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Untitled - 日本歯科矯正専門医学会 JSO

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Untitled - 日本歯科矯正専門医学会 JSO
■発刊によせて
発刊によせて JSO会長 三瀬 駿二
JSO は設立以来、良質な矯正臨床を社会に提供することを第一の使命として活動してま
いりましたが、さらに予てからの念願でありました学術面での活動も開始すべく、昨年3月
に日本歯科矯正専門医学会と名称を変更いたしました。続く6月には第一回の学術大会を開
催し、無事終了することができました。
日本で初めての認定専門医による学会には、これまでにない質の高い成果が求められま
す。今後は会員一同、臨床と研究ともに専門医の手本となって社会に貢献できますよう努
めていく所存です。
さて、歯科矯正は歯科の中でも特に専門性が高い分野であるにもかかわらず、その特殊
性が社会に認知されることなく今に至っています。また近年は一般歯科医の約 1/3 が矯正
治療に携わるという時代になったために、旧き時代の秩序と環境は壊れ、矯正臨床の現場
には戸惑いと混乱が巻き起こっています。今となってはこの状況を元の姿に戻すことは不
可能でありましょう。そのため新しい秩序による新しい環境を構築する以外に方法がない
と判断するに至っています。新しい秩序の構築には、今までにない新しい発想が必要にな
りますが、その前にまず、私たち専門医一人一人が現状を正確に認識することが求められ
ます。現状認識の合意が得られたうえで、新しい歯科矯正の秩序と環境を整えていくこと
が必要でしょう。キーワードは「公と私」です。個を捨てることができるかどうかが、新
しい秩序を構築できるかどうかの鍵だと思っています。JSO は将来の新しい秩序と環境を
再構築する場として設立された組織です。
スタートしたばかりの JSO は小さな組織ですが、小規模の組織は意識の一体化が比較的
容易で、また社会の変化に素早く且つ柔軟に対応できる利点があります。近い将来われわ
れの手で、夢と希望のもてる新しい矯正環境を構築することができれば、社会にとっても
専門家にとっても、これほど有益なことはありません。
最後になりましたが、学術誌初刊を発刊するにあたって編集に携わっていただきました
方々に、この場を借りてお礼を申し上げます。
今後とも会員一同の更なるご理解、ご協力をいただけますようお願い申し上げます。
発刊によせて 1 矯正治療における生体の恒常性と適応能
Constancy and adaptation ability of the human body to the orthodontic treatment
与五沢 文夫 Yogosawa Fumio
よごさわ歯科矯正
キーワード : 適応、 恒常性、 鋏状咬合、 犬歯間幅、 歯列形態
初めに
このたび矯正専門医の学会が開催される運びとなり
ましたことを、心から嬉しく思っております。矯正専
門医学会と銘打ったこの会でお話しをさせて頂くに際
し、私はその責任を重く受けとめています。今回、お
話する内容を決めるにあたって、この専門医学会の目
的やあり方について私なりに考えてみましたので、そ
のことからまずお話をさせていただきたいと思います。
専門医学会の目的とあり方
1)専門医という立場
そもそも、専門医は社会のニーズに応えるための医
療上の仕組みと思っています。専門医という資格や制
度があっても、それが社会で認知されなければ、専門
医としての実質的な意味をもちません。専門医は社会
との関わりの中で、はじめてその存在意味を持ちます。
すなわち専門医たる所以が社会で評価されたときに、
初めて専門医としての立場が確保されるようになるで
しょう。そのためには、専門医が専門医として社会に
働きかける必要がありますが、それには専門医の集団、
すなわち専門医としての組織が必要となります。
2)専門医の責任と義務
その専門医集団は、臨床の質の維持ならびに向上を
目指すのは当然のことですが、同時にその分野におけ
る社会的責任と義務の一端を担うこととなります。
専門医の集団は、専門というその名称の響きから、そ
の道のエキスパートとして受けとめられると思います。
2 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
それによって、社会においてその分野での権限が発生し
ますが、同時に責任をもつことは当然です。責任を伴わ
ない権限はあり得ないと思うからです。
3)専門医のやるべきこと
そこで、私達、専門医集団としての責任の一つとし
て、まず手をつけなければならないことは、現在の混
