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マラルメにおける舞踏

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マラルメにおける舞踏
マラルメにおける舞踊
──バレエ評論にみられる具体的イメージと詩的イメージ(1)
村 上 由 美
なぜマラルメはバレエ論を書いたのか。とりわけなぜ晩年になって突然バレエに情熱をかたむ
けることになったのか。このような問いを念頭に入れて論を進めてゆきたい。本稿では「芝居鉛
筆書き Crayonné au théâtre」のバレエ論を中心に扱う。評論の対象となった舞台作品と、マラルメ
の批評の観点とを比較検討しながら、マラルメにおけるバレエのテーマとポエジーについて考察
する。その際『独立評論 La Revue indépendante』誌掲載時(86 年∼ 87 年)の初出形態を基本テク
ストにする。
まず、マラルメの舞踊評の対象となったバレエ作品である『ヴィヴィアーヌ Viviane (2)』に具体
的なイメージの拠り所を求め、次に、それを詩作品のなかで解き明かしてゆく。すなわち、バレ
エをマラルメの内部に位置付けることを目的とする。
マラルメの舞踊論研究は昨今、隆盛を帯びてきたといえる。だが、その詩的イメージが事物に
即したヴィジョンをもち、同時代的背景に基づいているという点は見逃されていると思われる。
評論を書くにあたり、マラルメは現実の舞台作品を観ることから始めていた。まずは、このバレ
エ評論に垣間見られる具体的なイメージを拾い出す必要があろう。そして同時に評論に込められ
た詩的イメージを詩作品のなかにも見出しながら議論を進めなくてはならない。本稿では評論発
表時の時代性を汲み取るために『独立評論』誌を主たるテクストとし、後の「芝居鉛筆書き」と
比較しながら、マラルメの詩的イメージとバレエ概念に迫ることにしたい。
さて、マラルメがバレエ論執筆に際し実際に観た作品とは『ヴィヴィアーヌ』と『二羽の鳩』
であった。本稿ではとりわけ『ヴィヴィアーヌ』に焦点をあてたいと考えている。というのも、
『マラルメ全集・解題 II』が準備されていた段階において、まだ『ヴィヴィアーヌ』の台本は知ら
--- 71 ---
れておらず、マラルメの記述に確たる裏付けを施すことが不可能であったからだ。
『ヴィヴィアーヌ』とは、原作者はエドモン・ゴンディネ、曲はプーニョとリパシエール、五幕
構成の「フェアリー・バレエ Ballet-Féerie」である。初演は 1886 年 10 月 28 日にエデン座で行われ
ており、そのタイトルロールが、これから話題にするエレーナ・コルナルバであった。エデン座は
その三年前である 1883 年に完成され、イタリア・バレエ『エクセルシオール』を上演して以来、
当時の最新技術と大掛かりなスペクタクルを売りにしていた。おそらく『ヴィヴィアーヌ』もこう
した傾向の作品であったといえる。
このバレエの台本を書いたエドモン・ゴンディネ(3)は、喜劇作家であり当時大変有名であった。
ゴンディネの諸作品は六巻本の全集 (4)になっているが、『ヴィヴィアーヌ』は収められていない。
ところがラプラス=クラヴリの研究書 Écrire pour la Danse (5)の付録にこの台本が載せられ、我々は
読むことで想像することができるようになった。このことは大変重要である。というのは、マラル
メが直に参照した台本、つまり「わたし」が「パラパラとめくる(6)」その台本を読むことが出来る
からである。すなわち、『ヴィヴィアーヌ』の各場面にマラルメの詩的イメージの出所が確認でき
るようになったというわけである。
まず、台本とマラルメの記述との比較をおこなう。そこに『ヴィヴィアーヌ』ならではの具体的
なイメージを見出してみたい。台本を参照するのは、便宜上マラルメの評論に対応している箇所の
みにとどめる。
さしあたって『ヴィヴィアーヌ』の主たる筋を紹介する。これはヴィヴィアーヌという名の妖精
と、マエルという名の青年の恋物語である。途中この青年は王妃ジュニエーヴルとの愛に迷い、ア
ーサー王の怒りをその身に受け、決闘で命の危険にさらされる。そうした中をこの妖精が懸命に守
り抜くが、逆に妖精は王妃の嫉妬をかうことになり、彼女との対決を強いられて瀕死の状態に陥る。
しかしマエルが深手を負った妖精のもとに駆けつけ、最後は二人の幸せに満ちた大団円で幕を閉じ
る。
その第一幕のヴィヴィアーヌの登場シーンは、台本において突然の出現が指示されている。「ヴ
ィヴィアーヌの出現 « Apparition de Viviane »(7)」の指示でこの妖精は舞台にあらわれるのだろう。
泉を縁取る花々の中央にまばゆいばかりの少女の姿をしたヴィヴィアーヌが身を起こし、苔むした
岩の上でアチチュード(8)のポーズをとる。そしてワルツを踊るのだが、その姿にマエルは魅了され、
彼女に名を尋ねる。そして妖精が名前を教えるシーンが続くのだが、この場面にマラルメは大きな
反応を示している。
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Les astres, eux-mêmes, que j’ai pour croyance qu’il faut rarement déranger et point sans des raisons
considérables ou de méditative gravité (c’est vrai qu’ici, selon l’explication, l’Amour les meut et les assemble),
je feuillette et j’apprends qu’ils sont de la partie ; et l’incohérente absence hautaine de signification qui scintille
en l’alphabet manqué de la Nuit va consentir à tracer le mot enjôleur VIVIANE, nom de la fée et titre du poème,
à la faveur de quelques coups d’épingle stellaires en une toile de fond bleue : car ce ne sera point le corps de
ballet, total, qui figurera autour de l’étoile (la peut-on mieux nommer !) la danse idéale des constellations. Point !
