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吉田松陰の兵学とその急進主義との関連

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吉田松陰の兵学とその急進主義との関連
環日本海研究年報 no.20
2013 年 3 月
吉田松陰の兵学とその急進主義との関連
―直接行動の画策を中心として―
唐
利国
はじめに
尊王攘夷運動は、安政 4 年(1857)末から、主に将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題
をめぐって激化していた。とくに安政 5 年 6 月 19 日(月日は旧暦、以下同)には、大老井伊直
弼の決断により、勅許を得ずに、日米修好通商条約・貿易章程が調印された。吉田松陰の言動
はこのときから著しく「急進」的になっていった。
「ラディカリズム」ということばは多義的に用いられているが、一般的には、主として直接
行動に訴える社会運動を指している。ゆえに先行研究は、安政 5、6 年の松陰の直接行動計画を
論ずる際に、しばしば「ラディカリズム」や「急進」ということばを使ってそれを形容してき
た。たとえば、内藤俊彦は、
「松陰の直接行動計画は運動の側面においては過激であり、その意
ラデイカル
味で表面的には―形容矛盾を犯すことになるが―極めて“急進主義”であった」と述べている1。
本稿もこのようなとらえ方をとる。
この段階における松陰の思想に関する先行研究は、彼の尊攘論・倒幕論・草莽論などの政治
的主張をめぐって多様な評価を示している2。先学の業績は「急進」主義時期の松陰思想を理解
するために非常に役立つ。ただ本稿で注目するのは、兵学者としての吉田松陰である。早くか
らこの問題に触れたのは下程勇吉である。下程は、
「我々は松陰がその家学たる山鹿兵学を奉ず
る兵学者として出発し終始兵学者であつたことを正当に認識しなくてはならないと考へる。こ
のことを正しく把握せぬとき、ことに安政末年の彼の志士的活動は全く狂気沙汰に見え、彼は
余りにも政治性を缺如する無能無策の志士として評価せられるのである」3と述べている。彼は、
兵学によって松陰の安政 5、6 年の行動を解釈しようとする。下程は、松陰について井伊直弼の
腹心の策士長野主膳のいう「悪謀の動きも抜群、力量も有之」を引用して、松陰の兵学を実戦
に移す能力をも評価している。4こういう考えを前提にして、下程は、松陰の「要駕策」などの
直接行動計画について、
「常識的論理の枠に止まる人々には、かかる方策は『過激』とも『無策』
とも見られるのほかなかつたのであるが、かかる『死地』の論理は兵学者吉田松陰の全精神の
根柢を終始貫いてゐるのである」と論ずる5。死地論によって松陰の直接行動を説明するという
下程の見解は、多くの研究者たちに受けられてきた。
「急進」主義時期における松陰の兵学を論
じたものには、死地思想の再構成によって彼の言動を説明したものが多い6。
しかし注意すべきは、松陰が直接行動について論ずる際に、孫子の「死地」の概念を引用し
- 29 -
唐「吉田松陰の兵学とその急進主義との関連」
てその計画の有効性を説明した形跡がほとんどないことである。先学たちに松陰の死地論と見
なされてしばしば引用されている松陰の「国家へ一騒乱を起し人々を死地に陥れ度く、大原策・
清末策・伏見策等色々苦心したるなり」
(小田村伊之助・久保清太郎宛、安政 6 年 3 月末頃、普
及九~3037)という一文は、
「要駕策」の周旋のために脱走した野村和作が捕らえて岩倉獄に投
じられた安政 6 年 3 月 22 日の後の話である。小田村伊之助・久保清太郎に宛てたこの手紙の中
で、松陰は、すべての画策が失敗に終ったので、悲観におちいり、
「何卒一死を賜ふ手段を乞う
のみ」
(小田村伊之助・久保清太郎宛、安政 6 年 3 月末頃、普及九~304)と諸友に頼んでいる。
これはあくまでも事後の総括である。松陰の『孫子評註』の中に、
「死地」に関する松陰の評論
は多くあるが、主として将領が士気を高めるための術を論じており、いわゆる戦略としての死
地論ではない。
、、、、、、、、、、、、、、
また内藤俊彦は、「松陰の思想的世界の構造を論理的に解釈し再構成して見る こと」によっ
、、、、
て、「松陰の運動面における表面的な過激性(急進主義)」が思想の面において孕んでいる問題
性を明らかにしたいと考えているのである」(傍点ママ)8と説明して、松陰思想の問題性に関
して示唆に富んだ見解を提供した。たとえば、松陰は、
「元来天下の事区々の人巧にて成敗する
ものにては之れなく、殊に隠秘の事は却って人の疑慮を蒙り宜しからず、只々公明正大、十字
街を白日に行き候如くにて天命に叶はば成るべし、叶はずば敗るべし」(久坂玄瑞宛、安政 5
年 8 月頃、普及九~88)と述べた。内藤は、この文を引用して、
「この様に行為の結果を挙げて
『天命』に委ねる心情の倫理的純粋性をひたすら追求する彼の心情倫理的態度は、(中略)『諸
友』の目的合理的態度とはそもそも相入れなりものであった」9と指摘した。ここで内藤のいっ
たような松陰の「目的合理的態度」の欠如は彼の軍事を指揮する能力の限界を示しているであ
ろう。
ただし、松陰にとっての兵学は、兵学的な能力をどの程度持っていたかにかかわらず、状況
に応じて自らの兵学を実行していると意識していたことにあるだろう。そこで本稿では、先学
の業績を踏まえながら、松陰の兵学とその直接行動論との関係に注目しつつ、具体的な検討を
行いたい。
「急進」主義の段階における松陰の態度について詳しく考察すると、三つの段階に分
けることができる。この段階性は、彼の態度が状況の変化に対応して変わっていたことを表わ
している。いわゆる「臨機応変」は兵学的思考の基本である。ここに、松陰の兵学者としての
自覚が見られるはずだ。
Ⅰ
幕府に対する諫言
おおざっぱにいえば、幕府が違勅により通商条約を調印した事件をきっかけに、松陰の態度
は急に変化していった。ただ松陰は、そのあとすぐ直接行動の計画に取り組んだのではない。
