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三木計男さん - 徳島県立総合大学校「まなびーあ徳島」
-1結 城 良 悟 阿波公方とれうこに関する二つの考察 三木 計男 はじめに シ ル バ ー 学 校 平 成 18 年 、( 大 )大 学 院 の 卒 業 論 文 で 、 『 デ ィオゴ結城了雪の身元』について発表した。 その調査過程を要約すると、県立文書館 所 蔵 の 近 藤 家 文 書 ( コ ン 2 ー 131 ) *1 の 中 で 、 「不 慶 ば て れ ん 伴 天 連 あ る い は 伴 天 連 れ う こ 」と 呼 ば れ て い る 三代阿波公方足利 殉 教 者( 義 種 の 妻 祐 賀 の 兄) が 、 イ エ ズ ス 会 の 記 録 に 残 る 「ディオゴ結城神父」であると思われたので、長 れうことディオゴ 崎 の 故 結 城 了 悟 氏 に 、( の ほ ぼ 合 致 し た) 経 歴 対 比 表 拙著『ディオゴ結城了雪と P258 参 照 ( 阿 波 公 方 』 *2 )を 添 え て ご 判 断 を 仰 い だ こ と か ら協同研究が始まった。その中で、同じ信徒名 ス ペ イ ン を 欧 文 と 和 文 で 記 し た 切 支 丹 時 代 の 名 簿( ト レ ド 管 区 文 書 館 所 蔵 、 前 拙 著 P250参 照 ) が 見 つ か り 、 霊 名 「 Diogo 」 は す べ て 「 レ ウコ」と書かれていることが解った。さらに足利 『 足 利 家 文 書 2 ー Ⅱ ー 12 系 図 』 * 3 初出徳島新 p252 参 照 家 系 図( 聞 、 京 都 在 住 足 利 典 子 氏 所 蔵 、 前 拙 著 )か ら 、 不 慶 (れ う こ )の 姓 が 結 城 氏 で あ る こ と が 判 明 、 さ ら に 加 当 時 、 東 神 田 え て 、 デ ィ オ ゴ 結 城 筆 の 『 論 語 抄 』 が 現 存( 京 一誠堂書店所蔵、同書肆より写真5葉を い る ま ん )し て い て 、 そ れ に 「 伊 留 満 譲 り 受 け 筆 者 が 所 蔵 、 前 拙 著 P298 参 照 -2り よ う ご 結 城 良 悟 、 Yuqi Diogo 」 と 自 署 さ れ て い る こ と か リ ョ ウ ゴ ら 、 近 藤 家 文 書 の 「れ う こ 伴 天 連 」は 、 「デ ィ オ ゴ 結 城 神 父 」に 紛 れ な い こ と が 確 か め ら れ た 。 本稿ではその後検討した 2 点につき述べる。 1 『 足 利 家 文 書 2 ー Ⅱ ー 12 系 図 』 *3 の評価 れ う ご に 標 記 系 図 は 、 祐 賀( と っ て も) が 結 城 姓 で あ る こ と を示す貴重な史料ではあったものの不審な点も 多い。以下これにつき検討する。 高 山 右 近 ら と と も に マ ニ ラ へ 追 放 さ れ た リ ョ ウ ゴ れ う こ は 、 追 放 翌 年 の 元 和 2 ( 1616 ) 年 密 か に 帰 祐 賀 の 夫 、 国 、 平 島 の 兄 兵 庫( 義 種 の 家 来) の 所 で 1 ヶ 月 ほ ど 逗 留、祐賀の兄兵庫、祐賀、祐賀の娘飛め、祐賀 祐 賀 の 夫 、 同 の 甥 勘 兵 衛( 義 種 の 家 来) 、 同 宗 徳( 前) 、 勘 兵 衛 の 姉 婿 同 岡 藤 左 衛 門( 前) に 洗 礼 を 授 け た 。 の ち 、 元 和 4 年蜂須賀蓬庵の宗門改めをうけ、祐賀・娘飛め ら女性は改宗を誓い、誓紙を差し出して平島在 住 を許 され た が、 男性は すべて 阿淡両国を国 国 払 い と な っ た 男 性 に つ き 随 っ た 女 性 近 藤 家 書 払 い と な っ た( が い た か も 知 れ な い が つ ま び ら か で な い) ( 文 )*1。 一 部 荒 井 家 次 の 図 の 上 部 に は 、 近 藤 家 文 書( 文 書 で 補 完) な ど -3正 保 3 か ら わ か る 、 国 払 い と な っ た 男 性 の そ の 後 ( 年 時 点) の消息を、系図に付記する形で纏め記した。 なお古文書の中で、改名している旨、記され ている者は、()中に改名後の名を付記した。 