de là on partait, vous voyez dans quels mondes, droit à l’abîme de l’art. (9)
私の信条としては、重要な理由すなわち瞑想的な重々しさがない場合、あまり星々自体に登場願う
わけにはいかないのだが(ここでは確かに、説明書きによると、
〈愛〉がそれらを動かし、とり集めて
いる)私はパラパラとめくり、その星々が集まっているのだと知った。一貫性もない、意味の横柄な
不在が、〈夜〉の失敗したアルファベットとなって煌き、ヴィヴィアーヌという、妖精の名前でありこ
の詩のタイトルでもあるこの魅惑的な語を、青色の舞台背景に星のピンのいくつかの点滅に従って書
くことに同意することになるのだ。というのも、エトワール(これ以上にふさわしい名があるだろう
か!)のまわりで星座の理想的な踊りを踊るのは、コール・ド・バレエ全体ではないからである。ま
ったくそうではない!そこから我々は出発していた。いかなる世界へか、ご存知のとおりだが、まっ
すぐに芸術の破滅に向ってである。
この場面で妖精が、未来の恋人マエルに名前を告げるシーンは、台本においては、ほんの数行で
ある。
D’un geste, Viviane montre le ciel couvert d’étoiles, et les étoiles écrivent au firmament le nom de Viviane.
C’est Viviane, la fée de l’Amour ! (10)
ひとつの仕草でヴィヴィアーヌは星々の満ちた空を示し、星々はヴィヴィアーヌの名前を天空に書く。
ヴィヴィアーヌ、〈愛〉の妖精よ!
台本から得られる情報量に対し、マラルメの舞台評から得られるものはその数倍に及ぶ。台本で
は指示のされていない舞台背景や、ダンサーの動きまでも書き込まれている。万が一この作品が復
元上演されることになれば、実に有効な資料となるはずである。たとえば、舞台背景が青いことが
伺える。その上にピンライトが、ヴィヴィアーヌという文字をかたちづくるように配置されていて、
主役のヴィヴィアーヌが天を指し示すと、その文字列が点滅する仕掛けになっていたようである。
また、「〈夜〉の失敗したアルファベット」は、後に「夜のアルファベットの瞬き」と書き換えられ
る。ここから推測するに「夜 Nuit」の文字列からなる照明文字が点滅していたと考えるよりは、
抜き字という手法それ自体のことを指していると考えたほうが妥当であろう。マラルメはしばしば
白い紙の上の黒い文字を反転させた、黒地に白い文字、つまり天体のエクリテュールや天体のアル
ファベット(11)のたとえを好んで用いた。したがって、ここでいう「夜が失敗した」というのは、本
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来なら暗いはずのところに白い光りがあるということなのだ。そしてその光りこそが「ヴィヴィア
ーヌ」という文字になっているというわけである。
マラルメはこの演出が気に入らなかったらしい。「エトワールのまわりで星座の理想的な踊りを
踊るのはコール・ド・バレエではない」ということは、この台本から演出できたであろうひとつの
可能性としてマラルメは、コール・ド・バレエつまり群舞が星々を演じて、主役のまわりに集い、
星座を思わせるような踊りが理想的に披露されることを期待したのだろう。しかし、その予想も空
しく裏切られ、第一幕の冒頭から「芸術の破滅に向って」いると憤りを隠さない。ここで一幕の話
題は終わっている。続く場面は、すでに第3幕の話題である。
La neige aussi, dont chaque flocon ne revit pas au va-et-vient d’un blanc ballabile ou selon une valse, ni le jet
vernal des floraisons [...].(12)
雪もまた、そのひとひらひとひらが、白い群舞の往来に蘇ることはなく、またワルツにのって、開花
という春の噴出が再びやってくることもない。
この場面はヴィヴィアーヌの本性が自然を動かすところである。ヴィヴィアーヌがアーミンの毛
皮(無垢の象徴である白テンの毛皮)のマントにくるまると、冬になり、雪が降り始め、それを脱
ぎ捨てると春になり、木々が芽吹き、花が咲くという設定である。マエルを見つけ、彼の愛情を確
かめるときは春になり、愛が得られないとわかると冬になるというのだ。マラルメにとってこの演
出もまた期待どおりではなかったらしい。マラルメの言葉を裏返せば、群舞で雪を舞い、群舞が花
のようにワルツを踊るのを想定していたのであろう。おそらく、舞台では小道具を駆使した陳腐な
演出に陥っていたに違いない。
マラルメには雪と花の入り混じる詩行があった。初期詩篇 Apparition の最終行を思い出したい。
そこでは、光り輝く妖精が、よい香りのする星々の白い花束を雪のように降らせていた(13)。こうし
た詩的イメージを根拠にすると、雪と花の幻想は、純粋に踊りだけで表現すべきとのマラルメの意
見もただちに理解されよう(14)。踊り子と雪のイメージは、そのままバレエを代表するイメージとな
って独立し、ロイ・フラー論で再登場する。「雪片 flocon」としての踊り子が爪先で舞うというの
は、ここに由来するものと思われる。