依然として、幕府に諫言するという今までの態度を維持していた。松陰は、幕府に対する態度
について、次のように述べていた。
- 30 -
環日本海研究年報 no.20
2013 年 3 月
征夷の事は我が主人の君には非ざれども、大将軍は総督の任にて二百年来の恩義一方なら
ず、故に三諫九諫も尽し尽すなり。尽しても尽しても遂に其の罪を知らざる時は、已むこ
とを得ず、罪を知れる諸大名と相共に天朝に此の由を奏聞し奉り、勅旨を遵奉して事を行
ふのみなり。此の時は公然として東夷は桀紂と申すなり。今の東夷仮令桀紂にもあれ、我
が主人も我が身も未だ天朝へ忠勤を缺き居りたれば、征夷の罪を挙ぐるに遑あらず。唯だ
己れの罪を顧みるのみ(黙霖と往復、安政 3 年 8 月 18・19 日、普及八~520)。
ここで示されているように、松陰は、幕府に諫言する態度を取っていたが、同時にすでに彼
の討幕の論理も形成されていた。ただし、彼はどういう基準で「三諫九諫も尽し」たと判断す
るかについて、はっきり答えなかった。また、その最後の決断を天皇の意思に委ねるともいっ
た。ペリーの来航以来、松陰は幕府の内外政策を批判してきたが、
「三諫九諫も」尽くしても幕
府が「遂に其の罪を知らざる」という時がまだ来なかったと考えていたので、黙霖の倒幕論に
反対していた。つまり、この時点で、松陰の主張は時を待つ論であったといえる。
通商条約をめぐる交渉の中で、松陰の政治に対する態度は急進化していった。彼は、「其の
幕府臣を墨夷に称するも、二国は宜しく附同すべからずと曰へるは、立志の本なり。其の吾人
は以て有司を責め、有司は以て大臣を責め、大臣は以て君公を責むと曰へるは、下手の次なり」
(『戊午幽室文稿』
「小国剛蔵に與ふ」、安政 5 年 2 月 25 日、普及五~115)と述べた。もし幕府
が通商条約を締結すれば、長州藩は絶対幕府に同意すべきではないという原則を初めから強く
主張していた。彼は、封建制の行動論理を守りつつ諫言をしようとした。
安政 5 年 3 月 20 日、通商条約を否定する勅書が発せられたことに対して、松陰は、「死者再
生の心地」(『戊午幽室文稿』「時勢論」、安政 5 年 9 月 27 日、普及五~249)というように、攘
夷を主張する天皇に大いに期待した。この時点で、松陰は日本が和親すれば必ず滅びるが、戦
えばかえって勝てる可能性があると思っていた。こういう考え方は、彼の「攻撃的防御」と「主
戦論」の兵学観に繋がっている10。故に松陰は、
「戦守を畏れて和議を講ず、古より未だ国を亡
ぼさざるものあるざるなり」と警告し、
「昇平三百年、士気少しく弛む。一戦して以て之れを張
るも亦可ならずや」と唱えていた(『戊午幽室文稿』「亜墨利加人取扱の儀」、安政 5 年 5 月 12
日、普及五~157)。同時に、彼は、「防御の処置」を論じていた11。
要するに、この時点における松陰は、政治の現状におけるさまざまな問題を批判していたが、
攘夷の成功の可能性を固く信じていた。
当今兵力単弱の故は、将其の人に非ざると、兵を選ぶこと精しからざるとの二つに御座候。
(中略)夫れ故此の一局を一変し、万石以上以下に限らず、材武にして随分一戦仕るべし
と願出で候ものへ、力に任せ有禄無禄武士浪人に拘らず調募させ、千夫長百夫長其の大小
に準じ、賊艦一隻二隻乃至三五隻攻取り候事を委任仰せ付けられ候はば、世禄大身より下
賎の徒浮浪に至るまで、悉く奮発国の為めに力を致し候様相成り申すべく候。調募の兵の
給資は食禄無用の徒の糧を減じ、彼れを取り此れに与ふる法を立つべし。此の策施され候
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唐「吉田松陰の兵学とその急進主義との関連」
はば将其の人を得、選兵其の精を極め、戦の一條何も差障之れなき事に御座候(『戊午幽室
文稿』「愚論」、安政 5 年 5 月上旬(カ)、普及五~155-156)。
こうして、松陰は「兵力単弱」である日本と西洋の軍事力の差について、当時の兵制を破っ
て有能の将領と兵士を激励し登用すれば、
「戦の一條何も差障之れなき事」と思っていた12。し
かし松陰は、井伊直弼の決断によって日米通商条約を調印したことを知った後になると、幕府
に対して諫言すべきだと主張しながら「幕府以て叛と為し、不義の兵を加ふれば、士死して国
滅ぶも、道に於て何の不可か之れあらん」(『戊午幽室文稿』「前田手元に與ふる書」、安政 5 年
7 月 12 日、普及五~191)と覚悟すべきだと説いた。
実は松陰によれば、「是れ征夷の罪にして、天地も容れず、神人皆憤る。これを大義に準じ
て、討滅誅戮して、然る後可なり、少しも宥すべからざるなり」
(『戊午幽室文稿』
「大義を議す」
、
安政 5 年 7 月 13 日、普及五~192)というように、違勅調印は、幕府を討つ十分な理由になっ
た。ただし、
「幕府違勅已に決する上は、二百年来の恩義、黙止すべきことに非ざるを以て、直
言諫争、至誠を竭すべきは固よりなり」
(『戊午幽室文稿』
「時義略論」、安政 5 年 7 月 16 日、普
及五~199)というように、幕府に対する最後の忠誠を尽くすべきだと松陰は考えていた。
また、朝廷は幕府を討てと命じなかった。松陰も次に述べるように、幕府に対してまだ絶望
していなかった。
大義已に明かなるときは、征夷と雖も二百年恩義の在る所なれば、当に再四忠告して勉め
て、勅に遵はんことを勧むべし。且つ天朝未だ必ずしも軽々しく征夷を討滅したまはず、
征夷翻然として悔悟せば、決して前罪を追咎したまはざるなり。是れ吾れの天朝・幕府の
間に立ちて、之れが調停を為し、天朝を寛洪に、而して幕府をして恭順に、邦内をして協
和に、而して四夷をして懾伏せしむる所以の大旨なり。然れども天下の勢、万調停すべか
らざるものあり、然る後之れを断ずるに大義を以てせば、斯ち可なり(『戊午幽室文稿』
「大
義を議す」、安政 5 年 7 月 13 日、普及五~194-195)。
このように松陰は、公武合体に対して絶望していなかったので、諫言すべきだと主張した。
また朝廷はまだ幕府を討てと命じなかった。ただし、調停することが不可能な場合をも配慮し、
