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Title Author(s) Citation Issue Date Type 自伝をめぐって : おぼえがき 安田, 敏朗 言語社会, 3: 147-160 2009-03-31 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/18272 Right Hitotsubashi University Repository おぼえがき 特集 自伝、オートフィクション、ライフ・ライティング 自伝をめぐって 安田敏朗 一 自伝・日本・近代 本人の﹁私小説﹂好きには、案外輻の広く、また根深い民族的 な嗜好が一役買っているのではないのか。いや、﹁私小説﹂を もち、多読したという。そこで気づいたのが﹁自伝論、自伝研 をたとえば﹁私小説﹂といったような文学事象と連関させて論 要するに、自伝自体は大量に生産されている︵3︶ものの、それ 自伝ジャンルの一部、また一変種として扱うことすら、今まで 究というものは、案外乏しいのだ。ぼくの知る限り、目本人の じる、というような自伝論がなかった、ということである。 ここに﹃日本人の自伝﹄︵講談社、一九七四年︶という本が 自伝を系統的、総体的にとらえようという仕事は、ほとんどな ﹁私小説﹂の﹁私語り﹂と﹁自伝﹂の﹁私語り﹂とを同列に論 ほとんどなされなかったのではないかしとし、﹁私小説﹂好き されていなかったに近い﹂ことだという︵−︶。 じてよいのか、という大きな問題を感じるのだが、それを論じ ある。著者佐伯彰一は、﹃ローマ帝国衰亡史﹄を書いたエドワ 雑誌連載を単行本にまとめたこの書のあとがきでは、さらに、 る用意も紙幅もないのでひとまず措いておく。 の背景に自伝好きをみようとしている2。 ﹁わが国の近代文学史における﹁私小説﹂問題は、これまで余 佐伯はふたたび雑誌連載をまとめて﹃近代日本の自伝﹄とい ード・ギボンの自伝を読んだことから、日本の自伝にも興味を りに文学的にのみ扱われすぎてきたのではないか︹⋮⋮︺。日 ゚ ≡一一 て も 麟 甑 4 7 1 一≡=一=一一一=一= ====一= 代の自伝が、大方の場合の影響源であり、これについてはわ は、優に世界大の文学現象ともいえようが、これには、西欧 ンルを文学として認知し、文学作品として読む必要を強調し 国も例外ではなかったしとも述べている︹7︶。 本にする︵講談社、一九八一年︶。そこでは明確に﹁自伝ジ い﹂と述べている︵4︶。そして前著の時期とはちがって、﹁自 結局のところ、日本の自伝を﹁総体的にとらえ﹂るという当 いくという作業に徹することになったようである。 の目的が達成されたようには思われず、個々の自伝を論評し 巻二︵一九八○年!八二年︶や日本経済新聞社連載の﹃私の 佐伯が長年にわたってとりあげてきた自伝は近代の著名人の ﹂とし、平凡社で刊行されていた﹃日本の自伝﹄全二三巻・ 歴書﹄︵一九五六年三月一日掲載開始、その単行本化︶の登 のに限られる傾向があったのに対し、ノンフィクション作家 ジャンルに対する世間の風向きが、この円いくらか変ってき をあげている︹5︶。 の人間学﹄と改題。新潮文庫、二〇〇七年︶は、現代を中心 阪正康が﹃自伝の書き方﹄︵新潮社、一九八八年。のち﹃自 、それを﹃自伝の世紀﹄︵講談社、一九八五年︶にまとめる。 して、スポーツ選手、タレント、新聞記者、ノーベル賞科学 さらに佐伯は﹃近代日本の自伝﹄のあとも雑誌連載をおこな こでは﹁自伝の世紀﹂を二〇世紀とし、主として西洋の自伝 ら、包括的に論じている。書名が示すように、﹁書き方﹂で などのものした自伝を、ゴーストライターの存在も明示しな るから、文学論とは距離がある。とはいえ、大量の自伝をあ れなりに準備してきたものの﹁欧米人の自伝の方につい吸い せられてしまう﹂からだというのだが、﹁二〇世紀的な自我 かったからなのか、保阪は﹁日本人はとにかく“自分を見つ 論じている。日本の自伝があまり登場しない理由について、 メージを代表する自伝となると、日本型チャンピオンは、 て記録にとどめる”のが好みにムロうらしい﹂と断じている︵8︶。 うだ︵6︶。結果的には西洋的価値基準で判断がなされているわ 化の大波のなかで、確たるイメージを結びかねている﹂のだ 本人は自伝好きなのかどうかを論じるのは面倒なことで、出 われる。つまり、佐伯のいうように﹁民族的嗜好﹂として、 ているために、評論的な議論から抜け出せないでいるように おそらく、﹁自伝論﹂へのスタンスが論者によって異なって である。またさらに二〇〇〇年に編集した書籍で佐伯は、 の悪い文化論にしかならないのである。 長く途切れざる伝統は、なお尾を引きながらも、近代化、現 々見出し難い﹂という。