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フィリピンのマニラ

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フィリピンのマニラ
マニラの暑い夜
2010 年(平成 22 年)5 月 14(金)~17 日(月)
1
バンコクからマニラへ行き先変更
KS-R グループ海外鉄道視察旅行の今年の行き先は、4 月の半ばに参加者の顔合わせがあ
った段階ではタイのバンコクとなっていた。個人的にはアジア地区では未訪問国の一つと
なっているインドネシアを強く押していたのだが、残念ながら押し切られてしまった。と
ころが、4 月下旬の 24 日になって幹事長より電話があり、急遽行き先をフィリピンのマニ
ラへ変更したいがどうか、と打診があった。
変更の理由は、明らかにバンコク市内の争乱にある。微笑み の国と言われ、比較的治安の
良い国として定評のあったバンコクで、内戦さながらの市街戦が起きていることが発端となっ
ている。事の起こりは庶民を代表するタクシン前首相とエリートの現アピシット首相との確執
がある。タクシン氏は不正蓄財疑惑で追われ国外に亡命したが、是を支持する低所得層とか地
方の支持者がタクシン氏の復権を願い、赤シャツを着て執拗な抗議行動に出た。長期に亘り国
の政治経済が麻痺する事態が発生し、とうとうデモ隊と治安部隊が衝突して日本人カメラマン
を含め数人の死者が出て、一挙に緊迫度が増したことは、ご承知の通り。
これを受けて、今回の行き先変更に至ったもので、もとより当方に異議はない。強いて挙げ
れば、急な変更となったために、ホテルのグレードを下げたりして調整を図ったらしいが、旅
費が約 8 千円アップしてしまったことと、一度出会いたいと思っていた本場のグリーンカレー
を食べ損ねたことだ。本来ならばバンコクよりもマニラの方が距離的には近いのだから安くな
りそうなものだが、いわゆる手配旅行でのドタキャンであることから事情やむを得まい。想像
するに間に入った旅行代理店は、さぞかし苦慮したことであろう。
タイは 2001 年に訪れていたので、今年ならば 9 年ぶり二回目となるところであったが、
仕切り直しは情勢が落ち着いてからとなろう。一方、マニラはそれよりも前の 1998 年以
来だから、実に 12 年ぶりとなる。奇しくも前回の訪問は、KS-R への初参加旅行となって
おり、印象深いものがある。ともかく、ゴールデンウィーク明けに変更後の旅行代金を払
い込み、万難を排して当日に望んだ次第である。
2
成田空港アクセスルートの動向
今回の旅行には間に合わなかったが、成田空港へのアクセスは、今年の夏から大きく変
わった。京成電鉄が第二種鉄道事業者として北総鉄道(京成高砂~小室)、千葉ニュータウ
ン鉄道(小室~印旛日本医大)、成田高速鉄道アクセス(印旛日本医大~成田空港高速鉄道
接続点)、成田空港高速鉄道(成田空港高速鉄道接続点~成田空港)へそれぞれ乗り入れ、
成田空港線(成田スカイアクセス)として運行し始めるからだ。我が家から成田空港への
最短ルートが新たに形成される訳であるが、運賃面では割高となり、現在の最安ルート(JR
成田線経由)に及ばない。新設される成田湯川駅と交差する場所に JR 成田線の乗換駅が
併設されれば、少しは改善されるはずであるが、現在のところ開設の見込みは全くない。
東武野田線との接続駅新鎌ヶ谷が京成成田空港線乗換駅となるが、空港への集合時間に
より、新設される京成アクセス特急との接続が悪ければ、せっかくの新設ルートも宝の持
ち腐れとなる可能性がある。もとより埼玉からの野田線利用者など、京成ははなから相手
にしておらず、ダイヤ改正の目玉である新スカイライナーは、日暮里から空港第 2 ビルま
でノンストップで、途中駅の新鎌ヶ谷へは停車しない。東武野田線自体も途中に単線区間
があるためローカル然としていて、埼玉からの空港アクセス鉄道としての自覚が微塵も感
じられないが、柏駅での折り返しを含め、春日部~新鎌ヶ谷間の 38.1km を 1 時間以上も
要しているので、これを何とか短縮してもらいたいものだ。やはり約 5 割の運賃割増とな
るけれど、素直に JR 武蔵野線へ魂を売るのが時間的には一番現実的な方法なのかも。
いずれにせよ、成田空港へは通常年 1 回しか行かないので、本格的な利用は来年からと