図 の 下部には 又は 姉 水無瀬滋興室(祐賀養母) 祐賀兄 名前不詳・宗徳親 又は 姉 名前不詳・勘兵衛親 祐賀兄 祐賀の兄・義種の家来 『近藤家文書』*1 より 宗徳 善太夫 ○上図として 『近藤家文書』で、祐賀 ととともにキリシタンと なり阿波淡路両国から国 払いになったとされてい る、祐賀の甥・姪婿など をすべて記載した。なお 姪の子も、文中に名の出 てくる者は記載した。 ○甥・姪には、その父母を 補足して記した。 ○キリシタンとしてあがっ ている名前はゴシックで 記した。 九(右衛門) ) 与一兵衛 高槻永井日向守領留田村 摂(津島上郡富田村 で )病死 勘兵衛姉婿 岡藤左衛門 石(坂彦之進 石坂彦之進、同名善太夫・同 与一兵衛は、行衛知れず 勘兵衛姉 祐賀甥 勘兵衛 年表秘録』による ) 周暠 鹿苑寺 童名 十 郎 結城 刑 部 太夫 薙髮後號足利寿斎 秀義 朝鮮征伐時戦死 星坂左京進 入江左兵衛尉精宗妻 女 入江左兵衛尉精宗 童名足利源太郎 後結城市丞 依仕テ加藤肥後守 光義 水無瀬中納言兼成室 女 女 星坂左京進母 光(義の養子となる ) 富永左助 実秀義男 有故後號藤木九郎兵衛尉 是資 兼資 富永兵庫助 法名如庵 号冨永源右衛門尉 秀景 童名富永源太郎 資基 是(資の養子となる ) 童名冨永権七郎 依仕 新庄隠岐守 是精 号 豊島彦左衛門尉 依仕後改姓於入江 実入 江左 兵衛 尉男 記 ( 述 なし) 義 男 」 と あ り 、 結城喜太郎 是 資 は 「 実 秀 朝能 原 系 図 で は 、 後為僧 住八幡山 示し た。その際 足利義種室 分 を す べ て 図 女 に 書 か れ た 部 但水無瀬兼成養子 と り わ け て 詳 細 山国勘兵衛、寛永十七年阿波国寺町にて殉教(『阿淡 の 世 代 以 下 の 近(藤家文書に記述なし) 配 置 し 、 祐 賀 勘(兵衛らが受洗時、幼少のため受洗せず、その後、 仏門に入った人物ゆえ、切支丹とは関係なく、 『近 藤家文書』に登場しなかったものと推定される。 ) 秀 義 を 右 端 に 兵庫 足利義種室 の う ち 、 周 暠 ・ 不慶 祐賀 ー Ⅱ ー 12 系 図 』 伴天連れうこ 『足利家文書 2 祐賀伯母 近藤家文書の記述と足利家系図の対比 『足利2ーⅡー12』*3 より ○下図として 『足利家文書2ーⅡー12』 系図の祐賀の世代以下を、 血系に従った表現に書き改 めて全部記した。 ○上図ゴシックに対応する人 物の記事はゴシックとした。 是精は「実入江左兵衛尉男」とあるので、この 二人は血系に従った配置に直して記した。 -4- 上下の図を比較すると、ディオゴ結城了雪か ら洗礼を受け「追放されたキリシタン類族図」の 意 味 を 持 つ 上 図 と 、 『 足 利 家 文 書 2 ー Ⅱ ー 12 系 図』を血系に従い書き直した下図の形が見事に 対応し整合していることがわかる。 こ の こ と か ら 『 足 利 家 文 書 2 ー Ⅱ ー 12 系 図 』 は、藩にキリシタンであったことが把握されてい る関係者を網羅して、祐賀・れうことの関係と追 放後の消息を、曲がりなりにも説明できるよう配 慮しつつ、自家の心覚えとして作成されたもの 前頁の図では省略したが原系図では、平島家当主が義次・義景と書 と い え よ う( か れ て い る 。 藩 へ の 提 出 文 書 で は 、 又 八 郎 ・ 又 次 郎 の 名 が 使 わ れ る) 。 いし ひ こ の ほし そ の た め か 上 図 「石 坂 彦 之 進 」、 下 図 「 星 坂 さ き ょ う いし く ら の 左 京 進 」と い う 名 の 間 に は 、 「大 石 内 蔵 助 」を 「大 ほし ゆ ら の 星由良之助」とした戯作者ぶりさえ窺われる。 また元来この系図の構成は血系を系線で結 家 の 後 者 ん だ 系 図 で な く 、 家 督 相 続 者( 継 )を 系 線 で 結 養子縁組などで家の後継者となったと説明する系図 ん だ 系 図 で あ る( は 、 血 系 を 示 す 系 図 よ り 、 恣 意 性 を 紛 れ 込 め 易 か ろ う) 。 これらからこの系図には恣意的な作為が感じ れ う こ に ら れ る 。 祐 賀( と っ て も) を 周 暠 の 流 れ と す る 点 や 、 近 藤 家 文 水 無 瀬 兼 成 の 妻( 書 で は 伯 母) を 祐 賀 の 姉 と す る 点 に -5- も、作為が及んでいるもののように思われる。 