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ロシアの性愛論 IV.

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ロシアの性愛論 IV.
Studies in Languages and Cultures, No.9
ロシアの性愛論 IV.
ローザノブ 1.
青 山 太 郎
1
ショーペンハウエルが性愛において個を種に還元したとするなら、ソロヴィヨフやベル
ジャ脂汁フのめざすところは、種の盲目的自然力に抗して個を貫徹させることでした。
ショーペンハウエルにあって、個は種の圧倒的力の前になすところがないわけですが、ソ
ロヴィヨフやベルジャ皿山フにあって、個は種との妥協を一切拒否すべきであり、また拒
否することは可能だというのです。それにしても、ベルジャーエフが個に対する種の束縛
を断ち切り、個を純化してゆくにつれ、われわれは個を囲む大気がだんだんと、息苦しい
までに稀薄になってゆくのを感じないわけにはいきません。個は種から完全に自由になる
ことで、結局自らも窒息死してしまうのではないかと危惧される。われわれはこのあまり
に純化された個から引き返して、もう一度種の流れに樟差すことにします。
われわれは既にローザノブの名に言及しました。ローザノブは1856年生まれですから、
ソロヴィヨフと同世代に属する著作家です。北部ロシアはコストロマ地方の小官吏の家庭
に生まれ、永いこと地方の中学教師をしていました。母親が早くから寡婦となり、恩給だ
けで五人の子供を養わねばならなかったこともあり、ローザノブの少年時代は暗く苦しい
ものでした。母親が再婚してからは、継父ともうまくいかなかったらしい。
彼はモスクワ大学の学生であった頃、ドストエフスキーのかつての恋人アポリナリヤ・
スースロワと出会い結婚したという、変わった経歴の持主です。これは1880年、未だドス
トエフスキー存命中のことで、ときにローザノブ24歳、スースロワは40歳でした。この結
婚生活はローザノブにとって塗炭の苦しみとなり、もちろん永続きせず、のちに彼は別の
女性と円満な家庭生活を営むことになりますが、スースロワが永いこと離婚に同意しなかっ
たため、彼はその間自らの家庭を合法化することができませんでした。のちに彼が『ロシ
アの家族問題』 (1903)で離婚の容易化のために論陣を張るのは、自らの体験に基づいて
のことです。
彼は中学校では歴史と地理を教えていましたが、その講義は退屈で、生徒たちにはすこ
ぶる不人気であったそうです。因みに、ソロヴィヨフやベルジャーエフが貴族的な容貌と
立派な押出しの持主であったのに対し、ローザノブはいかにも小官吏然とした、風采の上
がらない小男でした。
1893年ペテルブルクに官吏の地位を得、以後保守系の新聞雑誌に寄稿するようになり、
やがて著作家として筆一本の生活に入ります。彼は若い頃からドストエフスキーの心酔者
で、初期の著作としては、『大審問官説話』を論じたドストエフスキー論(1892)が有名
です。
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しかし彼が「性とキリスト教」の問題.を自らの生涯のテーマと見定め、これをめぐる一
連の著作によって若い世代から新時代の開拓者と仰がれ、思想家としてロシアの文壇に重
きをなすに至るのは、二十世紀に入ってからのことです。彼の著作は彪大な量にのぼりま
すが、それらはいずれも評論、エッセイ、書評等のかたちで新聞雑誌に発表されたもので、
最初期の著作を除き、学術的な哲学論文の体裁をとったものはありません。哲学論文たる
には、彼の文章はあまりに文学的であり、具体的形象に満ち満ちています。彼は思想家と
言わんより文学者でした。「彼の文章は正真正銘言葉の魔術であった。彼の思想をその文
学的フォルムから切り離して記述すれば、彼は非常に損をする」とべルジャーエフも言っ
ています(『ロシア的理念」第十章)。
ローザノブは、日本では未だあまりに知られざる思想家です。ここでは彼の比較的初期
の評論『宗教としての家族』、 『ヘロデ王伝説」、 『女性の当面する大いなる任務』 (い
ずれも1898年頃)等に基づき、この時期のローザノブの思想を紹介します。
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われわれはこの考察をトルストイの『クロイツェル・ソナタ」から始めました。ローザ
ノブもこの作品には度々触れており、そのうちいちばん重要なのが評論集『曖昧模糊の世
界で」(1901初版)所収の『宗教としての家族」GeMB∬KaK pe∬HrH∬です。これに即し
てローザノブの『クロイツェル・ソナタ」観を見てみましょう。ロシア語のceMBHは差し
当たり家族と訳しておきますが、これは英語のfamilyに相当し、家族の個々の成員のこ
とではなくその全体を指す言葉、独身、未婚、処女、童貞等に対置される言葉、それゆえ
家族よりも家庭、家庭生活、結婚生活と訳したほうが適切な場合もある、そうした語であ
ると御承知下さい。
ローザノブによれば、『クロイッェル・ソナタ」には明らかな表の意味と、秘められた
裏の意味がある。その明らかな表の意味において、トルストイは結婚に反対している。こ
れはわれわれが既に見たとおりです。「嬰らざるに如かず」(マタイ伝19.10)という福音
書の言葉が全篇に展開され、厳しい法として推しだされています。この一見穏やかな指示
は全キリスト教世界を覆い、そこに独自の色合いと音色を賦与したのでした。ローザノブ
はこの言葉に再三再四立ち返り、その「独自の色合い」に思いを凝らすこととなります。
うめ ふ え み て
「嬰らざるに如かず」。これは旧約の「生よ繁殖よ地に浜弓よ」という誠命や、イエス
の「われ律法を穿たんとて来らず、反って成就せん為なり」という言葉を考え合わせるな
らば、あまりに目新しく意想外な指示であり、のちの時代の挿入かと思えるくらいです。
もっとも、福音書には他にも、これを遠回しに準備する言葉がないわけではありません。
「わが母とは誰ぞ、わが兄弟とは誰ぞ。誰にても天にいます我が父の御意をおこなふ者
は、即ち我が兄弟、わが姉妹、わが母なり」(マタイ伝12.48−50)
「人の仇は、その家の者なるべし。我よりも父または母を愛する者は、我に相応しから