乱している矯正治療の方法や考え方の整理があると思
います。
矯正治療は、一般的な医療のように元の健康な状
態に復元することを目的とする医療ではなく、よりよ
い状態を創りだすことを目的とする、すなわち創造の
医療です。したがって治療の目標自体が一つとなり難
く、必然的に何が最善かを判断しづらいものではあり
ます。そのことも原因して矯正治療ではその治療に対
しての考え方を一つに絞り込みにくい性質の医療です
が、現状においてはあまりにも幅広く拡散しているよ
うに私には受け止められます。例えば、矯正治療を行
なう上での抜歯・非抜歯の問題、早期治療の限界や可
否、歯列弓拡大、各種矯正治療法などの問題を挙げる
ことができます。それらの問題は矯正治療の根本にか
かわる重要な問題ですが、各種の相容れない考え方や
治療法が共存しています。そのことが社会において矯
正治療が混乱している原因の一つと考えられます。
そこで、矯正専門医集団は、それらの問題の整理整頓
を行ない、矯正治療をより信頼ある医療とすることが
当面の重要な責務と考えます。
4)問題解決のための手段・方法
これらの問題の整理を行なうに際して、最も適した
方法手段は、これまで行なわれてきた矯正治療の結果
から学ぶことにあると思います。我が国にフルバンド
ないしフルブラケット法といわれる本格的な矯正治療
法が定着し始めてから、すでに 40 年程の時間が経過し
ています。その結果、臨床例数はおそらく数百万に達
していると考えられますが、私達はその矯正治療の経
験を充分に生かしていないのではないでしょうか。や
やもすると、私達は矯正治療の前と後、すなわち矯正
装置装着前と後、という限られた時間帯の中で、矯正
治療を評価してきたように思えます。矯正治療の前、
後は殆どが矯正装置によって誘導された結果で、半ば
機械的に支配された結果ですが、実は全ての装置から
開放されたときの生体の振る舞いを知ることが矯正治
療にとって大切ではないでしょうか。その確認作業に
よって、生体に対して、あるべき矯正治療の形をより
明確にすることが可能となるだろうと考えます。
5)専門医学会の役割
矯正専門医学会は、臨床経験が豊富である専門医の集
団という特徴を生かし、まずはそれぞれの経験を持ち寄
り、そこから生物学的な真実を導きだし、矯正治療をよ
り確実で洗練されたものにしていくことが重要な使命と
考えています。矯正専門医学会としての役割分担はそこ
にあると思っています。
以上のようなことを念頭におき、今回私は、具体的な
治験例を振り返り、生体の持つ恒常性や適応という視点
からお話をしてみたいと思います。
矯正治療における生体の恒常性と適応能[与五沢] 3
症例1 生体の恒常性を組み入れて治療方針を立てた症例
・初診時年令 26 才 5 ヵ月 女性
・治療開始 27 才 7 ヵ月
図 1 治療前 4 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
図 2 大臼歯部交叉の状態
右側第一大臼歯部
右側第二大臼歯部
・治療方針
主たる治療目標は右側大臼歯部の鋏状咬合の改善。
上下左右の第一小臼歯抜歯、ならびに第三大臼歯 4 歯の
抜歯が必要と判断。
交叉咬合改善過程において下顎の回転が起こることを想定。
頭部X線規格写真上では 7°の顎の開大する方向への
回転が予想される。
(図 3 左側のみトレース)
図3
7
・治療経過
図 4 治療開始時
図 5 治療開始後 9 ヵ月(バイトプレート装着後 4 ヵ月)
図 6 治療開始後 1 年
矯正治療における生体の恒常性と適応能[与五沢] 5
図 7 バイトプレート撤去時
図 8 バイトプレート撤去時の顎位
図 9 バイトプレート撤去1ヵ月後
図 10 バイトプレート撤去時とその 1 ヵ月後の顎位の比較(左側のみトレース)
6 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
図 11 治療後 31 才 5 ヵ月
矯正治療における生体の恒常性と適応能[与五沢] 7
図 12 治療前後
図 13 治療前後の咬合面
図 14 治療前後の右側第一大臼歯の位置関係
図 15 治療前後の右側第二大臼歯の位置関係
8 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
治療前
治療後
治療前後の重ね合せ
(左側のみトレース)
図 16
☆ここでの事実とその理解
・下顎の位置の恒常性の認識 ・・・ 部分の全体への協調
頭蓋に対しての下顎の位置(下顎下縁角)がほぼ自動的に元の状態に終焉した。
・咬合平面の自動的調整。
鋏状咬合の改善過程において上顎大臼歯が圧下され、咬合平面が頭蓋に対してより平衡に
なるように自動的に変化していった。本来ありたい咬合平面の位置に治まった?
