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Title Author(s) ロジャーズにおける「共感」の概念について 永島, 聡 Editor(s) Citation Issue Date URL 人間文化学研究集録. 2000, 9, p.144-154 2000-03-31 http://hdl.handle.net/10466/11697 Rights http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ ロジャーズにおける「共感」の概念について 永島 聡 1.はじめに ロジャーズRogers,C.R.の創始したクライアント中心療法(Client Centered Therapy)は,我 が国には1950年前後に紹介され,1960年代前後には大流行し,以降しばらくは,カウンセリン グといえばロジャーズ,という状況であった。対照的に近年,その存在感はすっかり影を潜めて しまった。現在,ロジェリアンを標榜する心理臨床家は,高い年齢層に偏っており,中堅以下 の年齢層には,あまり振り返られることはなく,彼はすでに過去の人,といった様子である。そ れでも近年,ロジャーズを見直す動きも萬てきていて,1997年には『こころの科学』において特 別企画が組まれたり,またその前後にいくつかのロジャーズに関する書物も出版され,その理論 と実践の再検討がされつつあるとも言えるが,現場の心理臨床家の興味は,いまだ高まっている とは言いにくい状況である1。 ところでロジャーズは,実存哲学の中に,自らの理論を位置づける基盤を求めたが2,その試 みは1一分なものであったとは言えないと思われる。 ・方ロジャーズと同時代の実存的な思想家の ・人として,精神科医のフランクルFrank1,V.Eがあげられるが,彼らが直接接触したり,言及 しあったり・した形跡が見当たらない中,彼らを比較検討した研究は,見受けられない.本稿に おいて筆者は,ロジャーズ理論の流行と衰退の流れを踏まえながら,治療関係においてセラピス トがクライアントを「共感」する,ということについて,フランクルに加えて,西田幾多郎の思 想をも関連させて,その再考を試みる。 2.ロジャーズ理論およびその流行と衰退 ロジャーズは,建設的なパーソナリティ変化のための6つの条件を,以下のように述べる3。 1)二人の人間が,心理的接触を持っている。 2)クライアントは不一一致(incongruence)で,傷つきやすい,不安の状態にある。 3)セラピストは一一・致(congruent)した,純粋(genuine)な,統合された(integrated)状 態にある。 4)セラピストはクライアントに対して無条件の肯定的配慮(unconditional positiveregard)を 経験している。 5)セラピストはクライアントに共感的理解(empathicunderstanding)を示している。 6)クライアントがセラピストの無条件の肯定的配慮と共感的理解を知覚している。 これらさえそろえば,本来的に持つ人間の成長の力が阻害されることなく発揮され,パーソナ リティは建設的な方向へと変化する,と彼は言い切る。ここで「致1とは,人間の現実の体 一144一 験と,そこで持つ自己像との間が一致している,ということであり,「不一致」とは,それらが 矛盾していることである。例えば,現実には子離れできないでいるが,子どもが年ごろになれば 独立させるべきであると信じている親は,不一致の状態にあると言える。そして矛盾が大きいほ ど,不安,緊張状態も大きくなる。「純粋」であることとは,意識に上ってくるあらゆるものを 否定せず,自分のものであるとすることである。例えば,クライアントへの怒りを感じてしまっ たセラピストは,その怒りさえも自分のものである,と認めなければならない。逆に,専門家と してそれは許されないとの姿勢より,その怒りを意識せず否定してしまえば,彼は純粋でない, と言える。「無条件の肯定的配慮」とは,セラピストはクライアントのどんな感情表現をも受容 する,ということである。クライアントがセラピストに対して好印象を持っているときだけ,あ るいは,高い社会性を持っているときだけ受容するとか,クライアントがセラピストに悪印象を 持っているとき,あるいは,反社会的なときは受容しない,というのでは,無条件に肯定的に配 慮しているとはいえない。