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葬りについての感想 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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葬りについての感想 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
葬りについての感想
新約単篇
使徒言行録の福音
葬りについての感想
使徒言行録 8:2(1b~3)
新約聖書の中で、クリスチャンの葬りについての教えとか、初代の信徒た
ちの葬りの習慣などについて、ヒントはないものか索引を当たってみました。
ギリシャ語にという動詞があります。「葬る、埋葬する」意味です。
しかしコリント書に出てくるのは、キリストが死んで「葬られた」こと……
という所なんです。と書いてあります。の過去受動形がなぜ
になるのかは、山本君や荻堂さんが今、習ったばかりの所です。それ
にすぐ後には、三日目に「復活して生きている」と書いてありま
す。今夜は語学の講義ではないので、これ以上は申しませんが、第一コリン
ト書の 15 章の初めの所には、なじみの深い単語が二三出てくることだけ申し
ておきます。
使徒行伝の五旬節の説教の中では、シモン・ペトロは「ダビデ王は死んで
葬られた」と言っていますが、その時点から千年もさかのぼる時代の、イス
ラエルの王様の話です。イエスの創作と思われる「金持ちとラザロ」の譬話
の中で「その金持ちが死んで葬られた」という一節がありますし、また、「死
んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい」という有名なお言葉もあ
りますけれど、葬りについてあまりヒントにはなりません。
実在の人物の埋葬では、ヘロデに処刑された浸しのヨハネの遺体を、ヨハ
ネの弟子たちが引き取って「葬った」という記録と、聖霊を侮辱して即死し
たというアナニアとサフィラが、運び出されて葬られたという、あまり嬉し
くない記事があります。
でも、もう一つあったように思われて、索引のの項には見当たら
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葬りについての感想
ないのですけれど、探して出て来たのが殉教者ステファノです。「信仰ふか
い人々がステファノを葬った。そして自分の胸を打ちたたいて悲嘆を表し
た。」使徒行伝 8 章の 2 節です。この「葬った」という所が、実は
とは書いてなくて、ステファノを「取り入れた」か、「収集した」に近い
という表現が使ってあって、これは大型ゴミでも収集する感
じにドライな表現なのです。もちろん、そうは言いましても、ユダヤの習慣
でも故人の遺体に対する尊重のセンスはありましたから、当然、敬意を払っ
て「取り入れた」筈です。でも、拝礼したり、神聖物視はしなかったと思い
ます。この「収集する、取り入れる」という感覚は、生ける神以
外のものには宗教的畏敬の念を払わない、という、聖書の民族のものだと思
います。
実は、先週のマーチン・クラーク先輩の葬儀では、水曜日の夜の賛美の会
は、元々私じゃなく、中野兄弟が司会するようにという御遺族の指名でして、
私は服部の納骨堂で杉山兄弟がなさった式の一番最後の所だけ、ポール・ク
ラーク兄弟の助手をせよという御指定でした。それで、泥縄ですけれど、ア
メリカの牧師手帳みたいな式文集―“Christian Minister's Manual”をお
さらいしていたのです。“Our hearts still cling to this body …….”
