Comments
Transcript
愛知教育大学研究報告,29(教育科学編), pp・ 239~256, March, ー冊0
愛知教育大学研究報告,29(教育科学編), pp. 239 256, March, 1980 学校体育の史的研究(その15) 川 島 虎 雄 (体 育 教 室) 1.緒 論 愛知県下における体育の発展は愛知県師範学校の松田正典と愛知県中学校の村瀬松太郎 の活躍と努力によって定着して行くのである。松田正典は学校体育の史的研究(その2) で報告したとおり多くの著書論文があるが,村瀬松太郎はあまりない。しかし愛知県の体 育を研究するにはどうしても村瀬松太郎の体操について考察せねばならないのである。今 回は愛知英語学校の体操教師青木為二郎,愛知県中学校の体操教師村瀬松太郎,熊倉七太 郎の体操を中心に考察するが,愛知県の体育を研究するにはとくに伊沢修二の功績を忘れ ることはできないのである。遊戯蝶々の考察も加えて報告したいと思う。愛知県の体育, すなわち,体操と遊戯が定着して行く経過についてのべてみたい。 2.愛知英語学校の体操 愛知英語学校は文部省が全国の大学区毎に設立した外国語学校の一つである。愛知外国 語学校として明治7年5月に設立されている。名古屋藩の洋学校は,明治2年8月に藩立 名古屋洋学校(七間町一丁目一番地に創立),明治3年6月名古屋藩学校(南外堀町の七間 町角に開校),明治4年10月には拡張して洋館建ての成美学校となったものである。これを 受けついで愛知外国語学校となり,明治7年12月愛知英語学校と改称されたのである。こ れらの洋学校は明治10年2月西南の役による財政逼迫のため愛知英語学校が廃校になるま で多くの人材を養成している。すなわち二葉亭四迷・加藤高明・坪内消遥も少年時代ここ ですごしている。 のちにこの学校はその施設を愛知県に引き継いで愛知県中学校,のちの愛知一中となる のである。 愛知英語学校の体育を取りあげたのは草創期の愛知の体育を伺うことができると考えた からである。 学科課程については,語学口授・読方綴字,習字,翻訳,体操,算術,幾何,代数,地 理,歴史,文法,作文及び日本読書である。 「体操」は「下等語学」においては各学年に,「上等語学」では2年と3年に配されて いる。とくに注目すべきことは,「上等語学」の2年に「健康論」3年に「性理学」が課 されており,その教科書として「健康論」には「ドルトンポピュラルエジション」「性理 学」には「スペンセル」と示されていることである。愛知英語学校では,上等語学(通訳 -239- 川 島 虎 雄 養成)と下等語学(専門諸科進学)にわかれていて各々3か年の修業年限となっている。 学校職員については学校長吉川泰二郎のほか外国教員5人,本邦教員11人であり,その 中に体操教師として青木為二郎の名がみえる。「愛知一中物語」(上)(大野一英 本社 中日新聞 昭和52. 10. 16)の中にも愛知英語学校の写真があるが,立派な体操器機が設備さ れている。器械運動では跳下台,ぶらんこ,木馬,平行棒,棚,棒,釣縄などがみられる。 愛知英語学校一覧には「本校構地ハ面積殆ンド三千坪アリコノ中一ノ濶大ナル地ヲ存シ テ運動所トシ体操教導ノ指揮二従ヒ衆生ヲシテ普ネク運動セシムルニ供セリ」とある。 体操教師青木為二郎は和歌山県の出身とあるが経歴は不明である。青木為二郎がどのよ うな経歴をもっているのか,愛知県文書課,愛知県教育センター,愛知県図書館,旭丘高 等学校などしらべてみたがどうしてもわからない。しかし写真から考察すれば「体操書」 (文部省 明治7 8年)などを参考として行なわれた陸軍体操ではなかったかと推察さ れるのである。 明治6年4月「学制二編追加」から体育は認められるが,当時外国語学校などの専門学 校の教科に「体操」が示され,その教則に毎日1時間の体操実施がきめられていた。さら に明治6年5月改正「小学教則」(文部省布達76号)で小学校の体操が次のうにはじめて具 体的に示されたことである。「毎級体操を置く体操は一日1・2時間を以て足れりとす中体 操法図東京師範学校板体操図等の書によりてなすべし」 この方針とこの体操教材の性格からみて,学校体操の目的は健康の保持にあったと思わ れる。 