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何卒御鎮座地に御選定相成度⋮⋮
何卒御鎮座地に御選定相成度⋮⋮ h L コ [ 光 軍 明治神宮の候補地に映る東京 はじめに 互 E 学校や会社への通り道にあった建物が、壊されて、更地になり、やがてコンビニエンス・ストアが開店する。 しばらくすると、コンビニになる前、そこが何であったかを思いだそうとしても、すぐには出てこなくなる。ひ とたび日常の風景になってしまうと、それができた経緯や、それ以前の有り様への関心や記憶は薄らいでいく。 明治神宮にも同じようなことが召えるだろう。その敷地が以前はどのように使われていたのか、といったこと に興味を示す初詣客はまずいまい。またそれがどうして現在地につくられたのか、といったことに至っては、明 ︵1︶ 治神宮の正史においても、詳しく扱われているとは言えない。 ところで明治神宮は、いくつかあった候補地のなかから選定された結果、代々木の南豊島御料地︵以ド、代々 木御料地という︶に内苑、青山の練兵場跡地に記念館などを外苑という形で造営するに至ったものである。その 意味で、明治神宮はほかの候補地 一例として、富L、山 につくられていたかもしれないと、一応は言える だろう。一応でしかないのは、阪谷芳郎東京市長と渋沢栄↓の二人を中心に、明治天皇の死から一月も経たぬう 何卒御鎮座地に御選定相成度:−明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度⋮⋮明治神宮の候補地に映る東京 .. ちに成立した﹁覚書﹂が、実際にできあがった明治神宮の大枠をほぼそのまま先取りしており、この案の強大さ ︵ 2 ︶ を考慮するとき、それ以外の土地に明治神宮ができる可能性が同等に存在したとは言い難いからである。しかし 仮に明治神宮の誕生をこの﹁覚書﹂の実現していく過程と捉えたとしても、なぜそうした必ずしも十分に勝ち目 があるとは思えない候補地が続々と名乗り出てきたのか、あるいはそうした候補地のなかから現在地へと絞り込 まれていったのはどういう理由なのかといった疑問は、依然として残るだろう。 以下では、明治神宮創建の過程で生まれ、そして消えていった明治神宮の候補地なるものに焦点を当てる。明 治天皇を祀るべく構想された神社の場所をめぐって、少なくない候補地が考案され、誘致の運動がなされ、そう したなかで東京の現在地へと限定されていく。明治神宮の誕生という事件のこのような一断面を切り取ることを 通じて、二十世紀初頭の東京に明治天皇を祀る神社をつくるとはいかなることか、とりわけ東京につくるという ことが持つ意味合いについて考えていきたい。候補地における東京への複雑な思いなどを検討することで、東京 を考えるための新たな素材ないし視角を提供することもできるだろう。 第一節候補地の登場 明治神宮をつくるという構想には、それを実現させる空間がどうしても必要となる。神宮の敷地ないし鎮座地 である。その意味で、神宮の候補地なるものは、明治神宮の構想と時を同じくして登場してきたといえるだろう。 ただし明治天皇を記念する事業計画が濫立したのと同様に、当初は思いつきを述べたのみといった類も多く、そ れらが候補地として十分な体裁を備えていたとは必ずしも言い難い。そもそも候補地は、神宮創建が決定してい ない段階で次々と名乗りを上げている。その点で候補地といってもいわば括弧付きのものであり、そうしたもの までを含めた全容を明らかにすることは、このほか後述するような理由もあり、不可能に近い。ここでは、暫定 明治神宮候補地[覧 イ ロ ハ × ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ × × ○ × × ○ 0 0 h野公園 東京府 東京 代々木御料地 青山練兵場 陸軍戸山学校敷地 陸軍士官学校中央幼年学校地 ○ × × l l 、﹁rEエヒ誇に 駿河台 O × × 0 × × 請願人等 辻新次 渋沢栄一ほか 肥塚龍ほか 占本崇 × × × × O O 根岸多助ほか × × × ○ × × ○ × × 小石川植物園 芝三光坂附近 豊多摩郡和田堀内村大宮 霞ケ関 御獄山 × × × × × × ○ O O ○ × × I 1 1 . 1 . I i 役職等 帝国教育会長 実業家 赤坂区会議長 牛込区長 青梅町長 ﹂ E . 1 1 1 1 1 1 ’ 帽 . , 1 1 . 一 1 . − i 脚 F . 一 − 1 己 − 市川町会議長 飯能町長 的なものとして、現時点で目に付いた限 りの候補地を、府県別に掲げることにし ︵3︶ よう。 さてこうした表にした場合、忘れては ならないのは、表の一件が同じ重要性を 持っていたのではないという、ごく当た り前のことである。もちろん﹁覚書﹂で 取り上げられた代々木御料地も、候補地 のひとつであることを再確認させてくれ る効果はある。だが、一方この表では、 そうしたものと、例えば次のようなもの が、ともに一件と数えられてもいる。 出野沢村 一方に不忍の池を控へ、眺望も亦悪 自然の岳で樹木も申分なく繁茂し、 上野に勝る場所は見当らぬ。上野は 箱根町長 野L村長 O O O松井鐙一.郎ほか 加島村長 × × × 望月豊太郎ほか 筑波町長 赤心会長 三 禁止すべきものである。さうしたか 且パノラマの如き見世物は絶対的に て東照宮や清水堂は必然に取払ひ、 からず。交通の便も頗るよい。而し ○ O O 酒楼慶太郎ほか 平塚滋三 ハは﹃明治神宮造営 × ○ ○ × ○ ○ × × ○ × × ○ × 0 0 双木八郎ほか 村出域伊四郎ほか 中庭泰汽郎ほか 中川喜作ほか 多摩川L流 井の頭御料地 半蔵門から吹し御苑 千葉県 国府台 埼玉県大宮 朝日山 宝登山 城仁山 神奈川県 箱根 横浜 静岡県 富士山 茨城県 筑波山 国見山 イは﹁覚書﹂の︵参考︶、ロは﹁神社奉祀調査会特別委員会報告﹂、 誌﹄に掲載されているか否かを示す。詳細は注︵3︶を参照。 何卒御鎮座地に御選定相成度⋮⋮明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 ︵4︶ らとて、日本国は寸分の地と錐も王地であるから、誰も故障を持出す事は出来まい。 四 小生は明治神宮建設候補地として、府下豊多摩郡和田堀内村人宮の地を希望致し候。此地応神天皇を祭れる 郷社有之候へば、之を村社熊野社に合祀し、薙に国庫支弁にて明治神宮を建て、東京市費にて外苑記念館を ︵5︶ 造り、維新.兀坐功臣の略歴を刻みたる記念碑を加へ、維持費を一般の寄附に求め、永遠に渇仰致したく存候。 これらの例などは、その後の活動を知ることができず、いわば候補地として成熟していかない。すなわち候補 地といっても多種多様、俗に言えばピンからキリまで存在したということである。 こうした多様な候補地の成熟度を測る一指標として、運動の有無がある。どこそこへ明治神宮をつくろうとい う思いつきは、その実現を目指す何らかの運動行為があとへ続くことにより、候補地としての相貌を身に着けて いく。内閣総理人臣や内務大臣・宮内大臣、あるいは衆議院議長・貴族院議長宛の請願・陳情などがその中心と なり、メディアの利用なども含まれてくるだろう。そしてほとんどの請願が、候補地の﹁地元﹂によってなされ ており︵表の請願人望参照︶、運動は誘致という形をとる。候補地の括弧は、このような誘致運動を経ることに よって、外れていく。 運動のなかに、神宮を各地の繁栄策に利用しようとの下心を嗅ぎ取った多くの批判に代表される。すなわち運動 しかし明治神宮をつくるにあたって、誘致運動は一貫して否定されるべきものであった。ひとつは、そうした ︵6︶ の背後に、明治天皇を記念ないし崇敬するというもの以外の目的を見出すことで、元来は目的であったはずのも のが手段となっている点を衝く。誘致の奥に潜む点を問題にしたものであり、他の候補地を批判するときにしば しば繰り返された。 鉄道などの誘致運動の際にもよく見られるこうしたもののほかに、明治神宮をめぐっては、そもそも運動する ということそれ自体を忌避する態度が見られる。もちろん、大正元年︵一九一二年︶八月頃ならば、いまだ大喪 も済んでいないということ、次いで諒闇中であるといったことは、運動を抑制する効果をもっていた。しかし単 なる抑制にとどまらない別の論理があった。 渋沢・阪谷とともに﹁覚書﹂に名を列ねた中野武営︵東京商業会議所会頭︶は、神宮建立は行政上のことでは なく、﹁今上天皇陛下の大御心より換発せらるるものなれば、決して与論を喚起し、請願して強ひ奉るが如きもの に非ず﹂と発忌.口している。明治神宮をつくると誰が決めるのか。中野は、その決定主体を天皇とすることで、運 ︵7︶ ︵8︶ 動という行為を、その決定に影響を与えようとする行為であるとして否定する。明治神宮に関しては、片やこう した運動否定の論理が、常に付きまとうことになる。 だが、その中野は﹁覚書﹂をとりまとめ、有力者を説いてまわる。誘致運動は起き、候補地間に競争が発生し た。 前提となるのは、明治神宮の敷地には﹁正解﹂がないということである。ここで言う﹁正解﹂とは、例えば、 神武天皇をその即位の地へと祀ろうと試みた橿原神宮の計画において、即位の地である畝傍橿原宮を特定するよ うなものを指す。この場合、敷地をどこにすべきかという問題は、畝傍宮はどこにあったのかという﹁比定﹂の 問題へと置き換えられ、その﹁正解﹂がすなわち敷地ということになる。よって何らかの方法によって﹁正解﹂ が導かれさえずれば、敷地をめぐる紛議は自ずから解決する。 ところが明治天皇の鎮座する場所に関して等値式はなく、﹁正解﹂もない。