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熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System

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熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System
熊本大学学術リポジトリ
Kumamoto University Repository System
Title
Verlaineの十字架について
Author(s)
大熊, 薫
Citation
熊本大学教養部紀要, 15(外国語・外国文学編): 137-150
Issue date
1980-02-29
Type
Departmental Bulletin Paper
URL
http://hdl.handle.net/2298/18331
Right
熊本大学教養部紀要外国語・外国文学編第15号:137-150(1980)
Verlainの十字架について
大 熊
薫
Veγlαmeは,Mo"s刑務所の中で(1873年から1875年まで)最愛の妻マチルドとの離婚が決定し,彼
の一人息子ジョルジュも,その親権はマチルドのものとなった事を監獄長から知らされて以来(18
74年)完全に我が身を寄せる場所を失ってしまう.愛する対象を失い,また愛される事もなくなっ
たVeγjα加eの傷ついた心を癒やしてくれるもの,平安を与えてくれるものとして,彼は神に縄っ
たのである.Vセγjajneはその時の事を次の様に記している.「ある朝,監獄長みずから私の独房に
はいって来た.-かわいそうな友よ,君に悪い知らせを持って来たよ.さあ,勇気を出して,
読んでごらん.これは夫婦別離の判決を認めた一枚の紙きれだった.(中略)私は涙にくれ
て私のそまつなベッドにあおむけになってくずれ落ちた.監獄長が私にくれた握手と私の肩をたた
いてくれた事が少しばかり私を元気づけた.この出来事があって一,二時間あとで,私は,ふと牢
番の男に司祭が私に話をしに来てくれるようにとりW{んだ.司祭が来たので,私は彼に公教要理を一
冊貸してくれるように頼んだ.」(1)それを彼は,まるで「権利か義務かの如くして,ロ臭ぎ廻るように
読みふけった.」(2)か.くして,Vをγjajneは,永遠の安息,限りない愛に満ちあふれた神の国に至る扉
をたたいたのであった.
『数日前から,私の独房の壁に,以前私が言ったのと同じような銅のキリスト傑形像の下に,か
なりぞっとするような石版の聖心画がぶら下っていた.キリストの馬のように長い顔と,服の大き
な裳の下にあるやつれた上半身と痩せた手は,私が後に詩集Sagesseで書くはずの,《光り輝く血
を流す心臓》が描かれていた.」(3)とVeγjα航e自身が語っているように,彼はここですでに彼の詩集
Sagesseにおいて,自分の信仰を表現しようとしている事が,はっきりと伺えるのである.やがて
彼は明確に自分の信仰がキリストに向っている事を告白する.『私は何が,あるいは,誰が,服を
着る間もなく私を突然立ち上がらせ,ベッドの外にほうり出し,泣きながらキリスト傑形像と聖心
像の足元にひれ伏させたかが分からない.」(4)Veγノα伽eにとってこの不思議な出来事の後すぐ,彼は
司祭に来てくれるよう嘆願した.そしてVeγjα伽eは彼に自分の改宗の意を伝えた.彼は改宗によっ
て得られる赦免の秘跡を待つ間,霊的教父の指導のもとに聖アウグスチヌス,あるいはさまざまの
詩篇,神学などを読みふけった.『私がSagesseを書き始めたのは,ほとんどこの頃からである.
〃o〃DjeumtId〃…(神が私に言った.)(5」
とveγjα航e自身が彼の『我が牢獄」で記しているように,詩集sagesseは,ある意味ではveγノαj"e
のキリスト教に対する宗教体験,あるいは信仰生活といったものがいかなるものであるかを知る絶好
の材料であったと言えよう.その事について,以下カトリックの立場に立って,Vどγノαmeにとって
キリスト教とは何だったのか,彼が背負おうとした十字架とはどのようなものであったのかを,彼
の詩集Sagesseの中から探って行きたい.
大 熊
138
薫
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この詩の中心となるテーマは,人間の肉体の脆さ,惨さである.ここでVをγjα加eは,人間の肉体
は悲しくて物憂い,しかし又,物憂いから悲しいものであるという意識から出発している.また第
3詩行から第11詩行までは,自分自身の肉体をまるで精神の伴なっていない単なる物質として冷た
く眺めている.すなわち第3詩行から第4詩行にかけて,昏々と微動だにせずに眠り込んだ自分の
肉体(皮膚)の上に,『シーツが縞模様をつける」と,Vセγjα加eが表現する時,その肉体に対して
彼はそれを自分以外のもの,単なる物質的なものとしてしか感じていないと解釈できる.本来人間
は肉体と精神とを合せ持つものである.それゆえ肉体が傷を受ければ精神も嘆き悲しむはずである
が,ここでは逆に彼の心を和らげている.その上このような肉体に対して同情さえもしている.