大義に準じて幕府を討伐することを認めていた。この論理は、先に引いた安政 3 年 8 月 18・19
日付の書簡における松陰の考え方と同じであった。
松陰の兵学は、つねに道徳によって軍事行動を指導すべきだとしていた。それ故、幕府に対
する態度を論ずるとき、まず次のように大義をもって功利・成敗などの考えを批判した。
「近世
功利の説、天下に満ち、世を惑はし民を誣ひ、仁義を充塞す。
(中略)違勅の国賊を視るに、猶
ほ強弱勝負を以て説を立て、断然其の罪を鳴らじて之れを討つこと能はず」(『戊午幽室文稿』
「大義を議す」、安政 5 年 7 月 13 日、普及五~192)、と。つまり松陰によれば、「違勅の国賊」
であったと判断する以上、勝敗にはとらわれないで、断乎として攻撃すべきなのであった。
続いて松陰は、
「義を正し道を明かにし、功利を謀らず。是れ聖賢の教たる所以なり。
(中略)
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環日本海研究年報 no.20
2013 年 3 月
国家と雖も亦然り、不道不義、以て一日の存安を謀るは、君臣上下、義を仗り道に徇ひ、以て
始終を全うすると孰れぞや。」(『戊午幽室文稿』「大義を議す」、安政 5 年 7 月 13 日、普及五~
193)と述べている。こうして彼は、自らの建策の根拠として「聖賢の教」を強調することによ
って、大義を堅持することが藩国の存続より重要だと主張していた。実は長州藩兵学師範とし
て勤めていたとき、松陰はすでにこのような考えを持っていた。松陰の次の一文を見よ。
国体を失はば、たとへ数十年国脈を永くすとも祖宗喜ばるべくや。若しくは祖宗以来の国
体を確乎として変ぜず、たとへ叶ひ難き合戦なりとも、君を初めて臣下ともに命をかぎり
に討死し、少しの恥辱をも蒙らずんば、たとへ数十年の国脈を縮むとも祖宗怒るべくや。
国体を失ふものは、祖宗いかばかり怒らるべし、恥辱を蒙らざるものは、祖宗いかばかり
喜ばるべし(『武教全書講章』「守城」、嘉永 3 年 8 月 20 日、普及一~100)。
もちろん、松陰は功利をまったく考えなかったわけではない。「英雄の事を謀るや、未だ必
ずしも利害を計較せずんばあらず。事義にして利に合はざるときは、固より将に之れを為さん
とす。況や事已に義にして、又利に合ふ、何を憚つてか為さざる」
(『戊午幽室文稿』
「大義を議
す」
、安政 5 年 7 月 13 日、普及五~193)といったように、松陰にとって、違勅の幕府に反対す
るのは、それによって義と利が両立できるからであった。
また、松陰は、「大事を挙げ候には義不義のみに目を附け候事にて、成敗へ心を附け候事、
皆々臆病の至りに御座候」と述べた。すぐ続いて、
「新田・楠又は洞春公陶御征伐等の往蹟を能々
御覧成さるべく候。いづれも力を以ては敵せらるるに非ず。但だ機を見るの明決と誠の貫徹と
にて事は出来候。機を知らず、誠のなきものはさつぱり大事の引当にはなり申さず」と指摘し
た(『意見書類』
「要路役人に與ふ」、安政 5 年 7 月 13 日、普及五~425)。ここで松陰は、
「成敗」
に拘る臆病な態度を批判し、力の強弱に拘らず、機会を明察して決断するという軍事上の冒険
を勧めていた。
こうして、松陰は、単純に大義によって幕府に反対するのではなく、時機をも配慮していた。
彼は次のように述べた。
一旦事起り、天朝吾れを以て依頼となし、征夷吾れを以て仇敵となすこと必せり。征夷の
仇敵となすを憚り、成敗利鈍に眼を注け、大事を果断すること能はざる者あり。是れ大義
に暗く忠心薄きより起る事と雖も、抑々又智、機先を察する事能はず、策、大寇に処する
に足らずして然るなり(『戊午幽室文稿』
「時義略論」、安政 5 年 7 月 16 日、普及五~203)。
松陰によれば、「御当家の御弓矢関ヶ原にて汚れ候より已来、今に至るまで未だ直り申さず
候。今二三日の機を失ひ候はば、又百年位は腰はのり申さず、腰ののらぬのみに之れなく、国
家の滅亡疑なく候」(『意見書類』「要路役人に與ふ」、安政 5 年 7 月 13 日、普及五~425)とい
うように、長州藩にとって、いい機会が来たと認識した。
また、天皇の攘夷の意志が変るのではないかという顧慮に対して、松陰は「且つ改まり候と
も、叡慮に随ひ候はば、道義において何の不可あらんや」(『意見書類』「要路役人に與ふ」、安
- 33 -
唐「吉田松陰の兵学とその急進主義との関連」
政 5 年 7 月 13 日、普及五~424)といって、天皇の具体的意思に従うべきだと主張していたが、
実際には彼の判断は、
「天朝の御論大磐石たる証は八八の卿の上書13にても知るべし」
(『意見書
類』「要路役人に與ふ」、安政 5 年 7 月 13 日、普及五~425)というものであった。つまり、天
朝の攘夷の主張が変わるかもしれないという憂慮は必要ではなかった。
要するに、松陰は、「古の明君賢将或は権詐を用ふるも、蓋し其の時然るなり。今は天子至
誠を以て天下に臨み、大信を以て宇内に布きたまへば、則ち天下の人亦当に誠信を以て之れに
応ふべし」
(『戊午幽室文稿』
「兵庫の海防を辞せんことを議す」、安政 5 年 7 月 16 日、普及五~
208)というように、時にしたがって「権詐」を用いることを否定していなかった。その時点で
天子の「至誠」に応じて「誠信」を要請していた。
以上述べたように、通商条約を調印した直後の松陰は、決裂の覚悟を持ちながら幕府に諫言
すべきだと主張していた。この段階における松陰は、自らの考えについて、
「是れを行ふに至り
ては、明君賢将の英断にあるのみ」
(『戊午幽室文稿』
「時義略論」、安政 5 年 7 月 16 日、普及五
~205-206)と述べているように、おもに藩の当局者の決意を促し、「明君賢将の英断」に期待
していた。また自ら進んで直接行動を謀るに至らなかった。
Ⅱ
幕府に対する直接行動論
しかし、井伊直弼の主導する幕府は、条約の締結と家茂の将軍継承を断行し反対派を鎮圧し
た。特に安政 5 年 9 月 7 日の梅田雲浜の逮捕を皮切りに、空前の弾圧に着手した。それにとも
ない、吉田松陰は、直接行動を計画する段階に入った。
