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8 アルマンド・ポンティエル

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8 アルマンド・ポンティエル
<近頃、レコード・コンサートでは疎遠になったオルケスタ -3(完)->
アルマンド・ポンティエル・イ・ス・オルケスタ
齋藤 冨士郎
まえがき
ポンティエル楽団を「近頃、レコード・コンサートでは疎遠になったオルケスタ」の仲間に入れるこ
とについては異議が出るかもしれない。フランチーニ=ポンティエル楽団はかつての人気楽団であり、
レココンにも度々登場し、現在でもその人気は衰えない。しかしそれは「フランチーニ=ポンティエル
楽団」についての話であって、フランチーニとポンティエルがそれぞれ独立した後については話が異な
る。エンリケ・フランチーニ楽団は昭和 30 年代の終わり頃までは結構人気が高く、レココンでも良くリ
クエストされていた。その当時(!!)の若い女性タンゴファンの「フランチーニのバイオリンが聴き
たくて.
.
.
」というコメントも記憶している。しかしフランチーニ楽団の活躍期間は短かった。しかしア
ルマンド・ポンティエル楽団は 1955 年の独立以来 1983 年の突然の死に至るまで、途切れることなく活
動を続けてきた。昭和 40 年代初頭くらいまでは高橋忠雄氏担当のラジオ番組でもポンティエル楽団は良
く紹介されていたように記憶している。しかしその後はその実力にも拘らずポンティエル楽団はレココ
ンにも登場しなくなり、今日では有名だがその割に聴かれない楽団の代表みたいになってしまった。こ
こではアルマンド・ポンティエルの足跡を辿りつつ、あまり聴かれなくなった理由についても探ってみ
たい。
アルマンド・ポンティエルの生涯
アルマンド・ポンティエルは 1940 年世代を代表するタンゴ演奏家の 1
人である。1967 年のポンティエル楽団の初の来日公演に先立って、高山正
彦氏は、例によって辛口を交えつつも、ポンティエルを(1)バンドネオ
ン奏者として、
(2)マエストロとして、
(3)作曲家として、どれをとっ
ても当代一流であり、現代タンゴ界の「三冠王」である、とまで持ち上げ
ている(参考資料[5])。そして 1983 年の彼の悲劇的な死は現代タンゴ界に
おける彼の存在を一層際立たせている。
画像出処:Todotango.com
アルマンド・ポンティエル(Armando Pontier)(本名アルマンド・プン
トゥレーロ(Armando Punturero)
)は 1917 年 8 月 29 日にブエノス・アイレス洲サーラテ(Zárate)で生
まれた。彼の母は早くに亡くなってしまったので、彼は母親不在という悲しい幼年時代を送ることにな
ったが、父が愛情をもって母の分も含めて十分にカバーし、将来を形成することに向けて指導した。
彼が初めてバンドネオンを手にしたのは 5 歳の時で、勿論その時には未だ膝の上には置けなった。初
等及び中等教育の合間にも音楽を学んだ。長じて楽団マエストロのフアン・エーレルト「ドイツ人」
(Juan
Ehlert “El Alemán”)の門下生となりソルフェイジ、和声学、作曲を学んだ。エーレルト楽団の仲間にはエ
クトル・スタンポーニ(Héctor Stamponi)
、エンリケ・フランチーニ(Enrique Francini)、クリスト―バル・
エレーロ(Cristóbal Herrero)たいた。
1
1937 年、ポンティエルが 20 歳になろうとする時に、エーレルト楽団はその門下生と共にブエノス・ア
イレスにやって来て、ラジオ・プリエト(Radio Prieto)の放送番組「フアン・マヌエル(Juan Manuel)
のマチネ(Matinée)
」に出演することができた。これが実現された背景には番組スポンサーの百貨店の支
配人を親類にもつポンティエルの伯母の口利きがあったらしい。
同じ 1937 年にミゲル・カロー(Miguel Caló)楽団がやはり同じ番組に出演した。フランチーニとポン
ティエルの演奏を聴いたミゲル・カローは早速 2 人をスカウトしようと考えた。しかし兵役の問題があ
ったので、それは 2 人の兵役終了後までは実現しなかった。カロー楽団に始めに入団したのはフランチ
ーニで、ポンティエルは遅れて入団した。当時ポンティエルは 23 歳であった。
周知のようにミゲル・カロー楽団は将来のタンゴ界のスターたちを輩出したことで知られている。ポ
ンティエルは先の 3 人に加えてミゲル・カロー楽団在籍中にピアニストのオスマル・マデルナ(Osmar
Maderna)