クライアントはどんな気持ちを持つことも許されるのである。また, 「共感的理解」とは,「クライアントの私的な世界を,あたかも自分自身のものであるかのように 感じとり,しかもこの“あたかも… のように”(as if)という性格を失わない」4ということ である。6つのうち3>と4)と5)に関しては,セラピストにとっての三条件として,すなわち, 純粋,無条件の尊重,共感,として知られている。そしてこれらは,知的な情報として伝達し うるものではなく,経験により学習されなければならないものであると彼は言う。さらに彼は, セラピーには,診断は必須のものである,と言わず,また心理学的な,専門的な知識が要求さ れる,とも言わない。 これらの諸条件によると,治療場面において,クライアントの言うことを,ただ単に“おうむ 返し”的に相槌を打ちながら,“ノンディレクティブ”に,“共感”的に“傾聴”することが,治 療者としてのとるべき技法である,との解釈も成り立ち得るかもしれない。とにかく“共感的” に聞くことが,ロジャーズ理論にのっとったロジェリアンのセラピーである,ということになり, 治療者としてのアイデンティティーも維持されることになろう。このような背景で,ロジャーズ 理論は爆発的に普及し,またその分衰退もはやかったと言っていいのであろう。 近藤邦夫は,日本の学校教育界へのロジャーズ理論の広まり方の推移について述べているが, その中で,かつての流行を支えたものは,その理論と技法の“近づきやすさ”にあったとしてい る5。また村瀬孝雄は,“おうむ返し”との椰楡はロジャーズ自身にも責任があると述べている。 ロジャーズの技法的な提案の一つに「反射(reflection)」があるが,これはクライアントの言葉 を伝え返すことでセラピスト側の受容,関心,共感等を表すことである。ロジャーズは自らの論 の発展の中,“技法”よりも“態度”を重視するようになり,このことについて言及しなくなっ てしまった一方,多くのセラピストたちは技法を求めこれに飛びつき,この「反射」が“おうむ 返し”として独り歩きしてしまった,とのことである6。理論,技法の簡易さと,それらが普及 と衰退の要因となっていると述べる同様の見解は他にもよく見受けられる。 ロジャーズ自身,理論はドグマになってはならない,ドグマには発展性はない,理論は更なる 創造のためになければならない,と言っている7。しかし,少なくとも我が国においては,この単 一145一 純な技法がドグマとなってしまったと言えるかもしれない。 ところで,共感に関する研究は,クライアント中心療法の全盛期前後に数多く積み重ねられ てきている。中でも統計的,実証的研究が目立つ。「共感」,「無条件の肯定的配慮」,「純粋」 等を操作的に定義し,セラピー場面においてそれらの条件があれば,建設的なパーソナリティ変 化が生じることを立証するといった内容である。例えばハルキデスHalkides,Gは,3条件それ ぞれの高い度合いのものと,セラピーの成功事例との問に,.001水準において有意な相関を持つ ことを明らかにした。また,セラピストが共感的であれば,セラピーの開始から終結まで共感的 である傾向があることや,3条件それぞれが相互に高い相関を示すことも見いだした8。その他 同様の数量的研究が散見されるが,その際,スティブンソンStephenson,W.の考案したQ分類 (Q−sort)がしばしば用いられている。 ロジャーズは,サイコセラピーにおいて,精神医学的な類型や心理検査などによる診断的評価 は,無益ではないが,必須のものではないと述べているが,我が国においても,セラピーにおい て大切なのは“共感的理解”なのか“診断的理解”なのか,といった議論が活発であった。診 断的な先入観は共感的理解を妨害する,とにかく傾聴すべきである,といった考えも強い中,例 えば,山本和郎は,共感的理解と診断的理解の統合について論じている9。また,村瀬によって も,それらを止揚しようとする同様の試みがなされている。 これらのような研究の蓄積の一一方で,そもそも,セラピストがクライアントを「共感」する, とは,どういつだことなのか,ということを,セラピスト自身が超越性を鍵概念にして実存的に 洞察していくことで考察する,というアプローチは,あまり見受けられない。