。より機能的なバランスが得られた結果?
・ 頭痛の頻度が減少したという事実(自発的な訴え)
矯正治療における生体の恒常性と適応能[与五沢] 9
症例2 適応力の強さを感じた症例
・初診時年令 12才 7ヵ月
図 17 初診時の状態 左右側鋏状咬合の症例
図 18 治療開始時 バイトプレート装着時
図 19 バイトプレート装着時の下顎位
10 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
図 20 大臼歯部の咬合面での接触が可能となった状態
図 21 上顎左右第一小臼歯抜歯、バンド装着による治療開始時
㻣㼙㼙
図 22
初診時とバイトプレート装着時の比較
図 23 初診時とバンド装着による
治療開始時の重ね合せ。
(下顎下縁角が一定に保たれて
いることに留意)
。
図 24
下顎の開大(13°)している
状態が 1 年 8 ヵ月後にはリカバー
されている。
この反応に下顎顆頭の発育が大
きく関与している(約 7 ミリ)。
矯正治療における生体の恒常性と適応能[与五沢]
11
図 25 治療前後の状態(治療過程で下顎左右第二小臼歯も抜歯されている)
☆この症例を通じた「こと」の理解と推測
・閉じ込められた潜在的素質を引き出し本来の素質が開花した。
・人為的行為が本来の生体に備わった能力を発揮させる刺激として作用した。
・矯正治療開始に際し、隠された秩序を読み取ることが重要である。
すなわち、ことの理解形式として、
「この症例ではこうなった」を「こうすれば・こうなる」と置き換える
ことはできない。
12 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
図 26 保定(約 3 年)終了時
図 27 保定終了後 1 0 年経過時、上下前歯部に叢生発生
13
矯正治療における生体の恒常性と適応能[与五沢] 図 28 保定終了後16年経過、再矯正治療開始時
保定後 10 年目とは同等の前歯部の叢生を確認、犬歯間幅が縮小、とくに下顎犬歯間幅は初診時(12 才)の
犬歯間幅にほとんど復元していることを確認する。
図 29 再矯正治療終了時・・・動的治療期間・1 年 4 ヵ月
14 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
初診時 12 才 7 ヶ月
保定後 10 年 30 才 4 ヶ月
治療終了時 17 才 5 ヶ月
保定終了時 20 才 3 ヶ月
再治療開始時 36 才 7 ヶ月
再治療終了時 37 才 11 ヶ月
図 30 下顎犬歯間幅の比較
ノギスの幅は初診時の犬歯尖頭部に合せ一定に保っている。各時点での左側犬歯尖頭にノギスの一方をあて、
もう一方のノギスの位置と犬歯尖頭の位置によって歯間幅を確認している。
初診時 12 才 7 ヶ月
治療終了時 17 才 5 ヶ月
保定終了時 20 才 3 ヶ月
保定後 10 年 30 才 4 ヶ月
再治療開始時 36 才 7 ヶ月
再治療終了時 37 才 11 ヶ月
図 31 上顎犬歯間幅の比較
上顎では、下顎の場合と同様にノギスの一方を上顎右側犬歯尖頭にあてがっている。
矯正治療における生体の恒常性と適応能[与五沢]
15
初診時 12 才 7 ヶ月
治療終了時 17 才 5 ヶ月
保定後 10 年 30 才 4 ヶ月
再治療開始時 36 才 7 ヶ月
保定終了時 20 才 3 ヶ月
再治療終了時 37 才 11 ヶ月
図 32 歯列弓形態の比較
☆この結果から学んだこと
・前歯部アーチの形と犬歯間幅維持の重要性。
・生体が必要とした修正(より安寧な状態であるための変化が生じた? 受入れ可能なゆらぎ幅を超えた? )
☆理解形式の展開
・下顎枝の顕著な発育から・・・個体本来の素質の強さの認識と矯正治療方針への取り込み。
・歯列弓の形と犬歯間幅・・・部分と全体、生体の秩序を保つヒエラルキーシステム。
註:この症例報告は下記の論文を参照下さい。
1)Fumio Yogosawa :Case Report AE Non-surgical correction of a severe Class Ⅱ malocclusion(Brodie Syndrome)
Angle Orthod.,Vol.60 No.4:299 - 304,1990.