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さらに人間が眠っている時,それはその人間の精神活動の停止状態であり,極言すれば死の状態を
意味する.人間が他の動物と異なる唯一の点は,人間は理性を備えているという点であるが,眠っ
ている時その理性も眠っていて停止している.それゆえ死の状態に在るというのは,換言すれば動
物の状態に在るとも言えるのである.このような状況に人間が在る時,人間は誘惑に実に陥り易い
のであり,我々は誘惑に陥らない為には,絶えず心して目覚めていなければならないはずであるが;
ここでは,このような動物の状況にあったという歴然たる証しが,皮膚についたシーツの鮫であっ
た.SageSSeにおいて,Veγjα加eは常に高みに登ろうとする自己を表現するのであるが,その精神
の目でこのような肉体を見る時,Veγjα加eはその肉体に対して半ば諦めたような同情を持つのであ
り,そこではその肉体に対して,無責任とも言えるような安らぎさえ覚えるのである.第5詩行の
《Ej“e、走りγe》は,JtZCq必esRO6jCAezも指摘しているように,《EjCo加meCeCoγPsesj
m迄,γe11fl(肉体は,何と弱く脆いものだ)と解釈できる.従って,キリストが受難の前山頂で祈って
いる間に弟子達が眠ってしまったのを見て《Vej"ezetpγjezq/omde〃'6tγepase”6u"eiiノ,
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うに,目を覚して祈っていなさい,心は熱しているが肉体が弱いのである.)と言って,弟子達に注
Verlaineの十字架について
139
意を喚起している光景がここで想起される.このキリストの言葉において,《j,espγ",Ceγjes,
esfαγde"t、》とは,弟子達が熱心にキリストを愛そうとしているその精神をさしている.しかしな
がら,その心に反して,体が眠ってしまった事を注意しているのであるが,キリストがここでCorps
と言う時,それはギリシャ語でいう《ぴ・ゥof》であり,《"α虹γeAumα加e》をも意味している.つまり
単なる肉体だけでなく,精神をも含めたうえで「人間は弱いものだ」と解釈しなければならない.
カトリック的考え方では,このように人間の肉体は,時として精神をも含む場合があり,肉体だけ
を取り上げて,汚れたもののように扱うことはしないのであるが,Veγjα加eはこの箇所で,とりわ
け肉体にのみ重きを置いているかのように思われる.第8詩行における《EjノespiedS,to”。uγS
douノ0t‘γe”血cノiemi"》は,Veγノα加eの過去の放蕩生活,自己の安定した住家を求めつつ定住でき
ない旅人の疲労なのかもしれない.第11詩行における《/r6jed6coγ》について言えば,これもやは
り肉体を意味している.〈oI5cOγ》とはすなわち人間の本質を外側から覆うもの,外見,うわく
であり装飾品にすぎないものであるとvどγIα加eは解釈しているように思われる.ここにおいて私が
言うところの人間の本質とは,一般的意味において肉体を含めて,理性,知'性,意志などを備えも
った「存在」そのものであると理解していただきたい.Veγjα航eにとっては,肉体はこれら人間の
存在を覆っている装飾的なものでしかないのである.第12詩行の《jesye"z》,《此SpjedS》,《le
se伽》,《ノα60秘Che》,《ノacAajγ》等がすべて,第8詩行から第12詩行まで並列の接続詞《E#》で結
ばれていることからも分かるように,veγjα航eにとってはこれらは《/γ§jed6coγ》の1部であると
解釈できる.さらにこの《/,。§jed6coγ》は,第13詩行の《。"伽j》と深く関わり合っている.かか
る考察は,『有限』と「無限jとを対比した時生じるものなのである.すなわちこの地上にあって
は,肉体は限り有るものであり,それゆえに脆いものであるが,この脆い肉体を,やはり有限なる
肉体の1部である「目」が見ようとしているところに,悲しみ哀れみがあるのである.またVeγjα加eが
ここでい"j》あるいは《jfγ§jed6coγ》という語を使用する時,詩人の目は既に彼方の方を,すな
わち『無限』の方を指向しているのである.詩人の目とはつまり詩人の精神なのである.精神は高
みを,すなわち永遠なるものを望むがゆえに,ここでは肉体に対して《β緯昏jed6coγ》とか,い"j》
と言った有限を意味する語が出て来るのである.我々はこの詩の最初の部分においては,Veγjα航e
が自分自身の肉体を自分とは全く関係のない,単なる物質的な対象物を見るような目で眺めている
がゆえに,傷ついた肉体に対して重要なものでないがゆえに安らぎさえも覚えていたと解釈した.
しかしここに至って,《jadofzje秘γdeりojee"COγeduノ加jノ》と言っているように,壊れ易い肉体
の1部である目が,有限なものをなおも見ようとしている状態を観察しているもう1つの目,つま
り詩人の心の目がここで介入している事に気付くであろう.有限な目はなおも有限なもの,いつか
は無に帰してしまうものしか見ることができないとすれば,無限を指向するVセγ』α加eの精神の目に
は,人間のもつ肉的な目は『苦悩を見るもの』としてしか存在しないのである.それゆえ『何と悲
しく,何と罰せられたものであることか!」としてのみ,Veγjα加eにとっては飾りものである肉体
が存在するのである.実に人間が死ぬという事,有限なる存在物であるという事は,ひとりの人間
すなわちアダムが犯した罪に起因しているのであって,ここにすべての人間が神によって罰せられ
たという証しがあるのである.そしてveγjα加eは,この罰せられた人間についてsagessel(111)
において次のように詩う.