共感する,という ことと,単に“フムフム”と聞くこととのきちんとした区別が不卜分であったことが,クライア ント中心療法の衰退の一一因であるとも考えられ,加えて,その辺があいまいなまま,共感がロ ジャーズ理論以外のものも含めた心理療法一般の基本的技法になっていったとも言えるような状 況の中,この概念そのものの再検討が必要に思う。ロジャーズとフランクル,およびロジャーズ と西田を関連させてなされた議論も見当たらない中,彼ら2人の実存思想を基礎に,共感する ことについての試論を述べる。 3.西田およびフランクルとの関連性の可能性 ロジャーズにとって,セラピストのクライアントに対する共感とは,「クライアントの私的な世 界を,あたかも自分自身のものであるかのように感じとり,しかもこの“あたかも… のよう に”(as if)という性格を失わない」10ということである。すなわち,「クライアントの怒りや恐怖 や混乱を,あたかも自分自身のものであるかのように感じとり,しかも自分の怒りや恐怖や混乱 がその中に巻き込まれないようにする」11ことである。あたかも自分自身のもののように感じ取る のは,セラピストであり,セラピストが主観的にクライアントを感じ取る,といったところが強 調されているように見受けられる。サイコセラピー理論において,セラピストのとるべき技法を 提示する,という意味では,セラピストの主観性を打ち出すことは必要であろう。一方で,非反 一146一 二二に(unreflectively),セラピーの中に没入し(immersion),その関係を生きる(live the relationship),と言っている点において,ロジャーズ本人はそのように強調しないが,セラピス トの,あるいはクライアントの自己超越性,クライアントーセラピスト関係を何か超越したよう なニュアンスを感じ取ることもできるのではないであろうか。 治療関係や,その場の二コ口自己超越性,という点からは,西田の初期の思想における「純 粋経験」という概念が連想される。『善の研究』において西田は,純粋経験を次のように規定し ている。「経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて,事実に従 うて知るのである。純粋というのは,ふつうに経験といっている者もその実はなんらかの思想を 交えているから,毫も思慮分別を加えない,真に経験二二の状態をいうのである。たとえば,色 を見,音を聞く刹那,未だこれが外物の作用であるとか,我がこれを感じているとかいうような 考のないのみならず,この色,この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。 それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時,未だ主もなく 客もない,知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なるものである」12。例え ば,「私」が,「風」がざわざわ「吹く」のを「聞く」時を考えてみる。「真の直覚とは未だ判断 のない以前である。風がざわざわいえばざわざわが直覚の事実である。風がということもない。 事実には主語も客語もない」。「私は,風がざわざわ吹いているのを聞いている」と経験する以前 の,直接に経験された原事実,とにかく,時間的にも空間的にも超越した,いわば「ざわざ わ!」そのものが,純粋経験と言える13。 フランクルにおいても,同様の考え方が見て取れる。彼は,「前反省的存在論的自己理解」と 名付けた自己理解について,眼の機能を例に,次のように説明する。「私たちの眼は自己超越的 です。つまり,まわりの世界を視覚的に知覚する機能を果たす眼の能力は,鏡に映るということ を別にすると,眼自身を知覚することができないという無能力と一体になっています」14。眼が 眼自身を知覚することができるのは,自内障や緑内障のような,病気の時である,とフランクル は述べ,さらに続ける。「人間存在も,ちょうどそれと同じです。自己超越とは,人間が,自分 を無視し忘れること,自分を顧みないことによって,完全に自分自身であり完全に人間であるこ とです。つまり,なんらかの仕事に専心することや,なんらかの意味を実現することによって, あるいは,ある一つの使命またはある一人の人間,つまり伴侶に献身することによって,人間 は,完全に自分自身になります」15。眼は眼自身を見ることはできない。