2)与五沢 文夫 :適応 Monog.Clin.Orthod.,30:1 - 31,2008.
16 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
症例 3 適応能の限界
問診によるこの症例の矯正治療に関わる経歴。
1997 年頃から一年程、中国で非抜歯矯正を行なう。その後、日本の大学病院にて 2008 年 2 月に非抜歯治療の方針
のもとスクリュウによる拡大をおこなったが、同年 8 月に抜歯症例(上下左右第一小臼歯)へと変更した。翌 2009
年 2 月に矯正治療継続中に矯正開業医へ転医、そこでの治療が困難とのことで、再度そこから他の矯正開業医へ紹介
され転医、治療を継続、2010 年 5 月治療終了と言われたが歯槽部の隆起を問題とし、その改善を希望され当院に来
院した。
図 33 当院へ来院時の状態
矯正治療における生体の恒常性と適応能[与五沢]
17
上顎中切歯
上顎側切歯
下顎中切歯
下顎側切歯
図 34
図 35 中切歯、側切歯、犬歯周辺
18 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
犬歯
図 36 上顎臼歯群の遠心傾斜が目立つ
図 37 インプラントアンカーが使われている
以上の観察から現状において患者の主訴の改善は不可能との判断を行ない、矯正治療を解除して生体の自己治癒能
力に託すことを提案、これ以上の人為的侵襲を避けるため矯正装置を除去し、さらに保定装置は使わない方が良いだ
ろうとの見解を伝える。その後、経過を見た上で対処法を考えることとした。
図 38 前医にて矯正装置を撤去して 6 日後
☆ここでの見解
・適応のための時間と適応限界・・適応するための時間と範囲への配慮の欠如。
・機械論的思考への警鐘。
結語
☆矯正治療は
・体の適応能を頼りとした医療である。
・物理的刺激が体に反応を起こさせる引き金となるが、反応する主役は生物学的な応答である。
・矯正治療を行なうには物理学的理解と生物学的理解の形式の違いを認識することが必要である。
☆矯正治療にとって重要なのは
・どこまで歯や顎を移動させることができるかではなく、
どこに位置付けたら生体にとってより心地良いかである。
・それを判断するのが知識や経験で、そこに到達させる具体策が技術である。
矯正治療における生体の恒常性と適応能[与五沢]
19
抜歯 ・ 非抜歯の背景
A consideration of extraction versus nonextraction in orthodontics
三瀬 駿二 Mise Shunji
みせ矯正歯科
キーワード : 矯正概念 再不整 科学的根拠 人種 文化
初めに
近代の歯科矯正は 20 世紀初頭の Angle による装置
の開発・改良とともに始まったと云っても過言ではな
い。歯科矯正はその特殊性の一つとして治療に先立っ
て抜歯・非抜歯の判断が必要になるが、Angle は矯正
治療のための抜歯を否定したまま世を去った経緯があ
る。Angle の在世当時も抜歯が必要か否かの論争はあっ
たが、本格的な抜歯の導入は 1936 年の Tweed の決断
まで待つことになる。Tweed の抜歯導入は主にリラッ
プスという臨床経験からきたものだったようだが、セ
ファロを用いて抜歯・非抜歯の判断基準を確立するの
は少し後のことになる 1)。
さて、抜歯・非抜歯の判断は診療所の在る地域、患
者の年齢層、治療の形態、治療法や更に時代背景、矯
正治療の意義や意味などの考え方によっての影響が大
きいのではないかと推測される。矯正治療における抜
歯、非抜歯の判断は、その後の治療手順や結果に大き
な違いが生じることから、矯正治療上で最も重要と言
える。
矯正治療に際しての抜歯の割合は、歴史的にも時代
によって変遷することはあったが、個人的な臨床環境
の中では、
ここ10年程の間に非抜歯による治療が急増
したように感じられる。矯正治療を行なう際の抜歯症
