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私の援農体験
私の援農体験 神谷 正彦 (1)援農に至るまでの経緯 私は成蹊学園初等科に昭和14年(1939)に入学しました。すでに日中戦争が始まって おり戦争漬けの生活に加え、小学校三年生の十二月に太平洋戦争が始まりました。直ち にスチーム暖房は禁止となり弁当の時のお茶も禁止という生活になりました。だんだん厳 しくなると言うことは頭では意識していても、援農という形でとんだ苦労をすることになると は想像出来ませんでした。 1944 年の9月に箱根に6年生として集団疎開に参加しました。その間の事情は別途 「集団疎開の思い出」として記録を残してあります。 1945 年の三月二十三日に中学に入るために疎開学童生活を終え、東京に戻ることが 出来ました。子供にとっては家に帰れると言うことが如何に嬉しいことか、このような状況 を経験しない方はおわかりにならないと思います。 やっと親の懐に帰ることが出来たと思う間もなく、僅か二十日後に東京・麹町の我が家 は四月十三日の晩にあっけなく空襲で灰燼に帰しました。生まれてから育った家が黒い 柱だけ残しているのを見るのは本当に悲しいことでした。医者の父は母と一緒に焼け残っ た近くのお宅で診療を続けるということで、祖母が住んでいる小田急の狛江に姉と一緒に 預けられました。その間も空襲は毎夜のように行われました。一番ひどかったのは五月二 十五日の大空襲で、狛江から東京の方を見ると真っ赤な空が広がり、あの中に父母がい るかと思うと居ても立ってもいられない気持ちでした。 電車などは当分不通でしたので、やっと行けるようになって麹町へ行きましたら果たして 父は焼夷弾で顔と手に火傷を負って寝込んでいました。幸い命に別状はないとのことで 私は吉祥寺の成蹊学園に通う毎日が続きました。戦災で殆どのものを失ったので下駄で 通学していましたが、軍事教練があると「靴を履いてこい」と教官が威張ります。仕方がな いので草鞋を履きました。38式の歩兵銃は徴発されて前線に行ってしまいましたので、 木銃で訓練を受けました。草鞋に木銃とは西南の役に戻ったようで、如何に戦争中と言っ ても本当に恥ずかしい思いをしました。 当時は中学生になると一人前に勤労動員で、工場で何か軍需品を作らなければなりま せん。ところが東京はそのころ、もう動員で働くべき工場は壊滅していましたから働くとこ ろはありませんでした。そのまま勉学を続ければ良かった訳ですが「それでは非国民にな る」ということで、成蹊学園の生徒の一人の縁故で福島県の二本松というところで援農を するということになりました。 (2)援農に出発する 1945 年の六月二十二日の午後十時上野発の列車で出発ということに決まりました。今 にして思えば東京に対する大規模空襲は五月に終わっていたわけですが、そのころはそ んな事が分かるわけはないし、「米軍が上陸して来たら最後まで戦うのだ 、一億総突撃 だ」などということを本気で信じていた中学生でしたから、父母とは今生の別れだと思って、 薄暗いプラットホームで分かれました。 本当は行きたくない、と思ってもその時代はそういうことを口にしてはならないので、憂 鬱な感じで信号灯を見ていました。「青にならないでくれ」と願っているのに信号は無情に も青信号になりました。戦時中の汽車は急行列車廃止ですべて普通列車でした。暗い電 灯、各駅停車でゴットンゴットンと列車は進みます。一晩寝て朝七時頃福島県二本松駅に 到着しました。見たこともない田舎駅でその上寒いのには驚きました。現在の新幹線なら ば一時間半強でその先の福島に着くのですから今昔の感に堪えません。 中学一年生総勢約五十名(推定)と引率の教員5名(尾崎、河合、木村,飛田隆、上条 の五先生)で朝食のため駅前旅館に入りました。ほんの一口の飯と薄い味噌汁が朝飯で した。国語の飛田先生が「君たちこれからが厳しいんだよ」とニコニコ笑いながら説教され ました。これがニコニコどころではないと気が付くのにはあまり時間は掛かりませんでした。 