松陰は、早く改革しなければならないと常に説いていたが、自らの武力行使によって当局の
政策を転換させようと決意したのは、安政 5 年末のことであった。違勅の幕府による弾圧政治
への抵抗としての水野忠央暗殺策は決定的な転換点であった。安政 5(1858)年 9 月 9 日の手
紙の中で、松陰は次のように述べていた。
一人の奸猾さへ仆し候へば天下の事は定まり申すべく候。殲其巨魁、脅従無治。この八字
変に処するの大活術なり。
(中略)一夕入鹿を誅し、直足にて登営、入鹿の罪を明白に書き
立て将軍へ呈し、前の八字の意味を合せ天下へ大令を発すべし、天下は一夕に定まる(松
浦松洞宛、普及九~99-100)。
この計画は具体的に着手されなかったが、松陰の考えを示していた。武力によって幕府の政
策を変えようと考えるのは決定的な転換である。ただし、ここで示したように、将軍や幕府そ
れ自体の権力の合法性を否定するのではなく、誤った政策を取った奸臣を暗殺することを直接
行動の目標とした。
続いて松陰は、公卿大原重徳の名望を借りて長州藩の武装決起を計った。この計画も実現さ
れなかったが、安政 5 年 9 月 27・28 日に彼が書いた「時勢論」14と「大原卿に寄する書」15は、
直接行動を謀る段階における松陰の考えをよく表わしていた。
- 34 -
環日本海研究年報 no.20
2013 年 3 月
松陰は、「某窃かに時勢を観察するに、宝祚無窮の大八洲、存亡誠に今日に迫れり、誠に恐
れ多き事なり」
(『戊午幽室文稿』
「時勢論」、安政 5 年 9 月 27 日、普及五~249)というように、
日本の存亡にかかわる危機だと強調していた。彼は次のように述べていた。
幕府には墨夷との条約も相済み、近日の内、外国奉行・目附等の吏員、墨夷へ渡海致す由、
然れば和親は益々固まり、且つ幕府より外夷へ許し遣はす所の諸港も漸々開市致すべく、
夷官夷民共も追々占拠致すべく、加之、魯西亜・英吉利・拂朗察等も同様条約相済み、殊
に清国覆轍の鴉片をも持ち来るを許し、二百年来徳川家第一厳禁なる天主教をも許し、絵
踏の良法を改除し、他日の患害已に備はれり。今日を失へば千万歳待ちても機会は決して
あることなし(「時勢論」、普及五~250-251)。
こうして松陰は通商・鴉片・天主教などの危害をいま解決しなければならないと考えていた16。
特に松陰は、日本人が外国との交際に従って、夷狄を憎む気持ちを失ってしまうことを憂慮し
たので、すぐに行動しなければならないと考えていた。この点について、彼は次のように述べ
ている。
外夷に関り候事に付き、今日迄は天下の愚夫愚婦迄も且々に切歯扼腕の気之れあり候故、
程好く鼓舞致し候はば、士論は即ち民怨の端と相成り申すべく候。若し此の分にて曠日弥々
久しく遊ばされ候はば、外夷の事日々に人心に習れ染み候て切歯扼腕の気も沮喪致し、民
怨のみならず士論も崩れ行き申すべきは必然に付き、何分士論の崩れぬ先きに御決策御下
向待ち奉り候(『戊午幽室文稿』
「大原卿に寄する書」、安政 5 年 9 月 28 日、普及五~258)。
つまり、松陰は、当時「士論」によって外夷に対する「民怨」を鼓舞すればまだ間に合うが、
早く行動しないと、「士論」と「民怨」がともになくなってしまうかもしれないと考えた。
さらに松陰は、幕府がもう勅書や諫言を受け入れないようになったと判断した。彼は次のよ
うに述べている。
幕府天勅に背き、衆議を排し、其の私意を逞しうするは、恃む所は外夷の援なり。然れば
幕府には、諸国義挙の起らぬ内に、早く外夷の和親を厚くするの謀とみえたり。只今の勢
にては、天朝より幾百通の勅諚降りても、諸侯より何千通の正議を建白しても、幕府には
一向遵奉採用は之れなく、只々外夷の和親を急ぐなり。和親已に堅まる上は、天下正議の
者は悉く罪に行ひ、又天朝正議の公卿をも廃錮誅戮にも及び、其の次は承久・元弘の故事
を援きて主上を議するに至らんこと必せり。此の度梅田源次郎等召捕り候にても推知すべ
し17(「時勢論」、普及五~251)。
松陰によれば、幕府はまさに「外夷の援」を頼んでおり、天皇の意志と「衆議」に反して通
商条約を調印した。ゆえに幕府は、国内の動乱が起こらないうちに、西洋列国との和親を厚く
して、その勢力を借りて攘夷論者を圧迫しようとした。それ以前の水野忠央暗殺策の立案にあ
たっては、まだ将軍に絶望していなかったが、この時点では徳川幕府による「公武合体」に期
- 35 -
唐「吉田松陰の兵学とその急進主義との関連」
待を寄せていない。このような判断に基づいて、彼は次のように朝廷が今こそ政策の転換を断
行すべきだと論じている。
今天朝には、徳川扶助、公武一和とのみ仰せ出さるる故、徳川は益々凶威を逞しうし、諸
侯は悉く徳川に頭を押へられ、勤王の手足は出でず、
(中略)是れ迄の寛大の御処置は誠に
凡慮の及ぶ処に非ず、御尤もと申上げんも畏れ多けれど、今よりは御果断の時節到来にて、
今一年も今の形にて御観望なされば、忠臣義士半ばは死亡、半ばは挫折し、幕府は益々凶
威に募り、諸侯は益々幕威に懾れ、而して外夷の患益々深く、天下の事丸に時去り機失ひ、
何如とも手は附き申さぬこと必然なり(「時勢論」、普及五~253-254)。
つまり松陰は、まだ幕府に対して絶望していない朝廷が、早めに政策を転換しないと、幕府
の弾圧によって「忠臣義士半ばは死亡、半ばは挫折し」てしまうと判断した。そうしなければ、
日本の独立はもはや保障できなくなってしまう。また、松陰は、朝廷の処置に同意できないも
う一つの理由を、次のように述べていた。
然るに天朝に、今日の機を失ひ空論を以て実毒を攘ひ給はんとあること、実に恐れ多きこ
とならずや。天朝の御定算は蓋し諸侯の赤心にて人心の帰する処を御待ちなさるるなるべ
し、誠に勿体なきことなり。当今二百六十諸侯、大抵膏梁子弟にて、天下国家の事務に迂
濶にして、殊に身家を顧み時勢に媚諛し、其の臣なる者、御大事御大事と申す事にて其の
君をすくめ、勤王の大義などは夢にも説き及ぼさず、何程聡明果断の人君ありとも、決し
て義挙を企つること相成らぬ勢なり。(中略)然れば当今天下の諸侯を御待ちなされては、
終に幕府の議に落ち伏せ、其の末は外夷の属国と相成り、皇国の滅亡実に踵を旋らさざる
ことなり(「時勢論」、普及五~251-252)。