実存は実存そのものを 反省することはできない。反省しようとすると,実存は,反省する自己と反省される自己とに分 裂する。反省する自己についてさらに反省しようとすると,さらにまたそれも二つに分裂し,こ の運動は無限大に発散していく。結局真の実存は,無反省的に,忘我的に,実現する,実存す るしかないものなのである,と彼は述べる。自己超越が実存の本質なのである16。このとき,自 己は自己自身に無意識的である。このような無意識的な状態を特に彼は,「精神的無意識」的, と呼ぶ。 加えて,フランクルの「愛」の概念についても考えてみたい。彼は愛について,以下のように 一147一 語る。「愛は可能な唯一のもの,そのつど愛される人の唯一無二の可能性を開示する… 。実 に愛のみがはじめて,一人の人格をその唯一性において,すなわち誰のものでもないその人自身 を絶対的な個体として直観することができる。この意味において愛は著しい認識機能を有してい るということができる」17。「私はあなたを心から愛している」と反省的に意識する以前の,私と あなたが未分の状態で,忘我的,自己超越的に;主観が客観を志向しそこに没入しているとき, 絶対的に直観していると言え,これ以上の認識機能はないと彼は言う。すなわち,真に愛して いるときは,精神的無意識的であると,フランクル的には言える。 この愛という機能は,男女間,家族間での,狭い意味の愛に限らず,大事な人を大事な人と して,その人の存在をきちんと認識しよう,という姿勢の根底にあるものとして理解していいと 思う。すなわち,大切な他者への志向性の基本として位置づけられるということである。治療場 面において,「その人自身を絶対的な個体として直観する」ということは,ロジャーズ的には, クライアントの存在を真にありのままに受容し,共感するということである,と思われる。 4.事例からの考察 以下に,臨床心理士としての筆者によるカウンセリングの初回面接の事例を用いて,共感に ついて具体的に考えてゆく。なわ,本事例の内容には本質的な部分を歪めない程度の修正が施 されている。 事例A 20才 男性 大学生 主訴:大学に行こうとすると不安になり,なかなか行けない 家族構成:本人,会社員の父親(49才),専業主婦の母親(45才) 面接の内容: このクライアントは過去に,不登校等特に大きな問題もなく,きちんと真面目に過ごしてきた と自他共に認められ,特記すべき身体的既往症,精神科治療歴,カウンセリング歴等もない。 病態水準的には,神経症あるいはノーマルレベルであると言える。セラピストがクライアントに 持った印象は,やはり真面目で堅く,服装等は地味め,礼儀正しく誠実,といったものである。 彼は所属するゼミのまとめ役であったが,それは希望してそうなったわけではなく,他のメン バーに半ば押し付けられてなったようなものであった。他の学生は,彼を利用しているところも あった。指導教官も,彼らの多くはあまり学問にたいして意欲的ではなく,遊びの方に興味があ り,多少不真面目でもあると考えていて,リーダー的存在を彼に任せていた。堅く真面目な彼 は,嫌とはいえず,ゼミをまとめるために行動し,他の学生にノートを貸したりもしていたが, 本当はこんな役回りは希望していない,と意識していた。ある日この指導教官は,彼以外の学 生がきちんとレポートを提出しなかったことに怒り,ゼミのメンバー全員をまとめて,口ごろの 態度も含めて,きつく注意した。それ以来,彼は極度の緊張感にさいなまれ,特に研究室に入 ろうとすると,身体が強張り,震え,汗が出て仕方ない。以来,ゼミに出席することができなく 一148一 なった。後日,他の教官からカウンセリングを勧められ,何とか相談室に訪れることができた。 上記来談までの経過に加えて彼は,大学の門をくぐろうとすると,ものすごく不安になり,身 体は震え,発汗するとも訴える。確かに,見た目にも不安そうに,回そうに見える。セラピスト は,身につまされて,あたかも自分の気持ちのように,彼の不安や緊張の気持ちを受けとめ,そ れを言葉で伝えた。しかし,話が進むにつれ,実は,なぜ自分はこんなにゼミのために頑張って きて,きちんと提出物も出しているのに,一緒に怒られなければならないんだ,なぜ理解されな いんだ,といった,教授に対する強い怒りが語られるようになった。また,ゼミのメンバーたち に対する怒りや軽蔑の気持ちも,あらわになってきた。