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PDF形式で開く - 大町山岳博物館
ISSN 2423-9305
市立大町山岳博物館 研究紀要
第 1 号
(創刊号)
「市立大町山岳博物館 研究紀要」 創刊によせて
鳥羽章人 ········································· 1
原著論文
森川篤平・小坂共栄・高浜信行
姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味·········· 3-24
原山 智・小坂共栄・棚瀬充史・佐々木孝雄・宮澤洋介・信州大学震動調査グループ
長野県白馬村,神城盆地の地質構造 ······································ 25-40
報告
関 悟志・西田 均
清水隆寿
千葉悟志
収蔵美術資料に描かれた山岳風景の同定··································· 41-51
北安曇地域に残された仏像
―北アルプス山麓の人々に信仰された仏像からみた仏教信仰の変容―········· 53-62
長野県北西部におけるアカバナの生活史および繁殖特性
―日本産草本植物の生活史研究プロジェクト報告第 7 報―··················· 63-69
短報
佐藤 真
飼育下のキジ(Phasianus versicolor)における雄変の報告····················· 71-74
資料
関 悟志
人文科学系収蔵資料における各資料群(コレクション)の要覧················ 75-80
他誌掲載の論文 ・ 報告等········································································ 81
2016 (平成 28) 年 3 月
市立大町山岳博物館
2015(平成 27)年度
市立大町山岳博物館研究紀要編集委員会
Editorial Committee of the Bulletin of the Omachi Alpine Museum for fiscal year 2015
委員長:館長 鳥羽章人
Editor : Director, Akihito TOBA
委 員:副館長 清水隆寿 学芸員 千葉悟志 佐藤真 関悟志(事務局)
専門員 小坂共栄 指導員 西田均 宮野典夫
Editorial Staff : Vice-director, Koji SHIMIZU
Curator: Satoshi CHIBA, Curator: Shin SATO, Curator: Satoshi SEKI (Secretary)
Specialist: Tomoyoshi KOSAKA, Instructor: Hitoshi NISHIDA,
Instructor: Norio MIYANO
「市立大町山岳博物館 研究紀要」創刊によせて
For the First Bulletin Issue
市立大町山岳博物館では
「年報」を毎年、
「山と博物館」は毎月発行すると共に、
「企画展」の
随時開催や、近年ではパネル展
「さんぱく研究最前線」等により、日頃から学芸員・専門員・指導
員の調査・研究の発表の場を設けています。
これらの研究は、北アルプスの山岳を取り巻く様々な事象に対し、それぞれ専門の分野で詳し
く調査・研究された成果であり、当館の観覧者はもとより、山岳に纏わる一般の研究家にも高付
加且つ利用に値する内容であったものと自負するところであります。
このため、多方面からもご関心をいただき、マスコミ等からも取り上げられる中で、学芸員等の
研究意欲は年々高揚すると共に、その研究内容も充実してきたと感じております。
学芸員等の研究は、企画展等の展示活動に反映することを目的としておりますが、展示するこ
とにより、同時に学芸員による教育普及活動に繋がっていくものであります。
そのため、学芸員は調査、研究、展示、普及活動等を通じて、市民を対象とした教育機関の一
端としての博物館の使命を全うすることにより、自らの学問分野の知見の向上と発展に努める責
務があると思います。
学芸員等にとって不断の調査・研究は極めて重要な事柄であり、博物館の発展のためにも今後
もより一層深く行う必要があります。
これらのことから、永年の懸案でありましたが、本年度より当館での調査・研究が学術記録とし
て長く残り多くの人々に活用されますよう、それまでの
「年報」や
「山と博物館」等とは一線を画
すことにより、ここに
「研究紀要」として発行する運びとさせていただきました。
この度の創刊にあたっては、現員の学芸員等のみならず、館外各分野の識者の皆様からのご協
力・ご厚情をいただく中で、第1号が発行されることとなり、誠に喜ばしいことであるのと同時に、
それぞれのご労苦に対し感謝を申し上げるところであります。
また、今後は学芸員等のみならず、更に館外から多くの研究家に専門の分野でご寄稿いただく
など、研究の大成を期していければと願っているところであります。
どうか、この
「研究紀要」が市立大町山岳博物館及び同館に関わる全ての士のために、後世に
残る
「市立大町山岳博物館研究紀要」となりますよう祈念いたし、創刊のことばといたします。
(平成28)
年3月
2016
市立大町山岳博物館
館 長 鳥 羽 章 人
Omachi Alpine Museum
Director, Akihito TOBA
1
市立大町山岳博物館研究紀要 1:3‐24(2016)
原著論文
Original Articles
Bull. Omachi Alpine Museum.(1)
:3‐24(2016)
姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
森川 篤平 1)・小坂 共栄 2)・高浜 信行 3)
1)
株式会社モンベル,〒 108−0074 東京都港区高輪 4−8−4 2)市立大町山岳博物館,〒 398−0002 長野県大町市大町 8056−1
3)
新潟大学災害復興科学センター(元)
,〒 950−2181 新潟県新潟市西区五十嵐二の町 8050
Hakuba-Oike Rubble Formation Geological Significances
in the Central Hime River, Central Japan
Tokuhei MORIKAWA1), Tomoyoshi KOSAKA2) and Nobuyuki TAKAHAMA3)
1)
Mont-bell Co., Ltd., 4-8-4, Takanawa Minato-ku, Tokyo, 108-0074, JAPAN
2)
Omachi Alpine Museum, 8056-1, Omachi, Omachi City, Nagano Pref., 398-0002, JAPAN
3)
Research Institute for Natural Hazards and Disaster Recovery, Niigata University, Japan,
8050, Nino-cho, Ikarashi, Nishi-ku, Niigata City, Niigata Pref., 950-2181, JAPAN
飛騨山地北部は,古くからしばしば地すべり・山崩れ・雪崩等の自然災害に見舞われてきた地域である.日本三大崩れ
の一つとして名高い
「稗田山崩れ」は,調査地域の南部に位置する.これらの災害の多くは,この地域の持つ複雑な地質学
的条件に起因しているが,1996・1997年の小谷村の豪雨災害では多くの人命が土石流の犠牲になっている.
本報告では,この地域の自然災害の素因について検討し,
「白馬大池角礫層」の存在が重要な役割を担っていることを
明らかにした.この礫層は,姫川層群・蛇紋岩・来馬層・石阪流紋岩などの西南日本内帯を構成する古期岩類を不整合に
おおい,第四紀の白馬大池火山岩層に不整合におおわれて本地域一帯に広く分布する.岩相やその層序的な特徴から,こ
の礫層は,氷期の周氷河環境下で形成された可能性が高い.また,この礫層の岩相や分布の特徴からみて,この礫層は本
地域における第四紀の造構作用や火山活動の影響を強く受けたものと思われる.本地域の急峻な山地斜面に広がるという
本礫層は,豪雨や地震などの影響を受けやすい不安定な条件下にあることを意味している.
キーワード:自然災害,飛騨山地,白馬大池角礫層,来馬層
Abstract
The northern part of the Hida mountain range is frequently affected by natural disasters such as landslides, collapses,
debris flows and snow avalanches. Therefore, the topography of this range include evidences of many landslides and
collapses. The Hieda –Yama Kuzure is one of three giant collapses known in Japan, which occured in the southern part of
the survey area. Most of these disasters seem to have been caused by the complicated geological setting and environment
of heavy snow or rain fall in this region. In 1996 and 1997, this region also suffered great damage from heavy rains and
debris flow avalanches. In the Gamaharazawa area, many constructors were sacrificed by huge debris flow avalanches.
Here, we examined the basic geological factors involved in natural disasters in this region. The Hakuba-Oike Rubble
Formation plays an important role in natural disasters in this region.
The Hakuba-Oike Rubble Formation is distributed widely in this area unconformably overlaying the basement rocks, such
as the Himekawa Group, Serpentinite rocks,the Kuruma Formation and the Ishizaka Rhyolitic Rocks which belong to the
inner zone of southwestern Japan ranging from Paleozoic to Paleogene in age. In addition, the formation is unconformably
covered by the Hakuba-Oike Volcanic Formation. The Hakuba-Oike Rubble Formation is strongly weathered and clayey.
The lithological features of this formation suggest that the formation may have formed under periglacial conditions in the
Quaternary age in the Alpine Hida mountain range. The lithology and distribution of this formation may have been affected
by volcanic and tectonic activities, which may play important roles in determining the unstable conditions in this area.
The horizons of this formation, which is distributed in a highly angled mountainside, may be especially unstable in the
heavy rain season, thawing season, or following shock by an earthquake.
Key words : Natural disaster,Hida mountains,Hakuba-Oike rubble formation,Kuruma formation
3
森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
地質の概要
はじめに
おうみ
れん げ
長野県小谷村から新潟県糸魚川市へ向けて北流する姫
本地域には,西南日本内帯を構成する青海-蓮華帯(茅
川の中流域は,土石流・洪水・地すべりなどの土砂災害の
原・小松 1982)に属する中~古生代の古期岩類,新生代
多発地帯であり,1995年 7月の小谷村梅雨前線豪雨災害
古第三紀~新第三紀砕屑岩類が複雑な地質構造をとって
や 1996年 12月の蒲原沢土石流災害は記憶に新しい.ほぼ
分布する.それらを基盤として第四紀の白馬大池角礫層,
三年に一度は大きな災害がこの地域を襲っている(笹本 白馬大池火山岩層が,さらに地すべり堆積物・崩壊堆積物,
1998).この地域がなぜ土砂災害の多発地帯なのか,その
段丘堆積物などが分布する.姫川中流域の地質概略図を第
地質学的素因を明らかにすることは,今後の本地域での土
2図に,また模式層序を第 3図に示す.また,本地域の地す
砂災害の予防や被害軽減を考える上で重要である.森川ほ
べり地形の分布を第 4図に示した.
つん ざわ
か(2001)は,姫川中流域の土沢において,現在活動中の
姫川に沿っては,北北西-南南東方向で糸魚川-静岡構
大規模な
「大平地すべり」
が存在することを報告した.また,
造線が走っており,その西側には青海-蓮華帯の古期岩類,
大平地すべりを包含するさらに大規模な地すべり(土沢地
東側には北部フォッサマグナを構成する新第三系が分布し
すべり)についても報告した(高浜ほか,1997;Kosaka et
ている.
土沢,浦川周辺地質図,断面図を第 5,6図に示す.
al. 1999).同時に土沢流域やその周辺地域には下部ジュ
くる ま
青海-蓮華帯の古期岩類
ラ系の来馬層群を基盤として,その上位に来馬層群の角礫
のみからなる不淘汰な礫層(土沢礫層),白馬大池火山噴
北北西-南南東方向に伸びる糸魚川-静岡構造線を境
出物が重なることを明らかにした.その後の調査によって,
にして,その西側の青海-蓮華帯を構成する古期岩類は,
本地域一帯には土沢礫層と同様の特徴を示す礫層が古期
蛇紋岩,角閃岩,変はんれい岩,ヒスイ輝石岩,石炭紀
岩類をおおって広範囲に分布することが明らかとなった.
~三畳紀の青海‐ 蓮華結晶片岩,石炭紀の非変成古生
本論では,土沢礫層を
「白馬大池角礫層」(新称)と改称,
層,下部ジュラ系の来馬層群,白亜系の粗粒砕屑岩,古第
再定義し,詳しく記載するとともにその地質学的な意味に
三系の中性~酸性火山噴出物など多様である(茅原・小松 ついて考察を加えた.
1982).
調査地域は新潟県と長野県の県境付近,姫川中流域西
来馬周辺の来馬層群の基本的な地質構造は,E-W走向で
岸側の姫川西支流大所川流域から浦川流域までの,南北 ・
35~ 55°
南傾斜の単斜構造を示し,礫岩・砂岩・頁岩の互
東西約 10km四方の地域である(第 1図).
層から構成されている.姫川中流域では,下位より蒲原沢
かまはらざわ
層(KrⅠ),大所川層(KrⅡ),ヨシナ沢層(KrⅢ・Ⅳ)の 3
層に区分されている(白石 1992).
古第三紀の石坂流紋岩は,礫岩および非溶結の細粒
凝灰岩層,I1層,I2層,I3層に区分されており,主に池
こうみょう
ふか はら
原から石坂周辺,光明から深 原にかけて分布する(石井 1976).糸魚川-静岡構造線によって東側の新第三系と接
している.I2層からは 58Maの K-Ar年代が報告されている
(斎藤 1968).
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新第三系岩戸山層
いわ と やま
おお みね たい
岩 戸山層は,北部フォッサマグナ西縁の大 峰 帯(小坂 "
1980)を構成する安山岩質火山岩層主体の地層である.本
にごりさわ
調査地域では姫川西支流の濁沢から池原下まで,一般に
N10°
~ 20°E,
40~ 50°Eほどの単斜構造をとって分布する.
!
第四系
調査地域には,青海-蓮華帯の古期岩類や下部ジュラ系
くる ま
の来馬層群を不整合に覆って,その上位に第四紀更新世の
角礫層,火山岩類が重なる.本論では,この礫層を白馬大
池角礫層と呼び詳細に記載した.本地域に分布する更新世
の火山噴出物は,柵山(1980)により白馬大池火山岩層と
第 1 図 調査位置図
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姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
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第2図 姫川中流域地質図
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白石(1992)をもとに作成
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森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
白馬大池角礫層(新称)
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いちなん
分布:大所川から浦川までの姫川左岸側の各沢沿い,一難
ば やま
場山周辺,蒲原山北方などの山腹斜面などに広範囲に確認
標高 1,450m付近である.1996年蒲原沢土石流災害の崩壊
地(標高 1,300m付近)でも確認されている.
模式地:土沢中流域の東岸側,標高 700m付近(森川ほか 2001).
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層厚:最大 30mほど.層厚の変化は非常に激しい.
層序関係:飛騨外縁帯の岩石を不整合に覆い,白馬大池火
山噴出物には整合的に,また崖錐堆積物,1911・1912年稗
田山崩壊堆積物に不整合に覆われる.
層相:礫が飛騨外縁帯を構成する岩石の角礫のみからなる,
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される.確認できる分布の最高点は蒲原山北側斜面沿いの
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れる.礫組成が飛騨外縁帯およびその時代の岩石のみから
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外縁帯の岩石を不整合に覆い,白馬大池火山噴出物に覆わ
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定義:土沢礫層(森川ほか 2001)を改称し再定義.飛騨
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無層理で基質支持の角礫層で,水を含んで基質が粘土化
していることが多い.礫はほとんどがその地域に分布する
飛騨外縁帯由来の礫で,金山沢をのぞき水磨された形跡が
認められない.固結の程度は弱い.礫の大きさは数 mmか
ら最大で数 m.含礫率,平均礫径,最大礫径,礫種など,
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第 3 図 姫川中流域模式層序
その層相は確認される地点ごとにさまざまである.基質は
基盤岩の細片化した不淘汰な暗灰色砂~粘土である.以
定義され,Ⅰ期,Ⅱ期,Ⅲ期の 3つのステージに大別された.
下には,白馬大池角礫層が確認された代表的な地点での層
その後,中野ほか(2002)はそれらを白馬大池火山噴出物
相を記載する.本調査において白馬大池角礫層が確認され
と呼び,
旧期と新期の噴出物の 2期に大別した.本報告でも,
た地点を第 7図に示す.
地層名については中野ほか(2002)に従う.本調査地域に
1)木地屋川
ひえ だ やま
は旧期噴出物の稗田山下部溶岩,稗田山上部溶岩,乗鞍
大所川支流の木地屋川中~上流部,標高 890~ 960m付
沢溶岩,蒲原山溶岩,新期噴出物の箙 岳溶岩,風吹 岳溶
近では,来馬層群の砂岩頁岩互層を覆って礫支持の白馬
岩,風吹岳火砕流堆積物が分布している.これらの溶岩に
大池角礫層が,連続的に分布している(写真 1).礫は来
関しては清水ほか(1988),及川ほか(2001)によって放射
馬層由来の礫のみからなる .それらの上位を砂質で未固結
年代測定値が報告されている.中野ほか(2002)は,それ
な火山噴出物が不整合に覆っている.木地屋川上流の標
らをまとめ,
旧期噴出物の稗田山下部溶岩は 80~ 70万年前,
高 1,160m,1,450m付近でも同様の角礫層が確認される(写
乗鞍沢溶岩は 60~ 55万年前の噴出であるとし,さらに新
真 2),(写真 3).木地屋川下流から木地屋川上流域まで,
期噴出物の箙岳溶岩は 8~ 6万年前の噴出であるとした.
角礫層の確認された地点の高度差はおよそ 860mに達し,
えびら だけ
かざ ふき だけ
本火山噴出物は,未固結で硫化作用による変質の進ん
沢に沿って這い上がるような分布形態をする.
だ部分が多く,本層の分布する地域の河川ぞいには大小さ
2)一難場山北方
まざまな崩壊地形が発達している.浦川上流域には日本三
大所地すべりの上方,一難場山北方の斜面一帯に広く分
大崩壊の一つとされる稗田山崩れ(1911年 8月 8日発生)に
布する(写真 4).付近には明瞭な地すべり地形が 2つ存在
よる大規模な崩落崖がみられ,本層が露出している.稗田
するが,白馬大池角礫層の分布域はこの 2つの地すべり堆
山崩れについては,横山(1912),町田(1964),藤田ほか
積物の堆積域から滑落崖にかけての斜面一帯である.本
(1986)などをはじめ,多くの報告がある.崩壊地内には,
地域周辺は蛇紋岩と来馬層群の地質境界付近であり,標高
その際の厚い崩積土(稗田山崩壊堆積物)が残されている.
1,000m付近では葉片状に細礫化した蛇紋岩不整合に来馬
層群の角礫層が覆っている(写真 5).角礫層の上位を白
6
姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
第 4 図 姫川中流域の地すべり分布図
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森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
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第 5 図 土沢・浦川周辺地域地質図
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姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
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第 6 図 土沢・浦川周辺地域地質断面図
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馬大池火山噴出物(蒲原山溶岩)が覆う.
写真 7,第 8図に示す.崩壊地周辺のルートマップを第 9図
3)蒲原沢
に示す.
この付近では沢沿いに来馬層群蒲原沢層が分布し,
蒲原沢沿いでは,最下流域に古生界の姫川層群,下~中
それらを不整合に覆う白馬大池角礫層が確認される.ルー
流域に蛇紋岩,
中~上流域に来馬層群蒲原沢層が分布する.
トマップの一番上流の左岸側,標高 1,280m付近では来馬
本地域の白馬大池角礫層は,下流から上流域まで連続的に
層群を覆って白馬大池角礫層,その上位に白馬大池火山噴
広く認められるが(写真 6),礫種はそれぞれの地点の基
出物(蒲原山溶岩)の凝灰角礫岩層が重なっている.ここ
盤岩の分布に対応して異なっている.上流域の標高 1,300m
での白馬大池角礫層の層厚は最大で 2mほどの層厚で,来
付近の右岸には,1996年 12月 6日発生の土石流災害の直
馬層群の堆積岩角礫のみの不淘汰な基質支持角礫層であ
接的原因となった崩落崖が存在する.この付近は,来馬層
る.基質は来馬層群の堆積岩の破砕した砂~シルトであり,
群と白馬大池火山噴出物(蒲原山溶岩)の境界部でもあり,
強く粘土化している部分が認められる.基盤の来馬層群と
地形の遷急点となっている.
の境界面の走向傾斜は N32°E,30°Eであり,基盤岩の上
面に明瞭なスリッケンラインが認められる.この地点では,
1996年蒲原沢土石流災害崩壊地の写真およびスケッチを
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森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
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第 7 図 姫川中流域に分布する白馬大池角礫層
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姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
写真 -1 木地屋川 , 標高約 950m 付近の白馬大池角礫層
11
森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
写真 -2 木地屋川上流 , 標高 1160m 付近の白馬大池角礫層
4)土沢
白馬大池角礫層中に 3本の断層が認められる.断層の走向
傾斜は東から,N54°E50°E,N39°E65°N,N38°W81°
土沢流域では,標高 500m付近に風吹岳起源の火砕流堆
Wである.これらの断層は上位の凝灰角礫岩層を切らない.
積物に覆われて本礫層が確認される.模式地の土沢右岸
この露頭状況を写真 8と第 10図に示す.
標高 700m付近では,新期の白馬大池火山噴出物である箙
この崩壊地上流寄りでは,沢沿い・崩壊地の中心部に来
岳溶岩に付随する凝灰角礫岩層に覆われて本礫層が確認
馬層群の砂岩頁岩互層が分布し,その上位に白馬大池角
される.標高 820m付近では風化し,赤色化した風吹岳溶
礫層が重なり,さらにその上位に白馬大池火山噴出物(蒲
岩に覆われて存在する.これらの礫層はいずれも来馬層群
原山溶岩)の板状節理の発達した溶岩が重なる.一番上位
の角礫のみからなる不淘汰礫層である.平均礫径は 2cm.
には安山岩角礫を含む岩屑流堆積物が見られる.これは基
含礫率は 40%.基質は来馬層群起源の不淘汰な砂~粘土
質が不淘汰なローム質の砂~シルトからなっており,紙す
である.本地層からは湧水があることが多く,粘土化した
き山牧場から前沢,蒲原沢まで,この付近の斜面上に広く
部分が帯状になっている部分も認められ,非常に脆弱であ
分布している.崩壊地の下流側では白馬大池角礫層の層厚
る.
が 20mに達する.基盤の来馬層群の砂岩頁岩互層と白馬
5)金山沢
大池角礫層との境界部付近には幅 30cmほどの灰色粘土化
浦川上流金山沢のルートマップと白馬大池角礫層の柱状
帯が境界面に沿って認められる.粘土化帯を崩壊地方向に
図を示す(第 11図).金山沢における本礫層は,
標高 1,020m
追跡すると崖錐堆積物に覆われてその行方はわからなくな
付近から 1,230m付近にかけて確認されるが,いずれも基
るが,白馬大池角礫層の上位にある溶岩が角礫化しており,
盤の珪長岩を直接覆っている.珪長岩の角礫のみからなる
さらに崩壊地の南側より,その分布している高さが急に低
礫層のほか,水磨された亜角礫を含む,赤色チャート ・珪
くなっていることから,この部分は 1996年崩壊より前の地
長岩・蛇紋岩・頁岩など,数種の古期岩礫からなる基質支
すべりにより低位置へ滑動した部分と見られ,この粘土は
持礫層もみられ,それらが互層をなしている部分がある.
地すべり粘土の可能性が高い.崩壊地には白馬大池角礫層
珪長岩のみの角礫層は平均径が 2cmで,基質は不淘汰な
中から湧水が認められる.崩壊地の対岸側にも同様の積み
珪長岩角礫よりなり,一部粘土化している.数種類の古期
重なりがみられ,来馬層群と白馬大池角礫層との間から湧
岩類のみの角~亜角礫層は最大径 1.5mで,非常に不淘汰
水が認められる.
な角~亜角礫からなる.基質は紫灰色・暗灰色・暗青灰色
12
姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
写真 -3 木地屋川上流
標高 1450m 付近白馬大池角礫層
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来馬層群砂岩頁岩が角礫化している.本調査地域での最高確認地点.
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13
森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
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-./0123456457
写真 -4 一難場山北 , 標高約 1150m 付近の白馬大池角礫層
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来馬層群由来の角礫からなる。
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写真 -5 大所地すべり上方 , 標高約 1000m 付近の白馬大池角礫層
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14
姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
写真 -6 蒲原沢下流部の白馬大池角礫層
写真上:来馬層群の砂岩頁岩礫からなる角礫層
写真下:蛇紋岩の角礫からなる角礫層
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15
森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
写真 7 蒲原沢土石流災害発生の原因となった崩壊地
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第 8 図 1996 年 12 月蒲原沢土石流災害崩壊地スケッチ
白馬大池角礫層が,白馬大池火山岩類に不整合に覆われている.
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討 論
の不淘汰な粘土~砂よりなり,含礫率は約 30%である.層
1 白馬大池角礫層の堆積年代
厚の変化が激しく,標高 1,100~ 1,200m付近で急激に厚く
なり,その層厚は約 30mほどである(写真 9・第 12図).そ
白馬大池角礫層は,第四紀更新世の白馬大池火山噴出物
の他では数 mほどの厚さで分布する.白馬大池角礫層の
由来の礫を含まないことから,その火山活動に先立つ時期
上位には稗田山下部溶岩が整合的に,さらにその上位を
の堆積物であると考えられる.ところで白馬大池火山の活
1911・1912年に形成された稗田山崩壊堆積物が不整合に
動は,中間に大きな休止期をはさんで旧期と新期に分けら
覆っている.この 2つの地層の境界からの湧水が数箇所で
れている(柵山 1980).旧期は約 80~ 70万年前と 60~
認められる.
55万年前,新期は 20~ 15万年前と 8~ 6万年前の活動とさ
堆積年代:本礫層の堆積年代を指示する直接的なデータ
れることから(中野ほか 2002),その間に比較的長い活
は得られていない.しかし,礫層を覆う白馬大池火山噴出
動の休止期があったことが示唆される.火山噴出物に覆わ
物の年代や層序関係から,本礫層の主要な堆積年代は,そ
れてその下位に位置する白馬大池角礫層の堆積時期は,地
れを覆う火山岩類の噴出年代に近い年代,すなわちおよそ
層そのものから年代を示すデータは得られていないため不
80~ 70万年前頃と 8~ 6万年前頃の 2つの時期であったと
明である.
考えられる.詳細については討論の項で述べる.
16
姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
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第 9 図
1996 年蒲原沢土石流災害
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崩壊地周辺ルートマップ(展開図)
17
森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
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第 10 図 蒲原沢上流域の白馬大池角礫層
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18
姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
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第 11 図 金山沢ルートマップおよび白馬大池角礫層柱状図
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19
森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
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第 12 図 金山沢左岸標高 1150m 付近白馬大池角礫層スケッチ
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金山沢ルートマップ・柱状図①地点
らのことから,白馬大池角礫層の堆積年代は,上位をおお
しかし,白馬大池火山噴出物の年代を推定する上では,
以下のような報告が参考になる.すなわち,金山沢右岸側
う火山噴出物との関係からみて,古期の白馬大池火山噴出
において,
本礫層を覆う稗田山下部溶岩の K-Ar年代は,
0.77
物堆積前から,新期の火山噴出物堆積前までの間,時間間
± 0.04Ma(清水ほか 1988),0.75± 0.06Ma(及川ほか 隔では約 75万年間ということになる.しかし,単一の礫組
2001)である.金山沢沿いに分布している白馬大池角礫層
成からなる白馬大池角礫層が数十万年間の長期間にわたり
は,本溶岩に覆われている.1996年蒲原沢土石流災害の直
連続的に堆積し続けたとは考えにくい.従って,本礫層の
接的な原因となった崩落崖に露出する溶岩は,蒲原山周辺
主要な堆積年代は,それを覆う火山岩類の噴出年代に近い
を中心として土沢左岸側から紙すき山牧場,蒲原沢,一難
年代であったと考えるのが妥当であろう.
場山周辺まで分布する溶岩の一部で,柵山(1980)の一難
白馬大池角礫層は,旧期の噴出物の年代である更新世前
場山溶岩類に相当する.これは,
及川ほか(2001)により0.53
期・中期の境界付近,
すなわち今から約 80~ 70万年前(MIS
± 0.02Maの K-Ar年代が報告されている.中野ほか(2002)
酸素同位体ステージ 20)と,新期の噴出物の年代である更
の新期噴出物に当たる箙岳溶岩は,柵山(1980)の風吹岳
新世後期の 8~ 6万年前(MIS酸素同位体ステージ 4)頃が
外輪山溶岩にほぼ相当し,ウド川,木地屋集落西方,土沢
その主要な堆積期であったと考えられる.
右岸から来馬集落周辺にかけて,白馬大池角礫層を覆って
しかし,これはあくまでも礫層と火山噴出物との間に地
広く分布する.この溶岩の K-Ar年代は 0.07± 0.01万年で
質学的に有意の時間間隙がないことを前提としての推論で
ある(及川ほか 2001).
ある.
以上のように,白馬大池角礫層を覆う火山岩類の放射年
代値には 80~ 6Maという大きな時間幅が存在する.これ
20
姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
2 白馬大池角礫層の堆積環境
の隆起・削剥による粗粒砕屑物形成はおおよそ後期鮮新世
白馬大池角礫層は,本調査地域の沢沿いのほか,山腹斜
および鮮新・更新世境界頃,また第 3ステージのそれは中
面を開削した林道沿いや崩壊・地すべり跡地などの各所で
期更新世以降と考えられる(小坂,1991).北アルプス北
確認できる.また,観察できる地点の標高は低所から高所
部に位置する本調査地域一帯の隆起・削剥に関する直接的
までさまざまであり,その標高差も大きい.観察できるい
なデータは得られていない.白馬大池火山噴出物の放射年
ずれの地点でも白馬大池火山噴出物に覆われて,その下位
代値が約 80~ 70万年前(MIS酸素同位体ステージ 20)と,
に見られることから,本角礫層は白馬大池火山噴出物の堆
新期の噴出物の年代である更新世後期の8~ 6万年前(MIS
積前にこの地域一帯に広範囲に分布していた地層と考えら
酸素同位体ステージ 4)頃と考えられることから,この地域
れる.
はこれら 2度の火山活動に伴うマグマ性の隆起や,第四紀
不淘汰無層理・塊状で,礫種が礫層に覆われるその付
以降に顕著になる東西圧縮応力場の発現によって急速に進
近一帯に分布する古期岩からなるという一般的な特徴があ
行した可能性がある.その過程で,白馬大池角礫層の堆積
る.このような分布や岩相上の特徴からみて,この礫層は
場の地形が,当初にくらべかなり急峻なものに変化してき
本地域の山地斜面上に広く分布していた古期の崖錐性堆
たことが考えられる.木地屋川において本礫層が高度差約
積物の可能性が高い.
860mにわたって沢をはいあがるように分布することや,本
礫層の確認される地点の高度差が,1,000m近くに達するこ
また,礫種がその下位の基盤岩と同一で遠方からもたら
となどは,そのことを物語るものであろう.
された異種礫を含まないこと,ほとんど円磨されていない
ことなどから,他地域で生産されたものが長距離運搬され
その意味でも,本角礫層も含めて基盤の古期岩類を覆う
堆積したものではなく,現地性のもの即ち近傍の基盤岩表
本地域の第四系は,更新世後期において北アルプス北端部
層部が破砕し角礫化し堆積したものである可能性が高い.
の山地隆起が急速に進んだことを間接的に示すものとして
重要な意味を持っている.
このような角礫層の成因についてどのように考えたらよ
いであろうか.上でのべた角礫層の特徴は,ごく普通にみ
ところで,高山や高緯度地域における森林限界線と雪線
られる崖錐堆積物,地すべり崩積土のそれと基本的に一致
との間は周氷河帯と定義され,そこでの凍結・融解作用は
し,斜面の形成に付随した現象の可能性がある.
地形変化を起こす重要な原因のひとつである.これは,氷
ここで,本角礫層が現在とは異なる地形のもとで堆積し
河に接するかどうかに関わらず,寒冷気候下で凍結や融解
た可能性について検討したい.1995・1996年に形成された
作用が強く作用する地域に適用できる概念として用いられ
蒲原沢崩壊地の最上位には,礫径 1mを超す安山岩の巨礫
る(町田ほか 2002).現在の北アルプス地域のような高
を多量に含む土石流堆積物が整合的に重なることはすでに
山帯においても,冬季の凍結・融解作用と地形形成との間
述べた.このような堆積物は,白馬大池角礫層や白馬大池
にどのような因果関係があるかを明らかにすることは重要
火山岩層と同様に本調査地域の急峻な山腹斜面上の各地
であり,氷河地形や氷河性堆積物の研究ととともに多くの
で認められる.土石流の流下やそれによる堆積物の堆積機
報告がある .それらの経緯については,原山ほか(2000)に
構から見て,現在のような急斜面上にこのような岩相の堆
簡潔にまとめられている.具体的に本地域を含めて北アル
積物が広範囲に堆積することは考えられない.従って,そ
プス地域の氷河地形や堆積物に関する報告も多い(五百沢 れが形成された当時の原地形は,現在よりもはるかに緩傾
1963,1966,1979;小畔 1964;小畔ほか 1974).中野ほか
斜であったと思われる.このことは,当然それに整合的に
(2002)は,松川上流の北俣入や大所川支流の瀬戸川・白
覆われる白馬大池火山岩層や白馬大池角礫層などの堆積
高地沢上流における氷河堆積物の層相について記載した.