松陰によれば、幕府だけではなく、諸侯も頼りにならなかった18。このような状況において、
朝廷が諸侯たちの「義挙」に期待し、
「公武一和」の空論を捨てないと、幕府が外国と条約を締
結してしまうと、日本は直ちに亡びでしまうのであった。彼は、次のように、朝廷は諸侯より
も草莽の志士に頼るべきだと論じている。
諸侯恃むべからず、草莽の志士を募ると申す事、
(中略)彼の募りに応ずるの志士に至りて
は、禍福死生已に其の念を絶ち、大節大義を天下後世に建明せんと欲する者共の儀に候へ
ば、所謂一騎当千なる者にして、徳川は已に衰運に趨き候折柄の儀に候へば、大阪陣と同
日の論には御座なく候(『戊午幽室文稿』「大原卿に寄する書」、安政 5 年 9 月 28 日、普及
五~257-258)。
また松陰は、君主を政治の中心と見なした。「私意見は別紙時勢論の通りに御座候。就いて
は主上御決心後鳥羽・後醍醐両天皇の覆轍だに御厭ひ遊ばされず候はば、私愚策言上尤も願ふ
所に御座候」(『戊午幽室文稿』「大原卿に寄する書」、安政 5 年 9 月 28 日、普及五~255)と述
べて、天皇の覚悟の重要性を強調した。彼によれば、
「後鳥羽・後醍醐両天皇を目的として御覚
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環日本海研究年報 no.20
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悟定められば、正成・義貞・高徳・武重19の如き者、累々継ぎ出でんは必然なり」(「時勢論」、
普及五~253)というのであった。
また、松陰は、大原宛の手紙のなかで、次のような一文を書いた。
左候はば万々失策に出で候も、私共同志の者計り募り候とも三十人五十人は得べくに付き、
是れを率ゐて天下に横行し奸賊の頭二つ三つも獲候上にて戦死仕り候も、勤王の先鞭にて
天下の首唱には相成り申すべく、私儀本望之れに過ぎず候(『戊午幽室文稿』「大原卿に寄
する書」、安政 5 年 9 月 28 日、普及五~257)。
結局、松陰のこの大原策は失敗した。そこで彼はここで述べた通り、同志を集めて「奸賊の
頭」を討とうと考えるようになる。間部詮勝は越前鯖江藩藩主で、条約調印と将軍継嗣などの
問題について、大老井伊直弼を支持していた。松陰は、
「当今幕府幼冲にして20、弁識する所な
し。大老之れを上に主どり、間部之れを下に輔くるに非ざるよりは、天下の事安んぞここに至
らんや」
(『戊午幽室文稿』
「家大人・玉叔父・家大兄に上る書」、安政 5 年 11 月 6 日、普及五~
266)と考え、間部詮勝要撃策を計画した。
その時、松陰は、尾張・水戸・越前・薩摩の志士が井伊直弼を誅しようとしているという誤
報を聞いた。彼は、
「政府の議、固より当に四家に合従して邪気を鎮圧すべきなり」と考えると
同時に、長州藩士として他藩と競争する意欲を次のように述べた。
然れども児(松陰の自称――引用者)猶ほ憾みあり。事四家より出づ、吾れ人に因りて功
を成すは、公等碌々の数を免かれざるなり。ここを以て児私かに自ら量らず、同志を糾合
して神速に京に上り、間部の首を獲てこれを竿頭に貫き、上は以て吾が公勤王の衷を表し
且つ江家名門(毛利家の祖大江氏は平城天皇皇子阿保親王より出たといわれる――引用者)
の声を振ひ、下は以て天下士民の公憤を発して、旗を挙げ闕に趨くの首魁とならん(『戊午
幽室文稿』「家大人・玉叔父・家大兄に上る書」、安政 5 年 11 月 6 日、普及五~266-267)。
要するに、この段階における松陰の状況認識は、「幕府、外夷を親しむこと良友の如く、外
夷を畏るること厳君の如く、尽く吾が国の情実を以て外夷に輸し、若し天朝をして持重、諸侯
をして観望せしむれば、則ち其の事成れりとするを」
(『戊午幽室文稿』
「周布を論じ、兼ねて両
府の撰充を議す」、安政 5 年 11 月下旬(カ)、普及五~307-308)といったように、幕府は自ら
の外交政策を転換することが不可能であり、そのまま放置してはいけないというのであった。
また、「勤王の事は政府已に定算あり。君公の親出を待ちて而る後決せんことを要す」とい
う周布政之助の伝言に対して、松陰は、
「京の事極めて艱し、君公の親出は危計なり。吾が輩先
づ出でて之れを試み、事成らば公の出づるを待ちて之れを継ぎ、成らざれば吾が輩戮死せん、
固より国に損なし、是れ僕の志なり」と返事した(『戊午幽室文稿』「厳囚紀事」、安政 5 年 12
月 3 日、普及五~315-316)。この答えから見れば、松陰は、間部要撃策を実施した際の結果に
対して、それほど自信を持っていなかった。彼は、冒険を試みて、
「事成らば公の出づるを待ち
て之れを継」ぐと考えたに過ぎなかった。
- 37 -
唐「吉田松陰の兵学とその急進主義との関連」
結局、安政 5 年 11 月 29 日、周布政之助は藩主に請い松陰の厳囚を命じた。松陰の計画は失
敗した。こうして松陰は、ついに藩政府に対しても武力行使によって政策を変えさせようとす
る考え方を採るに至った。
Ⅲ
藩に対する直接行動論
恒例によると、安政 6 年 3 月に長州藩主は江戸へ参勤すべきであるが、松陰は、安政 5 年 11
月から、参勤に反対してきた21。この主張について、松陰はいつものように「大義」と「利害」
との二つのレベルで、論じていた。
(前略)正義にて申し候所にては来る御参府は先づ御見合せにしくは是れなく候。更に利
害に雑へて是れを論じ候時は尚ほ以ての事に候。当今天下の形勢、変革日に迫り候は人々
の見る所にて、来る未22の御参府より申の御帰国迄の無事、甚だ以て保し難く候 (『戊午
幽室文稿』「已未御参府の議」、安政 5 年 11 月 13 日、普及五~274)。
安政 6 年 2 月 27 日、松陰は、「要駕策主意上」を作った。彼は、幕府の違勅の後の政治状況
に対して、
「天子叡聖、赫然震怒したまひ、明かに征夷に詔す。征夷奉ぜず諸侯遵はず、是れ天
地反覆し、陰陽倒置するものにして、綱常の絶滅なり」(『己未文稿』「要駕策主意上」、安政 6
年 2 月 27 日、普及六~222-223)と、名分論によって激しく批判し、続いて、「然れども英雄