ず」(マタイ伝10.36,37)。
ここには、血肉の絆の明らかな否定があります。また、「汝はペテロなり、我この(荒
いは
野の)磐の上に我が教会を建てん」(マタイ伝16.18)の言葉は、教会全体が(あるいは殆
ど全体が)荒涼たる隠遁生活の上に建てられるであろうことの予告とも見えます。ローザ
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ノブによれば、これら全ての秘かな指示はゴルゴタの予告であり、キリスト教は終始ゴル
とも
ゴタの精神・ゴルゴタの哲学の内に成長したのでした。「われらキリストと楷に十字架に
つかん」、「われら情と欲とを十字架につけん」と或る教会詩は歌っています。一篇の教会
詩ばかりではない。教会全体が経帷子に被われている。ローザノブにとってキリスト教は
ゴルゴタの宗教、神化された死の宗教なのです。「洗礼のなんと簡略なことか。巴町のな
んと無味乾燥で、痛悔と領聖のなんと慌ただしくも短いことか。しかるに人の死なんとす
るや、俄にキリスト教は生気を帯びる。なんという歌、なんという文句!なんという思い、
そして、繰返すが、なんという詩!」(『宗教としての家族」)。
「婁らざるに如かず」をモットーとすることで、トルストイは確かにゴルゴタの宗教を
説いている。しかるにローザノブによれば、これはあくまで『クロイツェル・ソナタ」の
表層の思想にすぎないのであって、この作品の秘かな思想は挙げて結婚の肯定にある。た
だこの肯定は、結婚とは何かという深い疑惑に伴われているのだ、というのです。『アン
ナ・カレーニナ」執筆中に既に作家を窒息させていた悲嘆と疑惑が、ポズヌイシェフ=ト
ルストイの働契と呪誼となって、何ひとつ理解しようとしない公衆の面前に奔出した。
「諸君は描かれた情景を理解していない。諸君はかくも無神経なるがゆえに、「アンナ・
カレーニナ』と『戦争と平和」ののちわたしがあれほど親身に尋ねかけた事柄について、
然りも否も言おうとしなかった一それならどうだ、喉を掻っ切られた女と、粉飾なしの
生のままの独白だ。これならいやでも言わずばなるまい一門りか、否か」(r宗教とし
ての家族』)。これがトルストイの真の意図だったというのです。
ローザノブは、トルストイが教会を離れた理由のひとつとして、彼が『アンナ・カレー
ニナ』の中で教会宗規の側面からかくも綿密に分析してみせた結婚問題に関して、また全
ロシアを平滑させたアンナの悲劇的な死に関して、宗教界がいかなる反応も示さず、この
深刻極まる問題に何の回答も提出しなかったことを挙げています。「人生の中心問題の詳
細は、あなた方にはどうでもいいのだ。それならわたしにも、あなた方の教義の詳細はど
うでもいい」一こういう論理が彼の教会離反と対教会無関心の根底にあったに違いない、
というわけです。
そもそもトルストイの作品がロシア文学にあって斬新かつ貴重であるのはなぜか。誰も
が彼の最初の大作における戦争哲学と歴史哲学を論じた。しかしトルストイの思惟の重心
がここになかったことは、こんにち彼が反戦論者となって戦争を否定し、歴史の流れに逆
らい、ここ数年来序的な情熱をもって『クロイツェル・ソナタ」を書いていることからも
分かる。これこそ彼の内で死に絶えなかったもの、彼の思惟の中核だったのであり、それ
は他でもない「家庭の詩」、殆ど「家庭の宗教の始まり」と言えるものであった。
「アンナは妊娠ゆえに許される。キティは産みの苦しみに叫ぶ。ナターシャは赤ん坊の
おむつを振り回し、夫の政治談義を遮って言う、『お医者さん呼ばなくてもいいわ、また
黄色くなったから』。『復讐は我に在り、我これを酬いん」。堕落によって、死によって、
列車の車輪の下での恐ろしい苦しみによって(アンナ)、夫のナイフによって(ポズヌイ
シェフの妻)、我これを酬いん。紙巻き煙草を吸い、行き当たりばったりの人間に車室で
悲しげな独白をぶつぶつ眩いて聞かせるこの偏執狂の涙と疑惑の内に、我これを酬いん。
何のために『酬いん」というのか。しかり、『わが父の家を醜行の対象となす閉れ」とい
う、常に変わらぬ誠めのために。〈……〉トルストイの高さと独自性、その斬新さとは、
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彼が微妙な、未だ辛うじて見分け得るほどの、幽かに焼めく宗教的光明を初めて捉え、さ
らにこれを自らの芸術によって人々に感じ取らせたことに存する。この光明によって、『神
うまぶね
の家」はいかなる貧しい村にも、ベツレヘムの馬槽の傍らに営まれるのだ(ドリーのジャ
ケツ。継ぎあて)。もしもそれが義しく形作られた家族、たとえ一面からなりと号しく形
作られた家族であるならば(ドリーとスチーワの場合)。彼が自ら把握することで人々に
感じ取らせたものは、「旧き契約」を守ることで誰もが我身の回りに営んでいる『旧き幕
屋」である。トルストイの語りだしたものは、何かしらおそろしく旧いと同時に、おそろ
しく新しいものであった。『ああ、罰当たり共め、このことが分からないならば、いっそ
結婚するな…」と彼はrクロイツェル・ソナタ」で叫び、読者にナイフと血を示して石板
を砕いたのだった」(「宗教としての家族」)。
かくしてローザノブによれば、トルストイの全文学活動は、「家族」と「馬槽」へ、つ
まりわれわれの生活の「ベツレヘム的」側面の繊細かつ詳細な分析へ、言い換えれば、ゴ
ルゴタの誘き対極的方向へと展開したのでした。トルストイにあって、殺人が『クロイツェ
ル・ソナタ」以外どこにも出てこないことは、顕著な事実です。
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rクロイツェル・ソナタ」という作品は、結婚前と結婚後の放蕩の描写です。夫は結婚
後も自分勝手な放蕩を続け、今や少女をも自分と同じ罪の道へ引きずり込む。ここでトル
ストイは、結婚の実態について問題を提起し、清浄な結婚の実現可能性を問い、結論とし
てこの可能性を斥けたのでした。ローザノブは、トルストイのこの結論には同意しない。
しかしトルストイの提起した家族についての問いには満腔の賛意を表する。
こんにちわれわれは真の家族を有しない。われわれには名ばかりの家族しかない。われ
われが有するのは家族の虚構であって実体ではなく、またこの家族をいかにして確立しう
るかについて、いかなる理念も有していない。家族の内に再度宗教の光を注入せねばなら