誰よりも詳しく事績が知られていた 祭神と土地とのあいだに存在するのは、よりもっともらしい候補地のみであり、またその際に語られるのは﹁比 定﹂ではなく﹁由緒﹂である。極論をいえば、明治神宮はどこへでもつくり得ると考えられていたのであり、そ のたあに候補地が次々と現れたということになるだろう。 五 ただし候補地がいくつか存在すれば、相互に競合しあって必ず誘致運動が起きるとも限らない。それらの候補 何卒御鎮座地に御選定相成度−:明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 六 地すべてにおいて神社を実現させるという方法があり得るからである。﹁全国到る処に明治天皇の神社が奉建さ ︵9︶ れたとて些こしも差支ないと信じます﹂。八幡神や天神をはじめ同一の祭神を祀った神社が各地に並存している。 明治天皇がそうであって何の問題があろう。﹁伊勢の大廟があって各地にも亦太神宮があり、国民は伊勢に詣でた ︵10︶ る心持を以て日々奉拝して居る。横浜に先帝を奉祠し参らせても、何等東京の神宮壷屋と障る処はない﹂。分祀や 分社という考え方によれば、すべての候補地に明治神宮をつくるというのも、荒唐無稽とばかり片付けることは できない。そしてこういう形での神宮を夢見た候補地は無数にあっただろう。 ﹁明治神宮をすべての候補地へ﹂とでもいうべきこうした手法は採られなかった。これはひとつには行政当局で ︵11︶ ある内務省の態度によるだろう。すなわち神社を新たに設けることを原則的には認めず、また﹁内地﹂において ︵12︶ は、天皇を祀る官国幣社は一祭神につき一社ということを方針としていた。内苑完成の翌年、明治神宮の分霊を ︵13︶ すべての府県へ祀られたいとの請願が衆議院から送付された際にも、内務省はその要望を拒んでいる。もちろん ︵14︶ こうした原則からは外れる例が現にあり、それらに依拠する形で﹁明治神宮をすべての候補地へ﹂という発想は 登場してくる。しかし内務省は、すでにある神社とそうでない神社、あるいは﹁内地﹂と﹁外地﹂などの区分に ︵15︶ ︵16︶ よる二重基準を設けることにより、そういった原則主義的態度を固持した。いわば明治神宮を﹁勝手に﹂つくる ことは極めて困難だったのである。明治神宮を管轄することになるであろう当局のこうした意向がまったくの影 ︵17︶ 響を持たなかったことはあるまい。 もっとも内務省のこうした方針を明治神宮提案者が熟知していたとは考えられず、また内務省が本格的に始動 する遙か以前に、﹁明治神宮をすべての候補地へ﹂つくるという考えは萎んでいた。これは提案者側の事情が大き い。 彼等が明治神宮という場合、概ね﹁雄大無比﹂で﹁世界に誇るべき﹂規模のものを思い浮かべ、そのたたずま いは﹁荘厳﹂であり﹁清浄﹂であるべきだと観念されていた。明治天皇を祀るにはそういう空間こそ相応しい、 ︵18︶ と。そしてその際に連想されているのはいわゆる伊勢神宮であり、例えば、青山練兵場跡地という候補地につい て、それを狭いとする基準、あるいは﹁荘厳﹂たり得ないとしてより郊外の土地を可とする根拠のいずれも伊勢 ︵19︶ ︵20︶ 神宮からの連想であった。そして平安神宮や日光の東照宮などが、反面教師という形で参照される。いずれにし ろ明治神宮はその構想の段階から巨大なものが想像されていたのである。 しかしそのための予算が無限であるとは、提案著たちも軍43えていなかった。一見すると無造作に思いつかれた かのような候補地のなかには、国有地ないしそれに類する土地であるものが少なくない。これは﹁雄大﹂かつ﹁荘 厳﹂であり得るような空間がそれらの土地に多かったということもあるが、むしろ国有地を無償で借りるという 方法により、土地を入手するのにかかる費用を抑え、それによって自らの案の実現可能性を高めたことによるも のだろう。また日露戦後恐慌以降、財政難は明確となり、各内閣は行財政整理を行わざるを得ないような状況に あったため、民有地の買収を前提とする案は、それだけで否定的に見られていた。また寄附金にしてもどれだけ ︵21︶ ︵22︶ ︵23︶ 集まるか、不安視されていた。明治神宮の候補地といえども、そのことを踏まえてのものだった。 すなわち明治神宮は﹁雄大﹂・﹁荘厳﹂であるべきだとされたため、それが予算の制限と合わさり、各候補地は 競合関係に置かれることになる。明治神宮の鎮座地には﹁唯一﹂の﹁正解﹂がなく、またそれ故に候補地がいく つも存在したのだが、それらが﹁唯一﹂の明治神宮としての選定を求めた結果、鉄道などでおなじみの競争的誘 致という構図が成立した。明治神宮創建の主張は、否定されるべき誘致運動によって盛り立てられていくことに なる。 * 七 さてそうした点を含め、全体を見てすぐに気付くのが、地域的な偏りである。候補地の数において東京府が最 何卒御鎮座地に御選定相成度:−明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度:−明治神宮の候補地に映る東京 八 大であるだけではなく、その分布に関しても、これだけの数の候補地がありながら、東京を巾心にした半径百キ ロメートルの圏内に収まっている。表に掲げた以外の候補地がないとは、一.口い切れない。よって断.一.[することはで きない。しかし候補地は東京とその周辺に限られていた、といってほぼ差し支えなかろう。 ﹁覚書﹂へと集約されていく運動を中心に見ていけば、﹁明治天皇陵を東京へ﹂之いう要求が、陵は京都と内定 していたため、転じて﹁明治神宮を東京へ﹂という要求へとなったものであった。そしてそれはメディアを通じ て広く知られてもいた。京都の陵に対して東京に神宮をつくろうというアイデアを、阪谷芳郎は﹁交換問題﹂に ︵24︶ たとえている。﹁明治神宮を東京へ﹂との主張は、神宮というものを創造することにより、明治天皇の生地である ︵25︶ 京都と死地である東京とのあいだで、陵とその代替物である神宮によって﹁棲み分け﹂を行うというものであっ た。とするならば、候補地が東京とその近隣に集中し、関西圏などに存在しない事実は、こうした﹁棲み分け の論理が概ね支持されていたことを意味すると解されよう。そして神宮と陵とが交換可能なものと考えられてい たこと、﹁明治神宮を東京へ﹂という点が大枠では合意されていたことでもあるだろう。 すると候補地を見るにあたり、東京とそれ以外とで一旦は分けて考える必要が出てくる。表を府県別に分類し たのもそのためである。 この点でまず注目すべきなのは、候補地に東京を掲げる辻新次︵帝国教育会会長︶による請願である。この特 徴は、漠然としたその主張にある。神社に適当と思われる特定の敷地を提示するわけでもなく、ただただ東京に ﹁荘厳﹂なる神宮の建設を求める。これほど具体性のないものも珍しく、陸軍L官学校敷地や国府台を推すものな ︵26︶ どとは、言うなれば次元を異にしている。 しかし逆にこのことが重要な役割を果たす。陸軍L官学校であれ代々木御料地であれ、東京と呼ばれる地域の 内部に明治天皇を祀ろうというものでありさえずれば、すべての候補地が辻の請願へ賛成することができる。す なわちそうした運動群のすべてが乗ることができる。このように個々の候補地の域を超えた﹁明治神宮を東京へ﹂ という運動は、確かに存在した。東京においては、﹁明治神宮を東京へ﹂と、青山や戸山といった﹁明治神宮をわ が町へ﹂という二つの次元の運動が、相互に増幅しあいながら存在していた。男爵辻新次提出にかかるこの請願 が、いかに大まかなものであろうと、帝国議会において、特定の地域への誘致を掲げて採択されたただひとつの ︵27︶ 明治神宮に関係する請願であったのは、こうしたことによる。 ところで辻による請願は、明治神宮の創建を求める以ドのような請願を押し退けて採択されていた。﹁明治神宮 それぞれ富L山・箱根・朝日山を候補地と掲げたものである。﹁明治神宮を東京へ﹂という言葉では包摂され得な 御造営の件﹂・﹁明治天皇の廟宇建設拉神都選定の件﹂・﹁明治天皇神宮御造営の件﹂。名称のみでは分からないが、 ︵28︶ いこれらの候補地は、当然のことながら、﹁明治神宮を東京へ﹂というものとは別に、それと競合しながら主張を 展開していた。これらはどのような論理で、いかなる運動をしていったのか。以下では、右の一件においても登 場するなど、本格的に誘致運動を試み、また候補地としても一定の評価を得た朝日山を中心に、箱根など適宜ほ かの候補地をも参照しつつ、その諸相を見ていくことにしたい。 第二節明治神宮をわが町へ! 朝日山と聞いてピンと来る人はいないだろう。現在の普通の地図には載っていないのだから、当然といえば当 然である。 この朝日山は埼玉県入間郡飯能町、いまの埼玉県飯能市にあった。過去形となっているわけはのちほど記す。 飯能町大字大河原の朝日山一円、約一五万坪が候補地である。飯能は埼玉県南西部に位置し、東には狭山、南に 九 は青梅などが控えている。都心からだと五〇キロメートル余、現在なら西武池袋線の飯能駅まで池袋から五〇分 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 一〇 ほど。いまでこそ典型的なベッドタウンとなっているが、かつての主要産業は林業であり、織物業でも知られて いた。朝日山は飯能の中心地、いまの西武池袋線・飯能駅から西へ一キロ弱ほどのところにあった。強烈な個性 があるわけでもなく、富士山のごとき知名度のあるわけでもない静かな町の小さな山に、なぜ明治神宮なのか。 ︵ 2 9 ︶ 飯能では何度か請願書を作成している。