に進み、その後助教 と。首い駅ですね。私も白
なります。アメリカ流に言
授となる。昭和40年か人社会の中にいたので、不
ら米・カリフォルニア 思議とも思わなかったもの えば.非常に安全な投資″
大学工学部教授として です。ところが一九六〇年、 というわけですので、楽し
渡米。弾性理論の世界 マーニアィ・ルー・キングが く勉強していただきたいと
バーミンガムで大行進痘し 思います。
的権威として有名。
てやっています。
母校創立者である三田義
正翁の生涯を措いた連載が
〝非常に安全な投資一
﹁盛岡タイムス﹂紙上ではじ
チャプスイの材料として まったのは、昨年5月から
福沢諭吉からレイモンド・
である。週二回のベースで
チャンドラーまで、ずいぶ 続けられ、本年6月第百回
て、その晩はそこに泊めて
いただいて次の日に岩手に
帰って来ました。私の親父
が岩中の先生をしておりま
したので、空襲の後、理事
長のところに挨拶に伺った
のですが、そのとき東京は
空襲で大変なので結局、理
事長は﹁どうせ、焼けるか
も知れないから、着の身着
皆さんがこれから勉強し
ていく上で一番大切なこと
は、自分の進路は自分自身
村上先生を囲み、約40名が
旧交を温める。
●日大石桜会11月
91
日
●新30回E組クラス会﹁
8慕情﹂にて、日大OB13人
平成四年
月22日こう弥にて、遠が
藤村上先生、松見同窓会長
,石亀妄会薪12回生同︵滑︶先生を迎え、深夜を
ま囲
でみ盛会。
期会︶1月3日佐善にて痛飲。翌23日は雫石ゴ●
ル葉
フ桜会︵8
新回
1生同期会︶
西在家教頭︵当時︶を迎場
えで
、コンペ開催。
u月21日ホテル大観にて
約40人の盛会。
●旧13回生同期会︰9月西
9在家校長、中村先生、村
●軟式庭球節08金1月日愛真館にて、西在家綾上先生を迎え、思い出話に
1日山留にて、村上先生長を招き約30名が集う花
。が咲く。30名出席。
の高体連表彰、県体協表●
彰新15回生同期会9
9月●
1岩手町石桜会11月28日
祝賀会を兼ねて42名が日
集新亀虚にて、西在家校発足三周年を迎え、益々意
う。
長を迎え0
4名が再会。 気あがる。
●旧18回生同期会5月●
3新
014回生同期会10◆
月◆
24
日大清水多賀にて、西在日大清水多賀にて、西在佐々木益人君︵旧10︶
家校長を招0
き名
4の盛会。家校長、池口教頭、高橋11月3日、秋の叙勲におい
●桜泳会︵水泳部08会︵
︶精︶先生、佐藤先生をて
迎地
え方自治︵林業行政︶の
6月20日ヴィラ加賀野約
に80名の大盛会。佐藤先功
生労に対して勲四等瑞宝章
て、プール開きに30人は
参O
加B
。として、この日はを
﹁受
佐ける。
菊池健先生、遠藤︵雷︶藤
先君
生﹂?
加藤弘君︵新3︶10月16
出席。
●石桜体操クラブ︵体操日
節、小、中学教育に尽くし
●桜球会︵野球部08会O
︶B会︶川月26日こうた
弥功により、教育功労者と
6月24日初駒にて、中に
産て、足沢先生、菊池へし
軍て
︶文
先部大臣表彰を受け
敷監督、本館コーチを囲生
みを迎え的二十名で痛飲る
。。
約40名参加。.今後の結●
束テ
をニスクラブ激励会10稗貫明彦者二旧10︶10
月29日1&1にて、本月
多16日、私立幼稚園発展の
誓う。
●軟式庭球部OB会8月先生を囲み、硬式テニス功
をにより、教育功労者とし
1日山留にて15人参加愛
。好するOB0
約名
1が集まて文部大臣表彰を受ける。
未先生出席。
り、今後の活躍を激励。高檎章清音︵新4︶8
●剣道郡OB会8月1日●石桜教職員会u月6日月6日から10日まで、盛岡
在大適・クリップギャラリ
まる岩にて、工藤先生、サ
現ンセール盛岡にて、西市
教にて﹁ガラパゴスの不思
役部員7名を囲み、OB家
約校長、池口教頭、中館ー
20名が激励。
務主任、村上先生、菊地議
先な生物たち﹂写真展を開
●新2回生同期会8月1生
4が、教職に就いている催
O。55点の写真を展示。
ん キ ョ ロ キ ョ ロ し て し ま い余で完結をみた。連載中郷 日ホテルニューカリーナB11名と懇談。
◆◆
ました。
土史家をはじめ、各方面の にて、村上先生を迎え4●
5新
名13回生同期会11池
月口
7杜孝教硬u月1
9日