ない。夫が妻の内に、また妻が夫の内に、宗教的な何ものかの始源を感じ取るような宗教
的結びつき、これが家族の内に生まれねばならない。嘗て旧約の世界において、事実家族
とはそのようなものだったのです。しかしそのためには、キリストの内にゴルゴタ的弓性
質を、墳墓の悲しみを崇めるのではなく、ベツレヘム的諸性質を、「肉化された神」の歓
びを崇めねばならない。その時すべての家、すべての村は神殿へと、太古の礼拝の行われ
た「旧約の幕屋」へと高まるでしょう。人類は死の宗教に代わる誕生の宗教を始めること
で、ひとつに結びつくでしょう。しかしその時は全てが変わる。全ヨーロッパ文明がその
色合いを変えてゆく。修道院にはその外見を変えることなく家族が導入され、逆に家族の
内には、その本質を変えることなく修道院的規律が導入される。ポズヌイシェフが欲して
いたのはまさにこのこと、宗教としての家族だったのだと、ローザノブは言うのです。天
からもたらされる火の火種は、太古からこんにちに至るまで、結婚制度の内にある。ただ
この結婚が、名目的なものから実質的なものへと変わらねばならない。その結果われわれ
の有することとなる宗教は、やはりキリスト教かもしれない。しかしその場合のキリスト
教はすこぶる歓びに満ちた生気溢れるかたちをとっているので、その禁欲主義的段階たる
ゴルゴタ的キリスト教の傍らでは、全く新しい別の宗教かと思われる。
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「家族は神の家たるべし」、「結婚は不壊にして永遠の機密なり」と人々は、法律は、国
家は言います。しかし、その深みが最悪の罪の理念と結びついているとしたら、それはいっ
たいどうやって「神の家」、「永遠の機密」たりうるというのか。これがローザノブによる
問題提起の根本です。家族は結婚から始まり、結婚の根底には性の絆が、性行為がある。
しかるにごんにちの宗教理念たるキリスト教は、性に対して態度が曖昧であるか、性を否
定するかであり、そこにあって性は宗教から隔離され、宗教的是認を得られないままに放
置されている。ここからわれわれは、宗教的家族ならぬ経済的・法的家族をもつにすぎな
い結果となった。正教ロシアのみならずヨーロッパの全キリスト教門において、名目的な
家族や結婚がかくも幅を利かせ、たとえ既に崩壊していなくとも、常に崩壊の危機を孕ん
でいるのはこのためです。性の問題に神の光を当てねばならない。
「われわれは生が神的なものとなることを欲している。しかるにわれわれは神の像を家
の外に置いた。われわれの家が神の住処とならないのは当り前である。この像を家の中に
持ち込もう。そうすれば家は神殿となり、祈りの家となるであろう。」(『宗教としての家
族』)。
家族は結婚に始まり、結婚は男女の肉の結びつきに始まりますが、この結びつきにおい
て結婚は死に勝利するのです。比喩としてではなく事実として、死に勝利する。嬰児の内
にはわたしのものと妻のものがあり、われわれは嬰児の内に生き、嬰児を生むことを通し
て永遠に生きる。誕生は死からその犠牲を永遠にもぎ取り、死の手中には実在の抜け殻し
か残さない。実在そのものは死の手を滑り抜けて生きのびる。ソロヴィヨフやベルジャー
エフと違い、ローザノブに産むことへの嫌忌はありません。彼にとって産むことは最も高
貴な行為です。
男女は結婚において或る「かけがえのないもの」を脆拝しているのですが、ではその脆
拝の対象は何でしょう。言い換えれば、放蕩、つまり結婚における神聖冒漬と、宗教、つ
まり結婚における神聖なるものとの境界は、奈辺に存するのでしょうか。ローザノブによ
れば、それは性の根本特徴としての純潔耳eπOMy双μeにある。これこそ結婚をとりまく精
神的光輪であり、これこそ結婚を放蕩から区別するものです。
純潔の注目すべき点は、それが肉の絆を排除しないことです。純潔の最高の理想は妻で
あって処女ではない。聖なる肉の交わりは、性からその機密性と神聖さをはぎ取らない。
成功した結婚において、婚礼の処女のヴェールは花嫁の額から決して取り去られることが
なく、老年に至り多くの子をなしたあとでも、夫婦は花嫁と花婿のように互いを愛でる。
「純潔はとりも直さずとりわけ性のみの特性であり、知性の質でも、心の特徴でも、性
格の属性でもない。これは人間の、自らの性への敬意、自らの内なる侵し難く神聖なもの
としての性への、寡黙にも注意深い態度である。知性と心の高次の諸特徴の内に、純潔と
同じ特性はひとつとして存在しない。純潔はそこから流れ出る或る種の天上の光輝によっ
て、それらすべてを凌駕している」(『宗教としての家族』)。
純潔とは黙した性の特性ではなく、活動的な性の特性なのです。
「われわれは性行為の魂と真実を完全に見失ってしまった。性行為とはまさに純潔破壊
の行為ではなく、純潔獲得の行為なのだ。この行為の否定と耐え難い汚染の深淵を通って、
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われわれはこんにちの現実へと墜ちてきたのであり、この現実からは喜ばしい真理を見る
ことも覗くことも、もはや殆ど不可能となっている」(『宗教としての家族』)。
み
性行為が本来聖なる行為である筈だという証拠のひとつは、子供です。「樹はその果に
よって知らる」(ルカ伝6.44)。嬰児の驚くべき無垢は、結婚の純潔に由来している。人間
は誕生の瞬間から遠ざかれば遠ざかるほど暗くなる。嬰児の輝きの内には、この世を超え
た彼岸の聖性がある。子供のない家は(精神的に)暗いが、子供のある家は明るい。永い
こと嬰児を眺めたり嬰児の相手をしたりすることで、われわれは立ち直り、善意と真実へ
立ち帰る。
「この(シニックたちの言う) rじたばたしている動物」が(さらに悪意に満ちたシニッ
クたちの言う)『この上なく動物的な』行為の果実だとしたら、どうしてこんなことがあ
りえよう。シニックたちの見地からは一切が不可解である。しかしわれわれが性の魂を純
潔と、性のリズムを純潔の楷梯の上昇と同一視するや、直ちにわれわれは、性行為の果実
たる嬰児が肉体化された純潔に他ならないこと、嬰児が純潔からこそ自らのすべての特性
(無垢)を得ていることを理解するのだ。罪深い行為の果実は罪深く、みずぼらしい筈で
ある」(『宗教としての家族』)。