それでもあの食糧難の時代に良く50名の団体に朝飯を食べさせたものだと感心します。 よほど周到に準備して下さった方がおられたことと思います。 (3)小学校の裁縫室に寄宿する 連れられて入っていったのは嶽下小学校という学校の裁縫室でした。本校舎から斜面 になった階段を登ると講堂と粗末な畳敷きの裁縫室があります。小学校生徒とは普段隔 離されていて、寄宿するのには良い構造でした。 小学校側では歓迎式をやってくれました。きっと誠心誠意歓迎してくれたのでしょう。し かし当時は東北弁が強く、学徒動員の歌の中で「何をすさぶか小夜嵐、神州男児・・・」と いうところを「ナヌヲすさぶかサヨアラス、スンスウダンズ・・・」と歌ってくれるのでゲラゲラ 笑いました。歌ってくれる子供達には悪いことをしたものです。 1945 年の梅雨は長く、雨は毎日降ります。汽車で一緒に送った筈のチッキ(携行手荷 物)が鉄道線路に対する空襲でなかなか到着しません。東北の寒い夏に出発時に着たま まの服装で寒い寒いと言いながら昼間も布団にくるまって寒さを凌ぎました。 文字通りの晴耕雨読で、雨が降れば勉強、晴れれば援農というわけです。何日か経っ てやっと雨が止み、援農に行くことになりました。 二本松の町は舗装していない国道が通り、その両側の溝にはこんこんと清流が流れて、 貧しいながら落ち着いた町でした。家の前を流れている清流で茶碗を洗っている人がい るかと思うと、お婆さんがその溝をまたいで小便をしたりしていました。 (4)初めて援農に行く どうやって割り振られたのか覚えていませんが二~三名単位で農家へ手伝いに行きま した。驚いたことに日本語がまったく(というのはオーバーですが)通じない。発音もともか くですが言葉自体が違うというのが分かりました。 「そうだねえ」というところを「そうだない」と言います。ジャガイモは「カンプラ」、おやつは 「こじゅはん」という具合です。「カンプラ汁でも食わしてやっぺい」というので、どんな旨い ものが出てくるかと思ったら、じゃがいもの入った味噌汁でがっかりしたこともありました。 当時福島県は貧しく、農産物も品種改良が進んでいなかったのでしょう。さつまいもの 蔓は東京では六月の末には長く伸びているのに、福島に来たら非常に短いのでびっくりし ました。農家に着いたら「麦がもえる」といって心配そうで早く刈らなければならないという ことでした。「もえる」というのは芽が萌えるということで、焼けることではなかったのです。 つまり男手を兵隊に取られ,麦刈りが出来ず、長雨で芽が出そうになって大変でした。初 めて使うノコギリ鎌は使い難く、手を切っては痛い思いをしました。大急ぎで麦を刈ると、 刈った麦は運ぶ必要があります。働けば働くほど、帰りの道は沢山かつぐことになります。 山のように刈った麦をわら縄で「まるくって」背中に背負います。当時はトラクターの通る 道などはありませんから、足場の悪い狭い坂道を、高い重心の麦の山を背負ってフラーリ フラーリと降りるのは難しい作業でした。農家に着いてドサっと荷を下ろすと、肩に荒縄の 痕がクッキリと付いて当分とれませんでした。 (5)飢えと蚤に苦しむ 小さな町に50人からの人数が一度に増えたのですから、町の行政も苦労されたと推察 します。敗戦直前は0・7勺の米が配給になっていましたからその通りの給食であったと思 います。 朝は落語ではないけれど目の玉が写るような味噌汁にどんぶりに三分の一程度の飯、 弁当は弁当箱に五分の一程度の飯、夜は何か一品おかずが付くというような食生活でし た。味噌汁に金が入っているよと言われて良く見ると、お椀の底に金粉が沈んでいました。 不思議に思っていましたがやがて謎が解けました。その地方の土には金雲母が含まれて いて味噌汁に入れる野菜(洗っていない)に付着した土の中の金雲母が沈んでいた訳で した。 飯の代わりにジャガイモもしばしば登場しました。「いただきまーす」と先生と向き合った 全員がどんぶりに盛ったじゃがいも(それもクズじゃがいもでゴルフボールより余程小さ い)の皮をむいて食べるのはいささか滑稽な風景でした。 