物が堆積した当時の地形も現在とは異なった緩傾斜の地形
それらの堆積物はいずれも上流山地の基盤岩石に由来する
が広がっていたことを示唆している.
角礫・亜角礫を含んだ無層理・コンパクトな基質支持の砂
ところで,フォッサマグナ西縁の糸魚川-静岡構造線に
礫層で,淘汰の悪い角礫層と記載されている .北アルプス
沿っては,総延長 65kmにわたって
“大峰帯”と呼ばれる
地域では,完新世以降の現在も冬季の強い西風と豪雪によ
構造帯が存在し,西方の北アルプス山地からもたらされ
る影響が大きく,その結果,凍結・融解作用が卓越する南
た多量の粗粒砕屑物や火山砕屑物が分布している(小坂 ~西側斜面で砂礫斜面が,また北~東側斜面では凹型の
1991).それによれば,大峰帯への多量の粗粒砕屑物の供
残雪砂礫斜面が発達する(Iwata 1983;松岡 2002).
給によって示唆される鮮新~更新世における北アルプスの
白馬大池火山噴出物の形成された更新世中期から後期に
隆起・削剥は 3回のステージに分けられるとされる.火山砕
かけては,世界的規模で氷期・間氷期が繰り返された時期
屑物の分析値や年代測定値によれば,第 1,第 2ステージ
であり,本邦とりわけ北アルプスの高標高部では氷河その
21
森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
ものが山腹に発達したことから,それらが地形形成へ与え
壊に角礫層の存在が関わった可能性がある.そのことにつ
た影響はもちろん,周辺部では周氷河帯としての地形変動
いて検討を加える.
も激しかったと思われる.
1)蒲原沢土石流災害(1996年12月6日発生)
の素因と
誘因
白馬大池角礫層は,中期更新世初期および後期更新世
蒲原沢を含む長野県小谷村などの姫川流域一帯では,
の寒冷期に本地域一帯に広く及んだ周氷河環境下で形成
された山地表層部の砂礫であり,遠距離を運搬されること
1995年 7月の集中豪雨により広範囲にわたり土砂崩壊が
なくその近傍において堆積し,削剥作用によって消滅する
発生し,大きな災害となった .とりわけ蒲原沢上流の標高
ことなく白馬大池火山の噴出物に覆われたものと思われる.
1,300m付近の渓床右岸側山腹で発生した大規模な崩壊に
また,その際に旧期の火山噴出物に覆われなかった部分の
よる土砂は,土石流となって流下し,国道に架かる完成直
礫層は,おそらく新期の火山活動が始まるまでの数十万年
後の橋梁を完全に破壊・消失させるなどの大規模な災害と
の間に削剥を受け消滅した可能性が高い.
なった.また,翌 1996年 12月 6日に発生した蒲原沢土石流
以上のべたように,白馬大池角礫層には,崖錐・地すべ
災害の直接的原因は,前年度に形成された崩壊地点がさら
りの礫層,周氷河現象による礫層など,複数の成因による
に拡大崩落し,土石流となって流下したためである.この
ものが含まれる可能性もあり,その詳細については今後の
崩壊地の規模は,頭部から河床部までの長さ約 120m,最
検討課題である.
大幅約 60m,推定崩壊土量約 3万 m3である.
この崩壊地では,左右両岸とも蒲原沢河床付近から斜面
第 13図は,以上のことを模式的に示したものである.
上方に向かって来馬層群・白馬大池角礫層・白馬大池火山
3 白馬大池角礫層の存在と地すべり・崩壊の素因
岩層への一連の累重関係がみられる(第 8図).また,下流
本地域において発生した最近の大規模な土石流災害とし
部から上流部に向かって,白馬大池角礫層と白馬大池火山
て,1996年 12月発生の
「蒲原沢土石流災害」がある.また,
岩層の境界部の位置は次第に高くなる.このことは,白馬
過去には 1911年 8月・1912年 4月に浦川上流で発生した
「稗
大池角礫層の分布高度が上流に向かって次第に高くなる傾
田山大崩壊」がある.いずれの崩壊地点でも白馬大池角礫
向にあり,両層の境界面が大局的には山腹斜面に沿って同
層の存在が確認されており,土石流発生の原因となった崩
方向に傾斜している可能性が高いことを示唆している.実
際,崩壊地点での一つの境界面の走向・傾斜は N6°W68°
Eと急傾斜を示している(第 8図).ここでは,来馬層との
!
境界面が下流側に向かって傾斜している.このことに加え,
白馬大池角礫層そのものも基質部分が強く粘土化し,軟弱
な岩相を呈している.これらの 2点が本地域に分布する地
"#$%&#$'()
*+,./!
層の重なり方や構造,岩相に関する基本的な特徴であり,
崩壊発生の地質学的な素因となっている.第 14図は,以上
のことを模式的に示したものである.
012+3456
7/!8
一方,この崩壊の誘因としては,前日の気温上昇とそ
れによる多量の融雪水の地下浸透があり,白馬大池火山
岩層中を落下した多量の地下水が白馬大池角礫層部分で
遮水された結果,河岸斜面中腹の礫層部分から多量の地
9#$:%()&
;+,./
下水が噴出したものと見られている(佐藤ほか,1997;牛
山 1997).現在でも,崩壊地内の白馬大池角礫層と上位の
白馬大池火山岩層の境界付近からの湧水が多数認められ
る.1996年 12月の土石流発生直後に撮影された空中写真
<=>
によっても,来馬層と火山岩層との境界付近から多量の湧
水があったことが確認できる.
KL
2)稗田山大崩壊(1911年・1912年発生)
MN
?:@ABCDEFG
浦川上流から金山沢にかけての右岸側には,1911・1912
年の稗田山大崩壊の崩落崖が延長約 2kmにわたり,北東
HIJA
-南西方向をとって連続している.崩落崖の高さは 100~
第 13 図 調査地域周辺地形発達概念図
22
姫川中流域における「白馬大池角礫層」の存在と,その地質学的意味
結 論
姫川中流域西岸側,飛騨外縁帯地域の地質調査を行い,
以下のような結論を得た.
1 本地域には,古期岩類を不整合におおう不淘汰角礫層
が広範囲に分布している.それを白馬大池角礫層として
定義し,記載した.
!"#
$%&'()#*+,-%
2 白馬大池角礫層は,その礫種が直下の基盤岩由来の
礫からなり,その上位に白馬大池火山噴出物が整合的に
./012/34
重なっている.
3 角礫層は,粘土化している.
5!6789
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4 角礫層は,低標高部から高標高部にかけて本地域の山
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腹斜面をおおうようにして分布している.
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4/
IJ!6
7:#$%KL/MNO%
5 1996年 12月に発生した蒲原沢土石流災害の直接的原
因とされる崩壊地や,1911年,1912年に発生した稗田山
PQR
大崩壊地でも白馬大池角礫層が見られる.
6 これらのことから,本地域一帯で頻発する土砂災害の
SPQR0TUVW
地質学的素因には白馬大池角礫層の存在が重要な因子と
して関与している可能性が高い.
7 白馬大池角礫層の堆積年代は第四紀更新世前期~後
期である.堆積時期とその産状から判断すると,白馬大
X
PQR:#
FGSPQR0TUVW%
池角礫層は,この時期の北アルプス北端部の大規模な隆
YZ[\]
:SPQR0TU^_`a
第
14 図 白馬大池角礫層と地すべり ・ 崩壊のプロセス
起にともなう崖錐・地すべりなどの崩壊堆積物,また周
氷河堆積物の両面の性格を併せ持った堆積物と考えら
れる.
200mに達する.この稗田山大崩壊の誘因としては,1911年
の崩壊の 4- 5日前に集中的な降雨が本地域で生じており,
謝 辞
その影響が大きかったとみられている(町田 1964).
また,
本研究を進めるにあたり,新潟大学自然科学研究科の卜
1912年の崩壊については融雪期に発生していることから,
部厚志准教授,明治コンサルタント株式会社の古川昭夫氏
融雪水の供給による地下水圧の上昇が考えられる.
には調査・研究全般にわたり,ご教示をいただいた.
素因については藤田ほか(1986)が,当時の松本測候所
また,調査にあたり,快く宿舎を提供してくださった,
技師の手記などにより,崩壊個所の山体が古い地すべりブ
ロックに割れていたことをあげている.またさらに,金山
高地集落の細田文博ご夫妻,村営風吹荘ご夫妻には大変
沢に沿った断層崖直下に堆積した礫層の存在が,帯水層
お世話になりました.厚く御礼申し上げます.
となっていたこと,もともと脆弱な白馬大池角礫層が白馬
大池火山噴出物に覆われているような不安定な地質構造に
引用文献
なっていたことをあげている.また,そのことに加えて本
茅原一也・小松正幸(1982)飛騨外縁帯(特に青海-蓮華帯)及び
地域は地下水による風化が非常に激しく,それによる基盤
上越帯に関する諸問題.
地質学論集,
21:101-116.
岩・白馬大池火山岩の岩石の脆弱化が顕著である.これら
藤田至則・青木 滋・佐藤 修・高浜信行・鈴木幸治・池田信俊(1986)
の地質学的な条件が素因として作用し,大崩壊につながっ
稗田山大崩壊の崩積土と崩壊の要因.
地質学論集,
28:147-159.
た可能性が高い.
原山 智・高橋 浩・中野 俊・苅谷愛彦・駒澤正夫(2000)立山地
以上の通り,本地域における大規模な土砂災害の地質学
域の地質.
地域地質研究報告(5万分の1地質図幅).
地質調査所.
的素因には,白馬大池角礫層の存在が強く関わっていると
五百沢智也(1963)写真判読による日本アルプスの氷河地形.
地理
思われ,防災面ではそのことを十分認識しておく必要があ
評,
36,
p743.
る.
五百沢智也(1966)日本の氷河地形.
地理,
11-3,
24-30.
五百沢智也(1979)鳥瞰図譜日本アルプス.
講談社,
東京,
190p.
石井久夫(1976)長野県姫川中流域の石坂流紋岩層と糸魚川-静
23
森川 篤平・小坂 共栄・高浜 信行
岡構造線.
大阪市立自然史博物館研究報告,
30,
49-60.
佐藤 修・渡部直喜・相楽 渉・丸井英明,
1997,
蒲原沢土石流に関
Iwata(1983)Physiographic conditions for the rubble slope
与した地下水.
月刊地球,
19,
629-633.
formation on Mt.Shirouma-dake, the Japanese Alps, Geogr.
清水 智・山崎正男・板谷徹丸(1988)両白-飛騨地域に分布する
Reports of Tokyo Metropolitan Univ., no. 18,1-51.
鮮新-更新世火山岩のK-Ar年代.
岡山理科大蒜山研究所研究
小畔 尚(1964) 鳳凰山における構造土の観察と実験.
駿台史学,
報告,
14:1-36.
15,53-75.
白石秀一(1992)姫川中流域の飛騨外縁帯-特に,
ジュラ系来馬層
小疇 尚・杉原重夫・清水文健・宇都宮陽二郎・岩田修二・岡沢修一
群について-.
地球科学,
46:1-20.
(1974)白馬岳の地形学的研究.
駿台史学,
35,
1-86.
相馬秀広・岡沢修一・岩田修二(1979)白馬岳高山帯における砂礫
小坂 共栄(1992) 大峰帯の地質とそのフォッサマグナ発達史
の移動プロセスとそれを規定する要因.
地理学評論,
52:562-
における意義.
信州大学理学部紀要,
26,
75-140.
579.
Kosaka, T., Takahama, N., Furukawa, A., Takenouti, K.,
高浜信行・小坂共栄・古川昭夫・赤羽貞幸・竹之内耕・熊谷大介,
Akahane, S., Kumagai, D., 1999, A large-scale landslide
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日本地質学会第
distribution in the western margin of the Fossa Magna
104年学術大会講演要旨,
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伝承-.
24
市立大町山岳博物館研究紀要 1:25 ‐ 40(2016)
原著論文
Original Articles
Bull. Omachi Alpine Museum.(1)
:25 ‐ 40(2016)
長野県白馬村,神城盆地の地下構造
原山 智 1)・小坂 共栄 2)・棚瀬 充史 3)・佐々木 孝雄 3)・水落 幸広 4)・
南 雄一郎 4)・宮澤 洋介 5)・信州大学震動調査グループ 6)
1)
2)
信州大学学術研究院( 理学系),〒 390 − 8621 長野県松本市旭 3 − 1 − 1
市立大町山岳博物館,〒 398 − 0002 長野県大町市大町 8056 − 1
( 株 )地圏総合コンサルタント,〒 116 − 0013 東京都荒川区西日暮里 2 丁目 26 番 2 号
4)
5)
住鉱資源開発( 株 ),〒 105-0001 東京都港区虎ノ門 3 丁目 8 番 21 号
北陽建設( 株 ),〒 398 − 0003 長野県大町市社 5377
6)
小坂共栄( 代表 )・原山 智・古本吉倫・山浦直人・井関芳郎・小野和行・富樫 均・小松宏昭・遠藤正孝・田中俊廣・津金達郎・塩野敏昭・
宮澤洋介・太田勝一・田辺政貴・田辺智隆・高橋 康・竹下欣宏,信州大学,〒 390 − 8621 長野県松本市旭 3 − 1 − 1
3)
Subsurface Structures of the Kamishiro Basin in Hakuba Village,
Nagano Prefecture,Central Japan
Satoru HARAYAMA1),Tomoyoshi KOSAKA2),Atsushi TANASE3),
Takao SASAKI3),Yukihiro MIZUOCHI4),Yuichirou MINAMI4),Yousuke MIYAZAWA5)
and Shinshu University Ground Motion Research Group6)
Faculty of Science Shinshu-University, 3-1-1, Asahi, Matsumoto City, Nagano Pref., 390-8621, JAPAN
Omachi Alpine Museum, 8056-1, Omachi ,Omachi City, Nagano Pref., 398-0002, JAPAN
3)
Chi-ken Sogo Consultants Co., Ltd., 2-26-2, Nishinippori, Arakawa-ku, Tokyo, 116-0013, JAPAN
4)
Sumiko Resources Exploration & Development Co., Ltd., 3-8-21, Toranomon, Minato-ku, Tokyo, 105-0001, JAPAN
5)
Hokuyo construction Co., Ltd., 5377, Yashiro, Omachi City, Nagano Pref., 398-0003, JAPAN
6)
Tomoyoshi Kosaka(Director), Satoru Harayama, Furumoto Yoshinori, Naoto Yamaura, Yoshiro Iseki, Kazuyuki Ono, Hitoshi Togashi,
Hiroaki Komatsu, Masataka Endo, Toshihiro Tanaka, Tatsuro Tsugane, Toshiaki Shiono, Yousuke Miyazawa, Katsuichi Ohta, Masataka
Tanabe, Tomotaka Tanabe, Kou Takahashi, Yoshihiro Takeshita, Shinshu-University, 3-1-1, Asahi, Matsumoto City, Nagano Pref., 390-8621, JAPAN
1)
2)
2014 年 11 月 22 日に発生した長野県北西部を震源とする地震(M6.7)では,神城断層に沿う地表各所に変位が出現した.
われわれは神城断層の地下への延長を検討するために,最も被害が大きかった白馬村堀之内地区で地表の変位を横断する
測線でのチェーンアレー方式による微動アレー探査と 2 地点で多重アレー方式(SPAC 法)による探査をおこなった.
地表変位をはさむ延長 117m のチェーンアレーにより得られた位相速度断面と近傍でおこなわれた既往のボーリングお
よび S 波反射法地震探査から,地表変形につながる低角度の断層と湖成堆積物の変形構造が明らかになった.
神城断層の傾斜方向にあたる東側でおこなった 2 地点での微動アレー探査により,最大 800m までの深度の S 波速度が
解析され,各速度層は全体に西側に向かって深くなることが明らかになった.
地震の余震分布や微動アレー探査による速度層の変位を説明するために,微動アレーをおこなった 2 点間に高角度の逆
断層が想定され,神城断層はその前縁派生断層である可能性が示唆された.
キーワード:地震,神城断層,微動アレー探査,地下構造
Abstract
The earthquake(M6.7)centered in Northwestern Nagano, which occurred on November 22, 2014 caused surface
displacements, which appeared in several places alongside the Kamishiro Fault.
To establish the extension of the Kamishiro Fault to the subsurface, we performed a micro-tremor array survey consisting
of a chain array methodology exploration across the displaced surface and multiple array SPAC methodology exploration
was conducted at two points, Hakuba-mura Horinouchi, where the most serious damages occurred.
The phase velocity section image of the 117-m long chain array exploration across the displaced surface, the previous
borehole data within the area, and the results of seismic S wave prospecting exploration using S wave indicated a low angle
fault connecting the displaced surface and the deformed structure of the lacustrine deposit.
The S wave velocity structure with a maximum penetration depth of 800m was analyzed by two micro-tremor array
surveys performed at the eastern side of Kamishiro Fault where the fault dips. The analysis, indicated a general westward
deepening trend of each S wave velocity stratum.
To explain the aftershock distribution of the earthquake and the displacement of the S wave velocity stratum determined
by the micrometer array survey, a steep reverse fault between the two micro-tremor array survey points was assumed. It
was therefore suggested that the Kamishiro Fault is likely to be a secondary fault at the front edge of a steep reverse fault.
Key words :earthquake, Kamishiro Fault, micro-tremor array survey, subsurface structure
25
原山 智・小坂 共栄・棚瀬 充史・佐々木 孝雄・水落 幸広・南 雄一郎・宮澤 洋介・信州大学震動調査グループ
はじめに
断層に対する従来の判断を大きく変えるものではなかった
2014 年 11 月 22 日,午後 10 時 08 分に長野県北西部の
といえる.しかし,地震後に実施されている多く調査の一
白馬村高戸山付近を震源とする M6.7 の地震が発生し,白
部にはこの地震の原因を神城断層だけの動きで説明するこ
馬村・小谷村をはじめとする大北地域はもとより,東方の
とは一面的に過ぎることを示唆するものもある.そのこと
長野市街地に至るまでの広範な地域に被害が生じた.長野
については,稿を改めて述べることにしたい.
県は,地盤変状が活断層である神城断層沿いに顕著に出現
ここでは,神城地域の地下構造,とくに神城断層の地下
したことからこの地震をいち早く「神城断層地震」と呼ん
への延長をどう考えるべきかについての情報を得ることを
で対応を開始した(長野県,2014)
.
目的に,白馬村神城において実施した微動アレー探査の結
果と,従来の報告との比較検討結果を報告する.
われわれは,発災直後から地震による地盤の変状や被
害状況などの調査,地震時の揺れに関するアンケート調
調査の概要
査など,さまざまな調査に取り組んできた(津金・信州大
微動アレー探査,解析は,2014 年 12 月から 2015 年 2
学震動調査グループ,2015;原山ほか,2015;竹下ほか,
月にかけて行われ,そのうち現地での探査期間は 2014 年
2015;小坂・信州大学震動調査グループ,2015)
.
12 月 20 日から 22 日である.
ところで,糸魚川−静岡構造線活断層系活断層の一つ
である神城断層については,変動地形学的・地質学的に
探査位置は長野県北安曇郡白馬村神城堀之内地区であ
これまで多くの報告がある(活断層研究会,1991;東郷ほ
る(図 1)
.顕著な地表変位が出現した箇所を横断する浅
か,1996;奥村ほか,1996;奥村ほか,1998;松多ほか,
部の地下構造と,被害の大きかった地域の深部地下構造
2001:松多ほか,2007 など)
.これらの結果,神城断層は
を明らかにすることを目的として,3 地点(HA-01, HA-02,
小谷村千国付近から白馬村北城盆地・神城盆地を経て大
HA-03)において微動アレー探査を実施した(図 2)
.各観
町市信濃木崎駅付近まで続く延長約 20km,東側隆起の逆
測点は現地測量でアレー配置を決定し,設置位置の座標は
断層とみなされてきた.2014 年 11 月 22 日発生の地震によ
携帯型の GPS を用いて計測した.表 1 に各測点の座標と
る神城断層近傍の地盤変位や地震の動きそのものは,この
アレーの内容を示す.
図 1 微動アレー探査位置図(白馬村基本図
1:2,500に加筆)
図 1 微動アレー探査位置図(白馬村基本図
1:2,500 に加筆)
26
長野県白馬村,神城盆地の地下構造
図 2 探査地点の微動計配置図
表 1 微動アレー探査の諸元
図 2 探査地点の微動計配置図
探査地点
緯度(N)
経度(E)
標高(H)
アレーの配置等
HA-01 1ブロック左端
36°39′06.87″
137°51′24.67″
738
HA-01 13ブロック右端
36°39′07.00″
137°51′28.75″
742
辺長3m、チェーンアレー(1ブロック9m
×13ブロック=117m)
地震断層通過位置:起点より52.5m
HA-02 辺長30m中心
36°39′00.08″
137°51′32.40″
742
3mアレー中心(R=3,10.30m)
HA-03 辺長10m中心
36°38′54.47″
137°51′56.77″
757
3mアレー中心(R=3,10m)
微動アレー探査の観測および解析方法
頂点に微動計を配置する空間自己相関法(Spatial Auto
表 1 微動アレー探査の諸元
微動アレー探査は,表面波の一種であるレイリー波を用
Correlation Method 以下 SPAC 法)でおこなった.SPAC
いた探査法で,微動計により微小な地盤の振動(微動)か
法の原理および探査方法の概要については,上記論文を参
ら表面波の分散を検出し,分散を引き起こす地下の S 波速
照されたい.本探査では,HA-02 および HA-03 において
度構造を推定する探査手法である(岡田,2008,物理探査
SPAC 法でおこなった.
SPAC 法の微動計配置では円形アレーが原則であるが,
学会編,2008)
.
具体的な探査の方法は,微動(とくにレイリー波の上下
図 4 に示すように,半円形アレーに置き換えることができ
動成分)を複数の微動計で観測して位相速度を検出し,得
る(岡田 2003)ので,この方法を応用して円形正三角形
られた分散曲線(周波数−位相速度曲線)から逆解析でア
アレーを容易に線状に配列することができる.この配置を
レー直下の地下の S 波速度構造を求める(図 3)
.
チェーンアレーと呼ぶ(林ほか,2010)
.
なお,微動アレー探査には微動計の配置によりいくつ
HA-02 微動アレー探査の速度解析結果はアレー直下での 1 次元
かの方法があるが,中心および円に内接する正三角形の
S 波速度構造であるが,
速度解析前の表面波の分散曲線
(観
27
モノ
原山 智・小坂 共栄・棚瀬 充史・佐々木 孝雄・水落 幸広・南 雄一郎・宮澤 洋介・信州大学震動調査グループ
図 3 微動アレー探査の原理.松岡(2010)および日本鉄道建設公団(2003)に追記
図 3 微動アレー探査の原理.松岡(2010)および日本鉄道建設公団(2003)に追記
図 4 半円形アレーからチェーンアレーへの拡張.岡田ほか(2003),林ほか(2010)に加筆
図 4 半円形アレーからチェーンアレーへの拡張.岡田ほか(2003)
,林ほか(2010)に加筆
測分散)は,理論分散に近い平滑化された分散ではなくよ
次元の位相速度断面が得られることになる.この位相速度
り複雑であることが多い.このような観測分散は,何らか
断面は,断層などの地下構造に大きな変化が想定される地
の複雑な地下構造を反映しているためと考えられる.
点の速度断面を描くことに適している.
そこで観測分散を用いて分散曲線の周波数軸を深度に
HA-01 地点では,神城断層による地表の変状をはさんで
換算(1/2 波長深度)し,チェーンアレーの個々の正三角
地下構造に大きな変位が想定されることから,辺長 3m の
形ごとに深度−位相速度曲線を求めれば,三角形の辺長の
正三角形を 39 個つなげて延長 117m のチェーンアレー探
1/2 間隔の位相速度が得られる.この 1 次元の深度−位相
査をおこなった.
速度をチェーンアレーの測線方向に連続的につなげれば 2
28
29
3
4
5
2
3
4
5
4
5
6 7 8
周波数(Hz)
9 10 11 12 13
0
3
200
300
400
500
0
100
200
300
400
500
0
0
2
No67
No68
No69
No70
No71
No72
9 10 11 12 13
No31
No32
No33
No34
No35
No36
9 10 11 12 13
100
200
300
400
500
100
1
Block13
6 7 8
周波数(Hz)
Block6
6 7 8
周波数(Hz)
ブロック 6
2
ブロック 11
1
1
No1
No2
No3
No4
No5
No6
100
200
300
400
500
0
100
200
300
400
500
0
100
200
300
400
ブロック 1
Block1
3
4
5
2
3
4
5
1
2
3
4
5
6 7 8
周波数(Hz)
Block12
6 7 8
周波数(Hz)
Block7
6 7 8
周波数(Hz)
ブロック 7
2
ブロック 12
1
1
ブロック 2
Block2
9 10 11 12 13
No67
No68
No69
No70
No71
No72
9 10 11 12 13
No37
No38
No39
No40
No41
No42
9 10 11 12 13
No7
No8
No9
No10
No11
No12
3
4
5
4
5
6 7 8
周波数(Hz)
9 10 11 12 13
200
300
400
500
0
1
2
3
4
5
6 7 8
周波数(Hz)
Block11
ブロック 13
9 10 11 12 13
No61
No62
No63
No64
No65
No66
図 5 HA-01ブロックごとの観測分散曲線
0
100
200
300
400
500
0
3
No43
No44
No45
No46
No47
No48
9 10 11 12 13
100
200
300
400
500
0
2
Block8
6 7 8
周波数(Hz)
ブロック 8
2
No13
No14
No15
No16
No17
No18
100
1
1
ブロック 3
Block3
100
200
300
400
500
0
100
200
300
400
500
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
1
1
3
4
5
2
3
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5
6 7 8
周波数(Hz)
Block9
6 7 8
周波数(Hz)
ブロック 9
2
ブロック 4
Block4
9 10 11 12 13
No49
No50
No51
No52
No53
No54
9 10 11 12 13
No19
No20
No21
No22
No23
No24
位相速度(m/sec)
位相速度(m/sec)
500
0
100
200
300
400
500
0
100
200
300
400
500
1
1
2
2
4
5
3
4
6 7 8
周波数(Hz)
9 10 11 12 13
No55
No56
No57
No58
No59
No60
9 10 11 12 13
No25
No26
No27
No28
No29
No30
図 5 HA-01 各ブロックごと
5
Block10
6 7 8
周波数(Hz)
ブロック 10
3
Block5
ブロック 5
長野県白馬村,神城盆地の地下構造
原山 智・小坂 共栄・棚瀬 充史・佐々木 孝雄・水落 幸広・南 雄一郎・宮澤 洋介・信州大学震動調査グループ
議 論
探査結果
(1)既存資料の検討
(1)HA-01地点におけるチェーンアレー探査
観測した地震波形から抽出した表面波の分散曲線(周波
地下構造の検討をおこなうにあたり,
都市圏活断層図「白
数表示)をブロック毎に図 5 に示す.なお 1 ブロックは辺
馬岳」
(澤ほか,1999)をはじめ,白馬トレンチ調査および
長 3m の正三角形を 6 個並べたもので延長 9m に相当する.
反射法地震探査,トレンチ近傍でのボーリング調査,防災
分散曲線の形状は,高周波数側で位相速度がフラットで,
科学技術研究所による高感度地震観測井 KiK-net 掘削デー
5Hz から低周波数側で立ち上がる傾向がブロック 1 ~ 6 ま
タ,長野県等で実施された構造物基礎調査ボーリングなど
で見られる.ブロック 7 ~ 8 は分散曲線の形状がブロック
の公表,未公表資料について検討をおこなった.
図 10 の微地形図に,都市圏活断層図および地震後の調
6 までと類似しているが,低周波数側で位相速度が 300m/
査などに基づいて推定された神城断層の通過位置,既往の
sec 程度までしか上がらない.
トレンチ調査,ボーリング調査(地層抜き取り調査を含む)
ブロック 9 ~ 10 は,5Hz より高周波数側で位相速度が
および反射法地震探査の測線位置を示す.
フラットではなく緩やかな傾斜を持つようになる.さらに
奥村ほか(1998)による神城断層白馬トレンチの調査結
ブロック 11 ~ 13 では,5Hz より高周波数側で位相速度が
果では,低角断層より上盤側の泥炭層と湖成層のとう曲と
凸の形状を示すようになる.
このような分散曲線の形状がブロック毎に順次変化して
西側への層厚増大,傾斜不整合が認められ,傾動や変形
いることは,地盤の速度構造が測線に沿って変化している
が断層運動とともに間欠的に進行したことが示された.ま
ことを示していると考えられる.
た,とう曲より東側では堆積層の層厚が薄化していること
HA-01 地点で観測したチェーンアレーの分散曲線から
が認められた.今泉ほか(1997)は,白馬トレンチ部分で
1/2 波長深度に換算し,位相速度断面図を作成した(図 6)
.
実施した地層抜き取り・ボーリング調査から,神城断層の
スリップレートが 1.5mm/yr だとしている.
表層付近(深度 30m 以浅)では,ブロック 1 ~ 8 まで
低位相速度層のフラットな構造がみられ,ブロック 10 ~
図 11 に,奥村ほか(1998)の実施した白馬トレンチ脇
13 にかけて傾斜して低位相速度層が薄くなる.ブロック 9
で松多ほか(2001)によって実施された極浅層 S 波反射法
付近に低位相速度の落ち込みが見られる.深度 100m 以深
地震探査断面図を示す.
の深部では,ブロック 9 ~ 13 はブロック 1 ~ 8 にくらべて
松多ほか(2001)は,反射法地震探査で認められた褶曲
より浅い深度から早い位相速度が認められ,両者の間で深
構造は,未固結堆積物中での断層のすべりに伴うドラッグ
部構造の変化が想定される.
褶曲である可能性が高いと考え,トレンチで確認された低
角の断層は主断層ではなく褶曲変形の一部と考えた.
(2)HA-02,
HA-03地点における多重アレー探査
図 12 は白馬トレンチ脇で掘削されたボーリング(Loc.J)
の柱状図(松多ほか,2001)を簡略化したものである.
図 7 に,HA-02 と HA-03 地点の分散曲線を示す.
2 地点とも低周波数側での位相速度の立ち上がる傾向は
Loc.J ボーリングによれば,地表から約 3,6 ~ 9m までは
比較的似ているが,2 ~ 12Hz の分散傾向は異なる.この
泥炭層,深度 9 ~ 16m まで礫層,深度 16 ~ 55m 以深ま
ことから中間部の深さの速度構造が異なっていると考えら
で砂,シルトの互層および薄い礫層を挟む湖成堆積物から
れる.
なる.また,深度 52.5m に AT 火山灰が挟まれている.松
多ほか(2001)は,Loc.J コアの深度 52.3m(28,000yBP)
HA-02 および HA-03 地点で観測した分散曲線から,最
の湖成層から礫層への層相変化の層準が T1 面(758 ~
適な S 波速度構造モデルを逆解析した(表 2,図 8)
.
HA-02 が深度約 800m まで,HA-03 が深度約 430m ま
760m)の離水層準と考え,ボーリングコアと段丘上の AT
で解析された.HA-02 と HA-03 地点それぞれの同じ速度
火山灰層の比高差からこの期間の鉛直成分の平均すべり速
層をつないだ対比図を図 9 に示す.表層部の Vs=150 ~
度を 2.6 ~ 2.7mm/yr,同様に深度 16.5m(11,000yBP)で
200m/sec の速度層の厚さは,HA-02 が約 20m,HA-03 が
の層相変化層準が T2 面(744 ~ 746m)の離水層準と考え,
約 10m であり,西側の HA-02 に向かって軟質な層がより
この間の鉛直成分の平均すべり速度を 2.2 ~ 2.4mm/yr と
厚くなることを示している.Vs=300 ~ 1,300m/sec の各速
した.また,
反射法断面から神城断層の傾斜を 30 度として,
度層の層厚も HA-02 の方でより厚い.Vs=1,300m/sec の
神城断層の実変位の平均すべり速度を 4.4 ~ 5.2mm/yr と
上面深度は,HA-02 が約 460m,HA-03 は約 380m で,両
見積もった.これらのことから,AT 火山灰降下以降は神
者の比高差は約 80m である.
