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蔡 家 人 Ver 100 目 次 はしがき 02 第一章 蔡姓再興の祖:蔡仲 04 第二章 風俗、習慣、言語 07 第三章 世界に散った蔡家人 16 写真 01 蔡家人:bai du bai ke より 1 はしがき 中国の姓大全略 蔡姓の人は中国に何人いるのか、調べてみよう。中国の四大姓と呼ばれるのは张、王、 李、赵である。悠久の歴史古くから広く分布している。李氏は皇帝に多いことで知られて いる。最新の統計によると张姓の人は一億人を超えるという。ある調査( 《东方》1977 年) によると、 最大の十大姓: 张、王、李、赵、陈、杨、吴、刘、黄、周,この10姓で人口の 40% 第二大の十大姓: 徐、朱、 林、孙、马、高、胡、郑、郭、萧,人口 10%以上 第三大の十大姓:谢、何、许、宋、沈、罗、韩、邓、梁、叶,人口 10%; 第十五大姓:方、崔、程、潘、曹、冯、汪、蔡、袁、卢、唐、钱、杜、彭、陆,人口 10%。 即ち、以上 45 の姓で70%の人口を占めている。蔡姓は15姓で10%を占めている内 の一つであるから、均等割りして約 0.7%を占める。現在人口が約13億人であるから、そ の 0.7%は約 900 万人となる。日本の第二の人口を占める神奈川県(2010 年)の人口に匹 敵する。 蔡姓源流 蔡姓が多いのは北方民族に多い。その中でも鮮卑族の一支族がよく知られている。 南北朝時代鲜卑族拓拔部が活躍し、漢化して改姓し蔡とした。北魏孝文帝の拓拔宏(元宏) の二兄(哥)である普氏は氏族部落を建て、有名な武将に普锺蔡がいる。北魏孝文帝が洛 阳に遷都した後、漢化改革を進め、普氏の多くが漢姓の周に変更した。普锺蔡は方州(今江 西赣州)に進軍したとき、南朝の刘宋政権の軍隊に敗れ捕虜となった。その後、両軍の捕虜 を交換し、普锺蔡は釈放され帰国したが周姓を名乗ることを許されず、姓を蔡とした。そ の子孫は現在まで蔡姓を継承している。 その他、蒙古族の支族、オロチョン族の支族、満州族の支族などに多い。漢族に同化す るとき、漢族の習慣に従って姓を名乗るのだが、自分の姓の第一発音を漢字の一字に当て て姓とすることが多かった。例えば、満州族の Caigiya Hala である支族は蔡佳と漢字に当 て、蔡字を姓に選んだ。 蔡姓の一番古いのは黄帝(紀元前 2717 年—紀元前 2599 年)の末裔たちである。源は姞姓 であるが、黄帝の支裔である姞姓の支族を封じた土地の名前からきている。 《潜夫论·志氏姓》 によれば、“姞姓の者を燕に封じ、…姞氏の別に阚、严、蔡、光、鲁、雍、断、须密氏がい る。” という。 次に古いのは周王朝(紀元前 1046 年頃~ 紀元前 256 年)の文王の第五子に蔡叔度がい 2 る。彼は蔡国に封じられた。彼は蔡を国名と共に自らの姓とした。蔡国は二十三代、六百 余年続いたが、紀元前 447 年、楚国に滅ぼされた。王族の子孫や庶民は四散し、楚(現在の 湖北省)、秦(現在の陕西省)、晋(現在の山西省)、斎(現在の山东省)に住み着く。 さらに、福建省、南海島、台湾に、さらに更に海外に移住する者が多かった。彼らはか つての栄光を伝えるため蔡姓を継承して現在に至っている。 蔡家人とは蔡(Cài)を姓に持つ人たちのうち、蔡叔度の末裔たちのことである。蔡人、 蔡族などとも呼ばれる。 この姓の蔡字の古い発音は現在のピンインで示すと jì(ジに近い発音)であり、現在の発 音は cài(ツァイに近い発音、日本語ではサイ)である。 では、多彩な、また数奇にみちた蔡叔度の末裔たち・蔡家人の一端を以下に紹介しよう。 