つまり、﹁平安女流日記﹂以来の 一九世紀末、また二〇世紀に入ってからの自伝ジャンルの隆 8 ≡≡==≡ そもそも自伝とはどう定義されるのだろうか。 佐伯が引用早 あるように、 めたもので、 最初から公表を前提としてはいない。その序文に た、我ごとくの事ありなん事をしりぬ。今はいとまある身と はとふべき人とてもなし。此事のくやしさに、里子共も、ま おやおほちの御事、詳ならざりし事こそくやしけれど、今 する﹃日本文学史﹄︵↓八九〇年︶に、 へる如く、日記の境域までは、夙に進み得たりしといへども、 東洋には自伝少し。かの紫式部日記、和泉式部日記などい 之より脱出して、能く自伝を綴りしもの少し。︹n︶ ば、ことばのったなきをも、事のわづらはしきをも、えらぶ なく、しるしおきぬ。外さまの人の見るべきものにもあらね なりぬ。心に思ひ出るをり一、すぎにし事共、そこはかと とある。昔から自伝好きという﹁民族的嗜好﹂だったといって 嗜好﹂なのかどうかも変わってくる。出来の悪い文化論にしか 比べて、ということである︶、﹁自伝﹂の定義によって﹁民族的 みでもあるので︵そもそも﹁東洋には自伝少し﹂とは、西洋に 史をもとにして、日本文学の﹁歴史﹂をあとづけようとした試 のは、これを底本にしている。多くの読者を想定していない書 く、白石自筆清書本が現存し、現在岩波文庫に収録されている くつかの写本が存在したようであるが刊本となったわけでもな 門外不出のものと位置づけている。そのため、明治以前にはい ということなのだ。つまり、子孫にだけ伝えるものであって、 べしやは。︵B︶ しまってはよくなさそうである。そしてここでは﹁日記﹂と ﹁自伝﹂とを峻別していることもわかる︵n︶。そもそも、この ならないのはそのためでもある。この﹃日本文学史﹄はなにぶ き物であるが、自らの事跡を自ら伝える、ということである。 ﹃日本文学史﹄は、佐伯も論じるように、ヨーロッパ型の文学 ん西洋を意識した記述ではあるが、先の引用につづけて、﹁白 こうしたものに、﹁東洋には自伝少し﹂という意味での﹁自 若き著者三上参次・高津鍬三郎が﹁西洋各国の文学書、文学史 出されていったとみることができる。先の﹃日本文学史﹄は、 伝﹂をあてはめることで、日本の﹁自伝﹂というジャンルが析 石は即ち、この折り焚く柴の記に於て、精細に自己の履歴を叙 したり﹂としている。自伝とは﹁自己の履歴を叙﹂すものだと いう定義である︵珍︶。 新井白石の﹃折り焚く柴の記﹄は、一七一六年掛執筆をはじ =≡一一一一一一≡ つ て 伝 ぐ め を 自 4 9 1 ≡≡≡⋮= ﹁発見﹂されていった、などと書くのはちよいと恥ずかしいが、 いだろう。西洋の概念との接触のなかから日本の﹁自伝﹂が えて記述したものだという︵M︶ので、あながち強引な解釈でもな を経きて、其叙述評論の体裁より、時代分割の方法などを考し た、という若干意地悪い見方もできる︵9。 なければ、佐伯の専門である比較文学の対象にもなりにくかっ ともあれ、こうやって日本において﹁自伝﹂が﹁発見﹂され ことはごく普通のことのようだ。 わけではないのだが、﹁自叙伝﹂のはじまりとして言及される ≡一一==≡= おそらくそんなところだろう。 も高い。﹁近代以前の日本人の自伝として最もすぐれた作品﹂ 人物に読まれることを前提としないで書かれたものだ、という たちの議論に欠けているのは、近代以前のものが不特定多数の ただ、近代以前のものもふくめて日本の自伝としていく佐伯 とされ、より古い﹃身自鏡﹄︵玉木土佐守吉保、一六一七年︶ 点である。つまり、﹁自伝﹂のなかでさらした﹁自己﹂がさら ﹃折り焚く柴の記﹄は、﹃日本人の自伝 三〇〇選﹄での評価 が、﹁自らを語るというよりは家の歴史について多くを述べ﹂、 定信の﹃宇下人言﹄にしても︵8、自筆添え書に﹁この書付、子 にさらされる範囲は、血縁など、予想できるものだったはずで 孫老中になり候ものは一覧これ有るべし。しかし他見は決して ﹃配所残筆﹄︵山鹿素行、一六七五年︶は﹁己れの思想形成を跡 りの男が、自らの人間像とその軌跡を描き出した、すぐれた自 あるまじく﹂﹁虫喰候とも虫干に及ばず﹂とあるそうである︵2。︶。 にしてもそうであるし、佐伯彰一が﹁エロス﹂を読み取る松平 伝が出現したといえよう﹂と評価されている︵E︶。 不特定多数の読者を前提とした小説のジャンルとしての﹁私小 あり、それを前提として書いていたと思われる︵旧︶。﹃配所残筆﹄ ちなみに、ルソーの﹃告白﹄を翻訳した桑原武夫の解説では、 説﹂や読者を前提とした﹁自伝﹂とは、一線を画すものがある づけた遺書﹂と位置づけ、それと比べると白石の﹁本書の出現 中国では司馬遷﹃史記﹄の﹁太史公自序﹂を例外として﹁自叙 とみた方がよいだろう︵選。 