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中世服飾にお け る

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中世服飾にお け る
中世服飾における
ミ・パルテイについて
菅 原 珠 子
十二世紀来服飾の上にあらわれた変化について,F. Boucherは,璽Lつ
はフアンタジーのモードであり,他方は新しい社会の必要に対応するもので
(1)
ある”と述べている。十三世紀から十四世紀にかけて,衣服はその形も材質
や色調も次第に変化にとみ,新しい技法がとり入れられたり,贅沢で華やか
なものになってゆく。それは中央集権化に伴い力を得て来た王を中心とする
宮廷や,地方権力を握る領主に限らず,生産,商業の発達により経済力を有
する商入等に拡がり,更にフランスからイギリスやドイッ,イタリア等々の
各地に伝わってゆく。
当時のヨーロッパは,十三世紀の末から十五世紀の初めにかけて黒死病等
伝染病の大流行による人口の減少,戦乱や略奪,内乱による土地の荒廃が各
地にみられ,入々は一様に不安な生活を送っていた。それにも拘らず,{(ヨ
ーロッパの文化は枯れるどころか,むしろ文化的には漸進したといわれる。
第一は富の地理的配分を変えたことで,それによって知的で美的な活動の中
心地がつくられた。病気の流行や経済的無秩序のみられる一方では仕事が栄
え,町が拡大した。第二に人口の減少は,却って富の集中,生活水準の上昇
の傾向となり,芸術の保護と文化の伝播が行われた。その結果,上流階級の
神秘裡にあった趣味や習慣が一般に喜ばれ,葡萄酒やリンネル製品や読書が
普及し,贅沢への愛が弱まるどころか,烈しくさえなった。第三に西洋文化
の秩序の崩壊は,人々の生活を無秩序にはしたが,同時に解放感を与え,彼
(2)
等自身が未踏の道を歩くことによって新しい人間であることを自覚した”の
であった。
一 102一
ヨーnッパは以後に続く長い不況時代に入り始めた時で,貧富の差は烈し
く,不安定な社会的背景のもとにあって,人々は遂にそれらに眼をつむり,
現実の快楽に身を委ねた。貧しい農夫や羊飼いが中世初期以来の粗末な衣服
をまとい続けている一方で,宮廷や地方の貴族・富裕な商人たちは新しいモ
ードを追いかけ,より優雅で華麗な衣服をつくりあげている。長らく続いた
コットやショースは急に色づき,いろいろの変り形が登場し,多彩な色調,
見事な織物でつくられ,毛皮や刺繍やdaggingといわれる鋸歯状縁飾,
mi−partiや紋章などによってそのファンタジックな雰囲気を高めた。 Paul
Lacroixが, t「当時の写本画の中に数々のミニアチユールをしらべると衣裳
(3)
の優雅さは,用いられた色彩によって高められている”と言っているよう
に,そこでは特に色彩の果たす役割の大きさが感じさせられる。十四・十五
世紀の服飾様式では,色彩の豊かさがたしかに目立った特色の一部をなして
いる。ここでいう色彩の豊かさとは,入によっていろいろの色調を用いてい
る,ということよりも,一つの服装の中に,例えばコット(cotte)とショー
ス(chausses)とマント(manteau)と夫々色を違えたり,あるいは,一枚
の衣服の中で,ショースの左右の色をかえるとか,マントやコットの表面を
紋章や幾何学的な分割の仕方によって色調を使いわけるとかいうような羊法
を用いていることである。そしてこれらの手法の中にmi−partiといわれる
使い方がある。mi・−partiはあるいはparti−colour,6carte16ともいわれ,
日本では片身替りといっているものに類似している。分割した部分の色を違
えるということである。mi−partiによく似た色の使い方にmotleyと形容
されるものもある。日本における片身替りの例は一部にすぎないが,西洋中
世後期のmi−partiは可成り長く,また広い範囲に流行していると思われる
し,この時代特有の興味深い装飾方法である。
(4)
mi−partiの早いものとしてNorrisの挙げる例は,十=世紀後半,英国
の宮廷役人の儀式服で,コットという膝丈のワンピースの衣服に縦にmi−
partiが表わされ,その片方は特に刺繍が施されており,更にその衣服の裾
一103一
はdaggingになっている。また女性の衣服にみられる初期の例としては,
(5)
BoehnがttHenry二世の妻kunigundeが赤い斑点と黄色い飾りのついた
白い衣服をつけたこと”を述べ,またtt中世ドイツの物語の中には赤と緑の
m1−part1の衣服があらわれたし,当時の婦入達がmi−partiのモードを好
(6)
んだ”と言っている。又,十二世紀末の聖エティエンヌの聖遺物画(ゲレ,