なるが、選択肢が増えたことにより、楽しみがまた一つ増えたことには違いない。因みに
今年は、往路が遠回りの東武伊勢崎線牛田→京成関屋乗り換えルート、復路が JR 成田線
経由で柏から東武野田線へ入る最安ルートであった。なお、今年の秋から羽田空港の国際
線発着が本格化されるのに伴い、わざわざ成田空港まで出向かなくても海外へ行けるよう
になれば、こちらは押上経由でそれなりに便利になるのかも知れない。
3
JAL でマニラへ
経営不振が続き、機体整備などの安全面
に不安要素のある日本航空は、なるべく利
用したくない航空会社なのだが、直前での
行き先変更もあり、贅沢は言えない。搭乗
手続きは、e チケットと言うこともあり、
国際線も自動発券機でとなり、味気ない。
マニラ行き JL741 便は、B767-300 を機材
として使用している。最近は双発の大型ジ
ャンボ機よりも、このような中型機の方が
エコになると言うことで、各社とも導入に積極的だ。通路側の 45H に落ち着くと、9:42
にブリッジを離れた。今回は 13 名のパーティーであるが、各自の席はバラバラ。私の確
保した 45H は、たまたま非常口脇の客室乗務員とのお見合い席で、現地のキャビンアテン
ダントであるパクパオ嬢が、正面に座った。
予定より 10 分程遅れて、マニラ近郊のニノイ・アキノ国際空港へ到着した。腕時計を 1
時間戻して、香港時間(HKG)に合わせる。入国手続きを済ませて到着ロビーへ出ると、
現地ガイドのセシル嬢が出迎えてくれた。見た目は 40 歳前後のおばさんと言った感じだ
が、怖くて年齢は聞けなかった。予想していた通り、空港から外へ出ると恐ろしく蒸し暑
い。このままホテルへ直行するのかと思ったら、マニラ市内観光と言うことで、リサール
公園、サンチャゴ要塞、サンアウグスチン教会の 3 カ所を駆け足で巡る。
ホセ・リサール(José Rizal,1861 年 6 月 19 日~1896 年 12 月 30 日)は、フィリピン
独立運動の闘士にしてフィリピンの国民的英雄。医師、著作家、画家でもあった。志半ば
にして捕らえられ、スペイン軍の手で銃殺されたが、その意志は人々に受け継がれ、フィ
リピン独立の英雄として今も愛され続けている。リサールが処刑されたマニラ湾を見渡す
地は現在、リサール公園(Rizal Park)として整備されており、衛兵に 24 時間守られている
記念碑があり、緑も多くマニラ市民の憩いの場所になっている。
次に訪れたサンチャゴ要塞は、マニラの北西にある観光スポットで、スペイン人が建て
た中世風の要塞であり、捕虜収容所や軍の司令部として使われ、第二次世界大戦中には日
本軍の憲兵隊司令部もここに置かれた。完成したのは 1739 年。フィリピンの英雄リサー
ルが処刑されるまで監禁されていたため、リサールに関する資料や遺品、道具などが展示
されており、牢獄の様子なども見られる。第二次世界大戦時、日本軍は多くのフィリピン
人をここで殺害した。その方法は、要塞の周りがマニラ湾とパッシグ川の水で囲まれてい
たので、地下牢に閉じ込めて満潮時に水死させるという残酷なものだったらしい。
最後のサンアウグスチン教会は、フィリ
ピ ン 最 古 の 石 造 り 教 会 で 、「 フ ィ リ ピ ン の
バロック様式教会群」として、1993 年にユ
ネスコの世界遺産に登録された。1599 年か
ら 1606 年にかけて建造され、戦争でも破
壊されずに、マニラではこの教会だけが現
在でも残っている。中へ入ると、ステンド
グラスや重厚な造りの祭壇などが目を引
くが、暑さでだるくなって来たので、干上
がる前に早々に退散する。実際、我々一行のほかに観光客らしい
姿は見かけなかった。
チェックインしたパビリオンホテルは、かつてはヒルトンホテ
ルと称していたらしく、カジノなどのギャンブル施設も併設され
ていて、見た目はゴージャスだった。しかし、客室の 1606 号室
へ通されると、LAN によるインターネット接続ターミナルもなく、
これではヒルトンから提携を断られる訳だと納得する。せっかく
日本から持参したパソコンが、鞄の重しの役にしか立たないでは
ないか。これから 3 泊もお世話になるのだから、部屋は多少質素
でもネット環境だけは充実してもらいたい
ものだ。濃厚なマンゴージュース 1 杯だけ
のウェルカムドリンク程度では、決して騙
されないぞ!
