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【特別 寄稿】
【特別寄稿】 西田書翰に見る日本の精神史 一昭和10年代・嵐の中の思想と学問- 荒井正雄 I.まえがき 論文「国家理由の問題」(昭和16年公刊)を西田幾多郎が、執筆しようとした日本の国内事 情について、筆者は、拙著「西田哲学読解 -ヘーゲル解釈と国家論-」(晃洋書房、2001 年刊行)の「第3章西田書翰から見た『国家理由の問題』 -『国家論』執筆の歴史的背景-」 で、細やかな論考を試みたが、西田が「国家理由の問題」を執筆した時の、国内の政治的・思想 的な時代背景は、「自由主義とか個人主義とか云はれる理由はなからうと思ふ」と、西田が、自 身の論文について言及しているように、学問研究について、かなりの警戒心を持たねばならない 時代的状況であった。 ところで竹山道雄は、極東裁判(東京裁判)のオランダの判事として活躍したローリングとの 話し合いの中で、「昭和10年前後の世の中の移り変わり」が、極東裁判への道を歩んだ日本近 代史「全体を解く一つの鍵」だ、と述べている。(1、筆者も同一一の観点を保持するのだが、近代 日本形成の史的探索は、歴史的事実に法則を当てはめて解釈しようとする「史観」に依るのでは なく、その時代に生き、国家の方向性を決定した人間の思想と行動 一主体性を軸にして研究す べきである。「歴史を見る眼」について、西田幾多郎は、次のように言明している。 歴史の内容は歴史自身の中から理解せられるべきものであって、歴史の外から理解せられる べきでない。歴史的内容が外から法則的に理解せられるに従って、歴史は歴史性を失って自然 に近づく、‥‥歴史を理解するには、‥‥自費的なるものを置いて理解すべきである‥‥。 (2) 「自覚的なるもの」とは、「無の一般者」の自己限定であるが、従って歴史は、時間的には瞬 間の「非連続の連続」としての直線的限定である、と同時に空間的には瞬間の「並存」する円環 的限定である。所謂絶対矛盾的自己同一が、歴史的現実(自覚された世界)の基本形である。 以下の論考は、西田書翰で見る昭和10年代の歴史的・思想的事件を、西田哲学の歴史的観点 である「自覚的なもの」を範型にして、歴史の方向を選択するキー・パーソンの「主体性」(特 殊)が昭和史(普遍)の流れを、如何に決定して行ったか、 -その探索である。 皿。西田幾多郎と2・26事件 -「昭和維新」運動と、その思想 西田幾多郎は、昭和11年2月26日の衝撃的事件、即ち国家改造計画を瞭起目標に掲げた青 年将校の、かなり組織的な武装蜂起(putsch) ―「昭和維新」運動を日記に、次のように認め ている。(3) 26日(水) 雪 今日午後石炭屋の話に 今朝東京にて軍隊が大官を襲撃 巌戒令がしか れたといふ 鎌倉にも横須賀から武装兵が東て居る由 ‥‥ 28日(金) ‥‥ 今夜9時30分はじめて一部隊暴動のごと放送せられる 29日(土) 東京へ行かんとして午前8時鎌倉騨に到る 横潰まで電車不通 9時頃に至 り鮎順の徴ありといふ 午後2時全く蹄順 『日記』には、日本の史的なターニング・ポイントとなった2・26事件の、西田の所感は、 述べられていないが、堀維孝宛の2月27日と3月2日の書翰には、こう書かれている。(4) 2月27日 御手紙拝見 かまくらより 賓に神人共に許さざる残忍暴虐だ 33 フランス革命を想起せしめる私も昨日午後 家に来る御用聞きからその一一端を聞き何とも言葉が出なかった 彼等はどんな事をしても世間 には公表せられず國民の批判も受けず人を殺しても刑は二三年も出でず 出かすかも分からぬ 結果と思ふ 全く國家の破滅だ 賓に國民奮起の時だ 此際断固たる処置を取るものなくぱ國家前途は全く暗黒だ 然るに何処からもさういふ力が出そうな所がない ことなれば賓に日本の危機だ 3月2日 遂に増長して何をし これは常路者が唯彼等を恐れ一歩一歩あまやかした 國民は馬鹿だ 日本もどうなる事であらう 今日昔と違ひ外國もある 麻布の三聯隊だといふ話だが かまくらより 御手紙拝見した いづれにしても今後の日本は軍部が中心となつてゆくだらうとおもひます 園公の首相の選挿もさうするより外なからうとおもひます 前途暗喩たるものです ‥‥ これまでの様な軍部のやり方では 尊皇絶對と云って官廳に上官を殺し何等自省する所なく 陛下 の御信用の重臣を屠殺して皇居前に銕條網をはり陛下を私有せんとする如き軍人の態度は昔の 尊氏など・・異なる所はない 重臣もよくなかつたかも知れない 併し軍をしてかs、る無統制に 至らしめたもの誰の責任か 徒らに責を人に嫁するは武士の精神にあらず 2・26事件は、人間の主体性=蹴起将校の国家改造の意識によって惹起したのであって、決 して経済的土台のみの問題ではない。事件についての定説は、陸軍内の皇道派と統制派の激しい 軍事的・政治的対立を直接の原因とするが、小川平吉の「日記」(昭和11年3月6日)には、 「統制派の者も一緒なるに於ては」とする注意すべき文言がある。つまり統制派は、2・26事 件を予期しており、従って事件を鎮圧し、それを利用して統制派の企図する軍事・政治的改革を 断行しようとした、 -その意味では、皇道派も統制派も「一緒」であったのである。(5) ともあれ2・26事件は、歩兵第一聯隊と、西田が書翰にて言及している麻布第三聯隊の兵隊 14 0 0余名が、天皇親政の昭和維新を理念とする青年将校22名に率いられて「大官」 一岡 田啓介首相をはじめ鈴木賃太郎侍従長、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣や渡辺錠太郎陸軍教育 総監らー を襲撃した周知の反乱である。西田が、「軍をしてかゝる無統制に至らしめたもの誰 の責任か」と言っているのは、例えば、昭和7年の5・15事件が、「純真な青年が皇国のため をおもってやったこと」だ(荒木陸相の発言)として求刑より軽い判決 一禁固刑とした軍首脳 部の態度を指しているものと思われる。こうした軍部の雰囲気が、2・26事件への、一つの動 機となったと思われるのだが、岡田首相は、奇跡的に難を逃れ(6) > 鈴木貫太郎は重傷を負いな がらも、一命を取り留めた。西田書翰に見える「園公」とは、西園寺公望のことと思うが、西園 寺も「君側の奸」として青年将校の暗殺リストに含まれていた。29日の「帰順」とは、葦起部 隊から反乱軍に変貌した兵士の原隊への復帰のことである。 昭和初期の日本が孕む危機意識 -(1)日本資本主義の生産力拡充と、それに伴う農村疲弊の認 識、(2)新しい国際情勢、特に軍備の技術革新と総力戦体制の構築の問題に対する軍事的見識が、 現状打破のための、青年将校の「改革」意識を生み出す背景となった(特に(2)は、統制派にとっ て重要な問題)。共産主義「革命」を目指す左翼とは別の「天皇中心の国家改造」を志向したの が、①満蒙問題の緊迫、②農山村の窮乏及び③特権階級の腐敗(「判決理由書」) (7) を理由に 雁起した青年将校たちの昭和維新運動(2・26クーデター)であった。 河合栄治郎は、2・26事件の本質を「ファシズム運動」とした上で、運動の一つであった農 民に対する葦起将校の同情について、「国軍の結束という軍略的立場より来るという点に於て、 問題を把握する過程に於て誤」つていたが、「社会大衆の生活の安定、この一点に於て彼等は時 代の要求に的中し」ていた、と論説する(8) o ともあれ、この運動のバイブルとなったのが「猶存社」 案原理大綱』(192 (9) のメンバー北一輝の『日本改造法 3年、<原型は、『国家改造法案原理大綱』>、以下『法案』と略記)で あったのだが、このr法案』が、「日本の国家改造思想史の上で画期的な意味を持つ第一の理由 34 は、‥‥それが近代日本思想史上にもまれな天皇論を基礎として国家改造をはかろうとしたこと」 に索められる(10)。 『法案』の主張は、「《国民革命》理念の提唱において、当時の社会」とし ては「革命的な意味をもっていた」とした上で、石井金一郎は、『法案』が内包する思想的性格 を次のように説明する。 《国民革命》の理念は、絶対主義機構に反対し、国政の主導権を人民大衆の手に委ねること を主張するものであり、この《国民革命》の理念に導かれるならば、クーデターにはじまる国 家改造は、人民革命=国家の本質的革命にまで発展する可能性をもっていた‥‥(11、。 「青年将校たちは『法案』の主張、とくにその《国民革命》の主張をうけいれた」とされてい るが、2・26事件は、「国家の本質的革命」(人民革命)となり得る可能性はなかった、と惟 う。その理由は、こうである。青年将校が「肯定した天皇と国体は、既成現存の『天皇制』(引 用者補足一明治天皇制国家)‥‥ではなかった」 (12〉が、国家改造を計る青年将校には、理念上 の違いがあり、思想的には、(1)「『大義を明らかにする』(引用者補足一国体明徴)ための「斬 奸」行動のみに限定」した天皇派と、(2)磯部浅一に代表される北の『法案』の現実化 一超明治 天皇制国家(13)形成の端緒を開くことを目的とした改造派の二派に分かれていたからである。青 年将校には、「天皇派を抱え込んだ改造派のヘゲモニー下での実力行動への構造ができあがって いた」 (14)とする論説があるが、青年将校によるクーデターの精神(天皇の絶対神聖化)と行動 (君側の奸の討伐)に「国家の本質的革命」を読み込むことはできない。石井は、青年将校の意 識の矛盾として帰依性(天皇絶対主義)と主体性(国家改造主義)を掲げるが(IS)、両者の矛盾 を統一する原理が、明治天皇制国家(密教としての天皇機関説)を否定する「天皇」観(尊皇絶 対)であった、と惟うことから、《国民革命》は、成立しない。西田が、堀維孝宛書翰に書き記 したように「陛下の私有化」と言う意味で、逆説的であるが、青年将校の「国体」観は、北一輝 とは異なった意味の天皇機関説である。 蕨起青年将校による昭和維新運動を、理念的に上記の二類型 一天皇派と改造派- に分類す る筒井清忠は、叛乱将校の栗原安秀や磯部浅一の公判資料などの発言内容を踏まえて、国家改造 (維新)過程を次のように論説している。 2・26事件における「改造」派の青年将校の政治構想は、皇道派首脳(引用者補足、真崎 甚三郎など)の暫定政権による一時的事態収拾→「改造」派が中核に参画した「革命政権」。 という二段階戦術によるものではなかろうか(16)。 国家改造を志向した2・26事件に、西田幾多郎は、フランス革命の歴史像を重ねたが、亀井 勝一郎は、帝国大学と士官学校は「どちらも時代の危機意識において(帝国大学は、左翼の、士 官学校は、右翼の)『日本革命』を志した」(括弧内、引用者) (1 7)とした上で、現代史を「一 種の『日本革命』の危機の歴史」だとする(1 8) o 亀井は、自らの、この歴史観に立脚して2・2 6事件を「天皇という実体ではなく、「名」への帰一である」「天皇帰一」を「呪文」とした重 臣暗殺の内乱クーデターであったことから、国民から遊離した「日本革命」であったと規定する (19) ≪ 「国家の本質的革命」ではない。 ところで、2・26クーデターによって現出する革命政権は、青年将校、特に「改造派」主導 の政権のことだ、と筒井は、指摘するが(2。、、その革命の原理と方法論(国家改造は「軍隊運動」 (21、 )は、超国家主義者北一輝の『日本改造法案原理大綱』に索められる、という説が一般的で ある。この解釈は、正当性を保持しているのであろうか。 