軍隊体操についていえば,わが国に近代的軍隊が出現したのは天保12年(1841年)高島 秋帆が,その門人をひきいて,武州徳丸が原で行った洋式操練が最初である。 体操はこの洋式訓練の基礎段階に位置づけられていた。この体操の内容は「新兵体術教 練」(田辺良輔 慶応3年:1867年)によって知られている。 陸軍体操を具体化するため設置されたのが明治6年9月の陸軍戸山学校体操科である。 ここで陸軍の体操指導者の養成がはじまり,翌明治7年5月にはフランス陸軍下士官体操 教師ジュクロ(Ducro)が招聘されてその指導者となる。この年陸軍の体操指導手引書で ある「体操教範」がはじめて出版されるのである。 「新兵体術教練」は明治元年戊辰晩冬に田辺良輔雅好によってかかれたものである。内 容は「体制及頭首の運動」「臂の運動」「脚を曲る法及歩法」「体を傾る法及種々の歩法」 「大飛,高跳及種々の体術」等である。「体制」は集合,整頓,開列などの秩序運動である。 徒手は一応,上下脚,頚,体,跳躍,平均,行進等の動作を含んでいるが,最も重要な体 の運動が,体の前後屈だけで,側転,側屈等を欠いている。又片足立ちの平均運動が 多いことも目立っている。全体としてスウェーデン式徒手体操に近い感がある。器械運動 は跳下台,ブランコ,木馬,平行棒,棚,棒(竿)釣縄等を用いての高跳び,幅跳び,跳乗 り,跳上下,懸垂,振動等の運動が示されている。 「体操書」はヴェルニュの「体操の手引J C. Vergnes : Manuel 1872.を石橋好一が訳したものである。本書は全体を小学校之部(巻之一 de Gymnastique, 五)。中学校 之部,小学師範学校(巻之五)之部の三に大別し,附録として「体操器械の製作及び保護 の法」を加えている。このように小・中学校を通じて,発達段階に応じて運動を排列して おり,従来の体操図等に比して内容が大変合理的である。「体操教範」を年令別に配当し -240- 学校教育の史的研究(その15) たものが「体操書」であるといっても過言ではない程である。明治7年の「体操書」の出 現によって,わが学校体操は軍隊体操とともに一時フランス式の体操によって支配された のである。この傾向は明治11年リーランドの来朝によって,大きな転換があるまでつづい たのである。 今回は愛知師範学校の体操についてはふれないが,日本の体育における一つの源流とな るような実践が行われていることはわれわれにとって誇りとするところである。愛知英語 学校の体操教師青木為二郎については不明確ではあるが,体育の施設はすばらしいもので ある。ともに文部省直轄である二つの学校から愛知の学校体育が流れ始めたといえる。 3.愛知県中学校の体操 明治6年征韓論が起り,維新の元勲が対立し,西郷隆盛,板垣退助ら五参議が下野し, 明治10年の西南の役へとつづいて行くのである。この間軍費の拡大物価の高騰,さらに廃 藩で士族の家録はすべて政府の負担となって国家財政が危機に陥り,財政緊縮の一端とし て10年2月,東京,大阪を除いて愛知,広島,長崎,新潟,宮城の官立英語学校を廃止し たのである。 愛知県中学校は明治10年(1877) 2月16日に官立の愛知英語学校を引きついで創設され たのである。これが「愛知一中」の発足なのである。愛知県の人材養成の上に重きをなす ことは周知のとおりである。 愛知県における当時の体操は附属小学校でも明治15年頃まで「生徒ノ嫌悪スルトコロト 為リ」師範学校でさえ指導者に人なく「終二廃滅二属セントス」の状態であったのである。 県下教育の中心であるべき師範学校がかくの如き現状とすれば,地方の実情が名ばかりで あったことは推測に難くはない。しかしこのような状況のところへ,体操伝習所の学業を 終えた松田正典や村瀬松太郎が帰任したり,着任するのであり,松田正典は愛知県師範学 校で活躍し,村瀬松太郎は愛知県中学校で活躍するのである。松田正典についてはすでに 報告してあるので,今回は愛知県中学校での村瀬松太郎を中心として考察したいのである。 愛知県の体育はこの2人によって新しい体育法が導入され,近代体育への歩みにねくれ ることなく進み得たのである。この意味からしても体操伝習所の設立の意義を高く評価し てもよいと考える。 さて愛知県は明治14年7月の文部省「中学校教則大綱」をそのまま県下に布達し,(明 治14年8月16日甲第162号)その後明治16年7月16日(甲第50号)「愛知県中学校教則」 を改正した。 