ここではそのうちはじめのものを[飯能①]、最後に追加したものを [飯能②]と呼ぼう。[飯能①]に付属する﹁神宮建設請願委員﹂・﹁神宮建設常任委員﹂には、新旧町長をはじめ ︵30︶ 町の有力者が文字通り網羅されており、町長の署名の背後には町を挙げての運動があったことが窺われる。人正 一.年︵一九一、.一年︶一.月、貴族院にて﹁明治神宮を東京へ﹂との争いに破れたのは[飯能①]である。 その相手と比べたとき、この﹁明治神宮を朝日山へ﹂という請願の第一の特徴は、具体性である。場所はもち ろん特定されており、一、四〇〇分の一の地形図上に石段を含めた予定地を書き込んでいるのみならず、断面図を 付して、土地の高低も理解できるようにしてある。また樹木の種類と数量の調査を行って、その結果までも記す ム 能①]︶。辻新次会長による請願だけではなく、ほかの請願と比べても、これほど具体的なものは珍しい。そ ︵[ れが候補地をひとつに絞ってすらいない﹁明治神宮を東京へ﹂と争ったのである。飯能と次元を同じくするのは、 代々木であり、戸山であり、国府台であって、東京ではないはずだ。しかし貴族院における戦いは、次元を異に するもののあいだでなされた。またそうならざるを得なかった。 朝日山は、代々木御料地や戸山学校敷地における東京に相当するような、より広範囲でいくつかの候補地をそ のうちに有するような存在を持ち得なかった。﹁明治神宮をわが町へ﹂のみを主張した。これにはいくつかの要因 が絡んでいる。 代々木や戸山における東京にあたるものを飯能について探せば、やはり埼玉というあたりになるだろう。箱根 なら神奈川、国府台なら千葉といったところか。言うなれば府県という単位であって、これにより、県と県会、 ︵31︶ それに県選出代議士らが組んで運動できるなど、その利点は計り知れない。東京でも確かに機能していた。だが これらの候補地は、県の中心から離れた県境附近のものが多く、県という単位で見れば、そろって周辺的な存在 であ っ た 。 箱根の近隣である足柄下郡の諸町村などは、離宮附近を候補地に名乗り出た。箱根は神奈川県の南西部、静岡 県と境を接している。温泉を中心とした観光地であることは、改めて説明するまでもなかろう。この箱根が候補 地として動きはじめてまもなく、﹃横浜貿易新報﹂は、﹁何故中央に運動ヶ間早事をする前に、公々然として、県 ド百万民の前に提訴して、一心共石の誠意ある態度にでないのである﹂、このことは今回の挙が﹁箱根一部の問題 ︵32︶ である﹂ことを箱根自身が示しているものだなどと、ネガティブ・キャンペーンを張っている。横浜を拠点とす る神奈川県ド最人のメディアは、﹁明治神宮は東京へ﹂を支持していた。県を挙げての運動へと盛り上げていくた めの回路は切れていた。 もっとも箱根離宮附近という候補地そのものは、神奈川という枠に収まってはいなかった。神奈川県足柄ド郡、 とりわけ離宮に近い箱根町や元箱根村が中心とはなってはいるが、一、一島町など隣県静岡の田方・駿東両郡からも ︵33︶ ︵34︶ 村長らが運動に加わっている。また請願の紹介議員にも、神奈川県だけではなく静岡県選出代議しが名を列ねて いた。いわば神奈川と静岡の両県にまたがった運動だったのである。 似たことは国府台でも起きている。国府台は、千葉県東葛飾郡市川町、現在の市川市であるから千葉県の最西 部に位置している。京成電鉄の国府台駅の近くといって分からなければ、矢切の渡しの千葉県側、あるいは映画 ﹃男はつらいよ﹄シリーズでたびたび登場する河原の対岸に見える緑のあたりといっておこう。その名の通り、ド 総国の国衙が置かれていた土地であり、鴻の台などと表記されることもある。 国府台に明治神宮を設けて欲しいとの請願は、はじめ千葉県市川町会議長後藤弥五郎らによってなされ、次い 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 で形勢が非となってきたという判断のもと、東京海南葛飾郡小岩村村長中川喜作ら南葛飾郡の町村長等連名で再 び提出された。ここでは県境でもある江戸川を挟んだ両岸の地域が、国府台という七地を推している。この例は、 ︵5ヨ︶ ﹁明治神宮を東京へ﹂という運動が、東京全体を覆っていたのではないことを教えてくれる点でも注目される。小 岩村村長にとり、府内で遠い代々木より府外で近い国府台であった。 箱根や国府台のこうした動きは、県域成立以前の区画の経験や、県域を超えた生活圏といった、行政区画を超 えて存在するネットワークに依拠したものであることは間違いない。県境附近に位置する候補地にとって、運動 拡大に際して県境を越えるのは、ごく自然なことであったろう。 ︵36︶ ︵37︶ 朝日山ではそういったことはなかった。境を接する東京府の青梅町では﹁明治神宮を御嶽山へ﹂と運動してい た。また﹃埼玉新報﹄において﹁本県下にては先づ指を飯能の朝日山に屈せざるを得ず﹂とされていたように、 埼玉県内におけるメディアの評価も上々だった。﹁明治神宮を埼玉へ﹂という運動が起き、その中心となることも 不可能ではなかっただろう。しかし﹁明治神宮を埼玉へ﹂という主張にいかなる利点があったのか。 ﹁明治神宮を東京へ﹂という主張には、複数の候補地をまとめ上げたことによる支持者の広範化や、府・市を駆 使した取り組みの実現といった運動面での効果のほかに、なぜそこへ神宮をつくるかを弁証する論理という面も あった。すなわち東京こそ、明治天皇が遷都し、半世紀近くも居住し続けた土地であると、明治天皇と東京との ︵38︶ 偶然ならざる関係を謳うことで、明治神宮は東京につくられてしかるべきだとする。遷都と居住という最強の ﹁由緒﹂によって明治神宮と東京とを結びつける論理である。これは代々木御料地や青山旧練兵場といった個々の 候補地ではなく、﹁東京へ﹂であるために成り立つ。明治天皇は青山へと都を遷したわけでなく、代々木に住んで いたわけではない。﹁明治神宮を東京へ﹂は、﹁明治神宮をわが町へ﹂を遥かに凌駕する強大な﹁由緒﹂を有する こと が で き た 。 ところが﹁明治神宮を埼玉へ﹂の場合、例えばそうした﹁由緒﹂に基づく正当化の論理のようなものが付随し ない。なぜ埼玉なのかという疑問に対して回答の用意はない。もっとも飯能の側も、端からそうしたものを求め てい な か っ た 。 ﹁本地域は武蔵国に属し、御遷都と御因縁あること﹂。飯能は﹁行政区域上埼玉県の管轄なるも、昔より武蔵国 に属す﹂。確かにその通りであり、廃藩置県後、入間県・熊谷県を経て、明治九年︵一八七六年︶に埼玉県となつ ︵39︶ た。そうした飯能の朝日山を、武蔵国に属すると主張することで、いわば埼玉であるということを放棄する。次 いで東京遷都に際し、明治天皇が武蔵国一宮・氷川神社へ参拝したことを想起させる。遷都したのが武蔵国であ ︵40︶ るとすれば、明治神宮を飯能につくることは、神宮を﹁帝都と同国﹂に祀るということになる。まさしく﹁明治 神宮を武蔵国へ﹂である。 右の議論が記された﹁追補陳情書﹂︵[飯能②]︶は、﹁明治神宮を東京へ﹂という運動が勢いを増していくなか で検討を迫られてきたいくつかの問題点 煤煙や火災など、市街地と近接しているが故に生じることへの対策 など から朝日山が無縁なことを強調し、﹁明治神宮を東京へ﹂という主張を批判する一方、その優位性を認 あ、東京へ擦り寄る。東京よりもひとまわり人きい古代の区画を持ち出してきたのは、﹁明治神宮を東京へ﹂とい う流れは抗いがたいという判断のもと、そこにおける遷都と居住という最強の﹁由緒﹂を、﹁明治神宮を武蔵国へ﹂ に流用しようとしたものであった。美しいとは言いにくいが、なぜ武蔵国へつくるかという論理だけは提示し得 ている。しかし古代の国という死んだ単位では、武蔵国一丸となることもかなわず、運動への効果は何ら期待で きない。﹁明治神宮を武蔵国へ﹂は、東京と武蔵国との関係という難問の前に、そうした弱点を抱えていた。 これに対し、﹁明治神宮を埼玉へ﹂は、なぜそこへ神宮をつくるかを弁証する論理を欠いていた。﹁明治神宮を 一. 茨城へ﹂などでも同じだろう。そこにあるのは、行政区域を挙げての行動が可能かもしれないという運動面での 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 四 効果である。しかし論理なき運動は、明治神宮を地域の繁栄に利用しようとする企てである、運動の具であると の批判の恰好の標的となる。 では箱根や国府台ではどうだったのか。ここでは、県域を越えたネットワークに依拠し、﹁明治神宮を.豆相へ﹂ や﹁明治神宮を葛飾へ﹂といった運動があったと見られなくもない。だがこのネットワークによる運動は、仮に 存在したとしても微弱なものであった。もっともその拡がり具合によっては、境界を接するすべての府県が支持 するといったこともあり得たかもしれない。しかし実際には、箱根のように、いずれの県からも長分な援助を獲 得できなかった。府や県という単位からすれば周辺的であった候補地が、県境を越えて他の府県における周辺と 結びついていったことは、その周辺性を際立たせる結果となり、府県単位の支持調達を困難にした。また﹁明治 神宮を埼玉へ﹂などと同じく、なぜそこへ神宮をつくるかを弁証する論理を欠いており、そもそも運動の側もそ ういった論理を展開していなかった。 東京の各候補地が﹁明治神宮を東京へ﹂という論理と運動の機軸を持ち得たのに対し、東京以外に所在する候 補地は、それに相当するようなものを持ち得なかった。あるいは論理を持てば運動がともなわず、運動があり得 れば論理がなかった。結局、﹁明治神宮をわが町へ﹂に固執するはかなかった。