さらに高校,中学校,小学校と,学級 委員などを不本意にやらされてきたこと,その時もnoとは言えず,自分自身に情けなく思ってい たこと,それでも何とか仕事:をこなさなければならないという焦り,不真面目で協力してくれな い友人たちへの不満などが述べられた。加えて,現在通っている大学,専攻は,特に自分から 積極的に希望して選択したものではなく,両親の意向の中でなんとなく選んだということ,第一一 希望の大学ではなかったこと,特に父親には,幼いころから塾などに通わされ,高い学業成績を 期待されてきたこと,その期待に応えるよう頑張ってきたこと,しかし,その期待はそれほど達 成されなかったと思っていることなども語られた、 さ七,ここで,彼の口から語られたこと以外にも,面接の中でのやり取りが進む中,クライア ントについての様々なことが,セラピストの中で考えられる。両親に勉強しろと言われ続けてき たかもしれない。それに従わなければならない,期待に応えなければならないと思い続け,追い つめられていたかもしれない。彼が意識している以上に窮屈であったかもしれない。要求通りの 成績が得られていないのではないか,という申し訳なさもあったことも考えられる。そんな家庭 に帰っても,ほっとできないであろう。こんな,人の言うことばかりをやらされ,しかもそれを こなさなければならないと思ってしまう自分とは,いったい何者であるのか。では,自分の意思 で何か行動を起こさなければならないのか。でも何をやっていいのかもわからない。もし臼ら楽 しめる趣味を持とうと思っても,これがいい,と思えるものが爾てこないであろう。これから卒 業して,就職していかなければならないが,いわゆる自主性というものが重んじられてきている この世の中で,自分は果たしてちゃんとやっていけるのだろうか。社会に出てからも,上司や同 僚に,いいように利用されるのだろうか。でも,押し付けられているとはいえ,自分にはリー ダーシップを取る能力はある。集団を仕切ることはできる。でも,自主的にやっているわけでは ない。勉強だってできないほうではない。でも好きでやってきたわけでもないし,頑張った割に は,たいした結果も残せていない。こんな自分で,いいのであろうか。これからいったい,どう なってしまうのか… 。クライアントの話を聞いていく中で,そこから考えられるこれら様々 な気持ちの可能性を思い巡らせながら,それを彼にフィードバックし,その時の彼の様子を見な がら,その可能性に確信を持ったり再検討したりしながら,また新たな可能性を思い浮かべてい く,という流れで面接は進んだ。 一149一 面接の始まりには,緊張感,不安感が強く,研究室に入れなくて困っていた,ということで あったが,話の進展の中,教官に対する強い憤り,自分への怒り,情けなさ,友人たちへの怒 り,蔑み,両親に対する疑問,自分の能力についての自信,将来への強い不安等,様々な気持 ちをも持っているかもしれない,ということ等を,セラピストは思い巡らせる。クライアントか ら言葉によって直接に語られた情報と,クライアント以外の人から得られた情報,セラピー中の クライアントの表情,仕草などから感じられる何か,等を総合して,今ここで,あるいはこれま で,これからの自分について,クライアントはどのように考え,感じているのか,そのあらゆる 可能性をセラピストは検討し,積み重ねていく作業をする。クライアントの立場に立って,クラ イアントの身になっていろいろと検討を重ねるところに,フランクルの言うような志向性への方 向性が見て取れる。 フランクルや西田の見解には,まず最初に対象に没入する中で対象の全体を直観的に経験し, 次にその経験を意識的に反省する,という流れが感じられる。本事例においては,最初の時点 でセラピストはあたかも自分のことのように感じていて,その後クライアントの思考や感情の 様々な可能性を検討していくのであるが,これは最初の全体的な直観が意識化される,という 流れのものではないように思われる。むしろ,このクライアントの場合,少なくともしんどいこ とはしんどいであろう,とクライアントの一部分(と思われる)をまず,あたかも自分のものの ように感じ,それを感じながら,クライアントの発言や言葉以外の情報から,彼の考え方や感じ 方の仮説を積み上げていき,相手の気持ちに近づいていく,という作業であろう。