中学校の課程は,初等中学科(4か年),高等中学科(2か年)にわかれ,「体操」はと もに課されているが授業時間数は示されず,「体操ハ適宜之ヲ課スヘシ」とされている。 さらに「愛知県中学校教則」の「授業要旨」に体操は次のようにのべられている。すなわ ち「第20款 体操 コトヲ期ス 故二先ツ整頓法,矯正術及ビ徒手体操ヨリ次テ軽体操,重体操二渉リ,演習 体操ハ身体ノ諸部ヲ平等二発達セシメ,弱者ハ強二強者ハ益強ナラン セシムベシ,而テ毎学期活力統計表ヲ製シテ其成果ヲ証明スルモノトス」 ここに示された体操の内容は普通体操であり,これを指導した人が村瀬松太郎である。 「観光百年史」によれば「このほか体操科も各級を通じて予科は徒手体操,本科は唖鈴 体操を時間外に課したが,当時の風潮としては欧米の学術を吸収するのに急で,課外に付 -241- 川 島 虎 雄 け足したような体操に参加する生徒は極めてまれで休止の状態であった」とある。これが, 当時の体操実施の状況である。 村瀬松太郎は体操伝習所の第2回の給費生である。彼は体操伝習所へ明治13年10月に入 学し,明治15年7月に卒業している。当時卒業した者15名である。松田正典は体操伝習所 の伝習員として明治15年1月に入学し,明治15年7月に卒業している。伝習員としての第 1回の卒業生なのである。伝習員は府県派遣であり,彼は明治14年12月に愛知県師範学校 の体操教師として奉職していることは前回の報告のとおりである。松田正典より村瀬松太 郎の方が正規の卒業生であるということができるであろう。 村瀬松太郎・真野安敦訳述の「健康必須戸外遊戯法」(明治21年)があるが,これはス トレング著「アウト・ドーア・ゲームス」(F, W, Strang : Out Door Games)の訳書 である。 さて愛知県中学校の体操の歴史についてのべてみることにする。「学林」69号を参考に して考察する。 明治10年2月16日,愛知外国学校を廃止,愛知県中学校となるが,このときは前述のと おり,本科3年,予科1年であるが体操科は予科は徒手体操,本科は唖鈴体操を授けたの である。授業時間は毎年11月1日から4月30日までは,午前9時より午後3時までであり, 毎年5月1日から10月31日までは午前7時から正午12時までとなっているが体操時間は時 間外に之を執行すと附記されている。 体操科が軽視されていたことがわかろう。 明治13年9月教則を改正し,修業年限を4か年とし,これを8学級に分けている。体操 科は時間割にくまれて実施されるべきなのに体育の念うすく殆んど休止状態であった。 明治14年8月ふたたび教則に改正を加え,中学科をわけて高等,初等の2つとし,高等 を2か年,初等を4か年とすることとなった。体操科は全級を通じて課せられた。その種 目は球竿,木環,棍棒などを加うに至った。授業時間も殆んど毎日課すこととなった。 しかし,本規程の実施は文部省の認可の都合上明治16年5月であり,依然として名儀上 の教科であったということができる。 明治14年10月18日を期して,新たに体操科を教授し始めたのである。 明治15年9月の入学生より,陸軍体操法を廃して新式体操法を課するに改められている。 すなわち,棍棒,木環,球竿,唖鈴等の体操器具がそなえられた。 明治15年9月,村瀬松太郎が専任教員として赴任してくるのである。 文部省第9年報(明治14年)の愛知県年報に「明年は更に体操教師1名を増んとす」と 決定している事項があるので専任教員の増員が予定されていたことになる。 村瀬は新式の体操服をきて,毎日体操科の授業を実施したのである。 愛知県立第一中学校沿革史によると「明治15年9月より,陸軍体操法を廃し,更に新式 体操法を課す」とある。 このことから考察すれば,村瀬松太郎が体操伝習所を卒業し,愛知県中学校の生徒に体 操を指導するのであるが,恐らく体操の内容は普通体操なのである。それは村瀬が体操伝 習所を卒業する明治15年7月より1ヶ月早く刊行された「新撰体操書」(体操伝習所明治 15. 6)や「新制体操法」(体操伝習所 明治15. 6)などを参考として指導しているこ とは明らかなことである。すなわち,徒手,唖鈴,球竿,棍棒,本環,豆嚢の体操である。 