城断層の活動に目だった変化はなく,2.2 ~ 2.7mm/y の垂
直すべり速度で一様に活動してきたと結論付けている.
30
長野県白馬村,神城盆地の地下構造
西側起点からの距離(m) 西 東 位相速度
(m/sec) 深 度 (m) 図 6 HA-01 地点の位相速度断面図(↓:段差,舗装ひび割れが確認された箇所)
HA-02 図 6 HA-01 地点の位相速度断面図(↓:段差,舗装ひび割れが確
HA-03 図 7 HA-02,HA-03 地点の観測分散と最適モデル理論分散
図 7 HA-02,HA-03
31 地点の観測分散と最適モデル理論分散
原山 智・小坂 共栄・棚瀬 充史・佐々木 孝雄・水落 幸広・南 雄一郎・宮澤 洋介・信州大学震動調査グループ
表 2 HA-02 および HA-03 の解析 S 波速度と層厚,深度(深度および標高は各層の下面値)
Vs(m/s)
150
215
300
400
510
715
860
1,300
1,550
層厚H(m)
7.5
14
26
55
104
105
150
250
深度D(m)
7.5
21.5
47.5
102.5
206.5
311.5
461.5
711.5
800.44
標高(m)
734.5
720.5
694.5
639.5
535.5
430.5
280.5
30.5
-58.44
層厚H
4.5
6
16
60
60
90
140
深度D
4.5
10.5
26.5
86.5
146.5
236.5
376.5
430.29
標高(m)
752.5
746.5
730.5
670.5
610.5
520.5
380.5
326.71
HA-03 Vs(m/s)
140
240
380
480
590
780
850
1,300
S波速度(m/sec)
0
0 150
215
300
1000
S波速度(m/sec)
2000
0 140240
0
1000
2000
380
表 2 HA-02 および HA-03 の解析 S 波速度と層厚,深度(深度および標高は各層の下面値)
480
100
400
100
590
510
200
200
780
715
400
300
深度(m)
深度(m)
300
860
500
1300
400
500
600
600
1300
700
800
850
700
HA -02 HA2
1550
800
図 8 HA-02 および HA-03 の解析 S 波速度柱状図
32
HA -03 HA3
長野県白馬村,神城盆地の地下構造
HA-02 HA-03 標高 (m)
図 9 HA-02 と HA-03 の解析 S 波速度層対比図
図 9 HA-02 と HA-03 の解析 S 波速度層対比図
さらに松多ほか(2007)は,極浅層 S 波反射法地震探
美麻累層三日市場溶結凝灰岩層からの反射面であると推定
査断面より深部の構造を明らかにするために,図 1 に示す
した.また,UNIT4 は先新第三系の基盤であろうと考えた
(松多ほか,2007)
.
点線の測線(測線長約 2km)で P 波反射法地震探査を実
施した.図 13 は,松多ほか(2007)によるマイグレーショ
また,松多ほか(2007)は,変動地形学的な方法から
ン処理した重合断面(深度断面)と,かれらの地質学的解
CMP225 付近の地表との交点に神城断層の延長を推定し,
釈を示したものである.UNIT1 は未固結の第四紀堆積物,
トレンチ近傍でおこなった S 波極浅層反射法地震探査結果
UNIT2 は河成堆積物ないし美麻累層,UNIT3 は変形した
をもとに,神城断層は低角の逆断層で周囲の地層を大きく
33
原山 智・小坂 共栄・棚瀬 充史・佐々木 孝雄・水落 幸広・南 雄一郎・宮澤 洋介・信州大学震動調査グループ
凡例
チェーンアレー探査位置
多重アレー探査位置
神城断層(2014年地震による地震断層)(石村ほか,2015)
神城断層(澤ほか,1999)
神城断層(松多ほか,2001)
Loc.Jボーリング地点(松多ほか,2001)
極浅層S波反射法地震探査測線(松多ほか,2001)
P波反射法地震探査側線概略位置(松多ほか,2007)
トレンチ位置(奥村ほか1998)
HA-01
堀之内
HA-02
姫
川
谷地
川
三
日
市
場
0
200
400
田頭
600 m
HA-03
本図の作成には基盤地図情報(5mメッシュ数値標高モデル)を使用した.
図 10 探査地周辺の微地形と既往調査による神城断層の通過位置
図 11 極浅層 S 波反射法地震探査断面図(マイグレーション処理後(松多ほか,2001)
)
図 11 極浅層 S 波反射法地震探査断面図(マイグレーション処理後(松多ほか,2001)
34
長野県白馬村,神城盆地の地下構造
図 12 Loc.J
ボーリング柱状図(松多ほか(2001)を簡略化)
図 12 Loc.J
ボーリング柱状図(松多ほか,2001
を簡略化)
図 13 P 波反射法地震探査深度断面とその解釈図(松多ほか ,2007 に追記).UNIT1: 未固結第四紀堆積物,
UNIT2:河成堆積物ないし美麻累層,UNIT3:美麻累層三日市場溶結凝灰岩層,UNIT4:先第三系基盤
35
波反射法地震探査深度断面とその解釈図(松多ほか,2007 に追記).UNIT1:未固結第四紀堆積物,UNIT2:河成堆積物ないし美麻累層,U
結凝灰岩層,UNIT4:先第三系基盤
原山 智・小坂 共栄・棚瀬 充史・佐々木 孝雄・水落 幸広・南 雄一郎・宮澤 洋介・信州大学震動調査グループ
変形させており,背斜構造の翼部を切っている可能性が高
の深度 52.5m までの砂・シルト互層からなる湖成層と AT
いと推定した.
を伴う礫層(完新~更新統)に相当すると判断した.また,
防災 科学技 術研究所高感度地震観測井 KiK-net「白
位相速度 250 ~ 350m/sec(黄緑色部)は,反射面の連続
馬」
(NGNH36, 白馬村大字北城字久保田 3088-1,北緯 36
性が乏しい湖成層以深の更新統,位相速度 350m/sec 以上
(赤色部)は先更新統と推定した.
度 41 分 43.1880 秒,東 経 137 度 51 分 4.6080 秒,孔口標
高 725.0m)は,深度 632.0m まで掘削され,地表から深度
反射断面からは,神城断層を挟んで西側に低速度層の盆
6m までは河床堆積物,深度 6m から 394m まで玉石混じ
状構造が認められ,断層東側でとう曲構造に類似した高速
り砂礫からなる河川段丘堆積物層,394m から 498m まで
度層の盛り上がりが推定される.ただし湖成堆積物に相当
固結した礫岩,498m から 632m は石質溶結凝灰岩とされ
する低速度層は,断層より東方へも連続しているようにみ
ている(防災科研 HP)
.
える.
S 波検層データは,深度 394m までの河川段丘堆積物層
反射面や速度構造からは,深度 50m 付近まで分布する
としたものが Vs=690 ~ 1,410m/sec,その下位の礫岩が
湖成堆積物が,断層近傍で断層に引きずられて急激に変形
Vs=1,410 ~ 1,450m/sec,
溶結凝灰岩は Vs=1,380 ~ 1,560m/
しているようにみえる.
sec といずれも顕著な違いがない.河川段丘堆積物層とし
また,東側の深度 120m 以深にみられる高速度部(赤色
たものの大部分は,S 波速度や地表地質からすると地表部
部)は,古い活動期の断層運動で東側が上昇している可能
を除けばほとんどが大峰帯の礫岩層である可能性が高い.
性も考えられる.
神城地区の南,三日市場を通る東西方向の地盤調査に基
鈴木ほか(2015)は,神城堀之内地区に被害が集中し
づく地質断面図では,神城断層以西の平坦部には腐植土層
た原因として,神城盆地東縁を限る断層は複数列あり,最
や砂質土層(湖成層)が 40m 以上の厚さで分布し,断層
も西側の断層はトレンチで確認される低角逆断層であるこ
以東では粘性土層が急激に薄化するらしい(未公表資料)
.
と,その東寄りの活断層は堀之内地区に接する東傾斜の逆
また,被害の大きかった堀之内地区の南側山麓斜面で
断層であるために,堀之内地区の直下の浅部にこれら地震
断層面があるためとした.
は,深度 2.5m 以深は粘性土が 1.5m 以上の厚さで分布し
さらに南方の三日市場地区では,集落の西側の東側隆起
ていることが確認されているが層厚は不明である(未公表
の逆断層と集落の東に西側隆起の副次的断層にはさまれて
資料)
.
ポップアップした高まりの上にあり,複数の断層からなる
(2)神城“地震”断層を横断する方向の浅部地下構造
変形帯の上にあることが被害を大きくしたと考えた.
松多ほか(2001)による神城断層を横断する S 波反射法
鈴木ほか(2015)は,AT 降灰時にはすでに堀之内地区
地震探査解析断面図と HA-01 チェーンアレー探査断面図
は離水して段丘化しており細粒堆積物はない,と述べてい
の重ね合わせを図 14 に示す.
る.しかし,既往の地盤調査結果(未公表)では崖錐堆積
断層下盤側で反射面が凹になっている部位は位相速度断
物の下位にシルト層が分布し,堀之内地区の地下にも湖成
面でも低速度の垂れ下がりがみられ,両者の形状は調和的
堆積層が存在することが考えられる.チェーンアレー探査
である.
結果でも,すでに述べたように断層位置より東側で位相速
また Loc.J ボーリング(図 12)において深度 16m から
度の小さい領域が数 10m の厚さで認められ,湖成堆積層
48.5m まで続く湖成堆積物は,位相速度で約 100 ~ 250m/
に相当する軟質層が断層の上盤側にも分布していることが
sec の速度層に対応しており,それより下位の礫層とシル
示唆されている(図 14・15)
.このことも堀之内地区で特
ト層の境界である深度 52.5m 以深は位相速度 250m/sec 以
に被害が大きかった理由と思われる.
堀之内地区は,1714 年の信濃小谷地震,1847 年の善
上で表現されている.
チェーンアレー探査で解析した位相速度断面にみられる
光寺地震の際にも大きな被害が出ており(信濃資料刊行
速度層の境界とその不連続について,極浅層 S 波反射法
会 ,1973)
,地震時の揺れが他地域よりも大きい傾向にある
地震探査断面の反射面とボーリング Loc.J の柱状図を参考
のかもしれない.浅層地盤の構造や性状については,より
に地下構造を図 15 のように推定した.
詳しい検討をおこなう必要があろう.
チェーンアレー探査の位相速度 150m/sec 以下(水色部)
は,Loc.J ボーリングの深度 17m までの連続性の良い礫層
と腐植土・シルト層の水平な反射面(完新統)に相当し,
位相速度 150 ~ 250m/sec(青色部)は,Loc.J ボーリング
36
長野県白馬村,神城盆地の地下構造
西 西側起点からの距離(m) 東 深 度 (m) 図 14 S波極浅層反射法断面(松多ほか ,2001)と HA-01チェーンアレー探査の重ね合わせ.位相速度は図 6と同じ
図 14 S 波極浅層反射法断面(松多ほか,2001)と HA-01 チェーンアレー探査の重ね合わせ.位相速度は図 6 と同じ
図 15 HA-01 チェーンアレー探査位相速度断面の解釈(S 波極浅層反射法断面との重ね合わせ図)
図 15 HA-01 チェーンアレー探査位相速度断面の解釈(S 波極浅層反射法断面との重ね合わせ図)
37
原山 智・小坂 共栄・棚瀬 充史・佐々木 孝雄・水落 幸広・南 雄一郎・宮澤 洋介・信州大学震動調査グループ
(3)深部地下構造の解釈
積物は,大峰帯の堆積物より古い新第三紀層である可能性
図 13 に示す P 波反射断面の浅部では,反射面の不連続
も考えられるがそれに関する具体的なデータは得られてい
から複数の低角の断層が想定されている.しかし,深部で
ない.大峰帯の鮮新~更新統の下位にフォッサマグナ主部
はこの反射面の不連続は明瞭ではなく,浅部での低角の断
の中新統が存在するか否かは,今後の検討課題であろう.
層がそのまま深部に連続しているかは反射法の断面からは
2014 年長野県北部地震の余震分布で示される震源断層
の傾斜は,深度 10 数 km まで高角度の東傾斜である(防
わからない.
災科研 HP,津金ほか 2015)ことから,この震源断層が神
反射断面を参考にしながら,微動アレー探査 HA-02 お
城地区の浅部まで存在していることが考えられる.
よび HA-03 の測点間の地下構造断面図を図 16 に示す.
図 16 は,反射法地震探査断面中に描かれた低角逆断層
関 東 平 野 で は,Vs=150 ~ 200m/sec は 完 新 統 に,
Vs=300 ~ 1,300m/sec は下総層群や上総層群などの更新
(松多,2001・2007)だけではなく,HA-02 と HA-03 の間
~鮮新統に,Vs=1,300m/sec 以上は新第三紀中新統に対
の速度層の変位が地下深部の高角な逆断層の動きに起因し
比されている(松岡・白石,2002)
.
ているとする考えである.
また,KIK-net「白馬」
(NGNH36)での PS 検層で得ら
神城断層の地形トレースは複雑に湾曲しているので低角
れた Vs=690 ~ 1450m/sec の礫層および礫岩,Vs=1380
逆断層が強調されている . 過去に実施されたトレンチ発掘
~ 1560m/sec の溶結凝灰岩などは,この地点の東方約 2
によってもこの断層が低角な逆断層として東側隆起のセン
km,北方約 1.2 kmの山域に広く分布する大峰帯の火山
スで活動していることは明らかである(奥村ほか,1998)
.
砕屑物や礫岩層(小坂ほか 1979;小坂 1991)と考える
そのことは,神城盆地の地形・地質学的なデータによって
のが妥当であろう.
も裏付けられている(松多,2001)
.
これらのことを考慮すると,HA-02 および HA-03 の解
ところで,大峰帯はその東縁を小谷-中山断層で境され
析 S 波速度 Vs=500m/sec ~ 1,300m/sec は大峰累層であ
る南北に狭長な構造帯であり,鮮新~更新世にかけて西縁
る可能性が高い.また,Vs=1,300m/sec 以上の値を示す堆
の糸魚川-静岡構造線とに挟まれてグラーベン状に落ち込
図 16 微動アレー探査に基づく深部地下構造の解釈
図 16 微動アレー探査に基づく深部地下構造の解釈
38
長野県白馬村,神城盆地の地下構造
んだものとされている(小坂,1991)
.一方,大峰帯の地層
4)HA-01 測線の位相速度断面で解釈された低角逆断層
を不整合に覆う中期更新世の礫主体の居谷里層が分布し
だけではなく,今回の地震の余震分布や速度層の西下がり
ている(植木,2000)
.この河川性の礫層中に西側のアル
の構造を説明するために,HA-02 と HA-03 の間に高角度
プス地域の黒部川花こう岩の礫が含まれることから,北ア
の逆断層が想定される.その場合,神城“地震”断層はそ
ルプスが 1 ~ 0.75Ma 以降,急速に隆起したものとされて
の前縁派生断層である可能性がある.
いる(及川ほか,2004)
.現在,大町市の市街地が広がる
5)堀之内地区に被害が集中した原因として,堀之内集落
平坦地と居谷里層の分布高度の間には 100 mを超える比高
が低角逆断層の上盤直上に位置したために局所的に大きな
差があることから,居谷里層の堆積後に大峰帯自体が隆起
震度になった可能性があるが,湖成堆積物などの軟質層に
したことは間違いなく,その隆起に神城断層の活動が関与
よる増幅や,堀之内地区が余震分布の南限で示される深部
していたことは間違いないであろう。今回の地震に関わっ
構造境界にあたる点も考慮する必要がある.
て得られた開口レーダーによる干渉像でも,大峰帯部分が
謝 辞
神城断層を境に隆起したことが示されている(国土地理院,
2015)
.このことは,神城断層の活動による地形変位が単
本研究に当たっては,信州大学,白馬村,北陽建設株式
にこの断層近傍に限定されるものではなく,大峰帯東縁の
会社に大変お世話になりました.ここに記して感謝申し上
小谷-中山断層の活動も関与していることを示唆している。
げます.
図 15 は,地表部の神城断層トレースより東側地域の浅層
引用文献
部に見られる地層の変形が,深部の高角の地震断層(神城
断層主断層あるいは小谷-中山断層)から派生した前縁断
防災科学技術研究所HP 高感度地震観測井KiK-net
「白馬」
層によるものではないかとの推論に基づいている.
http://www.kyoshin.bosai.go.jp/kyoshin/db/
また,2014 長野県北部地震の余震分布は,神城堀之内
防災科学技術研究所HP Hi-net高感度地震観測網,
地区から西南西方向の谷に沿って分布の南限となっている
2014年11月22日長野県北部の地震
ことから,堀之内地区の深部には西南西に近い方向をとる
http://www.hinet.bosai.go.jp/topics/n-nagano141122/?LANG=ja&m=dd
神城断層のセグメント境界となるようなブロック境界が存
物理探査学会編
(2008)
新版物理探査適用の手引-土木物理探査
在するのかもしれない.
マニュアル2008-.
物理探査学会,
111-126.
今後,神城断層の三次元的な形状や浅層~深層の地盤
原山 智・小坂共栄・宮澤洋介・信州大学震動調査グループ
(2015)
構造を各種探査や調査により明らかにすることで,堀之内
白馬村神城地区,
微動アレー探査による地下探査報告
地区に被災が集中した要因をより明確にできるものと考え
書.
2014.11.22地震信州大学緊急調査報告書,
22-58,
信州
られる.
大学山岳科学研究所.
林 久夫・松岡達郎・水落幸広・小野雅弘
(2010)
微動アレー探査法
まとめ
の拡張の試み-チェーンアレー探査法の適用について
1)神城“地震”断層を横断する東西方向測線(HA-01,
-.地盤工学会誌,
58
(8)
:10-13.
L=117m)でチェーンアレー探査による位相速度構造を明
今泉俊文・原口 強・中田 高・奥村晃史・東郷正美・池田安隆・佐藤
らかにし,また堀之内地区南部の 2 地点(HA-02,HA-03)
比呂志・島崎邦彦・宮内崇裕・柳 博美・石丸恒存
(1997)
地
で微動アレー探査により S 波速度構造を求めた.
層抜き取り調査とボーリング調査による糸静線活断層系・
2)神城“地震”断層をはさむ位相速度断面から地表変形
神城断層のスリップレートの検討.
活断層研究,
16,
35-43.
につながる低角度の断層構造が推定され,浅部の低速度の
石村大輔・岡田真介・丹羽雄一・遠田晋次(2015)2014年11月22日長野
湖成堆積物の変形構造が明らかになった.
県北部の地震
(Mw6.2)
によって出現した神城断層沿い
3)HA-02 と HA-03 間 の 速 度 層 は ほ ぼ 対 応 し て お
の地表地震断層の分布と性状.
活断層研究,
43,
95-108.
り,各速度層は西側の HA-02 に向かってより厚くなり,
地震調査研究推進本部地震調査委員会
(1996)
糸魚川-静岡構造
Vs=1,300m/sec の上面深度は,HA-02 で約 460m,HA-03
線活断層系の最近の断層活動,
地質調査所資料
(HP)
.
で約 380m と解析された.また,Vs=150 ~ 200m/sec 程
http://www.jishin.go.jp/main/chousa/katsudansou_pdf/41_42_44_itoigawa-
度の完新統の軟質層に相当する表層部の速度層は HA-02
shizuoka_trench.pdf#search=%27%E5%9C%B0%E8%B3%AA%E8%AA%BF%
が約 20m,HA-03 が約 10m であると解析された.Vs=500
E6%9F%BB%E6%89%80+%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D%EF%BC
~ 1,300m/sec 層は大峰累層あるいはそれより古い新第三
%8D%E9%9D%99%E5%B2%A1%E6%A7%8B%E9%80%A0%E7%B7%9A%27
紀層であると考えられる.
39
原山 智・小坂 共栄・棚瀬 充史・佐々木 孝雄・水落 幸広・南 雄一郎・宮澤 洋介・信州大学震動調査グループ
国土地理院
(2015)
だいち 2 号 SAR 干渉解析により捉えられた
澤 祥・東郷正美・今泉俊文・池田安隆・松多信尚
(1999)都市圏活
平成 26 年
(2014 年)
長野県北部の地震に伴う地殻変動
断層図
「白馬岳」
.
国土地理院技術資料D.1-No.368.
と地表変形.
信濃資料刊行会
(1973)
新編信濃史料叢書,第5巻,
小坂共栄・鬼頭一博・新井健司
(1979)
北部フォッサマグナ西縁部
鈴木康弘・渡辺満久・廣内大助
(2015)
長野県神城断層地震が提起
の第三系~第四系
(1)
-長野県姫川中流地域の第三系~
する活断層評価の問題,
Vol.85,
No.2,
175-181.
第四系の層序と構造-.
地質学論集,
16号,
169-182.
竹下欣宏・塚原弘昭・中村由克・富樫 均・近藤洋一・関 めぐみ・田
小坂共栄
(1991)
大峰帯の地質とそのフォッサマグナ発達史におけ
辺智隆・塩野敏昭・花岡邦明・宮下 忠・小林和宏・寺尾真
る意義.
信州大学理学部紀要,
26,
75-140.
純・中川知津子
(2015)
2014.11.22地震信州大学緊急調査
小坂共栄・信州大学震動調査グループ
(2015)
11.22地震被害の住民
報告書,
94-124.
.
信州大学山岳科学研究所.
アンケート調査の実施状況報告と地盤評価による
「揺れ
棚瀬充史・水落幸広
(2016)
微動アレー探査,
その特徴と展開.
地球
やすさマップ」
作成の提案.
2014.11.22地震信州大学緊急
科学
(投稿中)
.
調査報告書,
125-129,
信州大学山岳科学研究所.
津金達郎・信州大学震動調査グループ(2015)
11.22地震の震源分
松岡達郎・白石英孝
(2002)
関東平野の深部地下構造の精査を目的
布と地殻変動.
2014.11.22地震信州大学緊急調査報告書,
とした微動探査法の適用方法に関する検討-埼玉県南
1-6,
信州大学山岳科学研究所.
部地域の3次元S波速度構造の推定-,
物理探査,
Vol.55,
植木岳雪
(2000)
糸魚川-静岡構造線活断層系北部の活動開始時
127-143.
期-断層の東に分布する中期更新統の層序,
年代につい
松岡達郎
(2010)地球環境問題の解決に寄与する最新の物理探査
て-.
月刊地球,
22,
699-705.
技術-不特定の微振動を利用する微動探査法-.
応用物
理学会光波センシング技術研究会,
招待講演LST46-15.
松多信尚・池田安隆・今泉俊文・佐藤比呂志
(2001)
糸魚川-静岡構
造線活断層系を北部神城断層の浅部構造と平均すべり
速度
(浅部反射法地震探査とボーリングの結果)
,
活断層
研究,
20,
59-70.
松多信尚・池田安隆・佐藤比呂志・今泉俊文・東郷正美・柳 博美・
三ヶ田均・戸田 茂・堤・浩之・蔵下栄司・越信野田 賢・
加藤 一・平川一臣・八木浩司・宍倉正典・越後智雄・石川
達也・原口 強・萩野スミ子・新井慶将・河村知徳・田力正
好・加藤直子・井川 猛・神城反射法地震探査グループ
(2007)
糸魚川-静岡構造線活断層系神城断層の浅層お
よび極浅層反射法地震探査,
地震研究所彙報,
82,
25-35.
長野県
(2014)
長野県神城断層地震への対応について.
長野県公
HP.
( http://www.pref.nagano.lg.jp/bosai/kurashi/
shobo/saigai/1122jishin.html )
日本鉄道建設公団
(2003)微動探査法活用の手引き.
平成15年6月,
50p.
及川輝樹・和田 肇
(2004)
飛騨山脈北部の1Ma頃の急激な隆起-
居谷里層の礫組成を指標とし
北部フォッサマグナ西縁,
て-.
地質雑,
110,
9,
528-535.
岡田 広(2008)微動探査の現状と課題.
物理探査,
61:445-456.
岡田 広・松岡達郎・白石英孝・八戸昭一
(2003)微動アレー探査の
ための空間自己相関法:半円形アレーの適用について.
物理探査学会第109回学術講演会論文集,
183-186.
奥村晃史・井村隆介・今泉俊文・東郷正美・澤 祥・水野清秀・苅谷
愛彦・斉藤英二
(1998)
糸魚川-静岡構造線活断層系北部
の最近の断層活動,
地震,
50,
35-51.