それぞれの仮 説は反省であり,それぞれにそれ以前の直接的な経験があるとも考えられるが,治療場面におい ては,まずいくつかの意識的な仮説の検討がある,と考えても差し支えないように思われる。そ の意識的検討を積み重ねつつ,治療場面でのその時点でそうであろうと判断されたクライアント の気持ちを言語化して,その時の相手の言葉や言葉以外での反応を見ながら,検討したものを 修正して,再び言語化する,といった作業を繰り返しながら,さらに仮説を積み上げていく,と いったことが必要なのであろうと考える。そして,少しずつ「本当の」クライアントの気持ちに 近づいていく,という意味で,これは志向的であると言え,少なくとも対象の中に没入していこ うとする方向性を持つものであると言えると思われる。 「本当の」共感とは,どういつだものなのであるか。このような作業の流れであると,意識 的,反省的な状態から離れることはできず,ロジャーズの言うところの,「単に私の意識によっ てではなく有機体としての私の全体で敏感に感じ取る」ような治療関係には至っていないことに なるだろう。しかし実際の治療現場においては,いくつかの情報を意識的,反省的に統合して いく作業からは離れられない。また,いろいろ可能性を積み重ねていくことでは,クライアント の気持ちに徐々にかつ永遠に近づいていくことはできるかもしれないが,全く共感する,という ことは,不可能となってしまいそうである。 クライアントの思考や感情の可能性を連続的に積み重ねていくだけでは,完全な共感にいつま でも近づくことはできるが,連続性の上でだけこのことを考えていると,共感そのものにたどり 着くことはできないだろう。もし「本当の」共感というものがあるとするならば,積み重ねの連 一150一 続の彼方において,非連続的に突き抜けた,超越的なところ,前期西田的に言えば,主客未分 の純粋経験的なものをそこに想定せざるを得なくなる。また,「とにかく経験している!」そこ においてこそ,フランクルの言うところの「愛」という認識機能によって,相手の全存在そのも のをそのまま直観することもできるのであろう。 また,クライアントの持っている気持ちの様々な可能性の検討は,確かに最初は意識的,反 省的になされるものである。ただ,あるとき,一つ一つの仮説は意識して立てているのであるが, その作業全体そのものに忘我的に,夢中になって没頭している瞬間,といったものはある,と 言っていいのではないだろうか。いわばセラピストに「なりきっている」ようなとき,そこには 「前反省的存在論的自己理解」がある,ということである。自己自身に無意識的になってその作 業に「なりきって」いるとき,という瞬間があれば,その時セラピストは完全に自分自身であり, 「愛」で相手の全存在を純粋に経験し直観できるのは,クライアントを完全に共感できるのは, まさにこのときなのであろう。 作業に夢中になって没頭しているときは,共感しているときである,とは言い切れない。共感 しているつもりではあるが,セラピスト自身が抱えている問題,特に過去の親子関係上の問題が 大きく,それが治療関係上に投影されてしまい,実際のクライアントーセラピスト関係が見えな くなってしまっているような,いわゆる逆転移などに基づく,クライアントの気持ちから離れた 没頭であることもあり得る。フランクルはそこには,前反省的存在論的自己理解や真の実在が あるとは言わないであろう。そうならないためにも,意識的反省的な,緻密な可能性の検討や, セラピスト自身の過去の生育歴における未解決の問題の克服などが,必要になってくるであろ う。逆に,本当の共感というものがあれば,そのときには前反省的存在論的自己理解がある,と 言うことはできると思われる。 面接過程において,セラピストは,クライアントから伝わってくる,怒り,情けなさ,蔑み, 疑問,自信,喜び,不安,緊張等あらゆる情報に注目する。これだけ尽くしてきたのに,どう して自分の存在を否定されなければならないのか,どうして他の学生は何もしないのか,彼が怒 るのも無理もないだろう。でも自分は自分なりにきちんと仕切ることができるんだ,という自負 は持っても当然であろう。ただ,そんな自負を持たないと,やっていられないのかもしれない。 そうでも思わないといられないなんて,ふと気づいたとき,彼は自分が情けないと感じるのでは ないか。でも事実,リーダーシップを取ることはできるのだ。うまくいったときには,それなり に嬉しいはずだ。しかしやはりこのままでは,将来,独立した一個の社会人としてやっていける だろうか,と不安にもなるであろう。