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西脇順三郎 の詩行︵序説︶

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西脇順三郎 の詩行︵序説︶
西脇順三郎 詩行︵序説︶
富
山
英
俊
しが知る範囲での西脇研究でも、樋口覚の﹁生垣の詩人││西
脇順三郎の詩法﹂などは、その機能の問題に触れている。また
小論では、読者は詩句の具体的な行ごとの動きを期待と予断を
とくに行末の様子である。つまり﹁行また ぎ﹂の こ と だ が、西
もちつつ辿り、ときに満たされときに裏切られて詩的感興の実
般を論じるなかで西脇についても鋭い観察を述べている。この
させるのとは違う詩行の切り方があるわけだ。ただし、西脇の
際の経験をえる、という視点から、西脇における詩行の特徴を
阿部公彦の﹁行の問題││日本現代詩の 制 度 性﹂は、現 代 詩 一
詩の大半にそれが見られるわけではなく、むしろ事情は、わた
手短かに検討したい。
脇ではしばしば、詩句の流れは、行末で止まったかと思えてそ
しが惹かれる作品の多くにそれが含まれる、ということである。
な固定した定型をもたないとはいえ、リズム、イメージ、構文
ら、日本の近・現代詩、いわゆる口語自由詩は、七五調のよう
*
︶
、擁護されること も あ る。
園に異神あり﹂でのように︵ 78−80
ただし飯島は、マラルメも同様のことをしたと述べるにとどま
さて多くのひとには今さらと思えるだろうことを確認するな
り、その詩的な機能を解明しようとはしていない。他方、わた
の読者には概ね受け入れられていると思える。飯島耕一の﹁田
かしな行の切り方として嫌われることもあるだろうが、現代詩
行またぎは、西脇の特徴としてそれなりに認知されていて、お
うでなかったと判明する。つまり、意味の流れが﹁自然に﹂予想
西脇の詩を読むときわたしに一番気になるのは、詩行の構成、
の
112
くらでも見られるわけだが︵中也や賢治にはその最上の実現が
詩にも、日本の定型詩のいわゆる七五調とその創造的変形がい
ずに、ということだが。そのうちリズムについては、近・現代
応じてよかれあしかれ、そしてときに意図的にときに意識され
などにおいて頻出する型をいくつも成立させてきた││才能に
明 ら か に 定 型 の 七 音 と 認 知 さ れ、
﹁も と|め る|は ゆ|め●﹂
音枠への字余りと読まれるだろう。後半の﹁求 め る は 夢﹂は、
の生命を﹂の纏まりが、
﹁えい|えん|のい|のちを﹂という八
|●●﹂という八音枠の五音であるわけで な く、む し ろ﹁永 遠
といった行を引ける。ここで﹁永遠の﹂は、
﹁えい|えん|の●
は待てよ﹂が八音枠と文語的な語法を示すからこそ、右のよう
と読まれる。││ただしこうした読み方は、作品全体が冒頭か
な黙読・音読が誘われるのである。
︵ちなみに西脇は概し て 漢
ら設定してゆくパターンがあって導かれるものであり︵この引
を実現している││俳 句 な ら﹁○○|○○|○●|●●‖○○
語の訓読みでなく音読みを好んだというが、ここは多くの読者
見 ら れ る︶
、五 音・七 音 か ら な る 定 型 は じ つ は 二 音 の 纏 ま り
|○○|○○|○●‖○○|○○|○●|●●﹂の 型︵○は 語
は﹁せいめい﹂でなく﹁いのち﹂と読まないだろうか││そうだ
用はもちろん﹁旅人かへらず﹂の冒頭︶
、ここでは第一行﹁旅人
音を、●は休止をあらわす︶││ という考え方は、別宮貞徳や
一音ないし三音の休止を含んで、一節どうしが八音分の等時性