ローザノブは、こんにちあるがままの性行為をそのまま肯定しようというのではありま
せん。こんにちあるがままの性行為とは、稀な例外を除いて殆どが放蕩にほかならず、無
垢な性行為を思い浮かべることすら、現代人にとってはもはや不可能となっている。この
ことはトルストイが『クロイツェル・ソナタ」で忌揮なく描いたとおりです。しかしロー
ザノブには、性は本来純潔であり、性行為もまた純潔であり、現に人類の大部分は性を純
潔なものとして崇め、放蕩に過ぎぬ性行為と並んで純潔な性行為を実行しているのだ、と
いう信念があります。ただ個々の場合、つまり個人の性生活において、・どこまでが純潔で
どこからが放蕩であるかを言うことは、絶望的に難しい。ここでは登場人物が限りなく多
様であるのに応じて、主題の限りなく多様なヴァリアントがあるからです。
ベルジャ門田フは、あらゆる人間にあって性行為は一様であると言いました。あらゆる
人間にあって一様であるどころか、人間と動物を通じて一様であると。これはいかにも性
交忌避者らしい言い分です。ローザノブはそうは考えない。筆跡は各人の退っ引きならぬ
癖を反映するがゆえに、人間の数だけ存在する。筆跡といった些細な事柄においてすらそ
うである以上、性行為においては言うを侯たない。性行為の仕方は人間の数だけ存在しま
す。さらにベルジャーエフは、性行為が人間と動物を通じて一様であるとして、これによっ
て性行為を既めていますが、「動物的」という言葉はローザノブにとっていささかも誹誇
的意味合いを含まない。ローザノブにとって、性は人問を動物と結びつける一点であるこ
とによってこそ貴いのです。彼にはD.H.ロレンスにも似た生命力讃美の思想があります。
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ここで、よく知られた「性的差恥心」の問題に触れておきます。ローザノブが家族と結
婚を擁護し、性行為を弁護するや、人々はすぐさまソロヴィヨフの「性的董恥心」をもち
出しました。人が性行為を恥じるのは、人間の内なる最も根源的な倫理的要求である。性
行為は精神の内的抗議を暫時抑えることによってのみ可能だというのが、もうひとりの性
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交忌避者ソロヴィヨフの主張でした。
ローザノブによれば、ソロヴィヨフは何も分かっていない。人は性行為を恥じるのでは
なく、それを隠し、そこに隠れるのである。さもない限り、人々は結婚なぞしないでしょ
う。なぜなら、彼らが性行為のために結婚すること、また新郎新婦が翌日にはもはや処女
と童貞ではないことを、誰ひとり知らぬ者はないのですから。盗みは恥ずべきことであり、
罪です。それゆえわれわれは盗みの個々の行為のみならず、われわれが盗人であることを
隠します。しかるに、自分たちが夫婦であること、夫婦として生き結びついていることを、
隠す夫婦はいません。もしも性行為が恥ずべきものなら、若い娘は嫁には行かないでしょ
うし、あるいは行くにしてもこっそり行くでしょう。ちょうど盗賊団にこっそり入団する
ように。(以上、 『曖昧模糊の世界で」P.153、論争資料より)
いっぽう、人が生殖器や性行為を隠すということは、これがわれわれの身体の内で、ま
たわれわれの行為の内で、いちばん差ずかしがりやで、いちばん慎ましく、優しく、いち
ばん純潔な部分であり行為であることの、証拠ではないでしょうか。ソロヴィヨフは「隠
す」ことと「恥じる」ことを混同しているのです。われわれは性行為を恥じはしない。し
かしそれを隠す。それを隠すのは、性行為が恥ずべきものだからではなく、あまりに神聖
なものだからだ、というのがローザノブの主張です。そればかりではない。注目すべきこ
とに、性行為は差恥心を乗り越える。夫婦はもはや互いに恥じない。
愛と「播種の瞬間」は、夜と静寂を求める。夜は大いなる種播き人です。生が闇を求め
夜を愛するのは、理由のないことではない。これは性自体が闇だからです。といっても、
人間を取巻く闇ではなく、人間の内なる闇です。罪としての闇ではなく、聖なるものとし
ての闇です。人は性行為において彼岸の何ものかに出会うのであり、それゆえにこそ性は
繁殖のための機能たるにとどまらず、人格そのものなのです。もしも生が機能であったな
ら、人は性行為の対象に対してこれほど口姦しくなく、より冷淡であって、愛、純潔、結
婚は存在しないでしょう (SF小説描く未来社会での性生活のように)。純潔への強圧的侵
害、すなわち性を機能と見倣す態度が、かくも衝撃的で恐怖心を惹起するのはこのためで
す。強姦は単なる侮辱ではない。これは人間存在の超越的基底を破壊することです。
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ローザノブは、現代ヨーロッパ文明の頽廃(家庭の崩壊、不倫、子殺し、売春、性病等々)
が家庭の頽廃に根ざしていると考えます。純潔な家庭の再興こそ急務です。しかし家庭の
頽廃がここまで至ったのにはそれなりの理由がある。家庭を支える道徳とその根底たる宗
教理念が本来偏頗なものだったのであり、そこから健全な家庭の育ちよう筈はなかった。
この偏頗な宗教理念とはいかなるものでしょうか。
ローザノブによれば、キリスト教はその出発点において道を誤った。このことの象徴が、
福音書冒頭のヘロデ王による幼児殺裁の伝説(マタイ伝2.16)だと言うのです。フラヴィ
ウス・二三フスによるユダヤの同時代の史誌には、この事件はありません。この話は福音
書の冒頭にのみ、キリストの誕生に接して出てきます。
そして福音書の末尾ちかくには、この話の帰結とも言うべき挿話がある。すなわち、既
に死へと赴きつつあったキリストは、飢えて無花果の樹に果実を求めますが、樹には果実
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がなく、キリストはこれを咀つたのでした(マタイ伝18.19)。
これら二つの挿話に挟まれて、肉を欠いた福音書が位置する。(「肉を欠いた」という意
味は、福音書が果実、つまり幼児の存在に関して、また「実を結ぶ無花果の樹」、つまり
母性の存在に関して、一切沈黙しているということです。なるほど幼児については、未来
の教えとの関わりにおいて、およそ幼児の如く神の教えを受け容れる者でなくては神の国