によって初めて、明確な理念をもち内的な世界を確立したひと 石の﹃折たく柴の記﹄︵一七一六︶をかぞえうるのみである﹂ 伝﹂というジャンルはなかったとし、﹁わずかに日本に新井白 その意味では、﹃日本文学史﹄での主張の方が直言である。 抑も此類の自伝なるものは、唯著者一人の事跡言行を、後世 としている。桑原は﹃告白﹄を﹁率直に、あらわに全存在をし めすという近代的告白は、ルソーその人をもって開祖とする﹂ と位置づける︵61︶。もちろん、白石が﹁近代的告白﹂をしている 1 ≡=≡一一一≡= 50 号 第 ヨ 会 社 語 言 を以て、大に史家の為めに喜ばる㌧なり。余輩は切に、人物、 く珍重せらるべく、其記事は、歴史上の参考に供するに足る に伝へ得るのみならず。其文章は、文学上の至宝として、永 分の生き方について考えること﹂をあげている。﹁伝記﹂はこ むことの能力を育てる活動例のひとつとして﹁伝記を読み、自 ﹁第5学年及び第6学年﹂の﹁読むこと﹂の項目のなかで、読 学省が出したこの指導要領の解説では、この﹁伝記﹂の例につ れまでの学習指導要領には登場していなかった。同じく文部科 て後世を 稗 益 せ ん 事 を 。 ︵ 毘 ︶ 事業、文章に併せ長じたる人に望む、各自自伝を記して、以 取り上げられた人物の生き方や人生等を描いた伝記を読み、 いて、以下のように述べる。 にだけ、などというケチくさいことをいわずに、後世のために ある。 自分を見つめ直し、自分の生き方について考える言語活動で 不特定多数の読者を想定した﹁自伝﹂のすすめである。子孫 うした教育的配慮と、佐伯のいう﹁民族的嗜好﹂とが一体にな 偉大なる自己をさらけだしてください、ということである。こ う概念が析出されてきた、というストーリーをたててみたいの る﹁伝記﹂という範囲のなかから、近代になって﹁自伝﹂とい それはともかくとして、記録、あるいは偉人伝的な含意のあ うのは明白である。 伝などがある。いずれも、人物の生き方を描いているので、 伝記には、人物の取り上げ方や書き手によって偉入伝や史 大切である。 れたいところなどを中心に考えをまとめるようにすることが などとの共通点や相違点を見付け、共感するところや取り入 伝記に描かれた人物の行動や生き方と、自分の経験や考え であるが、もちろん﹁自伝﹂には、﹁伝記﹂と同様の偉人伝風 物語や詩のような行動や会話、心情を基軸に物語る文学的な ってしまったら、自伝論が薄っぺらの日本文化論に堕してしま の、さらけだしすぎない教育的な自己を示す側面もある。それ や考え方、その偉業などを意味付けるという点から事実の記 描写が用いられることが多い。それと同時に、入物の生き方 のなんとも恥ずかしい側面を臆面もなく展開しているのが、つ 述や説明の表現が用いられる。︵認︶ が﹃日本文学史﹄の先の引用にあらわれているのであるが、こ い最近発表された学習指導要領である。 二〇〇八年文部科学省告示になる学習指導要領国語では、 ゚⋮≡ 一一 黶゚ ぐ つ て 伝 め を 自 1 51 ∴鼈鼈黶=== == 5学年及び第6学年﹂の指導内容のひとつに﹁生活習慣の大切 今回の指導要領から﹁道徳﹂が導入されるのだが、その﹁第 あがっている。これは﹁太史公自序﹂を指しており、﹃史記﹄ という書物に﹁司馬遷も史記のをくに自伝あるぞ﹂という例が を引いてみると、一番目の例として﹃玉塵抄﹄︵一五六三年︶ ゚=≡= 二= さを知り、自分の生活を見直し、節度を守り節制に心掛ける﹂ 讐8旺。㎝q話℃身の訳語としてである。この﹃改訂増補哲学字 との関連で興味深いが、さかのぼりすぎかもしれない。その次 経験を積んでいるとは思えないのだが、﹁伝記﹂によって﹁生 彙﹄は、一八八一年に井上哲次郎が刊行した英和対訳の﹃哲学 とあるのと連動していることがみてとれる。小学校高学年が、 き方﹂を学ぶ、逆にいえば学ぶに足る生き方をした人こそが 字彙﹄が完売し、ドイツ留学に行ってしまった井上のかわりに の例で出てくるのが、﹃改訂増補哲学字彙﹄︵一八八四年︶の ﹁伝記﹂の主人公にふさわしい、という認識がとりだせる。こ 有賀長雄が実質的に増補したものである︵怨。タイトルが示すよ ﹁自分を見つめ直し、自分の生き方について考える﹂ほど人生 こには﹁自伝﹂は出てこないが、この規定にかなうものであれ うに、哲学関係の翻訳語の統一をはかるために編まれ、体裁と 語としての﹁自伝﹂は一八八四年あたりに記録されたと、とり ﹃哲学字彙﹄には鋤90百。ゆq冨bげ団は立項されていないので、訳 しては単語帳のようなもので、例文などは一切ない。増補前の ば、当然自伝もふくまれることになるだろう。 二 自伝・翻訳・伝記 もちろん、辞書に載っていないことが、その単語の不在を示 あえずはいえる。 ﹁自伝﹂ということばがそもそもいつ頃から、どのように使わ と定着を示すことはいうまでもない︵﹃哲学字彙﹄の場合は専 すわけではないが、辞書に載るということは、それなりの流通 少し話がそれた。