242- 学校体育の史的研究(その15) これらの内容については後述したい。 それと同時に明治15年体操場が新築され,益々体操科の指導が充実整備される。 当時の生徒に指導した内容は前述のとおりであろうと推察するのであるが,これらの教 材配当は8級生(第1学年前期)は徒手体操,7級生(第1学年後期)は徒手体操および 唖鈴体操,6級生(第2学年前期)は唖鈴および球竿,5級生(第2学年後期)は第4級 生(第3学年前期)と同じで,球竿および木環となっている。3級生(第3学年後期),2 級生(第4学年前期)は木環および棍棒となっている。第1級生(第4学年後期)は棍棒 となっている。授業時間は50分で,大凡毎日1時間之を課している。 村瀬松太郎は明治18年10月退職するまで,成果をあげている。在職年数が短かいことは 充分な活動も出来ずに学校を去ることになるので誠に残念でならない。しかし,村瀬松太 郎の後任として愛知県中学校に就任した体操教師は熊倉七太郎(栃木県出身)である。熊 倉七太郎は体操伝習所に明治17年9月に入学し,明治18年3月に伝習員として卒業してい る。しかし熊倉七太郎は不幸にして病気となり名古屋で客死している。 村瀬はこのあと明治19年12月から明治20年11月まで2度のつとめをすることになる。 明治19年6月4日「これまで欠如せし,歩兵操練科を興し,初等科6級生以上に之を教 授す。而して生徒に洋服を着せしむ。」とある。復び兵式体操を課せられるべく規定せられ, 19年6月歩兵操典用銃器及び附属品共文部省より交附せられ,本県よりこれを分附せられ て,第6級生(第2学年前期生)より以上の生徒にこれを応用教授し,其以下の生徒には 専ら柔軟体操を課している。教官として名古屋衛戌歩兵第六連隊より選抜せられたる現役 の下士官(軍曹)3名及上等兵5名毎日出校其任にあたっている。従来の袴をはいた和服 から洋服を着用させる。 課するところは柔軟体操を主とし,其第6級以上にあっては執銃柔軟体操より各個教練 練,中隊教練であった。教官の派遣は人員が減ぜられ下士官(主として一等軍曹,時とし て二等軍曹を混ず)3名で指導されている。 しかし体操科に及ぼせし影響は依然として変化はなかったようである。遠足・行軍が行 なわれた程度のようである。 なお器械体操については明治17年始めて1 2か所を設け専らこれを行なわせている。 2の簡易なものを設け,19年になって鉄棒 21年運動場の敷地拡大せられて以来,梁木,木 馬,棚,鉄棒其他数種の設備が見られる。 遊戯スポーツについては,愛知外国語学校時代は相撲が中心のようであり,その他競走 なども行なれたようである。 明治14・5年のころ若干剣術を習わしたこともあるようであるが,相撲の外は所謂方言で 「ドシ馬」というものが男子的遊戯として用いられたようである。明治16年より18年のこ ろ,夏期に水泳をするものがあったが充分に行なわれていたわけではない。しかし明治21 年7月18日になって,堀川の上流に水練場を開いて夏期休暇中生徒を集めて水泳の練習を させている。 蹴毬は明治16年の頃から行なわれ生徒は主として上級生が運動に参加したようである。 徒歩競走は久しい間行なわれていたが今日の如き運動会を催して競技をするということ ではなかった。 明治20年の秋ごろ始めて野球が行われている。その他槌投げ・巾跳・高跳が行なわれた。 -243- 川 島 虎 雄 かくして愛知県の体育は松田正典・村瀬松太郎の活躍で生気をとりもどすことができ, その流れを新しくすることができたのである。この意味において愛知県の体育を考えると き田中不二麿,伊沢修二とともに,松田,村瀬の功績は大きいものがある。伝習所の新し い運動法の導入によって,力強い近代体育への胎動が始まるのである。 明治19年4月10日勅令第14号をもって公布され,始めてりーランドの伝えた体操が普通体操 として制度上に現われてくるのである。リーランドの講義をまとめた「新撰体操書」やわ が国にあった体育法として「新制体操法」が体操伝習所より出版されているが,これはの ちの普通体操となるのでその内容についてふれておきたい。 新撰体操書の目次 1.緒 言 2.排列法 解列法 3.体ヲ正直ニスルノ法 4.徒手演習 第一 5.仝 第二 6.唖鈴演習 第一 7.仝 第二 8.仝 第三 9.仝 第四 10.