に入ることはできない、という言及があります。しかし誕生、母性、家族との関わりにお
ける幼児について、福音書は沈黙を守っています。)
福音書のほぼ冒頭と末尾に位置するこれら二つの挿話とは、何かの原型、さらには警告
ではなかろうか、とローザノブは言うのです。「キリストを認めることを命じたり……幼
児をことごとく殺すことを命じたり……」。言い換えれば、多くの者がキリストの教えの
成就を索めるであろうが、彼の教えの霊性(肉を欠いていること)に画き、「幼児を殺す
ことでキリストを見つけ出す」というヘロデ的思考に陥るであろう。そしてこれによって、
霊的なもの(肉を欠いたもの)と期待された生は、果実を欠いたもの(不毛なもの)とな
るであろう、ということです。
この警告は理解されなかった。キリスト教はキリストの教えの成就に努めつつ、実際に
はヘロデの迷誤の道を進んだ。この道の究極に位置するのが、ロシアのセクトたる去勢派
です。彼らの迷誤は一見したところ狭い特殊な現象のようですが、実はその熾烈な首尾一
貫性において比類のないものです。これほど突き詰めたかたちはとらなかったにせよ、本
質的に言って同じ迷誤の影が、全キリスト教ヨーロッパを覆ったのでした。
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グレゴリウス七世(ヒルデブラント)といえばカノッサの屈辱で有名な十一世紀のロー
マ教皇ですが、彼はまた宗規の一連の改革によって、教会の規律を高めることにも努力し
ました。聖職者の妻帯禁止を宗規としたのは彼です。「妻帯司祭が如何にして聖餐の盃に
手を触れえよう」と彼は或る私信に記しています。彼にとってキリスト教とその肉を欠い
た教義は、結婚の現実的でもちろん肉的な本質と、全く相容れないものに思えたのでした。
ヒルデブラントが聖職者の禁妻帯を説いたのは、いささかも実用的顧慮からではなかっ
た。確かに、家族ゆえの煩労から自由で、俗世に縛られず呪事に没頭しうるような禁妻帯
の働き手を得ることは、教会にとって望ましいことに違いありません。使徒パウロも「婚
姻せし者は如何にして妻を喜ばせんと世のことを慮ばかりて心を分つなり」(コリント前
書7.33)と言いました。しかしヒルデブラントの念頭にあったのは、こうした実用的顧慮
ではなかった。少なくともこれだけではなかった。彼の内には、神性と人間の関係への遙
かに深く本質的な直観があった。まさにこの時ヒルデブラントには、神性と人間の関係が、
「結婚による肉の交わり」と両立しえないものとして感じ取られていたのです。
短期の激しい戦いののち、結局ローマ司教の不快感が勝ちを占め、以来数世紀間、ヘロ
デ王伝説は歴史上の事実となりました。これは人間精神のある種の改造でした。つまり各
人が自己の内なる幼児を殺したということであり、人間精神が自らの内なる生の核心との
絆を、暖かい「獣性」との絆を絶って、厳格に、無味乾燥に、天上の「精神」へと成長し
始めたということです。精神と肉体は分離し、宗教は肉的であることをやめたのです。
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この分離はわれわれの内なる動物的なものを殺したばかりではない。同時にわれわれの
思念から血肉を抜き取り、精神の内には「地上のもの、泥に塗れたものは何ひとつない」
という虚構をうちたてた。われわれはこの欺隔に目眩み、「清浄な精神」を崇めだしたが、
実は空虚を崇めていただけであり、いっぽう崇められなくなった生は先ず濁りだし、次い
で退化し、高度の虚構(清浄な精神)にぶら下がる「痕跡的付加物」といったものになり
下がってしまった。
「精神」とは、例えばトマス・アクィナスの『神学大全』です。ここでトマスはアリス
トテレスの能動理性をキリスト教の教義にとり入れ、これを神の本質と同一視し、この本
質に肉を対置したのでした。病める幼児を見守る母親の胸騒ぎの内に、幼児の屈託ない遊
びの内に、果して精神はないのか、これはヘロデ流・ヒルデブラント流の観点からは問題
となりえなかった。
人間内部の微妙で捕捉困難な過程が、巨大な歴史的現象として明瞭に捕捉されるという
のはよくあることです。例えば、異端審問の火刑台とは、「肉的なもの」と「精神的なも
の」を結ぶ絆が絶たれたことの結果にほかなりません。「我思う、ゆえに我在り」から「精
神」を始めたデカルトが、動物を「沸き機械」と見倣したことはよく知られています。精
神はかくも偉大で、肉体はかくもとるに足らない。デカルトの神学上の先行者たちがこの
「即き機械」を、人間の「動物的肉体」を焼いたのは、至極当然でした。この「肉体」は、
「我思う、ゆえに我在り」と対応する教理問答の文句に、つまり同じ流儀の神概念に、従
おうとしなかったのです。
明らかに、宗教は肉的であることをやめた。それはもはや生を潤すことなく、動物的知
覚へ移行することもなくなった。これと平行して哲学は合理主義となり、経験:を、知覚を
毛嫌いするようになった。「動物的謎」に満ちた世界、自然への千里眼は、ヨーロッパの
学問から抜け落ちた。
ところで、魂の内的荒廃、宗教的荒廃とは、文明の一見豊かで輝かしい相貌とすこぶる
うまく共存するものです。西欧全体が宗教の体面は保持しつつ、魂の内奥において、実生
活において、キリスト教と手を切った。「宗教的生」を渇望し、西欧のゲルマン部分をカ
トリシズムからもぎ取ったルターも、ヒルデブラントの疑惑の核心にまで踏み込もうとは
しませんでした。彼は結婚を「不可避の生理現象」と見てこれを秘蹟から除いたわけです
が、これにより全プロテスタント国は「肉の異常繁殖」を見ることとなります。いっぽう
カトリシズムに忠実であったラテン系諸国は、数世紀後には「肉を欠いた宗教」とはっき
り手を切り、生活の信じ難いほどの汚染の道を突き進み、この点でルター主義者たちの「謹
直な生理現象」を遙に凌駕してしまった。コンドラーチー・セリヴァーノブ(去勢派の指
導者)は予想される罪を切り取ったわけですが、カトリシズムは反対に、自らの日常生活
の心理に精神去勢の手術を導入したといえます。
精神と肉体が分離し対極に置かれるや、結婚は名目的なものとなり、家族は虚構と化し
た。人間の秘かな発端に宗教の光が当たらなくなるや、人間はこの発端において止め難く
腐り始め、ヨーロッパ文明は、というよりヨーロッパ文明のみが、名目ばかりの結婚から