「私たちのハートはなお、兄弟のお体から切り離しがたくあります。ほん
のしばらく前まで敬愛する兄弟の霊が、この中に住んでこの体に生気を満た
していたからです。しかしここに我々が葬ろうとしているものは、愛する兄
弟が地上で纏っておられた衣服であり、彼が静かに脱ぎ捨てて行った形見に
過ぎません。この古い衣にまつわる懐かしい思い出の故に、私たちは十分に
敬意をこめて今これを元の要素に返し、『土から取られたものゆえ土に返ら
しめよ』と言われた所に戻し、兄弟が仰いだ方の御手にお委ねするのです。」
読んでいて感じたことは、遺体を「古い衣服」のように取り入れて始末し
た聖書の信仰の人にも、愛する人の命と結びついた入れ物への愛着と敬意は
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葬りについての感想
あるのだ、ということでした。
私はクラークさんが召される二日前の主の日に、「今から後、主に結ばれ
て死ぬ人は幸いである」という、黙示録の言葉を講じていました。もちろん、
たまたま順番から言ってその章に当たっていたからなんですけれど。「然り、
彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る」という所です。その黙示録の説教を
しながら私は、「世間なら、今日この聖句を講じるのは、不謹慎に見えるだ
ろうな……」と考えていました。もちろん、奇跡が起こって元気になって欲
しい、という祈りも真実でしたし、同時に「労苦を解いてお召しになる」こ
とも有り得る……そんな気持ちで祈っていたのです。「クラークさんの命を
お救い下さらない筈はない」とか、「聞き届けて下さるまでは祈り続けます」
というような祈りではなかったことは事実です。自分のお願いを正直に申し
上げながら、主の御意志に自分を合わせよう……と努めていました。
家内と時々話すことですが、「自分が死ぬ」ということが、そんなに不自
然とも怖いとも、お互いあまり思えなくなったのですね。順番から言っても、
もう次に名を呼ばれても、少しもおかしくはないのです。眼科の待合い室で
「もう順番だのに、どうして読んでくれないのだろう」と、落ち着かない感
じ……という程ではないにしてもです、杉山兄弟などは余程「突然死」か「過
労死」でもない限り、死はリアルに見えない。少なくとも外からはそう見え
ます。ですから、安心して「僕の葬儀は君に頼むよ」と言っておけます。こ
の人ならまあ、僕の考え方も分かって、言わなくても僕の考えるような葬式
をしてくれそうだ! 見込まれた人も災難ですね。二つ続いた後すぐ三つ目で
は、体が続かないです。ですからまあ、つい、こういったんです。(そんな
保証、ほんとは人間にはできないこと、分かってるんですけれど……。)
「まあ、次の僕の葬式まで、ちょっと位時間はあると思うから少し体を休
めてね。」すると聞いておられたある婦人が、ちょっと顔をしかめて、「ま
あ、そんなことを!」と咎めるようにおっしゃいました。しまった、と思い
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まして……。普通はこんな発言は趣味の良くない、人を困らせて不愉快にす
る、悪いジョークになるのだとおもいます。
でも、月曜日のお昼は、ポールさんがお父さんの額のオシボリを変えてお
られるのを拝見して、すでにお顔も大分変わって、お苦しそうなマーチン兄
弟の痛みを同情しながら、感じていたのです。「死ぬ時は、僕の顔も似たよ
うな姿になるのだろうな……」と。顔を輝かせて、神々しい光りを放って死
ぬという話もありますが、そんなのが神の栄光になるのではない、のでしょ
うね。大事なのは「どう生きたか」であって、「死ぬ時どんなだったか」で
はないと言った人もいますが、本当だろうと思います。
そういう意味で、クラークさんの最後の数週間が、天使か聖人のように輝
かしいものではなく、トランキライザーが必要なくらい、平凡な老人みたい
にイライラなさったり、十分我がままな面も見せてくださって……これは私
にはとても励ましになったし、日ごろの私の信念を裏書きもして下さったこ
とは否めません。それで先輩への敬愛が薄らぐどころか、かえって深く大き
くなりました。安心して私も、偽りのない、正味の死に方ができそうです。
こんな話、あまり説教らしくないですか……?
人の死ぬのを見せて頂くのは、やはり自分も間もなく死ぬのだという厳粛
な事実を直視する助けになります。それだけに、今こうして生かされている
ことの中に、新鮮な驚きを感じることもできます。終点があるということ。
主の前に立つ瞬間のために今があるということ。これは先輩が自然に順番に