、バンドネオン奏者のドミンゴ・フェデリコ(Domingo Federco)、フリオ・アウマーダ(Julio
Ahumada)
、アントニオ・リオス(Antonio Rios)、エドゥアルド・ロビーラ(Eduardo Rovira)、カルロス・
ラサリ(Carlos Lazzari)
、バイオリン奏者のラウール・カプルン(Raúl Kaplún)、マリオ・ラリ(Mario Lalli)、
アキレス・アギラール(Aquiles Aguilar)
、コントラバス奏者のアリエル・ペデルネラ(Ariel Pedernera)
らと親しくなった。1939 年には歌手のラウール・ベロン(Raél Berón)とアルベルト・ポデスター(Alberto
Podestá)が参加した。ポデスターは当時 15 歳であった(2015 年 12 月に 91 歳で逝去)
。編曲につぃては
アルヘンティーノ・ガルバン(Argentino Galván)の影響を受けた。タンゴに限らず、音楽や絵画、それ
に学問の世界でも身近に多数の俊秀がいて、それらの人々と互いに切磋琢磨を繰り返すことは自らの能
力を磨く上で非常に有効なことは知られている。ポンティエルはこの点で恵まれていたわけである。
1945 年にポンティエルはフランチーニと組んでフランチーニ‐ポンティエル楽団を設立する。フラン
チーニ‐ポンティエル楽団については影山雅英氏の詳しい評伝とディスコグラフィー(参考資料[4])に
譲ることにし、ここでは一挙にフランチーニ‐ポンティエル楽団解散後に話を移す。一般に双頭楽団は
短命とされているが、性格の全く異なるフランチーニとポンティエルの双頭楽団がよく 10 年も続いたも
のである。逆に言うとフランチーニの天才的音楽性とポンティエルの優れたマネジメント能力が上手く
かみ合ったとも言える。
1955 年、フランチーニ‐ポンティエル楽団を解散したフランチーニとポンティエルはそれぞれ自己の
楽団を編成する。フランチーニ楽団は残念ながらあまり長続きはしなかったが、ポンティエル楽団は彼
の死の 1983 年まで、1963 年にポンティエルがオルケスタ・デ・ラス・エストレージャスに参加したごく
短い期間を除いて、27 年間活動を続けた。
ポンティエル楽団の発足当時のメンバー構成は
バンドネオン:アルマンド・ポンティエル、ニコラース・パラシーノ(Nicolás Paracino)
アントニオ・ロッシーニ(Antonio Roscini)
、アンヘル・ディジョバンニ(Ángel Digiovanni)
バイオリン :アルベルト・デル・バニョ(Alberto Del Bagno)、ホセ・サルミエント(José Sarmiento)
エルネスト・ジャンニ(Ernesto Gianni)、ペドロ・デスレ(Pedro Desret)
ピアノ
:アンヘル・シチェッティ(Ángel Zichetti)
コントラバス:フェルナンド・カバルコス(Fernando Cabarcos)
歌手
:フリオ・ソーサ(Julio Sosa)、ロベルト・フロリオ(Roberto Florio)
後にオスカル・フェラリ(Oscar Ferrari)
2
であった。
ポンティエル楽団は人気楽団となりラジオ、いろいろなナイトスポット、
国内巡業が 10 年以上続いた。
1959 年 12 月にはコリエンテス通り 1443 のダンスホール「20 世紀(SIGLO XX)」の開店披露に出演した。
このダンスホールは全盛を誇ったが、経済不況のために 1971 年に閉店してしまった。
アルマンド・ポンティエル楽団(撮影年不詳、画像出処[5])
カーニバル伝統的バイレにおいてもポンティエル楽団は不可欠の存在であった。例えば、1959 年のカ
ーニバルでは「オーストリア・センター(Centro Austriano)」にオスカル・フェラリとフリオ・ソーサと
共に出演しながら、合間を見て「クルブ・バレラ・フニオール(Club Varela Junior)」での特別行事にも
出演した。1960 年のカーニバルでも「オーストリア・センター」と契約したが、歌手はオスカル・フェ
ラリだけだった。フリオ・ソーサは彼の何回目かの事故からの回復途中だったので 1 日歌っただけであ
った。
フリオ・ソーサは 1960 年 8 月にポンティエル楽団を去り、後釜にエクトル・ダリオ(Héctor Dario)が
参加し、フェラリと人気を分け合った。そのフェラリも 1961 年に去り、そのポストはロベルト・ルフィ
ノ(Roberto Rufino)が埋めた。ルフィノは 1962 年 3 月にアニーバル・トロイロ(Aníbal Troilo)のオル
ケスタに移り、ダリオ 1 人が止まった。
1963 年にポンティエルはミゲル・カローが主宰する「オルケスタ・デ・ラス・エストレージャス(Orquesta