例数の割合については、正式な調査結果はみられない
ものの、矯正専門医を対象とした週刊朝日のアンケー
ト調査によると、3%から 96%と幅広い結果を得てい
る 2)。今後もすべての矯正医を納得させ得るような判
20 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
断基準をつくることは困難だろうが、同一人種間では
その幅を縮小させる努力は必要であろう。
抜歯・非抜歯の判断に影響する主な要因としては、
矯正治療の目的に対しての概念、人種差、所属する文
化や地域差、受診時の年齢、使用する矯正装置等が考
えられるが、今回その中から抜歯・非抜歯の判断に大
きく関わる概念と人種について取り上げてみたい。
Ⅰ . 歯科矯正の概念
概念という言葉は幅広い意味を含んでいるが、歯科
矯正に向けての概念を構築するにあたっては、主に以
下のことが関与すると思われる。
1)歯科矯正は歯を動かすという特殊な手段を用いて
顎骨と口腔周囲軟組織、双方の形態に影響を及ぼすと
いう治療形式を有する。そのため歯科矯正の概念を構
築する際には、軟組織と硬組織という機能の異なる2
つの組織を理論的に体系化する作業が必要になる。
2)矯正治療は不正咬合という力学的には「安定して
いる状態」を一度壊して、目的に沿って新たな咬合を
再構築するという治療形式をとるが、器械的に並べら
れた歯列は、治療後の環境に適応しなければ再び変化
(再不整)する。したがって、歯科矯正の概念は再不
整への対策を加味して構築されるべきである。
3)歯科矯正の目的に対する術者の意識や価値観の違
い、あるいは使用する装置の種類等によって治療概念
に違いがでてくる可能性がある 3)。
4)近代の科学技術は医療器機を開発・提供することに
よって医療の進歩発展に貢献してきた 4)。さらに近年
は科学的根拠という形をとって医療の質の向上にも関
与している。しかし矯正臨床上重要な意味をもつ経験
則や美醜の判定等、個人の主観に左右されるものはエ
ビデンスの対象にはなりにくいうえに、症例報告や専
門家の意見等はエビデンスレベルとしては低い評価し
か得られないという事情がある。そのため現在のエビ
デンスは、歯科矯正の概念に大きな影響を与えるまで
には至っていない。
5)矯正医個人の矯正治療に対しての概念は、初期には
矯正を学ぶために所属した集団の影響をつよく受ける
が、その後は先人の業績を取捨選択しながら構築して
いく。その選択に際して美的要素が大きい歯科矯正は、
個人の美的感性が少なからず関与してくる。この美的
感性の違いが歯科矯正の概念構築に大きく関わり、終
局的には抜歯・非抜歯の判断にも影響を及ぼしてくる。
さて、歯科矯正の概念に影響を与えた多くの説も、
長い歴史の中で変遷を繰り返してきたが、臨床経験か
ら導かれた事実に基づく報告は、時代を経ても褪せる
ことなく現在に至っている。歯科矯正の概念を構築す
るにあたって、今もなお大きな影響を与えていると思
われる数多くの説の中から、一つの論文を挙げておく。
1. 歯槽基底論 1925 年 Lundström によって報告された論文で、主旨
は「歯牙を移動しても歯槽基底部は変えられない」と
いうものである 5)。矯正臨床におけるもっとも基本的
な論文の一つで、現在に至っても抜歯・非抜歯の判断
に大きく関与している。また、下顎前歯部の唇舌的歯
牙移動の際におこる歯槽部の移動形式は人類の代名詞
ともいえるオトガイ形成に大きく関与する。このこと
は歯科矯正の概念構築に非常に重要な意味をもたらす
ので症例を用いて検証する。
症例- 1
初診時年齢 12 才 6 ヶ月の女子(写真 1 )。 口唇の突
出と下唇のひずみが顕著なⅠ級症例である。上顎左側前
歯部にほんのわずかな位置不整があるが、その他に目
立った叢生は認められない。側方セファロのトレース
から、上下顎前歯が過度に唇側傾斜していることが分
かる(図 1)。上下顎左右第一小臼歯を抜歯して治療を
開始した。
治療後(写真 2 )