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140
大 熊
薫
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すなわち彼は罰せられる事は当然であるとは思っていても,自分がクリスチャンである以上いつ
の日にか,罪の紋しと永遠の安息を得る事ができるという確信を持っているのである.移るい易い
この世にあっては,様々な誘惑がある.快楽,地位,名誉,富,幸福等々.このようなもの全てが,
此の世では一時的であるにも拘らず,時として人間にとっては永遠の神以上に魅惑的なものとなる.
或る者にとってそれらは望まれるべき善である.ところでたいていの人間の行動の源を探ってみる
と,ほとんどそれは自己の幸福の追求である,と言えよう.その為或る者は暖かい家庭を求め,或
る者は肉の快楽を求める.なぜならば,各人自分が求めるものを善しと思い込んでいるからである6
人は嫌なもの,嫌悪すべきものを自ら進んで求める事はしない.以上のように考察してくると,こ
の世界にあっては様々な「善し」とするものがあると言えよう.百人いれば百の善があると言って
も過言ではあるまい.しかしこれらの善もすべて肉の支配の下にある限り,一時的でしかないので
ある.そして人間が此の世の壊れ易い悲しい肉的存在でしかない時,この罰せられた人間はかかる
肉的誘惑に欺かれ易いのである.聖アウグスチヌスは言う.「見よ,できるなら再び視よ.君はた
しかに善きものでなければ愛さない.高い山,なだらかな丘,広々とした平野をもつ大地は善い.美
しい肥沃な農園は善い.均盤のとれた広大な明るい家は善い.(中略)正しい人は善い.富は困窮
から脱出するのに役立つから善い.太陽と月と星辰をもった天体は善い.天使の聖なる服従は善い
甘美に教え,聞く人にふさわしく助言する談話は善い.そのリズムとその思念が荘重な詩歌は善い
これ以上何を述べようか.これは善い,あれは善い.これも取れ,あれも取れ,そしてもし出来る
なら,善そのものを見よ.そのとき君は或る他の善によって善であるのではなく,すべての善の善
である神を見るであろう.」(81すなわちこの唯一の「善」が神なのである.Veγjαmeもまた,空虚な
欲望に欺かれずに,永遠の平和を得るためには神が持ち合わせている「善」を人間も共有すべきで
あると,この詩において表現している.なぜならば,今述べたように「善」そのものが神だから,
神が永遠に存在する以上「善」そのものも永遠に存在するのである.そしてこの「善」を我々に求
めさせようとする「力」が神の愛なのである.したがって「善」を求める人は必然的に神を求める
ようになる.その為には神が喜ばれることは何でもするが,その反対に神が嫌われることは一切し
ないという経過をたどるようになる.そこには,すなわち愛の徒があり,それを実行する事によっ
て愛を知るようになるのである.
使徒行伝において《〃(Die似)α、/bl〃ha6"eγsuγノα血ceen唯γedeノateγγefoujesjes
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jγo拠りeγ,encoγe9u'jノ〃eso〃PaSjo航deChaCundenous.C,esjunjuj,e”Gノセォ,quen0us
αひ。卯Sノα”e,》(9)(またひとりの人から,あらゆる民族を造り出して,地の全面に住まわせ,それぞ
れに時代を区分し,国土の境界を定めて下さったのである.こうして人々が熱心に追い求めて捜し
さえすれば,神を見い出せるようにして下さった.事実,神は我々ひとりびとりから遠く離れてお
Verlaineの十字架について
141
いでになるのではない.我々は神のうちに生き,動き,存在しているからである.)と述べられてい
る通り,神が善そのものである以上,その善を愛し,求める事によって人間は神の内に存在するこ
とが可能となり,永遠の安息,永遠の命を有するのである.このような意味で,Vセγjα加eがくce
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6”泥.>と表現するのは,正しく神を見ようとしていると言えるのである.そして彼は「あらゆるク
リスチャンに約束された赦しと平和」を得るために,過去の汚れた自己から断固訣別しようとする.
Sagessel(V11)において
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〈Sjces版eγsα"αjenfmα"geγ〃os6eauzdema航s?》と,過去の汚れた自己に逆戻りするこ
とを恐れつつも〈Cess…e"jγs,Ua-j-jMz"oiγノesγe”eγ〃と望むのである.そのためには此の
世的なもの,つまりは肉的なものの全てを退けなければならない.したがって前にも述べた通り・快
楽・地位・名誉・富等々,地上のものはすべて忘却してしまう必要があるのである.
sagessel(xx11)において,
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と表現しているように目に見えぬ善,ありとあらゆる未聞の歓び,平和の焼惚,(これらすべては
神の国を意味している)を得るためには,まさに此の世の地上的なもの全てを忘れ去らねばならな
い.したがってこの最終行の繰り返し《Eノノ,o"6〃d,jcj-6as,》は,Veγjajneの悲壮なまでの決心
を強調していると言えよう.SageSsell(Ⅳ-1V)における最終SjγOpAeから,次の詩篇(v)の最初
のsjγopheにかけてveγjα伽eは過去の自己自身をくりje〃Adam》に例え,その自己を救い出してく
れる者であるキリストを《j,Adtzm〃o"0eα腿》に例えている.