このことにより、東京以外の候補 地は、﹁わが町へ﹂が﹁東京へ﹂に向かって独力で挑むという、困難極まりない構図による戦いを余儀なくされた。 明治神宮の候補地は、すべてが同じ条件で競争をしていたのではない。東京対それ以外の各候補地という争い、 そして東京内における各候補地の争いという二層の競争が繰り広げられていたのである。 * 守ってくれる外套もなく、裸の状態で競争に加わった東京以外の各候補地は、なぜ﹁明治神宮はわが町へ﹂な のか、個別に弁証せねばならない。候補地は当然この点に多人なる力を注ぎ、それぞれに独自の主張を展開した。 一見すると多様に見えるそれらの議論も、ほぼ例外なく二つの焦点をまわってなされている。﹁由緒﹂と﹁風致﹂ である。 ﹁由緒﹂は、﹁明治神宮を東京へ﹂について簡単に見たように、一言で言えば、祭神と予定されていた明治天皇 との関係である。﹁縁﹂や﹁由縁﹂などの言葉で表現されることもある。明治天皇とその土地との関わり方を示し、 ︵41︶ それによってその土地に天皇を祀る根拠とするものである。もうひとつの焦点である﹁風致﹂は、その土地が明 治天皇を祀るに相応しい雰囲気 ﹁荘厳﹂であったり、﹁清浄﹂であったり を備えていることを理由にする もので、﹁景勝﹂﹁体裁﹂などというのも同じである。前者は歴史的環境、後者は自然的環境を根拠にしたものと、 大まかには言えるだろう。候補地の弁証は、基本的にはこの二つの焦点をめぐってなされることになる。 ︵ 4 2 ︶ 飯能で﹁由緒﹂といえば、明治一六年︵一八▲.一年︶四月一七日から一九日にかけて、軍事演習のため明治天 皇が滞在したことである。﹁明治天皇陛ド行幸の由緒あること﹂は、もちろん請願書でも落としていない︵[飯能 ①]︶。たった一度の行幸にすがるのを謡うことは容易い。箱根の﹁由緒﹂が、明治天皇在世中ただ一度という明 ︵43︶ 治六年の避暑に訪れた地であったとことと、離宮が設けられていることに集約されるのも似たようなものだろ う。ただしこれらの﹁由緒﹂が取るに足らなく見えるのは、遷都と居住という最強の﹁由緒﹂を前にするからで あって、それは﹁明治神宮を東京へ﹂という次元だからのものだった。つまり﹁わが町へ﹂と﹁東京へ﹂とが競 ︵44︶ うからそのように見えるのである。代々木御料地への明治天皇の行幸は明治一九年の一度きりというから、同じ 次元での競争が成立していれば、この程度の﹁由緒﹂でも、朝日山や箱根は十分に対抗できたはずである。 だが明治神宮造営の最適地として朝日山を推すにあたっては、﹁由緒﹂よりはむしろ﹁風致﹂の方へ力が込めら れていた。﹁山容水態一区画をなし地嵩高を呈せること﹂、﹁地域幽最たるの感あること﹂が高々と謳われ、﹁風光 一五 明媚﹂﹁措大なる天然美﹂といった言葉が乱舞する︵[飯能①]︶。そして朝日山を神路山、入間川を五十鈴川に見 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−・・明治神宮の候補地に映る東京 一六 立てるなど、明確に伊勢神宮をモデルとし、⊃平安神宮の如く紅塵の為めに汚さる\の恐なきこと﹂を利点とす る。﹁風致﹂を軸に、自然環境を活かした郊外型ともいうべき神社を計画していた。朝日山が﹁清浄無垢﹂で﹁原 始的状態﹂であり、むしろ﹁由緒﹂などないことこそが良しとされていたのである︵[飯能②]︶。﹁風致﹂重視に よる郊外型神社という点は、箱根や富L山などの候補地にも言える。筑波山のように﹁由緒﹂を無理に捻り出し たり、そもそも﹁由緒﹂への言及がない候補地もあったことを考えあわせれば、東京以外の候補地は、ほとんど ︵45︶ こうした型の神社を目標としていたと.一.[うことができる。いずれもが山をシンボルとした誘致を試みているこ と、また先に指摘した候補地の周辺性という事実も、こうした点と関わりがあり、偶然ではあるまい。 ﹁風致﹂を重視すべきであると明確に主張し、運動にも影響を与えた人物に本多静六︵東京帝人教授・林学︶が いる。本多はいう、﹁神社建設地を選定するに当りて、第一に講究せざるべからざるは、大然の地勢、殊に、天然 の山水樹木の関係にありて、縁故便利等の如きは、唯従的要件に過ぎずと謂ふべし﹂、と。﹁天然の地勢﹂を主と し、﹁縁故・便利﹂を従とするこの立場から、本多は、市街に接し、針葉樹の完美なる森林を構成できない青山を、 ﹁最も劣れるの候補地﹂と酷評した。そして東京から数里を隔てた土地に敷地を求めるべきだとする。すなわち ﹁風致﹂を軸としたに郊外型の神社を良しとする。本多の論説は、鈴木経勲によってそれだけを印刷に付し冊rに ︵46︶ した形で﹁同志﹂へ頒布され、朝日山の運動でも参照されていたようだ。﹁風致﹂を至上とする本多静六のような 立場は、郊外型の神社を計画していた候補地のよるべき綱であった。 東京はこの点でも異なる。朝目山などを押し退けて採択された辻新次の請願には、﹁明治神宮を東京へ﹂とする 理由に、明治天皇との関係しか語っていなかった。﹁由緒﹂を語るのみで、飯能が頼みの綱とした﹁風致﹂には 一.口 及もしていない。﹁元来尊い御方を祀る神社の地を選むに、景色が何うの、便利が如何のと云のは、甚だ不穏当な 事である。何うしても由緒のある所が好い。由緒と.ムふ者は、人の心に尊崇銀甲の念を起さしめる因をなすもの である﹂。これは青山を良しとした際の黒板勝美︵東京帝大教授・国史学︶の言葉であるが、﹁由緒﹂の重視は、 ︵47︶ ﹁風致﹂の軽視へと直結している。﹁明治神宮を東京へ﹂という運動野の候補地は、堕獄山を除けば、市街地やそ の近接地に都市型の神社を構想することになるだろう。なるほど﹁由緒﹂を大事とすることは、郊外型の神社を 排除することにはならない。﹁由緒﹂があれば、その位置はどこでも構わないからだ。ただしそれは都市型を否定 もしない。﹁風致﹂を重んじるものと比べ、都市、そして東京と親和的であることは間違いない。 東京とそれ以外の候補地との争いは、都市型と郊外型という神社像における相違であるとともに、神社をつく るにあたって﹁由緒﹂と﹁風致﹂のいずれを重視するかという対立でもあった。 * 飯能における﹁由緒﹂も、ほかの多くの地と同じように明治天皇の行幸であった。当時の行在所も現存し、天 皇の愛馬・金華山御繋止の松︵通称・駒止めの松︶も繁茂し、徳大寺実則の揮毫になる行幸記念碑もあると誇っ ていた︵[飯能①]︶。ところが行幸のあったのは朝日山ではない。そこから北へ一キロメートルほどのところにあ る別の山である。山といっても標高一九五メートルほど。明治一六年の行幸以後、いつ頃からか天覧山と呼ばれ るようになったが、古くは愛宕山、近世は羅漢山と称された。いずれにしろ明治神宮の候補地とした朝日山とは 別の山である。神宮をつくるなら、明治天皇の﹁聖蹟﹂をそのまま保存する形でも良いはずだし、﹁由緒﹂という 点でいえば、その方が厳密であるだろう。なぜ天覧山ではなく朝日山なのか。 明治四五年11人正元年という年は、飯能にとって大きな転機の年となった。懸案であった武蔵野鉄道の開設が 本決まりとなったからである︵人正四年開通︶。請願でも、遠からず開通する武蔵野鉄道によって東京より片道一 時間半ほどになると記し、交通図を付けている︵[飯能①]︶。これまで飯能から東京へ出るには、入間川︵現在の 一七 狭山市︶まで馬車鉄道を使い、そこから所沢・国分寺経由で新宿という道程が普通であった。武蔵野鉄道は東京 何卒御鎮座地に御選定相成度・・:明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度::明治神宮の候補地に映る東京 を一挙に近づける。 一八 神社は人が参拝に訪れることを前提としている。よって参拝者のために何らかの形で交通手段が確保されてい なくてはならない。朝日山はそこにまずは東京の住人を予想し、鉄道開通によって交通上も問題がなくなること をアピールしていた。明治神宮を郊外に設ける場合、交通は難問を提起することになる。郊外型の神社が苦しん ︵48︶ でいるのは、参拝者として第一に東京の住人想定しているからであり、またそれ以外から来る人々といえども、 東京を経由するほかないからである。そしてその利便性の水準も、東京を基準に考えられていた。箱根では、小 田原電鉄の延伸計画などにより、参拝の便は﹁東京市付近に譲らざる次第﹂を訴えている︵[箱根①][箱根②]︶。 郊外型の神社といえども、東京に向けて発信されていたことは、理解しておく必要があるだろう。また都市型の 候補地がこうした苦悩と無縁なのは言うまでもない。 ︵49︶ さて、飯能において鉄道開通へと向けて考案されたのが、東京の住民を主対象とした観光開発であった。林業 と織物業以外にめぼしい産業のない飯能にとって、観光は新しい産業の試みであり、明治四五年には﹁飯能遊覧 地委員会﹂なるものを設けて計画に乗りだした。その企画・立案にあたって顧問のような地位に就いたのが本多 静六である。日比谷公園の設計などでも知られる本多の計画は、天覧山を中心とした遊覧区域を定め、四季折々 の花を賞翫するハイキング・コースを整備するというものだった。もちろんすでにあった行幸記念碑や駒止めの 松といった﹁聖蹟﹂を組み込んでのものである。天覧山はいわば公園となりかけており、明治神宮の敷地として は﹁清浄無垢﹂な朝日山一帯こそ相応しいとされる。 誘致運動へは常に、神宮をその土地の繁栄策に利用しようとするものだとの批判が付きまとった。仮に飯能に ついて同様な批判をするならば、東京からの観光客を増やすために神宮を利用していると言われるに違いない。 ﹁帝都﹂との交通に触れたあと、﹁都人士は、半日又は一日の閑を以て優に神宮を参拝し、併せて当地遊園の絶景 を弄するを得べし﹂と付け加えており、そういった嫌疑を招くのもある程度まではやむを得まい︵[飯能①]︶。 ︵50︶ この点は箱根についても言えるだろう。もともと地域の主要産業が観光である箱根では、有力者の多くが観光 業に従事していた。請願人にも、幽翠楼福住の福住九蔵、あるいは明治六年の避暑の際に天皇が長逗留した奈良 屋旅館の安藤兵治など、著名な旅館の主人が数多く名を列ねている。また請願書では、明治天皇が﹁国富﹂の増 進を念としていたことに触れつつ、箱根へと造営されれば、﹁荒蕪自ら拓けて万民藏に子来し﹂、﹁国富﹂を培養す ることになると述べている︵[箱根①][箱根②]︶。﹁国富﹂を産み出すものを箱根につくるべしと地.兀の観光業者 たちが主張しているわけである。疑念を抱くなという方が無理というものだろう。 朝日山に戻ろう。飯能は、疑惑の種へとなりかねない天覧山一円を積極的に活用していく。﹁神苑﹂の設計につ いて見通しを語り、さらに﹁神苑拡張の必要ありとせは、附属神苑として、兼て本町に於て計画したる遊覧地一 円を編入することも亦一策なるへし﹂、と︵[飯能①]︶。天覧山の﹁遊覧地﹂を、朝日山を中心とする﹁神苑﹂へ 組み入れてもよいというのである。 神社の敷地を﹁神苑﹂と捉え、敷地の一角に花樹を植え、池を築き、川を流すといった細工を施すことは、明 ︵51︶ 治中期頃からの流行であった。言うなれば神社のなかに公園を椿えるものである。明治神宮において内苑と外苑 をつくるという﹁覚書﹂の構想は、記念事業構想が濫立するなかで、単なる記念物以上のものとされた神社と、 陳列館やら林泉やらといった記念物とを同時に実現すべく考案された。いわば神社と公園とを一緒につくってし まおうというものであり、こうした構想がさしたる違和感なく受け入れられていく背景には、そうした先例が存 ︵52︶ 在した。明治神宮はこうした流行を最大の規模で展開したものでもあった。 朝日山と天覧山の神苑計画も、こうした流れに乗りつつ、直接には﹁覚書﹂に触発されたものであるだろう。 一九 むしろ﹁覚書﹂へ対応し、それに合わせたものであったというべきかもしれない。人工美にかわって天然美に重 何卒御鎮座地に御選定相成度⋮⋮明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 三〇 きをおいて計画している点など、﹁風致﹂を軸に据えた候補地へ相応しい形になっており、﹁覚書﹂の換骨奪胎を 目指していたと言えるだろう。しかし逆から言うと、東京の一計画である﹁覚書﹂は、飯能の計画の内容につい てまで影響を与え、規定していたということでもある。飯能の計画は、東京の住人に向けて発せられていただけ でなく、その計画の中味についても東京が強く意識されていた。東京以外の候補地も、東京を向きながら明治神 宮を考えていたのである。 * 東京対東京以外の候補地という競争には、敷地選定に関する原理や、神社と都市との関係についての考え方と いった明確な対立軸が存在していたのに比べると、競争におけるもうひとつの層を形作っていた東京内の候補地 相互のそれは、いかにも歯切れが悪い。 まず﹁覚書﹂との関連である。﹁覚書﹂は、内苑には代々木御料地、外苑には青山練兵場を最適とすると明示し ていた。よってこの両者、とりわけ本体にあたる内苑を予定している代々木御料地を候補地とする誘致運動であ り、表でもそのように記しておいた。 ところで地元の牛込区などには、陸軍戸山学校敷地こそ明治神宮へ相応しいとした動きがあった。彼等は、﹁覚 ︵53︶ 書﹂確定のたあに関係者が一堂に会した大正元年八月二〇目の協議会に向け、戸山を売り込んだ。その結果とい えば、﹁覚書﹂の本文へは何ら反映されず、参考として掲げられた候補地群の先頭になったのみである。しかし彼 等は戸山という独自の候補地を持ちながらも代々木を最適とする﹁覚書﹂へと参加した。 ﹁覚書﹂は、東京市長と大実業家を先頭に、区会・市会・府会・代議士の代表者を網羅して作成された案であ る。戸山の態度が、﹁覚書﹂の圧倒的な規模を前にしての戦略であったことは間違いない。だが、﹁覚書﹂の成立 過程を見る限り、青山を軸として語られていた当初の構想が、外苑の案出とともに、代々木に内苑、青山に外苑 という形へと変化したものであり、そこに存在していたのは、﹁明治神宮を東京へ﹂という合意であった。すなわ ち﹁覚書﹂は単に一候補地を提示しただけのものではなく、﹁明治神宮を東京へ﹂という運動が、その具体的な候 補地として内苑日代々木と外苑目青山を選んだものと見ることができる。請願者がほかの候補地のような地元の 区長・町村長などではなく、二人の実業家︵渋沢栄一・中野武営︶と東京市長︵阪谷芳郎︶であることは、これ と表裏をなしている。しかも参考に付けた候補地群に東京以外のものも拾い上げたり、あるいは﹁明治神宮を東 京へ﹂といった又面を置かなかったりと、細心の注意を払い、﹁明治神宮を東京へ﹂という主張からも超然として いるかのような雰囲気を醸し出そうとしていた。戸山の行動は、こうした点を感じ取ってのものだったろう。た だし独自の候補地とはなるためには、どこかで快を分かたねばならず、やがて陸軍戸山学校敷地も、覚書とは別 個の陳情書を区長名にて出すに至る。 このように﹁覚書﹂の極めて強い影響ドにあった東京内候補地は、東京外の候補地のような特色ある議論を展 開していない。大正元年九月に赤坂倶楽部の名前で印刷された意見書は、青山から代々木にかけての土地を適当 とするものであるが、その理由として、天然の地形の良さ、最初の行幸地であること、交通至便で参拝しやすい ことなど、一〇項目を挙げている。﹁風致﹂あり﹁由緒﹂ありと、理由になりそうなものが満遍なく記されている ︵54︶ 反面、そのうちのどれかが突出することで個性を主張することもない。飯能などが東京という強敵を相手に論理 を磨いていったのに対し、﹁覚書﹂の庇護によってその必要のなかった東京の候補地は、そうした方面にさして力 を注がなかった。東京内の候補地間競争は、なぜこの場所なのかを主張し合うというよりも、ほかの候補地の難 点を指摘するという消去法へと傾斜していくことになる。 何卒御鎮座地に御選定相成度::明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 第三節 候補地の 終 焉 明治神宮の誘致運動は、実現への方途の判然としない運動であった。どのような手順を経て、どういつだ状況 になれば実現へと近づくのか。各候補地が、あるいは帝国議会へと請願を試み、あるいは内閣総理人臣や内務大 臣・宮内人臣などへ陳情しているのも、何らかの形で関与してくるであろう有力者へ、とにかく認知してもらお うと努力してのものだろう。飯能の朝日山はこのほかに﹁明治神宮建設委員長﹂渋沢栄一へも陳情を試みている ム 能①]︶。すなわち各候補地は、ただただ選定されるのを願うほかないにもかかわらず、その作業を誰が行う ︵[ のかからして明確でない。さらに言うと、明治神宮がつくられるかどうかも決まっておらず、それを誰が決める のかも自明ではなかった。候補地とはいっても、そういった枠内でのものであり、誘致運動は見通しの利かない なかでなされていく。 大正二年一二月二〇日に神社奉祀調査会が設置されたことは、こうした状況を変えた。調査会は内務大臣の監 督に属し、﹁明治天皇の奉祀に関する事項を調査審議す﹂るものである︵神社奉祀調査会官制第一条︶。ところが 調査会創設の以前に、閣議にて神宮創建とそのための調査会設置を決定し︵一〇月↓、八日︶、このうちの前者につ いては、天皇の裁可を得て﹁内定﹂していた︵三月.一、日︶。神社奉祀調査会とは、明治天皇を祀る神社を創建 ︵55︶ するというという前提のもと、そのために必要な諸事項を調査・審議する機関であった。 神宮創建の﹁内定﹂により、これまで候補地と呼ばれてきたものは、本当の意味での候補地へと脱皮する。ま た調査会の創設は、鎮座地を選定する機関が出現したということにほかならない。各候補地は、働きかけるべき 相手を特定できるようになり、目標実現への手順は明確になった。運動の再活性化の条件は整った。朝日山を擁 する飯能が、﹁追補陳情書﹂︵[飯能②]︶を新たに提出しようとしたのも、そうした変化へと即応したものだった。 しかし調査会は候補地以上に素早い対応をした。顔合わせに終始した最初の会合︵大正二年一二月二五日︶に 続く第二回の調査会︵三年一月一五日︶において、早くも鎮座地は﹁東京府下﹂であると決定したのである。初 会合から二〇日余り、しかもその大半は年末年始。調査会の創設から数えても一月にも満たない。また議事に関 しては機密保持がやかましく言われたが、右の決定については、監督官庁からの委員であった水野錬太郎内務次 官が、わざわざ記者に明言している。 ︵56︶ 調査会の設置は、候補地の運動を確かに活性化させた。例えば埼玉では宝登山も動きだした。一月一三日には ︵57︶ 運動員が請願書を持って埼玉県庁を訪れ、次いで上京して内務省へ出頭している。また一五日からは﹃埼玉新報﹄ ︵58︶ 紙上で朝日山の請願書の連載も開始される︵一七日目で︶。一方、渋沢栄一など、調査会委員のもとへは請願人が 訪れている。なすべきことが明確となった候補地は、希望を胸に抱きつつ、目標に向かって最後の努力を試みた。 ︵59︶ しかし運動の季節はあまりに短く、出願が間に合わなかった候補地も出た。﹁神宮敷地決定﹂の記事の横には、朝 日山の請願書が、虚しく掲げられている。 ︵60︶ ﹁明治神宮を朝日山へ﹂という希望はここで潰えた。国府台も箱根も富士山もそうである。