だいたい,どうして人のためにばかり行動しなければなら ないのか,そういえば小さいときから,両親に対してもそうだった,期待通りの成績を取るよう 努力し続けて,それなりに達成できて,成績表を見たときは,満足感も得られただろう。それを 親に見せて,喜んでもらえると思っていたところ,逆にもし,なんだこの程度か,勉強が足りな い,とけなされたことがあったとすれば,どれほど情けないか。少したってそのことを振り返っ たとき,親に対する怒りは,どれほどのものか。いや,そもそもそのような怒りを感じられただ 一151一 ろうか。でも,自分のことを育ててくれる親である,優しい時だってある,そんな大事な親に対 して怒ってしまった自分を責めてしまって辛くなることもあるかもしれない。セラピストは,ク ライアントの立場に身を置いて,様々なクライアントの気持ちの可能性を積み重ねて,それをク ライアントに伝え,それもただ“おうむ返し”するのではなく,その反応から可能性を確かめた り修正したりすることを続けていくうち,あるとき,セラピストは自分の身をクライアントに全 く投げ出していて,「セラピストがクライアントの気持ちを分かっている,分かろうとしている」, というのではなく,ただ夢中に,忘我的に,無心に,単にその作業を「経験している」というこ とがあるかもしれない。もしそのようなときがあれば,その時,共感している可能性がある,と 言えるのではないだろうか。 そしてこの共感は,体験することしかできない。眼は眼自身を見ることができないように,セ ラピストは共感している体験そのものを反省することはできないのである。反省すると,セラピ ストは反省しているセラピストと反省されているそれとに分裂し,反省しているほうを反省しよ うとすると,さらに分裂し,きりがない。このように考えると,セラピーのもっとも真実な瞬間 には,援助をしょうという気持ちは,セラピストの基盤にはならず,援助はあくまで副産物であ る,とロジャーズが述べているところがらも18,共感の状態は,あくまで結果であって,目標で はなり難くなってくる。結果として共感が体験できた後ゴ後で振り返って,ああ,あれが共感と いうものだったかもしれない,とは思えるかもしれないが,その時点ではすでに真の共感ではな い。セラピーはもちろん,セラピストがクライアントに援助をしよう,というスタンスから始ま るが,共感しよう,共感しよう,と,共感することを目標とし続けると,共感に対して常に意 識的,反省的となり,共感の体験からは遠ざかっていく。反省的な治療の手段にしなければな らないが,意識的に目差してしまうと不可能になるという,絶対的に矛盾した性質を持つところ に,共感の難しさがあると思う。 以上のような背景を考えれば,ロジャーズが技法論を捨てて,いわば「態度論」に向かって いった事情は理解しやすい。また,超越性を基礎に共感について洞察することで,これを漠然と した単純な一技法レベルにとどめてしまうことを防ぐこともできると言える。一方で,セラピス トならいつでも誰でも利用できるような技法ではなくなってしまう恐れも生まれる。 5.まとめ 我が国では,ロジャーズにおけるセラピストの3つの条件が,簡易な技法と考えられ,特にそ のうちの一つである共感については,ややもすると,「よく聞いてわかってあげる」というレベル で捉えられてきたことは否定しにくいと思われる。一方で彼自身は,自らの理論の拠り所を実存 思想に求めていた。彼は,共感に関して,自己超越性の含みを持たせていると考えられるのであ るが,明確にそう述べているようには思われない。本稿においては,自己超越性心についてより はつきりと議論しているフランクルや西田の観点から,共感について考察することで,ロジャー ズにおける共感という概念の再検討を試みた。 今回,共感するセラピスト側について検討したが,共感されるクライアントの内的世界,およ 一152一 び両者の相互作用に関する実存思想的なアプローチに関しては,今後の課題としたい。 