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フ ァ シズムの危機 (ー923年一24年)

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フ ァ シズムの危機 (ー923年一24年)
ファシズムの危機(1923年一24年〉
桐 生 尚 武
1 ファシズムの危機
1922年10月末,「ローマ進軍」の結果,ムッソリー二首班のファシズム政権
が誕生した。ムッソリー二が1919年3月23日, ミラノで戦闘ファッシ (Fasci
Italiani di Combattimento)を結成して以来4年足らずで,また20年末のボー
平野を中心にした中部イタリアにおけるファシズムの大衆的発展以来,丸2年
でファシズムは政権に就いたことになる。とりわけ,「ファシズムの全ての実
践活動は,1人の人間とひとつの新聞,すなわちムッソリー二と「ポーポロ・
(1)
ディタリア』紙に集中されていた」1920年11月までの,微々たる勢力の運動を
考える時,その後の急速なファシズムの発展は驚異的である。だがこの短期間
の急激な発展は,当然にも様々な矛盾を内部に蓄積させ,政権掌握でファシズ
ム運動が新たな段階に入った時,それらは一挙に爆発し,上から下までファシ
ズムは混乱と内部抗争,無秩序にみまわれ,ファシズム全体は危機に陥る。
イタリア・ファシズムは,この1923年,24年の「内部危機」と,24年6月に
突発したマッテオッティ暗殺事件による「外的危機」の克服を通じて,独裁体
制の樹立,確立へと向う。その意味で,この「内部危機」は独裁体制確立へ至
るファシズムの前史として重要性を持ち,その克服過程で独裁体制の諸前提が
形成される。本稿はその間の実体を解明することにある。
− 1 _
23年4月,当時の党副書記長バスティアニー二は「党の不都合」(ll disagio
del partito)と題する次のような書簡をムッソリー二に送った。
タイトルは,私が危機的と定義するのを躊躇しないフジシkト党の現在の
情勢を明らかにしている。それは様々な形で表わされているが,同一の起源
をもっている。我が党はばらばらで,組織立ってはいない。無駄話しと内部
闘争に翻弄されている。これらは不動の活力,中央指導機関の正確な路線の
欠如,地方指導者の無能をも表している。
党指導部は存在しないという感情により解き放たれた諸ファッショ内の闘
争には様々な起源がある。新規加入者に我慢できず,最近登録された指導者
達に由来する指令に規律をもって従わない第一期(primo tempo)の行動フ
ァシストがいる。断固として組合組織に反対のファシストがおり,私がサン
1 ミ リ ツ イ ア
ディカリストと呼ぶファシス臼こ戦いを1しかけている。国防義勇軍で地位を
得ることができなかったため,不満が生じ,ファッシの中でおしゃべりと悪
罵を生み出している。……
私の意見によれば,政府のファシズムと周辺のファシズムとの間に明白な
矛盾がある。なぜなら政府が決議を行ない,下部機関を通じてそれを実行さ
せようとする時,その精神形態において民主主義的である周辺のファシズム
は,その必要性を理解していない。このためプレトゥーラ(下級裁判所)の
抑圧後,選挙人の大部分を代表していないと信じている民主主義的理由で,
ファシストのコムーネ行政府は辞任の威嚇をしている。……方向喪失は明ら
(2)
かであり,少し考えれば正しい。
やや長い引用となったが,下部における激しい内部対立と無規律,党指導部
の無能さとそれらを統制する権威と力の欠如,中央のファシズムと地方のファ
シズム,「古参者」と「新参者」,サンディカリストと保守派ファシストの対立
等,ファシズム=ファシスト党が上下を問わず混乱と無秩序状態に陥り,深刻
な状況にあったことが理解される。
事実,ローマ進軍後の12月,党指導部は, 「最高の政治機関の正常な働きを
妨げる」ため,支部内の対立,内紛の調停依頼をいちいち党中央に求めず,党
一 2 一
(3)
県連盟の段階で処理せよと警告していた。このことは地方支部の内部抗争の激
しさと,党指導部もそれらに手を焼き,お手上げ状態に陥っていたことを物語
っている。
以上のようなファシズムの混乱,無秩序の原因,背景としては,次のような
諸点を挙げることができる。第1に,ファシズムの急速な発展に伴うファシス
ト党の急膨張であり,その結果,多様な分子,思想傾向の雑多な分子が党に流
入, 「古参者」と「新参者」との間に摩擦と軋礫,対立を生み出したこと。第
2に,ムッソリー二の権威の未確立と,統一的ファシズム像の不在,ファシズ
ムの未来に関する「青写真」の欠如。しかも,これらの点は,各地のファシズ
ムが,ムッソリー二と党中央の直接的影響力の外で,エチオピアの土侯にちな
んでラス(ras)と称されるようになる地方指導者に指導され,自然発生的に
出現したため,非常に強い自律性を維持している事態によって,一層重大化す
る。第3に,ムッソリー二政権は,伝統的支配層との妥協の産物であったとい
う事実を挙げることができる。このことは一方で,伝統的支配層の一掃,議会
制民主主義の打倒と「ファシストの独裁」という,「ファシスト革命」を真剣
に考えていた下部のファシスト=スクワドリスタ(行動隊員=黒シャツ隊)に
「革命は裏切られた」という感情を呼び起し,彼らの指導者達,ラスの強い自
律性とあいまって,ムッソリー二政府と党中央に激しい不満をうっ積させ,彼
らは「第2の波」,すなわち「ファシスト革命」の非妥協的遂行を主張してい
く。他方,まがりなりにも,ファシズムの政権掌握によって,ファシズム運動
は「破壊の段階」から「建設の段階」へと質的変化を遂げたという事実を積極
的に踏まえて,非妥協派と逆の対応,ファシズムの正常化を唱く潮流が出現す
る。23年はこの両者の激しい対立,論争にみまわれることになる。
以上の諸点が複雑に絡み合いっつ,ファシズムの「危機」を巻き起した。そ
こで以下,細かくこの「危機」について検討することにする。
IIファシスト党の下部の混乱
ムッソリー二は,1919年3月に結成された戦闘ファッシを,特定の教義,特
一 3 一
定の綱領から演繹される「政党」ではなく,「反党」(antipartito)であり,運
(1)
動であると繰り返えし,繰り返えし強調し,組織と教義の確立よりも,行動に
重点を置き,幅広い大衆動員による基盤の強化に力を注いだ。また,ムッソリ
ー二は,ファシズムが単なる保守反動ではなく,国民の革新的エネルギーを結
集し,国の再生を目指す国民的運動であるとして,右から左まで国民の多様な
分子のファシズム運動への参加を積極的に歓迎した。このような行動主義と組
織上の柔軟な方針は,ファシズム運動の急速な発展を可能にすると同時に,そ
の後のファシスト達の著るしい非同質化をもたらすことになったのも当然であ
く2)
る。
21年夏「平和協定」をめぐる危機乗り切りのため,21年11月ローマ大会で,
ファシズムは運動体=反党から党に移行,国民ファシスト党(Partito Nazion−
ale Fascista)が創設され,12月に党綱領・規約が採択されたが,これは,各級
の役職の下からの選挙を規定し,26年綱領の上からの任命という権威主義的原
(3)
則とは逆に, 「党内民主主義」の原則に立つものであった。このことは,後に
見るように,ラスに率いられる地方ファシズムの自律性を党規約の上からも保
障し,権威の弱い党中央の規律要求をも無視させるに至る。
すでに,「ローマ進軍」以前,新たな分子の流入により,地方のファシズム
(4)
「内の対立が各地に発生し, 「ローマ進軍」後に全面開花する異論派運動(diss國
identismo)の前兆がみられたが,全体としては,権力奪取の問題が現実味を
帯びた可能性として日程に上ってきた段階では,内部対立は表面化することは
少ない。逆に,多数の分子がファシズムに流入,その流れは「ローマ進軍」直
後に頂点に達っする。R・デ・フェリーチェは『インペーロ」紙(29年3月24
日)の示すデータを挙げている。それによれば,22年10月の「ローマ進軍」
時,30万入,23年末782,979人,24年642,246人,25年599, 988人,26年937,997
(5)
人となっている。E・ラジョニエーレは出典を明記せずに,次の数字を挙げて
(6)
いる。22年5月,32万2千入,23年7月,62万人。
いずれにせよ,「ローマ進軍」前後の党員数の激増ぶりは目覚ましい。これ
は,機を見るに敏な日和見主義者や,大勢順応主義者達が大挙ファシズムに殺
一 4 _
(7)
倒した結果であり,これが,それぞれのファッショ内での「古参」と「新参」の
(8)
ファシスト間の対立,混乱に拍車をかける。それだけでなく,ルンブローゾは
「古参者」の中の冒険家(avventurieri)と「新参者」の中の政治屋(Politic−
(9)
anti)が提携して,党を牛じるに至ったと述べている。そして,23年1月,
党指導部は出世主義者(arrivisti),私欲の追求者(affaristi)に党の門戸を閉
ざすための,決定を行なったが,各ファッショによって死文化されたと記して
(10)
いる。
事実,23年4月24日のファシズム大評議会は,「50万人以上を数える膨大な
数的勢力を党が所有していることを考慮して」(1)「5月中に全党員の厳しい選
別に備えること」それと同時に(3)市民の間から,ファシズムの隊列で闘うとい
う大きな特権に相応しい者達を選択して,名誉党員証(tessera ad onorem)
を与える権限を地方のファッシの指導部に委ね,党員の厳しい選別と粛清を指
(11)
令した。4月27日,党の執行評議会も「ファシストの組織の加盟者の峻厳な選
別に関する大評議会の決議を執行するため,ファッシは5月15日までに,全党
員の道徳的資質,政治的前歴を厳しく考慮すべき規則に従って,党員の再検討
(12)
に着手すべきである」とこの決定を再確認した。
そして,その結果であるとも考えられるが,23年7月,混乱に陥り,自力収
拾が不可能となった,政府のおひざ下のラツィオ(ラツィオ州はこの時ローマ
1県から成っていた)のファッショの再建をムッソリー二に要講されて,クレ
モーナのラスで,非妥協派のファシストの代表的人物であるファリナッチは,
「大部分,ローマ進軍後,我々のもとにやって来たzavorra(価値の乏しい
(13)
者)」からなる4万人のファシストを除名した。ムッソリー二は,ファリナッ