マニラ初日のウェルカムパーティは、
「ラ・メール」というフィリピン料理の店
だった。フィリピン料理は、味付けが少々
甘く、かつ酸味があるため癖があり、私の
口にはどうにも合わなかったが、喉の渇き
をビールで潤せただけでもヨシとしよう。
4
全面リニューアルされた PNR
マニラ二日目の朝は早く、ホテルを 7 時出発となっていたので、朝食バイキングを慌て
て か き 込 ん だ 。 昨 日 よ り も 一 回 り シ ー ト ピ ッ チ の 広 く な っ た マ イ ク ロ バ ス で 、 PNR
( Philippine National Railways.フィリピン国鉄 )起点駅ツツバンへと運ばれる。12
年前の訪問では一駅手前のタユマンが起点駅となっていたが、リニューアルの際にフィリ
ピン国鉄本社をツツバン駅と合体する大改装工事を行い、起点が移転された模様。
ここで PNR の歴史を簡単に紐解くと、1892 年 11 月 24 日、Manila Railway Company
の手によってマニラ~ダグパン(Dagupan)間 195km の営業が開始された。第二次世界大戦
で大きな被害を受けたものの、1946 年 6 月 20 日、共和国条例により PNR が設立され、
1954 年~1957 年にかけて蒸気機関車からディーゼル機関車への動力転換が行われた。
近年では、1991 年のピナトゥボ火山の大噴火で北方線が全線運休、事実上の廃線となっ
た。2004 年 11 月 12 日午前 2:30 分頃、ルソン島南部のパドレ・ブルゴス(Padre Burgos)
付近で、312 人の乗客を乗せたレガスピ発マニラ行夜行列車が脱線、8 両のうち客車 5 両
が峡谷に転落し、死者 13 名を出す大惨事となった。警察と PNR は、レールの盗難が事故
原因としているが、速度超過が根本的な原因とも言われている。また、事故にあった客車
は、JR 東日本が PNR へ譲渡したものであった。
その後、2006 年 9 月、台風 15 号の影響で 3 箇所の鉄橋が流され、以降ビーコルトレイ
ン(長距離列車)は運休となった。南方線もビニャン(BINANG)以南は一部路線も土に埋
もれ、路線上に不法占拠住宅が建ち始めたりして、廃線になりつつある。2005 年から使い
始めたホワイトボディーのグリーン車シー
トが付いた 12 系客車も、その後はタユマ
ン構内に放置され、窓ガラスもほとんど割
れている状態である。シートも腐食し、事
実上の廃車と化している。
2009 年 7 月中旬、韓国現代ロテム社製の
新型ディーゼルカーが営業運転を開始し、
全面的にリニューアルされた(マニラ鉄道
路線図で緑色のライン)。ツツバン ~アラ
バン間約 40km を 9 往復、ツツバン~
スーカット(アラバンの一駅手前)間を 9 往復、ツツバン~ビニャン間を客車が 1
往復(計 18 往復(気動車)+1 往復(客車)) して現在に至っている。なお、リニュ
ーアルの際に、路盤を強化(ロングレール、
PC 枕木等)したほか、沿線にフェンスを張
り巡らせて線路内への不法侵入禁止等の措
置により、列車ダイヤの正常運行確保およ
び車内の治安度向上が図られた。実は、12
年前にマニラを訪問した際もこの PNR に
はタユマンからアラバンまで乗っているが、
この時は既に廃車となった三角屋根の旧型
客車をディーゼル機関車が牽引するスタイ
ルであり、投石などは日常茶飯事であった。
PNR へ乗車する前に旧タユマン駅構内
まで歩いて戻り、しばしの撮影タイム。ツ
ツバン駅までの戻りは、自転車にサイドカ
ーが付いたような乗り物ペディーキャブ
に試乗。金額交渉は適当で、一組目は 2 人
で 20 ペソと言っていたのに、二組目以降
は 1 人 20 ペソと倍に値上がりした。まぁ、
それでも日本円にしてたったの 40 円なの
だから目くじらを立てる必要はない。何故かツツバン駅とは違う遠方の場所(センターモ
ールらしい)へ拉致された組もあり、同じお値段で少し得をしたようだ。
さて、我々 一行を乗せ た新型気動 車は、今で も各 窓