[...] tout ce qui est, en effet, la Poésie, ou nature animée, ne sort du texte que pour se figer en des manœuvres de
carton et l’éblouissante stagnation des mousselines lie et feu.(15)
事実ポエジーであることすべて、あるいは息づく自然が、テクストから出てしまえば、ボール紙の術
策や、ワインの澱や炎のようなモスリンのまばゆい停滞に固まってしまうだけなのだ。
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台本にあった冬の雪と春の花のポエジー、つまり「息づく自然」が下手な演出により台無しにな
っているという。「ボール紙の術策」とはキッチュな舞台美術のことである。想像力を邪魔するよ
うな大道具や悪趣味な演出が目に浮かぶ。決して台本が不可能な要求をしているのではない。ただ、
バレエという踊りの特質がまったく活かされていない、とマラルメは批判しているのだ。
「ワインの澱と炎のモスリンのような、まばゆい停滞に固まる」というのは、冬の雪の上で、ヴ
ィヴィアーヌが血を流す場面に対応しているようである。マエルとトリスタン(アーサー王の従者)
との決闘により、マエルに危機が迫る。そこへ、彼を救おうとヴィヴィアーヌがその間に飛び込み、
ほかならぬ彼の剣に刺されてしまう。「ワインの澱」や「炎」とは、血の色のことである。妖精は
痛みを懸命にこらえるものの、赤い血はポタポタと雪の上に落ちてゆくのだ。台本には「その赤い
染みが、あたかも自然全体を覆いつくさんばかりに広がってゆく(16)」とある。このシーンで、ワイ
ン色と緋色のモスリンの布が舞台全体を覆う演出がなされたのであろうか。マラルメは「息づく」
ものが「固まる」と強く批判している。
Aussi, dans l’ordre de l’action, j’ai vu un cercle magique par autre chose dessiné que le tour continu ou les lacs
de la fée même, etc.(17)
同様に劇の筋においても妖精自身の連続した旋回あるいは罠とは別のものによって描かれた魔法の輪
を見た、など。
続くこの場面は、おそらく5幕の最終シーンに対応しているのであろう。台本では盛大なダンス
シーンに彩られ、ヴィヴィアーヌが「誰よりも軽く、鮮やかに、群舞から逃れ、旋回して(18)」踊り
を披露するはずであった。こうした踊りが披露されれば、それだけで充分なのに、余計な小道具が
邪魔しているとマラルメは考える。「魔法の輪」とは、このバレエの最終場面、王妃が嫉妬に燃え
てマエルを略奪しにかかるところに出てくる。台本ではヴィヴィアーヌが「稲妻よりもすばやく自
分が手にしているヴェールで輪を描くと、地面からサンザシの大きな茂みが這い出してきて、この
二人の恋人たちを囲む(19)」ということだ。おそらく、それが実現できていなかったから「別のもの
を観た」というのだ。
マラルメの記述に特徴的なのは、実際の舞台では実現し得ていないが「こうあればよいのに」と
いうひとつの理想が書き込まれている点である。少なくともマラルメは『ヴィヴィアーヌ』の台本
は評価している。主役の踊り子も良いという。それなのに演出家がバレエを本質的にわかっていな
いと主張するのだ。いずれにせよ、舞台の先に、作品のあるべき姿を透かし見るこのマラルメの姿
勢は、舞踊評論に一貫して見られるといえよう。
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さて、『独立評論』誌 12 月号における舞踊論の導入部分を以下に引用するが、これは後に「バレ
エ」の冒頭部分となる。
La Cornalba me ravit, qui danse comme dévêtue ; c’est-à-dire que sans le semblant d’aide offert à un enlèvement
ou à la chute par une présence volante et assoupie de gazes, elle paraît, appelée dans l’air, s’y soutenir, du fait
italien d’une moelleuse tension de sa personne.(20)
コルナルバ嬢は私をうっとりとさせる。彼女はまるで裸身のように踊るのだ。すなわち、ガーゼがひ
らひらとはためき、そしてまどろむときに、高揚あるいは落下するものによって助けられた見せかけ
なしに、彼女は空間に呼び出され、そこに浮かぶように現われる。その姿がしなやかな張りをもって
いるようなイタリア風の仕方で。
このマラルメのバレエに関する言説の第一段落目には、マラルメに固有の詩的言語が充満してい
る。「裸身のよう」には、マラルメにおいて頻出するテーマである裸体性が見出せるし、「高揚」し
「落下」する一連の力学は詩の効果にも関連する(21)。また「空間に呼び出され」「浮かぶ」ところに
は透明性が感じられ、まるで霊の出現を思わせる。したがってこれからとりわけ重要と思われるこ
の裸体性と亡霊のテーマについてそれぞれ言及してみよう。
マラルメにおける裸体性のテーマにかんしては、例えばオーバネル宛の書簡での発言「〈詩篇〉
に裸形で再び出会った(22)」というのは有名である。これは、「エロディアード」にかんする発言で