de Las Estrellas)
」に参加するために楽団を一時解散した。
「オルケスタ・デ・ラス・エストレージャス」の楽団編成は
指揮
:ミゲル・カロー
バンドネオン:アルマンド・ポンティエル、ドミンゴ・フェデリコ、
オスバルド・リソ(Osvaldo Rizzo)
エクトル・コラリ(Héctor Coralli)
、トマース・
ジャンニーニ(Tomás Giannini)
バイオリン :エンリケ・フランチーニ
ウーゴ・バラリス(Hugo Baralis)
ミロ・ドーマン(Milo Dojman)、フェルナンド・
スアーレス・パス(Fernando Suárez Paz)
ルイス・カンタフィオ(Luis Cantafio)
ピアノ
:オルランド・トリポディ(Orlando Tripodi)
コントラバス:マリオ・モンテレオーネ(Mario Monteleone)
3
Orquesta de Las Estrellas
画像出処:OR 7030
歌手
:1963 年はラウール・ベロン、アルベルト・ポデスター
1964 年はエクトル・デ・ロサス(Héctor De Rosas)
、ロベルト・ルケ(Roberto Luque)
1966 年はラウール・レデスマ(Raúl Ledesma)、ロベルト・ルフィノ
であった。このオルケスタはラジオ・エル・ムンドとチャンネル 7 に出演し、オデオン・レーベルに録
音を残した。しかし 1964 年と 1966 年にはポンティエルもドミンゴ・フェデリコもフランチーニもいな
くなっていた。
ポンティエルは 1966 年に楽団活動を再開した。歌手はエクトル・ダリオ(Héctor Dario)とアルベルト・
ポデスターであった。
1967 年、
「中南米音楽」誌の中西義郎氏の肝煎りで、ポンティエルは初の日本公演を果たした。
(この
後、1973 年にも来日公演をしているが、この時は臨時編成の「フランチーニ‐ポンティエル楽団」とし
てであった。
) 来日に際してポンティエルは RCA Victor で最新
録音した OTRA VEZ ARMANDO”というタイトルの 12 曲入り
の LP の録音テープを持参した。この録音は早速日本ビクターか
ら同じタイトルで発売された(SHP-5631、右の画像)
。この LP
録音時のメンバーは
バンドネオン:アルマンド・ポンティエル、ニコラース・パラ
シーノ(Nicolás Paracino)
フアン・サロモネ(Juan Salomone)
マリオ・モンターニャ(Mario Montagna)
バイオリン :アルベルト・デル・バニョ(Alberto Del Bagno)
、
ホセ・サルミエント(José Sarmiento)
エルネスト・ジャンニ(Ernesto Gianni)、ペドロ・デスレ(Pedro Desret)
ピアノ
:ミゲル・バルコス(Miguel Barcos)
コントラバス:フェルナンド・カバルコス(Fernando Cabarcos)
歌手
:ネストル・レアル(Néstor Real)
、ロベルト・ゴジェネチェ(Roberto Goyeneche)
と推定される。
残念ながら筆者はこのポンティエルの日本公演を観ていないのでその詳細を記述することはできない
が、芝野史郎氏と石川浩司氏が参考資料[6]にこの公演についての真に的確な報告を執筆しておられる。
それによるとバンドネオン陣はアルマンド・ポンティエルに加えてニコラース・パラシーノ、フアン・
サロモネが、バイオリン陣はアルベルト・デル・バニョ、ピアノはノルマンド・ラサラ(Normando Lazara)
とあるが、それ以外のメンバーについては明らかでない。歌手はエクトル・ダリオとネストル・レアル
(Néstor Real)であった。芝野、石川両氏の批評は当時の状況をよく伝えており、特に 2 人の歌手につい
ては評価が厳しい。余談であるが、芝野氏は自らを「ポンティエル後援会長」と呼んでいる。芝野氏が
ドナートとデ・アンジェリスの他にポンティエルもお好きだとは知らなかった。
ポンティエル楽団のメンバーは入れ替わりが多かったので、そのすべてを経時的に記述することは煩
わしいし、それほど重要な事でもない。それで表1にフランチーニ‐ポンティエル楽団時代を除いた歴
代のメンバーをまとめた。
ポンティエル楽団の 1962 年のチャンネル 7 の“Tango en Contraluz”や 1964 年から 1967 年までのチャ
4
ンネル 11 の“Yo Te Canto Buenos Aires”への出演はブエノス・アイレスの人々にとって特別に記憶に残
るものであった。端整な風貌のポンティエルが率いるポンティエル楽団は単に音楽的に優れているのみ