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大 熊
142
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ここでは《”ejjAdam》も《j,Adam"o拠りeα"》も《Adam》に関してだけ言えば,肉体を持った人
間そのものである.ただ聖書では《”e〃Adam》はローマ人への手紙に見られるように《AasSj,
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のような訳で,ひとりの人によって罪がこの世にはいり,また罪によって死がはいって来たように,
こうしてすべての人が罪を犯したので,死が全人類にはいり込んだのである……)この罪によって全
人類に死をもたらすこととなった人間である.一方《j,Adam抑o”eα郷》はコリント人の第1の手紙
に見られるように,《LePγemjeγhomme,Adam,eSjd…””eり”α〃je、LeseCo打dAddmesj
de…秘espγjtひ加沈α'2t・Mzjsce“j⑩iemd,α60γd,Ce”'esIpasIespiγ"uej,c,estノ,α抑』、α〃
s拠施ノespjγj”eノ.Lepγe”erノhomme,〃γ6.拠sOj,estjeγγestre;ノeseco"dAomme,ノ“”e卸j
血cjej、,(最初の人アダムは生きたものとなった.最後のアダムは命を与える霊となった.し
かし最初にあったのは霊のものではなく肉のものであって,その後に霊のものがくるのである.第
1の人は地から出て土に属し,第2の人は天から来る.)人間に永遠の命を与える者である.
カトリックでは,《Uje〃Adam》においてすべての人が死ぬのと同様,《ノ,Adam〃o…α必》に在っ
て,すなわちキリストにおいては全ての人間が生かされると,説くのである.カトリック信者である
Veγjα加eもこの点は信じていたはずである.それゆえ彼はこのような意味でのキリストのことを(1V)
の第2詩行において《Jest‘isノ'A血沈”o秘,eα秘Qui、α"geノeUje〃ノhomme.〉と表現している.<je
Uje〃ノhomme》についてはエペソ人への手紙の中で《sjc,estj"j(CAγjsj)queノ,oれりo秘sapγ、‐
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彼(キリスト)に聞き,彼に在って教えられて,イエズスにある真理をそのまま学んだはずである.
すなわち,あなた方は,以前の生活に属する,情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て心の深みま
で新たにされて真の義と聖とを備えた神Iこかたどって造られた新しき人・を着るべきである.)と述べ
られており,ここに見られる『古き人』と同じ意味で,Vセγjα航eは《jeUje〃ノio祝me》という語を
使用していると解釈できる.またこの聖書の引用にみられる「新しき人」は,vtzγノα航eの言う
《・ノ,A6am卸O拠りeα秘>にほかならない.さらにその《j,Adam"…eα〃》が《jeひjejjノiomme》を食うと
いう事は,キリストの勝利,すなわち復活を意味する.イエズス・キリストは神の御ひとり子であ
るがゆえに神性を所有し,そのイエズス・キリストは人間の肉体,すなわち《Uje〃Adam〉と同様
の肉体を持って,此の世に神から遣わされたものである.そして肉体を持った人間として十字架に
かかり,人間として死ぬことによって《”e〃Adam》が招いた罪,神から受けた罰を脇ったので
ある.そしてイエズス・キリストはその同じ人間の肉体と共に復活したのである.キリストは神性
をもつ以上,死ぬことはない.死んだのは彼の人性であり,復活したのも彼の人‘性を伴っていた.
Verlaineの十字架について
143
つまりイエズス・キリストは一度死に,三日目にその死から抜け出ることによってすなわち復活に
よって,肉に対して勝利を得たのである.《Jes泌isノ,A血沈”o…α拠皿jmaj0geノgUjejj
Aomme.》とVeγjα加eが表現する時,この《、α"ge》はここで今述べた,キリストの肉に対する支配,換
言すれば勝利を意味しているようにも解釈できる.Vをγjα加eは,このような削せられた肉体をキリ
ストに託することでキリストと同様にいつの日にか復活し,永遠の安息を得ることを望むのである.
彼は自己の肉的なものを全て,十字架の前に捧げる.麦は足で踏まれ,潰されて粉にな')やがてパ
ンとなる.そのパンは聖変化してキリストの体となる.葡萄も足で踏まれやがて葡萄酒となる.そ
の伽萄酒も聖変化してキリストの血となるのである.カトリックのミサにおいてキリストの肉と血
を口に入れる聖体拝領の秘跡一目に見える印しを通して,目に見えない!ものへ向かう-の意味
はまさしくここにあるのである.このように永遠の命,平和を得るためにはすべて踏み砕かれて,
神の前に差し出されなければならない.神はそれらを聖別して下さるであろう.Veγjα加eもまた,
自己の汚れたもの,罰せられた肉的存在物を神の前にすべて差し出す.Sagessell(1)において
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これら執勘なまでの《vojcj……〉の繰り返しは,veγIα加eがこの詩蔚の第1stγopAe,
OmonDieuvousm'avezblessed'amour
大 熊
144
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OmonDieuvousm'avezblessed,amour
に見られるように,彼の傷の深さを強調するのに有効である.《、o”sα"g…》,《machaj,…・》,
《、onノro,02…》,《mes、α加s…》,《、O仰coe"γ…》,《mespieds…》,《maUoな…》,《,nesg……》
といったものすべてを神に捧げる.最終詩行において彼は次のように神に告解するのである.