「アンヅイル・コーラス」ノ演習 11.球竿演習 12.棍棒演習 第一 13.仝 第二 14.木環演習 15.豆嚢演習 16.器具製作ノ法 新制体操法の目次 第一 整頓法 第二 身体矯正術 第三 徒手体操 第四 唖鈴体操 第五 女子唖鈴体操 第六 第七 棍棒体操 二人球竿体操 徒手体操は徒手で行うもので手具は用いない。手具は唖鈴,球竿,棍棒,木環,豆嚢の 各手具を用いて行う体操で「普通体操」の代表的な運動なのである。 「小学普通体操法」(坪井玄道・田中盛業,明治17)の体操演習示要は教授上の注意で あるが当時の体操指導の参考なのでとりあげる。 1.授業の法は教師先づ授けんとする体操術を一節毎に或は之を区分して,明瞭に説明し 次に親ら之を行うこと数回,生徒をして,充分に之を会得せしめ,然る後ち生徒自身に 之を演ぜしむ,而して此間教師は,高声に挙動を唱え,克く運動の合節を整斉ならしむ -244- 学校体育の史的研究(その15) べし 1.体操教師は常に其授くる所の体操術に慣熟練達し,克く其順序等を諮んずべし,書籍 を教授の場所に携帯するが如きは最も避く可きの事なりとす 1.各生徒は列中に於ては,一切談話す可らず,又狼りに列を離る可らず止むを得ざるの 事情あるときは,教師の許可を得て進退すべし 体操準備の内容は集合及解散,整容及休息,番号,整頓,左右転向及右転回,行進及停 止,分列,排列及閉列,呼唱及挙動の数,身体矯正術は二挙動,四挙動の運動を反復施行 するものである。 4.遊戯「蝶々」の考察 伊沢修二が遊戯を学校体育にとり入れた最初の人であることは周知のとおりであるが, その間の経過について考察してみることにしたい。 伊沢修二の還暦祝賀会編の「楽石自伝教界周遊前記」(明治45.5.9)に次のようにかゝ れている。すなわち「それから師範学校の一事業として,今日の幼稚園に似た仕事を仕た, 即ち幼い子供を集めて遊戯唱歌を教へたのであって,今日全国に唱ばれる蝶々の歌十学唱 唱歌集初編)の詞は,全く此時に出来たのであった。当時師範学校の教員に野村秋足氏と いふ有名な国学者がをつた,余は此野村氏に命じ,何か此地方に面白い童謡が有らば採用 したいから探せというた,そこで野村氏は蝶々の童謡を探り其下半部,即ぢ菜の葉にあ いたら"の下を代へて今日ある如きものとし,又゛開いた開いたlも多少改作して,これ また今日ある如きものとし,此他に古事記の鼡の遊を歌にしたものもあったが,これは今 日余り伝はらない,而して当時歌詞をば多少代へたが曲をば童謡其儘に採用し,これに遊 戯を加へて実行した。此蝶々の歌は我が国の音楽に余程深い関係のあるものであって,余 が後に米国に行き,メーソン氏に就いて音楽を学んだ時,氏はラブレローの譜を余に示し, これは日本の子供の好に合ひさうな曲であるから何か日本語で適当な歌を附けたら可かろ ろうと云った,そこで余は此蝶々の歌を附けて見た所が,偶然にも誠に能く適合し,メー ソン氏も大に喜ばれた,そこで余は米国から遥かに文部省に建白して,是非共学校に唱歌 を置かねばならぬ旨を述べた,時の文部少輔神田孝平氏等は,大にこれに賛同したといふ ことである。加之又此蝶々の歌は,余にとっても重大な関係のあるものであって,愛知師 範学校長在職中に,彼の幼稚園の様な事業をも文部省に報告したれば,当時の文部省の官 報ともいふべき教育日誌及教育年報にこれを掲げた,此頃文部省には米人モルレー氏が監 督として在職したが,氏は此唱歌遊戯を見て大に感服したといふことである,而して翌8 年に我国から始めて,教育取調の為留学生を米国に派遣した,即ち此時分の私立学校の代 表者ともいふべき,福沢の慶応義塾から故高嶺秀夫君,同じく中村の同人社から故神津専 三郎君,文部省から余,此三人が教育留学生としての嚆矢で,同時に米国に留学を命ぜら られたのであるが,余の文部省出留学生として選ばれたのは,即ち蝶々の唱歌及遊戯に感 服したモルレー氏の推薦に依るのである。実は此事は近頃聞いた話であって,今の日本銀 行総栽たる高橋是清氏は当時モルレー氏の通弁であったが,近頃同氏に逢って種々昔話を した時に,同氏が此事を余に語った,かゝる知己に対しても,知らぬ事とて何等一片の挨 拶をもせで過ぎ来り,今や幽明境を異にして,また音信の通ずべくも無いのは,誠に不本 意の事である。」とのべている。 -245- 川 「小学唱歌 初編」(伊沢修二 島 虎 雄 明治14年11月24日)の第17 る。(図参照) 蝶々の歌詞は次のようであ , 「てふてふてふてふ,菜のはにとまれ,なのはにあいたら,桜にとまれ,桜の花の,栄 ゆる御世に,とまれよあそべ,遊べよとまれ。」 「起きよ起きよ,ねぐらの雀,朝日の光の,さしこぬさきに,ねぐらをいでヽ,梢にとま り,歌へよすゝ゛め,あそべよすヽ゛め」 以上の歌について「楽石自伝 教界周遊前記」に次のように説明している。すなわち「 第一歌は旧愛知師範学校教員野村秋足ノ作ニシテ児戯ノ蝶々蝶々菜ノ葉にトマレ云云トイ フニ基キ桜ノ花ノ栄ユル御代二以下ヲ補足シテ唱歌ノ体ニナシタルモノニテ其意ハ我皇代 ノ繁栄スル有様ヲ桜花ノ爛漫タルニ擬シ,聖恩二浴シ大平ヲ楽ム人民ヲ蝶ノ自由二舞ヒツ 止マリツ遊ベル様二比シテ童幼ノ心ニモ自ラ国恩ノ深キヲ覚りテ之二報ゼントスルノ志気 ヲ起セシムルニアル也」さらに第二歌は「第一歌に擬シテ東京師範学校教員稲垣干穎ノ 作ル処ニシテ雀ヲ以テ学二遊ブ児童二比シ雀ノ夙二起出デ梢二歌ヒ遊ブガ如ク児童等ノ朝 寝ヲ戒メ早ク出デ,文林二行キ終日学芸二遊ベトイフ意ヲ述ベテ戒トシタルモノ也」との べている。現代からみれば誠に隔生の感がする。 次に野村秋足(註1)の作にして児戯の蝶々蝶々の葉にとまれというに基きとあるが,こ の児戯とはどういう著書なのか考察することにする。 註1 野村秋足,初名は正徳,琢斎,橘西等の号あり,家の名を蔦廼屋という,幼名は 鉄之進,後八十郎と称す,尾張の士大橋氏の子にして,文政二年生る。 明治7年2月文部省愛知師範学校を創立し,伊沢修二が校長となるや,国語の教官の 採用の議があり,文部少輔田中不二麿の推薦により,礼を厚くして愛知師範学校にむか えられたのである。秋足は国語文法,日本地理を教授した。愛知師範学校の国語の成績 があがり、秋足の名声が大いにあがった。明治10年2月官立師範学校が廃止されるにお よんで,岐阜師範学校に転出している。明治35年12月29日に84才で歿している。 「児戯」については「尾張童遊集」が「児戯 「尾張童遊集」(小寺玉晃 尾張三河童遊集」として復刻されたので, 昭和52.220)を中心に考察する。「児戯」も「尾張童遊集」 もその内容は全く同じなのであって,「児戯」は変体仮名で書かれているだけのちがいで ある。 小寺玉晃の「尾張童遊集」の価値は,江戸時代における子どもの遊びやわらべ唄が記さ れていることである。「尾張童遊集」は記録する遊びの種類50以上,わらべ唄も相当な篇 数を採録している。毎ページ挿絵があり,当時の子どもの生活の様子がよく理解されると いうことである。 玉晃自筆本もかっては当然ながらあったはずだが,それは早い時期に失われてしまった らしく,細野要斎筆写本によったものである。この筆寫本の巻末に綴じこんだ「子もり歌 ・手まり歌」の編者は朝岡露竹斎である。露竹斎の「子もり歌・手まり歌」を併せた要齋 筆写本「児戯 尾張三河童遊集」として出版されたものである。 内容についていうならば,当時尾張・三河地方でおこなわれていた子どもの遊びや,わ らべ唄を採録したものである。 この「尾張童遊集」の23頁に「くんぐれくんぐれ山伏」がある。図のように“蝶々とま れ菜の葉にとまれなのはがいやならこの葉にとまれ"とある。これが野村秋足がさがした -246- 学校体育の史的研究(その15) 童謡と思う。これは図のようなふりつけで遊ぶが,伊沢修二が歌詞をつくり,これに振付 けをして行なったのである。すなわち小学校に遊戯を取入れた人物は伊沢修二ということ ができるのである。 文部省第二年報に次のように記述されている。すなわち胡蝶という名称で「蝶々蝶々菜 ノ葉に止レ。菜ノ葉二飽タラ。桜二遊へ。桜ノ花ノ。栄ユル御代ニ。止レヤ遊べ。遊ベヤ 止レ」とある。さらに技態として「右ノ手卜右ノ手トヲ執替ハシテ向背相反シ両児ヲ一蝶 トナス凡十五名二一羽三十名二二羽ホドヲ度トス衆児ハ互二手卜手トヲ引合ヒ一大圓ヲ造 りテ輪走ス彼蝶ハ私転シナカラ圓外ヲ公転ス園児卜蝶児トハ逆旋スヘシニ羽ナラハ左右ニ 位シ四羽ナラ八四隅二位シ一斉二唱吟シ出ルヲ期シテ転旋ヲ始ムヘシ且謡ヒ且走りテ結句 ノ止レト云フ詞卜共二出遇フ所ノ圓児ノ執合ヒタル手ヲ執フヘシ執ハレシ者ヲ再度ノ蝶ト ス。