に金網が張 られ、装甲 車並みの装 備が施され ているた
め物々しい が、たまた ま乗車した 先頭車両は 女性専用
車らしく乗っている男性客は事情を知らない我々のみ。
女性専用車 とはどこに も明示され ておらず、 どうやら
フィリピンでは暗黙の了解の元に LRT も含め先頭車は
全てそうな るようだ。 たまたま先 頭車両に群 がりたが
る我々の習 性に合わせ た訳でもな かろうが、 日本のよ
うに専用車の位置が決まっておらず、進行方向によって変わるところが味噌である。
さて、車内は冷房も効いていて、快適である。以前の不潔で汚い印象とは、大違いだ。
踏切で煩いくらいに警笛を鳴らすところは変わらないが、以前に比べてかなりスピードア
ップしたように感じる。しかも各駅毎に乗降客があり、見事に都市輸送を担う交通機関に
変貌していた。車内の路線図を見ると、反対の北方線側はカロ
ーカンまで延長の計画があるらしく、現在整備中らしい。併走
する高速道路は大渋滞で、それを横目に見ながらスーカットへ。
南方線は、ここからの末端区間が単線となり、線路の容量不足
を補うため、半分の列車がここより折り返す。
新アラバン駅は、旧駅より約 150m 下り方へ移設されていた。旧駅も駅舎自体は残され
ているが、機能はしていなかった。アラバ
ンより先も 1 日 1 往復だけ客車列車がビニ
ャンまで運転されているらしいが、これよ
り先は段差が生じるくらい線路状態は極端
に悪くなっており、これでよく脱線しない
ものだと感心する。待ち受けていたマイク
ロバスに乗り込み、そのビニャン駅まで行
ってみると、駅構内で洗濯をするなど生活
に追われている人々が多数いて、古き良き
時代を彷彿とさせる雰囲気が漂っていた。
特にビニャン駅のすぐ南側にある鉄橋は、
肉眼で見ても明らかに途中で「くの字」に
曲がっており、この先はおそらくもう何年
も列車が乗り入れたことはないのであろう。
5
モンテンルパを経てマニラ市内へ
渋滞した高速道路をマニラ方へ少し戻り、
かつて日本人の捕虜収容所があったモンテ
ンルパを訪問する。現在もその跡地には刑
務所があって、高い塀に覆われている。そ
の塀の脇を通って、世界平和祈念公園を訪
れた。公園内には、平和の鐘、日本語で書
かれた慰霊碑などがあり、厳かな雰囲気だ
った。
しかし、暑さによる疲れがピークに達し、
ちょうど昼時でもあったので、モンテンルパのショッピングモール内に併設されたジョリ
ービー(Jollibee)に待避する。ジョリービーとは、フィリピンを代表するファーストフー
ドチェーン店で、同国内に千数百店舗を構える。早速スパイシーチキン 2 ピース、チーズ
バーガー、コーラを注文し、店内で食べる。チーズバーガーの味にはガッカリしたが、ス
パイシーチキンの付け合わせのようなライスに浸けて食べる中華ソースは、お代わり自由
で中々いけた。コーラは、レギュラーサイズだったので喉の渇き
を癒せず、ロングサイズにしなかったことを後悔した。食後、同
じショッピングモール内にあったコンレディロックスの店舗で、
ポルボロンミックスセット(30 個入りで、173 ペソ)を土産用と
して購入する(「ちんすこう」のような味で、不評だった)。
マニラ市内へ戻る高速道路は大渋滞で、ちっとも前へ進まない。
途中で渋滞の原因が沿線火災と判明し、かなり大規模な住宅火災
現場を過ぎてから、嘘のように流れ始めた。マニラ市内へ入って
高速道路を降り、北方線のカローカン駅付近に到着したのは、モ
ンテンルパから約 3 時間後の 16 時半であっ
た。 ご 覧の 通り カ ロー カン 駅 は現 在ホ ー ム
の新 設 工事 中で 、 開業 はま だ だい ぶ先 の よ
うだ 。 すぐ 上り 方 では 、シ ョ ット ガン を 構
えた 警 備員 の脇 で バラ スト 散 布が 行わ れ て
いて、子供達の格好の遊び場となっていた。
マニ ラ は、 近年 都 市鉄 道網 の 整備 に力 を 入
れて お り、 慢性 的 な道 路渋 滞 を少 しで も 緩
和しようという心意気を感じた。
その渋滞を抜けていったんホテルへ戻り、