の事を謀るや、機を相るを要と為す。機の方に会する、駕を要するに如くはなし」
(『己未文稿』
「要駕策主意上」、安政 6 年 2 月 27 日、普及六~223)と時機の重要性を説いた。そして次のよ
うに述べた。
大原公と大高・平島(大高又次郎・平島武二郎――引用者)と深くここに察す、則ち神州
の興隆、実に此の一挙に在るなり。吾れ心に試みに之れを策す。大原公以下、公駕を伏見
に要せば、先づ説くに京に過らんことを以てす。公已に京に過らば、又説くに京に留まら
んことを以てす。因つて正議の公卿と反覆国事を商議し、又草莽の志士を引見して問ふに
時務を以てせば、一月を出でずして、四方の士必ず争ひて京師に集まり、大計定むべきな
り。
(中略)此の策成るに潰げずんば、啻に吾が藩復た尊攘の望なきのみならず、神州の興
隆亦一大機会を失ふなり(『已未文稿』
「要駕策主意上」
、安政 6 年 2 月 27 日、普及六~223)
。
このように、松陰は、機会をつかんで事を計るという軍事的リアリズムのルールを意識的に
守っていたのである。彼によれば、時はまさに要駕策を実施して日本を救う重要な機会であっ
た。実施しないと、長州藩は尊皇攘夷の名望を失うだけではなく、
「神州」も「興隆」の機会を
失ってしまう。ただ、なぜ当時が「一大機会」であったといえるのか。この「要駕策主意上」
を書いたのは安政 6 年 2 月 27 日であった。実はこの「要駕策」は、同 1 月 15 日に萩に来た大
高又次郎と平島武二郎によって提起されたものである。松陰はその時から喜んで友人と門下生
に周旋した。つまり少なくとも、松陰はその時から、長州藩主は京都に行って、「正義の公卿」
と商議し、「草莽の志士」を招き、「一月を出でずして」、「大計定むべきなり」と考えていた。
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しかし、注意すべきは、安政 5 年 11 月から、松陰は「詔を請って勤王する」という周布政之助
説に反対してきた。彼は実は次に述べていたように周布を信用していなかった。
夫れ詔を請ひて勤王すること豈に易事ならんや。内、これを将相・大臣・三末・岩国に議
し、外、これを同列の諸侯に謀り、其の趨向を熟観して、然る後に手を下すも、猶ほ其の
成らずして妨あらんを恐る。今、書生の議論に逼り、輙く詔を請ふと言ふ、孰れが敢へて
之れを信ぜん(『戊午幽室文稿』
「周布公輔の事二條」、安政 5 年 11 月中旬、普及五~301)。
つまり、安政 5 年 11 月中旬の時点では、松陰は、「詔を請ひて勤王すること豈に易事ならん
や」と思って、長州藩の内部の意思を統一し、他の大名と相談しなければならないと考えてい
た。また松陰は、次のように述べていた。
政府謾きて大言を為すあり、曰く、
「君公京に上り奸邪を抜去し、以て大義を天下に唱へん
のみ」と。
(中略)勤王の事は理の当然にして見難きことあるに非ず。然れども事豈に容易
ならんや。所以に挙げ難し。今君公の旨、三末・岩国は未だ同異を知らざれども、大臣・
政府に猶ほ従違あり。君公一日足を挙ぐれば、果して孰れに国を託し、孰れに政を任ぜん
や。且つ九重の旨と摂関の意と諸侯の謀と、吾れは則ち茫然として雲霧を隔つるが如し。
君公一たび出でて、事は或は諧はざれば、是れ所謂進退維れ谷るものに非ずや(「続狂夫の
言」、安政 5 年冬、普及五~374-375)。
いずれの主張が正しかったかは別の問題である。ここで留意したいのは、安政 5 年の冬にお
ける松陰の状況把握である。彼は、長州藩内部の意見がまた一致しておらず、朝廷の意思と他
の大名の動向がまたはっきりしていないままに長州藩主が上京すれば、失敗する可能性が大き
いので、「君公京に上り奸邪を抜去し、以て大義を天下に唱へんのみ」という意見に反対した。
この考え方は、彼が間部要撃策を計画したときも変わらなかった。先に引いたように、松陰は、
「京の事極めて艱し、君公の親出は危計なり」
(『戊午幽室文稿』
「厳囚紀事」、安政 5 年 12 月 3
日、普及五~315)と述べた。
それにしても、要駕策を謀っていた時の松陰は、藩主が上京すべきだと主張するようになっ
ていた。しかも彼は、その前に自ら激論したさまざまな憂慮すべき問題に関して、ほとんどあ
らためて解釈をせず、ただ次のように、今こそが「一大機会」だと主張する理由について説明
している。
一つの理由は、「方今、天子聖明、輔くるに青蓮王(朝彦親王――引用者)及び賢公卿を以
てす、是れ千秋の希遇なり」
(『己未文稿』
「要駕策主意上」、安政 6 年 2 月 27 日、普及六~223-224)
というものであった。もう一つの理由は、
「試みに之れを当今の列侯に観、恭しく之れを本藩の
先公を稽ふるに、英卓雄偉、或は其の人あるも、庸徳恒あるもの、孰れか吾が公の十の一を望
む者あらんや」(『己未文稿』「要駕策主意下」、安政 6 年 3 月 19 日、普及六~226)というもの
であった。それ以上の説明はなかった。松陰は君主を中心に政治の変革を図ることを考えてい
たので、ここで彼は、長州藩主そして日本の天皇を中心として政治を改善しようと考えた。た
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唐「吉田松陰の兵学とその急進主義との関連」
だし、これは、安政 5 年の冬に形成された新たな条件ではない。要するに、松陰が要駕策を計
画したとき、長州藩藩主が上京し勤王したら、依然として、
「事は或は諧はざれば、是れ所謂進
退維れ谷るものに」なるというリスクはあったはずである。
にもかかわらず、松陰は、間部策に失敗した後、要駕策に熱意を込めていた。松陰は藩主の
参勤が大義に反すると信じているから、それは藩主の身の安全より遥かに重大なことだと考え
ていた。彼は、
「余は今のあり様では迚も勤王も攘夷も出来るものではないから、此の一局を一
破り破ってのけて、扨て夫れから仕事は出来ると思へども、
(中略)君公が尊攘成されがたけれ
ば吾が輩一旗挙げてその端を開き、然る後君公の御出馬を願ふに止まると思う」(安政 6 年 1