死ぬのを見てもそうですし、若い人が先に突然死するとか、悲惨な事故を見
るときも同様です。私はルカ伝の「シロアムの塔」の事故や、「ピラトのガ
リラヤ人虐殺」を取り上げておっしゃったお言葉を思い出します。「あなた
も戻って来なければ死ぬのだぞ。同じなんだ」と。
福音書のクラスで引用した John Donne(1572~1631)の詩ですが、「誰
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がために鐘はなるや」という大久保康雄さんの訳は、ダンもヘミングウェー
も知らない人の口にも親しまれました。「ゆえに問うなかれ、誰がために鐘
は鳴るやと。そは汝がために鳴るなれば。」“Ask not for whom the bell
tolls.”……「鐘」と言うのはお葬式の鐘です。“toll”は元々弔鐘や晩鐘が
響くことですが、転じて人の死を知らせる意味に使われます。それはお前の
葬儀を知らせているんだ、それに気付け! というあの詩の響きは、主がルカ
13 章でおっしゃったのと同趣旨だと思います。罪を持ったまま神の前に立つ
前に、十字架の主を仰いで信仰で生きる者になれ。信仰で死ねるように、鐘
が聞こえる間に準備せよ。そういう意味で私たちは、クラークさんの死を見た
ショックを神に感謝せねばなりませんし、これを生かさねば勿体ないのです。
「儀式は簡単なるを以て善しとす。結婚式しかり、葬式またしかり」とい
う言葉を、私は内村鑑三氏の著作の中に見たと思ったのですが、昨日、教文
館の索引に見付かりませんでした。宗教は死にはじめると、儀式をものもの
しく壮大にし始めます。家内の父の葬儀はもちろん仏式でしたが、父の理髪
の弟子や父に世話になった人たちが多数参列して盛大なものでした。故人の
徳の現れであんな葬儀をしてもらえて幸福だったと、親類中で喜んでいまし
たけれど、半分は遺族が面目を施したという虚栄がそれを言わせていること
も本当です。クリスチャンの葬儀にも、似たような欺瞞は入り込みますから、
心ある人はそういうものにシラケている必要があります。それと同時に、ど
んな簡潔な聖書的信仰的な葬儀も、よく見れば滑稽な面を持っていることも
見抜いていなければなりません。最も尊敬する先輩が東京で司式した葬儀に
も私はそれを感じましたし、私がやる時も、私が葬られる時もそういう点を
見る余裕を、皆さんの方で持っていて欲しいと思います。
こんどの葬儀で、御子息のポール氏は、死者を拝礼することを避けたい、
クリスチャンの信仰の証しをしたいとおっしゃって、幾つかの実験をなさい
ました。高貴で立派なところ、滑稽なところ全部含めて、私はその勇気を尊
敬しています。それで私も私なりに自分の高貴と滑稽の実験を恐れずに残し
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たいと思っています。その時は是非またそれを見て、感動しながら笑って欲
しいのです。むしろ、笑いながらでも何か学んで頂ければ……と願っています。
ポール兄弟のなさった一つの努力は、マーチン兄弟の遺体を人目にさらさ
ず、むしろ人の目から隠して、淀川キリスト教病院の冷凍庫に保存してもら
ったことです。ご存じのように、水曜日には殆ど儀式抜きでその冷凍庫から
安置室へ、そこから直行で火葬場へ、飾りのない寝台車で運ばれて、90 キロ
の巨体は一握りの灰になりました。ここで大橋さんの言葉など引用すると、
田中さんの方からまた織田家の視聴率を推し量られそうですが、一昨日石坂、
大橋両氏によると、日本の棺の値段は 10 万から 23 万、警察が身元不明の遺
体に使うものが 5 万くらいだそうです。日本人の救いのために天の歴史の一
頁を飾るような大人物を、警察の扱いに近い粗末な容器に入れて、最も目立
たない車両で運んだポール氏の勇気と信仰……恐らく彼は批判を恐れないで
しよう。私は賛成ですし、自分の時には見習いたいものと思います。もちろ
ん自分では交渉できませんから、頼んでおかねばなりませんけれど。
遺体に対する敬意というのは、先程引用した DeForest Murch の式文じゃ
ありませんが、民族それぞれが美点と欠点も含めてみんな持っているもので
す。冷凍室に鍵をかけて一晩というのも、日本人の一部では「何と冷たい!」
と感じる人が多いでしょう。(まあ、あそこは「冷たい」所ですけれど…… )
でも、一晩でも家に置いて家族がついていて上げねば「寂しかろうに……」
という日本的心情も、そんなに感激的でしょうかね。そこにもういない人を
無理にその崩れて行く肉の袋に眺めて恋々とする幼稚な宗教観! と軽蔑す
る人もいましょう。むしろキッパリと鍵をかけて区切りを付ける方が「潔い」
と評した人もいましたが、あなたはどうですか?