チにその功を賛える書簡を送り,ファシスト全体に警告する意味で『ボー、ポ
ロ・ディタリア」紙(23年8月17日)にそれを公表した。「イタリアの若干の
州(regione)でも,同じ知的外科手術の方法を適用する必要があると信ずる。
我々はzavorraから解放されねばならない。情勢に対処する能力の欠如をし
ばしば示し,ファシスト政府の事業を促進するのではなく,紛糾させている10
万,あるいは20万のファシストを除去しようとする者に,我々は応えることが
一 5_
(14)
できるし,応えるべきである」。この少し前,6月8日の上院演説でも,ムッ
(15)
ソリー二は55万の党員の内15万人の追放を要請したと述べていた。
しかし,現実には,5月中の党の粛清は実行不可能であった。そのため,フ
ァシズム大評議会は23年7月13日から12回にわたって,ファシズムの抱える諸
問題を検討し,各県毎にファシズムの情況を個別に吟味していく。そして,最
後に,7月28日の集会で,党執行評議会は,一切の無規律と個入的争いに速や
(16)
かに,かつ峻厳に処置することを決議した。
だが,この党の粛清も,ムッソリー二自身,24年1月28日の党の全国協議会
(17)
で「党の知的選別」はその全き効果をもたらしてはいないと述べるように,不
十分なものであった。問題はその原因である。ルンブローゾが「いわゆる名誉
党員証(tessera ad onorem)は慎重に,少なく与えられるのではなく,地方
(18)
指導者の気まぐれによって四方八方にバラまかれた」と記しているように,粛
清の権限は各県連盟の指導者,県全権委員(fiduciario)に委ねられたため,
十分な効果をもたらしえなかった。そもそも,彼ら自身,内部対立,内部紛争
の一方の当事者であるケースが多く,しかも,統一的な規律が不在という状況
においては,粛清も,反対派の追放,あるいは勢力が均衡している場合には相
互の除名,はては武力抗争にまで発展し,粛清という党の姿勢を正そうとする
行為自体が内部闘争と混乱の要因となり,逆にそれに拍車をかけるという結果
になった。
その点で興味深いのは,23年11月,12月に実施されることになっていた各級
ファッショの役職の選挙に関する12月1日付けの党書記長F・ジュンタの各県
連盟書記宛の書簡である。それによれば,ファッショの集会,県の集会におい
て,最大限の意見表明と討論の自由が保障されるべきこと,ファシスト同士の
闘争の場としないため,一切の暴力行動の禁止と武器を携帯しての集会参加の
(19)
禁止を指示していた。
ところで,すでに繰り返えし指摘したように,指導部の無力さと統制力の無
さが,混乱の一因をなしていた以上,党指導部自体の権威の確立と相応しい力
量を備えることが重要となる。そこで,次にこの問題を見ていこう。
−6 一
III党指導部の危機
下部と同様,党中央も同じような混乱と無秩序にみまわれている。そのこと
は,新指導部の任命(23年1月13日),執行評議会への改組(4月24日),さら
に臨時全国指導部への再改組(10月15日)と,わずか1年足らずで,党中央の
組織編成が繰り返えされている事実自体が,如実にそのことを物語っている。
これは確かに,指導部の確立のための試行錯誤の結果であるが,しかし,そ
の作業はなまやさしいものではない。事実,党中央に向けられた各方面からの
批判は,厳しく,また広範なものであった。
何度も引用したルンブU一ゾは「ファシズム,あるいはより良く言えば,フ
ァシスト党は我が民衆の倫理的水準を1センチ足りとも引き上げなかった。
(ファシズムの)新しい指導階級は,ニッティ派,ジョリッティ派の古い寡頭
政と同様に貧欲で,野心的で,知性に乏しいことが見てとれる」と,指導部の
(1)
無能さを弾劾した。また,すでに引用したムッソリー二宛の書簡でバスティア
ニー二は党指導部に関して「協議機関としてはもはや存在していず,そのメン
バー達は,副書記長,政治委員,地区監督官(isPettore di zona)の職務を与
えられているため,党指導部に保持されている活動を,それぞれ自己のために
利用している」と述べ,党指導部の活動自体がそのメンバー達に私物化されて
(2)
いる点を指摘している。
このような党指導部の無力さの原因は,ウンブリアのファシズムの指導者
で,23年内部闘争に敗れ,脱党したA・ミズーリの次のような批判から,その
一端が理解される。「すでに,古い中央委員会内に,今日支配している不吉な徒
党の原初的核,『ポーポロ・ディタリア』の編集部の小さな宮廷が形成され始
めた。これは,あらゆる策略によってますますムッソリー二から孤立させられ
た他の中央委員を犠牲にして,編集長(ムッソリー二)を祭り上げ始めた。こ
の徒党は,非常な威信をもってモンテチトーリオ(下院)に入った,様々な州
におけるファシズムの創造者からなる議員団に,その自然の敵を見,あらゆる
(3)
手段でそれを打倒しようと決意した」。一言で言えば,党指導部のメンバーは,
− 7 _
地方ファシズムと無関係なムッソリー二の取り巻きから成っていたことであ
る。G・ボッタイは,23年1月12日付けのムッソリー二宛書簡で,「3人ある
いは4人の名前を除いて,私は弱りきり,いいかげんで堕落した現指導部にも
はやいかなる信頼も抱くことができない。この私の意見は多くの者が共有し,
(4)
拡がりつつある」と批判し,また別の論文でも「昨日の指導者達は,今やその
大部分はもはや所有していない権力を濫用するあやつり人形となっている。指
(5)
令のかわいた言葉はもはや不十分で,説得的ではない」と記し,党指導部が全
国的運動の指導には相応しくない者達,しかも個入的野心と私的利益の追求の
ために,党を利用しようとしている者達から成るとして,彼らから党を解放す
る必要性を説いた。
このように,各方面から批判される党指導部に対して,ムッソリー二はどの
ように対応したのか。実を言えば,ムッソリー二自身の態度が,ファシスト党
の混乱を助長したとも言える。22年11fi 27日の上院での演説で述べたように,
彼は,低級な党内のごたごたに巻き込まれるよりも,対外政策こそ自己の積極
(6)
的な活動に最も相応しい分野と考えていた。
とはいえ,ムッソリー二にとっても,ファシズム全体を規律づけるという点
からも,党指導部の問題はなおざりにできるものではない。その点で,重要な
措置は,ムッソリー二自から「責任ある諸勢力問の調整機関,『ファシズムの和
(7)
解と調節の機関」と定義するファシズム大評議会の設置である。これは,形式
的には,28年に国家機関として制度化されるまで単なる私的機関にすぎなかっ
が,理論上はファシズムの最高機関としてファシズムの大まかな政治路線を決
(8)
定する任務を所有するものとされた。
ともかく,この大評議会の設置は,ムッソリー二が,混乱と無秩序状態のフ
ァシスト党に全く信を置いていないことを示すものである。以後,この大評議
会を通じて,様々な重要な決定がなされることになる。このムッソリー二の党
の軽視,それに代る国家の重視がまた地方のファシズムの指導者ラスと下部フ
(9)
アシストの不満の種になる。この点は次章でみることにし,党指導部の問題に
戻ろう。
− 8 一
23年1月13日,大評議会の決定により,党指導部(Direziono del partito)
は,M.ビアンキ(書記長), N.サンサネッリ, G.バスティアニー二 (以
上副書記長)から成る政治書記局と,G.マリネッリ, A.ドゥーダンからな
(10)
る行政書記局の二つの書記局に変更された。そして,書記長ビアンキは内務省
のsegretario generale(次官)を兼任したため,この指導部を実質的に運営
したのはサンサネッリであった。しかし,彼は,第1級の人物,起源のファシ
ストでもなく,活動力にも威信にも欠ける人物で,また党指導部の手足となる
べき政治委員(commissari politici),地区監督官(ispettore di zona)も大部
分が,地方の指導者で,党全体の問題によりも,地方の問題に没頭しており,
(11)
この指導部も無力であった。
そのため,23年4月24日,大評議会は,「県全権委員(fiduciari della Prov−
incia)と接触を保ちつつ,大評議会の決議を執行するもの」として,執行評議
会(Giunta esecutiva)に改組した。このメンバーは,書記長ビアンキ以下,
バスティアニー二,ボルゾン,カプリーダ,ドゥーダン,ファリナッチ,ラン
ティー二,マラヴィリア,サンサネッリ,スタラーチェ,ツィーモn,行政書
(12)
記長マリネッリであった。ここで重要な点は,何人かのラス,ランティー二と
(13)
ツィーモロ,とりわけファリナッチが起用されたことである。また「執行評議
会のメンバーの選択にあたり,国防義勇軍の大部隊の実際の指揮権を与えられ
ている者を任命しないという原則に従った」とされるように,党指導部の役職
と国防義勇軍の役職の分離がなされた。
さらに,この時になされた一連の決定で重要なものは23年1月13日の大評議
・会で政府と国内におけるファシズムの媒介となるべき制度と位置づけられた政
(14)
治委員の制度が廃止され,代って県全権委員の制度が設立されたことであり,
この全権委員は5月中に県連盟の指導部によって選択されるものとされた。さ
らに4月27日の執行評議会は,この新しい全権委員は,県の指導部により任命
されると共に,県連盟の書記でもあること,そして,執行評議会によってその
(15)
・任命は承認されるとされた。明らかに,ラスの意志が貫撤されている。
(16)
政治委員の廃止は,ムッソリー二が上院で述べたように,県で彼らが県知事
一 9 一
と競合し,県知事の権限を犯すことになった結果である。だが,全権委員が県
連の書記であることは,何ら問題の解決にはなりえない。そもそも,地方の指
導者ラス達は,県連書記か彼らを自己の支配下に置いていたからである。大評
議会の措置は,彼らを党中央に取り込み,そのような措置によって,地方のフ
ァシズムの自律性を抑え,統制しようとしたものである。そのため,4月24日
の大評議会は次のように彼らにクギをさした。 「首相の提案により,大評議会
は,ファシズムは無口な活動家(operante)の義勇軍(milizia)であるべき旨
考慮して,政府と党の重責を保有しているファシズムの幹部達は政府と党を巻
き込みかねない文書,口頭での意見表明を差し控えるべきである」。
だが,ラスと地方ファシズムの自律性を保障している基盤を一掃することな