月 22 日付入江杉蔵宛。普及九~215)と述べていた。松陰は、
「勤王も攘夷も出来」ない現状を
打破する手段として、要駕策を考えていた。
このように、松陰の時勢・利害に対する判断は、実は自らが信じている「義」によって左右
される傾向にあったといえる。この考え方を理解するために、
『孫子評注』の中の次の一文を見
よう。
近ごろ智を以て自ら負む者、人の事を挙ぐるを見て、一切軽挙妄動と為して以て之れを沮
撓し、坐して機会を失ひ、甘んじて人後に落つ。啻に其の務信びざるのみならず、其の害
更に解くべからず。是れ孔子の所謂佞人利口にして、孫子の所謂智者に非ず。又按ずるに、
古の智者は事を挙げんが為めに見を起し、今の智者は事を沮まんが為めに見を起す(『孫子
評註』、普及六~380)。
ここで松陰は独自の利害観によって、彼の「急進」的な建策を正当化していた。松陰によれ
ば、彼は「利害」を考慮しないわけではないが、その内容は一般的な利害観とは正反対であっ
た。松陰は自ら「智者」だと自負しており、彼の方策を「軽挙妄動」とみなす藩政府の官僚た
ちを「佞人利口」と批判していた。ここに見られるように、松陰の政治的見解と行動は、自ら
の兵学の論理と一致しているのである。他者が「害」があるとみなすものも、彼は「これを利
に雑ふ」と信じている。彼の「利害」に対する思考は、その「急進」的な建策を修正せず、む
しろそれを支えているのである。
続いて、再び伏見要駕策について松陰の説明に戻る。彼は、
「此の策が最後の一手段、
(中略)
今恐れて行はねば、恐れながら此の後の御世は猶更成らぬなり。練兵も何の用に立つ事か」
(岡
部富太郎宛(カ)、安政 6 年 4 月 9 日、普及九~330)と回顧した。彼は、君主を中心に政権を
交代させない限り、軍事面の努力だけでは日本を救うことができないと考えた。さらに、松陰
は、
「吾が藩当今の模様を察するに、在官在禄にては迚も真忠真孝は出来申さず候。尋常の忠孝
の積りなれば可なり。真忠孝に志あらば一度は亡命して草莽崛起を謀らねば行け申さず候」
(佐
世八十郎宛、安政 6 年 2 月 9 日頃、普及九~239)というように、政権を交代させるために「草
莽崛起」を謀るようになった。
故に、「要駕策主意上」の中で、松陰は、今こそ「千秋の希遇」だと述べてから、次のよう
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に草莽志士の力を用いる必要性を論じた。
然れども朝廷亦已に庸鈍無耻の人あり、暗に墨夷の内応を為す。是れ天朝亦艱難なり。幕
府壊ると雖も、宗親猶ほ尾・水・越・橋の賢ありて、天下之れを仰ぐ。是れ幕府と雖も未
だ必ずしも正人君子なきにあらざるなり。且つ吾が藩を以て之れを言へば、上已に明君あ
り、下安んぞ賢佐なからんや。之れを要するに、天下一君子あるも衆小人之れを拘し、一
正人あるも衆邪人之れを抑ふ。上は天朝より下は幕府列藩に至るまで、皆然らざるはなし。
かくのごときの天下を以て興隆を望み恢復を謀るは、猶ほ河清を待つがごときのみ。ここ
を以て草莽の崛起に非ずんば、何を以て快を取らん。(『己未文稿』「要駕策主意上」、安政
6 年 2 月 27 日、普及六~224)。
ここに示されたように、松陰は、朝廷・幕府・列藩の「正人君子」の存在を信じていた。彼
にとってこれは、政治を改善する希望の根本であった。ただし、「衆小人」・「衆邪人」は、「正
人君子」を妨げていたので、
「草莽の崛起」によらないと、早く改革を実現することができなか
った。こうして、松陰は、「小人」・「邪人」の存在を、草莽の崛起を正当化する理由と見なし、
草莽の力を借りて早急に変革を求めることを主張していた。ただし、松陰は次に述べているよ
うに、草莽志士の自任を正当化するために、純粋な忠誠心を要求していた。
然れども聖天子あり、賢諸侯あり、草莽の士何ぞ遽かに自ら取らんや。況や吾が藩の士親
しく吾が公の明旨を知る者は、最も草莽是れ従ふべからずとすること固よりなるをや。唯
だ其れ草莽の力を仮りて、除人を除き邪人を去り、正人君子をして其の所を得しめよ。是
れ善く神州を報ゆと為し、是れ善く吾が藩に酬ゆと為す(『己未文稿』
「要駕策主意上」
、安
政 6 年 2 月 27 日、普及六~224)。
つまり、松陰は、草莽の志士が自ら権力・地位を求めることを否定し、
「聖天子」
・
「賢諸侯」・
「吾が公」などの「君」たちをはじめとする「正人君子」たちを助けると規定していた。君主
を中心とする政治観と臣下としての忠誠は、松陰が要駕策と草莽論を立てる際の論理の基本に
なっていた。
おわりに
丸山真男は、幕末の志士の行動様式について、次のように論じた。「動きのとれない自然法
的規範の拘束と行動の定型化から自由なこうした武士のエートスのよみがえりによる兵学的=
軍事的リアリズムは、power politics の波を乗り切るのに有利だった。しかし、政治的リアリズ
ムのモデルが軍事的リアリズムによったことのマイナスの面をともなった。すなわち政治的社
会の複合性を捉えず、なかんずく理念・理想の適当な位置づけがなく、軍事的力関係の観点だ
けでみることによって『精神主義』と『戦略戦術主義』の分裂を招来した。」23、と。一般的に
言えば、幕末の志士たちは確かにそういう傾向にあったが、吉田松陰は少々違うと考える。
本稿では、松陰の直接行動論の検討に通して、松陰が常に時勢に配慮し、機会を掴んで行動
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唐「吉田松陰の兵学とその急進主義との関連」
しようと考えていたものの、直接的な利害に対する配慮を第二義的な基準としており、儒学的
道義観を強調することになった経緯を明かにした。なぜなら彼の兵学は、単なる軍事学ではな
く、倫理学と政治学の内容も含んでいたからだ。松陰はこう述べていた。
兵を学ぶ者は経を治めざるべからず。何となれば、
(兵は)凶器なり、逆徳なり、用ひて以
て仁義の術を済さんには、苟も経に通ずる者に非ずんば、安んぞ能く然らんや。
(『未焚稿』
「学を論ずる一則」、普及二~145)。
ここで松陰は兵学者として、経学に対して取るべき姿勢を論じている。戦争の道徳性を保証