地図 01 蔡姓の分布:互动百科より 色の濃い地方は蔡姓の人が多く住んでいる。 3 第一章 蔡姓再興の祖:蔡仲 紀元前十一世紀、周武王が商を滅ぼした後、武王は戦に貢献した者に各地の土地を与え 侯に封じた。武王の弟(5男)の叔度を蔡(現在の河南省上蔡県、後の上蔡)に封じる。 さらに管叔(三男)及び霍叔(6男)を監の役職に着け、殷の遺民を監視させた。三監と 呼ばれている。 武王の死後、その子成王(姬诵)が王位を継いだが、年齢が若かったので武王の弟の周 公旦(周公)を摂政にした。叔鲜(三男) 、叔度(5男)は不満をつのらせ、武庚(商最後 の王である纣王の子)とも連合して周公旦に叛乱を企てる。周公はこれを察して、兵を送 り平定する。武庚と叔鲜(管叔)は死罪、叔度(蔡叔)には放逐の処分をとる。周朝は平 安を取り戻したのである。 暫らくして、蔡叔度は死亡する。蔡叔度の子、胡はまだ若くて父親の過ちを知らないし、 父と同じ汚名を着せるのは良くないとして、周公は文王の徳訓に従うことにした。胡を鲁 国に送り周公の子、伯禽を補佐させる。胡は抜群な振舞を示し成果を上げると、周公は胡 を蔡に封じるとともに叔度の祭祀を継いだ。そして、蔡仲と名乗らせた。蔡国を再興した のである。現在、蔡叔度は蔡姓の始祖、蔡仲は蔡姓の再興の祖として崇められている。蔡 仲、姓は姬、名は胡。墓は上蔡に建立され、蔡仲墓と呼ばれている。 写真 02 蔡仲墓:上蔡県の蔡仲公陵公園 春秋時代に入り、世は戦乱の時代となる。蔡国は楚国に攻められ、遷都を余儀なくされ る。蔡平侯(19 代、前 530 年—前 522 年)の時、上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)から 新蔡(現在の河南省駐馬店市新蔡県)に遷す。蔡昭侯(21 代、前 518 年—前 491 年)の時、 鳳台(現在の安徽省淮南市鳳台県)に移り、下蔡と称した。以後、蔡国は二十三代、立国 後六百余年を生き延びる。 4 侯斉(25 代、前 450 年—前 447 年)の時、楚に滅ぼされる。楚惠王は蔡氏皇族およびそ の人民を牂牁郡 (今貴州省大部分および广西、云南地区、郡は漢代に設置された)に強制移 動させる。 貴州の蔡家人は蔡国臣民の末裔であり、遠くは周国の末裔でもある。同時に、この時以 降、蔡姓の子孫は世界各地に分散する。 図 01 周王朝と蔡国の系図(右) 丸の囲い文字は代目を示す。 蔡家の子孫は春秋時代に名を馳せ、移動・融合・ 発展し、中華民族中の名門の名をほしいままにする。 蔡姓文化とも呼ばれる。李斯はその中でも最有力な 人物であろう。蔡氏以外に蔡仲氏、蔡丘氏、帰生氏 など多くの名門が派生する。蔡氏は堂号や流派を多 く生み、文化習俗を現在に伝えている。蔡氏客家を はじめ海外に渡った華僑の蔡人も多い。 中原に残った蔡氏は西南方向に移動発展し、当地 の少数民族と融合する。この地方には蔡を姓とする 者が多く存在する。また蔡家苗族を形成した例もあ る。 蔡人の避難行 蔡人の最初の難事は楚に滅ぼされた時である。楚 惠王は抵抗する民衆数万を惨殺する。捕虜にした者 を南に追放する。蔡氏皇室の者を牂牁(贵阳古称) に強制移動させる。蔡家の者は当地の苗族と同化がすすみ、蔡家子、蔡家苗などと呼ばれ た。これらは既に述べた。その後も蔡家人の避難行は続く。 1382 年、明王朝は貴州に兵を進めると、大部分の蔡家人は追い払われ黔西、大方、织金 などに移住を余儀なくされる。 1663 年(清康熙三年) 、吴三桂は貴州に進軍する。蔡家人にはまたもや災難が降りかかる。 