先ほどの﹁ストーリー﹂を確かめるために、 れているのかをみてみたい。 門用語という留保が必要だが︶。 まず、これまでの引用からわかるように、一八九〇年の﹃日 本文学史﹄の段階で、﹁自伝﹂ということばがあった。意味も、 ゴールド氏の自伝︵下︶﹂という至愚がある。これにしても、 八八年︶には﹁第十七章 ゴールド氏の自伝︵上︶﹂﹁第十八章 たとえば、文部省教科書である﹃高等小学読本﹄第三︵一八 臭も漂うものであった。 いま現在もちいるのと、ほぼ同様とみてよく、なおかつ翻訳語 そこで﹃日本国語大辞典 第二版﹄︵小学館、二〇〇一年︶ 1 一≡≡一一一=== 52 号 ヨ 第 会 語 社 言 やや翻訳語のニオイがする。 和英の都と英和の部とにわかれている。 者の便宜も想定していて、品詞や若干の用例が付されており、 まずは、冒U国Zを引いてみる。しかし、どの版にも影も形 もう少し用例を探すと、一八九一年には、﹃ダーウヰン氏自 伝﹄︵五島清太郎訳、敬業社︶というものが刊行されている。 もない。一八八四年の﹃改訂増補哲学字彙﹄で﹁自伝﹂が確認 されるからといって、一八八六年の三版に載っていると単純に これはチャールズ・ダーウィンの自伝︵刊行した子息によれば、 考えることはできないわけである。 HO国HU>H囚H一代記 戸工面。ひq茜9質B①Bo貯 ∪国Z囚H 伝記 p国Φooaρ巨ω8蔓.oげ吋。巳巳Φ 部では、 めげずに、旨U国Zに関連する単語を引いてみると、和英の 自身は公開を望まなかったという︶の翻訳である。 一八九六年の﹃ベンヂャミンフランクリン 自著言行録直訳、 ほかに、フランクリンの自伝の翻訳︹跨︶についてみてみると、 講釈﹄︵大島国千代訳、芳流堂︶、一八九七年の﹃弗蘭克林 自 ン自伝講訳﹄︵深沢由一郎講訳、皆具館︶、一九〇〇年の﹃フラ 叙伝注釈﹄︵井上歌郎註釈、後凋閣書店︶、同年の﹃フランクリ ンクリン自叙伝詳解﹄︵菅野徳助、大学館︶、同年の﹃ふらんく となっている。これはともに初版から第三版まで変化がない。 りん 自叙伝直訳註釈﹄︵松尾豊文訳述、芳流堂︶などがあ る︵鍾。フランクリン大流行︵立身出世のバイブルとして読まれ られていない点である。﹁伝記﹂は文字通り﹁伝え記す﹂もの これをみて気がつくのは、﹁伝記﹂に巨。印q冨Oξの訳があて ったことがわかる。﹁自叙﹂や﹁自序﹂はすでに存在していた であって、﹁伝﹂であり﹁記﹂であるものとして、こうした訳 たそうである葱︶だが、﹁自伝﹂よりも﹁自叙伝﹂の方が多か 漢文脈の語彙といえるが、西洋知識人の自伝の翻訳がなされて 関関係にあることは容易に想像できる。 逆に英和の部で引いてみると、それぞれ、おooa︵ω罠霊ωβ︶、 一方、﹁伝記﹂の訳語として登場している英単語を、今度は 伝 自 ぐ め を 語があてられているのは、正確ともいえる。 次にJ.C,ヘボンの﹃和英英和語林集成﹄という辞書で考 ぼωけ。蔓︵話匹ωぼ︶、o畔。巳。δ︵話鉱ω9匹価05︶となっており、 いたこ乏と、﹁自伝﹂や﹁自叙伝﹂︵お︶ということばの普及とが相 えたい︵29︶。これは初版が一八六七年、再版が一八七二年、三号 αΦコ匹という訳語は登場しない。 つ て 1 ≡一一≡= 一一黶= 53 が一八八六年に刊行された、著名なものである︵3。︶。日本語学習 =∴鼈黶=゚= 一= ≡≡一一一一≡ 。貯を英和の部で引いてみる。 次に﹁一代記﹂の訳語として登場しているσδ讐8身−日①孚 用されているとされており蓼、初版、再版と比較することで明 第三版には明治期にあらたに発生したいわゆる新漢語が多く採 治期の語彙の変遷をたどることがよくなされている。 広い意味に翻訳されるような﹁伝記﹂という語彙が一方で存在 その伝でいけば、英語で誘oo同αρぼω8﹁ざ。ξo巳⊆①という 初版 Hoぼα鉱耳駿ooす。 ω ﹃ o していた︵鐘ものの、σδ⑰q轟O冨の訳語として﹁ぼ88αΦ甲匹﹂ しuHOO園﹀勺霞団 再版 H∩三恥三江甑8poα①亭匹 召Φ爵ごが登場してくることから、﹁伝記﹂という広い意味範 Oくoo山099期目。巨−α巴−匹 位を占めることになる。 でに﹁一代記﹂などがあったわけだが、のちのち﹁伝記﹂が優 ることもできる。ただ、﹁人の伝記﹂を意味する語彙としてす 囲のなかから﹁人の伝記﹂に特化する意味も発生してきたとみ 三版Ho畔α巴−江αΦ口江Φ q Φ 爵 o o ﹁ o 屏 戸 別 ① 江 初版に同じ ]≦国ζOHカ 再版 もう少し辞書いじりをすると、和英の部で一昌○ということ 初版 Ho匿α9D貯トひqΦ自評oo容評=魑鴫別話mq迂曲 ばが、第三版になって登場する。それは﹁自序霞自叙コ.﹀痺9 評O自O屏Eとある。甘げOαq①爵OO﹁O巨とは、おそらく﹁自著言 三版 仙Φ旨匹k園Φ臨 ぴδゆq茜O身﹂という形である。