北の「法案」が「日本の国家改造思想史の上で画期的な意味を持つ第一の理由」として、 既に確認したように一 一 橋川文三は、「近代日本思想史上にもまれな天皇論を基礎として国家改 造をはかろうとしたこと」を揚げ(22)ヽ その上で、北一輝の天皇論は、「『天皇と共に』の思想」 (23)であって、理論的には、「国民は天皇とともに国家の最高機関を形成する」 35 (24)とした「ラ ジカルな『天皇機関説』の側面」(『国体論及び純正社会主義』)を持っており、この点「心情 的な天皇帰一を空想し」た青年将校とは異なっている、と指摘する。 国民的統一のシンボルとして捉えようとした北の天皇観 たり」(『日本改造法案大綱』「巻一 (25)即ち、天皇を下からの -「天皇の原義一天皇は国民の総代表 国民の天皇」)の「一君万民」論と、「維新革命以来ノ 日本ハ天皇ヲ政治的中心トシタル近代的民主國」とした「日本国体」論(「国民の天皇」の注) - は、天皇を絶対神聖視(瞭起趣意書の「万世一神タル天皇」観)する噺起将校の天皇観と理 論的心情的なズレがあるように惟う。石井金一郎が、言うように、「法案」は、「『天皇を報じ て』行なわれる「改造」を主張するものであって、いかに天皇の権威が高唱されても、その改造 の主体は天皇ではなく北とその《同志》にある」 (26)とすれば、磯部浅一一が、「改造法案の如き は実に日本国体にピッタリと一致」すると、言明していることは、大元帥としての天皇(軍人勅 諭)の「大御心」を念頭に置く磯部の、『法案』に盛り込まれた国家改造論の誤認である。その 意味で「天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ヲ完ウセザルヘカラズ」(『国家改造法案原理大綱』「緒 言」)とした北一輝と、青年将校の天皇観は、乖離していると考えられる(27) o ところで西田は、2・26事件の歴史的性格に言及し、「今後の日本は軍部が中心」になる歴 史の流れ、昭和史の方向性を予想しているが、北一輝に付いての思想的・政治的な感想を、書翰 や「日記」に記載していない。その理由は不明だが、日本哲学の理論的構築を目指す西田にとっ て、北は、無縁の人物であった。 ともあれ、国家改造論に立ち「尊皇討奸」を叫んで葦起青年将校は、天皇を政治的中心とした 「君と民の一体化」(国体明徴)を計ったが、結果的には、西田書翰に言う「陛下の私有」の立 場を採ることとなった。竹山道雄は、「天皇によって『天皇制』を{トそうとする} (28> (後述す る「顕教による密教征伐」)歴史的な出来事だとする。「天皇制」とは、官僚・財閥・政党・軍 閥によって政治が運営される天皇機関説のことであるのだが、噺起将校は、軍閥、即ち統制派を 「自己の政治的イデオロギーの貫徹のために天皇の権威をたえず利用」する(29) 「国体破壊の不 義不臣」の軍閥(「葦起趣意書」)として退ける(村中孝次は、「昭和維新も兵卒と農民と労働 者との力を以て軍閥官僚を粉砕せざる間は招来し」ない、と言う[無題録]) (30) o この意味で、 2・26事件は、国家改造の理念から言えば、皇道派=天皇親裁説と統制派=天皇機関(制限君 主)説を対極とするが、共に軍部による国家改造論を直接的原因としていることで同根と言える。 国家改造を巡る陸軍部内の派閥抗争を真崎は、「『日本思想と国家社会主義』の対立」と捉える (『真崎日記』)。真崎によれば、「皇道派は正しく、統制派は危険思想であ」つた(3 丸山真男は、2・26事件を「急進ファシズム運動」と捉える。そのことは、「千六百名も兵 1> o を動かしながら、結果的において数人のおじいさんの首をはねることにおわったという事に一番 よくあらわれて」いるとした上で、「運動形態は空想的観念的であった」 (32>とする。丸山は、 言う。 日本の「下から」のファシズム運動はついに最後まで小数の志士の運動におわり、甚だしく 観念的、空想的、無計画的であったこと、これが日本のファシズムの運動形態に見られる顕著 な傾向であります(33) o 「小数の志士」=噺起青年将校(皇道派)が、一枚岩ではなく、(1)天皇主義派(帰依性)と、 (2)改造派(主体性・北一輝の『法案』を信奉)の二類型に分類されるとすれば、天皇主義派と改 造派には、国家改造の理念と行動に、既に確認したような、意識されることのないズレがあった。 従って2・26事件での青年将校の行動プラン(イデオロギー)の実相を単に「天皇絶対主義一 承詔必謹主義」 (34)で「空想的・観念的であった」と評価することには、問題があり、検討の余 地があるように惟う。 以上の簡単な考察から、二つの問題、即ち(1)北一輝と噺起将校との、天皇論の同一性と差異性 36 の問題、(2)国家体制(近代日本国の「かたち」)を支えた明治憲法の性格、天皇主権論と天皇機 関説の問題が、検討されなければならない。後者の問題は、伊藤博文の著わした『憲法義解』の 検討を必要とするのだが、ここでは、美濃部辰吉の「天皇機関説」と、それに関わる政治的・思 想的事件に焦点を絞った昭和史を論考し、前者の問題と伊藤の憲法観 一顕教と密教- は、稿 を改めて論述したい。 Ⅲ。西田幾多郎と「天皇機関説」事件 美濃部氏賓に気の毒なり 許来公法などといふもの特に償の國史といふ如きものは研究でき ぬ事になりはせぬか(35) 西田が、「気の毒なり」と書いた堀維孝宛(昭和10年3月21日付)書翰の、美濃部の問題 は、周知の「天皇機関説」事件である。この事件は、蓑田胸喜(192 2年、慶応大学予科教授 となる)や三井甲之等「原理日本」の国粋理論家の攻撃のターゲットとなった点で、昭和8年に 起きた「瀧川事件」 (3 6)と同様な思想的性格を持っているのだが、決定的な違いは、「天皇機関 説が国体論として問題となっ」た(3 7)ヽ と言われるように、(1)国家の枠組みである体制(国体) の運用に深く関わる憲法解釈(精神)の問題、(2)軍部と右翼が一体となって日本の方向性を決定 付けた歴史的な出来事 -「国体明徴」運動とが、これに加重していることである。 久野収は、天皇機関説事件を「顕教による密教征伐」(国体明徴運動) (38)と捉える。「顕教 とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と 権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである」 (39)とした上 で、久野は、次のように説明する。 天皇は、国民にたいする「たてまえ」では、あくまで絶対君主、支配層間の「申し合わせ」 としては、立憲君主、すなわち国政の最高機関であった。小・中学および軍隊では「たてまえ」 としての天皇が徹底的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」に 熟達した帝国大学卒業生たる官僚に指導されるシステムがあみ出された(40) o 支配層の国政を運用するあり方は、国家システムとしての天皇機関説(立憲君主説)であるの だが、ヨーロッパ文明の影響を強く受け、憲法の「密教の部分を十分に理解した」指導者層が、 「顕教の部分を指揮する」国家的構図を(4 1)美濃部は、憲法理論によって説明しようとしたので ある。その意味で、伊藤博文が設計した国家システムの中核たる明治憲法は、プロシャ憲法を単 に模倣した絶対主義的理論にによって構成されたものではない(42、。とすれば、天皇機関説事件 は、尾藤正英が言うように、「明治憲法の本来の精神‥‥少なくともその中に含まれていた自由 主義や議会主義への可能性を、消去することにより、その憲法に基づく国家体制そのものを改変 しようと意図した立場からの、‥‥策謀によって発生した事件」であったのである(4 3)≪ 久野収 が言う「顕教による密教征伐」である。 丸山真男は、ファシズム運動の担い手として「小ブルジョア層」を掲げ、それを二類化 一グループ(亜インテリゲンチャ)と第ニグループ(本来のインテリゲンチャ)一一 一第 した上で、 次のような論説をしている。 昭和十年初めの天皇機関説‥‥事件があれほど大きな政治社会問題になったのは、それが第 一の範暗(第一のグループ)の世論になったからであります(44) o (括弧内、引用者) 丸山の、第一グループ「火付け役」論に問題がないわけではない。貴族院員の菊池や衆議院員 の江藤など陸軍将軍を念頭に描いて、丸山は、「第一グループ」としたのではないか、と想定す るが、「本来のインテリゲンチャ」である蓑田胸喜が、この事件に深く関わっていた思想的現実 を考えるとき、第二グループの「火付け役」論が、より重要ではあるまいか。 穂積八束の高弟である上杉慎吉と一木喜徳郎の学説に立つ美濃部達吉との「憲法論争」(天皇 37 機関説論争)で知られている「天皇機関説」への攻撃は、蓑田胸喜らの理論的な後押しを得て、 (45)貴族院で始まり、菊池武夫(陸軍中将、公正会所属、偏狭な日本主義者)が、ロ火を切った (衆議院では、江藤源九郎[陸軍予備少将])。丸山の言う「第一の範躊」レベルでの政治問題 となった。 昭和10年2月18日の第67回帝国議会貴族院本会議で、菊池は、美濃部を「学匪」と呼び、 こう非難する。 ‥‥我が公国ノ憲法ヲ解釈イタシマスル著作ノ中デ、金甑無閥ナル皇国ノ国体ヲ破壊スルヤ ウナモノガゴザイマス。‥‥誠二学徒ノ師表トナリ、社会ノ木鐸ヲ以テ任ズベキ帝国大学ノ教 授、学者卜云フヤウナ方ノ是が著述デアルニ於テ私ハ痛恨二堪エザル者デゴザイマス。是等ノ 著作ガアルコトヲ政府ハオ認メニナツテ居イルカドウカ、又オ認メニナツテ居ルナラバ、此著 作ヲ挙ゲテ、此著作ト共二如何ナル処置ヲ今後二於テオ執リニナラムトスルノカ‥‥是ハ美濃 部博士ノ御著述『憲法撮要』「憲法精義」ト云フヤウナ本デゴザイマス、‥‥是ハ要スルニ憲 法上、統治ノ主体が天皇ニアラズシテ国家ニアリトカ民ニアリトカ云フ、独逸ニソンナノガ起 ツテカラノコトデゴザイマスガ、其真似ノ本二過ギナイノデゴザイマス‥‥是ハ緩慢ナル謀叛 ニナリ、明カナル謀叛ニナルノデス。‥‥法窓閑話、法窓漫筆、憲法撮要、憲法精義‥‥斯フ 云フモノハ明二反逆的思想デアル、■ ■'■(46)。 亀井勝一郎は、戦後に公刊した論文「擬似宗教国家」(『中央公論』昭和31年9月号)の中 で、美濃部の天皇機関説は、美濃部「固有の天皇崇拝の表現であった」 (47〉とした上で、不敬に なったことを「今考えるとふしぎな気がする」 (48) (後述の美濃部亮吉の言明と同様に)と言及 しているが、菊池一蓑田グループが、問題とする「天皇機関説」を「憲法撮要」で確認すれば、 こう書かれていた。 大権トハ國法上天皇二属スル所ノ複能ヲ謂フ、天皇ノ御一身二属スル複利二非ズシテ、天皇 ノ地位二伴フ公ノ職能ナリ。天皇ノ大橋ハ固ヨリ憲法二拠リテ始メテ曼生シタルニ非ズ、我が 古来ノ歴史二基キ憲法以前既二久シク認メラレタル所ニシテ、憲法ハ唯成文法ヲ以テ之ヲ明白 ニシタルニ過ギズ。(第三章天皇 第二節 天皇ノ大橋 一一 概説) 廣義二於テハ大橋トハ一切ノ統治ノ権能ヲ意味ス。憲法第四條二「天皇ハ國ノ元首ニシテ統 治複ヲ総攬シ、此ノ憲法ノ條規二依り之ヲ行フ」ト日ヘルハ即チ此ノ意義二於テノ天皇ノ大橋 ヲ定ムルモノナリ。‥‥國ノ元首ト謂フハ尚國ノ最高機開卜謂フニ同ジク、國ヲ人勝二比スレ バ天皇ハ其ノ首脳ノ地位二在マスヲ謂フ。‥‥統治複ハ固ヨリ天皇ノ御一身二属スル権利二非 ラズ‥‥。((一)國務二開スル大橋‥‥) (49) 「天皇機関説は、天皇の存在を否定しているのではない。『国体』の解釈が近代的なだけであ る」 (50)のだが、美濃部学説を国体異変の「天皇=機関」妄説とした菊池一蓑田(右翼)の攻撃 に対して美濃部達吉は、2月25日の貴族院本会議で「一身上の弁明」を行なった。