ある。「エロディアード」は当初、舞台向けの悲劇であったが、純粋に詩として書き換えられるの
であった。
[...] je commence Hérodiade, non plus tragédie, mais poème, (pour les mêmes raisons, ) et surtout parce que je
gagne ainsi l’attitude, les vêtements, le décor, et l’ameublement, sans parler du mystère.(23)
「エロディアード」に着手しますが、ただしそれは悲劇としてではなく、(同様の理由から)詩として
なのです。なぜならば、そうすることによってその神秘は申すまでもなく、仕草、衣装、装置、小道
具を確保できるからです。
ここで語られるのは決して成就されることはない夢、つまり舞台的な詩の創造という夢である。
マラルメは舞台装置に価値を見出さない。舞台芸術とは各自の意識の内部で成立するものと考えて
いる。例えば舞台とは「人間という存在以外のいかなる装飾もない(24)」と定義していた。またロ
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イ・フラー論「バレエにおける背景」では「不透明な木枠や張子のような無理な割り込みはもう、
お払い箱だ!(25)」と述べるのであった。つまり、空想世界でバレエを作り上げようと考えるのであ
る。
この書簡が書かれたのは 65 年である。「仕草、衣装、装置、小道具」というのは空想バレエを彩
る要素と考えたい。ここで言われる「仕草 l’attitude」に「アチチュード」というバレエ用語(静止
ポーズの名前)の意味が込められているとは断言しがたいが、それでもエロディアードの姿は後年
確実にバレリーナの様相を帯びてくる。
エロディアードの登場は「亡霊 l’ombre」であった。しかも乳母の台詞の中においてである。こ
の冷感症の姫が己を確認するのは鏡をとおしてであり、影のように現れ、泉の中にその姿を認め
る(26)。そしてその姿こそ、裸体なのである。エロディアードは言う、「私の散乱した夢のなかで私
は裸体を知ったのだわ! J’ai de mon rêve épars connu la nudité ! (27)」。エロディアードの姿は常に鏡の
反映、水面の影、夢や乳母の語りのなかにあり、虚構の性質を持つ。だが、これら反射によってか
たち作られた彼女の様相は、強度に彩られた身体を持つことにもなる。舞台にのせるのは不可能で
はありながら、想像上では可能になる、つまり、不在でありながら現前してくるこうした人物像は、
まさにマラルメが理想に描くバレリーナ像ではなかったか。
そしてもうひとつ、「亡霊」としてのエロディアードの出現は、やはり詩篇 Apparition (28)を思い
起こさせる。この詩では熾天使たちが涙にくれながら空の上を滑っているところから始まる。天使
たちは青白く、空、あるいは音のイメージで語られる。その存在は確かめることが出来ない。つま
り不在のテーマである。そこへ突然、夕暮れの陽の光りをうけて黄金に輝く女性があらわれる。
「私は妖精を見たと思った(29)」という。ここではある女性(エティー・ヤップ)の面影とともに強
い存在が目前に差し迫ってくる。この詩においても不在と現前が織り成す幻想が基調となってい
た。
だが何よりも大切なのは、この « apparition » という語が「亡霊」の意味を持つという点である。
コルナルバもまた「ヴィヴィアーヌの出現」で登場し、
「空間に呼び出され」
「浮かぶ」のであった。
こうした踊り子の特質は 93 年のロイ・フラー論にまで及び、ロイ・フラーを「異国の亡霊」と呼
ぶことになる。このイメージは後にも引き継がれ、ローデンバックがギュスタヴ・モローの水彩画
『出現』Apparition を引き合いに出して、イリュージョンとしてのダンサーを論じ、マラルメの舞
踊論を徹底して賛美することになるのだ(30)。
リシャールによれば、マラルメにおける裸体性とは汚れなきものの姿であり、神々しく、太陽の
テーマにも連なるという(31)。これはマラルメにおける裸体のテーマのひとつの方向性を言い当てた
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ものであるが、踊り子の裸形の場合、より込み入っていると思われる。
コルナルバは「まるで裸身のように踊る」というが、当然文字通り身体の露出のことを指してい
るわけではない(32)。これに続く段落の末尾で、まとめられる踊り子の概念には「非人称」という語
が見つかる。
Telle, une réciprocité dont résulte l’état impersonnel, chez la coryphée et dans l’ensemble, de l’être dansant
lequel n’est jamais qu’emblême, point quelqu’un...(33)
統率者(la coryphée(34))と全体(l’ensemble)の相互から、踊る存在の非人称状態が生じている。この
踊る存在とは絶対的に紋章なのであり、誰かなのではない……。
この「非人称 impersonnel」はのち「バレエ」において「非・個人性 l’in-individuel」と書き改め