読者から読後感や励ましの の参加。
日ホテル三右衛門にて、私学教育振興の功により岩
電話が盛岡タイムス社の筆
手県知事表彰を受ける。
者藤井茂氏に寄せられた。
られた。史実に詳しい池野 和漢洋学の勉強、仙台、東
のままで、とにかく家に来
い﹂というわけで、理事長
のお宅にお邪魔したのです。
その後、何と予科、学部、
大学、大学院と約十年その
まま、着の身着のままの状 で決めるということです。
義正儀の実弟、岩手医書
藤兵衛氏を招いたり、郷土
京での遊学、青春時代へと ㊨㊨⑱㊨
自分のやりたいことは自分 創設者三田俊次郎氏につい の人物史家藤井茂氏の同席 肇が運ばれる。
態でお世顔になって、学位
論文もそこで書いて、私ど の能力と比べて決めること てはすでに研究義的な著書 を得て数人が集いを重ねた。 事業への朋芽、政治への
石桜精神の具現者とも言
もの分野で第一人者のとこ であって、他の人と比べて
も出ているが、三田義正翁
藤井茂氏の研究対象が義 意欲、火薬鉄砲店の開業か うべき、戸嶋正夫元教頭先
ろに論文を送って研究者と はいけません。
については﹁石桜五十年史﹂ 正翁に向けられているのを ら森林業、事業の飛鷹へと 生が去る三月二日永眠なさ
して行けるかと問い合わせ
それから次に大切なこと に記述されているぐらいで、 知り、同氏の執筆を積極的
移り、人材育成のための学 れました。本紙は、新17回
を出したところ、﹁まあ、来 は、誉められることですね。 まとまったものは皆無であ に支援したいという声も上 校股立へと展開する。
生、伊藤勢至君の哀切極塵
い﹂ということで、一九五 先生はなかなか誉めてくれ った。
がった。
中学教師の群膿、盛岡市 る弔電を拝借し、紙面に録
八年から六〇年までアメリ ないので、自分で自分を誉
母校関係者の中には数十
藤井茂氏はその後盛岡タ の市街地開発と多くの人物することで哀悼の念を表し
カ東海岸のフローテンスに めるくせをつけることです。年前からその人物蝕につい イムス社に勤癌、多忙の時
との出会い、そして別れま たいと思います。
あるブラウン大学というと ただ、自分を一生懸命誉
ての研究に関心が寄せられ 間の中前述の連載がスター で、義正翁の生涯が平易な 本年度は、新校長、新教
ころで、応用数学の勉強を めるのは大切だけれども、 ていたが、昭和62年、石桜 トした。このほど完結を持 文体で綴られている。
頭のもと、生徒達も良き伝
したわけです。
尊大になったり自分が偉い 振興会の中に、﹁三田義正翁
って義正翁生誕雪二十年を
序文は松見得明石桜振興 統の継承と新しい歴史の創
と思うのは逆効果で、そん を語る会﹂が正式に発足し 機に石桜振興会が刊行しよ 会長、巻末に西在家寛校長 造に向けて、クラブ活動や
自借というもの
なことをすると自分を不幸 た。会長は旧13回卒の牟岐 うというものである。
の﹁義正翁と岩手中学しの 生徒会清動も活発だったよ
にして、周りも不幸にする 栢楼氏である。
◇ ◇
文も収められていて同窓生 うです。
わけです。たいていの場合
以来翁の響咳に接した人
木曽では父義軌を中心と 各位にぜひおすすめしたい 御引退なされた遠藤貫中
自分の不幸には気がついて 人の思い出を聞き、事蹟を した家庭生活、教育娘心で、 好著である︵本年内刊行予 先生、本当に長い間御善労
いないようですが、ともか 調べ、紀録を重ねるための 生涯勤倹の人だった母キヨ 定︶。広く同窓生諸兄の購読 様でした。︵W︶
く自分が他の人より偉いと 会合が年二、三度ずつ続け
の影響から説き、藩校での が期待されている。
行った当時、アメリカ人
は第二次世界大戦に勝って
世界のリーダーであるとい
う自信を持って、非常に親
切でしたが、人種差別はは
盛岡市中央通り1 丁目11の12
T E L (
24)3 8 5 4
店
器 三十年ずつの
日本とアメリカ
しなければならない今、
先生からラグビーを通し
て叩き込まれました右横
精神を、終生の礁郎ビし
て宮古の場で貫き通すこ
とを御約束し、大変悔や
しく残念でありますが、
石桜振興会から近々刊行
牟岐鹿楼至旧16回生︶
と育っている。つまり徳義、 連れて行ってやることだけ。
美綺で言えばモラリティー 飲むか飲まないかは本人次