川本皓嗣など多くの論者が採用してきた︵もっとも一般に広く
きえ|うせ|んと|●●‖のぞ|むは|うつ|つ●
消え失せんと望むはうつつ
近には
としてその理由はいま述べた定型性であろう︶
。そしてその付
ただし、その五ないし七音の節のあいだの等時性は、休止を
認知されているとはいえないだろうが︶
。
れを採るように詩文が誘う場合に成立する。だから、口語自由
含む八音枠という読みの型が読者に共有され、何らかの形でそ
詩からただ五音や七音を抜き出しても、リズムの分析にはなら
ば奇矯な︶詩語を開発したというのが妥当な定説であるわけだ
本的哀感への回帰という感触を否定できないその詩集の性格に
だが、確認するなら西脇ではこれは例外的で、簡単にいえば日
もあり、これも概ね七音が︵八音枠が︶二つある定 型 で あ る。
ないわけだ。そして、西脇は七五調を忌避して新たな︵しばし
が、稀には七五的な詩行も書く。右に述べたことを西脇で例示
一士がある鼎談で述べ た よ う に︵ 26
︶
、そ の 詩 集 で の 哀 感 の 表
由来する。││が、その特徴づけももちろん簡単すぎる。篠田
するなら
永遠の生命を求めるは夢
113
︵日本語が発声される と き の 自 然 な 傾 向︶を 基 礎 と し て、か つ
西脇順三郎の詩行(序説)
現はあまりにあっさりと反復されて、逆に異化効果を与えさえ
この庭の隕石のさびに枯れ果てた
秋も去ろうとしている
土の記憶が沈んでゆく
羊歯の中を失われた
するから。
*
さて、近・現代詩が七五的な定型性︵とそ の 変 異 形︶に よ ら
といった詩行を、ひとによっては﹁あき|もさ|ろうと|して
に属すると聴こえた︵なお残念ながら、行またぎを含む詩はそ
|いる﹂と二音の纏まりを強調して読みリズム感を出すだろう
の録音テープに含まれていなかった︶
。わたしの印象 で は、西
ない場合、そこにどんなリズムが働きうるだろうか。別宮は、
ブロックはおおむね等しい時間を使って読まれる︵音数の多い
脇は二音の纏まりを非常に強調するように読んでいて、それら
し、べつのひとは﹁あきも‖さろうと‖し て い る﹂の 三 つ の ブ
部分は速度が上がり変化が生じる︶と考えるわけである︵た だ
その場合のリズムは、二音の纏まりが反復される等時性として
この 二 要 素 は、両 立 す る こ と も 排 他 的 に な る こ と も あ る だ ろ
は、英詩の伝統的韻律での foot
に類した単位のように響く。
さて、西脇は青年期には当時の日本の標準的な詩的語法や、
現れ、また、意味の切れ目で分かれるブロック間の等時性とし
う︶
。ここで注意すべきことは、そうした音声経 験 の 型 は、七
その音楽性になじめず、むしろ英語やフランス語で詩を書こう
ロックの概ねの等時性を保ちつつ流すように読むだろう。ちな
五調のように安定して読者に共有されているわけでないから、
としたこと、日本語で書いたときも、外国語からの直訳調のよ
みに、この詩は、西脇が数篇を音読した朗読テープに含まれて
とうぜん読み手ごとに違いが大きくなりうる、ということだ。
うに響く不思議な日本語を書いたことは、何度も語られてきた。
て 現 れ る、と い う 説 を 立 て て い る。つ ま り、一 行 が た と え ば
むしろここでは、口語自由詩をたんなる情報を取り出すための
そして、西脇自身がじぶんは詩の音楽性でなく視覚性を重視す
いて、それを聴く機会をえられたが、かれの音読は、前者の型
散文とは違うように黙読・音読する場合に、多くの読者でその
ると語り、それは注釈者、批評家たちにより西脇詩の本質とし