40
市立大町山岳博物館研究紀要 1:41 ‐ 51(2016)
報 告
Reports
Bull. Omachi Alpine Museum.(1)
:41 ‐ 51(2016)
収蔵美術資料に描かれた山岳風景の同定
関 悟志 1)・西田 均 2)
1)2)
市立大町山岳博物館,〒 398−0002 長野県大町市大町 8056−1
Mountainscape Drawn on Artworks in the Omachi Alpine Museum
Satoshi SEKI1)and Hitoshi NISHIDA2)
1)2)
Omachi Alpine Museum, 8056-1, Omachi, Omachi City, Nagano Pref., 398-0002, JAPAN
市立大町山岳博物館が収蔵する美術資料の山岳風景画(山岳画)10 点について、山座同定を中心に描画風景と山岳風
景との同定を行い、作画モチーフとなった山岳風景および描いた地点を推定するに至ったので、その内容について詳述し
さんぱく
た。これは、2015(平成 27)年度に当館で開催した企画展「山岳風景画の世界 ―“山博”収蔵コレクション―」にともなっ
て実施した山岳画に関する現地調査等をもとにしたものである。
描かれた個々の山岳風景を詳細に確認することで、作画モチーフとしたと推定される実際の山岳風景が各作品の画面の
中に忠実に再現されていたことが示された。このような収蔵美術資料に関する情報はこれまで不足するものであったが、
今回の同定によって各資料情報を蓄積することができた。それにより、当館の収蔵資料のうち、山岳画という分野でのコ
レクション化が一層図れ、ひとつの資料群として資料価値を高めることにつながった。
キーワード:美術,山岳風景画(山岳画)
2 企画展の概要
1 はじめに
さんぱく
市立大町山岳博物館では、
「山岳風景画の世界 ―“山博”
本展では当館を含めた大町市が収蔵する美術資料のう
収蔵コレクション―」と題した企画展を 2015(平成 27)
ち、日本山岳画協会の創立会員や初期の会員を中心に明治
年度に実施した。企画展の実施にともない、大町市所蔵の
期以降の作家が描いた北アルプスなどの山岳風景画作品
山岳画に関する文献資料調査を実施する一方、2014(平成
16 点を展示した。あわせて山岳画家が愛用した登山道具
26)年には描かれた山岳画に関する現地調査を 2 つの山
を展示した1)。
域で行うなどして作画のモチーフとなった山岳風景を確認
それぞれの山岳画家たちが各々の山に対する思いを作品
し、山座同定を中心にして、描画風景と山岳風景の同定を
に込めて表現した山岳風景画が持つ世界観を、展示会場
行った。本稿ではその内容について報告する。
で観覧者に感じ取っていただきたいとの趣旨で企画を行っ
当館における収蔵美術資料に関する資料情報は、当該絵
た。併せて、本展を実施することによって、教育普及面の
画作品の資料整理用紙(資料登録カード)に記載された内
効果のほか、当館を含めた大町市が所蔵する美術資料のう
容および当該資料の作者に関する文献資料に記述された内
ち山岳風景画(山岳画)という分野でのコレクション化を
容が主たるものである。しかし、それら資料整理用紙の記
一層図り、ひとつの資料群として資料価値を高めたいとの
載内容は、作家名、作品名、制作年、技法・材質、寸法、
意図からの企画であった。
入手経路等を記すのみで、描かれた山岳風景に関する詳細
3 現地調査等の概要
な情報はこれまで記載されていなかった。各作品の描画風
景はそれぞれの作品名(画題)からおおむね推定できるが、
本展の実施に向けて大町市所蔵の山岳画に関する資料
実際にどこの山岳風景を描いたのかという詳細まで判別す
調査を実施した。この調査は文献調査を中心とする一方、
るには情報が乏しかった。今回、山座同定を中心に描画風
描かれた山岳画に関する現地調査を 2 つの山域で行い、作
景と山岳風景を同定することによって、各収蔵美術資料に
画のモチーフとなった山岳風景の現地の様子を確認して撮
関する資料情報を蓄積しようと試みた。
影記録し、当該作品に描かれた描画風景と比較することで
それらの同定を試みた。
41
関 悟志・西田 均
近から望む風景【写真 1-2 ①】に近いと推定する。作品の
なお、文献調査で確認した主要文献については、企画展
開催時に当館で編集・発行した解説書(図録) に掲載の
前景には笹であろうか一面のじゅうたんのような緑の中に
とおりである。
また、
それら文献調査から得た情報に関して、
栂の白い枯木が立ち、中景には柳の仲間であろうか広葉樹
作画当時のエピソードや描いた画家が持ち合わせていた山
の林から青々とした枝葉を茂らせた一段と背の高い栂とみ
2)
に対する思いなど作者自身が記した文章を中心にして解説
書に掲載してあるため、各作品制作の背景や作者の略歴・
人物像・逸話等に関する記述はここでは省く。
(1)調査内容・方法
当館で所蔵する美術資料 189 点(2015 年 3 月 31 日時点。
お たけ まさ み
3)
大町市出身の日本画家・尾竹 正躬関係資料 201 点除く)
のほか、大町市で保管する美術資料のうち、明治期以降の
作家による主に北アルプスなどの山岳を描いた山岳風景画
(山岳画)の展示作品 16 点の中から、調査場所に係る山域
において作品の作画モチーフとなったと推測される場所の
【写真 1-1 大下藤次郎「六月の穂高岳」
1907( 明治 40 )年水彩・紙31.0 × 48.0㎝( M8 号相当 )当館蔵】
4)
吊尾根
3,190m
に不足する写真については外部協力者から借用して同定に
方面→)
岳沢
奥穂高岳
ジャン ダ ルム
2,908.8m
ロバの 耳
2,907m
天 狗 のコル
なった場所の風景が写るものを同定に用いた。また、手元
天狗岩
過去に撮影して保管する写真の中から、作画モチーフと
間ノ岳
西穂高岳
調査対象作品以外の展示作品については、当館職員が
用いた。
4 描かれた山岳風景(描画風景)の同定
ここでは、前述の企画展で展示した作品 16 点5)のうち、
峰や稜線・尾根等の山岳風景が描き込まれた作品の中から、
海外の山々を除き、北アルプス山域の山々を描いた作品 10
点について、作品の写真、作画モチーフと推測される山岳
風景の写真とその撮影場所を示した位置図をそれぞれ挙
げ、画面内の描画風景と実際の山岳風景との同定を行う。
なお、作画モチーフと推測される山岳風景の写真につい
【写真 1-2 ① 撮影場所:梓川・岳沢出合付近(梓川右岸)】
3,190m
(1)大下藤次郎「六月の穂高岳」
この作品【写真 1-1】に描かれた山岳風景(描画風景)は、
梓川・岳沢出合付近(岳沢湿原付近)から望む穂高連峰
である。
画面奥、中央やや右寄りに描かれた山は奥穂高岳で、そ
の下方の谷は岳沢である。奥穂高岳の左側にはジャンダル
ムなどの岩峰を経て間ノ岳と西穂高岳が連なる。一方、右
側には前穂高岳山頂(画面には描かれていない)に至る吊
尾根が延びる。
このような山容は、現在の梓川・岳沢出合、梓川右岸付
【写真 1-2 ② 撮影場所:岳沢湿原付近】
42
3,090.5m
明神岳Ⅱ峰
吊尾根
奥穂高岳
ジャン ダ ルム
て挙げた写真の撮影場所、
赤色の矢印は写した方向を示す。
ロバの 耳
にある赤色の丸点は作画モチーフと推測する山岳風景とし
天 狗 のコル
天狗岩
ものとは限らない。なお、山岳風景の位置を示した地形図
前穂高岳
ては作品に描かれた画面と必ずしも同一の風景を撮影した
(主峰は2,931m)
(前穂高岳
山岳風景を確認の上、写真撮影して記録した 。
収蔵美術資料に描かれた山岳風景の同定
の中では、これらの作品を描いた当時の状況を次のように
も記している。
橋を渡り、
宿近くの笹原から、
雪の穂高を写し始めた。
暮れゆ
く空の感じもよい、麓に立てる枯木の白きもよく調和する。
(中略)前々日の半成なりし、
橋手前の写生を続け、
薄暮宿へ
帰つた。
[大下藤次郎/近藤信行編『大下藤次郎紀行文集』
(美術出
7)
版社、
1986 年)所収]
この記述にある「宿近くの笹原」の「宿」とは、現在の
上高地温泉ホテルの前身にあたる宿である。藤次郎らが滞
在した上高地温泉の宿は、もとは江戸時代後期の 1830(文
かみくち
政 13)年に上口湯屋として開設されたもので、上高地で最
初に一般向けに営業がはじめられた宿屋である。現在は河
童橋周辺などにいくつかの宿泊施設があるが、藤次郎らの
来訪当時はこの宿が上高地で唯一の営業宿であった。
「橋」
とは、宿から梓川沿いに上流へ進んだあたりにかけられた
橋、現在の河童橋(当時は刎橋)のことであろう。この日、
【図 1 写真 1-2 撮影場所の位置】
※この地図は、国土地理院の電子地形図(タイル)を使用し、地点表示等を加えて作成したものである。
藤次郎は宿から徳本峠へ写生に出掛けており、帰路は明神
方面から梓川左岸を下流側へ歩き、河童橋を渡って梓川右
岸側の宿付近へ戻ったと考えられる。
「前々日の半成なりし、
られる針葉樹がところどころ頭を伸ばしている。こうした
橋手前の写生を続け」とあることから、中途であった 2 日
周辺の樹木等の様子は 100 余年前の作画当時からは変化
前の写生の続きを宿から見て河童橋の手前、つまり梓川右
していると考えられるが、現在、この付近から作品の前景・
岸で行ったものと考えられる。
中景に描かれたような立木越しに穂高連峰をかろうじて見
上高地の風景を描いた藤次郎の作品は、ここに挙げたほ
通せる場所は岳沢湿原付近
【写真 1-2 ②】
であった。ただし、
かにも現存する。それらの一部について、桝田(2014)は、
これは湿原内に設置された木道上からに限ってのことであ
見えるままの風景を単純に模して描き写したというより、
り、作品と同様の風景を望める詳細な地点を特定するには
いくつかの写生を組み合わせてひとつの画面に描くことで、
至らなかった。そのため、ここでは参考として前述の 2 ヶ
藤次郎が感じた上高地に対する印象をまとめ上げ、上高地
所で撮影した写真を挙げる。
における特徴的な自然景観を表現している可能性があるこ
この作品を制作した年に作者・大下藤次郎自身が記した
とを指摘している8)。当館所蔵の藤次郎の作品については、
紀行文「口繪穗高山殘雪寫生の旅行談及び所感」
『山岳』
前掲のとおり「勉めて主觀を避け、たゞ見ゆるが儘を正直
第 2 年第 3 號
(山岳會事務所、
1907 年)
には次のようにある。
に寫せしものなり」と作者自身が述べていることから、複
より
口繪は、前記梓川の岸ゟ 見たる穗高山の一部にして七月
十八日及二十日の二回、
午後四時頃より七時頃迄寫生せしも
の、殘雪の形状及色彩につき後の參考に供せん心組なりし
まま
を以て、
勉めて主觀を避け、
たゞ見ゆるが儘を正直に寫せし
ものなり(後略)6)
数の写生を組み合わせて一画面に構成したものではなく、
実際の景観を忠実に写生したものと考えられる。
(2)茨木猪之吉「穂高 涸沢 池の平」
つまり、藤次郎いわく、1907(明治 40)年 7 月 18 日と
この作品【写真 2-1】に描かれた山岳風景は、涸沢・池
20 日の両日、午後 4 時から 7 時頃まで梓川岸で穂高連峰
の平から望む穂高連峰である。
の一部を写生し、なるべく主観を除いてただ見えるまま素
画面中央奥に北穂高岳、その左側には北穂高岳山頂へ
直に描いたのがこの作品であるという。
の登山路がつく南稜が屹立し、反対の右側には「ゴジラの
この作品は前掲同書『山岳』の口絵を飾り、
そこでは「穂
背」とも呼ばれる峨々とした東稜が描かれている。作品の
高山の残雪」と題されている。この作品のほかに、同じ年
作者が画脚を立てた場所は画題にあるとおり、国内有数の
に制作されたほぼ同じ構図の作品「穂高山の残雪」
(1907
氷河圏谷である涸沢カール上、現在の涸沢ヒュッテのヘリ
年 水彩・紙 22.2 × 33.2㎝ 島根県立石見美術館蔵)が残さ
ポート付近にある池の平周辺【写真 2-2】と推定する。池
れている。
の平いう名は残雪が消え去った後、毎年秋になってこの場
藤次郎の上高地訪問から 2 年後、1909(明治 42)年発
所に姿を現わす「涸沢ノ池」という小さな池にちなむ。
行の
『みずえ』
52 号に収録された自身の紀行文
「穂高山の麓」
43
関 悟志・西田 均
【写真 2-1 茨木猪之吉「穂高 涸沢 池の平」
1943( 昭和 18 )年 油彩・キャンバス 38.0 × 45.5㎝( F8 号 ) 当館
蔵】
北穂東稜
北穂高岳
北穂南稜
涸沢槍
涸沢岳
方面←
白 出 のコル
奥穂高岳
【図 2 写真 2-2 撮影場所の位置】
※この地図は、国土地理院の電子地形図(タイル)を使用し、地点表示等を加えて作成したものである。
3,106m
西方周辺から望む立山連峰である。
前景となるハイマツと残雪の斜面の奥、白く淡い雲が湧
きあがる中に、雄山・大汝山・富士ノ折立の三峰からなる
立山が谷筋に残雪をまとった姿で重厚感をもって描かれて
いる。
【写真 3-2】の撮影場所は室堂平であるが、作品に描
かれた稜線や尾根、前景となっている斜面の様子からする
と、描いた地点は室堂平の西方、浄土山周辺であると推定
する。
【写真 3-2 撮影場所:室堂平】
44
浄土山
この作品【写真 3-1】に描かれた山岳風景は、室堂平の
方面→
2,999m
3,003m
一ノ 越
3,015m
雄山
大汝山
(3)中村清太郎「立山残雪」
富士ノ折立
真砂岳
別山
方面←
【写真 2-2 撮影場所:涸沢・池の平〈涸沢ノ池付近〉】
(立山)
【写真 3-1 中村清太郎「立山残雪」
制作年不詳 油彩・キャンバス 65.0 × 80.5㎝( F25 号 )当館蔵】
収蔵美術資料に描かれた山岳風景の同定
【図 3 写真 3-2 撮影場所の位置】
※この地図は、国土地理院の電子地形図(タイル)を使用し、地点表示等を加えて作成したものである。
【図 4 写真 4-2 撮影場所の位置】
※この地図は、国土地理院の電子地形図(タイル)を使用し、地点表示等を加えて作成したものである。
(4)足立源一郎「日暈 西鎌尾根にて」
和 21)年 7 月 29 日に記された作者・足立源一郎の日記は
次のようにある。
この作品【写真 4-1】に描かれた山岳風景は、槍ヶ岳西
鎌尾根から望む槍ヶ岳である。画面に描かれたのは槍ヶ岳
西鎌尾根、
中崎山出合まで下りて槍を写す。
微雲出づと見る
間に槍の直上にかゝりし太陽に暈かゝりて見事なり。後、
霧
となる。
台風の余波ならん。
9)
[足立朗編『画家 足立源一郎の記録』
(三好企画、
2002 年)
]
西鎌尾根から望む槍ヶ岳山頂付近、いわゆる槍の穂先部
分で、白い薄雲が棚引く真っ青な上空に向かって険しい峰
をそびえ立たせた大槍と小槍。そして、その上に現われた
作品はこのときの取材によるものと考えられ、日記によ
ひ がさ
日暈。日暈とは、高い空に浮いた巻層雲という薄い雲の中
ると描いた地点は中崎山出合ということになる。源一郎が
にある氷の結晶に太陽の光が当たり、屈折や反射によって
記した中崎山出合とは、槍ヶ岳西鎌尾根の千丈沢乗越付
太陽の周りに虹色の光の環ができる現象をいい、日暈が現
近から南西方向に派生した尾根(奥丸山を経て中崎山へ
われると天気が下り坂になるという観天望気が知られる。
至る中崎尾根に続く)の分岐点のことである。
【写真 4-2】の撮影場所は槍ヶ岳山荘付近、穂高連峰へ
大
槍
槍
ヶ
岳
(
孫
槍
)
P
(
曾
孫
槍
)
小
槍
尾根で描かれている。作品制作の前年にあたる 1946(昭
至る稜線上であるが、画題にあるように作品は槍ヶ岳西鎌
↙ )
↘ 【写真 4-1 足立源一郎「日暈 西鎌尾根にて」
1947
( 昭和 22 )
年 油彩・キャンバス 45.3 × 52.7㎝( F10 号 )当館蔵】
)
【写真 4-2 撮影場所:槍ヶ岳山荘付近】
45
↑
)
(
穂
高
連
峰
方
面
(
東
鎌
尾
根
方
面
(
西
鎌
尾
根
方
面
関 悟志・西田 均
なお、
「日暈」と題された足立源一郎の作品はほかにも
ある。当館所蔵の作品と同じく 1947(昭和 22)年に制作
された作品「槍ヶ岳 日暈」
(油彩・キャンバス 34.9 × 27.4㎝
個人蔵・2001 年長野県信濃美術館展示)である。当館の
所蔵作品とほぼ同様の構図であるが、こちらの作品には太
陽自体が描き込まれている。構図や画題に若干の違いはあ
るが、この作品も当館所蔵の作品と同じくして取材された
ものであろう。
(5)足立源一郎「北穂高と前穂高 槍東鎌尾根にて」
この作品【写真 5-1】に描かれた山岳風景は、槍ヶ岳東
鎌尾根から望む穂高連峰である。画面右手に描かれた峰
は北穂高岳で、画面左手奥の峰は山頂から左側に北尾根
を延ばした前穂高岳である。槍ヶ岳東鎌尾根からは、これ
ら二座を有する周辺の稜線に対して正面から対峙して眺め
る形ではなく、横斜め方向から眺める形となるため、本来
【図 5 写真 5-2 撮影場所の位置】
※この地図は、国土地理院の電子地形図(タイル)を使用し、地点表示等を加えて作成したものである。
は両峰の間に連なる涸沢岳を見ることはできない。画面手
前の谷は槍沢、その奥には横尾尾根が延び、さらにその奥
に見える北穂高岳と前穂高岳とを隔てる谷は涸沢である。
【写真 5-2】の撮影場所はヒュッテ大槍付近であるが、描か
れた山容や前景・中景の様子から、描いた地点はわずかに
東方へ行った槍ヶ岳東鎌尾根付近と推定する。
(6)足立源一郎「劔嶽 鶴ヶ御前にて」
この作品【写真 6-1】に描かれた山岳風景は、鶴ヶ御前
こと剱御前山(標高 2,776.8m)から望む剱岳である。
【写真 5-1 足立源一郎「北穂高と前穂高 槍東鎌尾根にて」
制作年不詳 油彩・キャンバス 45.5 × 53.0㎝( F10 号 )当館蔵】
奥
穂
高
岳
P
P
P
山容がほぼ一致することから、写真の撮影場所と同様に作
南
岳
品を描いた地点も剱御前山山頂付近であると推定する。
北
穂
高
岳
P
前
穂
高
岳
前
穂
北
尾
根
現地の山岳風景と作品の描画風景を比較すると、両者の
涸
沢
方
面
横
尾
本
谷
右
俣
槍
沢
【写真 6-1 足立源一郎「劔嶽 鶴ヶ御前にて」
1959( 昭和 34 )年 油彩・キャンバス 27.0 × 35.0㎝( F5 号 )当館蔵】
【写真 5-2 撮影場所:ヒュッテ大槍付近】
46
収蔵美術資料に描かれた山岳風景の同定
P
八
ッ
峰
P
剱
岳
前
剱
早
尾月
根
【写真 7-1 山川勇一郎「穂高山塊」
制作年不詳 油彩・キャンバス 45.7 × 72.8㎝( M20 号 )当館蔵】
間
ノ
岳
P
西
穂
高
岳
大切戸
南岳P
P
天天
狗狗
の岩
コ
ル
P
ロジ
バャ
のン
耳ダ
ル
ム
奥
穂
高
岳
P
北
穂
高
岳
【写真 6-2 撮影場所:剱御前山山頂付近】
前
穂
高
岳
前
穂
北
尾
根
P
中岳P
【写真 7-2 撮影場所:槍ヶ岳山頂】
【図 6 写真 6-2 撮影場所の位置】
※この地図は、国土地理院の電子地形図(タイル)を使用し、地点表示等を加えて作成したものである。
(7)山川勇一郎「穂高山塊」
この作品【写真 7-1】に描かれた山岳風景は、槍ヶ岳か
ら穂高連峰へ至る稜線上から望む穂高連峰方面の山々で
ある。
【図 7 写真 7-2 撮影場所の位置】
※この地図は、国土地理院の電子地形図(タイル)を使用し、地点表示等を加えて作成したものである。
画面には槍ヶ岳から中岳へ至る稜線上、大喰岳付近から
穂高連峰の方面が描かれている。画面手前、右手は大喰
岳付近の稜線で、峰づたいに画面左手へ目を移すと、中央
とその右手へ続くロバの耳とジャンダルムといった特徴的
には中岳、その左手に南岳が連なる。そこから大切戸で隔
な姿の岩峰が描かれる。
【写真 7-2】の撮影場所は槍ヶ岳山頂であるが、作品の山
たれ、画面奥に描かれる峰々は前景の稜線とは色合いを異
容からすると描いた地点は大喰岳付近と推定する。
にして描かれ、遠近感を強調している。画面奥の左側から、
北尾根を左手へ延ばした前穂高岳、北穂高岳、奥穂高岳
47
関 悟志・西田 均
(8)山川勇一郎「田代池」
この作品【写真 8-1】に描かれた山岳風景は、上高地の
【図 8 写真 8-2 撮影場所の位置】
※この地図は、国土地理院の電子地形図(タイル)を使用し、地点表示等を加えて作成したものである。
田代池から望む奥穂高岳である。
前景には鏡のような水面を有した田代池とその周辺の緑
や木々が描かれ、中景には背高い針葉樹がすらりと立ち並
【写真 8-1 山川勇一郎「田代池」
制作年不詳 油彩・板 27.3 × 22.0㎝( F3 号 )当館蔵】
奥
穂
高
岳
い)方面へと続く。一方、左にはロバの耳、ジャンダルム、
↑
)
かれており、木道以外に一般者が足を踏み入れることは規
そして天狗のコル、天狗岩が連なって描かれ、稜線は西穂
方
面
高岳山頂(画面には描かれていない)方面へと続く。
現在、田代池周辺の湿原には植生保護のため木道が敷
P
(
前
吊穂
尾
根高
岳
ロ
バ
の
耳
ジ
ャ
ン
ダ
ル
ム
尾根が延び、稜線は前穂高岳山頂(画面には描かれていな
天
狗
の
コ
ル
(
西
穂天
狗
方高 岩
面岳
↓
)
ぶ。画面奥、中央に描かれたのは奥穂高岳、その右には吊
制されている。
【写真 8-2】は木道上から撮影したものであ
るが、作品の山容とほぼ同様に奥穂高岳周辺の山々が写り、
かつ手前に写る樹木の様子も作品の景観と類似することか
ら、描いた地点もこの付近周辺であると推定する。
(9)山川勇一郎「大正池の奥穂」
この作品【写真 9-1】に描かれた山岳風景は、上高地の
大正池から望む穂高連峰である。
前景に描かれたのは画題にあるとおり大正池で、枯木が
立つ池の水面を越し、新緑の木々が茂った様子の中景を経
て、画面中央、草付きの斜面に白っぽく S 字形の沢筋が浮
かび上がる谷は岳沢である。画面奥の右手から、明神岳Ⅱ
峰にはじまり、前穂高岳と吊尾根で結ばれた奥穂高岳、ジャ
ンダルムなどの岩峰が連なり、間ノ岳までが描かれている。
【写真 9-2】の撮影場所は大正池の東岸北寄りであるが、
現地の山岳風景と作品の描画風景を比較すると、両者の山
容や水辺の景観がほぼ一致することから、作品を描いた場
所もこの地点付近であると推定する。
【写真 8-2 撮影場所:田代池付近】
48
収蔵美術資料に描かれた山岳風景の同定
(10)足立真一郎「夏の栂池高原」
この作品【写真 10-1】に描かれた山岳風景は、栂池湿原
である。
画面左上に描かれた、緑鮮やかな湿原に建つ建物は旧栂
ひよどり
池ヒュッテ。画面奥、緑に覆われたなだらかな山地は鵯 峰
周辺の峰々である。
【写真 10-2】の撮影場所は栂池自然園(標高 1,860m ~
2,020m 付近)の出入口寄りにある、
現在「みずばしょう湿原」
と名付けられた一画の南側の木道上である。作品制作以後
30 年程という時間経過によって植生の様子に多少の違いは
見られるが、現地の湿原風景と作品の描画風景を比較する
と、両者の風景がほぼ一致することから、作品を描いた場
【写真 9-1 山川勇一郎「大正池の奥穂」
制作年不詳 油彩・キャンバス 31.8 × 41.0㎝( F6 号 )当館蔵】
岳
沢
吊
尾
根
前
穂
高
岳
明
神
岳
Ⅱ
峰
P
(主峰は P)
P
奥
穂
高
岳
ジロ
ャバ
ンの
ダ耳
ル
ム
天天
狗狗
岩の
コ
ル
P
間
ノ
岳
所もこの地点付近であると推定する。
【写真 9-2 撮影場所:大正池東岸】
【写真 10-1 足立真一郎「夏の栂池高原」
1986( 昭和 61 )年 油彩・キャンバス 130.0 × 160.0㎝( F100 号 )当館
蔵】
49
P
)
【写真 10-2 撮影場所:栂池自然園】
【図 9 写真 9-2 撮影場所の位置】
※この地図は、国土地理院の電子地形図(タイル)を使用し、地点表示等を加えて作成したものである。
(
ひ
鵯 よどり
峰
(
旧 栂
ヒ栂 池
ュ池 ヒ
ッ 記ュ
テ 念ッ
) 館テ
関 悟志・西田 均
そこでは清太郎いわく、山岳画を描くには山を敬い愛す心
持がなければならないとし、山岳画が対象とするモチーフ
は山のみではなく、有形無形にかかわらず山に関する全て
の物事を含むべきであるとしている。また、
「山岳画」とい
うものを「風景画」の一種と見なしても、主題とする山に
は特別な存在感があると特徴づけ、それこそに日本人なら
ではの美意識によった作画活動があるとし、今後の活動領
域の広がりを探っている。
今回、描画風景と山岳風景を同定した作品数は当館所蔵
の美術資料全体の点数からするとごくわずかではあるが、
収蔵美術資料に関する資料情報を蓄積することができた。
こうした試みを積み重ねることで、各分野・各資料での体
系的な資料群(コレクション)化を図り、それぞれの資料
群ごとに資料価値を一層高めていきたい。
謝 辞
本稿をまとめるにあたり、長野県山岳総合センターの皆
【図 10 写真 10-2 撮影場所の位置】
※この地図は、国土地理院の電子地形図(タイル)を使用し、地点表示等を加えて作成したものである。
様から多大なご教示を賜わりました。心より深く感謝の意
を表すとともに、厚くお礼申し上げます。
5 むすびに
注記・引用文献
本稿では、まず第 2・3 章で市立大町山岳博物館が 2015
(平成 27)年度に開催した企画展「山岳風景画の世界 ―
1)企画展の内容については次のとおり。
名称:「山岳風景画の世界 ―“山博”収蔵コレクション―」
会期:2015(平成 27)年 7 月 18 日~ 10 月 12 日
会場:市立大町山岳博物館 特別展示室
主催:市立大町山岳博物館
展示構成:本展では、当館を含めた大町市が収蔵する美術資
料のうち、明治期から現代までの作家による主に北アルプ
スなどの山岳を描いた風景画をテーマに定め、山岳風景画の
体系的な資料群(コレクション)を形成し、その一部で展示
を構成した。なお、ここでとりあげたのは、日本山岳画協会
に所属経験のある物故作家の作品を中心にした。展示は「Ⅰ
当館・大町市収蔵の山岳風景画コレクション」「Ⅱ 山岳画家
が愛用した登山道具」の各項目で行った。
2)企画展の展示解説書(図録)
:市立大町山岳博物館編『平
成 27 年度市立大町山岳博物館企画展 山岳風景画の世界 ―
“山博”収蔵コレクション―』
(市立大町山岳博物館、2015 年)
3)当館所蔵の美術資料の内訳については、現在、当館公式ウェ
ブサイト(URL:http://www.omachi - sanpaku.com)上、
「山
博について」内において公開中の「人文科学系収蔵資料目録」
(PDF データ)にあるとおり。
4)現地調査の詳細については次のとおり。
調査山域 1:立山方面(室堂、剱・立山連峰)
期日:2014(平成 26)年 7 月 22 日・23 日・24 日
対象作品:中村清太郎「立山残雪」、足立源一郎「劔嶽 鶴ヶ
御前にて」
調査者:関悟志、清水隆寿(市立大町山岳博物館学芸員)
調査山域 2:上高地方面(上高地、穂高連峰)
期日:2014(平成 26)年 9 月 30 日・10 月 1 日・2 日
対象作品:山川勇一郎「大正池の奥穂」「田代池」、大下藤次
郎「六月の穂高岳」、茨木猪之吉「穂高 涸沢 池の平」
調査者:関悟志、清水隆寿(市立大町山岳博物館学芸員)
5)企画展展示作品 16 点の内訳は次のとおり。
大下藤次郎「六月の穂高岳」1907(明治 40)年 水彩・紙
31.0 × 48.0㎝ 当館蔵
さん ぱく
“山博”収蔵コレクション―」と、その開催にともなって実
施した山岳画に関する現地調査等の概要についてふれた。
そして、第 4 章では当館の収蔵美術資料である山岳風景
画(山岳画)10 点について、山座同定を中心に描かれた
山岳風景(描画風景)と実際の山岳風景とを同定し、それ
ぞれ作画のモチーフとなった具体的な山岳風景および描い
た地点を推定するに至った。
ここで取りあげた各作品は、描いた作者ごとあるいは同
一作者であっても作品ごとにそれぞれ特徴があり、作品
から伝わってくる雰囲気も異なるが、各作品を同定する中
で描かれた個々の山岳風景をつぶさに見ていくと作画のモ
チーフとした実際の山岳風景が画面の中に忠実に再現され
ていたことが示された。しかし、それらの作品は、単に山
岳風景の一部を切り取るように模して写し描いたというの
ではなく、各々が山あるいは自然に真摯に向き合い、そこ
から感じ得た山や自然に対する思いを込めてひとつの作品
の中に表現したものであると考えられる。このような、山
を描いた画家たちが携える心持や作画対象への意識につ
いては、
1936(昭和 11)年に「好んで山を描く画家の集団」
として立ち上げられた日本山岳画協会の創立に際し、創立
会員のひとりである中村清太郎が記した「日本山岳畫協會
の創立に就て」
[日本山岳會編『會報』55 號(日本山岳會、
1936 年)
]10)という一文からうかがい知ることができる。
50
収蔵美術資料に描かれた山岳風景の同定
吉田博「日本アルプス十二題の内 黒部川」1992(平成 4)年
※ 木版多色・紙 38.5 × 26.5㎝ 大町市常盤公民館蔵 ※初版
の制作発表は 1926(大正 15)年
茨木猪之吉「穂高 涸沢 池の平」1943(昭和 18)年 油彩・キ
ャンバス 38.0 × 45.5㎝ 当館蔵
中村清太郎「立山残雪」制作年不詳 油彩・キャンバス 65.0 ×
80.5㎝ 当館蔵
中村清太郎「ハイマツ」制作年不詳 油彩・キャンバス 33.5 ×
45.5㎝ 当館蔵
中村清太郎「エーデルワイス」制作年不詳 油彩・板 34.0 ×
25.0㎝ 当館蔵
足立源一郎「日暈 西鎌尾根にて」1947(昭和 22)年 油彩・
キャンバス 45.3 × 52.7㎝ 当館蔵
足立源一郎「北穂高と前穂高 槍東鎌尾根にて」制作年不詳
油彩・キャンバス 45.5 × 53.0㎝ 当館蔵
足立源一郎「劔嶽 鶴ヶ御前にて」1959(昭和 34)年 油彩・
キャンバス 27.0 × 35.0㎝ 当館蔵
山川勇一郎「穂高山塊」制作年不詳 油彩・キャンバス 45.7 ×
72.8㎝ 当館蔵
山川勇一郎「田代池」制作年不詳 油彩・板 27.3 × 22.0㎝ 当
館蔵
山川勇一郎「大正池の奥穂」制作年不詳 油彩・キャンバス 31.8
× 41.0㎝ 当館蔵
畦地梅太郎「鳥のすむ森」1975(昭和 50)年 木版多色・紙
39.0 × 29.0㎝ 当館蔵
足立真一郎「夏の栂池高原」1986(昭和 61)年 油彩・キャンバ
ス 130.0 × 160.0㎝ 当館蔵
藤江幾太郎「ヒマラヤの山村」1987(昭和 62)年 油彩・キャン
バス 162.1 × 130.3㎝ 当館蔵
牧潤一「暁のマッターホルン」1994(平成 6)年 油彩・キャンバ
ス 162.1 × 112.1㎝ 当館蔵
6)大下藤次郎「口繪穗高山殘雪寫生の旅行談及び所感」
『山岳』
第 2 年第 3 號(山岳會事務所、1907 年)139 - 142 頁
掲載した引用文の原文には一部を除いて全てに強調を意味す
る丸印による傍点が打たれている。なお、文中に付した振り
仮名は筆者による。
7)大下藤次郎「穂高山の麓」大下藤次郎/近藤信行編『大
下藤次郎紀行文集』
(美術出版社、1986 年)210 - 223 頁 所収 初出は『みづゑ』52 号(1909 年)
8)桝田倫広「大下藤次郎の立つところ ― 一〇〇年前の《穂
高山の麓》を探して―」東京国立近代美術館・美術出版社編『現
代の眼』608 号(東京国立近代美術館、2014 年)14 - 16 頁
9)足立朗編『画家 足立源一郎の記録』
(三好企画、2002 年)
495 頁
10)中村清太郎「日本山岳畫協會の創立に就て」日本山岳會編
『會報』55 號(日本山岳會、1936 年)1 - 2 頁
51
市立大町山岳博物館研究紀要 1:53 ‐ 62(2016)
報 告
Reports
Bull. Omachi Alpine Museum.(1)
:53 ‐ 62(2016)
北安曇地域に残された仏像
―北アルプス山麓の人々に信仰された仏像からみた仏教信仰の変容―
清水 隆寿
市立大町山岳博物館,〒 398−0002 長野県大町市大町 8056−1
Statue of the Buddha Left in the Kitaazumi Region: Changes in Buddhism compared
to Buddhists statues worshiped at the base of the Northern Alps
Koji SHIMIZU
Omachi Alpine Museum, 8056-1, Omachi, Omachi City, Nagano Pref., 398-0002, JAPAN