くしてラスを党中央に迎え入れることは,逆に彼らの地位の強化をもたらす。
確かに,次章で見るように,ムッソリー二はラス達の力を削ぐための手段(国
(17)
防義勇軍の設置,ファシスト党とナショナリスト協会との合同)を講じるが,
ムッソリー二がラス,特にそのシンボル的人物ファリナッチを執行評議会の一
員に起用した裏には,彼の高度の政治的配慮があったことを指摘できる。つま
り,ムッソリー二政権は議会では少数派であり,主として「側面援助者」と称
される,伝統的保守派の支持により成り立っていた。そのため,ムッソリー二
は選挙法改革による新たな総選挙を決意し,起草者の名にちなんで,アチェル
(18)
ボ法として知られる,いわゆるプレミアム選挙法を23年6月,議会に上程し
た。だが,この法案に対しては,与党の一員でもあった人民党が,比例代表制
に固執して頑強に反対した。社会党,統一社会党(改良派),共産党の反対を
考えると,107議席を擁する人民党の帰趨は決定的であった。そのためにムッ
ソリー二がヴァチカンを通じての圧力と共に,人民党を屈服させる直接の手段
として利用できるものは,ラスの握る武力であった。こうして,7月,入民党
(19)
議員を様々な手段で威嚇して棄権に追い込み,法案成立に成功した。
だが,この戦術は,逆にラスの代表たるファリナッチの地位の強化となり,
ムッソリー二はファリナッチと地方のラスとの同盟に不安となる。そのため,
V章で見るように,9月に表面化した修正主義論争で,執行評議会がファリナ
ー10一
ッチのイニシアティブで,ラスとスクワドリスタの敵であったマッシモ・ロッ
カを,彼が大評議会の一員であったことを無視し,かつ,ムッソリー二の意見
も聞かずに独断で党除名を決定した機会を把えて介入し,ロッカの除名の撤回
と執行評議会の総辞職を要求し,指導部の再改組を決意,10月13日の大評議会
(20) 、
で正式に決定させる。さらに,10月15日の大評議会は11ケ条からなる次のよっ
な党の行動路線「新しい秩序」を採択した。
〔1) 「今日より24年1月12日まで,党の最高指導は5名から成る臨時全国指
導部に委ねられる」。
{2)11月と12月の間に県大会が召集され,党の新しい県書記を任命する。こ
れは最終的にファシズムのドゥーチェにより承認される。
(3) 1月21日にローマで全ての県書記が参加して拡大会議が召集される。県
書記達は全国協議会を構成し,3年毎に召集される大評議会との拡大会議
で,次の目的の達成をはかる。
(a) 「党の全国指導部に各県の精神的,経済的,政治的状態について現実
的感覚を与え,それぞれの土地の具体的要求に適する規則の流布を可能
にする」。
(b)採用された方法の可否の評価と,獲得された結果についての認識を可
能にする。
〈c)責任に応じた適材適所によって,階層秩序を革新する。
(d) 「党の県書記に,国の生活の全体的認識を深めさせ,従って彼らの活
動が,地方的性格の狭い規準にではなく,高度の国民的要求に鼓舞され
るよう保障する」。
〈4)1924年1月12日に召集される党の全国協議会は,ファシズムのドゥーチ
ェが,党の最終的な全国指導部(任期1年)を構成するべき5名を選ぶた
めの名前を提案する。
{5)党のヒエラルヒーは,大評議会,全国協議会,全国指導部である。
⑥ 指導部は,ドゥーチェの事前の承認なしでは党の他に,国民にも関係す
る政治的性格の決定を行うことはできない。
−11一
(7)一切の政治的,道徳的争いから指導部を解放するため,ドゥーチェの選
ぶ5名からなる規律法廷(corte di disciplina)を設置する。
(8}党の全国指導部のメンバーは全てローマに居住する。
(9)全国指導部は党の執行と行政の機関である。
⑩ 5人の全国指導部のメンバーの内,1名は党書記長,3人は副政治書
記,1名は行政書記長。
ao 党全国指導部に,(a)国外ファッシの書記と副書記,(b)新聞局長,(c)宣伝
局長,(d)青年前衛(Avanguardia Giovanile)の書記,(e)バリッラの書記
が服属する。
そして,書記長にフランチェスコ・ジュンタ,行政書記長にマリネッリ,副
書記にボルゾン,ロッシ,テルッツィの5名から成る臨時全国指導部が任命さ
(21)
れた。
このようにして,党の階級秩序を確立し,党全体を規律づけ,再建するとい
っムッソリー二の意図は実現のための第一歩を踏み出したかに見える。だが,
ムッソリー二はファリナッチの排除には成功したが,ラスの勢力を全面的に抑
えこんだわけではない。というのも,ムッソリー二の当初案には,ロッシ,マ
リネッリ,テルッツィの他に,ビアンキ,ポルヴェレッリ(ムッソリー二の古
い友人で,「ポーポロ・ディタリア」紙の論説委員),A.ロッコ, M.マラヴ
ィリア(いずれもナショナリスト)という名前が挙っており,その内でロッシ
とマリネッリの2人のムッソリー二の取り巻きを送り込むのに成功しただけ
で・最初の意図とは異なって,書記長のポストをマラヴィリアから非妥協派の
(22)
ジュンタに与えねばならなかったからである。
ともかく,この措置で問題をはらみながらも,党再建は軌道に乗る。24年1
月12日に新指導部指名のための全国協議会が開催されることになっていたが,
議会解散を口実にして延期され,4月23日,大評議会によって,フォルジェス
・ダヴァンツァーティ,アレッサンドロ・メルキオーリ(2人共ナショナリス
ト),チェーザレ・ロッシ,ジョヴァンニ・マリネッリの4人からなる四頭政
が全国指導部として承認され,一これは6月12日に召集される全国協議会で承認
一12_
(23)
を得ることとされた。以上の措置からも理解されるように,ムッソリー二は,
ラスの影響力からのがれるために,木評議会で決定されな行動路線を意識的に
無視し,独自に指導部再建に着手していく。またこの以前,3月1a日に大評議
(24)
会は,諸々の役職の兼務の禁止,特に党と政府の要職の兼任の禁止を決定し,
これを受け,上記の4人も下院議員ではなかった。
このようにして,新党指導部の4人もムッソリー二に忠実な者でかため,兼
職の禁止によって,ムッソリー二以外の人物の手に,要職が集まることを阻止
し,また,ある程度ラスの力を抑え込むのに成功し,ムッソリー二の党再建の
事業は表面的には軌道に乗ったかに見える。だが,6月にマッテオッティ暗殺
事件の突発で,ファシズム自体が正真正銘の危機に陥り,この危機乗り切りの
ため,ムッソリー二は,結局,ラスの所有するスクワドリスタの武力に頼るこ
とになり,こうして,25年2月,ファリナッチが党書記長に就任する。
IV ラスとスクワドリスタ
すでに簡単に触れたように,この時期のファシズムは,地方レベルにおける
ファシズムの著しい自律性を特徴としており,ある意味で,この段階のファシ
ズムは,この自律性の強い地方ファシズムの単純総和とその上にシンボルとし
てムッソリー二が乗っていたものと言える。
ボッタイは述べている。「ローマ進軍前,ファシズムは地方毎(da regione
aregione),土地毎(da paese a paese)に異なる偶然的原因,最初の指導者
達(capitani)の主観的資質,障害と敵の相違などのため,極度に多様な形態
に分れた運動であった。それでファシズム(Fascismo)以上に,諸ファシズム
(1)
(fascismi)について語ることができた」。 ・
バスティアニー二も,「ファシズムは県の現象であり,そのようなものとし
て様々な原因がそれを生み出し,異なったメンタリティーがそれを作り上げた
(2)
土地の直接的要求に応じて,様々な側面をもっていた」と記している。
イタリア固有の伝統たる地方主義と結びついたこの地方ファシズムの自律性
は,各地域,とりわけ,県レベルのファシズムが,ムッソリー二とミラノの戦闘
一13_
ファッシの指導部の直接的影響とは無関係に,自然発生的に誕生したことに帰
(3)
因していた。そして,ファシズムの真の力,本質,実体は,ムッソリー二や戦
闘ファッシ,あるいはファシスト党の指導部ではなく,このようにして誕生し
た地方ファシズムの指導者ラス・と,彼らの率いる行動隊(スクワドリスタ)に
あった。このような地方ファシズムを,ムッソリー二も党中央も統制するに足
る力も権威も欠いていたのも当然である。
この時期のラスの代表的入物は,クレモーナのファリナッチ,フェッラーラ
のバルポ,ボローニャのアルピナーティ,ピアチェンツァのバルビエッリー
二,ルッカのスコルツァ,マッサ・カッラーラのリッチ,ブレッシアのトゥラー
ティ,マントヴァのアッリヴァベーネ,ヴェローナのブレッシアー二などであ
(4)
る。その中で,ファリナッチは19年の戦闘ファッシの結成に参加した数少ない
ラスの一人として,しかも,ラスの中でも唯一入,自分の新聞(「クレモーナ・
ヌオーヴァ』)を所有し,他のラスとスクワドリスタの声を代弁することがで
き,彼の非妥協的な「第2の波」の主張と行動によって,ラス達のシンボル的
(5)
存在となっていく。
このラス達は,21年一22年にファシズム運動が政治的性格よりも軍事的性格
を強化した時に,その指揮官として登場してきた人物達で,ローマ進軍後もス
クワドリスタを武装解除することなく,、県の全権を掌握し,「国家内国家」を
形成,県での支配権の強化をはかる。ルンブローゾは述べている。「ファシズ
ムの活動は,政府諸機関に対する絶えざる,組織的な党諸機関の優越を通じて
クエスト−レ
展開された。県知事,県警本部長,あらゆる種類の役人と司法官はファシスト
のボス達の命令(ukase)の前で震える存在になった。小都市では,党支部は
裁判所,兵営,市庁への通路に変った。カラビニエーレの準士官はファシスト
の書記の命令によって逮捕を実行しなければならなかった。そして,ファシス
(6)
トに支配される市議会は当地の指導部の保護の下に置かれた」。
時として党支部書記であると同時に,国防義勇軍の将校を兼ね,市長,県知
事,県警本部長や各種の役人を支配下に置いているラスは,まさしく「小ドゥ
ーチェ」(ducetto),地方の独裁者であった。その上,彼らの中には,レナート・
_14一
リッチの如く,黒シャツ隊を《絶望隊》(Squadra Disperata)と名付け,かな
りの犯罪者も加盟させて,私兵化し,個入的行動のために利用した者,あるい
は,バルビエッリー二の如く,広範なスパイ網を張りめぐらし,党中央の方針
(7)
と全く無関係に,個人的活動に没頭している者も少なくなかった。しかも,ト
スカーナのペッローネ・コンパー二とタンブリー二,アレッサンドリアのトッ