られる。まず「非人称」という語に注目したい。上記のくだりは、群舞と主人公がともに踊る振付
について論ずるところであった。群舞(l’ensemble)も統率者(la coryphée)も振付のフォーメー
ションのなかでは「非人称」的であるという。たしかに群舞においては、バレリーナ一人一人の個
性は消滅してしかるべきだ。ゆえに、この場合むしろ「非・個人性」のほうが相応しいのである。
だがそうした性質が、ソロの舞踊手の性質にも反映されてゆく点が、決定的にマラルメ固有のもの
なのだ。主役の踊り子が匿名の存在となり、きわめて透明な性質をおびてくる。こうしてみると、
この書き換えには配慮の跡が見られるといえる。
踊り子における「非人称」の問題がさらに深化し、効果的に活かされるのは「演劇についての覚
書」連載最終回、7 月号においてであった。この箇所は、のちに「芝居鉛筆書き」の最初に位置す
ることになる。「非人称」の語が見つけられるのは、観客の想像力と、バレエ読解の訓練の必要性
が論じられる箇所であった。その少し手前から引用をはじめたい。
Le ballet ne donna que peu : c’est le genre imaginatif. Quand s’isole pour le regard un signe de l’éparse beauté
générale, fleur, onde, nuée et bijou etc, si chez nous le moyen exclusif de le savoir consiste à en juxtaposer
l’aspect à notre nudité intime afin qu’elle le sente analogue et se l’adapte selon quelque confusion exquise d’elle
avec cette forme envolée, rien qu’au travers du rite là énoncé de l’Idée est-ce que ne paraît pas la danseuse à
demi l’élément en cause, à demi humanité apte à s’y confondre, dans la flottaison de rêverie ? (35)
バレエは少ししか示さない。想像力豊かなジャンルである。まなざしに対して、一般的で散乱する美
の記号(シーニュ)
、花、波、雲、宝石などが孤立するとき、我々がその記号を独占的に知る方法とは、
その様相を我々の内的な裸形に並置させることにある。そしてその内的な裸形が、記号の様相と類似
のものと感じ、この飛翔する形式とともに、何か馥郁たる錯乱のうちに、自身を順応させてゆくもの
であるならば、ただそれは〈イデー〉がそこに指し示す典礼を通してであるが、夢想の浮遊のなかで、
踊り子が、半分はこの検討中の要素に見え、半分はそれに交じり合う人間に見えてこないだろうか?
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バレエを観るためには想像力が必要であり、観客がバレリーナの指し示すものを知るためには、
観客もまた己を裸にして向き合わなければならないということになろう。この場合、バレリーナは
視覚的には女体としてあらわれるが、精神の目で見ると、女体ではなく、表意形象として見えてく
るというのだ。つまり、バレリーナには常に二重性が課せられているといえる。「内的な裸形 notre
nudité intime」とあるが「精神の裸形 notre nudité spirituelle」と書き改められる。これも裸形の観念
の深化として直ちに了解できよう。
さて、踊り子の「非人称」が問題になるのはこうした流れにあってのことであった。
A déduire le point philosophique auquel est située l’impersonnalité de la danseuse, entre sa féminine apparence
et quelque chose mimé, pour cet hymen ! elle le pique d’une sûre pointe, le pose acquis ; puis déroule notre
conviction en le chiffre de pirouettes prolongé vers un autre motif, attendu que tout, dans l’évolution par où elle
illustre le sens de nos extases et triomphes entonnés à l’orchestre, est, comme le veut l’art même, au théâtre, fictif
ou momentané. (36)
その女性的な外見と、模倣された何らかのものとの間で、その婚姻のために踊り子の非人称性が置か
れている哲学的な瞬間を推論すべきだ!彼女はそれを確かなポワント(爪先)でピケして(突き刺
し)、それを獲得したものとして置く。そして、次に我々の確信をもうひとつの主題に延びるピルエッ
トの暗号において繰り広げてゆくが、それはオーケストラによって奏でられる我々の恍惚と勝利の意
味をわかりやすく示してくれる彼女の動きにおいては、芸術そのものが舞台芸術に求めるとおりに、
..... .....