Maiscequj,aimonDieu,jevousledone.
このようにして,自己の過ち一切を悔‘陵し,此の世の地上的欲望をすべて捨て去り,神にのみ寄り
頼むVeγjaineは,日々自分の十字架を負うてキリストに従おうとするのであるが,その十字架は彼
にとっては次のように見えるのである.
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MonDieum'adit:Monfils,ilfautm,aimer・Tuvois
Monflancperc6,monceurquirayonetquisaigne,
Etmespiedsofens6queMadelinebaigne
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Ettesp‘Ch6s,etmsains1Etuvoislacrolx,
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vuT,
tuote,gnoepgisne
An,aimer,encemondeamerotlachairegne,
QuemachairetmonSang,maparoletmavoix.
Net,aijepsaim6jusq'Alamorti、me,
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第1詩行にみる《Monノ"s,〃ん"j、'α”eγ・》は,キリスト教における第1の徒「心を尽し,精
神を尽し,思いを尽し,力を尽して,主なるあなたの神を愛せよ」から来ている.すなわち神の道
に従おうとするVeγjα加eの心に,まず第一に神は「私を愛せよ』と語りかけるのである.第1詩行
の終わりから第2詩行にかけて〈T叫びojS/〃”〃”CPeγC§…》,あるいは第2sjγopノieの第1詩
行くefmesma伽sノ〉は復活後のキリストが,弟子達に示した行動を想起させずにはいられない.
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ヨハネによる福音書において《Lesozγt)e“,cememeノot‘γ,ノepγemjeγdejasemame,αノoγs“e
jespOγ#esdejamaiso〃”setγ””je”ノesdjscjpjes邸aje城./bγm6espαγpe泌γdes血維,
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、。,02γαsesmα加sejs。〃cb泥.》03(その日,すなわち,週の初めの日の夕方,弟子達がユダヤ人をお
それて,自分たちのいる所の戸をみな閉めていると,イエズスが入って来て彼等の中に立ち「安か
れ」と言われた.そう言って手と脇とを彼等にお見せになった.)あるいは〈A、§mejcj2”dojgjhf
efγeguγdemes加α航s;”is,α、§"eiama航ejmejs-jadα"s,no〃c6彪.〉(あなたの指をここに
Verlaineの十字架について
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つけて私の手を見なさい.手を伸して私の脇に差し入れてみなさい.)にも同様な情景が見られる通
りである.第3詩行は,ヨハネの福音書に《Pγ§sdejacγoなdeJ6s狐sseje”αjentsameγeef
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字架のそばには,イエズスの母と母の姉妹とクロパの妻マリアとマグダラのマリアと力特んでいた.)
とあるように,十字架上のイエズスをVeγjα伽eは想像している.この十字架上のイエズスの”age
は,次に来るstγopAeによってさらに鮮明になってくる.つまり第4詩行は,イザヤの予言書におけ
るイエズスの受難の実現を11H示している.そこでは《Vγαjme”c,副α〃’00sso、り6fm"Ces“,〃
poγiα〃,et,zosdoujeuγsd。"t〃s,蔀α〃cノhαγ96.》('。(まことに彼は我々の病を負い,我々の悲し
みを狐った.)と記されているが,ここで〈">はキリストを意味している.さらに同イザヤの予言書
の《ノuj-m6meapoγ姫ノeSp6CA6sde6eaucouP》0m(しかも彼は多くの人の罪を負い)にVeγノα航eの
詩行と類似点を見い出すことができる.これらは十字架上のキリストの苦しみを表現しているもの
であるが,その苦しみの十字架を強調するかの如く,第5詩行で《E#”Uojsjacγo“》と続ける
のである.第6詩行はマタイの福音書《jjsノ”(Cノbγjsj)dombγe加jiz60jγe血U加m6l6de
βeノ,》00(彼等は苦みを混ぜた葡萄酒をイエズスに飲ませようとした.)あるいは《A郷s〃6zノ,”
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d6ojγe》09(するとすぐ,彼等のうちの一人が走り寄って,海綿をとり,それに酢い葡萄酒を含ま
せて葦の棒につけイエズスに飲ませようとした.)に見られるように,ここでも十字架上のキリスト
の苦しみをVeγノα航eは具体的に見ているのである.第7詩行の《jacAajγγ§帥e》については,前
に述べたように,肉は《UjejjA血、》によって神から剛せられたものとなり,死すべきものとなっ
た.そしてこれ程罰せられるべき肉をキリストは十字架の上からVeγjα加eに見せつけて言うのであ
る.《Mon〃”cpeγCe,mo加cOeuγ“jγαyo,meetqujsaj”e,EtmespjedsQノッセ"s6s,mes