そこで、英和の部で帥葺。σδΦqδ− 一代記、行状書、言行録、由来書︵以上は和文脈の単語であ 行録﹂ということだろうから、これまた造語くさい。先にふれ ︵oOは原文では。の上にバー。以下同︶ ろう︶、履歴、伝記、などということばがあてられている︵選。 た﹃哲学字彙﹄でも一八八四年の新訂増補版からこの9。昇。σや O身を引くと、こちらも第三版からの登場で﹁冒ρ甘け。ひqΦ亭 先の﹃哲学字彙﹄の場合、一八八四年の﹃改訂増補哲学字彙﹄ 。讐四℃げくが登場してきていることも思い起こしておきたい。 とされる大槻文彦の﹃言海﹄が刊行される。そこには、﹁伝記﹂ さて、ヘボン三版から三年後の↓八八九年、近代辞書の噛矢 になって、bdHOΩ幻﹀℃出撃が立項され、訳語として﹁伝記、言 やや混線してきたが、一般的には、この﹃和英語林集成﹄の 行録﹂があがっている。 ≡==一一一=== 5 4 1 号 ヨ 第 社 会 語 言 の例あるを以て、兼てより福沢先生自伝の著述を希望して親 慶応義塾の社中にては、西洋の学者に往々自から伝記を記す 存在するのは、﹁一代記﹂だけであって、その説明は、﹁人ノ一 しく之を勧めたるものありしかども︹⋮⋮︺︵3 も﹁自叙﹂も﹁言行録﹂も﹁行実録﹂も﹁自伝﹂も存在しない。 代ノ功績ナド記タル書。伝﹂とある。 であったともいえる。 とばではなく、やはりいかほどか西洋的色彩を感じさせる単語 を記す﹂ことが、﹁西洋の学者﹂が往々にしておこなうことと としてとらえられていたことがわかる。そして、﹁自から伝記 とある。﹁自伝﹂ということばが、﹁自から伝記を記す﹂こと こうしてみてくると、﹁自伝﹂ということばは、そう古いこ ヘボンの三版にあった磐8σδ讐浮身の訳語である冒げ9 αq①艮ooNoざ︵自著言行録︶が磐8とびδ鴨毬耳のそれぞれの みられていたことも、なんとなくわかる。この点は先にみたよ こうしたところがら、﹁自伝﹂ということばの新しさが確認 うな、西洋知識人の自伝の翻訳の流行ということが背景になる。 できるとともに、﹁自伝を書く﹂ということが、西洋的なこと 訳語をあわせてつくったかのような造語であるように、窪8σ甲 い︵つまりは語自体が説明的︶といえる︵用例としては、先に ○ゆq目碧ξの現在の訳語として定着している﹁自伝﹂も造語くさ であるという認識が多少なりともあったことも確認できる。 この﹃福翁自伝﹄は、福沢がありふれた年表を片手に月四回、 三 自伝・文体・メディア あげた一八九六年の﹃ペンヂャミンフランクリン 自著言行録 直訳、講釈﹄があげられる︶。﹁言行録﹂は自分で書くものでは なく、だれかに書かせるもの、あるいは没後にだれかがまとめ い。だからこそ、説明として﹁自著﹂が必要となるわけである。 一回四時間程度で口述したもの六十七回分を﹃時事新報﹄に連 るもの、なのであるから、そこには﹁自分で﹂という含意はな ﹁自伝﹂が造語くさいという推測をどの程度補強できるかわか 載したものをまとめたものだそうだが、口述を速記者︵矢野由 んだという。その結果、﹁多くの部分は修正加筆でなく、全く と、福沢は自身で綿密丁寧に訂正加筆し﹂、さらに次の回に進 次郎︵35︶︶に速記させ、それを﹁速記者が翻訳浄書して提出する らないが、 八九九年に刊行された﹃福翁自伝﹄︵前年から ﹃時事新報﹄に連載していたもの︶のはしがき︵刊行者石河幹 明による︶には以下のようにある。 一一鼈鼈一一鼈゚ 黶≡ つ て 伝 ぐ め を 自 1 55 ===≡一≡ ゚一一一=== 一= 新たに書き改め、または書き加えられている﹂そうだ︹36︶。 そもそも口述をしょうというきっかけは、先の石河幹明のは しがきによれば、 ︹⋮⋮︺一昨年︹一八九七年︺の秋譲る外国人の需に応じて 維新前後の実歴談を述べたる折、風と思ひ立ち幼児より老後 に至る経歴の略歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、自 から校正 を 加 へ ︹ ⋮ ⋮ ︺ ︵ 署 た福沢は酒で大損をし、禁酒を誓う。そこで塾の悪友たちは、 じつ ふ だんたばこ わる よ かレ ぐ ろう は彼奴を喫姻者にして遣らうと寄って掛って私を愚弄するの あいつ たばニのみ や 実は私が不断咽草の事を悪くばかり云て居たものだから今度 は分って居るけれども此方は一生懸命禁酒の熱心だから生な わか こっち いっしやうけんめいきんしゅ ねっしん いや けむり む り な 燗を無理に吹かして十日も十五日もそろ一慣らして居る中 に臭い辛いものが自然に臭くも辛くもなく段々風味が善くな くさ から し ぜん くさ から だんだんふうみ よ つて来た凡そ一箇月ばかり経て本当の喫姻客になった。︵93︶ およ たつ ほんたう たばニのみ いわけではない時代、自ら筆をとることなく口述で文章を仕上 ままを記録できるような時代ではなく、速記者とてそう数が多 回顧録を、と考えたわけである。