すべてが、虚構であり、瞬間のものだからである。
ここで問題になっているのは、「婚姻 hymen」である。マラルメが好んで用いるこのモチーフに
は、しばしば不可能性の要素が含まれるが、ここでは外見上女体をもつバレリーナと、表意形象の
融合はいかにして可能なのかが問われているのだ。この問いは「哲学的」な位相、すなわち、形而
上学的な領域においてこそ成立するものであり、結論からすれば、「虚構であり、瞬時のもの」で
あるとわかる。踊り子が可視的でありながら虚構の身体を獲得するのはまさにこのときであり、ゆ
えにつねに二律背反をのり越える必要に迫られることになる。
こうしたアポリアの超越、つまりそうした虚構性の実現を見抜くためにも、観客は「まなざし」
を鍛えなくてはならないのであろう。この「まなざし」の鍛え方についても言及されていた。
L’unique entraînement imaginatif consistera, aux heures ordinaires de fréquentation dans les lieux de danse, sans
visée quelconque préalable, patiemment et passivement à se demander devant chaque pas, chaque attitude si
étranges, et pointes et taquetés, allongés ou ballons « Que peut signifier ceci ? » ou mieux, d’inspiration le lire. (37)
想像力の唯ひとつの訓練は舞踊の行われる場所に日常として通う時刻に、あらかじめ想定した意図も
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なく忍耐強く、受動的に、かくも不思議な各々のパ(ステップ)すなわち、アチチュード、ポワント、
タクテ(爪先での歩行)、アロンジェ(脚を後方に水平に伸ばす)、バロン(跳躍)などを前にして
「これは何を意味し得るだろうか」と問うことにある。あるいはむしろ、そうしたことを、インスピレ
ーションによって読むということだ。
観客はこうした一連の作業を夢想のなかで行い、「詩的直観」を得てはじめてバレエを理解する
という(38)。だがこの問題をさらに複雑にしているのは、こうした訓練された目で観た表意形象もま
た「虚構」であるという点である。この「虚構」は「シャンデリア」に例えられる。シャンデリア
のカットの各面に「瞬時に露呈する」というのだ。だが同時にそれは「いかなる瞬間にも現実を」
見せず、「ダイアモンドのまなざし」をとおしても、「結局何も起こらない」という(39)。つまり、観
客が対峙する表意形象はそれ自体、虚構の性質を帯びることになろう。シャンデリアのような多面
体は「散乱する美のシーニュ、花、波、雲、宝石」といった多義性を想起させる。すなわち、バレ
エというジャンルが本質的に保有するところの虚構性のことを指しているのである。
ここで注目しておきたいのが、マラルメが抱く虚構のイメージである。記号、花、波、雲、宝石
へと、多義的なものに自在に「散乱する épars」という、まさにシャンデリアのイメージは、エロ
ディアードが裸体を見つける「散乱した夢」にも反映されるであろう。この砕け散るイメージは決
して雑多なものとしてあるのではなく至高の煌きとしてあると考えたい(40)。これこそが、本質的に
不可能な透明体としての裸形の表れなのである。補足しておくと « épars » はロイ・フラー論にお
いて決定的な用語として多用される。
また、マラルメは「まなざし」にダイアモンドのたとえを用いる。このダイアモンドの視線も、
「エロディアード」に見出すことが出来る。
「ダイアモンドの明晰なるまなざしのエロディアード(41)」
が、その裸形の花咲く唇で虚を語る(42)という詩行もあわせて指摘しておきたい。
さて、マラルメにおいて、踊り子とは生身の肉体をもつ女ではなく、紋章あるいは記号である。
したがって踊りとは、身体が舞台上に書く文字、あるいは書くという行為そのもののことである。
以下はバレエの公理といわれる箇所である。
A savoir que la danseuse n’est pas une femme qui danse, pour ces motifs juxtaposés qu’elle n’est pas une femme
mais une élémentaire puissance résumant un des aspects analysés de notre forme, fleur, urne, flamme etc., et
qu’elle ne danse pas, suggérant, par le prodige de raccourcis ou d’élans, avec son écriture corporelle ce qu’il
faudrait des paragraphes en prose dialoguée autant que descriptive, pour exprimer, en la rédaction : poésie
dégagée enfin de tout appareil du scribe.(43)
--- 80 ---
..........
............
すなわち、踊り子は踊る一人の女ではない。なぜなら彼女は一人の女というのではなくて、基本的に
可能態なのであり、我々の形である花、壺、炎などの分析からなる外的様相の一つを要約するのだ。
..........
だから彼女は踊るのでもなく、ラクールシと飛翔の奇跡により、身体のエクリテュールでもって以下
のものを暗示するのだ、対話体の散文や描写体の散文を文章で表現するには、パラグラフが必要であ
るところのものを。すなわち、写字生の道具から解放された詩を。
舞踊と詩がアナロジーで結ばれているというのは、ここに根拠がある。舞台上で展開されるバレ
エのパのひとつひとつが何らかのものを指し示していて、鍛えられた「まなざし」は、踊りを、詩
行を読み解くのと同じ仕方で「読む」ことが要求される。そしてもし観客がこうした舞踊の読解作
業を遂行しえた場合、その代償として対象の概念の裸形を受け取ることが許されるのだ。その受け
取りの方法は、「バレエ」の結末で明かされる。すなわち、踊り子のヴェール(薄絹(44))を介して
「そっと」手渡されるのだ。
[...] alors, par un commerce dont son sourire paraît verser le secret, sans tarder elle te livre à travers le voile
dernier qui toujours reste, la nudité de tes concepts et silencieusement écrira ta vision à la façon d’un Signe,
qu’elle est.(45)
そのとき、彼女の微笑みが、その秘密を明かしているように見えるひとつの取り引きにより、すぐさ
ま彼女は貴方に常に残されている最後のヴェールをとおして貴方の概念の裸形を渡してくれ、また、