市立美術館)の中央面にはIni−partiのショースをつけた人物がみ’られる。
Ruppertにょると, ttmi−partiのモードが,衣服やショースにみられるの
(7)
は1300年頃からで,これは十五世紀の終りまで長びいた”という。一方
Boehnは, ttこのモードの記録は明らかには出来ないが,その初まりはオッ
トーの時代にさかのぼる”という。そしてt(中世を通じて衣服σ)おしゃれで
は常に勝っていた男子の服装の中に初めに現われた。この奇妙なモードを考
えたものは,おそらくおうむの華やかな羽毛を羨んだのであろう”と。mi−
(8)
partiは男女両方に好まれて十六世紀後半まで続いたとしている。 Boehnの
言葉から察すると,mi−partiを単なる左右の色違いのみに限らず, motley,
即ち雑色とか混色とかいう意味あいのものも広く含めているのではないかと
思われる節がある。そうすればこのモードが十世紀後半から十一世紀前半の
(9)
Ottosの時代から十六世紀にわたるという意見にもうなづける。
mi−partiの起りについては,明確な資料が見当らないが,紋章との結び
つきもその一つと考えられる。はじめ馬上試合に出場する騎士の身分や家柄
を表わした楯の紋章が次第に騎士の衣服や家族の衣服にとり入れられ,それ
は装飾的な役割を果たすようになるのであるが,こうした紋章の用い方や,
二つの紋章を組み合わせる合せ紋の如き方法がmi−partiの流行に拍車をか
けたこと,両者の手法が密接な関係にあることは一般に言われているようで
ある。
十三世紀の㎡i−partiの例としては,フランスの旧約聖書の挿絵中にみら
れるバイオリンをもつ演奏者のコット(又はコタルディ)が前中心から左右
に縦分割のmi−partiになっている。般英国の鞍つくりのギルドのメンバー
一104一
は,1299年に赤と白のmi−partiのコットをつけてEdward IとMargaret
(10)
of Franceの結婚の行列に参加した。”mi−partiを用いた一種の揃いの服で
(11)
あろう。Peterborough詩篇集には,金文字の周囲の装飾図に天使や騎士が
描かれているが,その図の中の女の召使いのコットは緑と褐色の縦割り・の
mi’−parti,もう一人別の人物のコットは灰色と赤のmi−partiである。この
ような左右を色ちがいにするというようなことは,単に色調の多様の効果だ
けを目的としているのではなく,勿論そうしたことも計算には入れているで
あろうが,更に当時の感覚が不規則の中に美を求めていたのではないかとも
考えられる。Dubyが,十四世紀初期の芸術表現の近代化の流れの一つにつ
(12)
いて次のように述べている。tt芸術家達は合理的な建築のおちついたmass
に無用に装飾を加えて……,ステンドグラスの分割と記念像の美しい線から
来たアラベスクを作りだすことにょって,優雅な楽し気な精神は,礼拝式の
芸術のシンメトリーを侵し,まもなくきれぎれに破壊した。アラベスクは,
神聖な礼拝式に次第にとって代った”と。
十四世紀に男子のコット類の丈が急に短かくなり,ショースに包まれた長
い脚を衆目にさらすこととなった。上衣が短かくなったことに対しては,
t{
h寒の意味をなさないし,丈が短かくなっても材質や作り方が贅沢になっ
(13)
たので経済的な意味もないと非難されていた”というが,上衣類が短かくな
るとショースの大部分が見え,いきおいこの装飾にも眼が向けられよう。シ
ョースはもともと右脚と左脚を別々に包み,腰のところで両者を結び合わ
せ,それを上衣に接ぐという構成であったところから,右と左をそれぞれ別
の色の布でっくることは容易に思いつくことであろうし,あるいは反対に両
方を同じ布で作る必要もなかったと考えてもよいかも知れない。十四世紀の
芙国の作家Chaucerは,これを評して, tt=色からなる彼等のポーズの包み
布一白と赤,白と青,白と黒,黒と赤一は,着用者をして恰かも丹毒の
(14)
ようにし……”と厳しく批判していたとPヱanch6が書いている。フランス
(15)
大年代記の星騎士団の細密画には,mi−partiのショースをつける騎士団員
一105一
がみえる。ある貴族は,般一層入目をひくために一方の脚を白か黄か緑の一
色とし,他方を黒か青か赤に装った。そして靴はちぐはぐの色のものをつけ
(17)
ていた”。mi−partiのモードがショースから始まったとは言えないにして
も,資料の中では,ショースのmi−partiがかなり多いことに気がつくし,
またこのモードが十五世紀まで残っている例の多くは,特殊の衣服を除い
そ,ショースのそれである。ということは,ショースにおいてmi−partiの
技法が非常に用いやすかったといえよう。