援農であるから定めし農家で食わせてもらえるかと期待したらそれが大違いでした。福 島の農家は多分困窮していたのでしょう。なにも食わせてもらえない。昼飯の時に農家の 爺さん、婆さんと娘が(当時は若い者は兵隊にいっていたのでこのような構成が普通の家 族でした)いろり端で鉄鍋で炊いた飯を味噌汁でぐいぐいと食べます。当方は奴隷よろしく 土間に座り、弁当箱の飯をほんの二、三口食べれば終わりになります。じっと農家の家族 の食事を固唾を飲んで見守ります。爺さんの裸の胃袋のあたりが見る見る膨らんで血管 が浮き出します。それでも農家の人は一口も食べるものを恵んでくれませんでした。 この低カロリーで半人前ぐらいの作業をするのですから全員痩せ衰えました。わずかに こじゅはん(おやつ)時に生のニンジンを畑から引っこ抜いて囓るのを許されるのは小さい 救いでしたが、都会の子供には如何に飢えていても旨い物ではありませんでした。一番 のご馳走は「はたんきょう」というプラムの一種を数個づつもらう時でした。 あまり飢えていたので下ばかり見ていました。飛田先生が時々「今日は安達太良山が 良く見えるよ」と言われましたが山を見る気もしませんでした。従って未だに安達太郎山が どんな山であったかを思い出すことが出来ません。 それに加えて生活を苦しめたのはノミの発生でした。汗だらけの体に洗濯もしないシャ ツで寝るのですから、ノミが発生するのは当たり前です。それはもの凄く、布団に手を入 れただけでノミが飛びつきます、丹念に一匹づつ潰すのですが捕っても捕っても追いつか ない。当時はDDTなどという特効薬はありませんでしたから、蚤取り粉を買ってきてまくの ですが、戦時中の薬は効き目がありませんでした。 農作業で背中を太陽に照り付けられるとノミが暑さを嫌って腹の方にまわり、下腹部の 方に食いつく、中には飛び上がるほど痛く噛みつく奴がいてびっくりする、という有様でし た。私は日本はノミで敗戦に追い込まれたのではないかと思うこともありました。 (6)食うための工夫 飢えていると言うことは工夫を生みます。まずは口に入る物は全部生で食べます。麦を 脱穀した直後の生の粒は非常に美味しく、ミルクのような甘い白い液が口の中に広がっ て印象が深かったことを覚えています。トウモロコシも生でこっそり食べました。桑の実を 生で食べることからもっと工夫して空き缶に桑の実を山盛りにしてローソクの火であぶり、 ジャム状にして食べる生徒もいました。食べた後は口の周りが紫色に変色しているので 食べたことがすぐバレました。 傑作は梅漬けでした。戦時中とはいえ青梅の実は豊富でしたから、しその赤い葉っぱと 塩と青梅をビンに入れ、蓋をしておくと赤い美味しい梅漬けができます。その梅を食べて しまってから残った汁に生米を入れ、二、三日するとやや発酵してこれも美味しい食物に なりました。くすねた少量の大豆を煎って、醤油と水とを混合した液を入れた水筒に入れ、 時間が経つとものすごく膨れた豆が出来上がって少なくとも満腹感だけは得られました。 炒り豆や、桑の実ジャムを作る調理は数人で夜中に木造の小学校の教室の床で行い ました。火はローソクだけですから暗い教室で空き缶を手で持って調理する光景は恐らく ぞっとするようなものだったと思います。良くまあ小学校を火事にしなかったものです。 どんなに飢えてもじゃがいもとねぎだけは生で囓ることは不可能でした。現在は生の じゃがいもを水で晒してサラダで食べますが、世の中が変わったものだと思います。 (7)当時の農村の状況 当時の農村は今にして思えば小作と地主に厳然と分かれた社会でした。地主には小作 が手伝いに行きますから、学生の援農は当然小作階級の所に行くことになったのだと考 えます。行く先々の農家は非常に貧しく、殆ど吹き抜けのような家屋構造で、土間+いろ り+居間のみというふうで、箪笥が僅かに一竿あるのが平均的な小作ではなかったでしょ うか。電灯が昼間も点けっぱなし(当時定額料金制では昼間も点けたままでした)の他は 徳川時代とあまりかわらなかったのではないかと思われます。 