ところで、最後まで「土葬にしたい」と主張なさって、杉山兄弟を交渉に
奔走させるほど無理を言われたのは、やはり古いアメリカ人に属するエヴリ
ンさんやポールさんのナイーヴな、生々しい民族色を、それも至近距離から
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葬りについての感想
見る思いでした。みんな悲しいまでに優しく人間的なのです。遺体のそばで
一晩明かす人と同じようにです。人によっては、「そんなん、せっかく『証
しする』言うてはるのに、減点で帳消しやんかァ」と嘆く向きもありますけ
れど、お互いの勉強の参考になるショック教材と思えば、ほほえましいじゃ
ないですか。「葬いの鐘はあなたのために鳴っている」と言った Donne の詩
は、そういう応用面でも余韻を響かせているのです。
2 年前の広島全日空ホテルでの大会、ペルガモンの分級で柴田年世氏から
間接的に伺った飯島正久先輩のお言葉に、「日頃から家族に自分の葬儀につ
いては意志を伝えて、できれば、その時のための簡単な指示を書き残してお
くように」とあったのを、思いだします。私自身は 18 年前の作品「私の葬式」
の続編をできればもうちょっと書き足したいのと、プログラムの付記程度の
短い文で、会葬者への感謝の言葉に加えて「このような形の葬儀をさせて頂
く趣旨と理由」のようなものを、押し付けがましい形でではなく、ごく簡潔
な形で残せれば……とフロッピーディスクの中で模索している所です。
しかし、家族に言い残すと言いましても、それもかなわぬ場合もあります
ね。例えば生駒の A さん、あれだけ御子息たちや御親族に意志を伝えなさっ
て、それに私自身も御長男に書面を差し上げてお目にかかる努力もしました
けれど、後に残る方たちの社会的な立場に縛られて、A さん御自身が家の墓
地に入るためにはキリスト信仰による葬儀を諦めなさった方もあります。も
ちろん自家の墓地を捨ててキリスト者の共同墓地を選ぶ Q さんが、将来は出
てきても良いのですが……。
B さんは一応「私が死んだら、まず織田さんに連絡して教会で葬式をして
もらうようにしてよ」と伝えて、子供さんたちも「そうする、そうする」と
おっしゃってはいますが、御子息たちの社会的立場や諸般の状況から見て、
返事は気休めだけで、本当はお母様の意志を実現して差し上げる意図など毛
頭無いことが私どもにも分かるケースもあります。後に残られる未信者の親
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葬りについての感想
族の言葉の約束は、悲しいがやはり、「国旗掲揚」のようなものでも仕方が
ないのでしょう……「スルスル、スルスル」です。A さんと B さん、どちら
が恵まれているのかは分かりません。もちろん、どんな葬式をされてしまう
かで、魂が汚される訳でも、救いを失う訳でもありませんし、それとは別に
私共がここで姉妹たちの信仰を尊重して、記念礼拝を持つこともできます。
しかし、幸いにして伝えておく相手がいる場合、特に自分の信仰を分かっ
てくれて、死と葬りについても一緒に真剣に考えてくれる人がいる場合は、
どんなに幸いなことでしょう。妻が、夫が同信の姉妹で兄弟であれば、その
準備と努力をしておかないのは主の前に怠慢になりましょう。
《 結びの言葉 》
ヘブライ書の 11 章には、「信仰で生きた」人たちのリストがあります。そ
の中の一節に(11:13)「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」とい
う言葉があります。古い King James 訳で“These all died in faith”です。
原文のの直訳です。強いて言えば、
ギリシャ語の原文は、「信仰で」が文頭にあって強調されているだけです。
「信仰で……彼らは死んだ、みんなそうだった」という感じの文章です。そ
して「信仰で死んだ」というのは、死の瞬間まで主を信じる信仰で「生きた」
ということですね。ですから、Foster さんがかかわっておられる New
International Version ではここのところ“Allthese people were still living
by faith when they died.”と訳してあります。その死の時点で、どんな生き
方をしていたかというと、彼らは正に「信仰で」生きておったと。
先程、「大事なのは『どう生きたか』である」という言葉を引用しました。
私たちも「信仰で」生きたと言われる生涯を、まず残したいのです。それが
できれば、それにふさわしい葬りも当然オマケでついて来るでしょう。
(1989/06/11)
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葬りについての感想
《参考》
1.1989 年 6 月 6 日午前 6 時 33 分―マーチン・クラーク氏死去。
2.同日夜―「マーチン・クラークさんが仰いだ主を称える会」司会・織田
昭
3.6 月 8 日午前 11 時―服部霊園キリスト者納骨堂前で「納骨式」司会・杉山世民氏
4.6 月 9 日午後 6 時―「故マーチン・B・クラーク氏を偲ぶ会」司会・西藤憲彦氏
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