本稿では、古代から江戸時代以前の北安曇地域(大町市及び北安曇郡)に残された仏教信仰の対象となった仏像につい
て、当該地域の仏像の研究史を踏まえて集成・編年化するとともに、集成された北安曇地方に残された仏像を足掛かりに、
中世に当地域を統治した仁科氏の創始と庄園の開始時期について推定を行うとともに、当該地域の古代から江戸時代以前
の時代による様式の変化や仏像制作に関わる地域的特徴を述べる。
キーワード:北安曇, 仏像, 仏教信仰, 仁科氏
1 はじめに
安曇・大町市寺院堂宇佛像写真集』をはじめとした写真及
び解説資料を参考に確認を行った。(注 1)
本稿では、現在の行政区分である長野県大町市及び北
安曇郡を総称した北安曇地域を調査対象地として、当該地
以下、北安曇地域を平成 18 年の合併以前の旧市町村別
域に現存する仏教が伝来した飛鳥時代から江戸時代以前
に、検討を行った結果について概要を記載することとした
の各村落において開創された堂宇や寺院が所蔵する仏像
い。本来ならば個別の実測値や所見など、一つひとつ記載
及び神仏混交の時代に神社に遺存された御正体に付いて、
し検討するべきところであるが、これについては今後「北
古代から江戸時代以前の仏像を集成し、編年表を作成する
安曇地域の仏像」としてデータベース化して公開していく
ことを第 1 の目的とした。すなわちここで取り扱う史料は、
ことを考えているので、この点に関してはそちらの機会に
個人が所蔵する仏像は除外し、集落や共同体など公共財
譲ることとした。
的なものに限って調査を実施した。当然、過去にこの地域
また本稿では、北安曇地域に残された飛鳥時代から江戸
で制作された仏像は、現存する数を遥かに上回るものが存
時代以前に制作された仏像について、遺された仏像を頼り
在したであろうことは容易に想像されることであり、火災
に当該地域の仏像の様式の変遷やその特徴、変化や変容
や震災により煙滅したもの、時の行政施策である廃仏毀釈
について、あるいは仏像という視点からこの地域の歴史的
などにより廃寺となって現在は個人所有となっているもの
背景について、暫定的ながらも若干の考察を加えることに
などが多々存在していることを承知しているが、今回はこ
より、今後の課題を抽出することを第 2 の目的とした。
北安曇地域は人口も少なく、各自治体独自ではどの分野
れについては取り扱わないこととした。
においても専門家と言われる人が少ないのが現状である。
また当該地域におけるこうした歴史的・文化財的な価値
を有する仏像については、これまでにも各市町村誌の編纂
ある程度地理的範囲を広げ、各地域の研究者が連携すると
の折に、その仏像の持つ歴史的な意義や個別的な所見など
ともに、一方で広範に亘る住民が当地域全体に敷衍する課
が紹介される機会があった。同様に各市町村が出版した文
題であることを認識し、共通の課題として今後他の文化財
化財全般に亘る編纂物の紹介記事の中で仏像の個別的な
に関しても保護のために取り組んでいかなければならない
紹介が見られたが、今回の執筆の機会に際して、あらため
という思いを込め、対象地域を北安曇地域と定めたのはそ
て当該地域の堂宇、寺院において実見あるいは実測など行
うした意図があってのことである。小稿が、私たちの故郷
い制作年代等の確認作業を実施した。また日程的に実見が
に残された仏像を手がかりに、あらためて郷土を見つめ直
叶わなかった史料については、長野県大北仏教会編の『北
し、先人の残された歴史的な文化財について関心を深め、
53
清水 隆寿
拝見したところ、近世の作と推定され、中世に遡る仏像
地域全体で保存に取り組んでいかれる契機となれば幸いで
は当寺には現存していない。
ある。
旧中谷村の西水山神宮寺は、大宮諏訪神社の神宮寺とし
2 小谷村の中世以前の仏像
て開創された真言宗寺院として知られるが、その時期は不
小谷村には現在、四つの寺院が法灯を護っている。その
明である。
「信府統記」によれば、高野山遍照光院末寺で
いずれもが中世の開創に遡る寺院であることが寺伝や古文
あり、仁科盛家の室・仏母尼による建暦元年(1211)の遍
書から推測されている。(注 2)四寺院とは、源長寺(千国・
照光院建立の時期と照らし合わせれば鎌倉時代以降の建
曹洞宗)、玉泉寺(中谷・曹洞宗)、神宮寺(中谷・真言宗
立と推察される。
「大町組神社仏閣帳」
(1740)によると「本
遍照光院末寺)、常法寺(来馬・曹洞宗)である。またこれ
尊薬師 丈壱尺弐寸 立像」とあり、現在の神宮寺の本
らの寺院の他、天正八年(1580)四月二十日付で武田勝頼
尊が江戸時代初期の木造大日如来坐像であることから、こ
が倉科朝軌に対して領地を安堵した安堵状の文面から推
の間何らかの事情により本尊が替わったことがわかる。現
測すると、他にもいくつか中世以前の創建に遡る寺院の存
在同寺は明治維新の廃仏毀釈により廃寺となった後、明治
在が推測できる。伝承によると現在の源長寺の前身として、
十三年に京都智積院末寺に属し、今は高野山金剛峯寺の
対岸の姫川を挟んだ黒川地籍には、玄長寺あるいは長玄寺
末寺として法灯を護持している。いずれにせよ中世まで遡
とする寺があったほか、常法寺の前身に薬師院という寺院
る歴史を誇る寺院ではあるが、当該時期の仏像は存在しな
を想定できる。また現在土谷地区には寺院は存在しないが、
い。
北小谷旧来馬村の鬼来山常法寺は、慶安三年(1650)の
この地にも寺名は不明であるが中世において寺院の存在が
宗門改帳によれば「禅宗薬師院」とあり、江戸時代明暦三
伺える。
年(1657)に大町霊松寺十五世国安道播和尚により再興さ
先ず旧千国村の慈眼山源長寺は、寺伝及び「霊松寺記」
をもとに推測すると、もと真言宗の密教寺院であり、戦国
れ、名を常法寺と改めたとされる。ちなみに現在、常法寺
時代末に霊松寺八代大運宗広和尚によって現在の位置に
は釈迦如来坐像を本尊とするが、当該像は江戸時代中期の
再興されたと思料される。
「霊松寺記」によれば「本尊千
制作である。本尊とは別に常法寺には、一光三尊形式の善
手観音寺先々ヨリ之小仏也」とあり、元文五年(1740)の
光寺式銅造阿弥陀如来及両脇持立像がある。倉田文作氏
「大町組神社仏閣帳」(大町市浅野文書)には源長寺本尊
によると南北朝時代の所産とされたが、その後の類例の増
について、
「千手観音新仏丈一尺六寸座像」とあることより、
加により、鎌倉時代後期の作例とされている。中尊は右手
寺伝にある貞享四年(1687)の伽藍焼失後に、新たな堂宇
を「与願印」に、左手を「刀印」の形をとり、脇侍の観音
の建立と併せ、
「新仏」と記載された千手観音を入手した
菩薩、
勢至菩薩はともに「梵篋印」とし臼型の台座に乗るが、
ことが推測される。そうした経緯からか現在の源長寺には
中尊の台座は欠失し、当初は三尊を抱えるように大光背に
中世に遡る仏像は有していない。ちなみに現在は近世の制
納まっていたと思われるが、現在は失われている。阿弥陀
作である木造十一面観音坐像が本尊として祀られている。
如来立像の像高は、37㎝を計る。寺伝では薬師院旧本尊
旧中谷村の宝降山玉泉寺は、平成二十六年に発生した神
と伝えられており、本山替えが行われた際に本尊が替わっ
城断層地震による被害を受け、先頃本堂の取り壊しが行わ
たものか、かつてはこの寺院は天台宗に属していた可能性
れた。自然の猛威にせよ慙愧に耐えない。この寺院は現在、
がある。なお本三尊像は、火中より持ち出されたため、火
曹洞宗であるが、寺伝によれば文明年間(1469 ~ 1487)の
傷により表面がわずかにただれ焼肌を呈しており、これは
開創との伝承と、天文年間(1532 ~ 1555)飯森日向守盛春
江戸時代延享三年(1746)に当寺の伽藍が全焼しているが、
が開基したという伝承がある。寺付近に真言宗の宝泉寺と
その際の痕跡であろうか。なお「霊松寺記」には、本尊阿
いう堂があったとの伝承もあり、これが玉泉寺の前身の蓋
弥陀仏三体とともに、古来より弁財天坐像と十五童子の仏
然性もある。文明年間に真言宗としての宝泉寺の開創があ
像が、寺内の弁財天堂に捧持されていたようであるが、上
り、その後天文年間に飯森盛春が再興したのか、いずれに
述した火災により亡失したようである。
せよ江戸時代寛文年間に新たに玉泉寺と山号を替え曹洞宗
現在のところ一光三尊形式の善光寺式阿弥陀如来像は
寺院を開創している。ところで元文五年(1740)成立の「大
全国に六百例ほど知られ(注 3)、その内鋳造によるものは
町組神社仏閣帳」によれば玉泉寺の本尊を「地蔵丈壱尺
二百数十例に及び、長野県内には四十数例の作例が分身
弐寸五分」の座像として記しており、現在残る木造延命地
仏として残存している。当該像は北安曇で唯一の善光寺式
蔵菩薩半跏像と思料されるが、寺伝ではこれを藤原時代末
阿弥陀如来像であり、中世以前の所産となる仏像として当
の作と伝えている。
地方の信仰の受容、変遷を考える上において重要な作例と
54
北安曇地域に残された仏像 ―北アルプス山麓の人々に信仰された仏像からみた仏教信仰の変容―
の創立あるいは仏像の造像年代はほとんどが江戸時代中期
なる。
また他に村内各集落に所在したお堂は既に消滅してし
以降のものである。中世に遡るものは未確認であるが、青
まったものも併せて四十二ヶ所あるが(注 4)、中世以前に
具日向の生仏屋敷遺跡などは中世以前に遡る堂の跡と考え
遡る可能性を残す仏像は二基のみで、いずれも南小谷池原
られ、今後の調査がまたれる。
千国にある池原地蔵堂のものであり、一体は地蔵菩薩半跏
5 旧八坂村の中世以前の仏像
像で、この仏像はもと尾澤家の護持仏とされていたもので
旧八坂村内の各集落に存在する堂宇には、阿弥陀堂、観
あり、その後池原地蔵堂に納められたものである。台座上
面には「天正十八年(1590)かのえとら」の墨書銘を残し、
音堂、薬師堂を中心に現在所在地が不明なものも含め合計
寄木造で素朴な地方仏である。もう一体は地蔵菩薩立像で
四十九ヶ所の堂があったことが知られる。(注 7)このうち
あり、両手首、足首や玉眼を欠損し傷みはひどいが、この
中世に遡る仏像を所持していた堂は、大平地区の大平地蔵
像も像様から近世以前の可能性がある。なお現在、地蔵堂
堂のみであった。大平地蔵堂は北沢氏の墓地内に建ち、現
の堂宇は老朽化のため取り壊され、両像は小谷村郷土館に
在の堂は近代になって建て直されている。大平地蔵堂には
収蔵されている。
二体の仏像が安置されており、一体は木食山居故信法阿
作の在銘の木造聖観音立像であり江戸時代中頃のものであ
以上のことから、小谷村に現存する中世に遡る仏像は、
る。もう一体は本尊の木造地蔵菩薩立像(像高 36.5cm)で、
三体となる。
中世に遡る仏像である。小像であるが玉眼を施した檜材の
3 白馬村の中世以前の仏像
本格的な寄木造で、もとは極彩色を誇った像であり、専門
の仏師の手によるものである。部分的に後頭部など後補し、
白馬村における中世の開創に遡る寺院は少なくとも四ヶ
寺と思料される。長谷寺(飯森・曹洞宗)、貞麟寺(沢渡・
両手首、足先、白毫を欠失するが、南北朝時代(14 世紀前
曹洞宗)、真宗寺(三日市場・曹洞宗)、東徳寺(佐野・真
半)の像造の貴重な仏像である。
言宗)である。他に村の堂宇が既に取り壊されたものも含
め三十二ヶ所知られているが、いずれの寺院・堂宇にも現
在、中世に遡る仏像は残されていない。(注 5)
ただし三日市場沢渡神明社において、仏像ではないが鎌
倉時代に遡る御正体が二面知られている。一面は胸前で合
掌する菩薩像形の御正体(鏡板盤径 21.8㎝・像高 10.8㎝)
と、もう一面は胸前で智拳印を結ぶ金剛界大日如来像形の
御正体(鏡板盤径 20.2㎝・像高 9.5㎝)であり、両面とも背
面に次の同様な墨書銘がある。
「大明神御正躰一面 弘安九年大才丙戌十二月廿二日 願主 比丘尼妙法」とあり、弘安九年は 1286 年にあたる。
実は、願主の比丘尼妙法は同日の日付をもって大町市の仁
科神明宮にも一面の金剛界大日如来の御正体(鏡板盤径
21.5㎝・像高 9.5㎝)を奉納している。
仁科神明宮の御正体には墨書銘として「神明御正躰 一
写真 1 大平地蔵堂地蔵菩薩立像
面」と記載されている。少なくともこの三面を奉納した願
主の比丘尼妙法は、恐らく大町と神城三日市場とを結ぶ仁
現在、旧八坂村内には一寺院が知られている。藤尾山
科氏縁の尼僧であろうことは想像がつき、神社に残された
覚音寺であり大峰修験宗に属している。もっとも享保年間
仏教美術品として貴重である。
に編纂された『信府統記』によると、覚音寺は当時広津の
成就院末寺であり、かつては曹洞宗の寺院であったことが
4 旧美麻村の中世以前の仏像
知れる。また同書によると、八坂村内には他に舟場の曹洞
元文五年(1740)の『大町組神社仏閣帳 』
、安政二年
宗昌翁寺(成就院末寺)が記載されているが、こちらは明
(1856)の『安曇・筑摩両郡村々明細書上帳』を参照すれ
治の廃仏毀釈の際に廃寺となっている。また切久保には江
ば、村内各集落にあるお堂は既に消滅してしまったものも
戸時代には既に廃絶してしまった勝明寺(浄土真宗か)も
併せて五十五ヶ所が確認される。(注 6)しかしこれら堂宇
あったが、現在それら寺院に祀られた仏像については不明
55
清水 隆寿
また寺院ではないが、社宮本には仁科神明宮がある。同
である。
神社は仁科御厨成立後、御厨鎮護のため伊勢内宮より天
藤尾山覚音寺の創始については不明であるが、平安時
代に遡り、もとは天台宗であったことが推定される。同寺
照大神を祭神に勧請し創始した宮と言われる。本殿、釣屋、
には、平安時代末期の治承三年(1179)十一月、仁科盛家
御門屋の社殿は昭和 28 年に国宝に指定され、国内で最も
とその妻等が願主となり、現在の本尊にあたる木造千手観
古い神明造の宮として知られている。同神社には明治時代
音立像を奉納したことが、胎内に残された木札墨書から明
以前、本殿壁面に神仏習合の歴史を伝える御正体が懸け
らかである。木造千手観音立像は、檜材寄木造で、像高
られていた。現在そのうち五面が重要文化財に、十一面が
168.2cm、内部を大きく内刳りが施され、この空間を利用し
重文付けたり指定となっている。なお何個体分かの御正体
胎内に墨書銘のある木札、白銅鏡、千手観音の絵像を押印
残片があることから、かつては二十面以上の御正体があっ
した刷仏が納入されていることが、昭和十年の解体修理の
たのではと思料される。
際に確認されている。木札の墨書銘によると、仏師円慶六
それらのうち二面に弘安元年(1278)、弘安九年(1286)
郎坊らが、治承三年(1179)に造像した、長野県内の在銘
の墨書銘が残る。神明宮に残る御正体はいずれも鎌倉~室
像としては三番目に古い作例である。
町時代のものであるが、一面のみ毛彫りのものがあり平安
時代に遡る蓋然性もある。
千手観音像の右脇には持国天像(像高 161.5cm)が、左
脇には多聞天像(像高 157.6cm)を従え、ともに檜材・寄
社曽根原には、盛蓮寺がある。もと大峰山中腹の「堂平」
木造で、内刳りを施している。持国天像は腹前にて両手を
にあったと伝えられるが、後に閏田集落の東山中「山寺」
交差させるという特異な姿であり、興福寺北円堂の持国天
の地に移り(注 9)、二転して室町時代末に現在地に移転
像などわずかに類例が知れ、そうした作例を実際に目にし
したとされる。盛蓮寺は、現在京都市東山区の真言宗智山
た中央での修行を積んだ技量をもった仏師による作である
派の智積院末寺となるが、明治初年までは真言宗の高野山
ことがわかる。以上、旧八坂村内には中世に遡る仏像が四
遍照光院末寺であった。観音堂は室町時代中期の建築とし
体確認される。
て松本平では最古の寺院建築として知られる。この観音堂
本尊として木造如意輪観音坐像が祀られている。火災を受
けたと見られ全身に火傷の跡が確認でき、享保年間に補修
が行われるが、鎌倉時代後半の様式を残している。
社木舟にあった浄福寺はもと、平安時代前期の聖観音菩
薩を安置していた天台宗寺院であった。北安曇地方で最も
古い寺院として知られ、仁科氏の祈願寺であったという。
その後、この寺は大町の天正寺に仁科氏が居館を移すのに
あわせ、現在の弾誓寺の地に寺院を移転させ、江戸時代初
めには寺号を弾誓寺と改めている。
また残された浄福寺跡には、その後も寺院があったよう
で、現在木舟薬師堂として鎌倉時代後半の木造薬師如来
写真 2 覚音寺木造千手観音立像(中央)
木造持国天立像(左)、木造多聞天立像(右)
立像が残されている。
中世の土豪層には、支配地域へ曹洞宗寺院を誘致・建
6 大町市の中世以前の仏像
立することが一時期もてはやされたが、仁科氏の支配領
大町市内に残る中世以前に遡る仏像を所有する寺院につ
域においては地理的にも近いこともあって長野県内では最
いて旧町村ごとに列記していきたい。まず社地域について
も早く曹洞宗の法波が流入する。明徳四年(1393)、仁科
は、仁科神明宮境内に明治の廃仏毀釈以前にあった神宮
盛忠による霊松寺の開創を創始として、文明年間(1469 ~
寺があげられる。開創は不明であるが、もと神宮寺の所蔵
1487)に仁科盛直が大澤寺を開創する。大澤寺に客仏とし
で現在盛蓮寺客仏となっている木造不動明王立像の造像
て木造阿弥陀如来立像が祀られており、室町時代末以降の
時期から推定すると、既に鎌倉時代後期には成立されてい
仏像である。
堂宇として中世以前の仏像を保存するところとしては、
たことがわかる。同様な事例として盛蓮寺木造薬師如来坐
八日町毘沙門堂の木造毘沙門天立像が知られている。
像も神宮寺からの客仏で文安四年(1447)の墨書銘をもつ。
寺院ではないが、若一王子神社はもと神仏混交の時代に
なお神宮寺には本尊として木造十一面観音立像があったが
は若一王子権現と呼ばれており、その創始はこれまで仁科
現在その行方は不明である。(注 9)
56
北安曇地域に残された仏像 ―北アルプス山麓の人々に信仰された仏像からみた仏教信仰の変容―
荘が大町の地に創設された鎌倉時代といわれ、それ以前は
されてしまっているものも含め、現在確認されている堂は
もともと水の恵みに対する感謝を捧げた「分水の神」とい
三十六ヶ所にのぼる。(注 10)これらのうち、中世に遡る
われる。明治時代以降は銅造十一面観音坐像御正体残闕
仏像に、現在広津栂ノ尾集落の毘沙門堂に祀られる木造毘
(懸仏)が、観音堂の本尊として祀られるようになっていた
沙門天立像がある。檜材・一木造の平安時代後期の作で
が、平成になって新たに三重塔内部より木造伝十一面観音
ある。一木造とはいえ、頭部はもとより両腕、袖に至るま
菩薩立像が発見され、像は平安時代後半の十一世紀の所
ですべて一材から制作される珍しい像である。もとは長尾
産であることが確認された。この仏像の発見により、若一
の堂屋敷に祀られていたものであるが、過疎化により栂ノ
王子神社の草創が平安時代まで遡る可能性がでてきた。
尾の現在地に移されたものである。この像に関する記録と
しての初見は、
慶安三年(1650)の北山村検地帳に「なごう」
7 池田町の中世以前の仏像
「びしゃもん」と記載されたものがある。山中にあって朽ち
池田町には中世に遡る寺院としては、来鳳山成就院(広
捨てられず、現在までよくこれほどの古い仏像が残された
津・曹洞宗)、聖向山浄念寺(池田・浄土宗)、遍照山林
ものである。以上池田町には二例の中世に遡る仏像が残さ
泉寺(吾妻町・真言宗)が知られる。その他開創のわから
れている。
ないものに、中之郷中山松林寺や相導寺村に相導寺、渋田
8 松川村の中世以前の仏像
見に長生寺などの寺院があったとされるが、仏像を含め現
松川村における中世に遡る寺院としては六寺院が知られ
在は不明である。
ている。
来鳳山成就院の創始は不明であるが、寺伝「幽谷餘韻」
によると元享年間(1321 ~ 1323)以前ということになるが、
『信府統記』によると、松川村における中世の開創に遡
幕末の天保十一年(1840)、続く明治七年の伽藍の焼失に
る寺院として以下の二ヶ寺を挙げている。蓮盛寺(中村・
より仏像も灰塵に帰してしまい、中世に遡る仏像は蔵して
真言宗)と観勝院(川西・曹洞宗)である。同書によると、
いない。聖向山浄念寺の開山については、
「信府統記」に
松川山蓮盛寺は真竜院の末寺として、戦国時代の天文元年
戦国時代の大永元年(1521)の記述が見られるが、安政三
(1532)開創とされ、本尊は中世に遡る薬師如来像があっ
年の火災で旧本尊の十一面観音菩薩像は失われ、現在は
たとされるが、現在寺院自体は継続するが、当時の仏像は
同村東町境堂より勧請された、大町弾誓寺六世の木食山居
確認できない。大和山観勝院は、大澤寺の末寺として永正
作による如意輪観音坐像が本尊として祀られている。
十一年(1514)の開創とされ、
「本尊ハ釈迦ニテ定朝ノ作ナ
遍照山林泉寺の開基は不明であり、明治の廃仏毀釈の際
リ」と記載されている。このことから本尊は釈迦如来像と
に廃寺となっているが、稲荷神社内に寺の本尊と思われる
わかるが、作者定朝については、平安中期の仏師であり開
不動明王立像が残されている。室町時代に遡る可能性があ
創時期とは齟齬が生じている。ちなみに定朝の作例として
るものである。天正五年(1577)には、仁科盛信により池
は、平等院鳳凰堂本尊阿弥陀如来像が現存する唯一のも
田町吾妻町にあった林泉寺を真言宗遍照光院の宿坊として
のとされている。なお観勝院は、明治の廃仏毀釈の煽りで
寄進している。
廃寺となり、釈迦如来像も現在は行方が不明となっている。
始めにも述べた通り、実は松川村における中世以前の寺
院は、他に大泉寺(細野・宗旨不明)、観音寺(板取・真
言宗?)、西明寺(板取・浄土宗か)、桜沢寺(鼠穴・曹洞宗)
が存在したが、
「信府統記」が記載される江戸初期の段階
で既に廃寺となっている。大泉寺は細野に地名のみ残って
いる。また観音寺は後に蓮盛寺に移ったものか。西明寺は
天正年間に乳川の氾濫によって流出してしまったと伝えら
れる。桜沢寺は、大町大沢寺六世の舜嶺和尚により王新町
天皇の頃(1557 ~ 1585)に開創されたとあるが、江戸時代
慶安年間以前に既に廃寺となっており、それぞれにその後
の仏像の行方は知れない。
写真 3 林泉寺不動明王立像
他に村の堂宇が既に取り壊されたものも含め十一ヶ所知
られている(注 11)が、中世に遡る仏像は一点のみ残され
これら池田町に残された寺院のほか、各集落には観音、
ている。それは町屋集落にあり、金福山観松院(曹洞宗)
薬師、地蔵などの仏像を祀る様々な堂宇がある。既に倒壊
57
清水 隆寿
であり、もとは「町屋の観音堂」と呼ばれていた堂であっ
を傍証する史料として、鎌倉時代初期に編纂された『神宮
たが、昭和三十一年に寺格を得て、前述した同村川西地区
雑例集』には、信濃国内での御厨の始原とされる伊勢神宮
に明治維新まであった大寺の観勝院にあやかって造られた
への封戸寄進に関する記事が見え、それによれば平安時代
堂である。もとは韓国の国立中央博物館に所蔵されている
中頃の永承三年(1048)に信濃に御厨が置かれたことがわ
「金銅弥勒菩薩半跏思惟像」などに類例を求め、朝鮮半島
かる。それが具体的に仁科の御厨であったのかは確証が得
新羅において造像されたものではないかと言われてきた
られないが、先の推測からすれば十分にこの時期における
が、近年の仏像の様式研究では、飛鳥時代六世紀末から
仁科御厨の創設は推測できそうであり、既にこの時期大町
七世紀前半に同半島百済半跏像を由来として造像された金
市社地域を中心に仁科氏が地盤を固めていたものと思われ
銅仏で、長野県下では最古の仏像として注目されている。
る。
総高は 30cm、重量 3.04kg である。像容は全体に焼膚
また一方で仁科氏により社館之内に居館が設けられたの
を呈しており、当初あった鍍金の大半が剥落しており、小
は仁科御厨が置かれた前後の平安時代後期と考えられてき
像ながら惻々として人に迫ってくる印象を受ける像である。
たが、ここで仁科氏に関連する発掘調査の事例について若
台座、光背は欠損しており、右手前膊は木製による後補で
干触れてみたい。
ある。後補した右手の印相「施無畏印」から、この像が国
社館之内居館と想定されている北側には古町遺跡が所
重要文化財に指定された際に厳密さをもって「銅造菩薩半
在する。平成元年に筆者自身も調査に携わった遺跡である
跏像」と名付けられたが、本来は飛鳥時代に盛行した「銅
が、調査区からは平安時代後期から中世の竪穴住居址六
造弥勒菩薩半跏思惟像」であったと想像される仏像である。
軒ほかの掘立柱建物遺構が検出され、輸入陶磁器や灰釉
この像が松川の地に請来された来歴については一切わ
陶器から当遺跡に最初に足跡が残された時期は、10 世紀
かっていない。わずかに伝承として江戸時代前期に松川
前半と考えられている。(注 12)また社曽根原集落の発掘
組の組手代であった久保田家の持仏堂に祀られていたもの
調査は、昭和 58 年に圃場整備の事前調査として実施され
が、久保田家が貞享騒動に連座して移転した以降、村の堂
ているが、ここでは奈良時代から、平安時代にかけての住
として残されたとの伝承があるが、それ以前の来歴につい
居址七十八軒などが調査確認されている。当地の開発は八
てはまったく不明である。以上、松川村における中世以前
世紀に遡り連綿と十二世紀末まで集落が存続するが、
『五十
に制作された仏像は一体となる。
畑発掘報告書』によると(注 13)、A 地区において九世紀
後半から十世紀前半を画期として住居址が急増しているこ
9 仏像の制作年代からみた仁科氏の創始と庄園の開始
とがわかる。この遺跡名である「五十畑」は当初は「御所畑」
時期について
と解され、仁科神明宮御厨を預かる重要な拠点ではなかっ
覚音寺千手観音の木札に残された「御厨藤尾郷内」の
たかと推定されている遺跡であり、実際緑釉陶器などの貴
示すところの御厨の所在する地は、鎌倉幕府によって編纂
重な器や円面硯なども出土しており、政務を担ったところ
された『吾妻鏡』文治二年(1186)三月に年貢未納入の荘
であることはその傍証となろう。以上のことから、社館之
園名を列挙した中の「太神宮御領仁科御厨」と相当すると
内居館の築造に先駆け、五十畑遺跡の方が一歩早く御厨に
の研究がある。
関する拠点が開発され、その後十世紀前半頃より仁科氏居
館建設を目論み、周辺に関係する住居が建築され始めたの
この仁科御厨に関する創立時期に関しては、この地を治
めた仁科氏の勃興の時期とも絡み、発生時期の特定は重要
ではないかと推測される。この推測を裏付けるものとして、
な課題となる。仁科御厨創立の時期を推測させる史料には、
今回の仏像を頼りに仁科氏居館跡の開発時期を考えてみる
と、居館東南方向にはかつて常福寺という寺が建立されて
『皇太神宮建久已下古文書』
、
『神鳳鈔』がこれまでに知ら
れている。
同史料には信濃の伊勢神宮御厨の状況が記され、
おり、この本尊はその後、館之内居館から大町の天正寺居
仁科御厨については建久三年(1192)の時点で、
「件の御厨
館への移転に際して、現在の弾誓寺の位置に移転されたと
は往古の建立也」として既に御厨建立の時期は不明として
の伝承をもつ仏像である。実はこの仏像の造像時期が平安
いる。なお『皇太神宮建久己下古文書』には信濃の神宮御
時代中期の十世紀前半であり、先の古町遺跡周辺の開発と
厨のうち長野市若穂と推定されている「長田御厨」の場合
附合することからも、この時期に館之内居館造成が行われ
は、平安時代後期の寛治三年(1089)の建立として、約百
たものと推測し、菩提寺としての常福寺を始めとする周囲
年前の事跡については明確にしていることから考えても、
の町作りの計画が進められていったのではないかと思われ
仁科御厨の創立はそれ以前の百五十年前頃の平安時代中
る。これまでに言われてきた仁科御厨の創設時期の推定か
期・十一世紀前半を想定も許されるものと思われる。これ
ら一世紀余り遡ることになるが、大方のご叱正を賜りたい
58
北安曇地域に残された仏像 ―北アルプス山麓の人々に信仰された仏像からみた仏教信仰の変容―
い。
と思う。
一方で浄土教による阿弥陀信仰は、県内では善光寺信仰
加えて、仏像からの視点より仁科氏による大町周辺に造
られたといわれる仁科庄の開発時期について考えてみた
い。故幅具義氏により、若一王子神社三重塔内に仕舞い込
まれていた木造十一面観音が先頃再発見され、体部には明
治初年の廃仏毀釈の際に火中損傷したとされる大きな穴の
開いた仏像である。もと若一王子神社観音堂の本尊として
祀られていたとの伝承から、現在同観音堂に修理の後、保
管を兼ね祀られている像である。この像の制作年代は平安
時代後期の十一世紀の作であり、この仏像が若一王子神社
の創建の時期を推定する上で重要であるとともに、仁科庄
鎮護の為に制作された堂の本尊とするならば、従来言われ
ていた鎌倉時代の仁科庄の開発時期もさらに遡って、この
仏像が作制された平安時代後期の十一世紀に開始されたも
のではないかと推定される。以上、中世の仏像からの若干
写真 4 弾誓寺木造聖観音立像
の推測を述べた。
へと結びつき、三井寺園城寺の天台宗寺門派を中心に阿弥
10 考察 ~北安曇地方の中世以前の仏像の特徴に
陀三尊像の霊場としての信仰が高まりを見せるようになり、
ついて~
鎌倉時代を通じその信仰は東国を中心に広まっていくが、
『日本書紀』によれば、日本への仏教伝来は六世紀中頃
北安曇地方でもその影響下で造像されたものに小谷村の常
のこととされ、百済の聖明王がその経典とともに阿弥陀三
法寺の善光寺式銅造阿弥陀如来及両脇持立像があり、北
尊像を献じたことを嚆矢とする。それからほどない時期に
安曇地域における遺存例は少ないが、確実に善光寺信仰
制作された銅像菩薩半跏像が松川村観松院に現在保管さ
が浸透していることが知れる。
鎌倉時代には慶派仏師の優れた技量を見せた時代であ
れている。どのような経路を辿りこの地に請来されたかは
不明であり、古代安曇氏と関連させるのは早計に過ぎるが、
るが、北安曇地方では慶派に属するものは見られず、わず
この地に住むものにとっては計り知れないロマンと誇りを
かに八坂覚音寺千手観音像に関連が推測されているにす
もたらしたことは確かである。いずれにせよ朝鮮半島から
ぎない。現在盛蓮寺に残される木造不動明王立像など小像
飛鳥に伝わった仏教信仰は、徐々に地方に波及し、長野県
ながら躍動感あるこの時代の作風を反映した仏像が遺され
内では有力氏族によって明科廃寺などの本格寺院が建立さ
ている。
また西正院木造大姥尊坐像は、立山信仰との関わりを如
れ、松本平へ仏教が請来する。
信濃における現存する木彫仏の早期の例として、九世
実に語りかける山岳信仰由来の像であり、これまで立山か
紀に遡る長野市松代の清水寺の諸像の類例が知られるが、
ら請来されたものであるとの伝承がある像であるが、現存
十世紀前半になると大町にも本格的な欅材を用いた一木造
する立山地域に残る大姥尊像とはかなり像様が異なること
りの聖観音立像が造像されるようになる。
から、信仰の高まりとともに当地において作成された可能
性も今後再検討する必要がある。
前節で触れたように、仁科氏居館東南部に建立された浄
福寺に祀られていたものが、その後弾誓寺にもたらされた
仏像である。当時浄福寺は天台宗に属していたと推測され
ることから、仁科氏居館周辺の当初の町割り、信仰の様態
を推測する上で極めて重要な仏像となる。これまで見てき
た北安曇に残された古寺院を見ると、仁科氏は早くから天
台宗を中心に、遅くとも鎌倉時代には真言宗も波及してき
たことが推測される。
その後平安時代後期より京都では浄土教が流行し阿弥
陀像が流行、いわゆる定朝様式の仏像が県内でも散見され
るようになるが、北安曇地域ではその痕跡は残されていな
写真 5 西正院木造大姥尊坐像
59
清水 隆寿
その後江戸時代には急速に立山信仰が北安曇地域一円
見られ、当地域の志向性がみてとれる。加えて不動明王像
に広まるわけであるが、この像は立山信仰の波及時期を想
も多く見られる。なお中世より当地において仁科氏の庇護
定する上で象徴的な仏像である。
により迎えられた曹洞宗の本尊である釈迦如来像の現存す
るものが少ないのが惜しまれる。
南北朝時代以降北安曇地方においては、作例も限られ小
品の仏像のみに限られるが、大平地蔵堂の木造地蔵菩薩立
また仏像の材質から当地域の特色をみると、当地域に残
像や盛蓮寺木造虚空蔵菩薩坐像、大澤寺木造阿弥陀如来
る最初の仏像である弾誓寺(伝常福寺)木造観音立像は欅
立像などの優品が見られる。この時代より地蔵像の作品も
材を利用している。広葉樹である欅は、雪の多い当地方に
見られるようになり徐々に庶民にもそうした信仰が広がっ