第なんです。そういう意味
で、昔の岩中の岩手山登山
というのは、私どもを水際
に連れて行ったのであって、
は、教えることも学ぶこと
も難しい。ただ、自分の工
夫で長くなったり悪くなっ
たりすると。
伊藤勢至
新1
7回生
飲めることができた人は情
操とか知徳を伸ばす役に立
ったのではないかと思って
います。
て、公民権運動の火ぶたを
前出の大西博肴に続き、10月2日には牟岐虚横雲旧16回生︶が本
切った。黒人だけが苦しん
アメリカへ
校を訪れ、麟濃を行った。同君は在学中の思い出やアメリカでの体
で、白人が全然知らずにい
験をユーモアを交えて語り、生徒たちは興味潔く耳を傾けていた。
四年生になって岩中勤労 た時代と、いろいろ混ざり
隊で、お国のために横浜の
合って知り合おうとした時
福沢諭吉がr文明論の概
ない﹂というのがあります。 三菱重工業へ魚雷艇のエン
代と両方見たわけです。私
着手山豊山
略︼という本の中で﹁文明
馬はのどが渇いていれば飲 ジンを作りに行った時、空
がここで思ったのは、形が
アメリカの中華料理の中 とは人の知徳である﹂と育 むでしょうが、のどが渇い 襲に遭って焼け出されまし 先で心は後からついてくる
で、一番売れる料理にチャ
っています。知徳の〝知″と ていなければ飲まないわけ た。全員、着の身着のまま
ということです。様々な公
プスイというのがあります。 は、一歩一歩学ばなければ
です。結局、徳義とかモラ
で理事長のお宅に連れて行 民権運動の結果、法律がで
漢字で書くと﹁雑炊﹂。私が ならないものです。ところ ルといった品性を良くして かれ︵現理事長のお祖父さ
きて、それで黒人のがいろ
アメリカ灯いた撃一十年と、 が、知徳の″徳″については いく方法は、自分の努力し んです二二十人くらいでし んなところに進めるように
日本での三十年をチャプス ﹁徳義教え難く、亦学び難
かないという。ただ、まわ たが、ススだらけの私ども なったし、いい黒人の人に
イの材料にして今日の私の・ し、或は一心の工夫にて頓
りの人ができるのは良い環 を風呂に入れていただき、 も目を開くようになったと
話にさせていただこうと思 に進退することあるもの﹂ 境をつくってやる、水際に 白いご飯をごちそうになっ いう感じがしています。私
います。
にも、ひとり黒人の学生さ
んがいますが、彼を見てい
ると、白人に対する引け目
は全然ないし、日付を持っ
岩中の頃、楽しく記憶に
残っているのは、岩手山の
登山です。御来迎を拝んで
戻ってくるだけなのですが、
山の気に触れて、非常に楽
しい経験でした。今、宮沢賢
同じようにアメリカの諺
治の本を読んでわかったよ
に﹁馬を水襟に連れて行く
うな気になるのも、岩手山 ことは出来るけれども、馬
登山のせいかも知れません。 に水を飲ませることは出来
故戸嶋正夫先生を悼む
人生最高の恩師、戸嶋正
夫先生の御逝去を悼み、慎
んで御悔やみ申し上げます。
ありし日の先生から厳し
く、そして慈愛あふれる御
薫陶を戴きました御陰で、
私の今日があるものと、い
昭和川年本校に柵任以来、在職的年、昭和弱年に退職された戸嶋
正夫先生が平成4年3月2日、盛岡市内丸病院で要された。享年
79線。左は卒巣生代表の弔電である。
故戸嶋正夫先生略歴
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川㍑摘盛縞銅
つ校
も深く、深く、感謝をいた 御別れを申し上げます。
旧2回生。日本体育専門学
して
最愛の奥様と、御家族
︵壌日体大︶卒業後
O
、
年
昭和
lおりました。高校三年
本校曽任、昭和嶋年数頭数任.
はもとより、私たち教え
昭和甜年に遺徽されるまで膿体
子一同の将来も、どうぞ
撫協会会長、県ラグビー協
会業
金できましたのも、全 お見守り下さい。
が卒
良、莞体遵理事長などを歴任、
本県体育界の重義であった。
平成4年3月2日、逝去。
材育成と果断の事業家
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平成4年(1992)12月1日 吹)㈹
第18号
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