するために、兵学者は経学を学ばなければならない。兵学者の立場から積極的に経学を取り入
れることは、松陰兵学の儒学への傾斜という特徴を形成した。ゆえに、彼は自らの兵学観に基
づいて策を立てるとき、常に「大義名分」と「時勢」・「利害」という二つの基準に沿って問題
を考えていたが、そのうちでも特に前者を優先していた。「時勢」・「利害」を考慮することは、
松陰の兵学者としての素質を表わしていたが、彼の儒学を組み込んだ独自の兵学観は、利害よ
り大義に沿って策を決める傾向にあった。ゆえに、松陰は、一定のリアリズム精神を保ってい
たものの、その「急進主義」的な主張が、すべていわゆる「これを死地に陥れて然る後生く」
というような謀略に還元できるものであったとはいえない。松陰はその独自の兵学観に支えら
れて、どんなに反対されても、命をかけてその直接行動を遂行しようとしていた。
注
* 本文是国家社会科学基金项目“日本侵华战争时期思想战研究(1931-1945)”部分成果,项目号为
“12CSS005”。
1
内藤俊彦「吉田松陰における“急進主義”の構造――安政五・六年の直接行動を中心として――」(新
潟大学法学会『法政理論』10(1)、1977 年 9 月)4 頁。
2
丸山真男『丸山真男講義録
第五冊(日本政治思想史 1965)』(東京大学出版会、1999)119 頁。同『日
本政治思想史研究』
(岩波書店、1952)360、363 頁。同『丸山真男講義録
第二冊(日本政治思想史 1949)』
(東京大学出版会、1999)80-81 頁。鹿野政直、
『日本近代思想の形成』
(新評論社、1956 年初版、辺境
社、1976 年再刊)89 頁。相良亨『武士道』(塙書房、1968)160 頁。同『相良亨著作集 3 武士の倫理:
近世から近代へ』(ぺりかん社、1993)463-464 頁、など参照。
3
下程勇吉『吉田松陰』(弘文堂、1953)9 頁。
4
下程、前掲、9 頁。
5
下程、前掲、218 頁。
6
たとえば、海原徹は、松陰の兵学を中心に研究を行ってはいないが、松陰のいう「神州の陸沈を坐視し
てはどうも居られぬ故、国家へ一騒乱を起し人々を死地に陥れ度く、大原策・清末策・伏見策等色々苦
心したるなり」(小田村伊之助・久保清太郎宛、安政 6 年 3 月末頃、普及九~303)という言葉を引用し
て、
「もともと松陰は、藩全体を危機にさらし、絶体絶命の境地に追い込むことからはじめようとしてい
た。諸藩に先んじて討幕の首唱となろうとすれば、こうした荒療治しかないと考えたわけだ」と述べる
(海原徹『吉田松陰と松下村塾』<ミネルヴァ書房、1990>197 頁)。
野口武彦も、安政 5、6 年における松陰の行動の歴史的意味について、「『孫子』にいわく、『これを亡地
に投じて然る後存し、これを死地に陥れて然る後生く』と。死生の地、存亡の道には将帥みずから敢然
と踏み込まなくてはならない。松陰のこの決断がなかったら、弟子たちはだれも、師の死を乗り越えて
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闘うことはなかったろう」と述べている(同、『江戸の兵学思想』<中央公論社、1991>312-313 頁)。
また、藤田雄二『アジアにおける文明の対抗:攘夷論と守旧論に関する日本、朝鮮、中国の比較研究』
(御茶の水書房、2001)の第二章第二節「攘夷を通じての自強」(特に、110-114、123-130 頁)参照。
7
「普及九~303」とは、山口県教育委員会編『吉田松陰全集(第九巻)』(普及版)(岩波書店、1938-1940)
303 頁を意味する。以下同。
8
内藤、前掲、5 頁。
9
内藤、前掲、16 頁。
10
唐利国「“急進”主義時期における吉田松陰の兵学論――『孫子評註』を中心として」(北京日本学研究
センター編『日本学研究』<20><学苑出版社、2010>に所収)参照。
11
『戊午幽室文稿』「愚論」、安政 5 年 5 月 12 日頃、普及五~152-156 頁、参照。
12
また、『戊午幽室文稿』「続愚論」、安政 5 年 5 月 28 日、普及五~160-165 頁、参照。
13
普及版頭注は、
「正議の堂上公卿八十八卿三月十一日連署して幕府への勅答文を改められんことを嘆訴す。
翌十二日には連署増して九十三人となる。勅答文案は始め関白九條尚忠の手に成り、大意は、外交の事
民心に適する以上は関東に一任すといふありしを憤慨してこの挙に出づ」とある。
14
『戊午幽室文稿』「時勢論」、安政 5 年 9 月 27 日、普及五~249-254 頁、参照。
15
『戊午幽室文稿』「大原卿に寄する書」、安政 5 年 9 月 28 日、普及五~254-259 頁、参照。
16
また、『戊午幽室文稿』「墨使申立の趣論駁條件(未定稿)」(附論三則)、普及五~277-298 頁、参照。
17
普及版頭注によると、
「 安政五年九月老中間部詮勝京都に至りて強圧政策を断行し、先づ梅田雲浜を捕へ、
安政大獄の発端を開く」という。
18
ここで松陰は、
「当今二百六十諸侯、大抵膏梁子弟」だという酷評を下したが、彼は完全に絶望していな
かった。彼は、
「諸侯頼むに足らずと申す内、公卿間より親しく御下向御説破遊ばされ候はば、四五藩位
は立所に応ずる者も之れあるべきか。一旦義旗挙がり候上は雲霞の如く天闕に拜趨仕り候段疑之れなく
候」(『戊午幽室文稿』「大原卿に寄する書」、安政 5 年 9 月 28 日、普及五~255 頁)と説明を追加した。
彼は大原重徳の影響力に期待していた。
19
普及版頭注によれば、「楠・新田・児島・菊池の諸氏」をさす。
20
将軍徳川家茂は、安政 5 年には 13 歳であった。
21
『戊午幽室文稿』「已未御参府の議」、安政 5 年 11 月 13 日、普及五~273-277 頁、参照。
22
普及版頭注には、「未は安政六年、申はその次の年に当る」とある。
23
丸山真男『丸山真男講義録
第五冊(日本政治思想史 1965)』 252 頁。
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