レとサーラ,ウーディネのピゼンティとバルナーノ㍉のように,同一ファッシ
(8)
ヨ内でラスが競合している場合には,相互の激しい私闘に発展し,敗れた側が
(9)
異論派(dissidente)ファシストになる。
ところで,多くのラス達とスクワドリスタ,要するに地方のファシストに共
通するものとして,1で引用したムッソリー二宛バスティアニー二書簡に見ら
れるように,中央のファシスト,「ローマの人間」に対する深い不信と敵意が
ある。その点を,修正主義者ロッカに好意的で,非妥協派には批判的であった
フィレンツェの異論派ファシスト,ルンブローゾは次のように述べている。ロ
ッカの正直さは疑問の余地がなかったが,「彼が利用した新聞と修正主義のキ
ャンペーンで彼を勇気付けた何人かの者は」地方のファシスト達が批判してい
た不当利得者(profittatori),私益の追求者(affaristi)で,「確かに,党の粛
清を語るには最も不適当な者達であった。そして,一非合法主義者で,独裁
者で,暴力的な真の県ファシズムは……全体として,出世主義と私益の追求か
らは無縁であった。そして,彼らの県で,無制限の専制君主として君臨し,政
府の役人の権威を無にしながら,ファシズムとイタリアの大義に役立っている
(10)
と確信しているファリナッチのようなラス達がいたことは疑いない」。
さらに,重要なことは,ラスと彼らの率いるスクワドリスタ達には,「ロー
マ進軍」が,伝統的支配層との妥協に終ったことに対する不満と,「ファシス
h革命」の継続,敵の徹底的打倒とファシズム独裁樹立の願望があったことで
(11) (12)
ある。そのため,彼らは,22年12月のトリーノ事件が象徴するように,ファシ
ズムの政権掌握によって,フLアシズムの行動は合法化されたとして,非合法な
テロ行動を激化させる。
このような下部ファシズムの傾向を考えると,ムッソリー二が,党ではなく
一15_
国家機構を通じて,ファシストの統制を考えたのも当然である。そのようなム
ッソリー二の考えにとり,ラス達が,国家の代表たる県知事,県警本部長の権
(13)
限を侵害することは重大であった。
加えて,ムッソリー二政権は,その伝統的支配層との連立政権としての性格
が示しているように,彼らとの妥協の産物であり,そのことが逆にムッソリー
二のその後の行動を規制し,必然的に漸進的な路線をとらせることになる。ム
ッソリー二にとり,発足したばかりの自己の政権の安定と強化には,ラスとス
クワドリスタの非合法主義に不信を示し,彼らの行動を抑えうる,「法と秩序」
の擁護者としての期待を託すこの伝統的支配層の協力が不可欠であった。
こうして,ムッソリー二は,23年6月8日,上院演説で述べたように,「県
知事のコピー(duplicato)となったため,県知事のみが行使する権利を所有し
ているその楓の行健乱めたため」政治委員醗止曾隊の代表たる県
知事の権威の回復に着手する。23年6月13日,ムッソリー二は諸県知事に宛て
次のように打電した。
「貴下に,次の諸点につき注意を喚起し最大限の注意と厳格さでそれに従う
ことを要請する。県における唯一の政府の権威の代表は県知事であり,彼の他
には誰もいない。そのことは幾度となく,さらに最近,上院でも言明した。フ
ァシストの県全権委員も,党の他の権威も県知事に服従する」とそして,ファ
シストのものも含めて,「突発事件」を起しかねない一切の集会の禁止と非合
(15 法主義活動の取り締まりを要請した。
さらに,新全国指導部の樹立を決定した23年10月13日の大評議会の決議は,
党と政府の代表の機能分担を明瞭に打ち出した。 「政府代表たる県知事の機能
と,党代表のそれとは明白に区別される。県知事は,ただ政府に対してのみ責
任を負い,だから法の示す範囲内で絶対的自由をもって行動すべきである。党
の代表は,ランクの低い全ての協力者の助けによって,県における党の活動を
監視し,奮励し,その規律を維持し,改革の平静な遂行とファシスト革命の徐
(16)
々の発展と強化を保証すべきである」。
他方,スクワドリスタの非合法活動に対しても,繰り返し,繰り返し,厳し
一16_
い取り締まりを言明する。たとえば,22年11月16日の下院での所信表明演説,
「国家は強力である。そして,その力は,全ての者に,もはやいかなる正当性
ももたない無思慮で,不純な非合法主義であるので,起りうるファシストの非
(17)
合法主義に対しても,示される」。また,23年1月31日付けの警察局長デ・ボ
ーノの各県知事宛回状,「イタリア全土から受け取る様々な報告によって,い
かなる行動をなそうとも,政府は,ファシストを無条件に保護するとかなりの
役入達が信じているという感情を私は得ている。これは政府の考えと指示の正
確な解釈ではない。……もし,ファシスト,あるいはそう称している者が無思
慮な行動,挑発行為,暴力行為を犯すとすれば,下手人,あるいは責任者,特
(18)
に幹部の場合には遠慮なく批判すべきである」。
だが,23年12月27日,デ・ボーノ自身,各県知事宛電報で,「ファシストの・
党員証を所有することは,無処罰の権利として考えられるべきではない。多
分,ヴァイタリティーを示すため,普通のファシストによって恒常的に惹き起
された不快な小事件,だが,結局はファシズムと,偽りの結果によって政府の
(19)
信用を失墜させる小事件が国では多すぎる」と嘆くように,非合法主義の取り
締まりはほとんど効果をあげていないことが理解される。
問題は,ムッソリー二が本当に,スクワドリスタの暴力活動を厳格に取り締
まるつもりであったのかどうかである。たえば,23年から24年にかけて,ミズ
ーリ,フォルニ(異論派ファシスト),アメンドラ,ゴベッティ(民主主義者)
(20)
などが,ファシストに襲撃され重傷を負っている。また,元首相ニッティの邸
(21)
宅も略奪された。いずれも下手人は,ファシストの「チェーカー」(ceka)と
言われるムッソリー二の「取り巻き」であり,マッテオッティの暗殺事件にも
関与する人物達であった。
これらの事実を考えあわせると,ムッソリー二は,ファシストの暴力活動一
般を批難し,取り締まろうとしたのではないことが理解される。というのも,
まさにこの時期のムッソリー二にとって,究極において自己の支柱であったも
(22)
のは,暴力装置としてのスクワドリスタ=黒シャツ隊の存在であった。問題
は,自己の統制の及ぼない,無軌道なスクワドリスタの行動であった。そのた
一17一
め彼が打った手段は,行動隊の国防義勇軍への編入と,それに伴う前者の解散
である。この義勇軍は22年12月の事実上の最初のファシスト大評議会で設置が
(23)
決定され,翌1月勅令で設置された。ムッソリー二の意図はスクワドリスタを
国防義勇軍に編入することによって,彼らの不必要な非合法活動を統制し,他
方,その暴力装置としての機能は維持すること,さらに,統率権は首相に属す
るとされたように,スクワドリスタを党から切り離し,ラスの立脚基盤を弱体
化させることであった。まさに一石三鳥をねらったものである。だが,この措
置は,当然にもラス達の不信をかうことになる。23年6月8日の上院演説でム
ッソリー二は,義勇軍の上級将校の97%までが軍の将校であり,下級将校と下
士官のポストがスクワドリスタの代表,すなわちラスに委ねられたにすぎない
(24)
と述べ,軍の側の不安を宥めたが,まさにこの事実こそ,ラスの怒りをかうこ
とになる。上級将校から排除された彼らは,義勇軍を「ムッソリー二の私兵」
とみなし,義勇軍への徴募を妨害する。それだけでなく,そこにはより本質的
な問題が伏在している。23年8月5日付けのトレヴィーゾのファシストの新聞
『黒シャツ』が「多くのファシストにとって,古い“スクワドリスタ”の活動
に取って替った“軍事的”活動の最初の時期は,幻滅であった。多くの者は,
古いファシズム,あるいは,少なくとも常に,誠実さ,勇気,生命の危険をも
(25)
犯した独立的な英雄主義と同義語であったファシズムの没落を見た」と述べて
いるように,地方のファシストにとってスクワドリズモ(squadrismo)こそ,
ファシズムの真髄を代表するものという自負があった。このため,ムッソリー
二にとっても,一気に,行動隊を解散することは不可能で,実際には,しばら
くの間,義勇軍と行動隊が共存することになる。
次にスクワドリスタの問題をみていこう。
「ローマ進軍」後,ブレッシア県の県連盟書記は,ある大衆集会で「ファシ
ストの活動はまだ終ってはいない。ファシストは今日まで,正当なる報復をま
ぬがれていた全ての者達に対決する用意があり,その決意をしている。この正
(26)
当な報復はもはやそれほど時間はかからないであろう」と述べたが,これは大
部分のスクワドリスタの感情に共通するものであったと言える。「ローマ進軍」
−18一
によるムッソリー二政権の成立は,あくまでも「ファシスト革命」実現のため
の第一歩にすぎず, 「革命の敵」は大きな打撃を受けているとはいえ,まだ完
全には絶滅されていない。こうして,ファシズムが合法化された好機を利用し
て,スクワドリスタはテロ活動を継続するのである。
他方,すでにみてきたように,この非合法活動継続に反対するムッソリー
二,及び政府の行動に対して,彼らは反発し,革命の継続,「第2の波」の声
をあげる。その要点は,既存の議会制の擁護と伝統的支配層との妥協ではな
く,その打倒と「ファシスト独裁」の実現であった。
ファリナッチは27年になって,次のように記していた。「23年秋,すでにス
クワドリズモが義勇軍に編入され,政府が我が首領の手中で堅固になった時,
多くの者は,正常化し,党を修正し,敗者と共に協力の効果的な事業を開始す
る時がやって来たと信じた。……我々は,説得,あるいは,現存する法で敵を
無力にできるとは信じなかった。その時から……我々は,我が革命の防衛法を
要求した,これなくしては,敵の悪意,報復を準備するという彼らの明白な意
図があるので,正常化は実現できなかった。こうして,また,我々は,古いイ
タリアの人間との協力は,我々の革命の将来を徐々に放棄するものだと,主張
した。そして,この確信に忠実であった我々は,我々の行動を社会主義者や人
民党員の打倒に限定せず,そのあいまいな態度が最大の危険をなしていた,い
わゆる国民的諸党やその代表者にも拡大していた。もっと後で,議会でファシ
ズムの意志を,サランドラ,ジョリッティ,オルランド,ディ・チェザロ,す
なわち我が国の没落と戦争の放棄に責任があった者達のメンタリティーと態度.