おいては珍しい樹木を使用していることになる。かつて筆
てきたことを伺わせる。
者は観音堂地下の発掘調査の際にこの仏像を持ち上げた
経験があるが、一木造のうえ、重い欅ということで大変難
しかし基本的には当地に残された仏像は、当地に勢力を
渋したことを思い出す。
誇った仁科氏とその支族に関係する仏像がその多くを占め
たものと推測されるが、際立った中央仏師による冴えを見
その後平安時代後期の十一世紀以降、当地においては造
せた仏像は少ないが、それぞれに各時代の様式を取り入れ
像の際には檜を用いるものだということが常識として徹底
たものとなっていることが特徴といえよう。中世も南北朝
されたのか、盛蓮寺木造虚空蔵菩薩坐像の桂材の一例を
時代以降は徐々に庶民による信仰の高まりとともに造像が
除き他は総て檜材を用いているのが特徴としていえる。
行われるようになってきたことがわかる。こうした庶民信
以上、中世以前の仏像について縷々述べてきたが、現在
仰は近世になり大町や池田町を中心に弾誓上人を祖とする
のところ当地域には別表(表 1)のとおり中世以前の仏像と
木喰行の作仏聖、とりわけ弾誓寺六世木喰山居上人の爆
して御正体を除き、二十体が残存することが確認された。
発的な広がりへと繋がるが、江戸時代以降に関してはまた
今後新たに個人像の中から類例が増えることも期待される
別の稿に譲ることとする。もっとも中世以前各地の土豪に
ところであるが、地方にあってこれだけの数の仏像が保存
よる財政支援の上に造寺・造仏されてきた寺院についても、
されてきたことがなにより当地における特徴であり、信仰
江戸幕府によって制度化された寺請制度の成立以降、一般
心が厚く文化財に対し理解ある地域住民の賜物といえよ
民衆によって信仰が引き継がれ、今日まで信仰の対象とさ
う。
れてきたことは、長い歴史的な経過から忘れられがちなこ
11 おわりに
とでもある。
北安曇地方の造像の特色として、池田町栂ノ尾の木造毘
北安曇地方の近世においては、どの集落ごとにも何らか
沙門天立像を嚆矢とする毘沙門天の信仰が継続して信仰さ
の仏堂があり、堂守に僧侶がいた例さえあった。また念仏
れていることがわかる。
講などの広がりとともに村人が集まり念仏を唱える場所と
して、集会所を兼ね堂宇を建てることが多く見られ、そう
した講仲間で金銭を出し合い仏像を施入し、本尊として安
置された。そうした堂宇は小さいながらも地域の絆として
の拠点であったに違いない。しかし近年、過疎化の憂き目
に会って、地域の繋がりの象徴であり、生活と密着した信
仰の拠り所としての堂宇は、いつしか忘れ去られ朽ち果て
た建物とともに仏像も傾いたままの姿を、今回の調査の折
にも何度も目にした。本来、信仰の対象であった仏像が美
術品としての鑑賞の対象となり、あるいは文化財として認
識されその造形を記述するようになったのは明治時代以降
のことであるが、近頃ではそうした過疎の村々にある無住
の堂宇を狙った仏像の盗難が日常茶飯のこととなり、北安
写真 6 八日町毘沙門天立像
曇地域にもそうした話をよく聞く。本稿では主に当地域の
毘沙門天は、四天王の一尊として、北方守護を司り、四
中世以前の仏像について触れてきたが、一握りの貴重な仏
天王にあっては多聞天と別称されている。覚音寺木造千手
像などには、比較的関心も高く、各市町村における保存管
観音立像の脇持として多聞天像に引き継がれ、仁科氏が治
理の目も届くが、それ以外の各集落に祀られる堂宇に関し
めた生坂地域を含めると江戸時代までに十指に余る作例が
てはもはや打ち捨てられているもの多いのが現状である。
60
北安曇地域に残された仏像 ―北アルプス山麓の人々に信仰された仏像からみた仏教信仰の変容―
表 北安曇地方の古代から中世所産の仏像彫刻(年代順)
名 称
観松院銅造菩薩半跏像
所 在 地
時 代
備 考
松川村町屋
飛鳥時代
国重要文化財
鋳銅製
6~7 世紀前半
(S57・6・5 指定)
大町市大町九日町
平安時代中頃
10 世紀前半
長野県宝
(S40・1・14 指定)
檜材・一木造
平安時代後半
11 世紀
市指定有形文化財
(H9・3・24 指定)
池田町広津
平安時代後半
長野県宝
檜材・一木造
12 世紀前半
(S45・4・1 指定)
大町市八坂藤尾
平安時代末
治承三年(1179 年)
国重要文化財
(S25・8・29 指定)
檜材・寄木造
鎌倉時代前半
建久六年(1195 年)
国重要文化財
(S25・8・29 指定)
覚音寺木造多聞天立像
大町市八坂藤尾
鎌倉時代前半
国重要文化財
檜材・寄木造
建久五年(1194 年)
(S25・8・29 指定)
若一王子神社銅造十一面観音坐像御正体残闕
(懸仏)
大町市大町俵町
鋳銅製
鎌倉時代中頃
13 世紀
長野県宝
(H11・3・18 指定)
八日町毘沙門堂の木造毘沙門天立像
(頭部のみ鎌倉時代)
大町市大町八日町
鎌倉時代
市指定有形文化財
(H16・2・19 指定)
仁科神明宮銅製御正体(懸仏)
大町市社宮本
弘安元年(1278 年)
国重要文化財
(S36・12・17 指定)
弘安九年(1286 年)
長野県宝
(S52・3・31 指定)
弘安九年(1286 年)
長野県宝
弾誓寺木造観音菩薩立像
欅材・一木造
若一王子神社木造伝十一面観音菩薩立像
栂ノ尾木造毘沙門天立像
覚音寺木造千手観音立像
大町市大町俵町
檜材・寄木造
覚音寺木造持国天立像
大町市八坂藤尾
檜材・寄木造
仏像:銅製、鑑板本体:檜材
三日市場神明社銅製御正体(懸仏)
〔菩薩形像〕
白馬村神城三日市場
三日市場神明社銅製御正体(懸仏)
白馬村神城三日市場
〔金剛界大日如来像〕
仏像:銅製、鑑板本体:檜材
仁科神明宮銅製御正体(懸仏)
大町市社宮本
仏像:銅製、鑑板本体:檜材
(S52・3・31 指定)
弘安九年(1286 年)
国重要文化財
(S36・12・17 指定)
鎌倉時代後半
市指定有形文化財
(H3・5・31 指定)
鎌倉時代後半
市指定有形文化財
仏像:銅製、鑑板本体:檜材
木舟薬師堂木造薬師如来立像
(体部のみ鎌倉時代)
大町市社木舟
盛蓮寺木造如意輪観音坐像
大町市社曽根原
檜材・寄木造
(H3・5・31 指定)
檜材・寄木造
常法寺銅造阿弥陀如来三尊立像
〔善光寺式阿弥陀三尊像〕
小谷村北小谷来馬常法寺
盛蓮寺木造不動明王立像
(明治期に金剛山神宮寺より移転)
大町市社曽根原
大平地蔵堂の木造地蔵菩薩立像
盛蓮寺木造虚空蔵菩薩坐像
鎌倉時代後半
長野県宝
(H8・2・15 指定)
鎌倉時代末
市指定有形文化財
(S57・3・3 指定)
大町市八坂大平
南北朝時代
市指定有形文化財
檜材・寄木造
14 世紀前半
(H18・3・27 指定)
大町市社曽根原
室町時代前半
市指定有形文化財
(H6・4・28 指定)
室町時代中頃
市指定有形文化財
(S63・1・14 指定)
室町時代
町有形文化財
銅製
檜材・寄木造
桂材・寄木造
西正院木造大姥尊坐像
大町市平野口大出
檜材・寄木造
林泉寺木造不動明王立像
池田町池田吾妻町
(H11・6・20 指定)
檜材・寄木造
盛蓮寺木造薬師如来坐像
(明治期に金剛山神宮寺より移転)
大町市社曽根原
大沢寺木造阿弥陀如来立像
大町市大町堀六日町
文安四年(1447)
市指定有形文化財
(S57・3・3 指定)
室町時代末~桃山時代
市指定有形文化財
(S62・3・23 指定)
16 世紀か
未指定
天正十八年(1590 年)
未指定
檜材・寄木造
檜材・寄木造
池原地蔵堂地蔵菩薩立像
小谷村南小谷池原千国
檜材・寄木造
池原地蔵堂延命地蔵菩薩半跏像
(台座のみ天正年間のものか)
小谷村南小谷池原千国
檜材・寄木造
61
清水 隆寿
今回集成した当地の中世由来の仏像は現在のところ二十体
財』
平成 15 年(2003) 牛越嘉人著・田中宏一郎編 『牛
越嘉人遺稿集 池田町の神様・仏様』
牛越悦子(自費出
版)
平成 17 年(2005) 教育委員会 『池田町の寺堂と仏
像』
注 11 昭和 62 年(1987) 松川村誌編纂委員会 『松川村誌』
自然環境編・民俗編 松川村誌刊行会
昭和 62 年(1987) 松川村誌編纂委員会 『松川村誌』歴史編
松川村誌刊行会
平成 16 年(2004) 松川村教育委員会 『松川村の文化財』
注 12 平成 3 年(1991) 大町市埋蔵文化財調査報告書第 18
集 『古町』 大町市教育委員会 P57~P62
注 13 昭和 59 年(1984) 大町市埋蔵文化財調査報告書第 8
集 『五十畑』 大町市教育委員会 P183~P185
が確認されたが、江戸時代以降の各地の堂宇に祀られ保
管されている仏像は八百体以上にのぼる。ましてや江戸時
代のものに限っても個人所有の仏像を数えれば千体は優に
超えるのではないかと思われる。これら比較的新しい仏像
に関してもそれぞれの地域の歴史を厳然と伝えるものであ
り、冒頭に申し述べた通り、地域の研究・協力体制を整え、
広域の連携を図って保存や保管を考えなければ散逸し、取
り返しのつかない時期にきている。まずは地域にどのよう
な仏像や歴史的な文化財が所蔵されているか、その仏像を
保管するお堂がどの様な惨状に今あるのか、地域住民が認
識することから始まる。小稿がそうした機会の一助となれ
〔参考文献〕
ば幸いである。
〔引用文献〕
注 1 昭和 54 年(1979) 長野県大北仏教会 『北安曇郡・
大町市〔寺院・堂宇〕眞集』
安曇野
注 2 平成 5 年(1993) 小谷村誌編纂委員会 『小谷村誌』
歴 史 編 小 谷 村 誌 刊 行 委 員 会 P441 ~ P453、P486 ~
P500
注 3 平 成 21 年(2009) 長 野 県 立 歴 史 館 『 開 館 15 周 年
平成 21 年春季企画展善光寺信仰-流転と遍歴の権化-』
平成 27 年(2015) 武笠朗監修 『めくるめく信州仏像巡礼』 信濃毎日新聞社 P82 及び P109
注 4 平成 5 年(1993) 小谷村誌編纂委員会 『小谷村誌』
社会編 小谷村誌刊行委員会 P740 ~ P761
注 5 昭和 62 年(1987) 田中欣一他 『白馬の文化財』 白
馬村教育委員会 P129 ~ P137
平成 12 年(2000) 「白馬の歩み」編集委員会 『白馬の歩
み』(白馬村誌) 第二巻 社会環境編上 白馬村 P483
~ P493
平成 15 年(2003) 「白馬の歩み」編集委員会 『白馬の歩み』
(白馬村誌) 第三巻 社会環境編下 白馬村 P480 ~
P489
注 6 平成 11 年(1999) 美麻村誌編纂委員会 『美麻村誌』
民俗編 美麻村誌刊行会 P621 ~ P630
平成 12 年(2000) 美麻村誌編纂委員会 『美麻村誌』歴史編美
麻村誌刊行会 P316 ~ P322
注 7 平成 5 年(1993) 八坂村誌編纂委員会 『八坂村誌』
民俗編・民俗資料編 八坂村誌刊行会 P273 ~ P283
平成 5 年(1993) 八坂村誌編纂委員会 『八坂村誌』歴史編 八坂村誌刊行会 P96 ~ P121、P216 ~ P219
平成 2 年(1990) 下平正樹 「藤尾覚音寺観音堂-木造千手観
音立像 木造持国・多聞天立像-小再鑑考」
長野県信濃
美術館美術調書第 1 号 長野県信濃美術館 P35 ~ P37
注 8 昭和 61 年(1986) 大町市史編纂委員会 『大町市史』
第三巻 近世 大町市 P711 ~ P736
平成 8 年(1996) 大町市教育委員会 『大町市の文化財』第二
版
注 9 昭和 30 年作道中に古瀬戸四耳壺、古瀬戸瓶子、青白
磁水注、写経石等が発見され、同遺物は一括され「山寺廃
寺跡出土遺物」として現在長野県宝に指定されている。
注 10 平成 4 年(1992) 池田町誌編纂委員会 『池田町誌』
歴史編(原始~近世) 池田町 P1213 ~ P1233
昭和 47 年(1972) 池田町教育委員会 『池田町の文
化財』
平成 3 年(1991) 池田町教育委員会 『池田町の文化
62
昭和 51 年(1976) 長野県信濃美術館 『信濃の仏像』
信濃毎
日新聞社
昭和 59 年(1984) 上條為人 「大町市・北安曇郡」
『長野県文
化財めぐり』社団法人長野県文化財保護協会
平成 4 年(1992) 大北神社誌編纂委員会 『大北地方の神社と
文化』 長野県神社庁大北支部
平成 4 年(1992) 長野県史刊行会 『長野県史 美術建築資料
編』全一巻(一)美術工芸 長野県
平成 5 年(1993) 長野市立博物館 第 33 回特別展『浄土信仰
の美』
平成 10 年(1998) 幅具義 「大町市・北安曇郡」
『改訂 長
野県文化財めぐり』 社団法人長野県文化財保護協会
昭和 12 年(1937) 一志茂樹 『美術史上より身たる仁科文化
の研究』 信濃教育会北安曇部会
平成 15 年(2003) 幅具義 『ひとすじの道』
幅具義先生遺稿
集刊行会編
平成 17 年(2005) 篠崎健一郎 『仁科三十三番札所めぐり』
一草社
平成 17 年(2005) 北安曇郡誌編纂委員会 『北安曇誌』第三
巻 近世編 長野県北安曇教育会
平成 20 年(2008) 武笠朗監修 『定本 信州の仏像』
しなの
き書房
平成 21 年(2009) 北安曇郡誌編纂委員会 『北安曇誌』第二
巻 原始・古代・中世編 長野県北安曇教育会
市立大町山岳博物館研究紀要 1:63 ‐ 69(2016)
報 告
Reports
Bull. Omachi Alpine Museum.(1)
:63 ‐ 69(2016)
長野県北西部におけるアカバナの生活史および繁殖特性
―日本産草本植物の生活史研究プロジェクト報告第 7 報―
千葉 悟志
市立大町山岳博物館,〒 398−0002 長野県大町市大町 8056−1
Life History of the Epilobium pyrricholophum Franch. et Sav.
and Reproductive Traits in Northwestern Nagano
- project report for the life history flora of the Japanese herbaceous angiosperms VII -
Satoshi CHIBA
Omachi Alpine Museum, 8056-1, Omachi, Omachi City, Nagano Pref., 398-0002, JAPAN
アカバナ属アカバナ Epilobium pyrricholiphum は,湿地にみられる多年草植物で,種子繁殖する一方,匐枝を伸ばし
て繁殖する半地中植物とされる.
しかしながら,一連の生活史を細部にわたり紹介した例はこれまでにないことから,アカバナの生活史をはじめ,開花お
よび結実の繁殖特性について,観察を進めたところ,秋播きおよび春播きに関わらず,発芽後,成長の早い個体では 1 年
目で開花個体に至り,夏から秋にかけて地上茎の節から対角線上に匐枝を伸ばして,複数のラメットを形成する一方,親
個体はその年に枯死することが明らかになった.また,
花は開閉花であることが明らかになったが,
訪花昆虫相に貧しいうえ,
訪花頻度も低く,また,1 個花のみであっても結実するほか,隔離した個体にも結実が認められることから,自家和合性で
あることが考えられた.
キーワード:アカバナ,生活史,繁殖,開花,結実
1 はじめに
なお,本報は,故 清水建美 氏(金沢大学名誉教授・信
アカバナ属は,世界に約 37 属 640 種あり,南北アメリ
州大学名誉教授)が主宰した「日本産草本植物の生活史
カに多くみられ,日本には,約 5 属 28 種が分布し,帰化も
研究プロジェクトグループ」が,これまでに報告(千葉・
多いとされる(北川 1982).そのうち,アカバナ Epilobium
清水 2004;2005;2006)したものに次ぐものである.
pyrricholophum は,朝鮮・中国・樺太・千島・北海道・本州・
2 調査地の概要
四国・九州の湿地にみられる多年草植物で,茎の高さは,
15-90cm.多くの枝をわけ,花は 7 月から 9 月に開花する.
発芽実験,生活史および開花様式の観察は,長野県大町
花は 4 数性で,直径 6-10mm.果実は 3-8cm の棒状となる.
市にある市立大町山岳博物館(標高 766m)で実施した.開
種子繁殖する一方で,匐枝を伸ばして繁殖する半地中植物
花様式については,長野県上水内郡小川村(標高 525m)
であるとされる(清水・梅林 1995;浅野 2005).
の筆者の自宅でも行った.現地での果実の観察および訪花
しかしながら,一連の生活史を細部にわたり紹介した例
昆虫の調査は,長野県北安曇郡白馬村の親海湿原(標高約
はこれまでになく,筆者は,大町山岳博物館友の会会員ら
750m)で実施し,発芽実験に供するための種子は親海湿
と共に,
2011 年に市立大町山岳博物館が開催した企画展
「く
原および大町市の居谷里湿原(標高約 840m)において採
さばなの一生 湿原でみられる植物の生活史-その営みと
取した.
以下,本稿では,各調査地である親海湿原を「親海」
,
なぞにせまる!-」において,アカバナの生活史をはじめ,
開花および結実の繁殖特性について,発表した.以後も継
居谷里湿原を「居谷里」
,市立大町山岳博物館を「博物館」
続して観察をしたことから,これまでの結果と合わせて,
および小川村を「小川」と表記する.
報告する.
63
千葉 悟志
(4)訪花昆虫
3 方 法
(1)果実および種子
2009 年 8 月 21 日(天候:曇りから小雨)に親海において,
午前5時 20 分から午前 7時 20 分に訪花昆虫の観察を行った.
2009 年 10 月 13 日に親海において,5 個体から各 1 果実
2010 年 9 月 19 日(天候:晴れ)および 2011 年 8 月 5 日
を採取し,1 果実あたりの充実および不稔の種子数を計測
(天候:晴れ)に博物館において開花した栽培個体を用い
した.
て,断続的に訪花昆虫の観察を行った.
2009 年 11 月 10 日に親海で採取した果実および種子の
形態について,実態顕微鏡(Meiji Techno EMTR-2)を
4 結 果
用いて観察を行った.2015 年 11 月 7 日に再び,種子の
(1)果実および種子
観察を行い,種髪の観察には,生物用正立顕微鏡(Nikon
果実は蒴果で,1 蒴果あたりの充実種子は,58-136 個,
Eclipse 50iPOL)も用いて行った.
(2)発芽および実生から成熟個体に至るまでの形態
90.9 ± 27.6(平均±標準偏差),不稔種子は,1-84 個(34.6
2008 年 10 月 22 日に親海より果実を採取し,紙製の封筒
± 32.2)であった.子房下位で 4 室あり,中軸胎座.子房
に入れ,冬期間,博物館の室内で自然状態のまま保管した
は成長が進むと棒状となり,腺毛が密に生える.熟した蒴
後,2009 年 5 月 22 日に 1 ポット(ポリポット丸型:9cm)
果は,上部先端より 4 裂し,種子は種髪を上部に各室に 1
あたり 10 個の種子を 5 ポットに播種した(春播き).
列に収まっている(図 1).
2009 年 10 月 13 日に居谷里において種子を採取し,同年
11 月 13 日に冠水条件(NF ボックス:536 × 370 × 162mm
に浸水)および潅水条件を設定し,1 ポット(9cm)あたり
10 個の種子を各 5 ポットに播種した(秋播き).
2014 年 9 月 25 日に博物館において結実した 2 個体各 1
果実から得られた種子(No.1:116 個,No.2:137 個)のう
ち,各 100 個の種子を翌 26 日に,2 ポット(ポリポット丸型:
12cm)に播種した(秋播き).
発芽の基準は,子葉がしっかり展葉した個体のほか,半
開に展葉した個体も発芽としてカウントした.
図 1 蒴果と種子
地上部および地下部の観察は,2009 年春に発芽した個
体を用いて,5 月 22 日,7 月 22 日,8 月 23 日,9 月 17 日
および 10 月 29 日に行い,2010 年においてもその年(春)
に発芽した個体を用いて再度,観察を行った.
なお,実験は野外で行い,供試個体の管理は,通常の潅
水(1 ~ 2 回/ 1 日)とし,成長に応じて,ポリポット丸型
(9cm および 12cm)に植え替えた.用土は,市販の培養土
に赤玉土(小粒)および少量のマグアンプ K(中粒)を混合
したものを使用した.
(3)花の形態および開花特性
2009 年 9 月 3 日から 11 日まで,博物館において,発芽
1 年目に蕾をつけた 1 個体 1 個花を対象に開花様式につい
図 2 種子
(種髪を取り除いて撮影)
て観察を行った.
2010 年 9 月 4 日から 6 日および 8 日に小川において,1
種子は倒皮針形.側面は扁平で先はやや曲がり,曲がっ
個体(発芽 2 年目)1 個花を対象に,開花様式について観
ている方が向軸側となる.
察を行った.同月 9 日から 11 日には,博物館において,1
一方,背面は円みがあり,腹面は平で,腹面の正中線上
個体(発芽 2 年目)1 個花を対象に観察を行った.
に隆条が認められ,種子には全面に細かく乳頭状突起が密
なお,比較のため,各観察では,同じ花序あるいはラメッ
布する(井之口 2000;図 2).種子先端にある毛束は種髪
トの花の状態もあわせて記録した.
といい,珠孔域の珠皮が起源とされる(清水 2001).新鮮
64
長野県北西部におけるアカバナの生活史および繁殖特性 ―日本産草本植物の生活史研究プロジェクト報告第 7 報―
な種髪は純白色で,種子との付け根付近は薄茶褐色を帯び
るが,時間の経過とともに全体が薄茶褐色となる.種髪に
針状等の突起は認められない.
(2)発芽および実生から成熟個体に至るまでの形態
2009 年に播種した種子(春播き)は,同年 6 月 2 日に発
芽を確認した.発芽数は,1 ポットあたり 3-9 個,平均 6.2
個(n = 5)で,同年 8 月 30 日に 3 個体に蕾が認められ,
開花に至った.
2009 年に播種した種子(秋播き)は,2010 年 5 月 5 日に
発芽を両条件において確認した.発芽数(n = 5)は冠水条
件で 0-5 個(平均 2.2 個),潅水条件で 0-4 個(平均 1.4 個)
で,同年 8 月 23 日に潅水条件において,開花が認められた.
2014 年に播種した種子(秋播き)は,2015 年 4 月 4 日か
ら発芽が認められた.発芽数は,4 月 29 日まで緩やかに増
加し,最終発芽率は,No.1 が 91%,No.2 が 50%であった.
子葉の形は広楕円形.葉の表面の色は黄緑色で,裏面は
図 3 発芽した実生
(2010 年 5 月 8 日撮影)
脈のみが薄赤紫色を帯び,表裏面とも無毛(図 3).本葉
は卵形から卵状被針形,先端は鈍形または鋭形.基部は広
いくさび形からやや心形.葉柄は短く,葉身の基部は茎を
抱く.十字対生し,展葉が茎の上部の葉になるに従い,低
い鋸歯が目立つようになる.葉の表裏面はともに子葉と同
色.下部の葉の表面は無毛であるが,上部の葉になるに従
い,長短の細毛が疎らに認められるようになるほか,葉脈
上には屈毛が生える.一方,裏面も上部の葉になるに従い,
長短の細毛が疎らに認められるようになる点は表面と同じ
であるが,葉脈上および葉縁の屈毛が最初に展葉する葉か
ら認められる点は異なる.
成長の早い個体では,発芽一年目で開花個体に至る(図
4).主根および不定根は,よく分枝し,所々,疎らに長い
根毛が生える.地上茎の断面は,ほぼ円形で中実.茎には,
全体に白色で上向きの屈毛が密になって生える.夏から秋
にかけて,地上茎の地際の節からは,匐枝が対角線上に伸
長し(図 5 上),匐枝の節からは,根が伸長する.匐枝は
地上茎にごく近い節でさらに対生に分枝することがある.
図 4 開花個体に至った当年生実生
(2010 年 8 月 31 日撮影)
ラメットは,匐枝の先端に形成されるため,1 個体から複
数個が形成されることになる.
一方,親株は,その年に枯死する.そのため,それまで
匐枝で繋がっていたラメットは,いずれ親株の節から外れ
て,独立するようになる(図 6).なお,匐枝には,腺毛お
よび屈毛等は全く認められない.
65
千葉 悟志
(3) 花の形態および開花特性
花序は総状花序で,単軸分枝によって伸長し,花は高出
葉(苞)の葉腋より生じる.花は,離弁花で,4 数性.花弁
は片巻き状(回旋状・包旋状)で,開花前に柱頭上部が外
に現れていることが多い(図 7).
図 7 開花前に柱頭上部が露出する
図 5 対角線上に伸びはじめた匐枝(上)
匐枝の伸長・分枝が進んだ状態(下)
図 8 雄しべは長短各 4 本の花糸からなる
雌しべは,複合雌しべで,柱頭は分裂せずに棍棒状とな
る.雄しべは,
8 本で,
各 4 本の長短の花糸からなる(図 8).
花糸は白色から淡紅色.葯は沿着で,淡黄色から黄白色.
内向葯で縦裂する.花粉は黄白色.短い花糸は,花弁に対
し,中央正面に配置され,長い花糸は,花弁間に配置される.
ラメット
萼片は花弁と互い違いの配列となる(図 9).
花弁は,淡紅色で,頂端で浅く 2 裂し,基部から頂端に
かけては,淡紫色の脈状の紋様が認められる.萼片は,黄
緑色で外側は腺毛が密に生える.
博物館において,2009 年 9 月 3 日から蕾を観察したとこ
ろ,開花は,9 月 7 日(1 日目)午前 9 時 15 分ごろ(天候:
晴れ)からはじまった.しかし,このときは,花弁がわずか
に開いただけで,
12 時 15 分(晴れ)および午後 3 時 15 分(曇
り)の 3 時間毎の観察でも,
ほぼ同じ状態が続いた.2日目(8
図 6 匐枝の節からは根が発根する(上)
前年の地上茎痕(○印)および匐枝の先で
地上茎を伸ばす子株(下)
日)午前 9 時(晴れ)の観察でも,花はほぼ閉花の状態にあ
り,午後 3 時までの 3 時間毎(いずれも曇り)の観察におい
66
長野県北西部におけるアカバナの生活史および繁殖特性 ―日本産草本植物の生活史研究プロジェクト報告第 7 報―
(4)訪花昆虫
親海において,2009 年に行った観察(曇りから小雨)で
は,花はわずかに開いた状態かまたは閉花した状態で,周
囲には,トラマルハナバチおよびハナアブ科の飛翔を観察
したが,アカバナの花に訪花することはなかった.
博物館において,2010 年および 2011 年に行った観察(い
ずれも晴れ)では,開花したアカバナの周辺には,ベニシ
ジミ,ヤマトシジミ,ムネボソアリ,ドロバチ科,ミツバチ
上科およびハナアブ科がビッチュウフウロ(実験用に栽培
したもの),ヒメジョオンおよびタニソバに訪花していた.
図 9 花式図
花式は、犀川(2008)を参考に作成
ても同じ状態が維持された.3 日目(9 日)午前 9 時(曇り)
の観察では,
花弁が再び完全に閉じた状態にあり,
4 日目(10
日)の天候は,晴れであったが,閉花の状態が維持され,5
日目(11 日)午前 9 時(晴れ)の観察では,花は子房を残し
て脱落していた.
小川において,2010 年 9 月 4 日,午前 5 時 15 分から観
察をはじめたところ,開花は,4 日(1 日目)午前 8 時 45 分
ごろ(晴れ)から花弁が開きはじめ,午前 9 時 25 分(晴れ)
に葯が裂開し,午前 11 時 20 分(晴れ)に花弁が完全に開
いた.2 日目(5 日)の天候は晴れから曇りで,花は夕方に
完全に閉花し,6 日(終日曇り)に花弁が再び開くことはな
く,子房を残して脱落した.9 月 8 日の天候は終日,雨が
断続的に続き,観察個体のすべての花において開花は認め
られなかった.
同年に博物館において,9 月 9 日,午前 7 時 15 分から観
察をはじめたところ,開花は,9 日(1 日目)午前 8 時 45 分
ごろ(晴れ)から花弁が開きはじめ,午前 9 時 25 分(晴れ)
に半開の状態となった.この状態は,
午後 1 時 15 分(曇り)
図 10花に訪れたミツバチ上科個体(上)および
ハナアブ科の個体(下)
まで維持され,午後 3 時 15 分(曇り)には,花弁が前回の
観察時よりも閉じていて,午後 5 時 45 分(曇り)には完全
このうち,アカバナには,ヤマトシジミ,ムネボソアリ,
に閉花の状態になった.2 日目(10 日)は,午前 8 時 15 分
ごろ(曇り)に再び花弁が開きはじめた.しかし,花弁が完
ミツバチ上科(図 10 上)およびハナアブ科(図 10 下)の訪
全に開くことはなく,3 日目(11 日)午後 3 時 20 分(曇り)
花が認められたが,頻繁に訪れる昆虫は認められず,ヤマ
の確認でも花弁は半開の状態が維持されていた.
トシジミにおいては,瞬間的に花弁にとまったにすぎなかっ
た.
なお,比較のため,各観察に同じ花序あるいはラメット
の花の状態をあわせて記録したところ,同日に開花 1 日目
5 考 察
を迎えた花でも花序内では花弁が完全に開いた花もあれ
花は開閉花で,夜間に閉じ,日中に開く傾向が見られ,
ば,半開の状態が続く花も認められ,また,開花 2 日目の
花の多くで花弁が完全に開いたのに対して,開花 1 日目の
また,晴天時に開花が生じやすく,曇天あるいは雨天時は
花では,花弁が半開の状態が認められた.
開花しない傾向が示された.しかし,晴天であっても完全
に花弁の開かない花があったほか,2 日目の花で多くが開
花する一方で,開花 1 日目となる花で完全に花弁が開かな
67
千葉 悟志
い状態が認められ,これらのことから,アカバナの開花は,
あるが(近藤ほか 2003;2004;鈴木 2013),アカバナにお
天候および個花の状態に影響されると推測された.
いては,乾燥下にあっても発芽に著しい影響を受けないこ
とが示唆された.
アカバナの花粉には,粘着糸に類似する連結糸により 4
集粒となり,ポリネーターと粘着糸の諸形質は,進化との
同 属 イ ワ ア カ バ ナ Epilobium amurense subsp.
結びつきを考える上で,重要であると考えられている(幾
cephalostigma では,熟した蒴果を持つ地上茎が何らかの
瀬・佐藤 1984).また,アカバナの雄しべは,長短各 4 本
原因で倒伏して水に浸かった場合,翌年,斉一に発芽する
の花糸からなることから,葯の異なる高さに反映され,こ
事例が報告されていて(松村 1950),アカバナにおいても,
の形態は,異形雄しべと捉えることもできる.花のつくり
同様なケースが居谷里で認められた(図 11).
および開花時間から,アカバナの花には,昼行性のジェネ
実験においても冠水条件で発芽ができることを追認した
ラリストが餌資源を求めて,訪花すると考えられ,異なる
が,追認は浸水下での発芽が可能であることを示すもので
葯の高さは,訪花した昆虫の体に確実に花粉をつけて,送
粉させるために機能しているのかもしれない.
さらに,柱頭上部は花弁が開く前に露出する傾向が認め
られたことは興味深く,開花前に柱頭が花弁の外に露出す
る例は,雌性先熟のショウジョウバカマの例にみることが
でき(河野ほか 2004),雌雄異熟は,媒介者の行動を介し
て進化したものと考えられている(菊沢 1995).
アカバナにおいても柱頭上部の露出は,媒介者との行動
と何らかの関係があるのかもしれないが,実際には訪花昆
虫相に貧しく,その頻度も低いと考えられ,あわせて,花
序内で開花期が重ならずに一個花のみが開花した発芽 1 年
図 11 冠水状態で発芽した実生
目の個体および隔離状態で路地栽培した成熟個体において
結実が認められたことは,自家和合性による結実が行われ
あり,その後の成長が可能かどうかは,本研究において明
ている可能性を示唆するものであり,他殖を促進する機能
らかにできなかった.
が現在に至っては,効果的に働いていないことを示してい
発芽すると成長の早い個体では,春播きおよび秋播きに
るのではないだろうか.
かかわらず,1 年目に開花に至った.同時に夏から秋にか
近年では,シロイヌナズナを使って自家不和合性から自
けて地際のいくつかの節からは,匐枝が対角線上に伸長し,
家和合性に進化した過程が分子レベルの知見を取り入れ
その先端にラメットが形成された.一方,親株は地下器官
ながら明らかにされつつある(
「シロイヌナズナ属における
を含め,その年に枯死した.このようなシーズンごとに完
自家和合性進化の遺伝的背景を探る(土松 隆志・清水 健
全に地下器官および地上器官をつくりかえる多年草を疑似
太郎)」http://bsj.or.jp/frontier/BSJreview2010B7.pdf,
一年草と呼ぶことがある.
2015 年 11 月 30 日確認).