は基本的には二音の纏まりが主導的となり、かつ、それぞれの
種類のリズムが現れるだろう、という事態が示唆されている。
﹁五 音|六 音|四 音﹂に 切 れ れ ば、そ れ ら の ブ ロ ッ ク の な か で
ともあれ、これについて西脇から例を引くなら︵
﹃禮記﹄の﹁故
て語り継がれてきた。しかしこれは、西脇の詩に独自の音楽性
や音声的効果がないことを意味するはずはない。実際、近藤晴
園の情﹂
、十七行の詩の冒頭︶
114
西脇順三郎の詩行(序説)
彦の研究書﹃西脇順三郎の詩﹄は、西脇詩において停止 と 流 動
その明け方
くだものの内がわへ
代日本語の音楽性は不十分なものだという発言を引用したうえ
法││夏のための﹄所収︶
。
﹁
︵な︶のだ﹂は、先行する表現を一
といった行であ る︵
﹁あ か つ き 葉 っ ぱ が 生 き て い る﹂
、
﹃透 視 図
涼しい雨足がたっていたのだ
性が入り混じる効果を細 か く 分 析 す る 個 所 が あ る︵ 41−47
、ほ
か︶
。また﹃定本全集﹄別巻の批評選集に載っている片桐ユズル
で、西脇自身の詩の豊かな音声的多様性を指摘して、
﹁え ら い
き留められる情景への思いの強度を、単純にいえば﹁主観的な
の論考﹁西脇詩の構造﹂は、西脇による反音楽 性 の 主 張 や、現
︶
。
人もたまにはまちがったことをいう﹂と反論し て い る︵ 260
そして片桐による、西脇詩の用いる日本語の多面性の併置や、
もの﹂を伝えようと す る︵そ し て 発 音 の 異 例 性 が﹁こ れ は 特 別
の論考は、安東次男による、近代詩の行分け形式は一行一行に
られ感興が確かめられる、という定型である。先に触れた樋口
不二夫の創造した日本文化史に輝く重要人物﹁天才バカボンの
流なのだから︶
。現代詩は、詩的語法の一定の演目をよか れ あ
悪いとはいってはいない││主観的なものの表現は近代詩の本
の﹁にけり﹂などと同じ 機 能 を 果 た し て い る︵も ち ろ ん 同 じ で
青山の町陰の田の水さび田にしみじみとして雨ふりにけり
茂吉の
な 発 話、詩 で す﹂と 合 図 す る︶
。そ し て、そ れ は た と え ば 斎 藤
度体言として纏めてまた述定しなおすわけだが、ここでは、書
統語の意図的な紛糾の効果の分析はすぐれたものである。
*
ここで、近・現代詩に成立している表現の型をもうひとつ確
認しておこう。それはつまり、多くの近・現代詩では、とくに
込められた﹁気息の充実感﹂を杖として立つ、という趣 旨 の 発
父親﹂と栄光を分かちあっているのである。││なお西脇には、
焦点となる個所で、一行ごとに︵とりわけ行末で︶感情 が 込 め
。そ し て た と え ば、現 代 詩 で そ の 気 息
言を紹介して い た︵ ︶
42
をあらわす型のひとつは、頻出す る﹁の だ﹂
、
﹁な の だ﹂の 使 用
ない﹂という詩行がある︵
﹃壌歌﹄第一部の末尾近く︶
。
﹁
﹁だ﹂という音は文章がそこで/切れることを示すので肯定で
しかれ備えていて、この﹁
︵な︶のだ﹂の使用においては、赤塚
だ ろ う︵通 常 の 発 話 で は ほ ぼ﹁ん だ﹂
、
﹁な ん だ﹂と 発 音 さ れ る
のに︶
。たとえば大岡信の
なぜか
115
の、通常はかけ離れた事物・概念の結合・併置がある、という
西脇の詩でのリズムと行末の様子を、行またぎのある作品に
ことかも曖昧だが、
﹁寓話﹂と﹁線的﹂が結合されると、精神の
とばをふつうの意味で使っていない。また﹁線的﹂とは ど ん な
それがなにの寓意かは見当もつかず、つまり﹁寓話﹂と い う こ