(27)
によって修正しなければならなかった時,我々は侮辱されたと感じた」’。
ところで,ファリナッチが代弁したこのスクワドリスタ運には,ボッタイが
(28)
指摘する「行動へのノスタルジー」という,ムッソリー二にとってもやっかい
な情念があった。[ローマ進軍」まで,国民の敵,「イタリアのボリシェヴィ
キ」打倒を合言葉に行動してきた彼らにとって,「ローマ進軍」後のファシズ
(29)
ムの「第2段階」,建設の段階に対応することは容易ではなかった。スクワドリ
スタにとってはジ暴力こそ,自己の存在を証すものであり,次のマッカリの言
一19_
語が示すように,それ自体自己目的化されていたのである。「暴力は神の声。
暴力は自然の声。暴力は日常の市民闘争の不可欠の武器。暴力は,たとえ,人
間の生命の抑圧に至るとはいえ,しかしながら,あらゆる闘争における,最も
(30)
気高く,最も純粋で,最も単純,最もキリスト教的な武器である」。
さらに,簡単に触れたが,地方のスクワドリスタ達には,ローマで政府に参
加した者,あるいは党官僚となった特権的ファシスト達に対する激しい反発が
あった。彼らには,この「ローマの人々」は,「ファシスト革命」を放棄し,
ただ個人的利益を追求する私欲の追求者(affarista),出世主義者(arrivista),
政治屋と映っていた。この地方とローマの対立は,堕落したローマに象徴され
る都会文化を拒否し,健全な地方文化を称賛するミーノ・マッカリを中心とし
(31)
たく野性派〉を生み出すことになる。地方のファシストのこの反ローマ,地
方,県の称揚という情念は,「ローマに対する県」「政治屋に対するスクワド
リスタ」とスローガン化され,ラスがスクワドリスタを動員する原動力,彼ら
の力の源泉となっていたのである。
V 修正主義論争
「ローマ進軍」後,ファシズムが非合法活動を停止し,法を遵守し,正常化
することを求める声が,広範に拡まっていった。これは,ムッソリー二政権の
誕生を側面から支援した伝統的支配層,保守派政治家,産業家,カトリック右
派,いわゆる非妥協派が打倒対象としたグループに広く共通するものであっ
た。
重要なことは,この正常化を求める動きがファシズムの中にもあったことで
ある。この潮流は,ファシズム運動の「第2段階」,建設の段階に積極的にコ
ミットし,国家再建に遭進しようとするグループである。このグループの目的
にとっては,当然,ラスとスクワドリスタの非合法主義は,マイナスになりこ
そすれ,プラスの価値は全くなかった。こうして,彼らは,正常化の障害とし
て,スクワドリスタの行動を批判し,ファシスト党員の厳しい「修正」を要求
したところから,修正主義者と称されるに至り,「第2の波」・を要求する非妥
一20_
協派との問に激しい対立と論争を惹き起す。
その背景には,ムッソリー二とファシズム全体が,統一的イデオロギーと明
確な未来像を欠いていたことがある。そのため,この論争は,単にスクワドリ
スタの非合法主義の肯か否かという現象面の問題を越えて,権力に就いたファ
シズムのたどる道はどのようなものか,ファシズムはどのような国家の建設を
目指すのかという,深くファシズムの本質と将来に関わる問題をめぐるもので
(1)
あった。
ファシズム内のこの両グループは,非妥協派と妥協派,急進派と穏健・保守
派と分類できる。前者の代表がファリナッチであったとすれば,後者はマッシ
モ・ロッカに代表され,若いボッタイも自己の雑誌「クリティカ・ファシス
タ』によって,修正主義の立場を擁護した。ロッカは,アナーキストからサン
ディカリストになり,さらにナショナリストの立場を受け容れ,参戦を支持し
た人物で戦前からのムッソリー二の協力者であった。21年のファシスト党綱領
で設置が認められた国政改革のための「専門グループ」の責任者となり,ファ
シズムの内外からテクノクラートを起用して,国家再建を実行しようとした
が,大評議会内の反対で果せなかった。また,22年,ムッソリー二に託され,
コルジー二と共に「公財政の健全化のために」という,自由主義経済の原理に
基づく,ファシストの経済綱領を作製した。
このように,ロッカは、tスクワドリスタの行動に従事していたファリナッチ
と異なり,国政改革,財政改革という国家の問題に没頭し,ファシズムの行動
(2)
主義とは全く対極に位置する人物であった。
本格的な修正主義論争は,23年9月15日,ロッカが『クリティカ・ファシス
(3)
タ』誌に発表した論文,「ファシズムと国」によって開始された。この論文
は,無秩序に対して秩序を回復するために出現したファシズムは,スクワドリ
ズモの暴力行為のため,別の無秩序に新たな無秩序を取って代えたにすぎない
(4)
とその行動を批判したものである。ロッカは,すでに暴力的な大衆ファシズム
の出現してきた時期に「ポーポロ・ディタリア』(21年1月31日)紙に発表し
(5)
た「ファシズムと暴力」においても,暴力の継続的使用に反対していたが,そ
一21一
こには「暴力的手段は,革新的目的に相応しくない。さもなければ山賊は全て
(6)
革命家である」という認識,つまり手段と目的は一致しなければならないとい
う深い認識があった。
そして,これは,次のようなファシスト党の厳しい批判となる。
ファシスト党は「大分前から,ファシスト革命はイタリアに,例外的である
とはいえ,唯1人の人物と,ごく少数の彼に相応しい協力者を与えたにすぎな
いという,友人達や敵の批判に直面している。かなり前から私は,ファシスト
党はムッソリー二が必要とする政治的支持を与えているのか,それとも寄生的
に彼の背後で生きているのか,自問している。今日,この2番目の推測が,あ
る点まで,全くムッソリー二的であるが,ほとんどファシスト的ではないイタ
(7)
リアにおいて,現実になりつつあるように私には見える」。
だが,より重要な問題は,「ファシストによって遂行された革命は,ファシ
(8)
スト自体のためではなく,イタリアのため」になされたというロッカの認識で
ある。 「革命は,語の建設的な意味においては,同時代人のためよりも,後世
(9)
の人々のためになされる」と考えるロッカにとり,ファシスト革命,あるいは
ファシズムそのものは,それ自体目的ではなく,国の再生のための手段にすぎ
ない。
イタリアを統一した自由派が,その没落後,その遺産をその後継者に委ねた
ように,「ファシズムのような運動の最高の目標は,恒久的に権力に留まるの
ではなく,ファシズムを作りあげ,それを新しい必要性に照応する新しい諸制
度に具体化した人々と党を越えて継続しうる,独創的で堅固なものを生み出す
(10)
ことにあった」。
そして,このような過程を妨害する存在として,ロッカはスクワドリスタの
暴力に厳しく反対したのである。
ロッカに『クリティカ・ファシスタ』誌の紙面を提供したボッタイも,10月
(11)
1日に発表した論文(「意識の検証」)で,「地方のラスを抑圧することは十分
ではなく,彼らを可能にし,多くの場合,彼らを不可避にしているシステムを
改革しなければならない」として,次のような8点を挙げた。
_22_
(1}党大会の召集。{2)支部集会,県大会の召集と各級の指導者の改選。(3)全権
委員の廃止と,県連盟書記によって取って替えること。(4)批判の自由を認める
規律システムの創設。㈲ファシズムの名組織間の関係の明確化。(6)党権力に対
する国家権力の優越の絶対的承認。{7)狂信的ではなく,教育的規準でなされる
宣伝事業。(8)党の任務の綱領上の明確化。
全ての全国紙が引用したことが示すように,ロッカの論文の反響は非常に大
(12)
きく,当然にも,党の執行評議会の非妥協派の激しい怒りを買うことになり,
すでに見たように,執行評議会は,9月27日独断で,大評議会のメンバーでも
あったロッカのファシスト党除名を決定した。この時に,ムッソリー二は介入
(13)
し,ロッカの除名撤回と執行評議会メンバーの辞任を要求し,10月12日の大評
議会で決着をみた。執行評議会は解散させられ,臨時全国指導部に代り,ビア
ンキも書記長を辞任,その代りロッカも3ヵ月の党活動の停止の処罰が加えら
れた。
この修正主義論争の開始にあたっては,当時,「コッリエーレ・イタリアー
ノ』紙の編集長として,修正主義を支持していたF.フィリッペッリが,38年
12月12日,ムッソリー二に送った次のような書簡,「あなたは,一あなたに
よって希望され一私が,ファリナッチを首領とするラス達の恨みを買うこと
(14)
になった修正主義のキャンペーンを記憶している」の記述からも,ムッソリー
二が背後で修正主義を支持していたことが分る。とりわけ,7月に,新選挙法
が議会を通過し,入民党を威嚇するために重要な存在であったスクワドリスタ
の武力も,ムッソリー二には無用となっていた。むしろ,非妥協派の力を削ぐ
ためにも,修正主義者は重要であった。
その後も,ロッカは自分の主張を放棄せず,23年12月のアメンドラに対する
(15)
ファシスFの暴行を批難,タイトル自体がその意図を示している「正常化のた
(16)
めに」を『ヌオーヴォ・パエーゼ』(24年1月)に発表,また,「ポーポロ・デ
(17)
イタリア』紙(24年1月)の論文で,自己の立場を,さらに明確に打ち出した。
「政治,財政,行政,学校,法,軍の改革の傍らに,国家に理念(idea)を,
国民に意識(coscienza)を回復するという,疑いもなく最も重要な道徳的革命
一23一
がある。現在の政治的諸機関を抑圧するのではなく,別の技術的,経済的諸機
関で完全にして,合法的で平和的な道を通じて,公的,立憲的生活の革新を継
続する可能性がある。とりわけ,必要以上続かないよう要求でき,それを人格
化する人物(ムッソリー二)の意図と事業において,それ自体目的ではなく,多
くの個人的,党派的利害,時としてはファシスト党自体の多くの利害を越え,
それと対立しつつ,国の利益のために専ら向けられていることを示す啓蒙専制
主義の例がある」。
そして,総選挙終了後,ロッカの「エポカ』とのインタビュー(4月26日),
(18)
5月9日付け「ヌオーヴォ・パエーゼ」の論文「内部政治と国民規律」,5月
(19)
10日付け同紙の「ファリナッチへの公開状」,ボッタイの「エポカ」(5月7
(20)
日)とのインタビューで修正主義論争が再開される。この時,ロッカは,ダラ
ゴーナのような改良派社会主義者をも含む広範な国民的基盤に立脚する政府と
(21)
いう方針を支持した。ロッカは,「ファリナッチへの公開状」で彼を「専制君
主で検閲官」(despota e censore)と批難,それに対抗してファリナッチは5
月13日付けrクレモーナ・ヌオーヴァ」で「更にもう一度」ロッカに党指導部
の注意を喚起した。5月15日,ロッカは「それでは,ファリナッチよ,私の除
名を要求せよ。……君はそれに成功するかもしれない。そして,私は除名証を
集め,勝利の記念メダルとして,私の勇気と信念の最終的な容認として,それ
を胸につるすであろう」と反論,この論争は外見的にはロッカと非妥協派の指
導者ファリナッチとの個人的対立という様相を強める。
だが,今回は,ムッソリー二はロッカを見捨てる。5月13日付け『ポーポ
ロ゜ディタリア」で,ムッソリー二の意を受けて,弟アルナルドは,新しい議
会の開会にあたり,平静さが必要な時期に,「論争のこの無秩序な激しさは,
…… ァの横柄なラスと同一水準で批難される」と述べ,ロッカとボッタイの「反
(22)
抗」に反対した。
ムッソリー二のこの態度の変化が問題となる。ファシズムに結局はとどまっ
たポッタイと異なり,ロッカはあまりにもファシズムの枠を踏み越えてしまっ
たことも考えられる。だが,より重要なのは,非妥協派との力関係の問題であ
一24一
ろう。,党の上からのしめつけにもある程度成功し,総選挙にも圧勝したムッソ