生産された複数のラメットは,親株と同様にクローン繁
アカバナにおいても,同様な進化の過程を辿った可能性
殖を行うことになる.このような繁殖様式は,遷移初期あ
も考えられ,今後,様々な分類群における進化学的・生態
るいは他の植物が定着しづらい箇所に侵入するのに有利に
学的研究のさらなる蓄積が待たれる.
働くものと考えられている(大原 2010).
生産された種子には,種髪を有することから,基本的に
なお,原(1942)は,茎に屈毛を多少有するアカバナとは
風散布であると判断される(中西 1994;浅野 2005;多田
異なり,茎の最上部に腺毛を混生する以外は屈毛のみから
2008).
なるものをムツアカバナ Epilobium pyrricholophum . var.
発芽は,秋播きおよび春播きにかかわらず,翌春に認め
curvatopilosum として記載している.ムツアカバナは,長
られ,春まきの場合は,10 日ほどで発芽しはじめた.平松
野県では,中部,東部および南部に分布するとされている
(1973)は,アカバナの発芽は,散布期の秋および翌春の 2
(長野県植物誌編纂委員会(編)1997).中信の北西部に位
つのピークがあるとしたが,本実験では,秋の発芽は認め
置する居谷里および親海に由来する個体には,茎に屈毛の
られず,発芽ピークの違いは,地域間の気候の違いによる
みが密に生えていることから,ムツアカバナに相当する可
温度差が反映されているのかもしれない.
能性があり,今後の検討が必要である.
また,種により種子は,乾燥で発芽率が低下することが
本研究では,生活史を観察することで,これまで報告
68
長野県北西部におけるアカバナの生活史および繁殖特性 ―日本産草本植物の生活史研究プロジェクト報告第 7 報―
されていない開閉花であることを明らかにし,清水・梅林
近藤哲也・高橋孔明・深井誠一・石本里美・下村孝(2003)
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(1995)が,親株は 1 年で開花枯死すると推測したことも
明らかにすることができた.また,清水・梅林(1995)は,
アカバナと同属イワアカバナとは,宿存根毛の有無および
子株(ラメット)の発生の違いなどを示していて,これは,
同属であっても繁殖生態が異なることを示唆するものであ
り,生活史および繁殖様式等を同属間で比較することで,
新たな知見が得られる可能性を示しているものと考えられ
る.
謝 辞
親海湿原および居谷里湿原の調査に際しては,各所管で
ある白馬村教育委員会および大町市教育委員会より許可を
得て行いました.
白井伸和氏(石川県地域植物研究会)および藤田淳一氏
(長野県植物研究会)には,本稿執筆にあたり貴重な助言
および資料を提供していただきました.訪花昆虫の同定は,
四方圭一郎氏(飯田市美術博物館),須賀丈氏(長野県環
境保全研究所)および上田昇平氏(信州大学理学部)にお
願いしました.大町山岳博物館友の会会員である有川美
保子氏,板橋和子氏,細川武子氏および宮澤陽美氏には,
2011 年の企画展「くさばなの一生湿原でみられる植物の生
活史-その営みとなぞにせまる!-」開催および本稿の執
筆に向け,調査にご協力いただきました.
ここに記してお礼申しあげます.
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69
市立大町山岳博物館研究紀要 1:71 ‐ 74(2016)
短 報
Short Reports
Bull. Omachi Alpine Museum.(1)
:71 ‐ 74(2016)
飼育下のキジ(Phasianus versicolor )における雄変の報告
佐藤 真
市立大町山岳博物館,〒 398−0002 長野県大町市大町 8056−1
Masculinization of Domesticated Japanese Pheasant (Phasianus versicolor )
at the Omachi Alpine Museum
Shin S.SATOH
Omachi Alpine Museum, 8056-1, Omachi, Omachi City, Nagano Pref., 398-0002, JAPAN
市立大町山岳博物館付属園では 2005 年よりキジ(Phasianus versicolor )の飼育を行っている . 本稿では , 性成熟後のメ
スにおいてオスの形態的・生態的特徴を呈することを雄変と定義し , 当館付属園の飼育下個体における雄変の報告及びそ
の原因と雄変の適応的意義について考察した .
当館付属園では , 主に雌雄同居の平飼いを行っており , これまでに計 13 羽を飼育し , 自然繁殖によって第 2 世代までみ
ている . 2014 年 7 月 16 日に雌雄ペアで飼育していたメス個体の頭部にオス特有の羽装色が見られた . また , 同個体は 2013
年まで放卵を行っていたが , 2014 年以降には放卵は行っていない . 雄変の原因として , 先天性である遺伝子疾患や発現異
常なども考えられるが , 少なくとも当館付属園の飼育個体においては , 野生由来の卵から孵化し産卵経験もあるため , 老齢
化によって内分泌系やホルモン機能環に異常が生じた可能性が最も高い .
キーワード:キジ(Phasianus versicolor ),雄変,羽装色
2 キジ(Phasianus versicolor )について
1 はじめに
鳥類に特有の羽毛は , 飛翔や体温調節を可能にしている .
本研究で対象とするキジはキジ目キジ科に属する日本の
また , その色は種や性ごとに多様化し , 外敵への警告や隠
国鳥である . 日本の固有種として4亜種が分類されている
蔽 , 性的顕示などの生存や繁殖を有利にするために獲得し
が , 放鳥などの影響により交雑が進み , 明確な分類は難し
たと考えられている . 鳥類における羽毛色や羽装色(体色)
いのが現状である(浜口ほか 1991). また , 北海道を始め
の多様性は高く , 成長段階や季節変化によって様々なパ
とする一部の地域にはコウライキジ(Phasianus colchicus
ターンを表現している . 特定の鳥類では , 羽装色の性的二
karpowi )が侵略的外来種として生息している .
型を示す種がおり , これは特に性選択が強く働き進化した
オスの形態的特徴として , 頭から頸にかけてと体下面は
ことが考えられている . そのような性的二型を示す種では ,
黒色であり , 頸には紫色の , 体下面には緑色の金属光沢が
羽装色が子孫を残す上で重要な役割を担っていることが考
みられる . また , 後頭部には褐色味があり , 左右には短い
えられるが , 野生下においてオス特有の羽装色をもつメス
冠羽がある . そして , 皮膚が裸出している顔の赤い部分は
が古くから発見されており , 飼育下においてもそのような
繁殖期に大きく広がるなどの特徴も挙げられる(図 1 左).
変異が観察されている . 少なくとも野生下において , メス
一方 , メスは全体的に淡い黄白色の羽装色をもち , 黒褐色
の適応度を大きく損なうことが予測される変異がなぜ出現
の班が密にある(図 1 右). また , メスの羽装はオスとは異
するのか明らかになっていない .
なり保護色として機能している .
ここでは黒田(1976)が記述した「雄変」を , 種の中で
繁殖は 4 月から 7 月まで行われ(酒井ほか 2005), 7 月か
その変異が普遍的ではなく , 性成熟後のメスがなんらかの
ら 8 月に巣立ちし , 翌年の 4 月には性成熟が完了している .
原因によりオスの形態的・生態的特徴を呈することと定義
繁殖期にはオスの縄張りに複数のメスが棲みつき卵を産む
し , 鳥類における雄変の報告例に加えて , 市立大町山岳博
一夫多妻制の配偶システムを示し , 6−12 個の卵をメスだ
物館付属園における飼育下のキジ(Phasianus versicolor )
けが抱卵する . 非繁殖期にはオス同士・メス同士の群れで
の雄変を報告する . また , 雄変の原因と適応的意義につい
生活することが知られている(浜口ほか 1991).
て考察し , 今後の雄変個体の経過観察のための備忘とする.
71
佐藤 真
3 飼育状況
付属園におけるキジの飼育は , 野生から保護した卵が
2005 年 7 月 23 日に孵化したことが始まりである . 保護し
た卵 11 個より孵化した 8 個体(オス 1 羽 , メス 5 羽 , 不明
2 羽)から , 2006 年に 1 ペアによる自然繁殖を行い , 2006
年 8 月 6 日に 7 個の卵から第 2 世代の計 5 個体(オス 1 羽 ,
メス 2 羽 , 不明 2 羽)が孵化した . 2015 年 12 月 1 日時点で
オス親 1 羽とその子どものオス 1 羽 , そしてメス 1 羽を飼
育している . これらの個体は主に雌雄を同居させた状態で
平飼いし , 餌はキジ用ペレット(ZPC, オリエンタル酵母工
業株式会社)に加え , キャベツ及びニンジンを 1 日 1 回 , 計
図 1. 左 : 当園で飼育しているキジのオス , 右 : キジのメ
ス . 当時飼育していた他のメス個体も同様の羽装色を呈
している . 2009 年 2 月 15 日撮影 .
190g(2015 年 12 月 1 日時点)を給餌している .
付属園における雄変は 2014 年 7 月 16 日に担当飼育員が
メスの頭部にオス特有の羽を発見したことが始まりである
(図 2). キジでは , オスと同様の色の羽がメスに生えること
はないが , 雄変個体の羽装色は時間を経るごとにオスのも
のへと変化している(図 3). この個体は 2013 年まで繁殖・
産卵・抱卵を行っていたが , 2014 年以降に産卵は見られて
いない . 雄変個体の日齢を把握することは重要であるが ,
当館ではキジの個体識別をしていない . 雄変個体が 2005
年に受け入れた卵から孵った個体か , その個体から生まれ
た 2006 年の 2 世代目か不明であるが , 最低でも 9 年は生
存している . 一般的なキジの平均寿命がおよそ 10 年と考
えられているため , 老齢化が進んでいる .
図 2. 雄変したメスの発見初日の写真 . 頭部は同居オス
に突かれ羽毛が生えない状態 . 2014 年 7 月 16 日撮影 .
4 雄変と適応的意義
飼育下のキジにおける雄変は付属園以外でも見られて
おり , 繁殖の有無に関わらず生じている . キジ類の繁殖を
行っている施設に対して聞き取り調査を行ったところ , 出
生後に一度も産卵しないメスが約3年の時間をかけて徐々
にオスの羽装を呈していく例(日本キジ・ヤマドリ繁殖セ
ンター)や繁殖能力の有無は不明であるが 1 年以内にオス
とメスのモザイク状の羽装色へと変化する例(有限会社中
部雉舎), 生後 1 年から 2 年で雄変し死亡する例(有限会
社西條創建)などが挙げられた . また , 繁殖履歴のある約
9 年生存したコウライキジでも産卵しなくなり , 雄変する例
があった(有限会社西條創建). これらの例では羽装色が完
全にオスになることはなく , 特に頭部から顎部 , 体部上面 ,
翼上面にかけてオスの羽装色を呈することが分かった .
図 3. 雄変発見より約 4 ヶ月後の個体の羽装 . 2014 年 11
月 24 日撮影 .
野生下における雄変では , キジとコウライキジの雑種個
体とアイガモ(Anas platyrhynchos domesticus )におけ
る雄変が報告されている(籾山・小林 1926). また , マガ
が原因と考えられる雄変が報告されている(黒田 1976).
モ(Anas platyrhynchos )のメスにおいて , オス特有の黒
一方で , オナガガモにおいては , 幼鳥及び若い成鳥の卵巣
色で捲り上がる尾羽をもつ個体が報告されており(黒田
を顕微鏡下で観察した研究があるが , この研究では , どの
1964), 野生下のオナガガモ(Anas acuta )においても老化
個体においても卵巣の退縮が進んでおり , ニワトリ(Gallus
72
飼育下キジ (Phasianus versicolor ) における雄変の報告
gallus domesticus )でしばしば報告のある老齢化に伴う
いて , 卵胞刺激ホルモン , 黄体形成ホルモン , プロジェス
雄変ではないことが示唆されている(Chiba et al. 2011).
テロン , テストステロン , エストラジオール - 17 βやエスト
これらの野生下における報告では , 雄変とは異なる間性
ロンの血中濃度が排卵前の一定の時間帯に上昇すること
(intersex)や雌雄モザイクが含まれている可能性がある
が分かっており(e.g. Scanes et al. 1977; Furr et al. 1973;
が , 老齢個体と弱齢個体のそれぞれで雄変が報告されてい
Kappauf and van Tienhoven 1972; Senior 1974; Shahabi
ることから雄変の原因は複数あることが推察される .
et al 1975), 非排卵時には卵胞刺激ホルモン以外のホル
放卵を経験せずに雄変する場合 , 原因として先天性であ
モンは血中濃度が上昇しないことからも , これらのホルモ
る遺伝子疾患や発現異常などが考えられる . 雄変後の個体
ンは重要な役割を担っていることが示されている(今井
が卵を産まないのであれば , 野生下においては , その親の
2003). そして放卵までに , 卵管内における卵黄周囲膜外層
遺伝子がそれ以降の世代に引き継がれることは稀なため淘
の形成や卵白構成物質の分泌 , 卵殻膜の形成などの卵形成
汰されやすいだろう . また , 雄変は不利益だけではなく利
に関わる過程を経ることが必要である(今井 1980). このよ
益をもたらすことも考えられる . 例えば , オナガガモにお
うな卵生産過程は非常に複雑な相互作用によって進行し ,
いてはオスの羽装色を呈するメス個体はメス特有の求愛行
1 つの経路に異常が生じることで放卵に影響する . 従って ,
動を行わず , 繁殖行動に参加していないことが示唆されて
老齢化による雄変ではこれらのホルモンの分泌機構や機能
おり(Chiba et al. 2011), 潜在的に繁殖できない個体が外
環に異常が生じ , 放卵の停止や羽装色の変化が生じたので
見を変化させるだけでなく , 行動的にも繁殖に参加しない ,
はないかと考えられる . また , 遺伝子疾患や染色体異常の
あるいは繁殖対象から除外されることは , 限られた時空間
場合にも同様のことが言えるだろう . 老齢化以外の後天性
的資源の中でより効率的に子孫を残すための戦略の 1 つと
の原因としては卵塞症が考えられる . 一般的に卵塞症が疑
考えられる . 従って , なんらかの原因により繁殖ができなく
われるような症状として , 膨羽や食欲の減退などの非特異
なった場合に雄変することで , 個体ではなくその繁殖集団
的行動に加えて , 最終的には死に至るような総排泄孔から
の包括的適応度を上昇させていることが予想される .
の出血 , 低体温 , 起立不能などが挙げられ , 原因として産
卵過多 , 慢性卵管炎 , 卵管の癒着などが挙げられる(中津
一方で , 飼育繁殖下個体については , 家畜化・家禽化に
www.geocities.jp/nakatsuvet/Eggsecret.pdf).
伴って毛色や羽毛色が , 野生下よりも大きく多様化するこ
とが示されており(Andersson 2003), キジにおいても同様
付属園の雄変個体について , 卵塞症が疑われる症状は
のことが生じている可能性がある . 家畜・家禽における体
観察されていないため , 卵塞によって放卵できないわけ
色の多様化は , 管理された環境において保護色や顕示色
ではないだろう . その他にも , 内分泌撹乱物質による野鳥
の必要性が無くなり , 選択圧が弱まったために生じたと考
の繁殖障害が多く報告されているが(e.g. Anderson 1975;
えられる . また , 飼養する側としても肉質や産卵数などの
Harris 1993; Fry 1995), 同居個体やその他の飼育動物に
生産形質を , 体色を標識に選抜する目的や個体識別の目的
は異常が認められないため , その可能性は低い . また , 付
などで色の多様性を歓迎してきた歴史もある(村上 2007).
属園の飼育下個体は野生由来の卵から孵化したため , 選択
飼育下における雄変個体の遺伝子は野生下の個体よりも次
圧の緩和によって引き継がれた先天性の異常ではないこと
世代に引き継がれやすく淘汰されにくいことが考えられる
が考えられる . 従って , 少なくとも 9 年は生存している付
が、飼育・繁殖の方向性によって、人為淘汰の方向も変化
属園の飼育下個体における雄変は 老齢化による機能不全
するだろう .
によって生じた可能性が最も高いだろう .
放卵経験のある個体が雄変する場合 , 後天的な原因に
今後 , この雄変個体の観察を続け , 行動の変化や換羽の
よって雄変が生じ , 卵形成や放卵ができないと考えられる .
様子を記録する . また , 解剖学的視点から卵巣の退縮の有
放卵までの過程として , ニワトリでは , 最初に卵胞の急速
無を調査するとともに , 本稿では取り上げなかった雄変個
成長 , 次に排卵 , そして卵形成が行われる . 卵胞の急速成
体の羽毛色と羽の微細構造などにも焦点を当て , 雄変に関
長のためには脳下垂体前葉から生殖腺刺激ホルモンを放
する知見を広く集積する .
出し , これを卵胞が受容することでエストロゲンが分泌さ
5 謝 辞
れる . 次に分泌されたエストロゲンを肝臓で受容すること
で卵黄前駆物質が生産され , この物質が卵胞に取り込まれ
本短報を作成するにあたり , 聞き取り調査にご協力を
急速成長が生じることが分かっている . このような「脳下
賜った日本キジ・ヤマドリ繁殖センター , 有限会社中部雉
垂体-卵巣」及び「卵巣-肝臓」の2つの機能環が卵胞
舎 , 有限会社西條創建の皆様に厚く御礼を申し上げます .
の急速成長には必須である(今井 2003). また , 排卵にお
73
佐藤 真
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74
市立大町山岳博物館研究紀要 1:75 ‐ 80(2016)
資 料
Data
Bull. Omachi Alpine Museum.(1)
:75 ‐ 80(2016)
人文科学系収蔵資料における各資料群(コレクション)の要覧
関 悟志
市立大町山岳博物館,〒 398−0002 長野県大町市大町 8056−1
Survey of the Humanities Collection in the Omachi Alpine Museum
Satoshi SEKI
Omachi Alpine Museum, 8056-1, Omachi, Omachi City, Nagano Pref., 398-0002, JAPAN
市立大町山岳博物館が収蔵する博物館資料の推移をふまえ、公開中の「人文科学系収蔵資料目録」(2015 年 3
月作成版)をもとに、現在の人文科学系収蔵資料における各資料群の内容や特徴について概要を記した。目録は
120 頁にわたる大部なものであるため、その内容等を要覧としてまとめることは各資料群の具体像と特徴の把握・
理解に有用である。これによって、より細分類した資料群化や各資料群の価値向上へつながる資料情報の収集等
において参考に資するとともに、博物館利用者が収蔵資料に関わる照会を行う際の参考に供することで収蔵資料の
今後さらなる利活用へ結びつけたい。
キーワード:博物館学,人文科学,資料群(コレクション)
2 過去年度からの収蔵資料の推移
1 はじめに
当館では、1951(昭和 26)年の開館から現在に至るまで、
市立大町山岳博物館では、2014(平成 26)年度に「人文
多くは個人からの寄贈という形で人文科学系の各種資料を
科学系収蔵資料目録」を作成し、ウェブサイト上での公開
をはじめた 。この目録は当館が収蔵する人文科学系の博
収集してきている。過去年度からの収蔵資料の推移につい
物館資料に関する資料情報の一部を集約したもので、各分
て、年度区切りで各分野の収蔵資料点数を掲載した『年
類で収録した項目・資料情報は各資料整理用紙(資料登録
報』を当館で編集・発行するようになったのが 2002(平成
カード)の記載をもとにしている。今後、収蔵資料の全体
14)年度からであり、それ以前の収蔵資料点数の統計を記
像を把握して再分類・整理を行いながら、よりテーマをし
載したものが手元の資料では確認できなかった。したがっ
ぼった企画展を立案・実行することで資料情報をさらに蓄
て、ここでは参考までに当館の機関誌・広報誌『山と博物
積していきたい。そうすることで、テーマごとに資料群(コ
館』の誌上2)に比較可能な数値が示された分野に限り、過
レクション)化を図り、各資料群としての価値を高めてい
去年度からの収蔵資料点数の推移を【表 1】に示す。ここ
きたいと考える。
で示した収蔵資料の点数は、人文科学系資料については山
1)
本稿では、過去年度からの収蔵資料の推移をふまえ、公
岳資料と民俗資料の 2 分野のみである。
開中の目録(2015 年 3 月作成版)をもとにして、現在の人
【表 1】によると、1957(昭和 32)年の二代目本館開館時
文科学系収蔵資料における各資料群の要覧を記す。公開
から 1982(昭和 57)年の三代目本館開館時までに山岳資料
中の目録は個々の部分的な資料情報を一覧にして掲載した
は収蔵点数を 10 倍強に増加させている。これは、三代目
大部なものであり、一見して収蔵資料の内容や特徴を把握
本館となる新館オープンに向けて積極的に資料収集活動が
できる資料とはなっていない。人文科学系収蔵資料におけ
行われたためである3)。それ以前にも、1951(昭和 26)年
る各資料群の内容や特徴の概要を示すことで、今後の各資
の開館から 1980(昭和 55)年までは大町で毎年秋に実施さ
料群化へ向けた基礎情報に資するとともに、外部からの収
れる文化祭に参加して企画展・特別展を開催しており、こ
蔵資料に関する照会時の参考情報に供して収蔵資料の利
れが山岳資料の新規収集につながっていたほか、開館以降
活用を一層推進したい。
の継続的な資料収集活動を通じて当時「山岳室」や「海
外登山室」と名づけられた常設展示室の設置や充実が図ら
れた4)。こうして当時収集された山岳資料の中には、遠山
75
関 悟志
【表1 過去年度からの収蔵資料点数の推移(図書資料を除く実物資料)】
※2003(平成15)年度以降については、各年度の当館『年報』に記載された数値を用いた。1982(昭和57)年以前については、当館では『年報』を編集・発行しておらず、年度ごとの各分類の収蔵資料点数の統計が確認できない。そのため、ここでは過
去に当館機関誌・広報誌『山と博物館』誌上で比較可能な収蔵資料点数の統計が示された4分類のみに限るとともに、同誌上に記載された数値を用いた。なお、各時点の年代については年次と年度が混在する。
分類名
1951(昭和26)年
哺乳類(剥製・骨格標本)
鳥類(剥製標本)
山岳資料(寄託資料除く)
民俗資料
各年次・年度時点の収蔵資料点数
1957(昭和32)年
1982(昭和57)年 2003(平成15)年度 2014(平成26)年度
※初代本館開館
※二代目本館開館
38点
203点
65点
0点
52点
401点
96点
53点
やまうど
※三代目本館開館 ※2001(平成13)年度50周年展示改修 ※2013(平成25)年度60周年展示改修
187点
539点
1,029点
929点
229点
634点
3,410点
977点
237点
651点
7,379点
932点
品右衛門や小林喜作などの北アルプスの山人や大町登山案
た目録を整備して公開し、その 7 割以上をデジタル化して
内者組合に関する実物資料があり、これらは現在の当館常
いることが望ましいとされている9)。
設展においても個々の展示コーナーを構成している。そし
しかしながら、当館では開館以来、一般に公開可能な収
て、三代目本館開館以降、近年では約 10 年おきに創立何
蔵資料の目録が整備されていない状況であった。そのため、
十周年記念事業のひとつとして節目ごとに実施されてきた
創立 60 周年記念事業のひとつとして実施した常設展示改
常設展の展示改修を経ながら山岳資料の収蔵点数は年々
修事業が完了した後の 2014(平成 26)年度は、資料の整
増加している。加えて、
2012(平成 24)年の当館付属施設
「山
理・登録、保存・管理の推進を館全体の重点事業に位置
岳図書資料館」設置・開館にともない、前後の年度におい
付けて取り組んだ。人文科学系収蔵資料については、それ
て山岳図書資料のまとまった寄贈を受けて整理・登録作業
までにも継続的に資料整理作業に取り組んできていたこと
を行ったことから収蔵点数が大幅に増加した。現在、山岳
から、この年度までに各分類における資料整理用紙の内容
資料や一般図書の山岳図書資料を中心とした人文科学系
を全てエクセルデータ化し、テキスト情報のみではあるが
資料の寄贈申し出が毎年定常的にあり、年間を通じて新規
資料情報のデジタル管理が可能となった。これにより、パ
受入を行っているため、今後しばらくは収蔵点数増加の傾
ソコン上での資料情報の一元管理ができ、館内での学芸関
向が維持されると推測する。
係の事務事業や照会対応の業務において、担当職員による
一方、民俗資料の点数について【表 1】をみると、1951
検索や閲覧等が格段に容易となった。さらに、館外からの
(昭和 26)年の初代本館開館時には民俗資料を収蔵して
資料情報の閲覧を可能とするために、これらのデータをも
おらず、その後、1957(昭和 32)年の二代目開館から 1982
とにし、2014(平成 26)年度に人文科学系の収蔵資料目録
(昭和 57)年の三代目開館までの間あるいはその前後に収
を作成した。目録を一般に公開することは、収蔵資料のコ
蔵した民俗資料が大半である。この間に積極的な資料収集
レクション管理だけでなく、博物館利用者による調査研究
活動を行ったことによるもので、とくに 1960(昭和 35)年
や教育普及といった面においても有用で収蔵資料の利活用
に北安曇郡下の各地域でまとまった点数の民俗資料が収集
につながると考え、編集加工を加えた公開用の目録を当館
されている 。そうした資料収集活動を通じ、秋の文化祭
公式ウェブサイト上に 2015(平成 27)年度から掲載してい
で民俗関係の企画展・特別展が開催されたり、当時「郷土
る。公開中の目録(2015 年 3 月作成版)
【写真 1】
は PDF デー
室」や「民俗展示室」と名づけられた常設展示室の設置や
タで、ウェブサイト制作委託業者によるメンテナンスにあ
5)
充実が図られたりした 。なお、2003(平成 15)年度から
わせて、新規登録資料の情報を反映させた最新版に毎年
2014(平成 26)年度の間に民俗資料の点数が減少している
更新していく予定である。
6)
が、これは 2000(平成 12)年に行った資料再整理作業の際
に欠損や虫害が認められたりした資料について資料登録を
市立大町山岳博物館
解除して廃棄したことによる。
人文科学系 収蔵資料 目録
【目 次】
分類名 (点数) 頁
○ 山岳資料 (7,379) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1~ 88
○ 民俗資料 ( 932) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 89~101
○ 美術資料 ( 189) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 102~107
(○ 尾竹正躬関係資料 (201) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 108~111)
○ 歴史資料 ( 12) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 112
〇 考古資料 ( 0) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 113~114
〇 寄託資料(山岳資料、美術資料) (610)
《寄託内訳》
個人寄託 (361 ※うちピッケル関係資料 93) ・・・・・・・・・・・・ 115~117
団体寄託 (249) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 118~120
(計 9,323点)
3 「人文科学系資料目録」の公開
「博物館法」第 3 条第 6 項には、博物館の事業として博
物館資料に関する目録の作成・頒布が定められている7)。
また、
「博物館の設置及び運営上の望ましい基準」第 9 条
【凡 例】 ・この目録は当館が収蔵する人文科学系の博物館資料(実物資料等。一般図書等
を除く)に関する資料情報の一部を集約したものです。
・各分類に収録した項目・資料情報は各資料整理用紙の記載をもとにしています。
ただし、寄贈者等に関する個人情報や調査記録等の記載については除きます。
・資料に関する具体的な事項については直接当館にお問い合わせください。
第 1・2 項には、それに加えて、目録を閲覧に供する際イ
ンターネットを積極的に活用するよう努めることが定めら
市立大町山岳博物館
2015
れている8)。さらに、公益財団法人日本博物館協会「博物
館自己点検システム」では、収蔵資料の 7 割以上を記載し
2015.3.31作成【公開用】
【写真 1 「人文科学系収蔵資料目録(2015 年 3 月作成版)」表紙部分】
76
人文科学系収蔵資料における各資料群(コレクション)の要覧
4 収蔵資料における各資料群の内容と特徴
書籍等の形態をした山岳図書資料が大半を占める。なお、
当館が収蔵する人文科学系資料は、後立山連峰を主とし
山岳図書資料に関しては、このほかにも一般図書資料とし
た北アルプス(飛騨山脈)を核にして、中央アルプス(木曽
て収蔵する点数が 3 万点を超え、山岳資料に含まれる点数
山脈)や南アルプス(赤石山脈)を含む日本アルプスをはじ
と合わせた総数では 4 万点を超える蔵書がある。こうした
めとした国内の山岳から、ヨーロッパの本場アルプス山脈
ことから、当館の人文科学系収蔵資料の特徴は、山岳図書
や世界の高峰が連なるヒマラヤ山脈など海外の山岳にいた
資料を含めた山岳資料が資料群全体の中核をなしていると
るまでの、登山史等を含む山岳文化(山岳文化史)にかか
いえる。
以下、各資料群の具体的な内容と特徴について述べる。
わる実物資料と、それらに関係した図書資料が主である。
(1) 山岳資料
こうした収集資料の総体的な特徴は、当館の人文科学系の
学芸分野において、過去から現在までの山と人とのかかわ
ここでいう山岳資料とは、登山用具あるいは山岳関係の
りを明らかにし、未来へ向けた山と人とのかかわりの在り
図書(山岳図書)等である。山岳資料のなかで、さらにグ
方を考えることを目的に、前述の山岳とその周辺地域とい
ループ化して整理・登録を行っており、それぞれのグルー
う地理的範囲において過去から現在までの時間軸でとらえ
プで小規模な資料群を構成している。グループ化に際し
た事物全般の関係資料を収集領域として継続的な活動を
て、基本的には資料の使用者や寄贈者等の人物ごとに整理
行ってきたことによる。
番号を付して幹番とし、そのグループに属する資料に枝番
人文科学系収蔵資料の点数については、2015(平成 27)
を付す方法で管理を行っている。網羅的なものとはいかな
年 3 月 31 日現在、実物資料 9,323 点で、その構成と内訳
いが登山史上に名を残す国内の岳人や山案内人が使用した
点数は、山岳資料(山岳資料としての山岳図書資料 5,929
登山用具や関係資料、あるいは国内の学生や社会人の海外
点含む)7,379 点、民俗資料 932 点、美術資料 189 点、尾
遠征登山隊が使用した登山用具といったように、各人物・
竹 正 躬関係資料 201 点、歴史資料 12 点、考古資料 0 点、
事柄等で資料群をそれぞれ形成している。ここでは個々の
寄託資料(山岳資料、美術資料)のうち個人寄託 361 点(う
人物名や事柄名は挙げることはしないが、参考までにどの
ちピッケル関係資料 93 点)、団体寄託 249 点である。さ
ような登山用具等を収蔵しているのか、収蔵庫内での保管
らに、このほか図書資料(一般の山岳図書資料)33,893 点
時に各資料を仮分類している項目を次に挙げる。
お
たけ まさ み
衣類、ピッケル、帽子・手袋・オーバーシューズ、ゼル
を収蔵する。なお、ここで述べる各資料群の分類名は当館
プスト・ハーネス・ヘルメット・カラビナ・ハーケン・スノー
で資料保存管理の都合上、付したものである。
当館の人文科学系収蔵資料の構成比を表した【図1】が
バー、マスク・レギュレーター・ゴーグル、パイプラダー・
示すとおり、全体の約 8 割が山岳資料(79.1%)である。こ
ボンベ、登山靴、ザック、書籍(山岳図書資料)、背負子・
の山岳資料は一般図書資料以外の山岳図書資料約 6 千点
フレーム、書簡・色紙・写真、スキー、テント・ツェルト、
を含み、約 7 千 4 百点を数える山岳資料全体からみると、
ビンディング・シール・ワックス、運搬箱・キャンバスバッ
人文科学系収蔵資料の構成比
グ・柳行李、古代スキー、ランプ、ワカンジキ・スノーシュー、
(図書資料を除く実物資料)
シュラフ、アイゼン・カナカンジキ、マット、海外収集品、
尾竹正躬関係
資料
2.2%
美術資料
2.0%
歴史資料
0.1%
考古資料
0.0%
コンロ・コッフェル・テルモス・乾燥食、その他。
寄託資料
6.5%
(2) 民俗資料
ここでいう民俗資料とは、民俗学分野における調査研究
対象となるもので、衣食住や年中行事等にかかわる道具や
器物といった民具の有形資料(実物資料)が主である。
当館が収蔵する民俗資料には、大町市周辺地域における
民俗資料
10.0%
かつての山村の暮らしを伝える民具が含まれ、それらの一
山岳資料(一
般以外の山岳
図書資料
5,929点含む)
79.1%
のみ)】
部は常設展示に供しているが、町場等の一般家庭での年中
行事に関する資料等、山との直接的な関係性を持たない民
具等も含まれている。なお、当館同様に大町市周辺地域で
使用された民具等の民俗資料については、大町市文化財セ