「著書の断 片的な一部をとらえた」攻撃の不当性をの述べた上で、美濃部は、「天皇が日本憲法の基本原則」 であることの否定ではなく、イェリネックらの説に由来する天皇機関説(国家法人説)の理論体 系 -「天皇は国家の最高機関として、国家の一切の権利を総攬し、国家のすべての活動は天皇 にその最高の源を発するもの」-(51)の正当性を主張した。ところが、「左手に原稿を持ち、右 手をポケットに入れた」太々しく、憎むべき美濃部の弁明態度と「学者的」ポーズに非難の攻撃 が、集中した(52、。 美濃部が「一身上の弁明」をした後の、2月28日に江藤源九郎は、美濃部を不敬罪で告訴し た。4月7日、検事局は、出版法違反の嫌疑で美濃部に出頭を命じたが、それは、満州國皇帝溥 儀が昭和天皇に出迎えられて東京に到着した翌日のことであった。検事局の尋問が終わった4月 9日に、『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本憲法の基本主義』の著書三冊は、発売禁止となり、 38 『現代憲政評論』『議会政治の検討』が、字句の修正を求められた<53) o 国体明徴を唱える陸軍の、特に統制派は、「たてまえ」論を盾にして天皇機関説を否定しなが ら、天皇を操縦(ロポット化)し、恣意的に政治を左右しようとする、その意味で逆説ではある が、天皇の実質的「機関」化を実現しようとする(54) o 昭和天皇は、「天皇は国家の最高機関で ある。機関説でいいではないか」との立場を採った、と時の首相岡田啓介は、「回想録」の中で 延べている(5 5) o 昭和天皇は、戦後「機関説」問題に触れて、次のような発言をしている。 斎藤(実)内閣当時、天皇機関説が世間の問題となった。私は国家を人体に讐へ、天皇は脳 髄であり、機関と云ふ代りに器官と云ふ文字を用ふれぱ、我が国体との関係は少しも差支えな いではないかと本庄(繁)武官長に話して真崎(甚三郎・教育総監)に伝へさせた事がある。 (注書きにあるように「斎藤内閣の時ではなく、岡田啓介内閣の時」で、昭和天皇の誤認であ る。また、「皇道派の首領、真崎教育総監に天皇の考えを伝えさせたというのは新事実」であ 昭和天皇の、この発言に絡んで言えば、次の二つの問題点がある。一つは、板野潤治説で、伊 藤博文と昭和天皇の「機関説」的憲法観が、ほぽ類似しているのに反し、美濃部達吉の天皇機関 説は、根本的に異なっている、とする問題点であり、他の一つは、尾藤正英が提唱する説で「明 治憲法そのものと美濃部の天皇機関説とが、基本的に一致している」 (6 7)が、昭和天皇の天皇観 は、「伊藤一美濃部」の線から逸脱している、とした問題点である。 昭和天皇の憲法観は、清水澄の学説 視- 一美濃部の「天皇機関説」に反対し、上杉の学説を疑問 の影響を受けているのだが、「みずからを国家と同一視」する昭和天皇は、「二つの解釈 (美濃部と上杉)のいずれにも依拠していた」 (58)とすれば、尾藤説、板野説の何れでもなく、 全く独自の立場(説)であった、と言えるのであろうか。 特に問題としたいことは、尾藤が美濃部の学説に付いて、「ドイツなどの外国の思想を強く受 けているとして非難される」が、「実際はむしろ、欧米の法思想とは異質な性格をもつ、共同体 的国家観に立脚していた」と指摘し、「その国家観は、美濃部によれば、日本古来の伝統と合致 していた」と論説していることである(59) o 尾藤が、「共同体的国家観」とか、「日本古来の伝 統と合致」している、と美濃部説に言及しているのは、美濃部が貴族院での弁明演説の中で「天 皇はわが国開関以来、天の下しろしめす大君と仰がれ給うのであります」と説明していることと 同一の意味であるように惟う。が、美濃部の機関説と日本古来の伝統の関連と、天皇観に関する 検討は、稿を改めたい。 ところで、西園寺は、立憲君主制(天皇機関説)の立場を堅持し、右翼的存在であった平沼騏 一郎の、右翼の劃策で宮中に入るのを阻止し、昭和天皇が、軍部や右翼の傀儡となる事に反対し た。西園寺のこの見地は、更に19 34年には、病気のため辞表を出した倉富枢密院議長の後任 に平沼副議長の昇格を排して一木喜徳郎前宮相を推したことに、よく現れていおり、西園寺は、 「一木を招致して国家に殉ずる決意をもって引き受けよと語気烈しく迫って、受諾させた」 と伝えられている。昭和天皇の側近は、西園寺が企図した天皇制に見合った立憲主義的な人物 一牧野内大臣、湯浅宮相、一木- で固められた。この人事上の出来事が背景となって起きたの が、「天皇機関説」事件であり、それは、美濃部達吉への単なる攻撃だけでなく、「機関説の本 家である一木枢密院議長や学説同情者の法政局長官金森徳次郎をも攻撃の的にする事件へと発展 していった。 (6 1)美濃部の、公法学の先輩である一木への攻撃は、「明治32年に発行した『国 法学』では、憲法上の統治の主体は国家にあるということを公言する学者であるから明らかに反 逆である」とした、学説への非難を根拠とした(62) o 以上の論考から導き出される問題が、二つある。第一は、「美濃部の天皇機関説は、‥‥明治 憲法を自由主義的に解釈したもので、大正初期以来、ひろく学会で承認されていた」とするのが 39 (60) 定説であるが(63)、美濃部の天皇機関説は、文字通りそうであろうか。例えば、父達吉の皇室に 対する言説を、美濃部亮吉が次のように述べていることは、どの様に解釈すべきであろうか。 父は、民主主義の味方であったが、天皇を崇拝する信念においては決して人後に落ちなかっ た。日本の国体は万古不易であり、天皇は神聖にして犯すべからざるものであるというような ことは、その著書『引用者注、f憲法撮要』。例えば、第三章 天皇 第三節 皇室 二 天 皇の身位)の至る所に書かれていた(64> o 尾藤正英がイェリネックなど「欧米の法思想とは異質」な性格を美濃部の憲法観に観るのは、 伊藤博文の憲法観(『憲法義解』)との一一致を踏まえたものと惟うのだが(例えば、「憲法撮要J p. 255を参考」、息子の亮吉が言及している上の天皇観 一万古不易の国体と神聖不可侵性 と無縁ではあるまい。 第二は、大日本帝国憲法(明治憲法)の性格を、絶対君主的な天皇主権の憲法とする解釈は、 伊藤博文の『憲法義解』の論説に従う限り、修正されなければならない。美濃部亮吉は、明治憲 法に付いての「父の憲法理論の帰結」(内実)は、天皇機関説になったと言うが(65)、明治憲法 は、拙著「西田哲学読解 -ヘーゲル解釈と国家論」で指摘したように、西欧の、特にプロ シヤ憲法と日本古来の伝統思想を包摂した、近代国家の憲法(普遍と特殊の総合)として制定さ れたのではあるまいか(66>。注42のシュタインの発言や注66のオリバー・ホームズの大日本 帝国憲法に対する見解を重視する必要がるように惟う。 Ⅳ。京都学派と「陸軍一偏狭な日本主義者(蓑田胸喜・佐藤道次等)」の思想的対立 j.天野の執禍事件と蓑田の西田批判 西田幾多郎の書翰には、京都学派と陸軍や陸軍と組んで天皇機関説撲滅同盟を結成した右翼の 思想家 一蓑田胸喜に絡んだ事件が、しばしば認められている。「かまくら」から発信された昭 和13年3月7日付けの、日高第四郎宛の書翰は、その歴史的事実を物語っている。 京都の或る人から京都日々新聞5日6日を送り来り天野君に開する記事を見て驚いた あれは要するに誇大に過ぎないと思ふがいかゞ 併し つまり本を絶版にするといふことにて萬事そ れですむのではないかと思ふがいか・ご かういふ手紙をかいた処へ京大新聞機外封入の君の手紙を得て非常の喜んだ これで安心し た‥‥軍部との問題が解決すれば他の方[の]策動は何とかならう(67) 西田が、新聞記事を見て驚いた、天野貞佑の著書は、岩波書店が「これは無事に済まぬ」と考 えたように筆禍事件を起こした『道理の感覚』である(68) o この著書は、「昭和6年満州事変の 勃発に始まり5・15事件、機関説問題の沸騰、国体明徴の提唱、2・26事件をへて日一日と 高まりつつあった社会不安」の中で、「これでは日本はどうなるかと深憂禁じ難く」自分の生命 と運命をかけて執筆された、と言う(69) o 『道理の感覚』が陸軍や右翼の攻撃目標となったのは、天野の、どのような論旨にあったので あろうか。具体的な言及はないが、筆者が、読む限り「道理の感覚」の根本命題「個体と全体」 の論点にあった、ように惟う(cf.後揚の西田書翰(1))。天野は、次ぎのように言う。 一つの社会は同じものから成り立つのではなく異質的個体の統一であります。‥‥一つの社 会、一つの全体が常に生きて働くことのためには、各々の個体をして十分に自分の職分をつく させることが絶対に必要条件であります。‥‥或る一人もしくは一部の人の意志のみをもって 全体を圧しつけておるならば、それは真の全体とは言えない。 或る一部の者の我値利己主義では歴史に寄与する力と生命とをもつ社会は出来て来ないと思 天野は、上記のように論じた後で、こうも言っている。 40 自分等は‥‥規則に時々刻々従ってゆきさえすれば宜と言うならぱ、人生というものも比較 的やさしいように思う。然し実際の現実の社会というものは作様ではない。現実の社会である 程度までそれに近い生活があるとするならば兵営の生活であるかも知れません。‥‥そこでは 何も考えることはない。上長官の命令に服従してさえゆけぱ自分の義務は満たされてゆくので あります(7 1、。 上の、天野の論説に、「士官学校にまで浸透した大正文化主義の風潮」についての、真崎甚三 郎の「驚きと不安」の感情を補足すれば、筆禍事件についての一つの解答が得られるように惟う。 真崎の慨嘆は、昭和11年4月21日付けの「憲兵調書」で、次ぎのように述べられている。 当時の社会状態を顧ると、新カント派が京都大学を中心として流行しておりました。その内 容が如何なるものであるかは、私は今日に至る迄不明でありますが、その学説の道徳方面にあ らわれたものは、人の道徳的行為の価値は自立にある、他より強制されて行なった事は道徳上 価値なし、といふ事でありました。‥‥此の気運が非常なる影響を与へ‥‥若い将校や(陸軍 士官学校)生徒の間に‥‥(上官の強制ではなく)自分がやった事でなければ‥‥価値がない、 といふ風潮がありました(括弧内、引用者) (72) o 西田幾多郎、田辺元等の京都学派に影響を与えた新カント派の価値観が、青年将校や士官学校 の生徒にまで浸透している、その憂いを皇道派の首領たる真崎は、述ぺているのだが、この感情 は、総力戦を唱え、国防的見地から国家の改造を念頭に置いて行動していた統制派も、思想上の 相違があったにせよ、同じであった、と惟う。軍隊(全体)には、自意識(個)は不必要である。 西田と新カント学派との論考は、本論とは直接関わりがないので、稿を改めるが、西田幾多郎 が新カント学派との関連に言及しているのは、例えば、「自費に於ける直観と反省」の「改版の 序」である。 私の思想の傾向は「善の研究」以来既に定まつてゐた。その頃リッケルトなどの新カント学 派を研究するに及んで、此派に對し何処までも自分の立場を維持せうとした。価値と存在、意 味と事賞との峻別に對して、直観と反省との内的結合たる自費の立場から雨者の綜合統一を企 てた。その時、私の取った立場はフィヒテの事行に近いものであった(73) 6 「フィヒテに近い事行」とは、「善の研究」の根本概念である「純粋経験」を意味するのだが、 それは、「直観」(ベルグソンの「純粋持続」説)と「反省」(リッケルトなどの新カント学派) を総合する「自覚」のことである。