リー二は,独力で非妥協派を抑えこむ自信と可能性が生れ,ムッソリー二の長
期の個入独裁を否定するロッカの主張は,擁護しえなくなり,修正主義者を非
妥協派に対抗させて,バランスを取るという戦略も,不必要になったと考えら
れる。さらに重要な点は,修正主義を支持した何人かの人物,カッロ・バッツ
ィ,フィリッペッリがローマのあやしげな金融取り引きに関与していたことで
(23)
ある。また,ロッカは財務大臣デ・ステーファニの財政政策とそれにまつわる
スキャンダルを攻撃したが,デ・スニーファニは個人的にファリナッチと親密
な関係にあった。ムッソリー二は,デ・ステーファニを擁護し,ロッカを見捨
てる。こうして,二度目の修正主義論争は,5月16日の党指導部のロッカの除
名と,4日後のムッソリー二の承認でロッカの敗北に終る。
そして,ロッカは26年初め,フランスに亡命,「自分のファシズム」を擁護
(24)
しつつ,「現実のファシズム」に対しては,「反ファシスト」となる。
結
び
修正主義論争が,結着をみたかにみえた時,突如として,マッテオッティの
誘拐(6月10日),暗殺事件が発生する。皮肉なことにこの事件の下手人,関
与者は,暴力を公然と称賛するラスとスクワドリスタではなく,ムッソリーこ
の側近達,ファシストの「チェ,一カー」であり,この事実がムッソリー二を苦
境に陥れた。
事実,6月12日,事件の下手人ドゥミー二が逮捕され,14日,内務次官フィ
ンツィ,党行政書記マリネッリ,首相府新聞局長ロッシが辞任,16日にはロー
マ県警本部長,警察局長デ・ボーノが更迭され,誘拐に使用された車の所有者
(1)
のフィリッペッリが逮捕,18日にはさらにマリネッリが逮捕された。
このように,ムッソリー二は側近を逮捕,罷免させ,国内の動揺を鎮める措
置を取った間に,スクワドリスタ達は,ファシズムの敵達に対する譲歩に反対
して行動を起す。最初に行動を開始したのはファリナッチである。6月23日,
ボローニャでボー平野の古参ファシストを数万人集めて,ムッソリー二支持,
−25一
(2)
敵との妥協に一切の反対の集会を開いた。7月9日,フィレンツェでは,ファ
シストは,ムッソリー二くたばれ,ファリナッチ万歳」と叫んで,街頭デモを
行な。窺彼らは,まさに「第2の波」一・ r第2革制の好機として事件をと
らえた。
ムッソリー二にしても,結局,頼りうるのは,ファリナッチを指導者とする
このスクワドリスタの武力であった。こうして,ムッソリー二は,7月22日に
(4) (5)
大評議会,8月2日から7日にかけて党の全国協議会を召集,正常化路線の放
棄を打ち出す。とりわけ,全国協議会は,ラスの政治的復権を刻印する集会と
なった。その後,曲折を経てムッソリー二は,彼らの力で情勢を掌握するのに成
(6)
功し,その結果,25年2月ファリナッチを,再建された党書記長に起用する。
こうして,ラスとスクワドリスタ達の非妥協主義路線が勝利したかにみえる。
だが,ファリナッチの採用した政策は,党指導部に代って党書記長の位置の強
(7)
化と,党官僚制の強化となり,皮肉にも,党支部の自律性が弱められていく。
(8)
その結果,逆に,ファリナッチはスクワドリスタによって「裏切者」と批難さ
れるに至る。26年3月には,ファリナッチは解任され,後任にムッソリー二の
腹心A.トゥラーティが任命され,ファシズムの独裁化と共に,非妥協派も敗
北,その意味で,ムッソリー二のファリナッチ起用は成功したといえる。
最後に,以上,ファシズムの「危機」を見てきたが,その間,ムッソリー二
の権威が動揺したことは一度もなかった。スクワドリスタの暴力行動を抑制し
うる人物として,ファシズムにではなくムッソリー二個人に期待を託した伝統
的保守勢力を別にしても,ファシズム内部から,ムッソリーこの権威を批判し
(9)
たものはごく少数,あるいは取るに足りないものであった。修正主義者がムッ
ソリー三の個人的支持を頼りにしたのも当然であるが,非妥協派も,また内部
抗争に敗れた異論派ファシストも,究極的には自己の正統性をムッソリー二の
権威に求め,自己の反対派に対抗しようとした。このように,相互に対立する
グループがそれぞれに,ムッソリー二の権威に依存しようとし,結局,ムッソリ
ー二の権威の確立に寄与する。しかも,ファシストの中には,政治的経験の点
(10)
でも,個入的な魅力の点でも,ムッソリー二に取って替りうる人物がいなかっ
一26一
た。加えて,ムッソリー二は,23年半ばから全国遊説を開始,党を越えて直接
民衆との対説女鋤その後恒常的}。繰り返えされる行動の第渉を始め省
このような諸要素の積み重ねによってファシズムの指導者(ドゥーチェ)とい
うムッソリー二の「神話」が形成される。こうして,ファシズム独裁が,ムッ
ソリーこの個人独裁となる前提,心理的背景が,まさにファシズムの「危機」
を通じて,形成されたと言える。
注
1
(ヱ) G.Lumbroso, La crisi del fascismo, Firenze 1925, p.18.
〈2) G.Rossini, Il delitto Matteotti tra Viminale e Aventino, Bologna 1966,
pp.69−70. R. De Felice, Mussolini il fascista,1, Torino 1966, p.420.ム
ッソリー二は4月20日付け書簡で「党の危機(crisi del partito)については
大評議会で広範に述べる」と回答した,Opera Omnia di B. Mussolini, Fir・
enze 1954−1979, vol・XXXVIII, P.297.(以下,この著作集は0.0.ラテン数
字の巻数で示す)。この大評議会に関してはPartito Nazionale Fascista, Il
Gran Consiglio nei primi dieci anni dell’era fascista, Roma 1933, pp.51
sgg.(以下本書はAtti.と略記)。後に見るように,この時,党指導部の改組
がなされる。
(3) A.Lyttelton, La conquista del potere, Bari 1974, pp.283−4, Cf. L. Salv−
atorelli−G. Mira, Storia d’ltalia nel periodo fascista, Torino 1964, pp.
285−6.
皿
(1)A.Tasca, Nascita e avvento del fascismo, Bari l965, p.70. n.53.参照。
(2) それまで他党とのこ二重加盟が認められていたが,21年11月のファシスト党結
成に伴い,禁止される。
党員の非同質性に関して,ムッソリー二は22年4月の党全国協議会で次のよ
うに弁護iしている。「我々はみな平等ではない,まさにこの多様性の中に力と
生の美しさがある。……多方面からやって来たこれらの全ての分子は徐々に混
合すると信ずる。これは少しばかり困難だが,不可能なことではない」(0.0.
XVIII, P・141)。また,修正主義論争の一方の旗手となるG.ボッタイも次のよ
うに弁護している。「同質性は,正確で厳格な綱領のまわりに結成された諸党
においてはほぼ可能であったが,他方,熱狂的な雰囲気のもとでの徴募から出
現した党にあっては,ほとんど不可能であった。強い感情が作用している時に
は異った人々を結集することは可能である,そして,その時には平静さは分解
をもたらす」。Funzione storica del partito,<11 Giornale di Rolna>(1922.
一27一
12.15),in G. Bottai, Pagine di critica fascista(1915−1926), a cura di F.
M.Pacces, Firenze 1941, p.222,
(3)綱領・規約全文は0.0.XVIII, PP.334−350.
(4) G.Lumbroso, op. cit., p.44.
(5) R.De Felice, op. cit., p.407.
(6) E,Ragioniere, La storia politica e sociale, in Storia d’ltalia, vol.4r
tomo 3, Torino 1976, pp.2129−30.
(7) フィレンツェの異論派ファシスト,ルンプロ・−Lゾは述べている。「宣伝の必要
が限度を越えて部隊を巨大にした。日和見主義者,政治屋(politicanti),野心
家は,ファシズムが地歩を築くのを見て,そして,それほど遠くない日に政府
を支配しうるのを見て,とりわけ,共産主義の策謀が大部分消え失せたことを
悟り,新しい党の隊列に殺倒した」。(G.Lumbroso, op. cit., p。43)。この党.
への殺倒は11月,12月に頂点に達し,北部ではほぼ止まるが(R.De Felice.
op. cit., p.425),問題は,それまでファシストの勢力の弱体であった南部の1
激増である。『ポーポロ・ディタリア』(12月28日)に掲載された新設ファッ
ショの一欄表によれば,54ファッショの内47が南部である(A・Lyttelton, op.
cip. p.738, n.34)。この南部における「新参者」の大挙入党は,「古参」フ
ァシストの激しい反発を呼び起し,パドヴァー二(ナポリのラス)事件を惹き
起す。南部に関しては,さしあたり,Ibid., PP.303 sg9. G. De Antonellis.
Il sud durante il fascismo, Manduria 1977. M. Bernabei, Fascismo e
nazionalismo in Campania, Roma 1975.パドヴァー二事件に関してはR.
Colapietra, Napoli tra dopoguerra e fascismo, Milano 1962.参照。
(8)若干の例を挙げれば,マルケで,ローマ進軍後の全ての入党者が除名され,フ
ァッショは2つに分裂(A.Lyttelton, oP. cit、, P.284),ローマ進軍後結成
され,ルンブローゾも指導者の一員であったフィレンツェの独立ファヅショ
〈撤去隊〉(Banda dello sgombero)は「県本部から,そこに巣くい,主人づ
らしていた野心的で無能な政治屋のグループを追い出し,面目をほどこした」
(G.Lumbroso, op. cit., P.111)。そして,22年12月15日のフィレンツェ・フ
ァッショ集会で,ローマの党中央に承認された公式のファッショは217票を,
反対派は198票を獲得,まっ二つに分裂した,E. Santarelli, Storia del fasci−
smo, Roma 1973(1967), p.341.
(9) G.Lumbroso, op. cit., p.44.
(10) Ibid., pp.61−2.
(11)0・0・XIX, p・206.1933年発行の公式議事録(Atti,)からはこの箇所が削除
されている。
(12) Atti, pp.57−8.
(13)A.Lyttelton, op. cit., pp.280−1.ラッィオ・ファッショ内の対享の主役は
カルツァ・ピー二とボッタイである。この点に関しては,G. B. Guerri, G,
一28一
Bottai, un fascista critico, Milano 1976, pp.50−2.
(14) 0.0.XIX, p.376.
(15) Ibid., p.260.
(16) Atti, pp.63−101.
(17) 0.0。XX, p。162.