貴方の幻覚を、彼女がそうであるところの〈記号〉の仕方でそっと書くことになろう。
バレリーナがなぜ裸体であり虚構の性質を帯びるのか、その理由がここにもある。踊り手は記号
となって、舞踊が意味するところのものを、観客に手渡すためであり、そのとき我々もまた裸形の
精神をもっていなくてはならないのである。
ただし、ここで注意しておかなければならないのは、「ヴェール」である。これを、裸形を直視
することの禁忌とみる解釈がある(46)。また、ヴェールの記号論的解釈を提案し、これを同一であり
ながら相反する二つの要素に分かたれるものの象徴とみなす解釈もある(47)。つまりシニフィアンと
してのパとシニフィエとしての意味内容を分割する役目を見出すのである。確かにマラルメはヴェ
ールに象徴的な意味合いを持たせている。しかしバレエ鑑賞の訓練をうけた者だけが「ヴェール」
に気がつき、「手渡され」るのであれば、ヴェールはもっとバレエを観ることの本質に関わるはず
である。事実、「『ヴァテック』序文」に「(対象物を)しっかりと見るためにかけられたヴェー
ル(48)」とある。つまりヴェールは舞台上で展開される舞踊の本質を見抜くときに重要な役割を果た
すものといえる。バレエは確実に解読できるものだということは、これまでのところで一応の理解
は得られたように思う。そうしたうえでヴェールを意図的にかけるのである。つまり明確に知覚す
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ることへの欲求をかきたて、同時にそれを拒絶し、曖昧性をあえて残すというのだ。このヴェール
のテーマは次のように発展してゆく。例えば「舞踊のもつサスペンス、つまり見えすぎているとか、
充分に見えないとかいう矛盾した恐れあるいは期待が、透けるような延長を強く要求している(49)」
という言説へと結実してゆくのである。ここにマラルメの舞踊論におけるひとつの要点を見てとる
こともできよう。
名高いロイ・フラー論の発表から四年後「芝居鉛筆書き」の完成にむけて最後に追加される論考
がある。「唯一人、魔術師のように流動的で……(50)」ではじまるその評論は一度も雑誌に掲載され
たことはなく、新たに書かれたものであるから、バレエ論としては最後のものである。ここにおい
て、バレエが絶対的に特権化されている。
[...] les coryphées du Ballet, court-vêtues à l’excès, manquent d’ambiance sauf l’orchestre et n’était que le
costume simplifié, à jamais, pour une spirituelle acrobatie ordonnant de suivre la moindre intention scripturale,
existe, mais invisible, dans le mouvement pur et le silence déplacé par la voltige. La presque nudité, [...] montre,
pour tout, les jambes—sous quelque signification autre que personnelle, comme un instrument direct d’idée.(51)
〈バレエ〉のコリフェたちは、極端なまでに短い衣装を身に付け、オーケストラがなければムードにも
欠けるが、この単純化されたコスチュームとは、永久に、書記上のいささかの意図でも従おうとする
精神的アクロバットのために、軽業で移動される純粋な沈黙の運動の中に、不可視のものとしてある。
その半裸体は……結局、脚ばかりを見せるが、それは、その個人的性格とは別物の、何らかの意味作
用の下で、イデーの直接的な道具としてあるのだ。
バレリーナたちの衣装がかくも短いのは、決して扇情を目的とするのではなく、イデーを指し示
すために、その道具としての脚を駆使しなければならず、パを踏むことで観客にそれを伝えなけれ
ばならないからである。つまりバレリーナの脚が詩人におけるペンの役割を持つのであるとして、
バレエの弱点を強く肯定する。
[...] pourrait-on ne reconnaître au Ballet le nom de Danse ; lequel est, si l’on veut, hiéroglyphe.(52)
〈バレエ〉に〈舞踊〉の名を認めないことも可能だろう。というのも〈バレエ〉とは言ってみれば、象
形文字だからである。
象形文字とは、マラルメが言うところの記号としてのバレリーナに、観客の想像力の訓練を加え
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たものであろう。つまり、象形文字とは記号でありながらもつねに読み解かれる必要があるからで
ある。だがここで注目すべきは、マラルメが一般的な「舞踊」やフラーの踊りに対して「バレエ」
を別のものととらえ、その本質的な違いに意識的であるという事実である。19 世紀末にバレエが
著しく退廃していたことは周知のとおりである。そうした時代状況で、これほどまでにバレエを信
じ、聖別化し得た評論家がマラルメのほかにどれほどいたであろうか。最後に引用する一文はバレ
エ論としては末尾にあたる。
[...] avec la métamorphose adéquate d’images, ils ne disposent qu’un Ballet, représentable [...].(53)
イマージュの適切な変貌をともないつつ、上演可能なものとしては〈バレエ〉があるだけである。
マラルメにおける舞踊の概念に順応しうる形態は、バレエ以外にありえなかったといえるだろう。
つまりマラルメの舞踊思想は常にバレエのイメージを伴うと考えてよいだろう。一度はマラルメが
理想的なものとして語ったロイ・フラーの舞踊であるが、それはあくまでもバレエを補強するもの
としてであり、結局バレエへの考察に還元されてゆくのである。ここにマラルメの根本的な舞踊思
想をみるというのはあながち的外れとは言えまい。
注
(1) 本稿は、2007 年 5 月 19 日に明治大学で開催された日本マラルメ研究会第 13 回総会において、論者
が行った口頭発表に加筆修正を加え、論文として起こしたものである。
(2) Albert Soubies, Almanach des spectacles, 1886, p.71.
初演の年に 56 回の上演記録を残している。
(3) Edmon Gondinet (1828-1888)
(4) 1892 年にカルマン=レヴィ社から出ている。
(5) Laplace-Claverie (Hélène), Écrire pour la Danse—Les livrets de ballet de Théophile Gautier à Jean Cocteau
(1870-1914), Honoré Champion, 2001, pp. 479-488.『ヴィヴィアーヌ』のあらすじを楽譜から翻訳したも
のは以下の論考にある。参考にされたい。中畑寛之「
〈詩人〉はバレエ上演の夢を見るか?(ステファ
ヌ・マラルメのバレエ論 1)」、『神戸大学仏語仏文学研究会 EBOK 第 16 号』2004.