小休止後、マニラのコリアンタウンにある
焼肉屋(コリアン・ビレッジ)へ向かった。
出て来た料理のうち、肝心の焼肉が淡泊で
パサパサしていて、どうも美味しくない。
当地では、油の滴るジューシーな肉を期待
する方が間違っているのかも知れない。そ
れでも最後に出たデザートの生マンゴーは
絶品で、その濃厚な味に舌鼓を打った。
二次会はホテルの一室で行われ、シャワ
ーでベト付いた汗を落としてから乱入し、夜中の 1 時頃まで盛り上がった。
6
マニラ市内 LRT 巡り
マニラ市内には、電化された高架高速鉄道が 3 路線(LRT1,LRT2,MRT3)ある。いず
れも 20km 前後で、マニラ市内を逆 A の字に結んでいる(次ページ路線図参照)。12 年前に
は LRT1 のみであったが、その後 2 路線増えたことになる。LRT1 のモニュメント~バク
ララン間は、前回にも乗っているが、改めて乗り直すことにした。先ずパビリオンホテル
最寄りとなる LRT1 の国際通り(United Nations)駅から出発する。ホテルから徒歩 5 分
でたどり着いた高架ホームの途中にある窓口で、LRT1,LRT2 共通のプリペイドカードを
100 ペソで購入する。マニラの高架鉄道は、方向別に改札口が分かれているので、入口を
間違えると、いったん改札口を出ないと戻ることが出来ず、少々やっかいだ。
時間はたっぷりあったの
で、先ずは路線図で黄色い
ラインの LRT1 南方の終点
バクララン駅へ。そのまま
折り返して、北の終点モニ
ュメント駅まで乗り通す。
とここまでは、このモニュ
メント駅が終点だと思い込
んでいたが、我々が下車し
てもそのまま乗っている乗
客がおり、そのまま発車し
ていった。持っていたプリ
ペイドカードの裏面に記載
された路線図を見ると、確
かにモニュメントの先まで
描かれている。次の列車に乗ろうとした
ら制され、次を待つように指示された。
どうやら、この先へ行く列車は、1 本置
きのようだ。次にやってきた新型車に乗
り込むと、その理由が判明した。モニュ
メントから先は、MRT3 との接続点ノー
ス通りに向かって鋭意工事中であり、現
在は次駅のバリンタワクまでが仮営業の
ような形で開業している。しかし、単線
運転のため、線路容量が小さく、半分の列車がモニュメント駅で折り返していたのだ。
冷房の効いた新型電車で戻り、LRT2 と
の接続駅、ドロテオ・ホセ駅で下車した。
乗換駅なのに、LRT2 側の駅名はレクト駅。
日本の感覚だと通常同じ事業者の乗り換え
駅名は同じであるが、こちらでは何故か異
なる。最初はこの流れが理解できず、LRT1
の路線図でレクト駅を探してしまった。階
段を上り、長い連絡通路を「コの字」型に
歩いて LRT2 のレクト駅ホームへ移動。LRT1 と LRT2 のプリペイドカードは共通なので、
改札は難なく通過できた。LRT1 をオーバークロスした引き上げ線から入線してきた 4 両
編成の高速電車(LRT1 とこの後乗車する MRT3 は、路面電車スタイル)に乗り込む。車
内には、「Toshiba」のプレートもあったので、日本も技術供与しているようだ。
LRT2 は、路線図では桃色のラインであり、マニラ市内を
東西に結んでいる。プレザ~V.マパ間で昨日乗車した PNR
の複線をまたぎ、その先のベティ・ゴー・ベルモンテ~アラ
ネタ・センター間でこれから乗車する MRT3 の上を越えた。
この LRT2 は、他線に比べて乗降客が少なく、終点一つ手
前のカティプナン駅は、地下構造の駅だった。再び地上に出
て、車庫線を分岐し、右手に電車庫を見ながら終点のサントラン駅へ到着した。撮影のた
め 1 列車落とすと、「Special Train」のヘッドマークを付けた黒い車体の広告電車が入線
して来た。スポーツシューズメーカーのコンバース社とタイアップしたと見られるラッピ
ング電車で、車内外ともコンバース一色となっていた。
そのラッピング電車に乗ってアラネタ・センターまで戻り、案内に従ってショッピング
センター内をかなり歩いて抜けると、外へ出ずに MRT3(マニラ鉄道路線図で紺色のライ