明治神宮が云々され るようになって一年あまりが経ち、明治神宮創建が﹁内定﹂し、ようやく晴れて候補地として運動をしょうとし た矢先、それを本格化する暇もなく、候補地であることを終えたのである。候補地の時代は短かった。 しかし神社奉祀調査会とその監督官庁たる内務省にしてみれば、そういった事態を予期し、むしろそれを防ぐ ために、決定を急ぎ、あえてそれを公表したというところだろう。決定する側からいえば、そこに影響を及ぼす ︵61︶ ことを目的とする誘致運動は、障害にほかならない。誘致運動が本格的に展開されれば、どういつだ事態に立ち 至るぬとも限らず、少なくとも選定されなかった候補地の声はより大きなものとなる。運動が本格化する以前に 二三 決定をしてしまうことで、それらを意図的に回避したのである。そして鎮座地に対するこの最初の決定は、特定 何卒御鎮座地に御選定相成度::明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 .四 の候補地を選定するのでなく、﹁東京府ド﹂という内容であった。いわば﹁明治神宮を東京へ﹂と決めたのである。 ところでこうした決定は、必ずしも必要なものではない。神社奉祀調査会は、明治神宮の鎮座地を選定しさえ ずればよいのであって、数次にわたって選考の段階を設ける必要はなく、ましてその選考において、候補地を特 定の府のみへと限定する理由などない。しかし調査会はあえてそれをした。 この第一次選考は、まさに候補地間の誘致運動へと対応した形でなされている。各候補地問において単純かつ 自由な競争が成立することはなく、東京対それ以外の候補地という層と、東京内の各候補地相互との二つの層で 競争がなされていった。この不可欠ならざる選考は、そのうちの前者の局面に対応し、東京以外の候補地に向け、 明治神宮を断念するよう宣告したものであった。そしてその理由も、誘致運動での争点を咀毒して次のように説 明している。明治神宮もそのひとつとなる﹁官国幣社の鎮座地は、概ね祭神に由緒深き土地を撰ひ、単に形勝風 致の如何のみに依りて定められたるものにあらす﹂。﹁東京は、明治元年、先帝の東幸し給ひたる以来、宮城を此 に営ませられ、在位四十五年の長きに、万邦具に謄るの盛徳鴻業を重て給ひたるの地なり。依て先つ鎮座地を、 ︵62︶ 東京府下の内に点て之を選定することと為すは、御由緒上、最も適当の事なりと思考す﹂。﹁風致﹂より﹁由緒﹂ という明快な立場から東京の優越を導き、その根拠として遷都と居住を挙げ、都市型の神社へと軍配を上げる。 ﹁明治神宮を東京へ﹂という主張が、ほぼそのまま調査会の意志とされることにより、東京対それ以外という誘致 競争の主要な局面は、終止符を打たれた。 * 東京内の候補地間競争は、もともと第一層ほど機軸が明確ではなかった。それに拍車をかけたのが﹁覚書﹂の 力である。まず、それに従って内苑と外苑とをつくるとするならば、最終的に選ばれる敷地は、内苑と外苑との 関係にもよるが、一箇所とも二箇所とも乞うことができる。また内苑と外苑の関係は複雑で、これまた﹁覚書﹂ の通り、前者を国費、後者を寄附金にてつくるならば、神社奉祀調査会は後者について詳細に関与する必要はな い。しかし敷地ぐらいは確保しておかないと、内苑・外苑という言葉との整合性に問題が生じかねない。これら の点について、神社奉祀調査会は、まずは鎮座地をひとつ選定するという方針で進んでいく。これは内苑+外苑 という構想の可否とは無関係に行うことができた。 また候補地の籏生した当初の段階に比べると、東京府内で実際に運動までいったものはかなり少ない。青山・ 白金・戸山・御嶽山・代々木ぐらいだろう。ここにも﹁覚書﹂の強大さが影響していよう。神社奉祀調査会はこ のうち御嶽山以外を検討したようだ。遷都と居住という﹁由緒﹂によって東京と決めた以上、御嶽山は苦しかっ た。そして委員たちは二月八日、青山・戸山・代々木を実地踏査する。 これらのなかから絞っていく第二次選考において、もはや﹁由緒﹂のような単一の原理だけによることはでき ない。かくて様々な要素に関する総合的な評価とでも表現するほかないような基準が置かれることになる。そし てこの場合、ある点からする高評価がそのまま別の低評価に繋がるといったことが頻発する。戸山は社殿造営に 好適な土地ではあるが、その分、盛り土などで経費がかさむのが難点となり、青山の参拝の便は、閑静さ殺ぐな どと。こうして実際には、決定的な難点の少ない候補地が、優位に立つことになる。 ところでここでの様々な要素のなかには、﹁由緒﹂とともに﹁風致﹂も含まれていた。含まれていたどころでは ない。中心的位置を占めていた。踏査を終えた翌週の一.月一五日、調査会は代々木御料地を明治神宮地として選 ︵63︶ 署した。理由は﹁東京近郊に於ける最も広二心逡の地たり﹂ということにあった。一度否定されたはずの﹁風致﹂ という原理が見事に甦り、代々木を最適としている。また調査会における正式な決定は七月に入ってのことにな 一五 るが、神宮附属の外苑の敷地として青山練兵場跡地を使うことも、この時点で委員の人勢の支持を得ていたと思 われる。 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 .パ すべての候補地のあいだで自由かつ公正な競争が成り立っていれば、﹁風致﹂だけを理由に代々木が選ばれるこ となどありえない。富士山でも朝日山でも、十分に対抗できたし、凌駕さえできたかもしれない。だが競争はそ うした形にはなっていなかった。そして東京対それ以外の候補地との競争についてはすでに決断がなされ、残る 争いは東京内でのものだった。かくて安心して﹁風致﹂を云々することができるようになる。もともと﹁風致﹂ より﹁由緒﹂を重要とした際も、鎮座地は﹁単に形勝風致の如何のみ﹂に依るものではないとしたのであって、 ﹁風致﹂を無視したものではなかった。そもそも実地踏査という選考手段それ自体、何より﹁風致﹂という基準に 適合したものであるだろう。踏査に参加した原敬内相は、目無に、﹁代々木は幽逡閑雅とも.ムふべき地にて最も適 ︵64︶ 当なりと一同賛成の意を洩らせり﹂と記している。﹁風致﹂を確かめるべく、実地踏査は行われていたのである。 神社奉祀調査会において二つの段階を経てなされた選考は、候補地をめぐる競争が二層に分かれていたことと まさに対応していた。その意味で、運動によって規定されたものでもあった。しかしこのことは、その選択原理 の使い分けを可能にし、そして代々木を選ばしめた。東京が郊外の山々と﹁風致﹂の優劣を競うことなく、また 代々木の﹁由緒﹂は戸山と比べてどうなのか深く追求されることなく、調査会での決定はなされた。 ただし調査会で決定がドされてからも、若干の不満は直り続けた。調査会の決定はそのままでは政府の意志と はならず、再考の余地も皆無ではなかったからである。一.一月の末には、阿波松之助が記した﹃明治神宮経営地論﹄ ︵65︶ なる意見書が、女子教育などで知られた巖本善治の手から阪谷芳郎のもとへと送付される。そこでは主に代々木 御料地と青山練兵場という土地の﹁由緒﹂を論っている。代々木がかつて彦根藩のド屋敷であったことを持ち出 し、﹁井伊掃三頭輩の足跡を以て汚したる其ド屋敷跡を奉ずるに忍びんや﹂、と。そしてこの二つが明治五〇年記 念の博覧会会場であったことについて、こう二、口い募る。 昨は博覧会会場に適せりと断じ、今は神宮として申分なしと論ず。か・る間に合せ論者は、今後此地を以て、 更に何物にも間に合せんとするならん。か・る論者は、博覧会と神宮とを同一の性質として、等しくお祭騒 ママ を演ずるを最上の目的とするならん。実に言語同断なり。 明治天皇とその土地との関係という﹁由緒﹂ではなく、さらに湖ってその土地の来歴を言い始めたら、東京の 候補地はどれも厳しくなる。もちろん鎮座地に選ばれた代々木もその例外ではない。朝日山のように﹁清浄無垢﹂ なる土地ではないからである。こうして土地そのものの﹁由緒﹂については、傷となりかねないものを排除して、 選択的に語られていく。彦根藩の下屋敷であったことよりも、好んで加藤清正の井戸の話が繰り返されていくよ うに。 だが行幸わずか一度という代々木は、天皇との関係という﹁由緒﹂でもさすがに弱かった。この点、外苑が予 定される青山練兵場跡地には、憲法発布のときをはじめ、節目となる行事で何度も姿を現していた。青山は天皇 との﹁由緒﹂では、ほかのほとんどの土地を凌駕することができた。代々木の内苑は、青山の外苑とは、別であ りつつも一つの明治神宮であるということにより、その﹁由緒﹂を自らのものと主張することができる。﹁由緒﹂ は選択されただけでなく、転用もされた。内苑と外苑という発明は、こうした点においても、間違いなく有効な ものであった。 調査会の決定から二日後、代々木御料地の使用についての内務省と宮内省との交渉がはじまり、四月二日に ︵66︶ 至ってこの件は裁可された。ここに﹁唯一﹂の明治神宮を目指す運動は存在の余地を失い、候補地は消滅する。 ︵67︶ これ以後に現れてくるのは、この﹁唯一﹂の明治神宮を前提とする分祀なり分社なりを試みる運動となる。 おわりに 二七 東京以外の候補地は、あるときは東京に対抗して﹁風致﹂の論理を研ぎ澄まし、あるときは﹁帝都﹂と同国で 何卒御鎮座地に御選定相成度・⋮:明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 ..八 あったと擦り寄ってみた。候補地へ至る交通の便といっても、それは東京からの便だった。東京のものはもちろ ん、すべての候補地は、東京のまわりをまわっており、視線の先には東京があった。 候補地間の競争が東京対それ以外の候補地という形へとなったのは、それが東京であるがためであった。