下唇のひずみがなくなり、調和のとれた側貌が得
られた。治療前後のセファロをポゴニオンで重ねると、
下顎の歯槽部が舌側にドリフトしていることが認めら
れる(図 2 )。次に下顎下縁と B 点で重ねると、オトガ
イが大きくなっていることが認められる(図 3 )。
症例- 2
初診時年齢 12 才 8 ヶ月の女子。上下口唇に目立っ
たひずみは認められないが、上下顎の叢生とオーバー
ジェットが目立つⅡ級症例である(写真 3 )。
側方セファロのトレースから上下顎骨の大きさの違い
と、Ⅱ級関係の是正が困難な顎顔面形態であることが
読み取れる(図 4 )。したがって下顎延長術を回避する
ためには下顎歯列弓の前方拡大が必要で、且つ治療後
の再不整を防ぐためには治療後の下顎に半永久的にリ
テーナーを装着する必要がある。その条件を納得いた
だいたうえで上顎左右第一小臼歯を抜歯、下顎は非抜
歯の片顎抜歯症例として治療開始した。
治療後(写真 4 )
治療前後のオトガイ部の変化を側方セファロで評価
した(図 5 )。下顎歯列弓を前方拡大したが、下顎の歯
槽基底部は唇側には移動・拡大されず、単に前歯が傾
斜したことが認められる。
以上、成長期の2症例を用いて下顎前歯の唇舌的歯
牙移動の結果を報告した。下顎前歯歯槽部(B 点)は
オトガイが大きくなる舌側方向には動く(ドリフトす
る)が、唇側には動かないという治療結果は、過去に
おいて既に報告されている矯正臨床における紛れもな
い事実である 6)。この下顎前歯における歯槽部の移動
形式は人類がたどった進化の方向と一致しているだけ
でなく、歯列弓の拡大を可及的に回避すべき大きな根
拠と考えられる。
抜歯・非抜歯の背景[ 三瀬 ]
21
症例- 1 初診時
写真 1 - 1
写真 1 - 2
写真 1 - 3
図1
写真 1 - 4
症例- 1 治療後
写真 2 - 1
写真 2 - 2
図2
写真 2 - 4
22 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
写真 2 - 3
図3
症例- 2 初診時
写真 3 - 1
写真 3 - 2
写真 3 - 3
図4
写真 3 - 4
症例- 2 治療後
写真 4 - 1
写真 4 - 4
写真 4 - 2
写真 4 - 3
図5
抜歯・非抜歯の背景[ 三瀬 ]
23
さて、2012 年 3 月 8 日の読売新聞紙上で、人間とゴ
リラの遺伝子は 1.75%しか違わないと掲載されたがゴ
リラにはオトガイがない(写真 5 )。オトガイは人類の
誕生で初めて形成された顔の一部であり、人類と類人
猿を識別する大きな特徴である。また、その後の歴史
過程で徐々に大きくなっている(写真 6 )。
この件に関連する 2011 年の星の論文の一部を紹
介する。
「 小さな顎と大きな歯が組み合わされると叢生にな
る。これは生体による適応の結果であり解決手段でも
ある。この問題を歯列弓の拡大で解決することは軟組
織との調和を壊すことだけでなく、リラプスの原因に
もなる」7)。
2. 犬歯間幅径と歯列弓の形態 犬歯間や大臼歯間の幅径を拡げたり、歯列弓の形態
を変えると術後に安定しにくいという多くの報告論文
∼
がある 8 14)。その中から 2011 年の有松の論文の要点を
紹介しておく。
「矯正治療後におこる変化・再不整に一定の秩序や法
則を見いだすことはできないが、歯列弓形態を維持す
るような生体のふるまいを感じることはできた。した
がって治療後の安定を図るならば、変化に対する傾向
を再認識して、とくに下顎犬歯間を意図的に拡大する
ことは慎むべきであろう」8)。
写真 5
写真 6
24 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
Ⅱ . 人種
人種によっては生物学的な意味での差異が顥かに存
在する。また地域によっては文化的差違も認められる
が、とくに日本人と白人の顎顔面形態と文化的な差異