子供の遊ぶ姿も都会から行った少年には驚きでした。4~5歳ぐらいまでの子供は皆は だかで土埃にまみれて遊んでいました。現在アフリカの生活をテレビで写すと時々そのよ うな光景が見られます。二本松もこんな風景だったなと思い出します。 農作業は麦の刈り取りが終わると畑の草むしり、田圃の田車押し(田圃の雑草を取るた めに、稲の間に車の付いた道具を押して作業する)と仕事は幾らでもあります。炎天下に しゃがんで草むしりをするのは本当に辛い作業でした。田車押しも見た目ほど楽ではなく、 重い車を押し、ブヨに裸足の足をくわれてどこが足首か分からないほど腫れ上がったもの です。 (8)病気となる 七月初めだったと思いますが、桑の木に登って実を大量に食べました。それからがどう も腹具合が良くない、下痢をするわ、腹が膨れあがって嫌なゲップが出るということで、遂 に寝込みました。今から考えると栄養失調気味のところに生の桑の実を大量に食べたこ とが悪かったのでしょう。遂に町のお医者に行きましたが、机の上に大きなビンがあり、誰 にでもその液を注射しているのには驚きました。誰も面倒を見てくれた人はいないと思っ ていましたが、お医者に支払いをした覚えがないので、きっと先生が面倒を見て下さった のだろうと反省する次第です。 (9)合法的に食える方法を見つける 作業も軌道に乗って来ましたが、依然として食う物がない、ある生徒は駅に荷役に行っ たときに大豆の運搬をさせられて、袋の孔から大豆を掻き出してポケット一杯大豆を盗ん で来ました。盗み、かっぱらいだけはしたくないと思うので、私は乏しい三度の給食以外 にはまったく食べるものがありません。 病気も何とか回復し、ある夕方に突然幸運が転がり込んできました。援農の作業に行く のに従来闇雲に訪れていたものを、前日の夜に農家にご用聞きに行き、必要人数を確定 するというシステムにするという先生の訓辞でした。「それにはご用聞きに農家をまわる人 が必要である。誰かしっかりした人はいないか」ということでしたが、夕食の後に何キロも 歩いて農家を訪問するのはやせ衰えた体には負担です。遂に私を含めて数人が指名さ れました。 ところがまわって見てびっくり、農家は援農に来た生徒には食わせないで徹底的にこき 使うのに反して、援農人数を確定する権限(?)を持った人には徹底サービスすることで す。「明日、何人要りますか」という質問に対して「なるべく沢山来ておくれ」という答えで、 人数をちょっと渋れば、手のひらに蒸かしたじゃがいもが一個乗ります。別の農家では漬 け物のきゅうりが一本乗ります。という具合で一回りすると低カロリーではあるが腹が一 杯になる、ということを経験しました。この教訓は 人間は常に売り手市場にいなければな らないということなのでしょう。 戦時中のこと、ローソク一本をつけた「がんどう」なるものを懐中電灯代わりにして月の 無い夜は墨のように真っ暗な道を一里か二里歩くのですから重労働でしたが役得の方も 大きなものでした。そしてこの役得は誰にも喋らず、当番をした者全員の秘密でした。食う ためには親友にも喋らなかったものです。 (10)荒んだ集団生活 銘々食うことに精一杯という生活ですから、生活は荒さび教師は指導力を無くします。あ る先生は何もしないで一日竹籠を編んでいました。全員恐ろしくエゴイストになり、他人の 生活に無関心になります。 喧嘩も起きます。夜になって喧嘩が起きると全員車座になった、ボクシングの観客よろし く掛け声をかけて、どちらかが徹底のばされるまで見物します。やせ衰えた中学一年生同 士が暗い電灯の下で喧嘩をし、誰も止めもしなくて見物するというのは、今再現したらば 二目と見られない光景でしょう。 貧富の差も問題でした。後年シベリアの捕虜収容所で、捕虜の間でも貧富の差があっ たということを聞きましたが、二本松でもまさにその通りでした。 ある種の生徒は結構かっぱらいが上手で物資をため込む。親の面倒見が良い生徒は常 に家から食料を送ってくるので(戦争中と言えども小包は不確実ながら届いていました) 不自由しない。等と人間模様が様々でした。