6γαsdo04jouγe”so"sjepoids,ノescIo鰹s,jeハeI,ノ'@po〃ge,》等々,これらの語句は十字架上の
キリストの『肉』の苦しみを,あまりにも強調しすぎてはいないだろうか.以前に述べたような内
なる精神の眼によってではなく,Veγjα伽eは自己の『肉」の眼によって「肉」に苦しむイエズス・
キリストを見ている,と言えよう.しかしながらイエズス・キリストは神の性と人の性を兼ね備え
ているのであり,神の'性においては苦しみはなく,人の'性においてのみ苦しみがあるのである.それ
ゆえこれらの語句を用いてVeγjα加eが表現しているイエズス・キリストは,人の性においてのみ,
Veγjα加eによって捉えられているのではないか,といった推測が生じるとしても当然ではないだろ
うか.すなわちVeγjα航eは自己の苦しみを,あたかも人の性としてのキリストの「肉」の苦し
みに融合させる事で,自己の苦しみを苦しむといった矛盾撞着に陥いっているように思われる.彼
はキリストの精神における,いわば霊における『肉と血」にあずかって平安を得るどころか,《e〃
cemo"deameγoiijachajγγを”e》(肉の支配するこの苦しい世の中において)しか,キリ・スト
が見えないのである.しかしキリストは神によって鯛せられたその肉をも含めて,死ぬと同時にそ
の同じ肉と共に,すなわち体を持って復活したのである.つまり「肉の支配」に勝利をもたらした
のである.次に第8詩行においては,その勝利を得たキリストの「肉と血を愛すること』に関して;
キリストが最後の晩餐の時にのパンは私の体である」と言ってパンを引き裂き弟子達に与え,葡
萄酒をとって『私の血の杯である』と言ってそこに居た弟子達に飲ませたこの場面を想起させるに
十分である.これは前にも述べた聖体拝領の秘跡のことで,つまりキリストの「肉と血』を食うこ
とで,我々は神と自己の融合一致を体験することである.第10詩行においては,《Mo抑ノγ§γee"mon
Pcγe》という時,Veγjα加eはキリストを自分の兄弟とみなすことで,また《、o''たIse卯ノ'Espγ‐
大 熊
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薫
jt〉と言う時,キリストを自分の父とみなすことで,神と自己とを血の繋がりにおいて融合一致さ
せようと試みるのである.第11詩行においては,キリストは苦しみの中に死ぬという予言の成就を
暗示している.我々はマタイによる福音書の中に,Vをγjαmeのこの第11詩行ときわめて類似した表
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子は自分について書いてある通りに去って行く)ここでもキリストの受難,十字架の苦しみの現実
をVeγJα加eは見ている.第12詩行においては,ルカによる福音書に《AノOγs,e”pγOiedノ,angojs-
se’〃pγjajjde血90抑pj"SpγeSα"te,etSaSue"γdet》加Zcommedegγosesgou"esdesα"g
q叫jtom6aje加jdjeγγe,>qI)(イエズスは苦しみ悶えて,ますます切に祈られた.そしてその汗が血の
したたりのように地に落ちた)と見られるように,キリストが十字架に傑けられる前,人間として
の競後の苦しみを受けた場面を想起させる.最終詩行の《oijjesujs.〉は以上のように解釈して来
ると,十字架上を意味するのである.つまりVeγノα航eは十字架上のキリストを見い出しているの
だ.Ej6o"oγeM、Zjmeγ、α”が言うように,Veγノα加eは『苦しみによる神の道を見い出した」”の
である.ここではこの肉の苦しみを一身に背負う覚悟をした,殉教者Veγjα加eの姿が現われてくる
彼はそのような自己の苦しみ,肉との戦いを以下の詩篇SagesseIIIv(Ⅱ)第2stγOpheにおいて,
生々しく語るのである。
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この詩に見られるように,Veγjα加eは改宗に至るまで,様々な肉との戦いがあった.彼が「汚ら
わしく這いずり廻り,血だらけになってひざまずこう」とする時,彼はイエズスが十字架を背負っ
て刑場に連れて行かれるその姿に,自己をなぞらえているのである.彼はイエズスの肉の苦しみと,
自己の肉の苦しみとを同化させる事,同一視する事でイエズスとの一致を望むかのようである.
しかしながらキリストの霊的『肉と血』を得るためには,まず《“eひo狸sUousajmjezノes”s
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したように,あなた方も互いに愛し合いなさい.)という神の徒を実行する事から始めなければなら
ない.『私が,あなた方を愛したようにjとは,キリストが神でありながら人間にまで遜り,最後
は十字架にかけられて死ぬ程に,人間を愛したようにという意味である.十字架の意味は,我々が
それを見るたびに,限りなく広く深いキリストの愛を思い起させると同時に,それ程までに(十字
架にかけられて死ぬ程までも)我々がキリストから愛されているのだという心の平安と喜びを我々
に与えるところにある.それゆえ我々も,キリストと同じ跡を辿るならば,キリストと同じような
愛し方を学び実行して行かなければならないのである.この実行するという段階において,VeγIα伽e
はキリストと同じ苦しみを味わう事で,自分の十字架を背負おうとしていると言えるのである.従
ってVeγjα加eのこのような見地から十字架を見るならば,彼の信仰はただ自己を責め苛むだけの苦
しみに他ならない.