でなく、テレビ映像の点でも大いに見映えがしたという。
Armando Pontier楽団の歴代のメンバー (*は録音時メンバー)
(Francini-Pontier楽団は除く)
データ出処:Colección “Los Grandes del Tango”, Año1 –No.53, 1991
Piano
Bandoneón
Violín
Ángel Zichetti
Miguel Ángel Barcos
Normando Lazzara
Roberto Cicare
Rubén Nazer
Alejandro Zárate
Ángel Digiovanni
Antonio Nevoso*
Antonio Roscini
Héctor Lettra*
Juan Salomone
Julio Ahumada*
Jorge Riccardi*
Mario Montagna
Néstor Marconi*
Nicolás Paracino
Oscar Malvestiti*
Pastor Cores*
Raúl Garello*
Roberto Vallejos*
Rodolfo Mederos*
Alberto Del Bagno
Antonio Agri*
Armando Andrade*
Carmelo Cavallaro*
Edmundo Baya
Enrique Francini*
Ernesto Gianni
Gustavo Pontoriero
Héctor Ojeda
Violín
Viola
Contrabajo
Violoncelo
Voz
表
José Amatriain
José Sarimiento
Juan Abatte
Luis Santaffio*
Nito Farace*
Osvaldo Rodríguez*
Pedro Desret
Romano De Paolo*
Cayetano Giana
Mario Lalli
Víctor Casagrande
Fernando Cabarcos
Mario Montagna
Osvaldo Monteleone
(元はbandoneón奏者)
Roman Arias
Juan Llacuna
Miguel Ariz
Alba Solis
Alberto Podestá
Carlos Casado
Carlos Maidana
Gustavo Nocetti
Héctor Dario
Julio Sosa
Néstor Real
Oscar Ferrari
Roberto Florio
Roberto Goyeneche*
Roberto Rufino
1
1964 年のカーニバルにおいてアルゼンチンの音楽家たちを冷遇することになる不愉快な事件が起きた。
ポンティエルはこれに抗議して、タンゴとフォルクローレの音楽家たちも労働組合のような団結をする
ことを提案した。こうして「タンゴの擁護のためのアルゼンチンの運動 “Moviento Argentino Pro Defensa
Del Tango”」が出現した。この「運動」の顛末については項を改めて説明する。
1968 年にアニーバル・トロイロは RCA Victor レーベルに“Nuestro Buenos Aires”というタイトルの 12
5
曲からなる LP を録音した。歌手はロベルト・ゴジェネチェであった。この 12 曲はすべて作曲がアルマ
ンド・ポンティエル、作詞がフェデリコ・シルバ(Federico Silva)であった。編曲もすべてポンティエル
によるもので、トロイロ・スタイルに依っていた。ポンティエルが他のオルケスタのために編曲したの
はこの時だけである。その上、録音に際して 1 曲乃至数曲はトロイロに代わってポンティエルが指揮を
したらしい。トロイロが他者に指揮を委ねたのはこの時だけであった[8]。
ポンティエルは将来有望な若手演奏者を育てるという観点で、1982 年に当時未だ 18 歳であった優れた
バンドネオン奏者のアレハンドロ・サーラテ(Alejandro Zárare)をポンティエル楽団に招いた。同年、こ
れまたウルグアイ人で優れた若手歌手のグスタボ・ノセッティ(Gustavo Nocetti)もポンティエル楽団に
参加した。
ポンティエルは 1983 年 12 月 25 日の突然の死に至るまで、
第 1 級の名声と実力を維持し、タンゴ界のリーダーの 1 人であ
った。ポンティエルは晩年はうつ病であったと参考資料[7]は伝
えている。その死は公式にはピストル自殺と伝えられているが、
これには異説も云々されている。死の少し前にポンティエルが
堺市在住の舳松伸男氏に宛てて執筆し、未送信のままであった
手紙には「..