地球ノ自転シテ太陽ヲ周回スルニ傲フ地動説ヲ教フルニ及ンデ比喩ノ一助タランコト ヲ要ス」と説明してある。 この蝶々の遊戯は明治34年7月1日に同文館から発行された教育的遊戯の原理及実際( 冨永岩太郎著)に次のような説明がある。 蝶は2人宛2組もしくは4組を作らしむべし(蝶は互に手をかけ肩を組みて作るなり) かくて環の内外に1組もしくは2組づっおくべし。 此の準備了らば,蝶々の唱歌をうたいつつ,輪は右方に進行す,これと同時に内外に在る 蝶は,何れもその袖を張りてこれを上下しつつ蝶の舞うが如き状をなしつ,各反対に進行 す而して途中にて両蝶相会したる時は互に少しづつ礼をなさしむ。 右の如くして1回了らば蝶はその止りたる近傍の人に向いで何の花でありますがと 問うべし,此時この問われたる児童ぱ桜の花でありまず或は菜の花でありまずと答 うるものとす,この時蝶は又“良き匂がしますがと問いその近傍の児童が“しまずと 答えしならば交代をなしもじしません"と答えしならば旧蝶はその侭又蝶となりて次回 の唱歌の時も前の役目をなすなり。とある。 この蝶々の遊戯は永い間幼児の間に行われたものである。 児戯についてのべてみたい。 復刻された「児戯 尾張三河童遊集」は小寺玉晁の「尾張童遊集」と朝岡露竹斎の筆録 にかヽる「子もり歌・手まり歌」の2者を細野要斎が合冊したもので,「児戯」の総題名 は要斎がつけたものである。露竹斎の「子もり歌・手まり歌」は附録であり,この1冊の 主体はあくまでも玉晁の「尾張童遊集」なのである。 要斎が「尾張童遊集」と「子もり歌・手まり歌」と書写して合冊したのは,おのおのの 末尾に要斎がかきつけているとおり明治9年丙子の年の初秋である。明治9年といえば王 晁は76才,要斎は66才で共に死の2年前にあたっている。童心にかえった要斎をして「児 戯 尾張三河童遊集」の編集にむかわせたのかも知れない。 しかし,玉晁が「尾張童遊集」を編集したのは,自序によれば「天保ふたつ卯の初春」 であるということだ。天保2年の初春というと玉晁はまだ30才,子どもの遊びやわらべ唄 に心を惹かれるのは年取ってからというのが普通なのに,童遊集を編集するということは 大好事家玉晁の面目躍如たるものがあるといわねばならない。 内容についていえば,当時尾張・三河地方でおこなわれていた子どもの遊びやわらべ歌 を採録したものであるが,特に分類したというような様子は見えない。思いついたまヽに -247 - - 川 島 虎 雄 かきとじて行ったように思われる。 玉晁の「尾張童遊集」にたいして朝岡露竹斎の「子もり歌・手まり歌」はその紙数わず かに8葉,子守唄13篇,手毬唄28篇を採録しただけのものだが,期せずして,子守唄を欠 く「尾張童遊集」を補う結果となっている。 尾張童遊集目録 自序 乳児に教ゆること 続松 雙六 針打 羽根っき 凧 紙鳶 あだごさまへまゐつて 手鞠 木の實のふりこ よらみ 糸 取 五ツ石 くんぐれくんぐれ山伏 まひまひぎっチョかねぎっチョ 鬼どち 迷 蔵 ぞうりかくし たかあし あぶらめっき いんの子三尺さがれさがれ 目をかくして 己レの鼻に 白眼合 鞦 韆 放下離独楽 ナグリゴマ どふじよじ 菊の花遊戯 白髭大明神 火渡し 天の七夕 文字遊戯 棒遊び 角力遊び -248- 学校体育の史的研究(その15) 引遊び すねおし 水てっぽう 竹 馬 庄屋挙 蟲 挙 手にてする業 松葉角力 こより犬 豆小僧 鳶尾の葉のかばやき 縄ノ棒之手 蜜柑の節季候 酸 漿 揚火のまね 花合せ 搏 雪 盆 歌 幼児口遊 熱田童印地打遺風之事 唱歌踊 兒戯賦 絵本をとな遊び (朝岡露竹斎先生手録) 子もり歌 手まり歌 となっている。 この尾張童遊集の中に「くんぐれくんぐれ山伏又くんぐれやんまぶし」という遊戯があ り次のようにかいてある。「手と手を持て真丸になり如此いひながら廻りくぐりぬけてうし ろ向にみなみな成又もとのごとくなるなり」「蝶々とまれ葉の葉にとまれなのはがいやな らこの葉にとまれ」さらに「手を組合せてくるくるまふ時にはかくいふ又真中に壹人立し 置てまわる時には」「中の中の小佛は何ぜ背がひィくいの親の日に海老を食てタデそれで 背がひィくいの」「終にみなみな下に居る也」とある。 この「蝶々とまれ菜の葉にとまれなのはがいやならこの葉にとまれ」という歌詞が,「て ふてふ」の歌詞のもとであろうと考えられる。 