売春へと、抑え難く移行しつつある。この惨状がヨーロッパ文明の基底そのもの、その宗
教的・哲学的欠陥と結びついていることに、誰ひとり思い至らないのだ、とローザノブは
慨嘆しています。
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かくしてローザノブによれば、ヒルデブラントからトマスとデカルトを経て十九世紀の
道徳的頽廃まで、途切れなく一本の糸を辿ることができます。そこにあるのは肉体なき精
神の秩序であり、照明を当てられぬまま沈黙に付された肉体です。ローザノブは、これこ
そカトリシズムの根底にある理念であるとして、これを「カピトリウムの理念」とも呼ん
でいます。
概してローザノブはカトリシズムを「カピトリウム的理念」と称してさかんに非難しま
す。もちろん彼はロシア人としてロシア正教贔屓ではあるのですが、しかし彼のカトリシ
ズム批判は、よく見るとたいていがロシア正教批判でもあります。帝政ロシアには通常の
出版検閲のほかに宗教検閲も存在し、ロシアの著作家たちはキリスト教への批判を口にす
る場合、これにカトリシズム批判の衣を纏わせるのが常でした。そうすればこの批判は間
接的にロシア正教の擁護となり、検閲はこれに目をつむったのです。ドストエフスキーの
『大審問官説話」も、建前としてはカトリシズム批判のかたちをとっています。
ローザノブは、キリスト教のカピトリウム的解釈とは一線を画するキリスト教理解を提
出しようとしているわけで、彼はこれをカピトリウムへの対抗上「オリュムボス的」見解
と呼んだりもしますが、その際彼の共感はとりたててギリシア的思惟の世界へ向かうわけ
ではなく、むしろ旧約の世界へ、さらに古代オリエントやエジプトへ向かっています。
キリスト教の出現とその東西両教会への分裂の遙か以前、オリュムボスとカピトリウム
には同じ神々がいた模様ですが、ただ違いは一方が繁殖し、他方が繁殖しなかったことで
あるとして、ローザノブは古代異教世界の内に既に二つの傾向を見分けます。ゼウスは永
遠に生み続けるが、ジュピターは生まない。既に太古の昔から、同じ異教世界でも、東方
は産むことの本質に対し高度に肯定的・共感的視点を有し、いっぽう西方はこれに無関心
かつ鈍感であった。東方は、生理的意味合いにおいてではなく、神秘的・宗教的意味合い
において動物的であったのです。
例えばエジプトのスフィンクスです。人面獣身のスフィンクスが、エジプト人特有の動
物崇拝に発していることは明らかです。動物崇拝の意味するところは、「神を動物の内に
探せ」、「生命の内に探せ」、「生命を授ける者としての神を探せ」です。エジプト人にとっ
て「動物的なもの」とは神だったのであり、これは動物を精巧な機械と見たデカルトの、
対極に位置する思想です。スフィンクスは、獅子の形をした部分によって神を表す。肥る
『死者の書』にも、太陽神ラーの言葉として「余は大いなる猫なり」の句があります。いっ
ぽうスフィンクスの頭部は人間の形をとっており、それゆえスフィンクスの完き意味は「神
プラス人」と解読される。神と人の融合、すなわち「神人」です。動物的なものと人間と
のこの絶えざる越境、われわれが東方のあらゆる彫刻の内に読み取るこの越境とは、福音
書の言う催1は肉体となりて我らの中に宿りたまへり」(ヨハネ伝1.14)と同じ思想では
ないでしょうか。事実、テーバイとバビロンに関するヘロドトスの記述を想い起こすなら
ば、キリスト教の出現以前、「東方の博士たち」が既に数千年にわたり神性の肉化を待望
していたことが分かる、とローザノブは言うのです。
「(バビロンの神殿の最上階には)豪奢に飾られた大きな寝椅子と、その傍らに黄金の
卓がある。もっとも、神像のようなものは一切ない。ここではひとりの女以外は誰も夜を
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過ごさない。その女とは、この神の祭司であるカルデア人たちの言うところによれば、神
により全ての土地の月たちの中から選ばれた者である」。「同じ司祭たちが言うには、神自
らこの神殿を訪れ、この寝椅子で夜を過ごすのだという。エジプト人の話によると、同じ
ことがエジプトのテーバイにもあるらしい。そこでもテーバイのゼウスの神殿に女がひと
り寝るのだが、どちらの場合もこの女は人間の男とは決して関係をもたないという。また
リュキアのパタラでも、神の女預言者が同じようなことをする」(ヘロドトス1.181,182)。
ナイルの畔で、メソポタミアで、シリアで、東方の古代人たちは「神が生まれ幼児とな
る」ことを信じていたのです。ひとり神殿で夜を過ごす干たちと、彼女らを遣わす祭司た
ちには、いつの日か神が現実に少女たちのもとを訪れ、彼女を母にするであろうという信
仰が、期待がありました。東方は生み生まれることの本質に惚れ込み、その底に横たわる
性の深みをよく理解していましたから、神が性を蔑まず、それどころか性を通して肉化す
ることにより、性を聖化すると信じたのでした。
個々の母親が自らの内に感じ取っていた聖性は、全般的期待へ、渇望へ、信仰へと成長
し、この期待がベツレヘムで成就したのです。これこそキリストを拝みにやって来た「東
方の博士たち」の由来であり、また、マリアによるエジプトへの不可解な放浪の由来です。
単に国守ヘロデから隠れるためだけならば、これほどの遠方へ逃れる必要はなかったでしょ
うから。明らかに、彼女の信仰の故国が彼女を呼んだのだ、とローザノブは言うのです。
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キリスト教は本来的に神性の肉化、すなわち籍身(正教用語、カトリックの託身、プロ
テスタントの受肉)の宗教であり、「言は肉体となりぬ」というこの非論理的な肉化の次
元にキリスト教の秘密と本質は存するというのが、ローザノブの確信です。ベツレヘムに
おいて天は地上に降り注いだ。福音書の最初の言葉を構成するものは、「地上の母胎の内
なる神性」です。ここにおいて永遠のロゴスと地上の肉体は融合し、神的なものと人間的
なものは混じり合う。
そもそも神の言が地に降るにあたり、例えば無機的な虹の道によるとか、あるいは誰か
ラビの論理的意識を通して地に降るとかせず、ほかならぬ母胎を、母性の道を選んだとい
うこの奥義の内には、明らかに母性原理と家族原理の聖化が、それゆえ性と性的なものの
聖化があります。