十四世紀半ばのフランスでは,一部で衣服の贅沢と誇張がまし,Ouiche−
(17)
ratの説明をかりると, q金貨は主に衣服のために支払われ,手腕のある者
は誰でも贅沢に耽った。1365年の革命によって一時的に階級の区別が消えた
かに見え,パリの市民は王の命令の下に,紳士と等しく彼らの馬に金の拍車
を置き,金銀で飾ることを許させた。そのような習慣を禁止する法令は最早
なく,すべての門戸が彼らに解放された如く,彼らは富によって,立派な品
々を得ることができた”のである。そうした富は勿論衣服に及び,装飾の多
彩な傾向は,更に一層mi−partiのモードを煽りたてたと思われる。それは
衣服の上では,殊にコタルディ(cottardie)の上に顕著にあらわれている。
コタルディは,十四世紀半ば頃からフランスとイタリアにあらわれたが,コ
ットの変り型で,cottardie即ちcotte−hardieで,奇抜なコットという如
く,非常におしゃれな,当世風なモードを存分にとり入れた衣服で男女共に
用いられた。当時,紋章もこの衣服に非常によく用いられているし,mi−
partiの例も多い。コタルディには,屡々袖口,あるいは肘のあたりにチペ
ット(t{ppet)という一種の垂布を飾りとしてつけているが,このチペット
は当初は白い布であったのが,色物も用いられるようになり,それは一方が
白で,他方が赤とか青の如く,mi−partiの表現である。こうしたチペット
をつけるというところにもこの衣服のおしゃれ着としての感じがみられる。
(18、
t「アレクサンダー物語”の宴会の場面では,テーブルにつく貴族達の一人
一入のコタルディが仲々変化に富んでいる。まだら色(motley)あり,紋章
一 106 一
衣(armorial)あり, rni−partiあり,またその上彼らのつけたシヤプロン
(chaperon)という中世特有の頭巾のケープの縁は鋸歯状飾りやスリットで
飾られているというように,当時の流行が充分にとり入れられている。ここ
でいうmotley とは,横縞,斜縞,または衣嚴の一部が別布という如きも
ので,これらや紋章衣やmi−partiは,当時は同じような感覚からとり入れ
られたとみるべきであろう。また別の場面では,mi−partiのコタルディを
つけた婦入達がみられる。このように変化にとんだコタルディをつけた例
(20)
は,十四世紀ドイッの絵にみられる中世の生活を描いたところにもある。音
楽学校の場面では,緑と紫のmi−parti,緑と白の横縞,赤と緑の斜縞,紫と
青のmi−parti,桃色と白のmi−parti,赤と紫のmi−partiなどがみられる。
中世の細密画の中には,一般のシャプロンを変形誇張したような,例え
ば,左右の両端の角が横に突きでて,その先に鈴をつけ,大きなケープのつ
いたシャプロンと,ショースという特有な服装の入々が妙な姿で踊っている
ものが描かれていることがある。そしてそのシャプロンやショースにも屡々
mi−partiがみられる。これは当時,道化師(jongleurs, juglery) といわ
れるような人々で,tt十二世紀以降,彼等は異様ないでたちと,目立つ調子
の布によって人目をひいた。紅の絹の衣服と黄色い帽子のついた紅のマント
とか,あるいは縦わりのmi−partiの衣裳をつけていた。人々はそれらを模
(21)
倣し,説教者は彼等の服装の軽桃を非難した”。tt1346年, St. Denisの年代
記の中で著者の修道僧は,シャプロンの縁の尖った裁ち方,片方つつ違った
(22)
色のチペット,床まで達する袖やかぶりものを評して,まるで大道芸人のよ
(23)
うである”と言っているが,彼等は時代のモードを極端に誇張していたので
あろう♂中世の道化師達は,詩や音楽や踊りをよくし,あるいは,手品やレ
スリングやボクシング,動物の芸当などをする者もあった。多くは宮廷や地
方の領主に抱えられていたが,下賎の者達はいわゆる大道芸人であり,彼ら
(24)
は多彩な色の衣服をつけ,上品さを犠性にして笑いを起させていた。”娯楽
の少い当時にあっては,この種の道化師たちは入気もあったと思われるし,
一107 一
彼等の服装を一般人が模倣したのか,あるいは当時のモードを誇張して彼等
が用いたか,何れにしても,両者が共に影響を与えあったことが考えられ
(25)
る。tc十四世紀初めのフランドルの写本画にみられる踊り手の衣服は,十三
世紀風のきっちりしたコットであるが,赤と白のmi−partiであり,楽士の
(26)
一人は,青と淡黄褐色のmi−partiのコットと赤いポーズをつけていた。”十
(27)
四世紀前半のフレスコ画tt聖マルタンのナイト爵位授与”にみられる楽士は
帽子も衣服もmi−partiで表わされている。これらは無地のmi−partiでは