(18)G.Lumbroso, op. cit., p.62.続けて,彼は次のように記している。「こうし
て,時として,シャツのように旗を変えた政治のろくでなしや,戦争中きわめ
ていかがわしい投機によって富裕になったサメ (戦争成金),ニッティ政府の
下で,その熱意によって赤のデマゴギーに対して国家の権威を売り渡した県知
事達が,ファシズムに相応しいと宣言されるに至った」。
(19) A。Aquarone, L,organizzazione delio stato totalitario, Torino 1965, pp.
342−3.
皿
(1) G,Lumbroso, op. cit., p.143,
(2)R.De Felice, oP. cit., PP.419−20.その後,23年11月1日,当時の党書記長
F.ジュンタは内務次官A.フィンツィに書簡を送り,中央(政府,党)の指導
者達も下部の争いに関与し,逆に混乱に拍車をかけていることに注意を促して
いるが,そのことは党書記長自身も他の幹部達を統制できないでいることの証
左である。「政府の何人かのメンバー,特に何人かのファシストの副書記長に
よって,しばしば,ほとんどイタリア全土で党生活の発展をひどく混乱させて
いる争いと分裂に積極的に関与するために,特別書記,あるいは官房長(Capi−
Gabinetto)が様々な県本部に派遣されている。その結果,県書記の活動の価
値が落ちるだけでなく,県知事の権威自体をも弱めたり,それに影響を及ぼす
に至っている。閣下はそのような事態を停止させるため首相に知らせるか,個
人的に措置すべきである。というのも継続する時には,私がイニシアティブを
取らざるを得ない。若干の県の最も重大な危機のケースは議員や政府のメンバ
ーの間の関係によって決定づけられていることを内務省は見すごすべきではな
い。アレッサンドリア県のトッレーマゾッコ,フォッジャ県のカラドンナーボス
ティリオーネ,ヴェネツィア県のジュリアーティーマグリー二の対立を示せば
十分である」。A. Aquarone, oP. cit., PP.338−9.・
(3)A.Misuri, Rivolta morale, Milano 1924, p.24.ミズーリに関しては,拙
稿「異論派ファシスト,A.ミズーリ」『明治大学人文科学研究所紀要』第二十
冊,昭和56年,参照。
ファリナッチは23年4月6日付け「クレモーナ・ヌオーヴァ』紙で,ムッソ
リー二をその取り巻き達から解放するため,彼を守る純粋無垢なファシストか
ら成る歩哨部隊の樹立を提案した(L.Salvatorelli−G. Mira, oP. cit., P.287)。
ムッソリー二はその後,24年1月28日の選挙戦キャンペーン開始の党の集会
で,ムッソリー二を取り巻いている鉄条網の伝説と共に,「良き独裁者と私を
一29
描きながら,私が秘密の不吉な影響を蒙っている悪しき忠告者に取り巻かれて
いるという別の作り話しも消え失せるべきである」と,側近達の影響は全く受
けていないと反論する。0.0.XX, PP.163−4.
(4)
G.B. Guerri, op。 cit., p.5ユ、
(5)
Disciplina,《Critica Fascista>(1923,7.15), in pagine. cit., pp.266−71.
(6)
0,0.XIX, p。48.「ある時,党内粛清の1つを断行した時,彼は党の幹部達
に乱暴なロぶりで,自分が外交に関する高等政策に多忙である際,党内のつま
らない出来事によって邪魔されたくないと語ったと言われる」,H. W. Schn−
eider, Making the fascist state, New Yonk 1928, p.116.(邦訳,佐々弘
雄・戸田原史朗訳『ファシズム国家学』中央公論社,昭和9年,199頁。
(7)
0.0.XIX, P.259.(23年6月8日の上院演説)。メンバーに関してはA. Aqu−
arone, op. cit., p.16, R, De Felice, op. cit., p.417.
(8)
この意義について,アックワローネは次のように述ぺている,「当初から大評
議会は一ますます蔭に追放され,専ら規律と行政の機能に縮小された党指導
部よりも,はるかに大規模に一ムッソリー二の直接の厳格な統制下に,ファ
シズムの最も影響力のある幹部達により表明される諸傾向の一種の手形交換所
となった」(A.Aquarone, oP. cit., P.16)。 M.ロッカは戦後の回想録で,
23年春,ムッソリー二はテルッツィとスタラーチェのような何人かの凡庸な人
物を大評議会から排除し,その改組を図ったが,ビアンキとファリナッチの反
対にあい,失敗に終ったと記している。M. Rocca, Come il fascismo divenne
una dittatura, Milano 1952, p.154.
(9)
C・ペリッツィはファシズムが政権を握り,正常な手段を通じて諸制度の改革
を遂行する可能性を得た時,ファシスト党の歴史的任務は,一挙に純粋に選挙
装置に堕っしてしまったと記している。C. Pellizzi, Probremi e realta del
fascismo, Firenze 1924, p.122.
〈10)
Atti, PP。25−6.ローマ進軍後,旧指導部のメンバーの内の一部は政府に参
加,一部は内閣構成をめぐる対立から批判的立場に立ち,中央から排除され
て,スクリドリスタの「第2の波」の主張に同調していく。R. De. Felice,
OP. cit., p,417.
(11)
Ibid., pp.418−9.
(12)
Atti, pp.51−3.
〈13)
A.Lyttelton, op, ci亡., p.290, R. De Felice, op. cit., p。421.
(14)
Atti. p.36.
(15)
Ibid., p.57.
(16)
0.0.XIX, P.259.
(17)
ムッソリー二は,ラスとスクワドリスタの行動を牽制するため,国防義勇軍の
設置の他に,23年3月,国家の権威の確立を主張しているナショナリスh協会
とファシスト党の合同を行なう。これについては,A. J. De Grand, The
一30一
Italian Nationalist Association and the rise of fascism in Italy, Lincoln・
London 1978.参照。
(18)
この選挙制は,投票総数の25%以上を獲得した第1党に議席の3分の2を与
え,残りを比例配分するというものである。
(19)
この問題に関しては,R. De Felice, oP. cit・, PP・522 sg9・A・LytteltQn・
op。 cit., pp.195 sgg.ムッソリー二は,教会の占拠や,各地でファシストの
デモを組織してカトリックのサークルを略奪させたり,最後の議会審議の時に
は,自から黒シャツを着用して議会に乗り込むと同時に,議会の警備を黒シャ
ッ隊に委ねるなど,様々な威嚇と脅迫を入民党に加えた。Ibid., pp.212−3.
(20)
Atti, p.102.
(21)
Ibid., pp.105−9.
(22)
A.Lyttelton, op. cit., p.296.ルンブローゾは次のように述ぺている,「多
くの者が党の新しい方針,新しい秩序づけの前兆であると考え,安吐感をもっ
て勧迎した執行評議会の崩壊後に,ファシズムの危機は頂点に達した。党員の
粛清と修正は着手さえされなかった。……新全国指導部は党の形式的規律を乱
さないようにと専ら配慮し,一切の修正主義者の試みを窒息させ,ファッシと
県連盟の団結を脅やかしていた無数の地方的争いを解決するどころか,悪化さ
せた」。G. Lumbroso, op. cit., p,126.
(23)
Atti, P.133.23年12月にファッシの新指導部の選挙が実施され,ラスと党書
記長ジュンタ,及びムッソリー二の個人的取り巻きとの間の影響力の競い合い
の場となる(A・Lyttelton, oP・cit・, P・219)が,その結果については詳細は
不明。なお,1(19)参照。
(24)
Atti, p.124.
Iv
(1)
Marcia su Roma,<Critica Fascista》(1923.11.1), in Pagine cit., p.287.
24年になっても『エボカ』(5月7日)とのインタビューで,「諸ファシズムが
ローマに行進した……。ローマでファシズム(Fascismo)を創造する必要が
ある」と述べた。Ibid,, p.352.
(2)
G,Bastianini, Rivoluzione, Roma 1923, p.30, cit., da R. De Felice, op.
cit,, p.115.
(3)
ミズーリの次のような証言,「21年の選挙戦が始った時,なおウンブリアでは,
地方的イニシアティブの解放が続いていた。戦闘ファッシ中央委員会と我々の
関係は始ったばかりで,そこからいかなる援助も受けてはいなかった。全土を
健全化した時,中央委員会に告げるため,我々の全権委員(バスティアニー二)
を派遺し,何らの困難もなく,州全体のファシズムへの合併は登録された」。
A.Misuri, op。 cit., p.23.
(4)
L.Federzoni, Italia di ieri per la storia di domani, Milano 1967, p.91.
ラスの現象(rassismo)に関しては, A. Lyttelton, oP・cit・, PP・269 sg9・
一31一
G.Salvemini, Scritti sul Fascismo I, pp.133 sgg.参照。
(5) ファリナッチに関してはU.A. Grimaldi e G. Bozzetti, Farinacci il piti
fascista, Milanoユ972,参照。
(6)G.Lumbroso, op. cit., p.80.別の箇所で,県ファシズム,田舎のファシズ
ムについて,興味ある指摘をしている。「国家の権威がカラビニエーレの伍長
と2,3人の兵士に人格化されている小都市では,ファッショ,より良く言え
ば,しばしば市長,義勇軍の指揮官でもあるファシスト党支部書記は,政治的・
法的・行政的権限を一身に集めている。専制君主と家長の間の家父長主義の奇
妙な形である。一切の個人的活動はファッショにより統制されている。ファッ
ショで,私的争いが解決され,農村の祭り,宗教的行列が組織される。ファッ
ショからのある者達の追放,禁止がなされる。マッサレンティめ時代に赤い男
爵領(baronie rosse)で生じていた制度である。だが,これらのファシスト
の領地(feudo)では,しばしば,住民は不可避の専制主義に忍耐して,清ら
かな平和のうちに生活し,労働のリズムはいかなる争議によっても妨たげられ
ることはない。当然にも,全てはファシストの書記の慎重さ,誠実さ,知性次
第である」,Ibid., pp.122−3.
(7) A.Lyttelton, op. cit., p.27L
(8)L.Federzoni, op. cit., p.92.23年の各地のファシズムの内部対立について
の共産主義者側の観察について,Sas(Giulio Aquila), Il fascismo italiano,
in II fascismo e i partiti politici ilaliani, Testimonianze de11921−1923,
acura di R. De Felice, Bologna 1966. pp.489−91.参照。
(9)異論主義(dissidentismo)に関しては前掲拙稿参照。
(10) G.Lumbroso, op. cit., p.122.