.マル・デル・プラタの別荘に行って、ヨットで
ポンティエルの死を悼んで SADAIC の
パンテオンの前に集まった人々。
画像出処:参考資料[1]
釣りをしよう..
.」と書かれてあり、自殺を窺わせる記述は読
み取れない(舳松伸男、Tangueando en Japón, No.36 (2015)
p.83)
。ポンティエルがアルゼンチンのタンゴ音楽家たちを守る
ために尽力してきたことを考えると、
「異説」も故無しと片付け
るわけには行かないかもしれないが、確たる証拠があるわけでもない。文章に残す場合には公式発表に
従って「自殺」としておくのが妥当である。
ポンティエルは長身かつ眉目秀麗で、アルゼンチンの人々が「もっとも美男子」の仲間に入れる風采
の持ち主であった。藤澤嵐子さんもポンティエルについて「上背のある貴公子的風貌のポンティエルは
道を歩いていても一際目立っていた」と語っていた(中西義郎、参考資料[5])
。
タンゴ擁護のためのアルゼンチンの運動(Moviento Argetnino Pro Defensa Del Tango)
1964 年のカーニバルにおいて、アルゼンチン・タンゴ演奏家・歌手たちを差し置いて、タンゴ以外の
外来音楽家を招待しようとする、かなり横車的な動きがあったらしい。この動きはカーニバルの後もク
ラブ、バイレ、ショーにおいて様々な形で起きたという。
これに激怒したポンティエルは、ルイス・シエラ(Luis Sierra)を始めとする何人かの共鳴者を探し出
し、
「アルゼンチン音楽の擁護」キャンペーンを組織し、その結果「タンゴ擁護のためのアルゼンチンの
運動(Moviento Argetnino Pro Defensa Del Tango)」が出現した。そして国家当局に対する請願を用意した。
請願にはポンティエル、カートロ・カスティージョ夫妻、フランシスコ・カナロ、アスセナ・マイサニ、
ペドロ・マフィア、ミゲル・カロー、ルイス・スタソ、アルフレド・ゴビ、ホセ・リベルテーラ、オス
バルド・フレセド、ロドルフォ・ビアジ、アティリオ・スタンポーネ、その他多くの有名人の署名があ
った。そしてある日、政府の建物で聴聞会が開かれた。しかし、それに先立って当時の大統領のアルト
ゥーロ・リリア(Arturo Llilia)が歌手のレオ・ダン(Leo Dan)と多国籍レコード会社のフィリップスの
6
幹部たちの意見を受け入れ、
「これは若者たちとアルゼンチン音楽の代表である」とコメントしたことは
一週間前に新聞によってわかっていた。大統領がレオ・ダンとフィリップス社の幹部と会ったというこ
とは、彼らが 1964 年の事件に一役買っていたことを想像させる。
結局、大統領のコメントが明らかになったことで「タンゴ擁護のためのアルゼンチンの運動」は瓦解
してしまった。
この事件はアルゼンチンの人々にはよく知られているが、同時にあからさまに話すことを憚る問題で
もあったらしい。諸資料もそのことを慮ってか、あまりはっきりとは書かずに、何となくほのめかすよ
うな記述になっている。そのことはまたそのような問題に立ち向かったポンティエルの死因に関する「異
説」を生む根拠にもなっているようである。
この事件に一役買ったレオ・ダン(本名レオポルド・ダンテ・テーベス(Leopoldo Dante Tévez)1942
年サンティアーゴ・デル・エステーロ州生まれ)はアルゼンチン人であるが、メキシコ音楽に傾倒し、
20 以上のアルバムを録音した大物歌手である。1963 年からアルゼンチン CBS でヒットを出し、その時か
らラテン・アメリカ全域で人気の頂点に立った。多くの曲が自作自演である。1970 年から 10 年間メキシ
コに定住して活動し、更に大活躍した。1960 年代と 1970 年代のラテン・アメリカにおけるニューウェー
ブ・ミュージックの代表とされている。1980 年にアルゼンチンに帰って政治活動に入り、サンティアー
ゴ洲知事に立候補したこともある。レコード産業での勢力と同時に、なにか政治的な強力なコネが以前
からあったかもしれない。
今はマイアミに住み、現役である。
(Wikipedia 及び高場将美氏のご教示による。
)
45
Armando Pontier
の1955年以降の録音履歴
40
35
(Los Grandes del Tango Ano 1 - Numero 53 Octubre 1991所載
データによる。Orq. Francini-Pontierの録音は除外。)
データ出処:Colección “Los Grandes del Tango”, Año1 –No.53,
1991
Odeon
CBS Columbia
第1期
30
RCA Victor
第2期
MH
Serenata
Embassy 第2期