なく,片方が縞や模様になった美しい衣服である。シャプロンのmi−parti
も芸人に限られず,一般市民にも用いられたようである。 ”1357年パリ市民
は紅と緑のmi−partiのシャプロンを採用し,これはパリ市長の手でフラン
(28)
ス王太子にもかぶせられて,王太子を守った”という。
(29)
G・Chaucerは,カンタペリー物語の中で,カンタペリー巡礼の団体に加
わった人々の人物や身なりを紹介しているが,そこには,騎士や修道僧や法
律家,法王の赦罪状売り,村の牧師,商人,大工など,当時の種々の職業を
もつ人が登場してくる。彼の描く服装も様々で,その人柄と相侯って仲々興
味深いが,その中からmi−partiに関連すると思われるものを挙げてみる。
”E分の説を大げさに吹聴していつも金儲けの話をほのめかす一人の貿易
商は,二またに分れたあごひげをはやして,まじり色の服をきていた。高々
と馬に乗って,頭にはフランドルの海狸の毛皮の帽子をかぶっていた。彼の
(30)
深靴は立派な締め金がついていた”。 またttすばしこそうな法律家は学識と
名声によってたくさんの給料と官職にありついた金儲けのうまい者であった
が,絹の紐を帯にして,小さい飾りのついたまじり色の外套を着て質素なふ
(31)
うで馬にのっていた”。
この二人の服装の中にてぽじり色”という訳語が使われているが,これら
は原文では,前者はin mottelee(in motleyまだら色,まだら)であり,
後者はaInedlee cote(medley coat混合した,よせ集めのコーDであ
一108一
(33)
る。大山氏は後者について特にtt織り方または色彩の混合したもの,当時
sergent of the lowの官服はbrownとgreenのしまがあった(Robinson)”
(33)
と註釈している。そこでCanterbury Talesの現代英語訳をみると,前者を
motley dressとし,後者をparti−coloured coatと訳出してある。これだ
けのことではどちらとも言えないようであるが,縞模様の如き混色や,mi−
partiの如き分割した色調の衣服であることにまちがいはない。そして,こ
のまじり色の衣服を着けている二人は,一方が当時経済力のあった貿易商入
であり,他方が身分の高い法律家であることから,他の入々とは異った流行
の身なりとして描かれたのではなかろうか。当時,mi−partiのモードをとり
入れられる階層は経済的なゆとりがあるか,あるいは特殊な場合に片寄って
いたのかも知れない。
(34)
十五世紀末のttas薇物語”の写本の歓楽の踊りの場面には,笛を吹く楽士
とドラムをもつ楽士の衣服にmi−partiが使われている。’前者は桃色と藤色
のmi−partiの襟,黄金の房のついた桃色の垂袖,緑と黒の袖のついた黒い
上着,mi−partiのポーズと靴であり,後者は,緑と藤色のmi−partiの襟の
ついた赤いコート,桃色のダブレット,mi−partiのポーズであったとい
(35) (36)
う。十五世紀イタリアのCarpaccioの聖ウルスラ物語では,ショースに
mi−partiがみられるが,それは片方の脚の部分が二色に分割されて縞柄を
表わしている。また同時代の別の作品の中にもこれに類したショースがみら
れる。そして何れも,プールポアンの袖には新しいイタリアモードであるス
ラッシュ(裁目)がみえる。中世以来のmi−partiと,ルネッサンスの新し
いモードであるスラッシュが同時にみられた。こうして,ショースのmi−
partiは,自由で華やかなルネッサンスモードととけ合って暫らくの間続く
ようであるが,その傾向は極く一部に限られ,一般には余りみられなくなっ
(37)
た。特殊な例としては,例えばTournament RollにみられるHenry皿
(38)
の王子誕生の祝いに馬を曳く従者の衣服が黄と灰色のmi−partiであるが,
ルネッサンス風の襟元からシュミーズがみえている。また1496年作の写本画
一109一
には,教区の射的場で数名の射手が何れも赤と青のmi−partiの衣服で描か
(39) (40)
れている。またB.Gozzoliのフレスコ画ttマギ公の旅立ち”には, mi−
partiの衣服とポーズが従者によって着用されている。
”mi−partiのモードは,従者や小姓,下僕に限られ,十六世紀半ば頃には
(41)
消えた”とPlanch6が述べているが,上述のいくつかの例から,それはmi−
partiのモードの末期の頃の現象ではないかと思われる。十五世紀には紋章
入りのコタルディもなくなり,衣服における紋章表現は,女子ではマント
に,男子では甲胃の上の袖なしのシュルコーや,軍装としてのプールポアン