以上関係があるので遊戯「蝶々」について考察したのであるが,さらに次のような坪井 玄道が当時の体操伝習所で実際に行った内容について参考になるので掲げることにする。 松田正典や村瀬松太郎は体操伝習所においてこの坪井玄道の指導をうけて卒業しているか らである。 -249- 川 島 虎 雄 5.体操伝習所の体育 体操伝習所設立の経過については,「学校体育の史的研究」(その14)で報告した通り であるが,関連があるので坪井玄道の論説を参考に取上げることとしたい。これによって, 体操伝習所の実態がわかるような気がするからである。これは教育五十年史(国民教育奨 励会 民友社 大正11.10.1)の第3章創業時代の師範教育 体操伝習所の設置という テーマで坪井玄道がかいたものである。すなわち「…米国ではアマルスト大学の生理学の 教授シチコック博士に就て熱心に体操を研究し,同博士に相談して其教へ子たるドクトル ・リーランド氏(当時米国では大低医学士が体操の教師を兼ねて居った)を聘する事とな ったので,同氏の来るのを待っで,明治11年一ツ橋に始めて体操伝習所を設置した。此時 私は矢張りリーランド氏の通訳として伝習所に来たのである。 修業年限は3ヶ年学科は徒手体操・唖鈴体操・球竿体操・木環体操・棍棒体操・器械 体操及び其他簡易なる運動はひと通りやった。 また13年頃から陸軍士官と下士を頼んで兵式体操を加えた。 第1回の生徒を募集して25人の入学者を得た。私はりーランド氏の教授を生徒の前で通 訳するのが私の職務であったが,書物の講義と違って技術に関する事なので,常に生徒に 教授する前に私はりーランド氏から其日の課業と実際に学んで置いて,それから授業に出 ることにして居たので私は何時しか一人前の体操の教師となって了った。」さらにスポーツ に関しては「又此頃ボートレースを生徒にやらした。一ツ橋の下ヘボートを繋いで置いて 其処から日本橋を経て永代橋に出てそれから向島まで漕いで行くのは容易でなかった。猶 ベースボールも教えた。併し此の頃は空挙でキャッチをやるので大抵指を曲げてしまっだ。 リーランド氏は在職3年と経て帰っだ。私は何時しか体育に非常に熱心になっていったの で,とうとう其後を引受けて体操の教師として世に立つようになった。」とのべている。 体操伝習所で行われた体操・スポーツの様子を考察するのに参考となるであろう。 6.ま と め 愛知県の学校体育について,貢献のある愛知県師範学校の松田正典,愛知県中学校の村 瀬松太郎の2人は忘れることはできないが,体操伝習所の構想すなわち,わが国に適する 体育法をを確立し,その専門教師を養成しようという田中不二麿の構想を軌道にのせるこ とで最も功績のあった人物が伊沢修二なのである。我が国の学校体育の基礎は体操伝習所 から始ったということができると思う。その体操伝習所の卒業生である松田正典や村瀬松 太郎なのである。この2人の体育功績は大きいものがある。体操伝習所の新しい運動法の 導人によって,力強い近代体育への胎動が始まるのである。さらに伊沢修二は愛知師範学 校長として明治7年3月12日に着任し,有名な「てふてふ」の歌のふりつけをし,幼稚園 風の学校をつくり,「てふてふ」の歌により地動説を教えたということである。換言すれ ば学校体育の中に遊戯を取り入れた最初の人なのである。「てふてふ」の歌の由来や,「て ふてふ」のもと歌であろうと思われる「児戯」や「尾張三河童遊集」について若干考察し たのである。さらに,体操伝習所の設立当初の体操の内容や,スポーツの実施状況などに ついて参考となると思うので坪井玄道の論文の1部をまとめてみた。 しかし,村瀬松太郎や青木為二郎についての資料については充分でなかったので今後も -250- 学校体育の史的研究(その15) 努力して収集して行きたい。 今回明治20年ころまでの愛知県下の学校体育の状況について考察したのである。 (昭和54年8月23日受理) 図1 教界周遊前記 -251 川 島 図2 図3 虎 雄 文部省第二年報 小 学 -252- 唱 歌 集 学校体育の史的研究(その15) 図4 小 学 唱 歌 集 図5 小 学 唱 歌 集 253- 川島虎雄 図6 図7 小 学 唱 歌 集 尾張童遊集(名古峰市逢左文庫蔵) 254 学校体育の史的研究(その15) 図8 図9 尾張三河童遊集 児 戯 -255