「純粋経験」の理論化は、「あくまで直観 が主であって、反省 一新カント派- -ベルクソンー が従であ」つたと、鮫山信一は、指摘し、『自費に於け る直観と反省』の立場が、「善の研究」│よりも「いっそう発展している点は反省にある」とする ともあれ天野の筆禍事件には、蓑田の非難攻撃が絡んでいる。蓑田によれば、天野は、「無批 判にカント哲学の道徳論を追従することから、抽象的無内容の道徳とか『道理』」を論ずること になり、そこに「人生そのものに対する非力を語るに落ち」た『道理の感覚』の問題があるのだ、 と言う(75) o (後述するように、新カント学派批判は、西田批判にも深く関わっている。)西田 は、「天野君は少しsanguineの所がある」と心配しながら、堀惟孝へ「かまくら」から次ぎの ような書翰(昭和13年3月9日)を送っている。 いろいろ御心配を願った天野の件はとうとう京都で爆発した 併しどう[に]か絶版といふ ことで解決がついた様だ■ " ■'(7 6) 京都の地方新聞は、「怪著、道理の感覚」のタイトルで「第一面全部を埋め」天野を攻撃した。 が、軍部 一京都師団長と天野、総長の三者会談の結果、「師団長の柔軟な姿勢」もあって、天 野の「自発的絶版ということで」筆禍事件に決着がついた(77) o 「軍部との問題が解決すれば」 と、西田が、心配していた事件の結末である。ただ、天野が、『天野貞佑全集』第1巻の「後語」 41 で記載するように「他の方の策動」、即ち陸軍に同調する右翼(蓑田一派)の攻撃は、「当分く すぶっていた」 (78〉o 『道理の感覚』の「絶版」という思想的な体験を味わった天野は、戦後に なって刊行した「全集」(第1巻)の「後語」で、「自分の思想」の運命について述べている。 全体主義横行の時代に個人の尊厳を力説し、個人主義敵意の時代には国家存立の意味を主張 し、つねに時世の偏見に対立し、それを中正の姿勢に戻そうと努力したのである。それ故に戦 前戦時には自由主義として、戦後は保守主義として攻撃されたのが、わたくしの思想の運命で ある(79)。 「戦前戦時には自由主義」者と考えられて「攻撃された」と、天野が言っているのは、西田書 翰に従えば、蓑田一派によるフアナティックな攻撃である。京都学派に対する右翼の思想的・学 問的攻撃の論点は、京都学派が「西洋の文化、思想を根拠にした世界史的、自由主義的立場」を 採り、従って、その思考様式は、蓑田一派が提唱する「純日本的立場と相容れない」ということ にあった、と大宅荘一は、説明する(80) o この攻撃は、「天皇機関説」批判に伴って展開された 国体明徴運動と無縁ではない。戦後の「保守主義」者とは、天野が、大東亜戦争に思想的な面で 加担したと批判された京都学派(8 1)のメンバーであったことに対するマルクス主義者からのレッ テルである。 ところで、貴族院議員の菊池武夫等に繋がる蓑田胸喜とその思想的同志の、京都学派への攻撃 に言及している西田書翰としては、以下のものがある(番号は、引用者)。 (1)‥‥この頃は何でも世界といへぱすぐコスモポリタンと云ひ 普遍といへぱすぐ抽象的普 遍(草に自然科學的な)と考へ前後の開係全勝の意義を考へずそれを攻撃の材料とする一派が 我々をねらひ居る故その鮎を注意し言葉尻を捕えられない様御注意肝要と存じます 何でも個 人を國家の上に置くat-omlstj-cな考へを非常につけねらふ様です 學生課の人が東京から蹄つての話に す 私 田逡 天野 私の月曜講演を或一派のものが問題として居るさうで 和辻などを一掃しようと云ふらしい(昭和13年6月25日付け 高坂 正顕宛 京都) (S3) 「個人を國家の上に置く」京都学派の考え方の間違いを純正日本主義の立場から攻撃し、葬り 去るのが、「或一派」の目的であったことを、この書翰は、物語っている。天野貞祐の名前も見 えることから、天野の著書「道理の感覚」が、攻撃の目標となっていたことを、西田書翰から知 ることが出来る。 書翰に記載された「私の月曜講演」とは、昭和13年4月と5月に京都帝国大学学友会が主催 した月曜講義のことで、講演内容は、「日本文化の問題」であった。この講演で「西田は日本と 西洋の類似点を強調しようと試み、これにより戦時中は親欧米派であると攻撃されることとなっ た」。「或一派」とは、蓑田等の極右国粋主義者達のことで、昭和18年の「読書人」(7月特 集号)には、浅野晃の西田批判論文「西田幾多郎著『日本文化の問題』」が掲載されている。後 掲の(2)から(6)までの西田書翰からも分かるように、「西田幾多郎こそは、‥‥『学術維新』の主 たる標的」であった、のである(83> o ベルナール・フォール(米国スタンフォード大学教授・仏教研究)は、「西田は、西洋哲学や 仏教から借用した定式を、結局は国家主義に奉仕するために用立てて、はっきりと国体イデオロ ギーを指示し」「『日本文化の問題』・「場所的論理と宗教的世界観」といった論文において、 最も国家主義的な立場をとっているのである」 哲学読解 (84)と論評するが、筆者の立場(、Cf・拙著『西田 -ヘーゲル解釈と国家論-』、特に、第1部の「第二章 西田幾多郎の国家論」「五 西田幾多郎の現代性」の見解)からすれば、デヴィッド・ディルワースの「西田の思想全体はそ ういった風潮(すなわち、超国家主義的イデオロギー)とは無関係であり続けた。どちらかと言 えば、西田の著作はそういった点ではかなり型にはまらない」 42 (8S>とした言説に賛成である。 (2)蓑田一派が私及び田逡 天野 和辻等を一掃するとかにて攻撃する積の由 先ず私を攻撃 して居る由 先日文部のものより聞きこちらの學生課の人々からも聞きました(昭和13年7 月4日付け 務毫理作宛 京都) (86> (3)蓑田胸喜といふ男は極右の連中と結合して大學のものなどをやつつけようといふ所謂フア ツシヨの有名な男です この頃私などを攻撃の目的として居る様です ‥‥日本の思想界も蓑 田の如きものが蹟雇する様では情けないとおもひます(昭和13年7月11日付け 瀧渾克己 宛 京都) (87) 倒蓑田といふ男誠に仕方のない男です 狂犬の如きものは相手にならぬのが一番と存じ居り ます(昭和13年9月3日付け 務毫理作宛 かまくら) (88) (5)賓は近来例の貴族院一派(菊池井田等)の背後に居る蓑田胸喜などが私を陥れるといふの でかれ等一派の雑誌新聞(帝國新聞原理日本)などに私の一言一句を捉へ或は誤解し盛んに攻 撃の材料にして居るので御座ます(昭和13年11月3日付け 木場了本宛 京都) (89) (6)おはがき見ました 日本の思想家學者といふのは理解する前に先ず非難する様です わた しは個人主義者で個人の救済を主とすると非難せられて居るそうです(田遵君の非難が傅播す るのか知らぬが) 佐藤道次など日本精神は見るものではなく聴くである 天皇随順だと暗に 私を非難する様だが 私の見るといふのは佐藤のいふが如き浅薄の意味ではない(昭和18年 2月8日付け 瀧憚克己宛 鎌倉) (90> 西田が、「日本の思想界も蓑田の如きものが蹟旭する様では情けない」と嘆いた蓑田の、西田 哲学批判(非難)の最大の目的は、西田が、「デモクラシーやマルキシズム等、非日本反国体思 想の流行に幾十年無批判追従」してきた、その学問的姿勢にあった。(91)つまり「マルクス主義、 共産党運動を傍観し、また之を容認」した西田幾多郎の姿勢は、帝国大学の教授として不的確で ある 一蓑田の非難・攻撃は、自らが進める「学術維新」の根幹思想である「『しきしまのみち』 に基づいての『科学的』迷信の打破であり、『思想学術革命』」(『日本人の進路』)であった 西田は、「私の一言一句を捉え或は誤解し或は曲解し盛んに攻撃」していると言及して いるが、その代表例が、「絶対矛盾的自己同一」の哲学である。蓑田によれば、「絶対とか矛盾 とかいふ極端最大級の概念を余りに容易に用いるのは思想法の単純幼稚のしるしで」 (93)あって。 「ヘーゲル哲学からマルクス主義を貫く弁証法の『矛盾』論理」を「迷信」することから構築さ れたところの「幼稚なる形式論理の窮策手品に過ぎない」 (94)のである。そして蓑田は、「矛盾 概念を事毎に振廻すのはゲーテの所謂『弁証法的病人』」だ、と西田の学風を糾弾し、「真に独 創的」ではないと評している。 ともあれ反国家的な思想であるマルクス主義の批判は、蓑田の至土命題であるのだが、そのた めには、西田や天野等がマルクス主義に「無批判に追従する」ことは許し難く、「カント批判た らねぱならず、マルクス主義者根絶のためには新カント派の根絶が必要」であった(9 5)o 士官学 校事件に絡んで、真崎甚三郎が、新カント学派の影響に付いて言及していることを、既に確認し たが、蓑田も「カント倫理説の主観主義個人主義」を否定し、「正しい」と彼自身が考える「歴 史主義全体主義へ」の志向を強調する(96) o 西田が言う「個人を國家の上に置くatomisticな考 へ」の絶対的な否定である。蓑田にとって、「学術維新」とは、学問・思想の昭和維新である。 なお、西田書翰の中に出てくる佐藤道次は、九州大学の哲学教授で、京都学派を批判した「読 書人」において論文「見るものから聴くものへ」を執筆した人物である。西田は、「私の見ると いふのは佐藤のいふが如き浅薄の意味ではない」と書翰で述べているが、この問題は、稿を改め て論じてみたい。 (≫2) o 2。論文「世界新秩序の原理」の執筆問題 一西田幾多郎は、陸軍に敗北したか?- 43 蓑田にとって西田は、「個人を国家の上に置く」反国家主義者であったが、陸軍の依頼によっ て西田は、「世界新秩序の原理」を執筆した。この論文は、昭和18年6月東京で開かれた「大 東亜会議」の宣言文と関わりがある。「世界新秩序の原理」執筆に付いては、戦後になって、大 宅荘一が「西田幾多郎の敗北」(『文芸春秋』昭和29年6月臨時号)とした論評を行なった。 大宅は、なぜこのような論評をしたのであろうか。それは、矢次一夫の「回想録」(「西田幾多 郎博士の大東亜戦争観」)を執筆の参考文献としたことに索められる、と惟う。つまり、西田哲 学や京都学派が陸軍報道部、憲兵と特高による熾烈な批判と攻撃を受けており、従って、「西田 の逮捕を防ぐ」ためであった、とする矢次説に依拠して、大宅が、論考したからである。大宅は、 こう言っている。「"西田哲学“ならびに西田博士個人が、どのように"危険“な状態におかれ ていたかを考えれば、これは私の独断でない」 (97) o 西田幾多郎に対して「先生も(右翼に)狙われてい」る(括弧内、引用者)と警告した矢次一 夫(「国策研究会」を主宰)の、この発言を踏まえて、大宅は、「自由と平和を重んじる学者と しての生命と、肉体的な生命と、どちらをすてて、どちらをひろうべきか、二者択一の窮地に追 い込まれた」ことに「世界新秩序の原理」執筆の動機があったとする、一所謂「西田幾多郎の敗 北」説の根拠である(98> o 陸軍省軍務課のリーダーの一人であった佐藤賢了(終戦時、陸軍中将軍務局長、東京裁判で終 身禁固刑)は、「西田哲学の西田幾多郎博士を引っ張るかどうかという問題があって、矢次一夫 氏が中には入り、止めてくれという話があった。私はそんなことを知らなかったので、びっくり した。そして私の目の黒いうちは、西田さんを引っ張るようなことはさせないと言った」 戦後になって述べている。矢次と佐藤の「発言」が一一致することから、大宅説 (98)と、 一西田敗北説- は、成立するのであろうか。 古田光は、「『世界新秩序の原理』事件考」で、西田は、「逮捕という脅迫におびえ」ること はなかった(100) と言及している。西田の「ヨーロッパの侵略に對してアジアを復興させる。 ≫ ‥‥それだけの犠牲を彿つてやるなら所謂共築圏で、‥‥そうでない限り聖戦とは言はれない、 共梨圏でも何でもない」 との自説を、陸軍に対して持っていたことを考えれば、大宅説は、 (101) 成り立たないcl。2)。真実は一つだが、筆者としては、古田説を採りたい。 ところで昭和18年11月に東京で開催された大東亜会議において採択・宣言された「大東亜 宣言」には、大宅も言及しているように、「西田哲学の影響らしいものはほとんど認められない」 このことは、和辻哲郎への西田の書翰(昭和18年6月23日付け)に拠っても裏づけ (1U3〉o られると惟う。 東條の演説[昭和18年6月15日の「第82議会」]には失望いたしました の理念が少しも理解されてゐないとおもひます(むりもないことだが)([ あれでは私 ]内、引用者) 「世界新秩序の原理」が、国策研究会の求めに応じて執筆されたのが、昭和18年5月である ことから、書翰での「私の理念」とは、「世界新秩序の原理」や「国家理由の問題」で強調され ている「日本精神の世界性」を指しているものと、惟う。東条英樹首相は、「理解できなかった」 のである。 ついでに言えば、評論「西田幾多郎の敗北」に掲載の「要項」を、大宅荘一は、西田が執筆し た「世界新秩序の原理」と理解しているのだが、これは、事実誤認である。 大橋良介は、「世界新秩序の原理」の改変が二回あった、とする。第1回は、大宅も指摘して いる、田逡壽利(フランス社会学の研究者)による改変である。それが、「要旨」と呼ぱれてい るものである。その時、田遺は、「要旨」を「極秘、謄写版で百部刷った」(『晩年の西田幾多 郎と日本の運命』)と言う。第2回は、不明とするが、田遺から「要旨」を受け取った金井章次 44 は、「期待しだ大東亜宣言“の草案とは少し違うが、その案をつくる連中の指導精神というか、 魂にはなる」と考え、矢次に渡したとされる。矢次は、別に「二十部限定してプリントし」たと 言っていることから、この時、2回目の、金井か矢次による改変が行なわれた可能性がある。こ の仮定が成立するとすれば、改変されたものが、「要約」であった、と考えられる(105) o 西田自身の言葉で確認したい。昭和18年6月14日付けの、和辻哲郎宛の書翰で西田は、こ う説明している。 別紙の基は意外の開係にて陸軍の方から頼まれ書いたものですが これは金井章次 田遵壽 利(欄外に陸軍に見せる篤)が私の書いたものによって書いたものに過ぎませぬ これが世に 分かれば有象無象が攻撃の種にすることゝ存じます どうか色々御注意をお願ひいたしたいと おもひます(106) 西田書翰は、改変のあった「事実」を認めている。「別紙の基」とは、「世界新秩序の原理」 のことで、軍部が、「大東亜宣言」の草案作成の参考として西田に依頼し、西田が、「書いたも の」だが、「これは」(別紙)とは、書翰の文言から想定すれば、金井と田遵の二人が書いた改 変の「草案」と読める。ただ、改変は、二回であったのか、更に「要旨」あるいは「要約」のい ずれであったのか、書翰からは、想定不可能である。 なお注意しておきたいことは、「要旨」は、「大東亜戦争は東亜諸民族がかかる世界史的使命 を遂行せんとする聖戦である」とし、「聖戦」が、強調されているのだが、西田執筆の「世界新 秩序の原理」には、「聖戦」の文字はない。 V.西田幾多郎と津田左右吉事件 昭和精神史を論ずる時、必ず問題となる学問的事件の一つが、津田事件である。 津田左右吉が出版法第19條「安寧秩序を妨害し、又は風俗を壊乱するものと認むる文書図書 を出版したる時は、内務大臣においてその発売頒布を禁じ、その刻版及び印本を差押うることを 得」によって、四つの著書 -『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研 究』『上代日本の社会及び思想』の発刊停止を検事局から命ぜられたのは、昭和15年2月10 日であった。そして、津田と岩波茂雄が、出版法第26條第1項 -「皇室の尊厳を冒涜する文 章を出版したる時は、著作者、発行者、印刷者を二月以上二年以下の軽禁鋼に処し、二十円以上 二百円以下の罰金を付加す」の違反に問われて起訴されたのが、3月8日であった。 津田と岩波を出版法違反で起訴することになった、直接の「火付け役」は、蓑田胸喜である。 蓑田の攻撃を津田左右吉が受けるようになったのは、東京帝国大学法学部に昭和14年に新設さ れた「東洋政治思想史講座」の講師に招かれて出講するようになってからである。蓑田は、『原 理日本』臨時増刊号で「津田左右吉氏の大逆思想」を載せ、津田の古代史は、「皇祖皇宗より第 十四代の仲哀天皇までの御歴代の御存在を否認しまつらんとするもので、これは国史上まったく 類例のない思想的大逆行為である」と批判し、攻撃を加えた(107) o ともあれ、西田幾多郎は、この思想的・学問的な津田事件についての所感を、山本良吉宛の書 翰(昭和15年3月12日付け)で、次のように述べている。 津田の一件まさかと思つてゐましたが起訴となり 且つあの様な條項によるとは賞に驚きま した ‥‥ 津田といふ人は少し言ひ過ぎの所はあるが 蓑田一派の策動によりあすこまで動 かされる様では國家の學問的研究といふものやめるより外ないとおもひます(108) 「あの様な條項」とは、出版法第19條を指すものと惟うが、「蓑田一派の策動」の文言は、 学問的には、「シナ思想と日本」で展開した東洋史や東洋文化の非存在性 -インドと中国の文 化・風俗の異質性を強調する津田の歴史観に対する攻撃のこと、と考えられる。が、偏狭な「日 本精神」論を批判した津田の論文「日本精神について」(『思想』19 34年5月号)は、蓑田 45 の「学術維新」の信念 -「しきしまのみち」に抵触し、その為攻撃の的となっていた、と想定 される。 論文「日本精神について」には、こう書かれていた。 「平安朝の昔にいはれた『やまとごs、ろ』または『やまとだましひ』は別としても、徳川時代 の國學者の歌った『しきしまのやまとご・ゝろ』には勿論のこと、明治二十年代に唱えられた『國 粋』にも、その後いろいろの形で時々現れた『日本主義』の語にも」「重苦しい抑枢的のひ・¢き さ」は、なかったが、「不思議にも今日の一部の思想家」の説く「日本精神」論は、「高い調子 で叫ぱれ、何となく物々し」く、「遠い過去のみ注目」している。要約して言えば、「上代人の 思想がそのまゝ後世までの民衆生活を支配してゐるやうに考へたり、すべての傅統はみな遠い土 代からのものであるとし、さうしなければ傅統に重要性が無いやうに思ったり」し、「現代とは 縁の遠い過去の生活に日本精神を求め」ているのである。 上のように論考した津田は、「現代生活の内面に動いてゐる精神を日本精神として認めず、過 去にのみそれを求めやうとするならば、それは精神といふものを現賞の生活から離れて存在し、 如何なる時代にも同じやうにはたらくものと考へ」ることになるとし、「一部の思想家」の日本 精神論を、この観点から批判する。別言すれば、「日本民族の特殊性、‥‥その優秀性、を認め ようとする」日本精神論は、その形成の「歴史を解せざるもので」あって、従って、日本精神を 論ずる時は、「日本人の思想とても世界の思想と離れて存在するはずが無い」とした観点に立脚 すべきであるとする(109) o 津田の論点は、(1)偏狭な日本精神の絶対性・優秀性を認めず、「世 界の思想」の観点から、日本精神の相対化を説いたこと、(2)それぞれの時代には、「時代精神」 が存在し、働いており、古代の精神のみが、唯一絶対の日本精神ではない事を批判する、即ち、 古代精神の相対化に論文の目的があったように惟う。西田哲学に引き付けて言えば、「普遍と特 殊」の問題である。 津田左右吉の歴史研究は、「明治人らしい開明性と、ナショナリストとしての気骨」 (110) に よって行なわれた、と言う評価がなされている。後者の「気骨」は、戦後、雑誌『世界』(昭和 21年4月号)に掲載した論文「建国の事情と万世一系の思想」に端的に現れているのではある まいか、-と筆者は、惟う。井上光貞は、津田史学の評価史を三段階に区分し、第2期を「権力 と戦った学問的英雄」として「聖視」された時であった、とする(Ill〉9 井上の、この論説を念 頭に置きながら、前掲雑誌『世界』の、編集者がコメントした「津田博士『建国の事情と万世一 系の思想』の発表について」を読む時、戦後第2期の学問・思想の現在性が、よく解かる。コメ ントには、こう書かれていた。 左翼の人々は、先生を日本歴史の研究に於ける最も権威ある科学的歴史家として尊敬し(て おります。)先生の学説にとって非科学的な日本歴史が正され、神がかり的な妄想が一掃され た後に、なほ先生が今回発表になつたやうな積極的な皇室擁護の立場があらうとは、おそらく 考へられてゐないに違いありません(括弧内、引用者) (112) o 第2期の評価に立脚する編輯者の津田論文に対する「驚き」が、よく現れていると惟うのだが、 「われらの皇室」思想の削除の「期待」にも拘らず、津田左右吉の30年来の歴史観は、変更さ れなかった。古代史の研究によって培われた「ナショナリストの気骨」を、津田は、貫き通した のである。 西田の国家論は、全体的一と個別的多との矛盾的自己同一を論理形式とすることから、「國家 観は唯民族中心といふだけではだめ」 (11 3) だと言う立場を採り、その上で西田は、「日本精神 の世界性」 を強調する。即ち、偏狭な日本主義(日本の「主体化」)を退けるのだが、同 (1 14) 様に、「日本民族の特殊性と優秀性」を強調するだけの「一部の思想家」の「神がかり的な」日 本精神論を津田は、認めなかった。が、他方、丸山真男が書き記したように(「ある日の津田博 46 第1図 天孫降臨神話の「神詔」の意味 【説明】 (1)万世一系の哲学(皇位継承のロジック)の神話的 表現(一太線)。 (2)タカミムスピ(高御産巣日の神)は、「思想的な 意味から加わ」つている、と竹田祐吉は、説明す るが、その根拠を言明していない『i新訂古事記』 記丿角川文庫p. 5 6)。 (3》竹田説は、上山説のタカミムスピ=藤原不比等と 不比等の国家哲学を想定するとき、興味ある解釈 をすることが出来る。 士と私」『図書』19 (1)「不常蹟典」(皇位継承のロジック)に則った大和朝廷 の父子相続( 太線)。 (2)藤原不比等が、構想した国家哲学を神話世界にプロット したのが、左図の天孫降臨神話である。 (3》タカミムスビ=天地鎔造の神とする説『千田稔i伊勢神 宮 一東アジアのアマテラス』(中公新書p.216) を踏まえて言えば、タカミムスピ=藤原不比等とする上 山説は、国家形成の「立法者」としての不比等を意味し ている。 6 3年10月号)、津田は、「皇室擁護の立場」を採り続けたのである。 津田史学を糾弾した蓑田は、昭和21年1月30日にこの世を去り津田論文を読むことはなかっ たが、もし読んだならば、なんとコメントしたであろうか。 傍聴禁止の津田裁判は、昭和16年5月21日に判決がくだされ、皇室の尊厳を冒涜するもの (出版法第21條)として有罪となったのは、「神武天皇から仲哀天皇までの皇室の御系譜は、 信頼し得る根拠に基づいたものではないjとする記述内容であった。つまり史実を含まない虚構 の系譜と言う論説に対するもであった。 ところで、問題となった天皇の系譜論に関しての、興味深い論説がある。一つは、直木幸次郎 説である。直木の仮定は、「七世紀末から八世紀初頭にかけての天皇家は、父子間の直系相続を 熱烈に希望していたこと」から「神武以降崇神までの八代の天皇が、直系相続しているのは、こ の思想の反映であるにちがいない」 (115〉 ということである。