大部分の生徒は私も含めて家から食料を 送って貰えないので一番要領が悪い生徒は乞食同然になりました。つまり食料を持って いる友達に卑屈に頼んで食べるものを貰うことです。誰かに食料の小包が届くと(中身は 大概大豆を煎って塩をまぶしたもの)殺気だってきます。これを解決する手段は何分の一 かを全員に播くことです。文字通り棚の上に立って豆を播きます。それを全員が拾うという 図で、中には傘を広げるという笑えない知恵を発明した人もいました。人間はどんな環境 にいてもすぐ貧乏人と金持ちが出来る動物のようです。 私は前に述べた役得がありましたので比較的超然としていることが出来ました。しかし それが無ければどうなっていたかは分かりません。 色々なことがありましたが、「衣食足って礼節を知る」というのは真実で、食い物が無い 場合の人間の行動はどうなるかということをつくづく経験しました。モラルを維持出来るの は人によって程度の差があるようです。死んでもモラルを維持すると言うことはむずかし いことでしょう。特に中学一年生という半分大人の知恵を持ち、モラルの形成が未完成な 年頃では人間性がむき出しになり、その後の私の人生観にも影響を与えたことは確かで す。人間性善説だとか、裸になって話し合う、等という言葉を聞く度に今でも虚しい感じを 持ちます。 もし現代の若者がこれを読んだらどう思うでしょう。何故この地獄集団から逃げなかった か? 逃げられなかったのです。戦時中は鉄道の切符は証明書が無ければ買うことが出来ま せん。夜中に東北本線の汽笛が聞こえて、シュッシュッと蒸気機関車が二本松駅を発車 します。寝ながらそれを聞いて ああ早く父母のいる東京に帰りたい と思っても帰ること は不可能でした。二本松の駅を発車すると上り坂で列車の速度は遅く、飛び乗って無賃 乗車することは可能でした。しかし当時は二本松と東京は今のアメリカより遠かったので す。無賃乗車をしても空襲でいつ列車が東京に着くか分からない状況で、その間の食料 をどうするかを考えると脱走は不可能でした。 その間にも栄養失調でポツポツと病気の人が増えます。一晩寝て朝になって整列する と顔がむくんでひどい状態の友達が一人また一人と発生しました。当時栄養失調という言 葉は存在せず、「・・・君は腎臓が悪くなった」などと言っていました。病気になると鉄道の 切符の乗車証が発行されます。親に連れられて帰る人を羨ましく見送ったものです。あい にく私は役得のために栄養失調にもならず、家に帰ることもできませんでした。 (11)鉄橋で恐ろしい目に合う 農家からの帰りに近道をしようと何人かで鉄道の鉄橋を渡り始めました。ところが滅多 に来ない筈の列車が鉄橋の後ろの山間から突如出現しました。ボ・ボ・ボ・ボと蒸気機関 車のブラストの音が聞こえます。急いで走ろうと思っても鉄橋の上に並んだ枕木を踏んで 走るのは難しく私は運動神経が鈍いので一番遅くなりました。汽笛も鳴らさずにボ・ボ・ボ の音は近くなります。やっと渡りきって線路の左側に避けた途端に機関車は轟音と共に 走り抜けました。その熱気の凄いことには驚きました。その時轢かれていたらこの作文は 存在しないことになります。 (12)成蹊学園の生徒の父兄である遊佐さんが村の大きな「奥の松」という酒造業者でし た。戦時中でも酒造はやっており、時々働きに行きました。ビールの原料になる干したとう もろこしを煎るのが仕事で,煎り終わってももの凄く固いとうもろこし粒を口にいれるのが 役得でした。大きな犬が飼われていて美味しそうなご飯を食べているのでそれが羨ましく てよだれが垂れました。酒樽の中に醸造中に生成した葡萄糖の固まりがあり時々それを 貰うことがあります。甘いものが一切無かった当時これはご馳走で、自分も食べましたが 残りを粉にして封筒に入れ、郵便で父母に送りました。 (13)倉石先生のこと 終戦の日直前になってドイツ語の倉石先生が突然見回りに来られました。畳敷きの部 屋に全員を集めて「日本が勝つと思う人は手を挙げなさい」と静かに言われました。一人 を除いて全員が手を挙げました。