ン)の改札口が見えてきた。この路線は、事前の情報で LRT 路線とは事業者が異なり、
プリペイドカードも共通で使えない事を把握していたので、改めて 7 番窓口に並び、MRT3
用のプリペイドカードをやはり 100 ペソで購入した。駅やショッピングセンター等、マニ
ラ市内の不特定多数の人間が集まる場所では、必ず入口でセキュリティチェックがあり、
荷物の中身を覗かれる。ここクバオ駅(ここも LRT2 とは駅名が異なる)も例外ではなく、
荷物チェックを受けてからホームへ上がった。
いったん MRT3 の北側の終
点であるノース通りまで行き、
折り返す。ところがホームで
写真を撮っていたら、ホーム
に い た 警 備 員 が 腕 で ×印 を 作
りながら注意をしにやって来
た。LRT1 と LRT2 では、むしろ撮影に対してはウェルカ
ムだったのに、事業者が違うだけで対応がこんなにも違う
のかと感心する。MRT3 は、連接車を複数繋げて 1 編成を
構成しており、高架・地上・地下を適宜使い分けた連続立
体交差路線で、3 路線のうち一番混雑が酷かった。終点一
つ手前のマガラネス駅を出ると、すぐに PNR をオーバー
クロスして、終点のタフト通り駅に到着した。
LRT1 との乗換駅であるここも両者の駅名が異なっていて、混乱する。ショッピングセ
ンターを少し歩いたところに LRT1 のエドサ(EDSA)駅があり、PNR にも同名駅があっ
たが、両者はかなり離れていて全く別の駅である。この日 LRT1,LRT2 は、通算 6 回目の
乗車で、100 ペソのプリペイドカードを少しの残額だけで、ほぼ使い切った(逆に MRT3
の方は、2 回しか乗車していないので、ほとんど残した)。新型車両で国際通り駅まで戻る
と既にお昼を過ぎており、全部乗って元の場所へ戻るまで朝から 4 時間半も要した。
この日の昼食は、世界共通の味マクドナルドへ。ビッグマックと L サイズコーラのセッ
トは、167 ペソ(≒340 円)もしたが、昨日のジョリービーと異なり、安心して食べられ
た。さすがにこの値段のハンバーガーに手を出す地元客は少ないと見えて、昼食時なのに
人影はまばらだった。
昼食後、春日部にもあるロビンソン百貨店の系列店であるロビンソンショッピングセン
ターを訪問する。ところが、最初は場所が判らず、ホテルの周りをウロウロ。やむを得ず
タクシーを拾おうとしたら、ホテルのドアマンに呼び止められ、思い止まる。指さされた
先を見ると、何のことはない歩いてすぐそこだった。ホテルドアマンの親切心に感謝。さ
て、訪れたショッピングセンターの中は越谷レイクタウンのごとく広々としており、迷う
ほど。幾つか土産になりそうな雑貨を眺めて、しばし涼んだ後、ホテルへ戻る。
夕食までの数時間は、ホテルのプールでまったりと過ごす。宿泊客は、タオルなども無
料で借りられ、プールサイドのベッドで寝そべっていると、顔を撫でる風が何とも心地よ
い。残念ながら目の保養になりそうな美女には巡り会えなかったが、家族連れを中心に和
やかな雰囲気。約 2 時間をプールで過ごし、汗が引いたところで部屋へ引き上げた。マニ
ラ最後の晩餐は、「名門(LEGEND)」という名の中華レストランで可もなく不可も無し。
7
無事帰国
翌朝は 5 時のモーニングコールで目覚め、早朝
のマニラ湾を右に見ながら海岸通りを走り、通勤
客を満載したジプニーと併走して、ニノイ・アキ
ノ国際空港へ 20 分程で到着した。今日も窓際の席
はないとのことなので、満席に近いのだろう。空
港利用税 750 ペソを支払ったら手持ちのペソが無
くなったので、14 番ゲートで待機するしかない。
4 時間半のフライトも呑んでいたらあっという間で、成田空港到着後自由解散となる。し
かし、サテライトからターミナルビルへのシャトル便では、解散したはずなのに先頭車両
に集まる習性故、また参加者が顔を合わせる羽目になったのはご愛敬だった。
(Traffic CircleNo.70 に収録予定)
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