ンター(所管:大町市教育委員会生涯学習課)でも収蔵し、
保存管理を行っている。
【図1 人文科学系収蔵資料の構成比(図書資料を除く実物資料)】
※ 2014( 平成 26) 年 3 月 31 日現在
尾竹正躬関係
資料
2.2%
美術資料
歴史資料
0.1%
考古資料
0.0%
寄託資料
6.5%
77
関 悟志
(3) 美術資料
当館で収蔵する資料は 10 点強で、山との直接的な関係性
ここでいう美術資料とは、絵画等の美術作品である。
を持たない仏像や銃砲・刀剣類等である。
受入台帳や資料整理用紙の資料情報によると、当館で美
(6) 考古資料
ここでいう考古資料とは、考古学分野における埋蔵文化
術資料の収集をはじめたのは、ほかの分野の資料に比べて
財の発掘調査による土器や石器等の出土品である。
遅く、1982(昭和 57)年の三代目開館の準備時からである。
美術資料については、一部の購入資料を除き、ほか全ては
当館収蔵の考古資料は大町市内やその周辺町村内で出
寄贈によって収蔵したもので、現在までに徐々に点数を増
土したもので、過去に収蔵実績がある考古資料は累計す
してきた。当館で収蔵する美術資料の中心は山岳風景画
ると約 160 点であるが、大町市にかかわる考古資料を保存
(山岳画)で、なかでも明治期以降の山岳画家らが描いた
管理している大町市文化財センターへ全資料を 1993(平成
山岳風景画作品の資料群が特徴的である。その一方、山と
5)年頃に移管している。
の直接的な関係性を持たない風景画等の作品も収蔵してい
(7) 寄託資料
ここでいう寄託資料とは、個人あるいは団体からの寄託
る。参考までにどのような作家の作品を収蔵しているのか、
作家名を次に挙げる。なお、ここに挙げた作家は現在まで
を受け、当館で借用している資料である。これらは寄贈・
に整理・登録が完了した美術資料においての一覧であるた
購入等によって収蔵した資料とは別グループにして保存管
め、過去年度に寄贈を受けていても目録作成時までに登録
理を行っている。寄託資料の内訳は先述の山岳資料と美術
が完了していない作品の作家は含まれない。
資料である。山岳資料が大半を占めるが、その中には資料
の性質から分類すると歴史資料や考古資料の範ちゅうに入
不破章、石井柏亭、石沢清、小山良修、漆畑廣作、中
村清太郎、若林晴男、丸山雅夫、古市幸科、大工原武司、
るものもある。
長谷川明夫、中川力、藤江幾太郎、足立源一郎、茨木猪之吉、
ア 個人寄託
個人 12 名と大町市文化財センターの計 13 箇所からの寄
山川勇一郎、後藤三男、足立真一郎、吉崎道治、篠原昭
登、畦地梅太郎、牧潤一、江村真一、大下藤次郎、熊谷榧、
託資料は約 360 点を数える。大町市文化財センターについ
高田正二郎(以上、順不同)。
ては個人ではないが、便宜上、個人寄託の区分に位置付け
(4) 尾竹正躬関係資料
て管理している。これら資料については、基本的には常設
これらは、大町市出身の日本画家・尾竹正躬(1903 ~
展で展示するために個人等に依頼して寄託という形式で借
1985 年)に関わる資料で、尾竹が描いた日本画の作品のほ
用しているものである。しかし、一部には山との直接的な
か、尾竹旧蔵の関連資料である。こうした資料の性質から
関係性を持たないもの、あるいは現在の常設展の展示構成
すると美術資料の範ちゅうに入るが、当館での管理上、ひ
に組み込まれないものも含まれる。
とつの資料群を構成している。大町市周辺の風景等が描か
個人寄託による資料の中で、特徴的な一資料群を形成し
れた作品の中には、北アルプスやその山麓が描かれるもの
ているのがピッケル関係資料である。それらは関係資料を
が一部あるが、大半は山との直接的な関係性を持たない作
含めて約 90 点収蔵している。国内のピッケル研究家(故
品である。
人)が収集したもので、日本やスイスで作られた古典的な
なお、尾竹正躬関係資料と先述の美術資料を含め、大町
ウッドシャフト(木製の柄)ピッケルの逸品が主である。こ
市所有の全美術品の取り扱いについては大町市教育委員
れらは登山用具であるために山岳資料に区分されるが、一
会生涯学習課が一括して主管しており、資料の保管施設が
方では機能美を追求して美術品の域まで高められたものと
当館という位置付けになっている。
して美術資料の価値も見出すことができる。
(5) 歴史資料
イ 団体寄託
ここでいう歴史資料とは、歴史学分野における調査研究
公益社団法人日本山岳会(事務局:東京都千代田区)か
対象となる文献や遺物等で、絵図・古文書類を含む史資料
らの寄託資料は約 250 点を数える。当館では 1981(昭和
である。
56)年以降、同会が所蔵する山岳資料・美術資料の寄託を
当館が収蔵する歴史資料は大町市とその周辺地域にか
受けて借用し、館内で保存管理を行っている。寄託開始当
かわるもので、昭和 20 年代末から同 30 年代中頃に寄贈等
初は 40 点弱の資料点数であったが、現在にいたるまで複
によって収蔵されたものが中心である。過去に収蔵実績が
数回にわたり寄託の追加を受け、現在の点数となっている。
ある歴史資料は累計すると 50 点強であるが、大町市にか
これらの資料は、日本山岳会に所属した著名な岳人が使用
かわる歴史資料の保存管理を行う大町市文化財センターへ
した登山用具や関係資料、同会が組織した海外遠征登山
大半の資料を現在までに移管している。したがって現在、
隊で使用された登山用具などである。ここでは個々の人物
78
人文科学系収蔵資料における各資料群(コレクション)の要覧
名や事柄名を挙げないが、こうした資料の一部は常設展で
の一般図書資料については日本十進分類法(NDC)にした
展示して利活用させていただいている。
がって分類を行っている。公開中の目録(2015 年 3 月作成
(8) 山岳図書資料(山岳資料含む)
版)
【写真 2】は PDF データで、
最新版に毎年更新している。
なお、この目録には、山岳図書資料として掲載しているが
ここでいう山岳図書資料とは、山岳に関する書籍のほか、
地形図、記録書類、書簡、記録写真、記録映像フィルム及
山との直接的な関係性を持たない人文科学系の総記等の書
びこれらに準ずるものである。具体的には、当館では下記
籍も一部含まれる。
の細分類に該当するものを山岳図書資料として取り扱う。
5 むすびに
書籍(雑誌・写真集等含む)、論文、冊子、パンフレッ
ト・リーフレット、地形図、書類(記録等)、概念図、絵図、
本稿では、第 2 章で市立大町山岳博物館における過去
書簡(手紙・葉書等)、写真(プリント・フィルム・アルバ
年度からの収蔵資料の推移についてふれた。それをふまえ、
ム等)、新聞切抜、色紙、短冊、名刺、手帳・ノート、スケッ
第 3 章では、公開中の「人文科学系収蔵資料目録」(2015
チブック、絵葉書、切手帳、カセットテープ、ビデオテープ、
年 3 月作成版)をもとにして現在の人文科学系収蔵資料に
映像フィルム等。
おける各資料群の内容や特徴について概要を記した。この
目録は収蔵する実物資料を集約したもので 120 頁にわたる。
こうした資料のうち、昭和 30 年代以前に発行された希
少本や著名人旧蔵の蔵書など現在では一般に入手困難で
さらに、一般的な図書資料を含めた山岳に関する書籍等を
付加価値があり、資料価値の高いものは山岳資料として取
集約した別の目録である「山岳図書資料館収蔵 山岳図書
り扱っている。それ以外の一般的な図書資料については山
資料目録」(2015 年 3 月作成版)は 700 頁を超える。この
岳資料に登録せず、一般図書資料として取り扱っている。
ように大部な目録を要覧としてまとめることは各資料群の
内容と特徴の把握・理解につながり、さらに細分類した形
山岳図書資料は、当館の付属施設「山岳図書資料館」
で収蔵し、保存管理を行っている。山岳図書資料館は、山
での資料群化や各資料群としての価値を高めるための資
岳図書等の資料を収集・保管することで散逸・亡失を防ぐ
料情報の収集等へ向けた参考に資することができると考え
とともに、市民をはじめ登山者や研究者等の調査研究及び
る。同時に、外部の博物館利用者が当館の収蔵資料に関し
教育普及に資することで山岳文化の継承と普及の推進を図
て照会を行う際の参考に供することで今後さらなる収蔵資
る施設として、当館の創立 60 周年を記念して 2011(平成
料の利活用へつながると考える。なお、個別の資料情報を
23)年度に大町市が建設し、2012(平成 24)年 4 月に開館
確認したい場合は当館公式ウェブサイト上で公開中の目録
した。建設にあたり、2011(平成 23)年度に創立 50 周年を
を参照いただき、さらに詳細な資料情報に関しては当館へ
迎えた長野県山岳協会から建設費の一部として大町市へ寄
直接問い合わせ願いたい。
当館は後立山連峰を中心にし、北アルプスの山岳をテー
付金をいただくとともに、山岳図書資料を寄贈いただいた。
山岳図書資料館開館にともない、2012(平成 24)年度から
マとする総合博物館である。人文科学系の分野においては
「山岳図書資料館収蔵 山岳図書資料目録」を作成し、ウェ
開館以来、山岳というテーマにしたがって、歴史・民俗・
ブサイト上で公開している。この目録は「人文科学系収蔵
考古・美術といったさまざまな学術分野の資料を収集保管
資料目録」とは別に山岳図書資料館が収蔵する図書資料
してきている。しかし、1951(昭和 26)年の開館当初には
に関する資料情報の一部を集約したもので、山岳資料以外
人文科学系資料は比較的少なく、二代目本館が開館した
1957(昭和 32)年頃までは動物のはく製等の自然科学系資
市立大町山岳博物館 付属施設
料が収蔵資料の大半を占めており、収蔵する実物資料の資
山岳図書資料館 収蔵
料群構成からみると、自然科学系の博物館という性格が強
山岳図書資料 目録
かった。これに加え、当館におけるニホンカモシカやライ
チョウの当館付属施設「付属園(動植物園)」での飼育繁
殖と野外生息調査といった調査研究の実績から、動物を中
【目 次】
頁
○ 一般図書資料(人文科学関係) ・・・・・・・・・・・・ 1~647
○ 一般 AV 資料(人文科学関係) ・・・・・・・・・・・・ 648~652
○ 山 岳 資 料(図書資料関係) ・・・・・・・・・・・・ 653~767
心とした自然史博物館としての側面が強調されるという現
在にいたるまでの当館のイメージにつながっているものと
考えられる。その一方、三代目となる現在の本館が開館し
市立大町山岳博物館
2015
た 1982(昭和 57)年頃になると人文科学系の収蔵資料点数
2015.3.31作成【公開用】
が格段に増加し、以後も増え続けており、登山史を含む山
【写真 2 「山岳図書資料館収蔵 山岳図書資料目録(2015 年 3 月作成
版)」表紙部分】
岳文化史を取り扱う“山の殿堂”としても現在までに認知
79
関 悟志
されてきているものと考えられる。
とくに近年では、
2012(平
成 24)年の当館付属施設「山岳図書資料館」開館にともな
い、戦後の登山ブーム時からの登山愛好者等が個人的に所
蔵する山岳図書について、本人あるいは家族からの寄贈打
診が増加傾向にある。
今後の展開として、特定のテーマによる企画展の開催を
重ね、収蔵する各資料群において細分類を行って資料情報
を加えることで、さらに体系的な資料群(コレクション)化
を図り、それぞれの資料群ごとに資料価値を一層高めてい
きたいと考える。こうして資料価値を明確にした上で、単
に各学術分野を細切れにして取り扱うのではなく、山岳を
テーマに学術分野の垣根を越えて縦横断にクロスオーバー
させて融合することで浮かび上がる“山岳文化史”の視点
から山と人とのかかわりをとらえ、展示を含めた教育普及
事業や、その基となる調査研究事業や収集保管事業の展
開を図りたい。
注記・引用文献
1)市立大町山岳博物館の「人文科学系収蔵資料目録」は、当
館 公 式 ウ ェ ブ サ イ ト(URL:http://www.omachi-sanpaku.
com)上、
「山博について」内において公開中。
2)平林国男「山岳博物館を考える ―展示室を中心として―」
大町山岳博物館編『山と博物館』第 33 巻第 4 号(大町山岳
博物館、1988 年)2-3 頁
3)当館元館長の平林(1988:2)によれば、
「三代目の建物が
オープンする昭和五七年には、すべての分野にわたって新資
料が増加した。とくに、登山史資料で著しく、日本山岳会の
寄託資料を含めると一八〇〇点を越(原文ママ)える資料数と
なった。これら資料をベースとして現在の展示が構成され、
山岳室と山麓室の基本構成に加えて絵画・彫刻などの美術品
が組込まれた」という【引用文献:前掲の注2に同じ】。
4)平林(1988:2)によれば、
「部分的改変は、大町市が文化
の日を中心に、全市をあげて催す文化祭行事と関連しながら、
一年間の博物館活動の成果を発表する機会でもあった。こう
して、三代目の建物が新築される直前には、海外登山室や鳥
獣類のジオラマ室など室名の一部が変えられていた」という
【引用文献:前掲の注2に同じ】
。また、市立大町山岳博物館
編『市立大町山岳博物館 60 年の歩み』
(市立大町山岳博物館、
2011 年)23 頁の「昭和 46(1971)年度」の項には、
「山岳室
の一室を海外登山室に改修し、海外登山の資料の収集を行う
(後略)」とある。
5)前掲『市立大町山岳博物館 60 年の歩み』12 頁の「昭和 35
(1960)年度」の項には、
「6 月以来北安曇郡下の各地の民俗
資料の収集を計り、多くの資料を収集した。恒例の文化祭に
は「昔の生活用具展」(中略)を行い(後略)」とある。
6)平林(1988:2)によれば、
「継続された資料収集活動によっ
て資料数が増え、二代目の建物がオープンする昭和三二年に
は、展示室は郷土室・生物室・地学室のほか山岳室がつくら
れた」という【引用文献:前掲の注2に同じ】
。また、前掲『市
立大町山岳博物館 60 年の歩み』
22 頁の
「昭和 45(1970)年度」
の項には、
「展示室が狭くなったため講堂を改修して民俗展
示室とした」とある。
7)
「博物館法」
[1951( 昭 和 26) 年 12 月 1 日 法 律 第 285 号 最終改正:2014(平成 26)年 6 月 4 日法律第 51 号]では次
のように定める(抜粋)。
(博物館の事業)
80
第三条 博物館は、前条第一項に規定する目的を達成す
るため、おおむね次に掲げる事業を行う。
(中略)
六 博物館資料に関する案内書、解説書、目録、図録、年報、
調査研究の報告書等を作成し、及び頒布すること」
。
8)「博物館の設置及び運営上の望ましい基準」[2011(平成
23)年 12 月 20 日文部科学省告示第 165 号]には次のように
ある(抜粋)。
(情報の提供等)
第九条 博物館は、当該博物館の利用の便宜若しくは利
用機会の拡大又は第七条の調査研究の成果の普及を図
るため、次に掲げる業務を実施するものとする。
一 実施する事業の内容又は博物館資料に関する案内書、
パンフレット、目録、図録等を作成するとともに、こ
れらを閲覧に供し、頒布すること。
二 博物館資料に関する解説書、年報、調査研究の報告
書等を作成するとともに、これらを閲覧に供し、頒布
すること。
2 前項の業務を実施するに当たっては、インターネット
等を積極的に活用するよう努めるものとする。
9)公益財団法人日本博物館協会「博物館自己点検システム」
[2007 ~ 2008(平成 19 ~ 20)年開発・提供]の点検項目に
は次のようにある(抜粋)。
「資料・コレクション」領域
G12 収蔵資料の 7 割以上を記載した資料目録を整備し
ている。
G13 資料目録を公開している。
G14 資料目録の 7 割以上をデジタル化している。
他誌掲載の論文・報告等
Articles, reports, etc. of other journals
2015(平成27)年度に市立大町山岳博物館の職員が他誌に発表した論文・報告等は下記のとおり。
なお、
当館職員
以外の共著者等については所属を示した。
この他、
当館職員による資料収集保管・調査研究・教育普及事業にかかわる執筆活動の実績については当館編集・
発行の当該年度
『年報』
に別途掲載する。
千葉悟志・尾関雅章 1)(2015)フクジュソウの種子散布特性からみるアリによる種子散布の意義につい
て.長野県植物研究会誌 48:31-37.長野県植物研究会.
1)長野県環境保全研究所
千葉悟志 企画・構成 企画展の展示解説書(図録):市立大町山岳博物館編『平成 27 年度企画展 山
博にライチョウがやってくる! 山博「ライチョウの里」への再出発』(市立大町山岳博物館、2015 年)
1-18 頁
江田慧子 1)・中村寛志 2)・吉岡理恵 3)・千葉悟志 企画・構成 企画展の展示解説書(図録):市立大
町山岳博物館編『市立大町山岳博物館×信州大学山岳科学研究所連携企画展 山岳を科学するシリーズ
③「北アルプス山麓の自然に蝶が舞う」』(市立大町山岳博物館、2016 年)1-37 頁
1)信州大学先鋭領域融合研究群山岳科学研究所 2)信州大学地域戦略センター
3)信州大学先鋭領域融合研究群山岳科学研究所
関悟志 編著 企画展の展示解説書(図録):市立大町山岳博物館編『平成 27 年度市立大町山岳博物館
企画展 山岳風景画の世界 ―“山博”収蔵コレクション―』(市立大町山岳博物館、2015 年)1-37 頁
81
市立大町山岳博物館 研究紀要 編集要項
2015(平成27)年8月25日 制定
(目的)
第1 この要項は、
市立大町山岳博物館研究紀要(以下
「研究紀要」
という。
)の編集について必要な事項を定めることを目的
とする。
(編集・発行の趣旨)
第2 研究紀要は、
博物館業務から得られた調査研究の成果やそれに関する情報のほか、
関係各分野におけるさまざまな調
査研究の情報及び知見を、
市民等の個人や各学術分野の関係機関等に広く提供するとともに、
記録・保存し、
博物館におけ
る資料収集・保存管理事業や展示等の教育普及事業に有効活用するために編集・発行する。
(名称・発行)
第3 研究紀要は市立大町山岳博物館(以下
「博物館」
という。
)が定期的に発行する学術雑誌であり、
その名称は
「市立大町
山岳博物館研究紀要」
とする。
2 研究紀要は、
原則として年1回発行する。
ただし、
第4条で定める編集委員会が必要と認めた場合は、
この限りではない。
(編集委員会)
第4 第2条の趣旨にもとづき、
研究紀要を編集・発行するために、
市立大町山岳博物館研究紀要編集委員会(以下、
「編集
委員会」
という。
)を置く。
2 編集委員会は、
館長、
副館長、
学芸員、
専門員、
指導員により構成する。
3 編集委員会には委員長を置き、
館長を充てる。
館長が不在の時は副館長が代行する。
4 編集委員会の庶務は、
事務局で処理する。
事務局は学芸員の担当者により構成する。
5 編集委員会は、
必要に応じて、
構成員以外の者の出席を求め、
その意見を聴くことができる。
(掲載原稿の内容)
第5 掲載する原稿の内容は、
北アルプスやその周辺地域を中心とした山岳にかかわる自然科学分野、
人文・社会科学分野
の調査研究に関するものとし、
具体的には次の各号に掲げるとおりとする。
(1) 登山・スキー・紀行・随想
(2) 考古・歴史・民俗・美術
(3) 地質
(4) 植物・動物
(5) 自然の開発と保護
(6) 社会教育・生涯学習・博物館学
(7) 総合・観光・その他
2 上記以外の内容であっても、
編集委員会が特に認めたものは受理し掲載することができる。
(掲載原稿の種類)
第6 掲載する原稿の種類は、
次の各号に掲げるとおりとし、
内容は別に定める
「市立大町山岳博物館研究紀要投稿規程」
(以下
「投稿規程」
という。
)による。
(1) 原著論文
(2) 総説
(3) 報告
(4) 短報
(5) 資料
(6) その他
(投稿者)
第7 研究紀要への投稿者は次のいずれかに該当するものとする。
(1) 博物館職員
(2) 博物館職員との共同調査研究者又は共著者
(3) 博物館が連携協定を締結する研究機関等の職員
(4) 博物館友の会会員
(5) 編集委員会が依頼した者(特別寄稿)又は認めた者(投稿)
(原稿の提出)
第8 投稿者は、
別に編集委員会が定める期日までに、
投稿規程に定められた形式の原稿を編集委員会に提出する。
(原稿の審査)
第9 前条の規程により提出された原稿は、
編集委員会において審査を行い、
採択を決める。
2 編集委員会は、
原著論文等の審査に際し、
必要に応じて外部の学識経験者に査読を依頼し、
意見をもとめることができる。
3 編集委員会は必要に応じ、
原稿の修正を求めることができる。
(その他)
第10 この要項に定めるもののほか、
編集に関して必要な事項は別に定める。
附 則
この要項は、
2015(平成27)年8月25日から施行する。
82
市立大町山岳博物館 研究紀要 投稿規程
2015(平成27)年8月25日 制定
(目的)
第1 この規程は、
市立大町山岳博物館研究紀要(以下
「研究紀要」
という。
)への投稿について必要な事項を定めることを
目的とする。
(原稿の内容及び投稿者)
第2 研究紀要への掲載原稿の内容及び投稿者資格は、
市立大町山岳博物館研究紀要編集要項(以下
「編集要項」
という。
)
による。
(原稿の種類)
第3 掲載原稿の種類は、
原著論文、
総説、
報告、
短報、
資料、
その他とし、
その内容は以下のとおりとする。
(1) 原著論文
オリジナルな研究論文で、
印刷公表されていないもの。
日英表題、
要旨(5字以内のキーワードを添付する)、
本文および図表、
写真等の図版、
引用文献からなり、
十分な考察がな
されているもの。
(2) 総説
ある分野の論文や学説などを総括、
解説、
あるいは紹介したもの。
日英表題、
要旨(5句以内のキーワードを添付する)、
本文および図表、
写真等の図版、
引用文献からなるもの。
(3) 報告
研究に関係する調査結果をとりまとめたもの(報告書)。
日英表題(英は省略可)、
要旨(省略可)、
本文および図表、
写真等の図版、
引用文献からなるもの。
(4) 短報(速報、
研究ノート等)
新規性があり、
かつ公表の意義が高いもの。
新たに収集した資料や情報の紹介、
既成の知見を確認する報文や貴重な観察・
観測結果等の簡潔な報告(速報)。
研究途中であるが今後の研究によっては新たな知見が期待できそうな独創性や有用性が
ある調査や事例等を簡潔にとりまとめたもの等(研究ノート)。
日英表題(英は省略可)、
要旨(省略可)、
本文および図表、
写真等の図版、
引用文献からなるもの。
(5) 資料
博物館の業務や各分野の調査等で得られた観察・測定結果、
知見、
記録などを簡潔にとりまとめたもの。
表題、
データ等か
らなるもの。
(6) その他
(1)から(5)に該当しないもので、
市立大町山岳博物館研究紀要編集委員会(以下
「編集委員会」
という。
)が認めたもの。
(原稿の書式)
第4 原著論文、
総説、
報告、
短報、
資料の書式については、
第5条~12条に従う。
他も可能な限り従うものとする。
なお、
編集
委員会が必要と認めたものはこの限りではない。
(原稿の作成と様式)
第5 原稿はパソコン等に入力して作成し、
その様式はA4判縦の白紙に原則として横書き、
2段組みで、
1段あたり横25字
×縦45行に整えたものとする。
ただし、
人文科学分野においては、
必要に応じて縦書きも可とする。
その場合は、
段組みや文
字は同様とする。
(原稿の長さ)
第6 原稿の長さは、
要旨、
本文中の図・表・写真等の図版を含め原則として刷り上がり10頁以内とする。
なお、
掲載原稿の種
類別の長さの目安については下記のとおりとする。
(1) 原著論文:おおむね10頁以内。
(2) 総説:おおむね10頁以内。
(3) 報告:おおむね10頁以内。
(4) 短報(速報、
研究ノート等)
:おおむね5頁以内。
(5) 資料:おおむね5頁以内。
(6) その他:掲載原稿の内容によって編集委員会が定める。
(原稿の要旨)
第7 原著論文、
総説、
報告、
短報の原稿には、
本文の内容を簡潔に説明する要旨を付す。
要旨の冒頭には表題、
著者名、
所属
等を付加し、
これらを含めて和文は500字以内、
英文は250語以内とする。
(原稿の文体)
第8 原稿の文体は
「~である」
体に統一する。
ただし、
詩歌、
文芸作品、
歴史資料等で特別の理由がある場合はこの限りでは
ない。
2 新仮名遣いにより、
学術用語以外は常用漢字を用いる。
原稿中に欧語を用いるのは、
その必要がある場合に限る。
3 その他文章の書き方、
本文中の番号の記載順序は、
原則として大町市の公文書作成の手引きに従う。
(例 1―(1)―ア
―(ア)―a など)
83
(原稿の表記)
第9 原稿に用いる各表記は次のとおりとする。
(1) カタカナ:表記はすべて全角入力とする(半角カタカナは使用しない)。
(2) 数字:半角で入力し、
3桁ごとにカンマ(,
)を入れる。
ただし、
人文科学分野で縦書きの場合はこの限りではない。
(3) 英文:半角で入力し、
カンマ(,
)、
ピリオド(.
)も半角とする。
なお、
単語と単語の間には半角スペース( _ )を、
カンマ
及びピリオドの後には半角スペース( _ )を入れる。
(4) 動物・植物等の和名:全角カタカナ書きとし、
学名はイタリックとする。
単位は慣用となっている略字によって記載し、
ピリオドをつけない。
(5) 単位:慣用となっている略字によって記載し、
ピリオドをつけない。
単位、
数は半角表記とする。
(6) 句読点:自然科学分野においては、
原則的に句点を全角ピリオド( .)、
読点を全角カンマ( ,)とする。
(7) 暦年:人文科学分野等において暦年を用いる場合は、
原則的に西暦・和暦を併記する。
(例 2015(平成27)年)
(原稿の図表・図版)
第10 次の3種類にわけ、
それぞれ番号をつける。
(1) 図(Fig.
)
:本文中に入れる図および写真。
(2) 表(Table)
:本文中にいれる記号、
文字、
罫のみからなるもの。
(3) 図版(Plate)
:独立の頁として印刷される写真。
図版として示すべき十分な理由があり、
かつ原図が鮮明なものに限
る。
(4) 図および写真、
図版は下端に、
また、
表は上端にそれぞれ通し番号(図1、
表1など)をつけた表題を付す。
必要に応じ
て上端外に著書名、
通し番号をつける。
表題や注には英文を併記することができる。
(原稿の注記・引用文献)
第11 注記と引用文献は、
本文中の該当箇所に通し番号を記載し、
文末に一括して掲載する。
脚注等は用いない。
2 注記の記載は通し番号順とし、
文献の記載は原則としてアルファベット順とする。
ただし、
人文科学分野等における文献
の記載はこの限りではない。
3 文献の記載において、
誌名の略記法は和文の場合は慣例により、
一般的な略称を用いてもよい。
巻通しページがある場
合は巻のみとし、
ないときは、
巻(号)を併記する。
4 文献の記載については、
各分野における一般的な記載方法を用いるものとする。
(原稿の提出)
第12 投稿者は、
別に定める期日までに、
投稿規程に従って作成された原稿を編集委員会事務局に提出する。
提出は電子
データで行うものとし、
原則として本文はワード形式で図表はエクセル形式で、
写真等の図版はPDF・JPEG・TIFFファイ
ル形式で、
電子メールに添付等するかCD等の電子媒体1組に保存したものを添付する。
なお、
原稿の返却は、
原則として行
わない。
(原稿の修正)
第13 投稿された原稿は、
編集要項にもとづき審査を行い、
掲載の可否を決定するとともに、
審査結果により修正を求める
場合がある。
(抜刷)
第14 著者が抜刷を必要とする場合は、
必要とする部数を編集委員会事務局に連絡することとする。
2 抜刷に関わる費用は、
全額を著者の負担とする。
(著作物の取り扱い)
第15 研究紀要に掲載された著作物の著作権は著者に帰属するものとし、
市立大町山岳博物館はその著作隣接権を有する
ものとする。
2 著者が他の学術誌等へ転載する場合には、
編集委員会に申し出てその許可を受けることとする。
3 発行された研究紀要の内容は、
当館のウェブサイト上で公開される。
ただし、
生物の保護、
環境保全上等に支障が生じる
おそれのあるデータなどは公開しない。
附 則
この投稿規程は、
2015(平成27)年8月25日から施行する。
84
市立大町山岳博物館研究紀要
第 1 号 (創刊号)
Bulletin of the Omachi Alpine Museum
発行日
Issued : March 31, 2016
編集者
発行者
発行所
2016( 平成 28) 年 3 月 31 日
市立大町山岳博物館研究紀要編集委員会
(委員長 鳥羽章人)
No.1 (First Issue)
Editor : Editorial Committee of the Bulletin of
the Omachi Alpine Museum (Akihito TOBA)
Issuer : Akihito TOBA
鳥羽章人
市立大町山岳博物館
〒398—0002 長野県大町市大町 8056—1
TEL:0261—22—0211 / FAX:0261—21—2133
E-mail:[email protected]
URL:http://www.omachi-sanpaku.com
印刷・製本所 株式会社奥村印刷所
〒398—0002 長野県大町市大町 2470
TEL:0261—22—0205 / FAX:0261—22—1345
Published by the Omachi Alpine Museum
8056-1, Omachi, Omachi City, Nagano Pref., 398-0002, JAPAN
TEL : +81-261-22-0211 / FAX : +81-21-2133
E-mail : [email protected]
URL : http://www.omachi-sanpaku.com
Printing and binding by Okumura Printing Co., Ltd.
2470, Omachi, Omachi City, Nagano Pref., 398-0002, JAPAN
TEL : +81-261-22-0205 / FAX: +81-22-1345
©Omachi Alpine Museum 2016 Printed in JAPAN
Bulletin of the Omachi Alpine Museum
No.1(First Issue)
(Issued:March 31, 2016)
For the First Bulletin Issue TOBA A . ••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 1
Original Articles
MORIKAWA T . , T . KOSAKA and N . TAKAHAMA:
Hakuba - Oike Rubble Formation Geological Significances in the Central
Hime River, Central Japan ••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 3 - 24
HARAYAMA S . , T . KOSAKA, A.TANASE, T . SASAKI, Y.MIZUOCHI, Y . MIYAZAWA and
Shinshu University Ground Motion Research Group:
Subsurface Structures of the Kamishiro Basin in Hakuba Village, Nagano Prefecture,
Central Japan •••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 25 - 40
Reports
SEKI S . and H . NISHIDA:
Mountainscape Drawn on Artworks in the Omachi Alpine Museum ••••••••••••••••••••••••••••• 41 - 51
SHIMIZU K . :
Statue of the Buddha Left in the Kitaazumi Region: Changes in Buddhism compared
to Buddhists statues worshiped at the base of the Northern Alps ••••••••••••••••••••••••••••••• 53 - 62
CHIBA S . :
Life History of the Epilobium pyrricholophum Franch. et Sav . and Reproductive Traits
in Northwestern Nagano -project report for the life history flora of the Japanese
herbaceous angiosperms VII••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 63 - 69
Short Reports
SATOH S . S . :
Masculinization of Domesticated Japanese Pheasant (Phasianus versicolor)
at the Omachi Alpine Museum •••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 71 - 74
Data
SEKI S . :
Survey of the Humanities Collection in the Omachi Alpine Museum••••••••••••••••••••••••••••• 75 - 80
Articles, reports, etc. of other journals •••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 81
Omachi Alpine Museum
8056-1, Omachi, Omachi City, Nagano Pref., 398-0002, JAPAN
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