(11) ファリナッチは『クレモーナ・ヌオーヴァ』(23年5月10日)に書いている。
「ファシストの非合法主義が国家の法となる時,我々はもはや固執する理由を
持たない。その時には,我々は政治書記と県全権委員に暇を与えることができ
るし,県において,県知事と他の全ての権威を自己の擁護者にしているファシ
ズムを正常化し,あるいは国家化できる」。そして,具体的目標として,新聞
に対する厳格な統制,政治的収容所の設置,ファシスト組合の法人化,死刑の
復活を挙げている。A. Lyttelton, oP. cit., PP.244−5・
(12) トリーノ事件に関しては,R・De Felice, I fatti di To「ino del dicemb「e 1922・
<Studi Storici>, n.1,1963.参照。
(13) 当初,ムッソリー二はラス達をも県知事,県警本部長に起用することを考えた
が,彼らの行政能力の欠如,彼らの自律性の強化への危雇などのため,すぐに
この方針を放棄してしまう。R. De Felice, op. cit., PP・405−6・
(14) 0.0.XIX, p.259.
(15) Ibid., XXXVIII, p.355.
(16) Atti, p.104.
一32
(17) 0.0.XIX, p.22.
(18)A.Aquarone, oP. cit., P.340.また,23年3月25日のミラノでの戦闘ファッ
シ創設4週年記念集会にあたっての,ムッソリー二の党書記長ビアンキ宛書
簡,「我々の勝利は巨大であり,議論の余地はない。なお鉄の規律に服してお
らず,逆に馬鹿げた反英雄的非合法主義を続けているファシストの他には,そ
れを脅かすことはできない。私は,ファシズムの純粋さを汚し,国の将来を損.
うので,その非合法主義を抑圧する決意をした」『ポーポロ・ディタリア』(3
月27日),0.0.XIX, P.390.さらに,4月24日付けのパルマ,ヴェローナ
県知事宛電報参照,0.0.XXXVIII, P・268・
(19) A.Aquarone, op. cit., p.341.
(20) A.Lytte!ton, op. cit., p.384.
(21) ファシストのチェーカーに関しては,G・Rossini oP・cit・, PP・299 sg9・G・・
Salvemini・oP. cit・, PP.252 s99・C・ロッシの第3の覚書(G. Rossin量, op.,
cit., pp。970−95)参照。
(22)元革命的サンディカリストのA・ランツィッロは『ポーポロ・ディタリア』
(22年11月10日)の論文「新しい任務の検討」で書いていた・「スクワドリズモ
の役割は尽きてはいない。というのも,国を救うというムッソリー二の可能性
は,国内におけるスクワドリスタの勢力の存在に緊密に結びついているからで
ある。運動の無限の自由と国家の活動の選択,計画の実現に敵対する巨大な抵
抗を打倒する可能性はこの力によっている。従って,非合法のあらゆる残津を
除去しながら,その美と軍事的情熱を保持するようにスクワドリズモを変更す’
べきである」,(A,Aquarone, oP. cit., P.18),また「『クレモーナ・ヌオーヴ
ァ』で,ドゥーチェに全く献身的なファリナッチは,交渉の坂をころげ落ちない
よう彼に警告している。というのも,彼の力はファシスFの軍隊にあり,これか
ら離れれば,彼も飲み込まれてしまうからである。そして,ファシズムは,彼
抜きでは頭の無い胴体となり,漂流してしまう」とA・クリッショフは23年5
月28日付け,Eトゥラーテイ宛書簡で,ファリナッチの主張を要約していた。
Turati−Kuliscioff, Carteggio, IV, Torino 1959, p.30.
(23) 国防義勇軍に関しては,A. Aquarone, La milizia volontalia nello statoI
fascista, in Il regime fascista, a cura di A. Aquarone−M. Vernassa.
Bologna 1974.この問題をめぐるムッソリー二とファリナッチの論争に関し
てはR.De Felice, oP. cit., PP.541−3.参照Q ・
(24) 0.0,XIX, pp.255−6.
(25) G.Rossini, op. cit., p,73.
(26) Sas(Giulio Aquila), op. cit., p.483.
(27) R.Farinacci, Andante MossQ.1924−1925, Milano 1929, pp.8−9.
(28)「1923年には,行動へのノスタルジーはファシスト党の複雑iな精神状態の基本
的要因である」。IIIegalismo fascista,<Corriere Italiano>(24.1.8), in
一33一
pagine, cit., p.302.
〈29)Mussolini, Secondo Tempo,<Gerarchia>,(23.1),in O.0. XIX, pp.116−7.
(30)M.Maccari, Parla il Servaggio, Il<Servaggio>(24.9.28).
〈31) LMangoni, L’interventismo della cultura, Bari 1974, Capitolo II. R.
Busini,11<Servaggio》squadrista(1924−25):Le radici di una corrente
del cosidetto<fascismo di sinistra>, in Quaderno’70 sul Novecento,
Padova 1970:参照。
V ・
〈1)24年初め,ムッソリー二の弟アルナルドは,修正主義者はファシストであるこ
とに疲れているのかと『ポーポロ・ディタリア』紙で質問したが,それに対し
て,ロッカは「我々はファシズムが何であるのか知りえないために疲れてい
る」と回答した。M. Rocca, Come cit., P.163.
〈2) ロッカとムッソリー二の関係については,前掲ロッカの回想録参照。ローマ進
軍後,ムッソリー二はロッカを首相府に起用しようとしたが,党の指導グルー
プの反対に会い,果せなかった。(lbid., P.129).このことは「ローマの人々」
の中でも,ロッカは孤立的な存在であったことを示している。
〈3) Fascismo e Paese,《Critica Fascista>, antologia, a cura di G. De Rosa−
F.Margeri, Firenze 1980, pp.44−7.この論争の前哨戦はすでに,この雑誌
の8月1日号に発表されたA.デ・マルサニックの論文「修正」により始って
いた(Ib至d., pp.31−3)。マルサニックはその末尾で「ファシスト党は,今や
r動員解除』し,国民的統合という崇高な目的によって,多くの者,全てでは
ないが,昨日の敵に接近するという可能性をはっきりと提起する必要性を感じ
るべきである」と記していた。
〈4)興味深い点は,ロッカとトリーノ県連盟書記マリオ・ジョーダの2人が,22年
12月のトリーノ事件でファシストに殺害された1人の活動家の墓に詣でて,花
輪と「敵の陣営で倒れた幼年期の友人へ」という献辞をささげ,名刺を残した
ことである(M.Rocca, Co皿e cit., P.153)。これは,当然にもスクワドリス
タの怒りを買うことになる。
〈5) M.Rocca, Idee sul fascismo, Firenze 1924, pp.23−30.
〈6)M,Rocca, Come cit., p.133.
・(7) Fascismo e Paese, cit.,
・(8) Ibid.,
1(9)M.Rocca, Come cit., pp.133−4.
・(10) Ibid., p.133.
〈11) Esame di cosciellza,《Critica Fascista>, in Pagine, cit., pp.275−82.
〈12)M.Rocca, Come cit., P.153.修正主義を支持した新聞・雑誌は,内務次官
フィンツィの支持を受けていたフィリッポ・フィリッペッリの『コッリエー
レ・イタリアーノ』,カッロ・パッツィの『ヌオーヴォ・パエー・ゼ』,ローマの
一34一
『エポカ』,それにボッタイの『クリティカ・ファシスタ』である。A. De
Grand, Bottai e Ia cultura fascista, Bari 1978, p.42.
(13)R.De Felice, op・cit・, pp・551−2・哲学者のクローチェはロッカの主張を支
持していたが,ムッソリー二のこの措置を,ファシズムの正常化への徴候とし
て勧迎した。G. B. Guerri, oP. cit。, P・56・
(14)U.A. Grimaldi−G. Bozzetti, op. cit。, p.56.9月16日付け「コッリエーレ・
イタリアーノ」の論説「政治的現実における政府とファシズム」は,非妥協派
. .を厳しく批判,党はもはや現実に対応できないとその解散を示唆した(R.De
Felice, op. cit”p.548)dまた,ロッカによれば,内務次官フィンツィも,県
ファシズムの無規律に激怒して党の解散と,全ての与党から,国防義勇軍の兵
士の募集を行なうという提案をするに至った。M・Rocca, Come cit・, P・150・
(15)Fascismo e Opposizione,<Nuovo Paese》(24.1), in M. Rocca, Idee cit..
pp.87−95.
(16) Ibid., pp.115−24.
(17) Ibid., pp.96−103.
(18)in. M. Rocca,11 primo fascismo, Roma 1964, pp.125−30.
(19)M.Rocca, Come. cit., pp.175−34.
(20) in Pagine. cit., pp.350−9.
(21)in M. Rocca, Come. citりpp.125 sgg.
(22) R。De Felice. op. citりpp.595−6°
(23)Ibid., pp.450 sgg.また, IV(10)参照。
(24)M.Rocca, Come cit., pp.85 sgg.
結 び
(1) A.U. Grimaldi−G Bozzetti, op. cit., pp.63−4. R. De Felice, op. cit..
PP.619 sg9.
(2)R.Farinacci, op. cit., pp.29−34.当初,上からの国防義勇軍動員の試みは成.
功しなかった。A. Gramsci, La crisi italiana, in A・Gramsci, La costruz・
ione del partito comunista,1923−1926. Torino 1971, p.32.(邦訳,『グラ
ムシ政治論文選集』3巻「イタリア共産党の建設」五月社,68ページ参照。結’
局,ムッソリー二を救うのは,スクワドリスタの下からの行動であった。
(3) A.U. Grimaldi−G. Bozzetti, op. cit., p.64.
(4) Atti, pp.139−51.
(5) R.De Felice, op。 cit., p.678. A. Lyttelton, op. cit.,407.
(6) だが,その以前,24年6月16日,次官A.フィンツィの辞職後,ムッソリー二は兼
任していた内相のポストをナショナリストのフェデルゾー二に委ねていた。フ
ェデルゾー二は,25年になって,国家の権威の再建を目指して,スクワドリスタ
の暴力の取り締りに努力する。フェデルゾー二の県知事宛回状参照,A. Aquar−
one, op. cit., pp.382−5.
一35一
(7)A.Lyttelton, op. cit., pp.437−8.さら}こ,書記長ファリナッチの下で,25
年10月8日,大評議会は党の閉鎖を決定(Atti, P・209),26年1月3日,新た
な入党規則を定め(Atti, pp・217−8),党の中央集権化を強化する。
(8) L。Mangoni, oP・cit”P・94・
(9) 数少ない例として,ミズーリのケースとローマの「ポレミカ・ファシスタ』紙
のグループを挙げることができる。前者に関しては前掲拙稿に譲る。後者に関
しては,R. De Felice, oP. cit・, PP・428−9・参照。
(10) この点は,G. Bottai, Vent’anni e un giorno, Milano 1977・(1949), Capi・
tolo 4参照。また,ペリッツィの証言,「広範なムッソリー二主義の現象があ
った,すなわち,彼の思想,彼の運動とは独立し,その人間そのものに対する
信頼」,C. Pelizzi, op. cit., p.118.
(11)L.Salvatorelli−G. Mira, oP. cit., P.289・この時,ムッソリー二は歴代首相
として初めて,サルデーニャ島にも足を運んだ。0.0.XIX, pp.264−5.
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