15
10
5
Odeon 第2期
MH
第2期
1980
Polydor
(Philips)
RCA Victor
第1期
CBS Columbia 第2期
20
1979
25
非タンゴ系
西暦年
図1
7
1978
1977
1976
1975
1974
1973
1972
1971
1970
1969
1968
1967
1966
1965
1964
1963
1962
1961
1960/61
1960
1959
1958
1957/58
1957
1956
0
1955
録
音
数
Embassy
タンゴ系
アルマンド・ポンティエルの録音活動
図 1 はポンティエルが独立した 1955 年から最後の録音になる 1980 年までの録音履歴である(フラン
チーニ‐ポンティエル楽団録音は除いてある)。25 年間に 262 曲であるから、そう多い方ではない。特筆
すべきはタンゴ系が極端に多く、262 曲中 250 曲、比率にして 95%を占めることである。器楽演奏は 73
曲で比率にして 28%となり、歌曲が多い現代のオルケスタとしては平均的な値であろう。もう一つの特
徴は録音レーベルが非常に分散していることで、
重複も含めると 25 年間に 12 レーベルを遍歴している。
どうしてそうなったのかは明らかではないが、営業的見地からは、特に日本のタンゴファンに知っても
らうためには、余り得策ではなかったのではないだろうか。
昭和 30~40 年代の日本ではアルゼンチンのタンゴのレコードを直接購入できたのはごく限られた人た
ちで、大部分のタンゴファンは日本のレコード会社とアルゼンチンのレコード会社との契約に基づいて、
日本で製作されたレコードに頼るしかなかった。だからポンティエルのようにレコード会社を転々とす
るアーティストの場合はその都度契約しなければならないという煩わしさから中々レコードの日本発売
に至らず、結果としてポンティエル楽団は日本のタンゴファンとは疎遠になってしまった、と言えなく
もないのである。
アルマンド・ポンティエルの演奏スタイル
ポンティエルの明快ではずむような「スウィング感」にあふれた演奏スタイルは独特のものであるが、
レコード会社を変わる毎にスタイルは少しずつ変化している。それでもポンティエルの演奏であること
は一聴すれば直ぐにわかる。現代では一般にタンゴ楽団の演奏スタイルがわかり難くなっているが、そ
の中でポンティエルの演奏スタイルはフランシスコ・カナロ、プグリエーセ、ディ・サルリ、ダリエン
ソ、ビアジらと並んでわかり易い演奏スタイルの代表と言ってよいだろう。そして重要なことは、この
演奏スタイルが 1955 年の独立に際して新たに創出されたものではなく、フランチーニ‐ポンティエル楽
団時代からの継承・延長であると言うことである。簡単に言うと
(ポンティエル楽団)=(フランチーニ‐ポンティエル楽団)-(フランチーニ)
という表現が成り立つと言える。但しこの表現は音楽表現についてのことであって、楽団のメンバー構
成を言っているのではない。踊るためのタンゴが主流のアルゼンチン本国ではクラブ、バイレ、カーニ
バルなどでの生演奏の需要は常にあるから、これでも何ら問題は無い。しかしレコードを通して聴くこ
とが主体であった日本のタンゴファンからすれば、わざわざポンティエル楽団のレコードを買わなくて
もフランチーニ‐ポンティエル楽団のレコードを聴いていればそれで十分ということになる。
エクトル・バレラとフルビオ・サラマンカがダリエンソ楽団から独立する際に、ダリエンソ・スタイ
ルの延長ではなく、全く新しい演奏スタイルで出発し、世間を驚かせ、同時にそれで成功した(サラマ
ンカはその後腰砕けになってしまったが)
。バレラとサラマンカはその点で賢明であったといえる。ポン
ティエルが賢明でなかったと言うわけではない。ポンティエルにとっては独立に際して演奏スタイルを
変える必要は無かった。フランチーニ‐ポンティエル楽団時代のスタイルこそが彼のスタイルであり、
それを継承することが彼にとってはむしろ当然であったとも言えるのである。
先の表現はフランチーニ楽団に対しても、勿論当てはまる:
(フランチーニ楽団)=(フランチーニ‐ポンティエル楽団)-(ポンティエル)
しかしフランチーニ楽団の場合は、余人をもって替え難いフランチーニのビルトゥオーソ・バイオリ
8
ンが売り物である点がポンティエル楽団の場合と少し異なる。加えて、フランチーニ楽団は活躍期間が
非常に短かった。
作曲家としてのアルマンド・ポンティエル
ポンティエルは作曲家としても表 2 に示すように多くの作品を残している。曲数そのものはエクトル・
バレラを少し上回る程度であるが、名作、ヒット作とされる作品についてはポンティエルの方がはるか
に多い。