ほかならぬこの母胎、養う乳房、幼児と出産の本質に、われわれは十分に耳傾けてきた
ろうか。産むことの本質に対する馬耳東風の典型が、カトリシズムの言う「聖母マリアに
よる処女懐胎」のドグマです。ローザノブにとって、これほどキリスト教の本質から遠い
思想はない。このドグマは神性を人間から引き離し、人間からかけ離れたもの、地上的な
らぬもの、「馬槽的ならぬもの」の中へ押し込もうとすることで、天上的なものと地上的
なものの結合を斥ける。このドグマの作者たちにとって、神的なものと人間的なものは融
け合わない。彼らはベツレヘムの秘密を全く理解していない。彼らによれば、人間は神的
なものを概念として、抽象としてしか我物とできない、というのです。
ここが東方と西方の分かれるところです。西方のカピトリウム的理念にあって、神は天
上の理念にすぎないが、東方にあって神は生きており、地上の母性であって、殆ど動物的
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である。聖体機密(機密は正教用語、カトリックの秘蹟、プロテスタントのサクラメント)
はここに由来し、ベツレヘムの秘密と深く結びついている。なにしろそれは「言葉のみに
ては足りない。体を食せ、されば汝ら生きん」というのですから。
かくしてキリスト教の根本特徴は、一部の人々が考えるような無性でも無罪でもない。
これは肉化(二身)を中心に据えた宗教であり、神化された肉への正真正銘の脆拝です。
キリストはパンと葡萄酒をとり、これはわが肉にして血である、これを食いこれを飲むこ
とで汝らは永遠に生きるであろう、と言った。これによってキリストは、地上の母の果実
であるこの肉体こそとりわけ重要な救いの源である(おそらく、彼自身のあらゆる言説よ
り一層重要な救いの源である)、という事実を表明したのでした。彼の半身と、この籍身
の模倣である聖体機密は、地上にその反映を有している。すなわち結婚であり、家族です。
結婚こそは性の神化です。性は神化され、このことが実在の精妙極まる華である家族を
もたらす。結婚が宗教的であるなら、それは宗教そのものが自らの内に何か性的なものを
有しているということであり、そうなれば神の理念もまた不可避的に性化されることにな
ります。つまり人は結婚において純潔へと高められるいっぽう、そのことにより宗教を何
かしら幾分地上的なものへ、微かに汚れてすらいるものへと引き降ろしもするのです。こ
れはありうることでしょうか。天を低める目的で天へ高まるということは、可能でしょう
か。ローザノブによれば、これは可能どころか事実です。「言は肉体となりて我らの中に
宿りたまへり」とは、この事実を言い換えただけのものにすぎません。
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今や『クロイッェル・ソナタ」の秘められた意味は明らかです。トルストイはこの腐敗
堕落した社会にあって、麗しき家族再興のためにひとり決起し、純潔の文学とも言うべき
ものを創造したのでした。彼の提起した大いなる問いとは、宗教なり生なりを崩壊させる
ことなく、結婚はいかにして可能かというものでした。一見したところ、宗教と、肉の交
わりである結婚の間には、とてつもない背反があります。「清浄で」、「肉体なき」宗教は、
性に触れることで汚染されないだろうか、根底まで揺らがないだろうか。宗教はそれによっ
て何かしら深い歪みを蒙りはしないか、と人々は考える。否、いささかもそんなことはな
い、とロニザノブは答えます。トルストイが明言こそしなかったが、しかしその作品によっ
て指し示したこと、それは、性の否定的で臓らわしい諸現象とは、性への肯定的態度の土
壌に興つたものではなく、性への衰弱した否定的態度の土壌に肥ったものだということで
す。そして結婚とは、性へのこの上なく肯定的態度以外の何でしょうか。つまりこの肯定
的態度を性への執着と脆拝にまで、信仰にまで突き詰めること以外の何でしょう。
「人は父母を離れ、その妻に合ひ」、二人のものは一体となって、以後終生にわたり人
生の重荷を引き受ける。結婚は血と精液への脆拝から始まるのです。いったい何のために
結婚が必要なのだ、と人は問うこともできます。結婚なぞせずとも永遠の友情は可能では
ないか、結婚なんぞは人生の重荷であり、生活を押しつぶしてしまうのではないか、と。
ところが性への三拝により生活は押しつぶされないばかりか、不壊の硬度にまで高まり、
生活の最小組織である家族は、堅き堅固さを獲得します。家族はその血肉の結びつきによっ
て、つまり性に発していることによって、宗教であるからです。宗教がそれほど明白に肉
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の関係から流れ出るものならば、肉の関係そのものの内にも宗教はある筈です。そしてこ
うしたこと全ては結婚制度の内にひっそりと、誰にも触知されずに表現されているのだ、
とローザノブは言います。
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ローザノブにとって歴史的キリスト教は、ゴルゴタの宗教です。しかしベツレヘムの宗
教もまたありうる。ゴルゴタの宗教が「荒野」の宗教、「ペテロの磐」の宗教ならば、ベ
ツレヘムの宗教とは「馬槽」を取り囲む「家畜の群れ」の宗教、成就した自分たちの希い
を拝むためにベツレヘムへやって来た「東方の博士たち」の宗教です。
墓は人間にとって、そこから以後の永遠が始まる第二の生ですが、揺藍もまた人間の第
一の生であり、そこにはそれ以前の永遠が先行している。つまり宗教の根底たる永遠には、
墓の彼方のそれと、誕生以前のそれとがある。どちらも「あの世」であり、われわれはそ
のどちらをも感知する。「逝く」ことは神聖です。しかし「生まれる」こともまた神聖で
す。キリストは「生まれ」、「幼児」となり、この世の「母」をもったのでした。ゴルゴタ
が聖なる宮なら、ベツレヘムもまた聖なる宮です。修道院が宗教なら、なぜ家族もまた宗
教であってはならないのか。
キリスト教を修道制度と解する禁欲者たちが「天上の人」、「地上の天使」を自称するな
らば、例えば子沢山で面倒見のよい父親、両親に恭順な息子、純潔な娘、その明日の姿た
る一層純潔な妻らも、やはり天上の模範に倣った人物であり、彼らもやはり早る種の肯定