ことに な る。
﹁近 代 の 寓 話﹂
、
﹁四 月 の 末 の 寓 話﹂を い い な が ら
ついて見てみよう。たとえば﹃近代の寓話﹄巻 頭 の、多 く の 詩
*
選集にも収められる詩集標題の作品は
四月の末の寓話は線的なものだ
それらが﹁線的﹂と繋がると、形態と力線が抽象され歪 め ら れ
けだ。さらに、二行目には鮮やかな色彩が巧みに提示されて、
自在な︵日常とべつで日常を活性化する︶次元が示唆される わ
半島には青銅色の麦とキャラ色の油菜
複眼的に配置されることばのキュビスムが片鱗を見せる。
あまり多くを語りたくない
に合流するのだ私はいま
人間でなくなる時に最大な存在
人間の存在は死後にあるのだ
自在に変奏されつづけるという型が、西脇に成立したわけであ
索・瞑想の詩であり、それら諸要素がゆとりとユーモアのなか
う設定が展開する。こうして、同時に機会詩・即興詩であり思
の﹁形而上学﹂が登場しつつ、旅行散策の歩行と嘱目の 詩 と い
て、デカルトを転倒させ老荘的にも禅的にも響く東洋的な逆説
という﹁旅人かへらず﹂から継続する主題も姿を見 せ る。そ し
だが、三行目の﹁さびれていた﹂では、存在そ の も の の 哀 感
たおやめの衣のようにさびれていた
ただ罌粟の家の人々と
る。これはその後の膨大な詩業の基本となった。先に触れた近
考える故に存在はなくなる
形而上学的神話をやつている人々と
人かへらず﹂からの移行期のものが主であることを確認して、
藤の本 は、詩 集﹃近 代 の 寓 話﹄の 後 半 の 作 品 は 時 期 的 に は﹁旅
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
と始まる。すでにさまざまに語られてきたこの詩について、意
距離の感覚・アイロニーが復活し加味されて詩集前半の諸篇が
成立した経緯を、丁寧に追跡している。││なお個人的には、
﹁旅人かへらず﹂の世界観 に 初 期 西 脇 の 乾 い た 書 法・対 象 へ の
﹁旅人かへらず﹂はやはり哀感の一元性が強く感じられ︵アイロ
味の働き方をいちおう確認するなら、第一行は、慣れ親しんで
ためて解釈・説明をしろと言われれば困る種類のものだろう。
も新鮮な驚きをうむ卓越した行であるが、さてその意味をあら
だが要するにここには、西脇の詩論でもその解説でもおなじみ
116
西脇順三郎の詩行(序説)
ニーの存在をいう篠田の説はもっともだが︶
、語法・詩行 の 使
を読むように導かれるわけだ。行末の終止がはぐらかされ、止
︵
﹁に|ごう|りゅう|する|のだ|わた|しは|いま﹂
︶
、詩行
まりかけたリズムは空転するが、また動き出すと逆に自律する
い方・情感も七五調的なものに近すぎる部分が多い、というの
が正直な感想である。
油菜﹂と体言止めがあるが、この冒頭部は一行ごとに終息感が
詩﹁近 代 の 寓 話﹂に も ど ろ う。二 行 目 に は﹁⋮⋮キ ャ ラ 色 の
成立する。こうした分析は細部にあまりに拘泥している、とい
のゆがみと連動することで、西脇詩のことばの不思議な世界が
の分節に頼ることになる︶
。そしてそのリズムのずれ が、意 味
うることである││意味の分節がくずされると読み手はリズム
︵リズムが機能することはリズムの分節が意味の分節に優越し
ありつつ、それらが連ねられる小気味よい速度感がある。だが、
う印象をうける読者もいるだろうが、わたしには、これは西脇
*
ここでの詩行の動きの焦点は、
﹁人間でなくなる時に最大な存
詩の肝要な要素であると思える。
はリズムがあるといい、とくに篠田は﹁ジャズでいうリズム・