〃o”sの獄中でのあの奇妙な体験,そしてそれ以降熱烈に神を捜し求め祐僅するVeγjα航e・心の平
安,まだ感じたこともないような喜びを得るために.彼は今までにかつてなかった,このような
自己の宗教的体験を語らずにはいられなかったのである.そのことがこの詩集sagesseを生んだの
である.しかしながらsagesseという宗教めいた表題にもかかわらず,いわゆる真のcAγjs"”jsme
はここには存在しないように思われる.まだ知り始めたばかりの神に対して,彼は幼な子のように
Verlaineの十字架について
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つたない幼い言葉を用いて,自己を捧げようとしているのである.彼にとっては神と対話をしてい
るつもりかも知れないが,神から返って来るものは,あの十字架上で人の性を苦しんでいるイエズ
スの肉体だけである.Veγjα加eは聖なる言葉,悔俊の言葉をありったけ神の前に連綿と並べたてて
いるにすぎない.
精神を人間の持つ肉体の目で見ることができないなら,神はなおのこと見ることはできない.十
字架上のキリストの肉体は人間の鼓も凄惨な姿であるが,と同時にその奥底に人間の肉体の輝かし
い勝利が含まれているのである.それを霊的眼差しで見,キリストが十字架にかかって死ぬほどに
人を愛したこの愛の行ないを実行することが信仰であるならば,veγjα航eはこのsagesseにおいて
今だ信仰の入口に立っているだけであると言えよう.換言すれば,彼にとっては十字架が肢いばか
りに見えすぎて,その奥義にまで目を移すことができないのである.
キリストは言う《.C,esjPouγ…γCeγ””geme〃j“ejes”sUe”e〃cemo抑。e;pouγque
ce“”j犯eUoje〃tpasUoie〃#,ejquece”“jUoje〃jde”e”e〃jaUe秘gjes.”DesPhαγjsje卯s
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なり,見える人たちが見えないようになるためである.』そこにイエズスと一緒にいたあるパリサイ
人達がそれを聞いてイエズスに言った,『それでは私たちも盲なのでしょうか.」イエズスは彼らに
言われた『もしあなた方が盲人であったなら,罪はなかったであろう.しかし今あなた方が『見える」
と言い張るところにあなた方の罪がある.」)かくしてイエズスは自らの十字架をVeγノα航eに見せ,
彼が真に見えるか,あるいは盲なのかを彼自身に問うのである.実にキリストの教え,キリストが
我々に示すところの真理に至る道は,人間的レヴェルから見る限り,多くの矛盾を含んでいるよう
に思われる.そしてVeγjα航eがあくまでも肉の目で十字架を見ている限り,その十字架が大きく彼
の前に立ちはだかっているのである.まさにveγjajneが『私は見える」と言う所に,彼の苦しみの
十字架があるのである.
〔
注
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東京大学出版会1977P,229
Verlaine O-f-^SgUOUT
149
La croix selon Verlaine
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En 1874, on apporte à Verlaine une feuille de papier timbré; c'était la copie du jugement
portant sur la séparation de biens et de corps d'avec son épouse. En ce temps-là, Verlaine était dans
la prison de Mons. Dès lors, il se croit seul dans le monde. Ayant perdu sonépouse, son seul objet
d'amour sur cette terre, il s'est alors retourné vers Dieu pour être guéri dans son cœurbrisé, et pour
obtenir la paix éternelle de Dieu. C'est ainsi qu'il a essayé d'exprimer sa foi "pseudo-ardente" dans
son œuvre intitulé "Sagesse". C'est en réfléchissant sur cette œuvre qu'on peut mieux saisir
l'expérience religieuse ou la vie spirituelle de Verlaine. Cet essai portera donc en général sur le
christianisme de Verlaine et surtoutsurla croix dont il voulait secharger.
Le thème central dans "Sagesse", c'est la fragilité de son corps humain et la transformation de
sa chair et de son sang, en Chair et Sang du Christ. Pour Verlaine, le corps humain est une sorte
d'ornement qui couvre son essence. Et ce corps d'ornement ne réside chez lui que comme .un
<Triste corps! Combien faible et combien puni! > (Sagesse III-10) Eneffet,le faitque l'homme est
mortel et qu'il n'est qu'un être limité provient du péché du premier homme, c'est-à-dire du péché
d'Adam: c'est la preuve de la punition de l'homme par Dieu. Mais, tout en croyant qu'il mérite
d'être puni,Verlaine a la conviction qu'il sera, unjour ou l'autre,absous de recevoir la paix éternelle.
Pour cela, il pense qu'on doit posséder le même bienque celui de Dieu en rejetant toutes les choses
corporelles, terrestres, <Et l'oubli d'ici bas!) (Sagesse I-21). Dans "Sagesse" (II**, s), il compare
son passé au "vieil Adam", le sauveur au "nouvel Adam". Ici, "l'Adam nouveau" signifie Jésus
Christ. Il fut envoyé par Dieu pour nous sauver, ayant une forme humaine, c'est-à-dire avec le même
corps que celui du vieil Adam, et il fut crucifié et il mourut comme le fils de l'homme dans sa chair.