的聖性を獲得する。ただそれは、ゴルゴタとは対極的な基準に則った照性なのです。
こうしてローザノブは、産むこと、生まれることに関わる人類の宗教的感情を掘り起こ
し、現代人がとうに見失った「宗教としての家族」を再興しようとするわけです。
ゴルゴタのキリスト教は、罪への最終的な勝利の理念、キリストへの究極的な服従の理
念を、棺に、修道生活に、生埋めにしてしまった。これは聖性にまで高められた死の神化
です。そこでは本来死の否定であるべき筈のものが、かえって死の理念と結びついている。
視点をベツレヘムに移すならば、ゴルゴタはキリストの罪刑、キリストに敵対する苦し
み、死への道程として、本来あるがままの姿を現します。これは罪の諸相、否定の諸相を
現すものに他ならない。
「キリスト教は、これを始めから終わりまで正しく読むならば、棺を囲む哀契から、結
婚を囲む天使の歌声の測り知りえぬ深みへと移行する。新約の『言は肉体となれり』は、
旧約の『二人のもの一体となるべし』と溶け合う。このように理解してのみ、「われ律法
を殿たんとて来らず、反って成就せんためなり」という言葉の正しいことが明らかになる。
さもない場合(「姿らざるに如かず」の場合)、旧約と新約の乖離が生じ、この乖離の結果
は到底予測し難い」(『宗教としての家族』)。
キリスト教と性の乖離という、ローザノブに言わせれば逆説的な道程のことは、ロシア
でも二十世紀に至り重要な思想的テーマとなり、メレシコフスキーらによる「新たな宗教
意識」の運動を形成しますが、その教唆者はほかでもないローザノブでした。
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L'amour sexuel dans la pensée russe ( N )
V. Rozanov ( 1 )
AOYAMA Taro
Rozanov réfute la théorie solovievienne de la "pudeur sexuelle". Selon Rozanov, Soloviev confond "cacher" et "avoir honte". Nous n'avons pas honte de
l'acte sexuel, mais nous le cachons. Nous le cachons, non pas parce qu'il est
honteux, mais parce qu'il est trop sacré pour être exposé aux tiers. Rozanov
voit dans l'acte sexuel quelque chose du plus intime et du plus personnel. L'homme
y rencontre l'au-delà.
Soloviev et Berdiaev pensent que le sexe est certes essentiel pour la vie
humaine, mais quand même c'est quelque chose à vaincre. Le sexe, c'est le
péché originel de l'homme. Pour Rozanov, le sexe n'est pas quelque chose à
vaincre, mais quelque chose à vénérer, à apothéoser. Le sexe non vénéré, non
apothéosé, c'est la source du dérèglement des moeurs au temps moderne. L'homme
moderne est si vicié dans sa conscience sexuelle qu'il ne peut plus distinguer la
chasteté de la débauche dans le sexe.
Selon Rozanov, le christianisme s'est dévoyé dès le debut. En désirant réaliser
les préceptes du Christ, 1'Eglise tombe dans la voie ascétique qui répugne au sexe
et au sexuel (acte sexuel, mariage, maternité, famille e t c . ) . Ce répugnance
pénètre sa théologie, pour laquelle tout ce qui est sexuel est privé de sainteté.
Elle a voulu que l'esprit soit pur et immaculé, sans aucune tache charnelle.
L'Eglise historique n'a pas évidemment compris le secret évangélique de
l'incarnation : "la Parole a été faite chair". Elle a séparé la Parole de la chair
et les a opposées diamtralement l'une contre l'autre. La Parole est restée sans
chair et la chair sans Parole. La religion a cessé d'etre charnelle.
La famille, ce noyau de la société humaine, commence par le mariage, et
a u fond du mariage se trouve le sexe et l'acte sexuel. Malgré sa bénédiction
officielle, l'Eglise, au fond de son coeur, n'approuve pas le mariage. Cela vient
de sa théologie essentiellement monophysite.
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