﹁明治 神宮を東京へ﹂という謳い文句が﹁由緒﹂としての説得性を持ち、またそれにむけての運動が大規模に組織され たからである。同じことは他の単位では起きなかった。東京の﹁由緒﹂に対抗し、﹁風致﹂を一枚看板とするなら、 富七山などはライヴァルになり得たかもしれない。しかし文字通りシンボルを頂くこの﹁明治神宮を富士、山へ﹂ ︵68︶ という運動は、静岡県の一部町村のものにとどまった。 そして東京以外の候補地は、その東京に破れた。東京という異次元の相手と競い、﹁由緒﹂が足りぬと退けられ、 及ばなかった。朝日山は代々木に負けたのではない。東京に負けたのである。明治神宮は代々木へつくられたの ではない。東京へつくられたのである。 東京へと明治神宮がつくられたのは、必ずしも東京が政治・経済・教育・文化といった様々な領域で優越して いたからではなかった。その﹁由緒﹂、簡単に言えば天皇が居住していたからである。すなわち宮城︵皇居︶があっ たからである。﹁都﹂であったからと言い換えることもできるだろう。 ただしこの﹁由緒﹂を突き詰めていくと、新たな問題も発生していく。明治天皇による遷都と居住とをその内 容とする﹁由緒﹂は、いわば天皇と接した時間が濃ければ濃いほど深くなっていくものだろう。そうであれば、 代々木御料地はもちろん、青山練兵場といえども、天皇の居住空間であった宮城を超えることはできない。宮城 こそ最も﹁由緒﹂ある土地になる。明治神宮を﹁都﹂へともたらした﹁由緒﹂は、﹁都﹂を超え、さらにそのなか の宮城へまでたどり着き、そこには新天皇が居住している。明治神宮と宮城とはいかなる関係にあるのか、ある いは大正という時代において﹁都﹂へ明治天皇を祀り記念するとはどういうことなのか。こういつたことを考え させるからである。 ︵69︶ * 候補地の時代が終わっても、その土地はなくならない。元候補地はそれぞれに、その後の時代を生き抜いてい く。判断しかねる例も残るが、その後もほぼ手付かずのままというものを除くと、公園となって現在に至ってい る例が多いようだ。井の頭御料地のように明治神宮より早く大正六年︵一九一七年目には公園として開園したよ うなものから、第二次大戦後の昭和二一年︵一九四六年︶になって公園化された箱根離宮のようなものもある。 このほか戸山、白金、国府台などもそうである。神社の敷地として適しているとされた土地は、公園の土地とし ても適していたということか。 ただこうした候補地ばかりではない。飯能の朝日山は、明治神宮の候補地として高い評価を得ていたし、いわ ゆる明治百年のときにも明治神宮誘致のことが振り返られるなど、運動の記憶は微かながら保たれていた。だが、 ︵70︶ 昭和から平成へと移り変わり、住宅・都市整備公団による宅地造成が行われた際、総目山は崩され、原型を失っ た。かつて明治神宮の候補地となった朝日山は地図からも消え、新たに美杉台という地名が出現した。朝日山は もうない。ただしこのニュータウンのなかにも美杉台公園という名の公園があり、飯能市街を一望に臨むことが できる。 注 ︵1︶ この点は史料的な制約によるところも少なくない。そのため本稿でも新聞報道などに大きく依拠せざるを得ない。より詳し くは、山口輝臣﹁明治神宮の成立をめぐって﹂、﹃日本歴史﹄五四六、一九九三年、注︵1︶。 二九 ︵2︶ ﹁覚書﹂は、①神宮は内苑と外苑とからなること、②内苑は国費、外苑は論鋒で造営すること、③外苑は方針確定後、﹁神宮 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度⋮⋮明治神宮の候補地に映る東京 一. U 御造営奉賛会﹂を組織して宮殿・陳列館・林泉等を建設すること、④内苑には代々木御料地、外苑には青山練兵場を最適とす ることを柱とする。詳細は、山口﹁明治神宮の成立をめぐって﹂第四節。 ︵3︶ イの﹁覚書﹂における︵参考︶とは、﹁或は区会の決議を以て、或は個人の意見を以て、我か委員会に申し出てたるもの、 其他新聞紙上に投書家の意見として顕れたる候補地﹂。史料によって若Fの異同があるが、ここでは最大多数の候補地を掲げ たものによるとともに、﹁覚書﹂が最適とする代々木御料地も含めておいた。ロの﹁神社奉祀調査会特別委員会報告﹂につい ては、大丸真美,明治神宮の鎮座地選定について﹂、﹃明治聖徳記念学会紀要﹄復刊一七、一九九六年、四四∼五〇頁から作成 した。ハの﹃明治神宮造営誌﹂︵内務省神社局、一九、一.○年︶一〇∼ご.、頁には、二.九点一.一.箇所の請願・陳情が掲載されて いる。富ヒ山の.、..点や国府台と筑波山の二.点のように、同一箇所について複数の請願がなされたものもあるが、表ではこれ らも一件と数えている。なお、イ・ロ・ハともに×となっているものは、主に当時の新聞などを典拠としている。 このうち、本文ではあまり登場してこないいくつかのヒ地について、簡単に解説を加えておこう。説明の便宜上、現在の地 名を用いる。 ﹁陸軍戸山学校敷地﹂は、東京都新宿区戸山。戸山公園のあるあたり。﹁陸軍卜官学校・中央幼年学校地﹂は、いわゆる市ヶ 谷台のこと。新宿区市谷本村町、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のところ。﹁目白台﹂は文京区。新江戸川公園から椿山荘にかけて の区域。﹁芝三光坂附近﹂は港区白金二丁目と四丁目の境。念頭に置かれているのは当時の陸軍火薬庫、現在の国立科学博物 館附属自然教育園のあたり。﹁豊多摩郡和田堀内村大宮[は杉並区西永福の近く、大宮八幡宮や和田堀公園のある一郭。 ﹁宝登山﹂は埼玉県秩父郡長瀞町と皆野町の境にあり、標高四九ヒメ!トル。﹁城峯山﹂は秩父郡の占田町・皆野町と児玉郡 神泉村との境にあり、標高一q、.八メートル。なお、この二つの山の距離は一〇キロメートルにも満たない。﹁国見山﹂は現 在の茨城県常陸太田市にある標高..九一メートルの山。 ︵4︶ ﹁神域は上野が適当/海上胤平氏謹話﹂、﹃国民新聞﹄大正元年八月九日。 ︵5︶ ﹁大宮に奉建せよ﹂、﹃国民新聞﹄大正元年八月二。ぬ日。大橋安次郎の投書。 ︵6︶ 一例として、﹁明治神宮奉賛会の上申書﹂、﹃竜門雑誌﹄...〇四、大正二年九月。 ︵7︶ ﹁世界に誇る可き神苑を造れ/中野武営氏寺﹂、﹃国民新聞﹄大正元年八月四日。 ︵8︶ この点についての政府側の対処は、山口輝臣﹁神社奉祀調査会について︵上︶ 明治神宮計画における﹁由緒﹂と﹁風致﹂ ﹂、﹃海南史学﹄ご.九、二〇〇↓年、第二節。 ︵9︶ ﹁崇厳なる神宮奉建﹂、﹃横浜貿易新報﹄大正元年九月四日。 ︵10︶ ﹁神宮奉建を推す﹂、﹃横浜貿易新報﹄大正元年九月.一七日。 ︵11︶根拠となるのは、明治]九年六月八日内務省訓第.一九七号の﹁社寺及仏堂並建物アル遙拝所ヲ創立再考復旧セサル事。但移 民地及特別ノ縁故アル者ハ事由ヲ具シ伺出スヘシ﹂。次いで大正二年内務省令第六号第三一条﹁祭神ノ事蹟顕著ニシテ土地ノ 情況又ハ縁故等特別ノ事由アルニ非サレハ神社ヲ創立スルコトヲ得ス﹂。 ︵12︶ いくつかの事例からこの方針を窺うことができるが、明治神宮との関連で方針が断言されているものとして、昭和二年︵一 九二七年︶、広島市の比治山上に明治神宮分社を造営してほしいとの建議に対する内務省の回答などがある。国立公文書館蔵 ︽公文雑纂︾.一Al一四−纂一八三六、﹁衆議院議決広島市に明治聖帝記念館設立並明治神宮分社造営に関する建議の件﹂所 収。広島には口清戦争時に大本営が置かれ、明治天皇が滞在している。 ︵13︶ ︽公文雑纂︾二Al一四一纂↓五八ヒ、﹁衆議院送付明治神宮御分霊を各府県に奉祀請願に関する件﹂。 ︵14︶例えば、官国幣社のなかでも、橿原神宮と宮崎神宮はともに神武天皇を祀っている。また内務省に従って、八幡神を応神天 皇とすれば、宇佐・石清水・筥崎・鶴岡・函館などの八幡宮は同㎝の天皇を祭神としていることになる。 ︵15︶ 現に官国幣社である神社と今後そうなろうとする神社とのあいだの.↓重基準については、山︺輝臣﹃明治国家と宗教﹄︵東 京大学出版会、一九九九年︶第一部第五章第六節。こうした例からも知られるように、現状の神社の姿を是認し前提とするの ではなく、あるべき神社の姿を設定し、それへの近接を﹁原則﹂と捉えて政策的に誘導し、一方でそうした方向にそぐわない 神社を﹁例外﹂と認定していくことは、戦前期の内務省においてほぼ一貫した姿勢であったといえるだろう。 ︵16︶ ﹁内地﹂における原則セ義的な態度と比べると、﹁外地﹂では、明治天皇を祭神とすることへの制限は緩く、良く知られてい るものとして、朝鮮神宮︵大正一四年鎮座祭挙行︶へ天照大神とともに祀られた例などがある。数多くの﹁例外﹂が存在する にもかかわらず、あるべき姿から逆算してなされる形の原則セ義は、﹁例外﹂を説明できる適当な理由を付し得れば、そこか ら逸脱するのは容易い。﹁外地﹂については、明治天皇の﹁治世﹂において獲得されたものであったということが、そうした 理由として機能した。 一一 ︵17︶ 森岡清美﹁大正期における集落神社の創建問題﹂、同﹃近代の集落神社と国家統制一明治末期の神社整理i﹄︵占川弘文 何卒御鎮座地に御選定相成度・・−明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度⋮⋮明治神宮の候補地に映る東京 館、↓九八七年︶は、秋田県仙北郡における明治天皇﹁遙拝殿﹂の惹き起こした問題を検討している。 ︵18︶ 一例として、﹁雄大荘厳を極むべき明治神社﹂、﹃報知新聞﹄大正、旧年八月.訂。 ︵19︶ ﹁神々しき御社/中村歌右衛門謹話﹂、﹃国民新聞﹄大正元年八月五日など。青山練兵場は一六万坪弱。