器楽曲では何と言っても“Milongueando en el 40”
、
“A los amigos”
、
“A mis Amigos”が有名であり、そ
れ以外でも“A Zárate”
、
“Pichuco”なども良く知らている。歌曲においても“Cada día te extraño más”、
“El
milagro”
、
“Margo”
、
“Trenzas”
、
“Tabaco”
、
“Que falta que me haces”など名作、ヒット作が多い。
この中で“Que falta que me haces”については中西義郎氏が次のような紹介している(参考資料[5]):
ミゲル・カローがオルケスタ・デ・ラス・エストレージャスを編成して LP を録音することになった時、
この企画にはメンバーの各々が適当な自作曲を出そうという話になった。ところがこの時カローには適
当な作品が無かった。そこで“Que falta que me haces”をポンティエルとの共作と言うことにして SADAIC
に提出した。ところがこれが爆発的ヒットとなった。
「実はこんなにヒットするとは思わなかった」とは
ポンティエル自身の言葉である。カローは「棚から牡丹餅」であったわけである。カローはチャンスを
つかむのが実にうまい人(カナロのようだ)で、口の悪い連中は彼のことを Negociante(商売人)と言っ
ているそうである。
結び
冒頭にポンティエルを「三冠王」と形容した高山正彦氏の言葉を引用した。確かにポンティエルは(1)
バンドネオン奏者として、
(2)マエストロとして、
(3)作曲家として、それぞれ優秀ではあるが、同
時に他者を圧倒的に引き離しているとも言い難い。そこがポンティエルの弱点でもある。もし彼が、ミ
ノット・ディ・チコやフアン・カンバレーリに匹敵するバンドネオンの妙技をもっと披露していたら、
それだけでも彼は今以上の高い評価を得ていたであろう。しかしポンティエルは個人の事柄よりもオル
ケスタ全体のパフォーマンスを重視したようだ。その点では確かに優秀なマエストロであったに違いな
い。作品の数も確かに多いが、わざわざ「作曲家」とするまでには至らないのではないか。
そうは言っても今改めてポンティエル楽団のレコードや CD を聴いてみるとどれも中々の名演奏であ
ると言うべきではないかと思う。以前と違って今日ではポンティエル楽団のレコードや CD は手に入り易
くなっているから、レコード・コンサートやミロンガなどでポンティエル楽団はもっと取り上げられて
良い存在である。その場合、フランチーニ‐ポンティエル楽団を未だ「引き摺っていた」1950 年代の演
奏にどうしても好まれがちになると思うが、そればかりでなく演奏スタイルが次第に変化してきた後年
の演奏を聴く必要もあると思う。
9
Armando Pontierの作品
(データ出処:Colección “Los Grandes del Tango”, Año1 –No.53, 1991)
種類
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
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曲種
器楽曲
Tango
Milonga
Tango
Tango
Tango
Milonga
Tango
歌曲
Milonga
Tango
Vals
Tango
Tango
Tango
Tango
Tango
Tango
Tango
Tango
Milonga
Tango
タイトル
A La Guardia Veija
A José Manuel Moreno
A los 48
A los amigos
A Luis Mariani
A mis Amores
A tus pies bailarín
A Zárate
Cuando talla un bandoneón
Distrio 14
El embajador
Extraños
Milongueando en el 40
Pa'que se scuerden de mi
Pichuco
Poema de arrabal
Siempre joven
Tango a Japón
La fortinera de Trenque Launquen
Dónde quiera que estes
El Momento señalado
El mundo que formamos
Sombras del Puerto
Cada día te extraño más
Corazón no le hagas caso
Pecado (Enrique Franciniとの共作)
Canción para un breve final
El milagro
Margo