(6) « [...] je feuillette [...] », Notes sur le théâtre, déc. 1886, p. 248 in La Revue indépendante, Tome 2, SLATKINE
REPRINTS, Genève, 1970.(以下 RI, no. 2 と表記)
(7) Laplace-Claverie, op.cit., p. 481.
(8) バレエのテクニック用語で、片足で立って身体を支え、もう一方の脚は膝を曲げ、身体の後ろに 90
度の高さに持ち上げたポーズを指す。
(9) RI, no. 2, p. 248.
(10) Laplace-Claverie, op.cit., p. 481.
(11) 「限定された行動」を参照。
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(12) RI, no. 2, p. 248.
(13) « [...] la fée au chapeau de clarté [...] / Neiger de blancs bouquets d’étoiles parfumées. », Œuvres complètes,
vol. 1, éd. Bertrand Marchal, Gallimard, Pléiade, 1999, p. 7.(以下 OCI と表記)
(14) Œuvres complètes, vol.2, éd. Bertrand Marchal, Gallimard, Pléiade, 2003, p. 175.(以下 OCII と表記)
(15) RI, no. 2, p. 248.
(16) « [...] cette tache de sang qui va s’agrandissant comme si elle voulait couvrir la nature entière. », LaplaceClaverie, op.cit., p. 485.
(17) RI, no. 2, p. 248.
(18) « Plus légère et plus ardente encore que ses sœurs, Viviane s’échappe des groupes et tourbillonne. », LaplaceClaverie, op.cit., p. 488.
(19) « Viviane plus rapide que l’éclair a tracé un cercle avec son voile et il s’élève de terre un immense buisson
d’aubépines. », Laplace-Claverie, op.cit., p. 488.
(20) RI, no. 2, p. 247.
(21) ヴァレリーが理想のダンサー像を「くらげ」とするイメージの根拠はここにあるのではないか。ま
たマラルメの詩学において、高揚し落下するイメージは噴水にたとえられる。「溜息 « Soupir »」の詩
的力学を参照されたい。
(22) « J’ai été assez heureux la nuit dernière pour revoir mon Poème dans sa nudité, et je veux tenter l’œuvre ce
soir. » (A Théodore Aubanel, le 3 janv. 1866), Correspondance complète 1864-1871, suivi de Lettres sur la
poésie 1872-1898, avec des lettres inédites. Préface d’Yves Bonnefoy, Édition établie et annotée par Bertrand
Marchal, Gallimard, Collection Folio classique, 1995, p. 280.(以下 CC と表記)
(23) CC, p. 253. (A Théodore Aubanel, le 16 oct. 1865)
(24) OCII, p. 314.
(25) OCII, p. 176.
(26) Hérodiade - Scène, OCI, pp. 17-22.
(27) OCI, p. 19.
(28) OCI, p.7.
(29) OCI, p.7.
(30) Le Figaro, le 5 mai 1896, Gabriele Brandstetter, Loïe Fuller, Tanz, Licht-Spiel+Art Nouveau, Verlag Rombach
Freiburg, 1989, p. 200.
こうした経緯があって、マラルメは「バレエにおける背景」にローデンバックについての言及を追加す
ることになる。
(31) Richard (Jean-Pierre), L’Univers imaginaire de Mallarmé, éd. du Seuil, 1961, p. 130.
(32) 当時は文字通りこの「裸体」をエロティックな肉体の意味にとらえた者もいた。オペラ座のダンサ
ー、クレオ・ド・メロード似の裸婦像の評判は議論の的になった。
(33) RI, no. 2, p. 248.
(34) パリ・オペラ座の厳密な階級制度は伝統的に最下位から quadrille、coryphée、sujet、premier danseur、
étoile となる。さしあたりコリフェを「隊長/統率者」としたが、まだ検討の余地があるかもしれな
い。
(35) RI, no. 9, pp. 56-57. (« Notes sur le théâtre », no. 9, juil. 1887)
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(36) RI, no. 9, p. 57.
(37) RI, no. 2, pp. 252-253.
(38) RI, no. 2, p. 253.
(39) OCII, p.163.
(40) 「散乱する épars」はロイ・フラー論においても頻出する。
(41) « Hérodiade au clair regard de diamant... », OCI, p. 21.
(42) OCI, p. 21.
(43) RI, no. 2, p. 248.
(44)「限定された行動 L’action restreinte」では踊り子を「薄紗たち」と呼ぶようになる。こうした薄絹は
ロイ・フラーの踊りを得て一層深化してゆく。
(45) RI, no. 2, p. 253.
(46) 『マラルメ全集 II ・解題』筑摩書房、1989 年、p. 93.
(47) Shaw (Mary Lewis), Performance in the texts of Mallarmé—The Passage from Art to Ritual, The Pennsylvania
State University Press, 1993, p. 55.
(48) « Voile mis, pour les mieux faire apparaître[...] », OCII, p. 5.
(49) OCII, p. 177.
(50) OCII, p. 177.
(51) OCII, pp. 177-178.
(52) OCII, p. 178.
(53) OCII, p. 178.
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