いまのようにだれでもが話す た部分は﹁実は﹂﹁吹かして﹂﹁臭い辛いもの﹂﹁臭くも辛くも や﹂﹁たつ﹂﹁たばこのみ﹂が振られている。あとから手を加え ﹁ふだん﹂﹁わる﹂﹁あいつ﹂﹁たばこのみ﹂﹁や﹂﹁こっち﹂﹁い が手を加えた草稿で引用と同じ箇所をみてみると、ルビは順に といったくだりがある。とくに注釈を加えなくてもすんなりと げていくスタイルは、存外先端的であったのかもしれない。 なく﹂といった程度である︵筆で消してあるので、訂正前にな である。世紀転換期にあって、福田は過去を回想しようとした この﹃福翁自伝﹄が﹁永遠のベストセラー﹂︵認︶となり読みつ にが書かれていたかは不明︶︵鯉。速記段階での完成度の高さを とある。一八九七年といえば、あと数年で世紀が転換する時期 がれることによって、﹁自伝﹂がもっていた、ほのかな翻訳臭 示しているが、それでも手を加えて読みやすくしていく努力が あるから、こなれたものである。速記者が清書し、それに福沢 は消えていったとみることもできる。 なされていることは注意しておきたい。公開を前提として自ら 理解できる文章である。福沢諭吉は文体意識が高かった人物で その文体をみてみよう。 の人生を語る。語ったものとしての自伝が、速記術という技術 のでもあろう。外国人のインタビューに答えるなかで、自身の 大阪修業時代︵適塾︶の一節を引用してみる。大酒呑みだっ ≡一一==≡≡= 5 6 1 号 ヨ 第 会 社 語 言 が記述されて完成するものではないことはいうまでもない。そ かのように仕上げていく。言文一致というのは単に語ったまま を媒介として書かれたものとなり、それをまた校正して語った ﹃折り焚く柴の記﹄の擬古文体でも、構成されたものという点 との連関を説くのであれば、別に﹃配所残筆﹄の候文体でも ある種構成されたものとしての﹁言文一致﹂と﹁内面の発見﹂ てきたし︵娼︶というのだが、そこには﹁自伝﹂という視点はない。 ﹁﹁言文一致﹂という制度の確立に﹁内面の発見﹂をみようとし ではそれぞれ﹁内面の発見﹂があったとは思うのであるが、そ こに新聞への連載、速記術といった近代的制度の媒介があって くもって、言文一致体とは﹁自然﹂なものではない。それは金 れは近代のメディアのあり方とも関連してくるのであろう。メ はじめて成立するものといえるだろう。その意味では、まった 水敏がいうように、 国民国家が開かれ、新しい概念として﹁国語﹂が意識され げられるだろう。これは印刷して私家版としてしか流通しなか 及によって手軽に﹁自分史﹂を語りうるようになったことがあ とができる。それはたとえば、ワードプロセッサの低廉化と普 ディアのあり方と﹁内面﹂の語り方とは相関しているとみるこ てどこの国でも実現されたことのない︶音声言語の統一とい ったのであるが、近年ではインターネットメディアとしてのプ たとき、人々は音声言語の実態を十分知る前に、︵未だかつ う幻想を共有してしまったのではないのか。つまり、言文一 ログの流行が示すように、だれでもが閲覧できる状況となって 立﹄を援用しつつ、﹁言文一致体は、黙読により内面化された、 が柄谷行人﹃近代日本文学の起源﹄や前田愛﹃近代読者の成 という幻想であることを確認するだけなのだが、つづけて金水 きことばが言文一致体として成立してくるのだとすれば、近代 を語るにふさわしいジャンルの誕生と、その自伝を構成するべ 話が飛んだが、そうしてみると、自伝という自らの﹁内面﹂ があるだろう。 致の前提となる﹁言﹂が存在しうる、という幻想である。︵包 擬製の音声言語、想像上の音声言語であった。この言語的性質 の自伝を考えていくうえで文体の問題は重要な位置を占めると いる。そうしたなかでの文体のありようも、みすえていく必要 と、描かれる対象としての﹁内面﹂はよく釣り合っているL︵24︶ いえる、という結論ともつかないことを述べて、とりあえず本 稿を閉じたい。 と述べてもいる。 一方で柄谷行人は、﹃日本近代文学の起源﹄の議論として ≡=≡≡一一≡ ぐ つ て め を 伝 自 5 7 1 ゚=一≡ == ∴鼈黶 ==≡=一== 註 ︵1︶佐伯彰一﹃日本人の自伝﹄、講談社、一九七 密な定義をここではしていないようである。 り﹄が自伝として加えられている。あまり厳 〇〇年︶では、﹃更級日記﹄と﹃とはずがた 佐伯彰一編﹃自伝の名著皿﹄︵新書館、二〇 ︵11︶ ︵2︶同前、二五九頁。 四年、 九 頁 。 ︵3︶﹃日本人の自伝 三〇〇選﹄︵﹃日本人の自伝 二年の﹁新井白石﹂の項目︵大林紀筆︶、九 頁。 桑原武夫﹁解説﹂、ルソー﹃告白 下﹄、岩波 文庫、一九六六年、三〇一頁。 ︵16︶ たとえば、佐伯彰一が﹃日本人の自伝﹄のな 列挙された自伝の数は、ざ っ と 見 積 も っ て も ﹁書目一覧−三〇〇選のための手控え﹂に の記述をほぼ踏襲した部分をふくむ、上野雄 二三九頁。