C'est ainsi qu'il a racheté le vieil Adam deson péché et des peines infligées parDieu. Mais puisqu'il a
la nature divine, il ne doit pas mourir. C'était dans sa nature humaine qu'il mourut et grâce à sa
nature divine il ressuscita à la fois. Par la Résurrection, Jésus Christ a remporté la victoire sur la
chair. Verlaine, en mettant sa chair ainsi punie en Jésus, veut ressusciter, régner avec Jésus sur sa
chair, et obtenir la paix éternelle. Donc, il faitl'offrande toussesbiens temporels devant la croix de
Jésus. Le blé devient le pain en étant froissé et foulé aux pieds, et il est transformé en le corps du
Christ dans le sacrement de l'Eucharistie. Le raisin devient le vin aussi en étant foulé aux pieds, et il
est transformé en le sang du Christ dans le même sacrement. Il en est de même pour obtenirla vie
éternelle, pour être dans la paix infinie, toutes les choses terrestres doivent être fracassées et mises
devant Dieii. Dieu les sanctifiera. Verlaine présente à Dieu tout ce qu'il a: même ses peines cor
porelles et morales. Dans "Sagesse" (II-!) on trouve tropsouvent la répétition de <Voici mon sang.
... Voici ma chair... Voici mon front... Voici mes mains... Voici mon cœur... Voici mes pieds.
... Voici ma voix... Voici mes yeux...) qui représente précisément ses offrandes à Dieu. Il dit
dans ce derniervers, <Mais ce que j'ai mon Dieu, je vousle donne.)
C'est ainsi qu'il essaye de suivre Jésus en se chargeantde sa croix. Mais Jésus lui dit d'en haut
150
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de la croix en étalant son corps. < Tu vois/Mon flanc percé, mon cœur qui rayonne et qui saigne,/Et
mes pieds offensés/... et mes bras douloureuxsousle poids./Et tes péchés,et mes mains! Et tu vois
la croix/Tu vois les clous, le fiel, l'éponge./ > dans "Sagesse" (II-4). Il semble que Verlaine insiste sur
l'aspect de douleur du corps de Jésus mis en croix.Ici, on peut dire que Verlaine voit Jésus souffrir
les douleurs de son corps par ses propres yeux corporels. En effet, il n'a trouvé le chemin de Dieu
que par la souffrance.
Par conséquent, s'il regarde la croix avec une telle vision, sa foi n'est qu'une douleur qu'il
ressent en lui-même.
Dans la prison de Mons, il a embrassé la religion chrétienne pour avoir <toute joie inouïe.)
(Sagesse 1-22) Il ne pouvait s'empêcher d'exprimer telle expérience religieuse. C'est ainsi que son
œuvre "Sagesse" est venue au monde. Mais en dépit du titre de "Sagesse", il semble qu'il n'y ait pas
de vrai et profond Christianisme dans son œuvre. Ne serait-ce qu'une apparence religieuse ! Il se
présente lui-même devant Dieu qu'il vient de découvrir comme un enfant, et un enfantemployant
des mots maladroitement. Verlaine ne juxtapose que des mots religieux surtout de repentir de façon
ininterrompue.
Il est vrai que le corps de Jésus misen croix est la figure la plus misérable de l'homme, maisà
la fois, il porte en lui la victoire glorieuse sur le même corps humain. On doit voir celad'un regard
spirituel. Jésus aimait leshommes jusqu'à ce qu'il mourut surla croix. De recevoir cette vérité, et de
la pratiquer en toute charité, c'est la foi vivante, vivifiante des chrétiens.
Quand on aborde "Sagesse" à ce point de vue spirituelle, on peut dire que Verlaine ne reste
qu'assis devant la porte de Jésus. C'est-à-dire qu'il ne peut pas entrer dans le mystère de la croix
parce qu'elle brille trop pour qu'il en voie le mystère. Autrement dit, Verlaine ne regarde que la
surface de la croix. En ce sens, il la voit bien.
Mais Jésus dit, (C'est pour exercer un jugement que je suis venu en ce monde; pour que ceux
qui ne voient pas voient, et que ceux qui voientdeviennent aveugles." LesPharisiens qui se trouvai
ent avec lui entendirent cela et lui dirent," Est-ceque, nous aussi, nous serions des aveugles?" Jésus
leur dit; "Si vous étiez des aveugles, vous seriez sans péché: Mais précisément parce que vous dites:
Nous y voyons! votre péché dure.) dans S. Jean ch. 9 (39,40,41). C'est ainsi que Jésus montre sa
croix à Verlaine afin qu'il sache si Verlaine la voit ou non. Pour autant qu'il la voit d'un regard
terrestre et humain, elle barre la porte de la voie de Jésus contre lui. Précisément parce que Verlaine
dit: "Je la vois." dure encore la croix de la peine.
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