文献 1 村瀬孝雄編,「ロジャーズークライエント中心療法の現在」,『こころの科学』,第74号,口 本評論社,1997,pp.13・96 2 C・R・ロジャーズ,「クライエント中心療法の立場から発展したセラピィ,パースナリティ および対人関係の理論」,伊東 出品訳,『ロージァズ全集』,第8巻,岩崎学術出版社, 1967,p.267 3 C・R・ロジャーズ,「パースナリティ変化の必要にして1一分な条件」,伊東 博編訳, 『ロージァズ全集』,第4巻,岩崎学術出版社,1966,pp.119−120 4 同上,p,127 5 近藤邦夫,「クライエント中心療法と教育臨床」,『こころの科学』,第74号,日本評論社, 1997,pp。64−68 6 村瀬孝雄,「フォーカシングから見た来談者中心療法」,『こころの科学』,第74号,口本 評論社,1997,pp.18−19 7 C・R・ロジャーズ,「クライエント中心療法の立場から発展したセラピィ,パースナリティ および対人関係の理論」,伊東 博編出,『ロージァズ全集』,第8巻,岩崎学術出版社, 1967, pp.174−175 8 C・R・ロジャーズ,「サイコセラピーの過程方程式」,伊東 博編訳,『ロージァズ全集』, 第4巻,岩崎学術出版社,1966,PP.248−251 9 山本和郎,「診断的理解と治療的理解の本質的相違と両者の関係について一TAT“かかわ り”分析への出発点」,『心理学論評』,第8号,1964,pp.188−205 10 C・R・ロジャーズ,「パースナリティ変化の必要にして十分な条件」,伊東 三編訳, 『ロージァズ全集』,第4巻,岩崎学術出版社,1966,p,127 11 同上,p.127 12 西田幾多郎,『善の研究』,岩波文庫,1950,p.13 13 上田閑照,『西田哲学への導き一経験と自覚』,岩波書店,1998,pp.35−47 14 V・E・フランクル,『宿命を超えて,自己を超えて』,山田邦男・松田美佳訳,春秋社, 1997, pp,106−107 15 同上,pp.106−107 16 Frankl, Viktor E, ITheWill to Meaningll. SouvenirPress, London,1971, p,50 17 V・E・フランクル,『識られざる神』,佐野利勝・木村敏訳,みすず書房,1962,p.39 18 C・R・ロジャーズ,「マルチン・ブーバーとカール・ロージァズとの対話」,村山正治編 訳,『ロージァズ全集』,第12巻,岩崎学術出版社,1967,p.159 (論文受理 1999年11月1日/掲載決定:1999年1月10日) 一153一 About the Concept of i'Empathy" in Carl R Rogers Satoru NAGASHIMA "Empathy" should be reconsidered from the viewpoint of the existentialism. In this paper,Inote the theory of Frank1,V.E. and that of Nishida,K.. Frankl asserts that existence of human beings is transcendent and cannot be reflected and that self-transcendence is essential for existence. Nishida's thought is similar to Frankl's. The theory of Client Centered Therapy was introduced into Japan in the 1950s and then became more widespread among Japanese clinical psychologists afterwards. However, it is not popular these days. I think, perhaps, one of the reasons is that the concept of "Empathy" was used superficial ly,during that era. A case study of counseling with a student is featured in this article. As a result, I say that "Empathy" is transcendent and unreflective and that it needs to be reinforced by Frankl's and Nishida's thoughts. - 154 -