なお、﹁東洋には自伝少し﹂以降 ﹃日本文学史 下巻﹄、金港堂、一八九〇年、 クリン自伝﹄と﹃福翁自伝﹄﹂、﹃新潮﹄八一 であった頃 日米比較精神史上の﹃フラン 川祐弘がおこなっている︵﹁進歩がまだ希望 並べて論じたことを受け、敷術した議論を平 童−は、はじめに結論ありきの論であり、比較 られてこなかったと批判する。ただ、この文 評論のなかで﹃福翁自伝﹄が正当にとりあげ かでフランクリン.自伝と福沢諭吉の自伝とを 二千種類を下らない。そも そ も 、 帯 文 に コ 日 図馬﹃人物と文学﹄︵内田老鶴圃、 一八九四 巻二号、一九八四年二月︶。平川も自伝を文 ︵17︶ 本人の自伝の数は一万点と も 二 万 点 と も い わ 設けられているが、そこに登場する。この章 年︶がある。このなかに﹁自伝﹂という章が 別巻■﹄︶、平凡社、一九八二年に収められた 三上参次・高津鍬三郎合著、落合直文補助 れるしと書かれている。ど こ ま で を 自 伝 の 範 ︵12︶ 囲にするかでこの数は変わ っ て く る が 、 そ の 学として論じようとし、これまでの国文学や し、その赤裸々さを評価している︵二八頁︶。 言﹄を、家督を譲ってから習った文字で書き ︵18︶ たとえば、勝海舟の父、勝小吉は﹃夢酔独 というよりも並列に終わっている感がある。 また、白石の﹃折り焚く柴の記﹄は﹁自家の ︵一 オ六六年頃︶が﹃繊悔録﹄として登場も には、ジャン・ジャック・ルソーの﹃告白﹄ 後のものも含めると、とり あ え ず 、 万 を 下 る ことはないのではなかろうか。 ︵4︶佐伯彰一﹃近代日本の自伝﹄、講談社、一九 面上に向て、直戴なる歴史的の記述を試みた 八一年 、 一 〇 頁 。 ︵5︶同前、二八六頁。 るもの﹂として評価するが、﹁自家の全生涯 記した。これは漢文の知識がないゆえに闊達 る。しかしながら、﹁おれほどの馬鹿な者は な江戸ことばで記された、楽しい読み物であ 世の中にもあんまり有るまいとおもふ。故に ことができる。 岩波文庫、 一九九九年、 =1一二頁。 ﹃夢酔独言他﹄、平凡社東洋文庫、一九六九年、 綴ったものである︵勝小吉著・勝部真長編 反面教師としての自らを、子孫のためだけに い﹂ぜしという冒頭の一文でもわかるように、 新井白石著、松村明校注﹃折たく柴の記﹄、 ︵15︶ ﹃日本人の自伝 三〇〇選﹄、平凡社、 ︻九八 書センター、 一九八二年︶。 二頁︵復刻版、監修・解説平岡敏夫、日本図 ﹃日本文学史 上巻﹄、金港堂、一八九〇年、 ︵14︶ 三上参次・高津鍬三郎合著、落Aロ直文補助 孫やひこのために、はなしてきかせるが、 愈々不法もの、馬鹿者のいましめにするが ︵13︶ 会図書館の近代デジタルライブラリーでみる い︵三〇頁︶。なお﹃人物と文学﹄は国立国 を文学的に記叙するもの﹂とまではしていな ︵6︶佐伯彰一﹃自伝の世紀﹄、講談社、一九八五 ︵7︶佐伯彰一編﹃自伝の名著皿﹄、新書館、二〇 年、三 三 一 一 三 三 二 頁 。 〇〇年 、 = 二 頁 。 ︵8︶保阪正康﹃自伝の人間学﹄、新潮文庫、二〇 ︵9︶佐伯彰一﹃日本人の自伝﹄、講談社、一九七 〇七年、 一一頁。 四年、 一五九頁。 ︵10︶三上参次・高津鍬三郎ムロ著、落合直文補助 ﹃日本文学史 下巻﹄、金港堂、 一八九〇年、 本図書センター、一九八二年︶。 二三八頁︵復刻版、監修・ 解 説 平 岡 敏 夫 、 日 号 =一一一≡=≡一一= 5 8 1 会 3 第 社 語 言 ≡≡==== ﹃金田︸京助と日本語の近代﹄︵平凡社新書、 がなされていたのである。詳細は安田敏朗 る部分があった。記憶の捏造ともいえること る、ともいえる。なお、勝海舟にも、﹃海舟 二〇〇八年︶を参照。 一一頁︶。それだからこそのおもしろさがあ 座談﹄︵はじめは巌本善治編﹃海舟余波﹄、女 ちなみに韓国語では﹁自伝﹂よりも﹁自叙 ︵28︶ あらためていうまでもないことだが、この辞 伝﹂の方が一般的のようである。 書第三版での日本語のローマ字表記法がのち ︵29︶ ︵たとえば日本国の発行するパスポートの人 に﹁ヘボン式﹂とされ、現在でも特定の分野 学雑誌社、一八九九年。のち改題して一九三 三上参次・高津鍬三郎合著、落合直文補助 ︵22︶ ﹃日本文学史 下巻﹄、金港堂、 一八九〇年、 〇年に岩波文庫収録。現在は勝部真長の校注、 二三九頁。 名表記︶では規範となっている。 きる︶があり、江戸っ子の語り口をみること 解説の新訂版︹一九八三年︺で読むことがで ﹃ヘボン著 和英語林集成 初版・再版・ なお、テキストは、飛田良文・李漢昼編集 ︵30︶ 三版対照総索引﹄、全三巻、港の人、二〇〇 文部科学省﹃小学校学習指導要領解説 国語 編﹄、東洋館出版社、二〇〇八年八月、九一 〇1二〇〇一年を用いた。 ︵23︶ 頁。 ができる。ただしこれは聞き書きであって速 記ではなく、編者巌本が話を聞いてメモもと 飛田良文・琴屋清香共著﹃改訂増補哲学字彙 ︵24︶ の立項はなく、讐090ω同。にはぴδ帥⊇富Oぴざ なお、和英の部にはmqΦ鼻。霞。評戸旨﹁巴帥q匿 ︵31︶ らずに記憶し、それを家で書いたものであり、 勝海舟の語り口は、巌本の﹁頭のフィルター 訳語総索引﹄︵港の入、二〇〇五年頃の﹁解 ヨ①日。貯が訳として付され︵感冒︶、旨Φ匹は をくぐったところの海舟のことばがそこに並 これによった。 説﹂による。﹃改訂増補哲学字彙﹄の本文も 第三版から登場し、oの誘。コ巴眩。ワ8嬬が訳と 七〇年−七一年頃のなかで中村は、﹁小説﹂ ︵33︶ 中村正直の翻訳になる﹃西国立志編﹄︵一八 集成﹄、講談社学術文庫、.一九八○年。 ︵32︶ 松村明﹁解説﹂、J・C・ヘボン﹃和英語林 して付されている。 フランクリンの評伝そのものは、幕末明治初 期から紹介されている。くわしくは、今井輝 ︵25︶ べられている﹂ものだという︵勝部真長﹁解 説﹂、﹃海舟座談﹄、岩波文庫、一九八三年、 三四六頁︶。 子﹁日本におけるフランクリンの受容明 佐伯彰一﹃日本人の自伝﹄︵講談社、一九七 治時代﹂︵﹃津田塾大学紀要﹄一四巻二号、一 ︵19︶ 四年︶のなかの﹁大ディレッタントの自我構 ﹁進歩がまだ希望であった頃 日米比較精 九八二年︶や、今井論文を紹介した平川祐弘 造﹂の章を参照。 ﹃日本人の自伝 三〇〇選﹄、平凡社、一九八 この立志編をフィクションではない﹁歴史﹂ に対応させて﹁言行録﹂﹁伝記実録﹂を配し、 二年の﹁松平定信﹂の項目︵大林八達︶、一 ︵20︶ 神史上の﹃フランクリン自伝﹄と﹃福二自 として位置づけ、翻訳文の漢字カナ交じり文 五七頁。 を参照。 伝﹄﹂︵﹃新潮﹄八一巻二号、 一九八四年二月︶ しようとしていたようである。詳しくは谷川 体でも、従来の﹁歴史﹂を担えることを証明 がた 明治期における言説の再編成﹄、平 恵一﹁小説と伝記﹂︵﹃歴史の文体 小説のす 凡社、二〇〇八年︶を参照。 では時事新報社が一八九九年六月に刊行した ︵34︶ ﹃福翁自伝﹄のテキストは種々あるが、ここ ﹁フランクリン自伝﹂︵渡辺利雄筆︶、佐伯彰 ︵27︶ 三六頁。 一編⋮﹃自伝の名著皿﹄、新曇日館、二〇〇〇年、 ろん、このほかにもあるだろう。 ︵ナダ書房、一九八八年︶を参照した。もち 集 目録︵H︶1明治五年∼明治三八年﹄ ︵26︶ ﹃国立国会図書館所蔵 明治期翻訳文学書全 もちろん、公開を前提としないから、そこに ︵21︶ 赤裸々な真実が書かれているなどということ をいいたいわけではない。しかしながら、公 開が前提とされていたら、多少なりとも自ら に都合よく記述していこうと思ってしまうの もまた人情である。金田一京助の自伝などを 材料に論じたときに、思い違いなのか、そう 実と異なることを当然のこととして書いてい 確信したうえでのことなのか、想定される事 つ て 伝 ぐ め を 自 5 9 1 ≡一一 ゚≡ ゚= ≡====== 初版の復刻版︵東出版社、 一 九 八 ○ 年 ︶ を 参 ﹃明治史研究雑纂﹄、慶慮通信株式会社、一九 冨田正文.﹁後記﹂、﹃福沢諭吉選集 第十巻﹄、 ︵36︶ 〇年三月︺︶を参照。 九四年所収︹初出は﹃日本の速記﹄、一九四 〇年︶は速記術習得後、一八八一年の第二帝 岩波書店、一九八]年、三六八、三六九頁。 この速記者矢野由次郎︵一八六二年−一九三 考にした。はしがき、一頁。 国議会から衆議院速記課ではたらき、 一八九 八年に福沢家で発見され、現在は複製版を なお、この清書原稿に加筆したものが一九四 ︵35︶ 五年からは福沢の時事新報に入社する。その 年、二五頁︵土屋俊一筆︶。 一買。 ﹃福翁自伝﹄、時事新報社、一八九九年、一二 ︵39︶ 九八○年︶の﹁壱﹂にある。 該当個所は、﹃草稿 福翁自伝﹄︵東出版、一 ︵40︶ ︵41︶ 金水敏﹁言と文の日本語史﹂、﹃文学﹄隔月刊、 ︵42︶ 同前、 ︸○頁。 八巻六号、二〇〇七年十一月、 一〇頁。 ﹃草稿 福翁自伝﹄︵東出版、一九八○年︶と 八八年、七六頁︶。 一九八○年︵引用は、講談社文芸文庫、一九 柄谷行人﹃日本近代文学の起源﹄、講談社、 ︵43︶ ︵38︶ ﹃草稿 福翁自伝 解題﹄、東出版、一九八○ がき、二頁。 ︵37︶ ﹃福翁自伝﹄、時事新報社、一八九九年、はし して手に取ることができる。 縁で福沢の速記もおこなった。なおちなみに、 一八九九年に東京大阪間の長距離電話が可能 になったときに電話速記をおこなって大阪の 相場を電話で書き留めたのも矢野だというこ とである。詳しくは手塚豊﹁﹁福翁自伝﹂の 速記者の生涯−矢野由次郎 小 伝 L ︵ 手 塚 曲 豆 ゚===== == 6 0 1 号 3 第 会 社 語 言