二つは、7世紀末から8世紀初頭 の「天皇家」とは、「天武・持統一文武-(元明一元正)一聖武」を指しているのだが、 直木説より一歩踏み込んだ論点から、父子相続に執念を燃やしたのは持統女帝とその協力者藤原 不比等であった、とする上山春平の仮説である<116) o 上山説によれば、直系相続は、持統女帝 の私的な「情熱」(ヘーゲル:Leidenschaft)一実子草壁への皇位継承であったが、『記紀』 「神代巻」で語られる「天孫降臨神話」は、律令国家の法体系による皇位継承のルール=父子相 続の絶対性・正統性(「不常改典」)を「万世一系の哲学」として象徴的に表現したもので、兄 弟相続を「異端」として否定する「非革命の哲学」の神話的表現と考えられる。 この国家哲学は、不比等によって密かに構想されたもので、近未来の現実的政治を見通して言 えば、日本型律令的天皇制と、その変態としての摂関政治(未来国家)形成への、彼のライデン シヤフトでもあった(その意味で、不比等を「立法者」<J・J・ルソー>と定義つけることが できる)。上で論説した神話世界の「万世一系の哲学」と「不常改典」にしたがった大和朝廷の 皇位継承の相関性をプロットしたのが、第1図「天孫降臨神話の『神詔』の意味」である。 47 天孫降臨の時に、タクハタチチヒメ(ヨロヅハタ・トヨアキツシヒメ)の父として、アマテラ スと共に高天原に出現するタカミムスピを、津田は、「日孫降臨と、タカミムスピとは、本来、 無開係のこと」 (117) と論説するが、上山は、タカミムスビを持続女帝のパートナー(皇位継承 の密約者)である藤原不比等の国家哲学的な投影であるとする仮説を定立する(cf.第1図)。 タカミムスビを「天地鎔造の神」(「日本書紀」顕宗天皇3年2月、4月の條)と見なすことは、 この神を「宇宙創成の神」と考えていることの現れである<i 1 8)>とする論説があるが、とすれば、 近未来国家形成の立法者である不比等の神話世界への国家哲学的な投影として、タカミムスビを 解釈することは、可能である。 不比等=立法者論は、人間の主体性が、未来社会(国家)を選択する、即ち歴史の方向性を決 定する歴史観の「要」であることを示唆しいると惟うのだが、ともあれ、「神代は歴史時代の或 る時期に思想の土で構成せられたものであ」つて(1 1 9)ヽ 天孫降臨神話の「神詔」を「後世の人 が物語の一節として製作した」とする、津田の論説は、無罪とされた。が、判決は、津田左右吉 が禁鋼3ヵ月、岩波茂雄は2ヵ月であった。西田が、「國家の學問的研究」の危機感を抱いた裁 判の結果であった。 VI.結 語 亀井勝一郎は、論文「現代史家への疑問」(『現代史の課題』)において、マルクス主義史観 の人間不在を指摘しており、所謂「階級闘争」史観を批判している。筆者は、「まえがき」で述 べたように、国家の方向性を決定づけた「主体性」を、最も重視したい。 ところで、亀井は、「『昭和史』は戦争史である」(『現代史の課題』)と言う。少年期に国 家主権が激突した未曾有な大東亜戦争を経験した筆者(実存)としては、人生の大半を生きた昭 和が、如何なる時代であったか、時代をリードした人物の国家「論」や「像」は、どの様に描か れていたか等に ー「ミネルヴアのふくろうI Die Eule der Minerva ではないが一 強い関 心を持っている。論考の対象とした昭和10年の「時代」を織りなした2・26事件と北一輝の 国家観、「天皇機関説」事件及び津田事件、更に西田の「世界新秩序の原理」執筆問題などは、 日本国家の方向性、即ち国家の「かたち」の形成 一心情的・情熱的であったか、学問的・哲学 的であったかは別としてー に深く関わっていた、と惟っている。 日本国家の未来像を設計し構築する作業が、キー・パーソンの重要な任務であるとすれば、彼 は、国家哲学を持っていなければならない。伊藤博文は、大日本帝国憲法の中に近代国家像 一 日本の「在るべき」国家像(国の「かたち」)を描いたが、決して西欧的な国家像その値ではな かった。伊藤博文自身の国家哲学が、明治憲法にはプロットされているのである。西田幾多郎は、 「日本の主体化」(偏狭な日本主義)を否定して「日本文化の世界性」を強調し、世界史の中の 日本の在るべき国家像を論じているが、その意味で、キー・パーソンは、哲学者で在り、国家体 制を構築する立法者(J・J・ルソー)でなければならない。 筆者の、この考えを端的に言い表しているのが、マックス・ヴェーバーによる「ポリテイア」 (プラトン:第7巻「不思議な比喩」)の、興味ある解釈である。 (背後から差し込んでいる明かりを見ることができなかった一人の人間が、鎖を断ち切り洞 窟の外へ出て明かり 一太陽を見る。)かくしてここからかれの使命が生まれる。洞窟の なかへ戻ってほかの連中の目を明かりのほうへ向けてやること、それがかれの使命である。か れとは哲学者のことであり、太陽とは学問のことである。この比喩は、学問のみが真の実在を とらえるのであることを教えている(12 0)o (括弧内、引用者) 48 注 1 (1)竹山道雄『昭和の精神史』新潮社、 p、 142、昭和31年。 竹山は、遠山茂樹や井上清の「現代史」を採り上げ「これらの著書が重臣、政党、官僚、軍閥、財閥などの支配層を、 いずれもひとしく「好戦的ファツシヨ」として単一化してあつかい、それらがはじめから戦争遂行の共通の意思に統一 されていたもののように記述するのはドグマであり、図式主義であるjと批判する(竹山前掲書p。56)。つまり、 遠山・井上の歴史観は、「支配層の全体を軍国主義者の意思によって、単一にわり切って理解する」「図式主義」であ るが、歴史理解の仕方は、決して図式主義的であってはならず、「支配者個々の人間的立場に密着した理解」でなけれ ばならないとする。所謂「昭和史論争」(歴史に働きかける「人間の主体性」<思想、信念>を重視するのか、或いは 「歴史の客観性」<法則>か)に於ける竹山の立場は、上記のように講座派(マルクス主義)史観を認めない。(C 浅田光輝「イデオロギー体系としての国家 -「昭和史論争」によせてー」『思想』19 『現代史の課題』の「日本近代化の悲劇」岩波現代文庫、2 f. 5 9年10月号、亀井勝一郎 0 0 5年) (2) n I西田幾多郎全集』「一般者の自己限定」)第5巻、岩波書店、p. (3) r西田幾多郎全集』第17巻、p. 3 9 8、19 7 9年版。 5 34. (4)「西田幾多郎全集」第18巻、 p. (5)伊藤隆『昭和史をさぐる』朝日文庫、p. 561、p. 5 64. 1 9 5、 pp、 197-198. 小川平吉「日記」の原史料は、「小川平吉関係文書」(みすず書房)である。 (6)「岡田啓介回想録」(中公文庫、2 0 0 1年)には、その時の状況が綴られている(pp.205-210)。 (7)藤原彰「二・二六事件(1〉)「歴史学研究Jk169、19 54年3月号所収、岩波書店、p. 2 3. 藤原は、本文記載の3つの「動機」のうち、②と③を「青年将校がクーデターによって目指したもの(が)‥‥客観 的には独占資本と地主の利益を最大限に貫徹しようと」したことからデマゴギーにすぎないものと論評する(括弧内、 引用者。前掲論文p. 2 1、p. 24)。が、藤原の論説は、当時支配的であった歴史分析、即ち経済的土台から説明 しようとするマルクス史観であって、竹山道雄や亀井勝一郎(『現代史の課題』)が批判する「人間の主体性」の観点 を喪失している。 (8)河合栄治郎「時局に対して志を言ふ」『中央公論』昭和11年6月号。高橋正衛「二・二六事件 思想と行動-』(増補改版)中公新書、2 004年版p. 24からの再録。 -「昭和維新」の (9)老荘会設立の1人満川亀太郎は、北一輝や大川周明と同じく「新しい右翼運動の重鎮」である(橋川文三「昭和維新 新論j p. 2 3 1」。老荘会とは、彼が、会員の会合に使用した洋風木造家屋に付した名称で、唐詩選の「傭概の志猶 存」から採られたものである。橋川は、「日本ファシズム運動史をたどるには、この猶存社に結集した右翼人の思想と その後の経歴をたて糸として追求する」必要を強調する(前掲書p. 2 34)。 橋川によれば、猶存社系統の人物の思想と行動は、大まかに言って上記の人物群から想定できるように、「社会主義 とくに共産主義的発想に鋭く反発し、むしろ日本の伝統の核心とみなされた『国体』の擁護に立脚しつつ国家を改造し ようとした」点に、その特徴を持つとされる(前掲書p. 2 3 5)。問題は、国家改造の思想と行動が、完全に一致し てはいないことから(例えば、北と大川の国家観は、一致しない)、この点の比較分析を必要とする。 (10)橋川文三「昭和維新新論」朝日新聞社、pp. (11)石井金一郎「北一輝と青年将校」「思想J (12)竹山前掲書p. 4 1. (13)松本健一「北一輝論」講談社学術文庫、p. なお、松本健一は、 236-237、19 Ntt404、p. 7 9、2 9 3年。 6 1、19 5 8年2月号。 0 04年版。 超明治天皇制国家(超国民国家)を、(1)「明治天皇制国家の支配原理そのものに端を発する」 と捉えるか(丸山真男説)、(2)「明治的な伝統的国家主義からの超越・飛翔」と捉えるか(橋川文三説)で。「北一輝 の評価はまるで違ってくる」とした上で(前掲書p. 7 8)、「北を超天皇制国家のイデオローグとしてとらえる視座 (橋川らの)の方がより有効」と論評している(「北一輝論J p. 7 9」。 (14)筒井清忠i昭和期日本の構造 一二・二六事件とその時代l講談社学術文庫、 p. 289、19 9 6年。 筒井は、昭和維新運動の青年将校達を、描いた国家理念の違いによって次のように分類する(括弧内、引用者)。 A「改造」主義‥‥‥[中 核]磯部(浅一)、栗原(安秀中尉)、村中(孝次) (磯部と村中は、士官学校事件に絡んで行政処分を受け退官) [同調者]香田(清貞大尉)、安藤(輝三大尉)、対馬(勝雄中尉)、中橋(基明中尉) <AとBとの中間>‥‥‥‥ 丹生(誠忠中尉)、坂井(直中尉)、田中(膀中尉)、中島(莞爾少尉) B「天皇」主義‥‥‥‥‥‥‥ 高橋(太郎少尉)、竹島(継夫中尉)、安田(優少尉)、林(八郎少尉) なお、野中(四郎大尉)と河野(寿大尉)の両名は、資料不足のため分類困難であるが、「Bに近い」。 「嘸起将校のうちで『日本改造法案』の思想を信奉するただ一人の人間」であった磯部浅一が、「『法案』をテープ ルに叩きつけ、『これでやるんだ』と叫んだ」とする(座談会「二・二六事件の謎を解く」『改造』19 5 1年2月号 での大蔵栄一の発言、藤原彰前掲論文からの再録)事実を踏まえて言えば、磯部が国家改造運動の「中核」であること をよく物語っているのだが、軍人磯部浅一(天皇:現人神観)と民間人北一輝(天皇機関説:「法案」「国民の天皇」) の「天皇丿観には、決定的なズレがあることから(cf.注13)、北の「法案」が、噺起将校の運動理念として、どれ 程採りいれられたか、検討を要する。 この点で。厭起将校が「『法案』を中心に結成され、これの実現が最後まで彼らの目標となっていた」(藤原前掲論 文p.16)とする観点は、再考される必要がある。 (15) cf.石井前掲論文の「三 青年将校の矛盾 -「主体性」と『帰依性』」 49 (16)筒井前掲書p. 2 6 3. (17)亀井勝一郎『現代史の課題』岩波現代文庫、 (18)前掲書p. 54. (19)前掲書p. 10 p. 72、2 0 0 5年。 5. (20)筒井前掲書p。2 (21)松本前掲書p.119. 6 3. (22)橋川前掲書pp. 