当時は戦争に負けるなどと言うだけで重罪になるような 雰囲気でしたから皆驚愕してその生徒と倉石先生を見較べました。すると先生はニッコリ としてその生徒に「君はどうしてそう思うのか」尋ねられて何事も起きませんでした。どん な返答であったかは忘れましたが、印象深い出来事でした。多分先生は敗戦のことをご 存知だったのでしょう。 (14)敗戦と旧盆の頃 つらい日々を過ごしていましたが、とうとう八月十五日になりました。正午に重大放送が あるという訓辞を受けて農家にいつものように働きに出ました。その日は焼けるように暑 い日だったことを覚えています。午前中は草むしりで暑くてつらい作業でした。 正午になりガラスの蓋がついたラジオ箱をあけてラジオが鳴り出しました。集まった人は 縁側の前にしゃがんで放送を聞きました。天皇の言葉は不明瞭で分からず、それに続い て内閣告示という放送でやっと戦争が終わったと推定されました。ところが当時の農民の レベルからいうと内閣告示はチンプンカンプンです。「日本は負けたらしいな」といった途 端、百姓さん達から「とんでもないことを言うな」と怒られました。戦争に負けたことが分 かった瞬間に皆涙を流したということをしばしば聞きます。私の場合は涙も流れませんで した。「やっとこの生活から抜け出すことができる」とぼんやり意識しただけでした。 それでも、全身力が抜けたような感じで午後から作業をやる気もでません。しかし、雇い 主が戦争に負けたことを認識していないのですからサボるわけにも行かず、午後もちゃん と草むしりを済ませて宿舎に帰ってきました。宿舎にいた友人達は大分ヒステリー状態に なったようでした。ヒステリーになるかならないかは回りに居る人の状況によって違うよう です。 軍国少年だった私は「日本が負けたら自分は死ぬのだ」と信じていました。それがどうで しょう。次の日になっても何事も起こりません、先生方も普通です、その次の日も無事です。 何とも言えない奇妙な感情の日々を過ごしました。 数日すると旧盆です。戦争に負けたのでご馳走を食べるのは何か罪悪感がしましたが 農村では戦争も何も関係がないような感じでした。地主さんの家に呼ばれてご馳走になり ました。あの物の無い時に、何と砂糖の入ったおはぎが山盛りです。甘い物をたらふく食 べるのは数年ぶりのことなので夢中で食べました。それにも増して驚いたのは地主さん の家の応接間の立派なことです。小作が徳川時代だとすると、ここの応接間は東京のブ ルジョア家庭とまったく変わらぬ立派さで、大きな電蓄(今風にいえばオーディオ)が座っ ていました。それだけ貧富の差があったのでしょう。それにしても縁もゆかりもない子供た ちにご馳走してくれた地主さんには感謝します。 (15)帰京 八月十五日から二、三日すると東京からの下り列車が帰郷する人で満員になって走る ようになりました。蒸気機関車の先端部にも人がこぼれるほど乗っています。早くも農村 に若い者が現れてどんどん穴を掘ります。理由を聞くと「アメリカ軍が来て略奪すると困る から、家財を埋めるのだ」ということでした。 先生の方は「今東京に帰ってもどうなるか分からないから、ここに数ヶ月頑張る」などと 言われる始末でした。「冗談ではない」と思っても自分一人ではどうすることも出来ず、皆 イライラしました。 八月三十日に突然「明日帰京する」と申し渡されました。中学一年生の子供ですから皆 飛び上がって喜びました。興奮して寝られずに、小学校の講堂を徹夜で一晩中走り回っ て遊びました。こんな純粋な喜びはその後も経験したことがありません。 八月三十一日の朝、整列すると約50人きたはずの生徒が半分ほどに減っていました。 東北本線に乗車し、朝早くから走り出して上野に着いたのは夕方でした。振り返って蒸気 機関車を見たらC57型のC571でした。そして皆早く家に帰りたくて挨拶もせずにバラバ ラに解散しました。 久しぶりの東京駅はすっかり燃え尽きてホームの屋根もなく、ホーム に上る石の階段は火災で角が欠け、足が滑って上るのも困難でした。 平和な時であれば一瞬の中に過ぎるような、たった71日の間に多くの経験をしたもの です。 以 上