2 「れうこ」が捕縛された場所について リ ョ ウ ゴ 前論文では近藤家文書を根拠に、れうこが捕 ら わ れ た の は 「大 坂 の 山 中 」と の 西 洋 の 記 録 は 誤 り で 、 「阿 波 讃 岐 の 国 境 」が 正 し い と し て い た 。 ところがその後『阿波志』 安芸飛騨 *4 板 野 郡 、 氏 族 の 項 ( )に 姓橘宗長の族、土佐安芸郡の人、 (中略)昔賊不慶なる者あり讃岐引田浦に 泊す高松侯之を誅す。時に流言あり(後略) と の 記 述 が 見 つ か り 、 舟 で 脱 出 し た 「 れ う こ 」 が、引田に上陸し捕らわれたことがわかった。 このことから「阿波讃岐の国境の大坂山」で捕 らわれたのが、「大坂の山中」でと誤り伝えられ たのであろう、との説が有力となってきている。 おわりに 紙数の関係で、その後の検討結果のうち、 2 点に絞り触れた。なお勉強を続け、阿波公方と ディオゴ結城周辺の歴史について見極めたい。 -6【参考文献】 文中で、 *番号 を付した参考文献の所蔵場所、閲覧 方法などにつき以下記す。( *1 *番号 は各章初出の箇所に表示)。 近藤家文書(コン2-131) 德 島 県 立 文 書 館 が 、 板 野 郡 板 東 村 庄 屋 近 藤 家 の 古 文 書 1477 件 を 平 成 12 年 に 古 書 店 か ら 購 入 、 そ の う ち 131 番 目 の 整 理 番 号を付し所蔵、一般公開されている。縦帳、前後欠の古文書。 德島県立文書館ホームページで「公開資料検索」すると、 「古文書番号;コン 200131000 。 標 題 ; 寛 永 十 二 年 亥 九 月 阿 州 出 身平島又八郎伴天連詮議の件」とされている。 文書館に申し出ると、誰でも閲覧、写真撮影できる。 なおその後、(コン2-131)の原作者、平島家家臣荒井門 内のご子孫、阿波市在住、荒井仁氏が、本古文書の下書きと 思われる完結した古文書を所蔵されていることがわかり、ご了 解を得て輪読、原文と解読文が『德島の古文書を読む会 史料 集 (六 )切 支 丹 祐 賀 一 巻 (編 集 ; 谷 恵 子 、 記 録 ; 三 木 計 男 ) 』 と し て 、 平 成 19 年 に 発 行 さ れ て い る 。 平 成 22 年 1 月 現 在 、 若 干 の 余部がある。県立文書館へ照会されたい。所蔵・閲覧について は*2と同じ。(東京大学史料編纂所でも所蔵。) *2 三 木 計 男 著 『 デ ィ オ ゴ 結 城 了 雪 と 阿 波 公 方 』 、 平 成 19 年 德 島 県 立 図 書 館 ( 請 求 記 号 ; T280/ ユ ウ 2/1B ) 、 德 島 県 立 文 書 館、德島市立図書館(請求記号; T280 ミ ) 、 德 島 大 学 付 属 図 書 館 ( 本 館 1 F 郷 土 資 料 コ ー ナ ー 、 請 求 記 号 : 091.9||Mi ) 、 鳴 門 教 育 大学附属図書館、德島文理大学村崎凡人記念図書館、四国大 学附属図書館、阿波公方民俗資料館に所蔵されており閲覧で きる。 本書は、日本二十六聖人記念館(長崎市西坂町)の「福者ペ トロ岐部と187殉教者関係基本参考文献」にあげられている。 *3 『 足 利 家 文 書 2 - Ⅱ - 12 』 ( 京 都 在 住 足 利 典 子 氏 所 蔵 ) -7個人所蔵文書であり、所蔵者にお願いするほか閲覧は難し い。德島新聞が、平成17年6月2日の朝刊に当該文書(1枚) の写真を掲載、拡大鏡を使うなどの方法で読み取れる。 なおその後、那賀川町史編さん室編 『那賀川町史 資料編 平 島 公 方 史 料 集 』 、 徳 島 県 那 賀 郡 那 賀 川 町 、 平 成 18 年 、 266-267 頁にも内容を収録。 *4 德島藩儒員 佐野之憲編纂 『阿波志』、德島県立図書館、 1991 年 。 漢 文 の 同 書 を 仮 名 交 じ り 文 に 、 荒 井 藍 水 が 訳 し た 『 阿 波 誌 』 、 歴 史 図 書 出 版 社 、 昭 和 51 年 、 も あ る 。 いずれも德島県立図書館などで所蔵・閲覧できる。 (注)上記のほか下記がある。所蔵・閲覧については*2と同じ。 三 木 計 男 著 『 福 者 デ ィ オ ゴ 結 城 了 雪 を 尋 ね て 』 、 平 成 21 年