は共に大きい。そこで顎顔面の形態と文化の違いが抜
歯・非抜歯の判断にどのように関わるのか、写真を用
いて解説する。
1. 顎顔面形態の影響
日本人と白人それぞれの顎顔面の形態的特徴を有す
る例として、東大寺にある重源像とミケランジェロ作
ダビデ像の顔面写真を用いた。
ダビデの顎顔面の特徴(写真 8 )
・長頭且つ短顔である。
・下顔面高が短い。
・オトガイ隆起が顕著で、下唇にひずみは認められない。
両者の写真を比較すると、顎骨の奥行きと下顔面の
長さの違いが明らかである。幾何学的な見地から判断
して、顎骨に奥行きがあり、そのうえ下顔面高が短い
と前歯の唇舌的位置に余裕が生じる。反対に下顔面が
高いことは不正咬合の成立と関係が深く、とくに前歯
の唇側への位置不正は口唇のひずみに関与しやすい。
したがって抜歯、非抜歯の判断に際して、日本人と白
人の抜歯比率を同等にするような試みは、矯正治療の
本質からすれば無理であろう。
重源の顎顔面の特徴(写真 7 )
・短頭且つ長顔である。
・下顔面高が長い。
・下唇に緊張によるひずみが認められる。
写真 7
写真 8
抜歯・非抜歯の背景[ 三瀬 ]
25
2. 顔の文化
もともと歯科矯正は古代の西洋で顔の美的欲求から
生まれた。古いコインやレリーフ、そして切手や絵画
で見受けられるようにヨーロッパの美術史には横顔の
ものが非常に多い。それに対して戦前の日本では横顔
の絵や写真を見つけるのは大変な労力を要したとモノ
の本で目にしたことがあるが、日本では金貨に人物の
顔を彫るという発想そのものが思い浮かばなかったよ
うである。貨幣に人物の顔を入れるようになったのは
明治後のことで、それも紙幣に印刷した正面の顔であ
る(図 9A.B)。 すなわちヨーロッパは横顔文化とも云
えるが、日本人は欧米人ほど横顔に拘らない、いわゆ
る正面顔文化といえ、両者は顔に対する認識が基本的
に異なると考えられる。地理的理由により異民族との
接触機会が少なかったうえに、単一に近い人種で構成
されている日本では、顔の比較文化が生まれ難かった
ことが大きな理由だと推測される。
写真 9-A
写真 9-B
26 THE JAPANESE JOURNAL OF ORTHODONTICS
まとめ
昨今の日本では歯と顎骨の大きさに起因する不正咬
合を、歯列の拡大によって解消する非抜歯治療が流行
した結果、数多くのトラブルを引き起こして社会問題
化する一歩手前まで及んでいる。この傾向は一過性の
ものだと推測しているが、長く続くようだと歯科矯正
は社会の信を失うのではないかと危惧している。そこ
で今回、抜歯・非抜歯の判断に影響する要因のなかから、
概念と人種を採りあげ、矯正診断のあるべき「すがた」
について私見を述べた。
矯正治療における抜歯・非抜歯の判断は顎顔面構造
体の機能と形態によって判断されるべき課題であり、
形態の異なる人種間では治療の時期や方針に差違がで
て当然であるにもかかわらず、現実には混同している
矯正医も少なくない。
日本で歯列の拡大と非抜歯治療が流行し始めた背景
には、近代人が持つ進歩史観や国民性、そして美意識
など他にもいろいろな影響が考えられるが、それらに
対する報告、回答は今後の会員の研究課題としたい。
今後の日本で歯科矯正が社会の信頼を失わないため
には、抜歯・非抜歯の判断基準についていろいろな角
度から、それも公的な場所での速やかな検討・検証が
必要であろう。それまで専門医または専門医集団は、
社会に向けて正しい情報発信を心がける以外に、今は
手立てが思い浮かばない。
参考文献
画像出典
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写真 9-A ペニー・ブラック
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抜歯・非抜歯の背景[ 三瀬 ]
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