236-237. (23)前掲書p. (24)前掲書p. 24 lo 2 3 7. (25)前掲書p. 2 4 3. (26)石井前掲論文p. 6 8. 石井に近い論説を松本健一が、おこなっている。 北一輝の『日本改造法案大綱』がクーデターのバイブルとして信奉され、信奉者たち(蒙起青年将校)が権力を 掌握したならば、実現したのは北一輝独裁制であったろう(括弧内、引用者。松本前掲書p. (27) 2 1)。 c!.松本前掲書p.118. 本文で指摘したように磯部は、北の『法案』の信奉者であったが、北の理念(「国民の天皇」=天皇機関説)を誤認 していたと考えられる。鰍起将校は、天皇の統帥権干犯を恐れたが、その意味で磯部は、心情的に天皇主義(「天皇の 国民」)に立っていると惟う。 磯部が認めた『獄中日記』の「天皇に対する恨み言をどう理解するか、これが二・二六事件の歴史的性格を規定する 鍵」だと松本健一は、主張するが(「三島由紀夫の二・二六事件」文芸春秋、p. 1 0 6、2005年)、磯部の「御 叱り申しております」は、純粋に天皇親政を志した嘸起将校の、裏返しの表現ではあるまいか。大元帥(「軍人勅諭」) である天皇を、軍人としての磯部が「機関」として認識することは、心理的に不可能と考えられる。 この点に付いて、松本健一は、磯部の『獄中日記』の言葉、即ち「日本が明治以後近代的民主国なること」を、北の 『法案』「巻一 国民ノ天皇」の「注 日本ノ国体。1に記載された第3期の「維新革命以来ノ日本ハ天皇ヲ政治的中心 トシタル近代的民主国ナリ」のテーゼと比較して、磯部浅一が「北一輝思想への絶対的信奉」者であった、と説明する (前掲書p.124)。 (28)竹山前掲書p. 44. (29)丸山真男「日本ファシズムの思想と行動」『現代政治の思想と行動』(上巻)所収、未来社、p. 6 9、19 5 7年 版。 (30) m起した青年将校(皇道派)の、統制派に対する意識は、「統制派の連中こそ口に国体国体といいながら、自己の政 治的イデオロギーの貫徹のために天皇の権威をたえず利用しようとする。『陛下が許されねば短刀をつきつけても云う 事をきかせるのだ』というような言辞を平気ではいている、と痛憤してjいることに、端的に表現されている(丸山前 掲書p. 6 9)が、統制派の、この天皇観は、昭和天皇が「天皇機関説ではないか」(「昭和天皇独白録」)と側近に 洩らした立場である。 (3D中村隆英『昭和史1 19 2 6-45』東洋経済新報社、p.188、19 9 3年。 陸軍内部の紛争としては、(1)士官学校事件、(2)真崎教育総監更迭問題、(3)陸軍省軍務局長永田鉄山刺殺事件が歴史的 が有名である。 (32)丸山前掲書(上巻) p. 5 7. (33)前掲書p. 5 8. 丸山真男は、政治的人間を3つの基本的類型、即ち(1)国家秩序の最上位に位置する「神輿丿型、(2)「神輿」から下降 する正当性を権力の基礎とする「役人」、(3)無責任に暴れる「無法者」に分類する(前掲書P. 12 3)。軍部内での、 (3)無法者による無責任な既成事実が上級者によって追認されることは、「下剋上」の結果であって、例えば、3月事件 や10月事件、対外的には、蘆溝橋事件などがそれである。 「下剋上」の問題に絡んで言えば、陸軍統制派の佐官級将校は、政治的人間類型の(3)に属すと、筆者は、惟うが、皇 道派の噺起将校は、(3)の類型に分類できるのであろうか。 (34)前掲書p. Ⅲ 7 0, (35)「西田幾多郎全集」第18巻、p. (36) 19 5 24. 3 3年5月26日、滝川幸辰の刑法学説をマルクス主義的で、大学令の規定する大学教授の「国家思想の涵養」 に反するとして文部省(文相鳩山一郎)が、滝川を休職にした事件である。 西田は、「滝川事件」について、堀維孝宛の書翰(昭和8年6月5日付け)で、次のように述べている。 ‥‥お変わりなき由 の毒なり 京大の問題誠に紛糾今の所収拾するに策なし 同君かゝる場合に於ける總長の器にあらず 誠に困ったものと存じます 小西君誠に気 瀧川をそう滸護することもできないが蓑田とかいふ男の悪 宣傅が本となり瀧川のことについては悪宣傅も多き様なり ・‥・ 文部省はいろいろ理屈をつけて何でもかでも瀧 川さえやめればよいと云った風に見ゆ‥‥ (『西田幾多郎全集』第18巻、p. 4 7 1) 書翰の「小西君」とは、京都大学第9代総長になった文学部教授の小西重直であるが、瀧川事件に関する小西総長と 文部省の「処分問題」に付いては、松尾著『滝川事件』(岩波現代文庫、pp.100-108、2 0 0 5年)に説明 されている。瀧川事件に対する西田自身の態度は、書翰で確認できるように、消極的である。 西田書翰で指摘されている瀧川への「蓑田の悪宣伝」(攻撃)は、19 2 9年刊行の「祖国」(9月号「瀧川幸辰教 授への公開状j」と『原理日本』(8月号「瀧川幸辰教授の責任を問う」)に掲載された論文のことと思われる。 50 蓑田の攻撃が、何故始まったのか。この年の6月11日に蓑田は、京都大学学友会で「資本論の所説とロシア革命」 (河上批判、マルクス方法論、ロシア革命論)と題して講演を行なっているのだが、聴衆との対立やその後の茶話会で の激しい質間戦を、講演部長であった瀧川が、注意しなかったことに対する怨恨説がある(松尾前掲書pp. 9、松本清張「昭和史発掘」第6巻、p 『蓑田胸喜全集』第3巻、柏書房、2 8 8-8 47)。この説は、おそらく新聞に掲載された京大教授宮川秀雄の談話(d. 0 04年)に、その根拠を索めていると考えられるが、「兼田は三時間近い質問 戦に最後まで応じた」とした上で、松尾は、「こういう私怨(説)をあまり重視してはならない」とする(括弧内、引 用者)。その理由について、松尾は、蓑田にとって攻撃の最大のターゲットはr美濃部達吉を筆頭とする東大法学部で あって」「瀧川は東大法学部の諸教授以上の存在ではなかった」からだ、としている(前掲書p.142)。 蓑田の滝川批判は、「瀧川幸辰教授への公開状」を読む限り、「教授自身明らかに國家、法律を階級支配の道具と見 るマルクス共産主義の信奉者である」ことを根拠にしているように惟う(「蓑田胸喜全集」第3巻、p. 5 6 4)。即 ち、「教授がトルストイの『人が人を裁く事の不合理性』『裁判制度に對する力強い否定的傾向』というふ如き主張に 對しi刑法の基礎理論として意味の深いものがる』とされる無政府主義思想や、「法律の階級性を強調された」共産主 義思想に立脚」していることが、「國家二須要ナル學術ノ理論及廳用ヲ教授シ‥‥國家思想ノ涵養二留意スベキ」大学 教授の姿勢となっていない、ことへの批判であり、責任追求であった(前掲書pp. 564-5 65)。 ところで、戦後の「極東裁判」(東京裁判)で「軍事教練の問題」で証言台に立った瀧川は、「瀧川事件」に対する 清瀬一郎(弁護人)の反対尋問 一滝川の停職処分は、「刑法読本」と中央大学での「裁判に関する批判演説」ではな かったかー に答えて、「表面上はそうであったが、真相は違う」、「満州事変につき、政府と意見を異にし、停職処 分を受けたjと述べている(朝日新聞東京裁判記者団「東京裁判」(上)、朝日文庫、p.109、19 9 5年)。松 尾は、瀧川処分の真因ではない、と否定的であるが、とすれば、滝川は、何故このよな証言を行なったのであろうか。 (37)中村哲「瀧川事件と天皇機関説問題」「私たちの瀧川事件」所収、新潮社、p. (38)久野収・鶴見俊輪『現代日本の思想 94、19 8 5年。 -その五つの渦』岩波新書、p.133、昭和31年。 (39)前掲書p. 13 2. 顕教とは、「国家としての秩序を維持する」理念(国家の「かたち」)であり、国家制度(「かたち」)の現実化が、 憲法である。従って、明治憲法が立憲君主制(密教=rかたちj)を規定していることから、学問的には、「『顕教』 と『密教』との間には、本質的な」対立はないとした上で、尾藤正英は、久野収が天皇機関説事件を「顕教」対「密教」 の図式で論説することは、「学問的には承認され難い」とする自説を述べている(『日本史上における近代天皇制 天皇機関説の歴史的背景-Jf思想』、19 一 90年8月号、pp.9-10)。 (40)前掲書p.132. (41)鶴見俊輪「戦時期日本の精神史 (42)瀧井一博f文明史の中の明治憲法 193 1-19 4 5」岩波書店、p. 4 6、19 8 2年版。 -この国のかたちと西洋体験』講談社、pp.141-142、2 00 3年。 明治憲法が、プロシヤ憲法の単なる模倣でないことは、木場貞長の「回想文」が物語っている。 ある日シュタインは地球儀のところへ余を呼び、指し顧みて日く、ヨーロッパ文明及びこれ等の諸国は、この地 中海を囲続して発展して来たのだ、‥‥。君等の将来はこの個別の日本海と、この支那海を中心として期せられね ぱならぬ。同様にして君等の学問も亦斯くあらねばならない、と(瀧井前掲書p. (43)尾藤正英「日本史上における近代天皇観 一天皇機関説の歴史的背景」「思想」19 1 2 9よりの再録)。 9 0年8月号、p. 1 8. 美濃部達吉は、「機関丿説に対する上杉憤吉の批判を、再批判する論文「上杉博士の「国体に関する異説」を読む」 の中で「故伊藤公の「憲法義解」にも、そのような意味(「機関」説)の注釈がなされて」いると説明している(松本 清張『昭和史発掘』6文春文庫、p. 119.括弧内、引用者)。 (44)丸山前掲書p. 6 2c (45)蓑田の「攻撃の論法というものは、‥‥美濃部博士問題でも分る通り、常に他人の言葉じりをとらえるという、きわ めて素朴な原始的幼稚な方法であった」と、奥野信太郎は、指摘している(「学匪・蓑田胸喜の暗躍」「文芸春秋」、 昭和31年12月号。松本清張前掲書p.119からの再録)。 「蓑田胸喜全集」第4巻に収録の「第二編 日本精神と弁証法哲学」で、筆者が、確認した限りで言えば、西田糾弾 の、蓑田の文言は、「哲学的世界の欠落者」「西田氏の如きもの」「常識の欠落者が西田氏」等々で、感情移入の激し い言葉と言うべきであろうか。 (46)第67回帝国議会貴族院議事速記録第14号(荒瀬豊・掛川トミ子「天皇「機関説」と言論の『自由』 シズム形成期におけるマス・メディア統制(三)」「思想」19 6 2年8月号からの再録)。 (47)亀井勝一郎「現代史の課題」岩波現代文庫、p.113、2 00 5年。 (48)前掲書p.114. (49)美濃部達吉『憲法撮要 全』有斐閣、 p. 221、p. 2 24、昭和10年。 (50)亀井勝一郎前掲書p.113よりの再録。 (5i)中島健蔵「昭和時代丿岩波新書、p、89、昭和32年。 (52)岡田啓介『岡田啓介回想録』中公文庫、P. 13 1、2001年。 (53)荒瀬・掛川前掲論文p。69. 美濃部亮吉は、父親達吉の「弁明演説」を聞いているが、その時の様子を「苦悶するダモクラシー」の中に、次のよ うに認めている。 貴族院は議席も傍聴席も超満員だった。座る席がない所か手すりをよじ上らなければ、父の顔を見ることもできな いほどの騒ぎであった。父は、東大の講義の時とちがい、前夜おそくまでかかて作った原稿を手に、二時間に及ぶ弁 明の演説を行なった。それはやや学者風にすぎ、大学における講義じみてはいたが、なかなか迫力のある名演説であ った(p. 78)。 51 一日本ファ (54)美濃部亮吉l苦悶するデモクラシー』文芸春秋新社、p. 8 8、昭和34年。 「天皇機関説は公共の安寧秩序を乱すものであり、出版法第27条に違反し」、詔勅批判は、「皇室の尊厳を冒涜す るもので」「同26条に抵触する。」