・の上に限られるようになった。そしてmi−partiもまた,従者の揃いのお仕
着せとか,ショースの一部とか,あるいは道化師達の衣裳の中にわずかに余
命をとどめながら,しかしそれも時と共になくなり;次第にルネッサンス特
有のスラッユ(slash)の技法がこれに代って色彩の華やかさを表わしてゆ
くようになる。
最後に,御指導頂きましたお茶の水女子大学々長谷田閲次先生に厚く御礼
申し上げます。また’Cカンタペリー物語”について御指示下さいました本学
の中田公子教授にもあわせて御礼申し上げます。
註
(1)
F,Boucher;Histoire du Costume P.188(1965)
(2)
G.Duby;Foundation of A new Humanism P.11∼12(1966)
(3)
P.Lacroix;Manners, Customs, and Dress during the Middle Ages,
(4)
H.Norris;Costume and Fashion. vol. ll P.82(1927)
(5)
英国王ヘンリー二世(1154∼89)
(6)
M.v. Boehn;Die mode vol. I P.189
〈7)
J,Ruppert;Le Custume vol. I P.40(1947)
(8)
M.v. Boehn;前掲書P.174
and the Renaissance Period, P.541
(9)
(10)
ドイツ王 オットー一世∼三世(992∼1002)
H.Norris;前掲書vol皿P.166
一110一
(11)
East Anglia, Ms.9961−62−F74(1299頃)
(12)
G.Duby;前掲書P.52
(13)
J.Ouicherat;Histoire du Costume en France P.230(1877)
(14)
J.R.?lanch6;ACyc工opaedia of Costume vo1. l p.302(1876)
(15)
M.S. Frangais 2813 Folio 394パリ国立図書館
〈16)
J.Ouicherat;前掲書P.233
・(17)
J.Ouicherat;前掲書P.230
(18)
Romancece of Alexander,英国Oxford Bodleian(1338∼44)
〈20)
Maneessa Codex, Heindelberg大学図書館No.848
〈21)
F.Boucher;前掲書P.188
〈22)
おそらくシャプロンの尖端のリリピープが長く垂れていることを指すのて
あろう。
〈23)
P.Lacroix;前掲書P.541
(24)
P・Lacroix;前掲書P.224∼228
〈25)
British Museum M. S.(stowe 17)Flemish 1300頃
〈26)
M.G. Houston;Medieval Costume in England and France P.96
(1930)
〈27)
Simone Martini;Lower Church of San Frencesco, Assisi,
(1320∼1392)
〈28)
J.Ouicherat;前掲書P.232
(29)
Geoffrey Chaucer(1340頃∼1400)
The Canterbury Tales(1387∼1392)
ll?1}世界文学大系(筑轄房)チ・・’一サー
P.8
(32)
大山俊一註釈,カンタベリー物語(篠崎英米文学研究双書)
〈33)
Nevill Coghili;The Canterbury Tales, A New Translation(The
Penguin Classics)
〈34)
Roman de la Rose, Carole of d60duit(1440頃)
Flemish,(British Museum, Harl, Ms 4425)
〈35)
Dovenport;The Book of Costume. P,346(1970)
〈36)
Venice AcaClemy of Fine Arts 1490−95
〈37)
Collgee of Arms.1511.2.13.
:llll}H・Sh…D・ess a・d D・…a・…s…h・M・ddl・Ages v・1・亙(・843)
〈40)
B.Gozzoli;The Journey of the MagiフローレンスMedici Ricardi
Palace(1468)
(41)
J.R. Planch6;前掲書vol. I P.302 以上
一111一
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