││なお、先に引いた鼎談では篠田一士も田村隆一も西脇に
在/に合流するのだ私はいま/あまり多くを語りたくない/⋮
末に意味の自然な切れ目があったのに﹁最大の 存 在﹂は、次 の
︶
。また阿部
セクションみたいな部分がある﹂と述べていた
︵ 33
公彦は 論 考﹁行 の 問 題﹂で、西 脇 に﹁ほ と ん ど メ ト ロ ノ ー ム の
⋮﹂と続くあたりの行の運びにあると思われる。そこまでは行
行頭の﹁に合流するのだ﹂へとまたいでいって、そこに 若 干 で
だろうか。そして行またぎは、西脇の等時的なリズム感覚に必
︶を 感 じ と っ て い る。こ れ ら と 拙 論 と、別
よう な 定 速 度﹂︵ 288
のことを言っているようで、じつは同じものへの反応ではない
あれ戸惑い、ずれの感覚が生じる。さ ら に、
﹁私 は い ま/あ ま
えば﹁人間でなくなる時に/最大な存在に合流するのだ/私は
ず伴うわけではないが、それにひねり・ねじれを与えて、意味
り多くを語りたくない﹂という切れ方がつづくが、これをたと
いまあまり多くを語りたくない/⋮⋮﹂という切り方に変えて
り、西 脇 の 詩 行 は、
﹁存 在/に 合 流 す る の だ﹂の 箇 所 で 微 妙 な
いは抗う多様な傾向を分析している。そして西脇については、
思い入れの制度化を認め、種々の詩人のそれに同調する/ある
であるという視点から、日本の近・現代詩に一行ごとの沈黙の
︵なお阿部は、詩の諸形式も慣習のシステム・諸々の﹁制度﹂
の歪曲空間と協同するわけだ。
しまえば、まるで違う︵つまらない︶詩ができる。
そして多くの読者は、この行またぎのあとの部分を規則的な
停止と直後の加速を強いている。そのぶれてから戻る速度感ゆ
加速したリズムで読む︵読まされる︶のでないだろ う か。つ ま
えに、読み手は、概ね二音の纏まりを基にする等時性を保って
117
幸福感﹂を語っている︵ 288
︶
。阿部は、とくに行 ま た ぎ に 着 目
するわけではないが、細部のうちに感性の制度の出現をみる分
末の沈黙を跨ぎ越す﹂と 述 べ、
﹁行 分 け に よ る 切 断 を 凌 駕 す る
﹁行は事物との遭遇と別離の記録﹂であるが、
﹁西脇の持続は行
考﹂は、
﹁七|五|五﹂で定型的な一行なのであり、以下読み手
る︶
。そ し て 実 の と こ ろ、
﹁忽 然 と し て|オ フ ィ ー リ ア|的 思
どと、永遠の女性のイメージを示唆して流動的になる︵ここの
果てしない恋心/のためにパスカルとリルケの女とともに﹂な
この行またぎの始まりを西脇に探れば、
﹃ Ambarvalia
﹄にも見
つかる。その詩集は、詞華集によくとられる﹁ギリシア的抒情
*
は、定型的な五音や七音の影のようなものを感じとらされる。
行またぎの続き方は意表をつかず、流動性の継続に貢献してい
析は興味深いものである。
︶
*
詩﹁近代の寓話﹂には、そのあと、宿の女たち が 碁 を う つ と
いう奇想︵現実に起こっていた情景なのだろうが︶がはさま る
が、つづく部分には、ずらしの行またぎが登場する。
道玄坂をのぼつた頃の彼のことを考え
ていると思える││﹁海豚は天にも海にも頭をもたげ﹂
︶
。が、
叙情詩である︵その な か で は﹁皿﹂が も っ と も 綺 麗 に 歌 い あ げ
の頻出する﹁ LE MONDE MODERNE
﹂の二部からなるわけだが、
前者は概ね、抵抗感のない行わけがされる﹁イマジ ズ ム﹂風 の
﹂と、摩訶不思議な語法
詩﹂が含まれる﹁ LE MONDE ANCIEN
たり白髪のアインシュタインがアメリカの村を