とした有罪判決を受けた。 (55)岡田啓介前掲書p. 13 5, 昭和天皇は、広幡侍従次長に「機関排斥論者が自分(昭和天皇)を機関にしてしまっている。何といっても軍(陸軍 の統制派)は自分の意志を尊奉してくれない。憲法学説としては機関説で少しも不都合はないではないか」と話された (林茂・今井清一「天皇の政治的地位」「思想」19 5 2年6月号。括弧内、引用者)。 『本庄日記』(昭和10年3月29日)には、機関説に対する昭和天皇の憲法観が、記載されている。 憲法第四条「天皇ハ國家ノ元首」云々は、すなわち機関説である。‥‥また伊藤(博文)の憲法義解では「天皇 ハ國家二臨御シ」云々の説明がある‥‥(松本清張前掲書p. 1 9 5からの再録)。 昭和天皇の憲法観が、伊藤博文の憲法観との同一性を保持しているとも読めるのだが、尾藤ような不一致説もあり、 比較研究を要する問題である。 (56)「昭和天皇独白録」文春文庫、p。36、19 9 5年。 (57)尾藤前掲論文p. 2 1, (58)ハーバート・ヒックス(岡部牧夫り││島高峰訳)i昭和天皇』(上)講談社、p. (59)尾藤前掲論文p. 2 5 8、2 00 2年。 2 1. (60)岡義武「近代日本の政治家」岩波現代文庫、p. 2 8 9、2 00 1年。 平沼自身も「回想録」の中で、「私を一一番嫌われたのは西鳳寺公であった」と述べている(橋川文三r昭和維新新論J p. 181からの再録)。 なお、「西園寺公と政局」第2巻の、昭和6年7月16日付けの「日記」には、次のような記事がある。 ……ト四日の朝公爵に会って、その話(荒木中将が非常な平沼男崇拝で、「国本社」の顕著な名士で、危険な人物 であること)をしたところが、「いや、実は近来、平沼の宮中入りの運動は頗る露骨になって来て。げんに鈴木喜三 郎も自分の所に来た時に、ぜひ平沼男を宮内省に入れてくれるように、という話もあったくらいで、実に露骨なもの だ。‥‥と言って、少なからず懸念されたようだったが、自分(原田)に対して、「早速、一木宮内大臣に注意した 方がいい」とのことであった(括弧内、引用者。橋川前掲書p. (61)岡田啓介前掲書p. 14 1 9 2からの再録)。 3、p.144. (62)瀧川事件東大編集委員会「私たちの瀧川事件」新潮社、pp. 92-93、198 5年。 岡田啓介は、政友会の国体明徴貫徹委員会が一木、金森の「辞任勧告」を政府に対して行った、としている(f岡田 啓介回想録Jp。143)。 (63)歴史学研究会編『太平洋戦争史2 (64)美濃部亮吉前掲書P. (65)前掲書p. 日中戦争1』青木書店、p. 1 80、19 7 2年。 8 4, 84. (66)明治憲法が、「日本の歴史的伝統と西洋の立憲主義との絶妙なブレンド」であるとの見解を、米国の連邦最高判事オ リバー・ホームズが採っている。 日本憲法(大日本帝国憲法)の根本は、日本古来の歴史、制度/ 憲法学の論理を適用せられた‥‥(括弧内、引用者。瀧井前掲書p. 1 94からの再録)。 オリバー・ホームズの見解は、国法学者シュタインの文明論・学問論と同一一の立場であるように維う(cf.注42)。 Ⅳ (67)「西田幾多郎全集」第19巻、 p p. 16-17. (68) f天野貞祐全集』第1巻、栗田出版会、p. 4 3 3、昭和46年。 (69)前掲書p. 4 3 3、p. (70)前掲書pp.120-121、p. 4 3 7. 12 2, (H)前掲書p。1!o。 (72)桶谷秀昭「昭和思想史」文春文庫(19 9 5年)、p. 2 6 8からの再録。 「高等学校(旧制)と同様な教養教育に重点がおかれていた」陸軍士官学校であったが、陸軍教育総監真崎甚三郎の r国体明徴Jの訓示(19 書『本邦史教程』(19 3 5年4月)を受けて、士官学校は、r天皇に対する臣民の忠節を前面に出jした歴史教科 3 7年、平泉澄編纂)を使用することになった『平山洋1福沢諭吉の真実』文春新書、p.1 86、平成16年)、と言われている。このことと本文中の「憲兵調書」を併せて考えれぱ、真崎が憂慮していた思想 的状況を理解することができる。 (73)『西田幾多郎全集丿第2巻、p. 1 2. (74)松山信一「大正哲学史研究」法律文化社、p. 2 4 6、19 6 5年。 (75)蓑田胸喜「附二 天野貞祐・柳田謙十郎の亜流思想一瞥」「蓑田胸喜全集」第4巻所収、柏書房、p. 04年。 (76)『西田幾多郎全集』第19巻、 (77)「天野貞祐全集言第1巻、 (78)前掲書P. 4 3 4. (79)前掲書p. 4 3 5. p● 17. ` p、 4 34, (80)「大宅荘一全集」第6巻、蒼洋社、 p. 34、昭和56年。 (81)京都学派と大東亜戦争との関連に付いては、大島康正「大東亜戦争と京都学派 (『世界史の理論 2 2 3、20 一知農人の政治参加についてー 一京都学派の歴史哲学論敬一』第11巻所収、燈影舎、2000年)と、「大島メモ」(大橋良介 52 」 f京都学派と日本海軍J PHP新書所収、2001年)に詳しく述べられており、その目的と内容を知ることができる。 (82)「西田幾多郎全集」第19巻、pp. 2 8-2 9. (83)植村和秀「解題 -『学術維新』」「蓑田胸喜全集」第4巻所収、p. (84)ベルナール・フォール(金子奈央訳)「禅オリエンタリズムの興起 9 6 5. 一鈴木大拙と西田幾多郎-」(下)「思想」2 004年5月号、p.131. 訟山信一は、西田哲学の成立は論文「場所」以降の「新しい論理」(論理学、存在論)によると論説した後で、「日 本文化の問題」について、次のような評価を加えている。 『日本文化の問題』(昭和15年)が皇道主義の批判であろうとしつつ、実はそれとの妥協、さらにはそれの新し い解釈としてかえって基礎づけであるにもかかわらず、新しい日本文化、新しい世界文化を求めた点に今もなお積極 的な意義をもっているのもその「論理探究」による(前掲書p. 2 3 5)。 (85)前掲論文p. 12 6. 戦後の、特にマルクス主義者からの西田哲学に対する批判は、皇国イデオロギーヘの加担説に固執することから、西 田哲学の「普遍」の中に「特殊」を包摂する絶対矛盾的自己同一の論理を、従って「日本精神の世界性」を見落として いる、ように筆者には、思えてならない(c (86)『西田幾多郎全集』第19巻、p. l.拙著「西田哲学読解」「第二章 西田幾多郎の国家論」晃洋書房)。 3 0. (87)前掲書p。33. (88)前掲書p. (89)前掲書p. 40. 5 2. (90)前掲書p. 2 2 1. (91) f蓑田胸喜全集』第4巻、p. (92)前掲書p. 9 6 6, (93)前掲書p. 17 194. 1. (94)前掲書p. 1 7 5・ (95)植村和秀r解題 -「学術維新」」、前掲書pp. (96)前掲書p. 966-96 7. 2 0 9. (97)『大宅荘一全集』第6巻、p. 3 3. (98)前掲書p. 3 3.. (99)佐藤賢了「制服時代の主役」「文芸春秋」昭和33年4月号。大橋良介「京都学派と日本海軍 一新史料「大島メモ」 をめぐってー』からの再録。なお、このことは、『大宅荘一全集』第6巻に収録の「西田幾多郎の敗北」でも指摘され ている(p. 3 8)。 (100)古田光「『世界新秩序の原理』事件考」(1)及び(2)、「西田幾多郎全集」第14巻付録第14(昭和15年11月)、 第19巻付録第19(昭和55年4月)。 (101) f西田幾多郎全集』第12巻、p。47 1. (102)矢次一夫は、戦後に刊行した「東条英樹とその時代」(三天書房、昭和55年)の中で、「西田博士が(原理)を 起案するに当たって、軍の脅迫、もしくは憲兵隊に拘留される危険をめぐっての取り引きjがあったとする「勘ぐり」 は、西田博士の名替のためにも、亦交渉に当たった私の名誉のためにも寸豪もなかった」と記している(大橋前掲書p. 52からの再録)。この発言は、注99の、佐藤の証言と異なっており、注100の古田説に近い。真実は、どうであ ろうか。 (103)『大宅荘一全集』第6巻、p. (104) 3 7. i西田幾多郎全集』第19巻、p. 24 5. なお、拙著『西田哲学読解 -ヘーゲル解釈と国家論-』晃洋書房、pp。114-115を参照されたい。 (105)『大宅荘一全集』第6巻、p. 3 7.大橋良介「京都学派と日本海軍J (106)「西田幾多郎全集」第19巻、p. 24 p. 5 0. 3. V (107)長部日出雄『天皇はどこから来たか』新潮文庫p. 1 4 9、平成13年。 東大法学部の助手であった丸山真男は、Fある日の津田博士と私」(「図書」19 6 3年10月号)で、津田の講義 が終了した直後の、津田に対する「学生協会」(原理日本社が、軍部や貴族院議員などの後援を得て作った学生組織) のファナティックな質問があったこと、そして津田とともに食事をした時に丸山に語った津田の「ああいう連中がはぴ こるとそれこそ日本の皇室はあぶない」とした言葉を認めている。 このことは、左翼の津田史学評価とは異なった、戦前戦後を一貫した津田の皇室観を物語る、一つの証である。 (108)「西田幾多郎全集」第19巻、p.106. 津田学説を容認しないが、和辻哲郎は、12月20日の第19回公判に証人として出廷し、r原点批判の方法で、記 紀の史料としての性質や意義を考察したもので」「皇室の尊厳を冒涜するとか、不敬にわたると感じたことは一度もな い。かえって皇室にたいする尊崇を増すくらいで」あった。「皇室の尊厳を学問的に明らかにし、どんな合理的な議論 にたいしても、ぴくともしない学説の基礎を立てているのは、たいへんよいことだ」と援護した(長部日出雄前掲書p. 14 6)。 注107とも関連するが、戦後「世界」(第4号)に掲載された津田の論文「建国の事情と万世一系の思想」に対す る「世界」編輯者(吉野源三郎)の、天皇制擁護論「手直し」を要請した津田への書翰を読む限り、編輯者は、和辻の 評価のように津田史学の本質を捉えていなかったのではないか、と維う。 (109) i津田左右吉全集』第21巻、岩波書店。 53 (110)長部前掲書p.104. (Ill)『井上光貞著作集』第10巻、岩波書店、P. 12 6、19 8 5年版。 (!12)長部前掲書pp。116-117からの再録。 (113)「西田幾多郎全集」第19巻、p. 24 3o (114)前掲書p. 180, (115)直木幸次郎「日本神話と古代国家」講談社学術文庫、p. (116) cf.上山春平「埋もれた巨像」岩波書店、19 5 6、19 90年。 7 7年。 聖徳太子は「実在しなかった」とする仮説を提唱し、話題を蒔いた大山誠一の「天孫降臨神話」論は、上山説に近 い。「日本書紀」では、持統女帝を「高天原廣野姫」と称していることを踏まえて、大山は、『持続こそ高天原のア マテラスであり、f持統→文武』という祖母から孫への関係が、『アマテラス→ニニギ』として説話化された」とし、 この時に、高天原の「概念が構想された」とする(『聖徳太子と日本人』角川ソフィア文庫、p. 2 2 5、平成17 年)。 (117)『津田左右吉全集』別巻1、pp. 4 0-4 1. (118)千田稔f伊勢神宮 一東アジアのアマテラスj中公新書、p.216、2005年。 (119)津田左右吉「日本歴史の研究に於ける科学的態度」「津田左右吉全集」第28巻所収、p.126、昭和41年。 (初出は、『世界丿昭和21年3月号』 VI (120)マックス・ヴェーバー(尾高邦雄訳)『職業としての学問』岩波文庫、p. 54 3 6、19 84年版。