Pa'qué
Trenzas
Entre Zárate y campana
Claves blancas
Tabaco
Bien criolla y bien porteña
Esas cosas ue me han quedado
Anoche
La pared
El vals soñador
Una Historia como tantas
Amada melancolía
El hombre que fue ciudad
La serranita
tal vaz porque la querido
Cuando hable con Dios
La última lágrima
La mariposa y la muerte
Esa es la puerta
A traves del tango
Certificado
La Junada
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作詞者
Armando Pontier
Carlos Bahr
Homero Expósito
José María Contursi
Cátulo Castillo
Oscar Rubens
Héctor Marco
Horacio Ferrer
Roberto Lambertucci
Julio Camilloni
Eugenio Majul
Carlos Mastronardi
Julio Gutiérrez Martín
Oscar Del Priore
Marcilio Robles
Ángel Di Rosa
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種類
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曲種
歌曲
その他
タイトル
Amance
Apenas marielena
Cielo de cometas
El mismo final
El puente
Es nuestra despedida
La esquina cualquiera
Nuestro Buenos Aires
Tango
Otra vez Esthercita
Palermo en Noctubre
Para poder volver
Que falta que me haces
Romance de la ciuda
Tango del colectivo
Tanguihistoria
Zurdo
Carroussel
Vals
Señorita María
Apenas otro adiós
Carta para no mandar
Dormida
El hombre del fueye
Ella se llama deseo
La ventana
Mi sentencia
Nada en especial
記述無し Para siempre
Por ahora
Por si me muero cantando
Tal vez porque la quiero
Todo un hombre
Tu nombre en el agua
Y llora el ventanal
Yo soy todos ustedes
Yo te quiero así
作詞者
Federico Silva
参考資料
[1] Colección “Los Grandes del Tango”, Año1 –No.53, 1991
[2] Horacio Ferrer, “ El Libro del Tango” Tomo II,
1980
[3] 大岩祥浩、
「アルゼンチン・タンゴ アーティストとそのレコード」(改訂版)、
((株)ミュージック・
マガジン 1999 年)
[4] 影山雅英、Tangueando en Japón, No.27 (2011) pp.71-85; ディスコグラフィ補遺、No.28 (2011) pp.73-74
[5] Tango Argentino (ポルテニヤ音楽同好会機関誌)No.96 MARZO (1967)
[6] Tango Argentino (ポルテニヤ音楽同好会機関誌)No.97 ABRIL (1967)
[7] http://www.todotango.com/english/artists/biography/700/Armando-Pontier
[8] Oscar del Priore, “ANIBAL TROILO
OBRA COMPLETA EN RCA Vo. 14” 74321 69742-2 (ライナーノ
ート)
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