これに対し、伊勢神 宮 は 内 宮 だ け で そ の 百 倍 以 上 。 ︵20︶ 東照宮を反面教師としたものには、﹁断じて華麗を斎う可からず/秋元興朝子謹話﹂、﹃国民新聞﹄大正元年八月ヒ日などが ある。平安神宮については第、節を参照。ただし平安京への遷都を実現した桓武天皇を祀る平安神宮が京都につくられたとい う点は、﹁明治神宮を東京へ﹂という運動にとっては望ましき先例であり、しばしば想起されている。なお、こうした点に関 しては、﹁神社奉祀調査会について﹂の続編において社殿の様式などを扱いつつ、詳しく検討したい。 ︵21︶ 神山恒雄﹃明治経済政策史の研究﹄︵塙書房、一九九五年︶第五章など。 ︵22︶ ﹁青山以外に適地無し﹂、﹃報知新聞﹄大正元年八月一七日など。 ︵23︶ ﹁神都論に.二種あり﹂、﹃報知新聞﹄大正元年八月ご.一日など。 ︵24︶ 山口﹁明治神宮の成立をめぐって﹂第一.節。 ︵25︶ ﹁雄大無比の明治神宮を建甑せよ/市長阪谷芳郎男謹話﹂、﹃国民新聞﹄大正元年八月五H。 ︵26︶ ﹃帝国議会貴族院議事速記録﹄..九︵東京大学出版会、一九八一年︶五〇頁。 ︵27︶ 大正.一年..月.一七日貴族院を通過した。なお、同じ議会でなされた衆議院の建議は、政府へ神宮建設の計画を立案するよう 求めるもので、土地については沈黙している。山[﹁明治神宮の三図をめぐって﹂第五節。 ︵28︶ ﹃帝国議会貴族院委員会会議録﹄↓︵臨川書店、↓九八一年︶七六頁。東京都公文書豆蔵﹁明治神宮に関する書類﹂所収の ﹁貴族院委員会決議﹂からはじまるメモ。 ︵29︶ 飯能町長小山八郎平によるもの︵大正二年置.月︶と、飯能町長曲木八郎のもの︵同年九月および、.一年↓月︶の三点が確認で きる。飯能市立図書館蔵﹁明治神宮建設請願書写﹂、および﹁明治神宮御奉祀位置選定請願に関する追補陳情書写﹂。大丸真美 ﹁明治神宮の鎮座地選定について﹂四九頁。このうち二年九月のものは同年.一月のものに若Fの手直しを加えたのみのようで あり、大まかには..つの系統があると言えるだろう。以ドでは、飯能市立図書館の史料を用い、前者を[飯能①]、後者を[飯 能②]と略記する。 ︵30︶ 運動の様子については、小松崎甲子雄﹃飯能の明治百年﹄︵文化新聞社印刷部、一九六八年︶..、一、.∼四頁。 ︵31︶ ただし東京ではむしろ市を機軸単位としていた。東京における府と市については、亀掛川浩﹁歴史的に見た東京府と東京市 政の関係﹂、﹃東京市政調査会首都研究所調査研究資料﹄一四、一九六四年などを参照。 ︵32︶ ﹁神宮奉祠と箱根﹂、﹃横浜貿易新報﹄大正元年八月一.三日∼八月二五日。 ︵33︶ 箱根の請願書は.一種類確認できる。ひとつが大正元年八月の﹁大行天皇の廟宇建設並に神都選定の請願﹂、もうひとつが同 年︷○月一日付渡辺千秋宮内大臣宛﹁明治天皇の廟宇建設並に神都選定の請願﹂。箱根町立郷土資料館蔵︽川井家文書︾、︽松 井家文書︾、︽...山家文書︾。前者は一三八名、後者は四四ヒ人の署名を持っており、この部分から判断した。なお、以ドでは 前者を[箱根①]、後者を[箱根②]と略記する。 ︵34︶ ﹁箱根神宮奉祀請願﹂、﹃東京朝日新聞﹄大正元年八月二四日など各紙。ただし富七山を推す清憲太郎などはもちろん加わっ ておらず、両県代議Lを網羅できてはいない。 ︵35︶ 国立公文書館蔵︽公文雑纂︾二A一一.一、一軸一.一八五、﹁明治神宮奉安敷地御選電請願書﹂。このほかに田中喜兵衛によるも のもある。 ︵36︶ 朝日山と御嶽山のように、近隣に候補地があることは、相互の対抗を通じて誘致運動の組織化へと寄与している。このこと は富士山と箱根などでも指摘できる。これらのヒ地は、東京と争うとともに、直近の候補地といわば張り合っていた。しかし こうした形での組織化は、広域化へは明らかに阻害的である。 ︵37︶ ﹁明治神社奉祀候補地﹂、﹃埼玉新報﹄大正一一.年一月一五日。 ︵38︶ 遷都をあぐっては周知のように厄介な問題が存在するが、本稿では、史料中の用例をそのまま踏襲した。 ︵39︶ ただし全く放棄したわけではない。武蔵国と遷都の話に続けて、一面で﹁さいたま﹂は﹁さちみたま﹂であり、神の安らか に座す意義であるとして、神宮と多少のゆかりがあるともしている。 ︵40︶ 明治元年一〇月二八日のこと。宮内庁﹃明治天皇紀﹄一︵追川弘文館、一九六八年︶八七八∼九頁など。 ︵41︶ 実際の明治神宮には、明治天皇とともに同妃昭憲皇太后も祀られた。しかし皇太后の合祀が検討されるのはその死の以降、 三三 すなわち大正、.一年四月以後であり、敷地がすでに神社奉祀調査会によって決定されてからである。このほか維新の英雄たちを 配祀するという考えもあったが、鎮座地との関係は論じられていない。 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京 ︵42︶ 宮内庁﹃明治天白E紀﹄六︵吉川弘文館、一九七一年︶.∴七∼四..頁など。 三四 ︵43︶ [箱根①][箱根②]。避暑で箱根を訪れた時点ではまだ離宮は建設されておらず︵明治、九年竣L︶、またその離宮へ一度も 行幸がなかったため、こうした奥歯に物の挟まったような表現になっている。 ︵44︶ まだ代々木御用地と呼ばれていた明治一九年一月一九日目こと。﹃明治天皇紀﹄六・五三.一頁。 ︵45︶ 大丸真美﹁明治神宮の鎮座地選定について﹂四七∼八頁。 ︵46︶ 本多静六﹁明治神宮の位胃﹂、﹃全国神職会会報﹄一六ヒ、大正元年九月に内容摘記がある。冊子版は、﹃明治神宮建設の位 置に就て﹄。南洋探検家として知られた鈴木経勲による人正.、年二月、二日付の前書きが付されている。飯能市立図書館蔵。 請願書と本多の論説とを比較すれば、都市型神社の批判の仕方など影響は明らかである。またこれが前記図書館へ所蔵されて いる点も傍証になろう。なお、引用は冊了版によった。 ︵47︶ ﹁明治神宮の敷地は青山が適当﹂、﹃東京朝日新聞﹄大正元年八月八日。 ︵48︶ もっとも、埼玉県ドの大宮公園を明治神宮の敷地として寄付せよと提唱した根岸貞三郎のように、神宮誘致に成功すれば、 鉄道も発起されるにいたるだろうと考えるのならば、何の問題も起きない。﹁明治神社の位置﹂、﹃埼玉新報﹄大正元年八月八 口。だがこれでは、大宮の繁栄策だとの批判は到底免れまい。 ︵49︶ 以下、武蔵野鉄道の開通を利用した観光開発については、飯能市史編集委員会編﹃飯能市史﹄通史編︵飯能市、一九八八年︶ 五一一∼五.二頁。 ︵50︶ なお、本多は箱根の観光開発についても提言している。本多静六﹃箱根風景利用策﹄︵神奈川県内務部、一九一四年︶。 ︵51︶ 中島節子﹁近代京都における﹁神苑﹂の創出﹂、﹃日本建築学会計画講論文集﹄四九三、↓九九七年など。 ︵52︶ 神社と公園の関係、さらに記念という行為を介したその明治神宮計画への影響などについては、機会を改めて論じることに したい。 ︵53︶ ﹁神宮建立総会﹂、﹃東京朝日新聞﹄大正元年八月一.一日など各紙。 ︵54︶ 外務省外交史料館蔵︽外務省記録︾1..一....○..一!二、﹁本邦神社関係雑件・明治神宮関係﹂。 ︵55︶ 詳しくは、山口﹁神社奉祀調査会について︵上︶﹂第二節。 ︵56︶ 山口﹁神社奉杷調査会について︵上︶﹂第五節。 ︵57︶ ﹁明治神宮建設運動﹂、﹃埼玉新報﹄大正三年一月一四日。 ︵58︶大正三年一月一八日に箱根仙石原の勝股市五郎が請願に来たのに対し、渋沢は、﹁無用の奔走なからん事を告示﹂している。 ﹁渋沢栄一日記﹂同日条、渋沢青淵記念財団竜門社編・刊﹃渋沢栄一伝記史料﹄四一︵一九六二年目五三二∼.、一頁。 ︵59︶ 例えば、﹁神宮奉祀地について﹂、﹃埼玉新報﹄大正三年一月二〇日。 ︵60︶﹃埼玉新報﹄大正ゴ、年一月一ヒ日二面。 ︵61︶ ﹁奉祀調査内容﹂、﹃中外商業新報﹄大正.一年一二月二..一日など。水野錬太郎委員は、各地より熱望的運動が起こることを予 想した上で、調査会運営の見通しを語っていた。 ︵62︶ ﹁鎮座地に関する神社奉祀調査会決定︵大正三年一月一五日︶﹂、︽公文雑纂︾二A一一四一纂一三三三、﹁神社奉祀調査会経 過要領の一﹂所収。 ︵63︶ ﹁鎮座地に関する神社奉祀調査会決定︵大正院年二月一五日︶﹂、︽公文雑纂︾.一A一一四−纂一、二三三、﹁神社奉祀調査会経 過要領の一﹂所収。 ︵64︶ ﹃原敬日記﹄一、一︵福村出版、一九六五年目ご、八八頁、大正ご.年..月八日の条。 ︵65︶ 東京都公文書館蔵﹁明治神宮に関する書類﹂。 ︵66︶ 国立公文書館蔵︽公文類聚︾二AI一一−類一一九四、﹁明治天皇奉祀神社鎮座地に関する件﹂。 ︵67︶ そうしたなかでもとりわけ興味深いものに、明治天皇の合祀を求めた札幌神社の活動がある。この運動は、昭和一一年末頃 からはじまり、戦後の昭和...九年になって実現し、それと同時に北海道神宮と改称された。概要は﹃北海道神宮史﹄上・下 ︵北海道神宮、一九九↓年・一九九五年︶。 ︵68︶ 清張太郎が取り次いだ﹁明治神宮を富ヒ山へ﹂については、富十山を公園にしょうという運動との関係を無視することがで きない。この点については、とりあえず、丸山茂﹃近代日本公園史の研究﹄︵思二種出版、一九九四年︶第一一.一章。また﹁噂 のま\﹂、﹃静岡民友新聞﹄大正.兀年八月..五日など。 ︵69︶ 宮城の存在を理由に明治神宮反対論を唱えたものに、﹁本郷の一民氏﹂による﹃東京朝日新聞﹄﹁討ひつぎつぎ﹂への投書 ﹁神宮建設論は曲学阿世の論也﹂がある︵大正元年八月二〇日︶。 三五 ︵70︶ ﹁いまの六〇代の飯能の人達は、夢物語として明治百年の語り草にしている﹂。小松崎﹃飯能の明治百年﹄三一頁。 何卒御鎮座地に御選定相成度−−明治神宮の候補地に映る東京