ベドウズの自殺論の話をしながら
歩いていることなど思つてねむれない
そのうちの﹁菫﹂は
コク・テールつくりはみすぼらしい銅銭振りで
ここは、死んだ
︵?︶
昔の友人に触れ る ら し い が、
﹁⋮⋮を 考 え
/たり⋮⋮﹂の気息は、読み手の足元をすくう種類のいたずら
あるがギリシヤの調合は黄金の音がする。
/暗黒の不滅の生命が泡をふき/車輪のやうに大きなヒラメと
つてみたまへ。/バコスの血とニムフの新しい涙が混合されて
と始まっている。以下その作品は﹁
﹁灰色の菫﹂というバーへ行
という感触がある。ただし、その詩の終わりのほうは
忽然としてオフィーリア的思考
のあたりから叙情的になり、以下﹁あのたおやめのためにあの
118
西脇順三郎の詩行(序説)
共に薫る﹂と続いて独特の風味のエロスを暗示するが︵もっ と
も強烈さの感触はない︶
、冒頭二行の行またぎは、全体の 違 和
の雰囲気を開始させている。
て立ち止まるだろう。だが次行は
からであろうか
そして、ある行末から視線を上げて次行の頭を見るまでは、行
末ごとに感慨をこめるよう誘うままで終わる詩篇も多数ある。
西脇の詩に行またぎは頻出するが、現れないこともあり、行
ある理解をつねに一つの理解と位置づけ括弧に入れてゆく運動
のの結合とならんで、世界観としてのアイロニー、人間の得る
用も果たしている。そして、西脇詩学の根幹には、隔絶したも
が、それまでの詩の展開を停止させ、一括りに括弧に入れる作
くして逆に読み手の注意力を鋭敏にさせるという策略でもある
であって、思い入れは軽くかわされる。これは、行を辿りにく
わけのずらしがあるかどうか分からないのだから、西脇を読む
があるわけだが、そのアイロニーは、詩作の実際では、こうし
*
ひとは、そこで間違えないかに注意力をむけることになる。一
永遠の滅亡への予約も
ホトトギスも鳴いて
ウツギの花も咲いて
を受け入れる余裕のごときものでないだろうか。
する運動神経のようなものと、主観性とアイロニーとの宙吊り
西脇の読者が身につけさせられるものは、その行の動きに追随
い入れを完全に無化するわけではなく、両者は微妙に併存する。
た行の移りのなかに働いている。だがまた、それは、主観の思
例を最晩年の詩集﹃人類﹄から引けば、
﹁愁人﹂は
かなりうすらいでいた
*
脇の多様膨大な作品群での、その諸相を検討したい。
観したあたりで終わることとするが、いずれ機会があれば、西
としみじみと始まる。さらに
すべてが春の光りを
さてこの小論は序説ということで、西脇詩の基本的な型を概
無限のたかつきからすすつていた
と続けば、大方 の 読 者 は、
﹁す す つ て い た﹂に 深 い 思 い を こ め
119
参照文献
阿 部 公 彦﹁行 の 問 題││日 本 現 代 詩 の 制 度 性﹂﹃モ ダ ン の 近 似
値﹄、松柏社、二〇〇一。
飯島耕一﹁田園に異神あり﹂﹃飯島 耕 一・詩 と 散 文2﹄、み す ず
書房、二〇〇一。
九四。
片桐ユズル﹁西脇詩の構造﹂﹃定本西脇順三郎全集﹄別巻、一九
九一。
川本皓嗣﹃日本詩歌の伝統││七と五の詩学﹄、岩波書店、一九
近藤晴彦﹃西脇順三郎の詩﹄
、審美社、一九七五。
﹃現代詩読本9西脇順三郎﹄
、思潮社、一九七九。
篠 田 一 士・田 村 隆 一・鍵 谷 幸 信﹁討 議││諧 謔 と 幽 玄 の 哀 歌﹂
九九四年二月号。
樋口覚﹁生垣の詩人││西脇順三郎 の 詩 法﹂﹃現 代 詩 手 帖﹄、一
別宮貞徳﹃日本語のリズム︱四拍子文化論﹄、講談社、一九七七。
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