蔡家人は深山峡谷に逃げ延び、水城、威宁、纳雍(当时同属大定府辖)および清镇、安顺、 さらに雲南の镇雄、彝良、昭通などに移り住む。 当時の苦労が民歌に歌いこまれている。 卿卿毡髻我毡裳, 妻は毡で髻を結い、私は毡で裳を作る。 做戛匆匆兴不常。 軽く(弓を)弾いて、騒がしく鳴らないように。 5 几见鸳鸯能作冢, 鸳鸯が塚を作るのを見たよ、 销魂人赠返魂香。 魂の鎮める人(死んだ人)は魂の香りを送り返す。 地図 02 上蔡、新蔡、下蔡、黄岡の位置 貴州を中心とする地域に住む蔡家人は共同の地域に住み、共同の文化と共同の心理状態を 有している。しかし、周囲の政権から辺境の地に押し込められ、政治上の圧迫を受け、経 済上は搾取を受け、文化的には奴隷のように酷使され続けて来た、・・とされている。 一方、蔡家人は自らを蔡族である誇りと名誉を主張しており、現在、民族帰属問題で揺 れている。 同様の問題で揺れている民族に穿青人のほか複数の民族が居る。一部の経歴は蔡家人と よく似ている。 北京スナップ写真集>少数民族の歴史ロマン>栄光の末裔たち をご参照ください。 6 第二章 風俗、習慣、言語 蔡家人訪問記 現在蔡家人が住む地区を訪問した人の訪問記が公開されている。1982 年 9 月、民族識別 の任務をもつ三人の職員が深い山の中へ蔡家人を訪ねたのである。この頃は公社が多く作 られた。当時、紅旗隊と名付けられていた。現在、公社制度は無くなり、住所表示も変わ った。貴州省六盘水市水城県红旗である。訪問記の内容と一致する紅旗の名はかろうじて Googel Earth の地図の上に見出すのみである。 地図 03 水城県红旗の位置 調査隊 県民族識別工作組隊長王さん、布依族の隊員陸さんそして訪問記の筆者の一行 3 人であ る。水城県では最遠地である紅旗生産隊(当時の名称)に出向いて蔡家人を調査し、蔡家 人の歴史、経済、習俗等の状況を調査することが目的である。第一日目は水城県を出て播 落で一泊している。以下日記風に書かれているのを抄訳しよう。 1982 年 9 月 21 日 星期二 晴 早朝私たちは播落を出発し、一本の曲がりくねった小道を進むと古い松林を抜け、托宜 と呼ぶ地に着いた。公社が派遣してわたしたちの仕事を手伝ってくれる夏さんが言う、 「托宜から红旗まで、直線距離では 300 メートルほどだが、托宜は岩場が多く、红旗は岩 山の麓にある。高差 300 メートル以上だ。途中は岩道で梯子のようだ。人か大小の動物以 外は走行できない。大変危険な岩道なのだ。 」 夏さんは経験豊富なので、私たちが尻込みをしないよう、すぐに話題を変える。 「红旗は遠くて、道も険しいが、地理環境は自然に恵まれている。全部で 16 户の人家で全 7 員が蔡家人だ。そこは地勢が低く凹んでいる。土壤は肥沃で、气候は温暖、雨水は充足で 作物の生长は旺盛だ。粮食生産は 800 斤以上、食料問題は既に解決済みだ。改革開放以後、 鸡鸭、さらに牛羊も増えた。去年は多くの人家が新しく建て替えられた。生活は平穏であ る」 夏さんの紹介を聞いている内に、红旗に着いた。 夏さんの案内で生产隊長の家に入る。隊長の名は陈兴国さん、父母妻子 6 人で住んでい る。家屋は通称一幢金包银的瓦屋である。瓦屋根の両廂の下は部屋になっており、上は人 が住み、下は欄干で囲い家畜が住んでいる。陈兴国さんは三十歳過ぎで古い軍服を着て、 頑強な体つきだ。かつては兵隊であったのだろう、文化的で世話好きな人のようだ。 陈さんはホソボソと説明する。 红旗の総面積は一平方キロ程度に過ぎず、地表は 1600 亩。その内耕地は 250 亩,林地は 300 亩,そのた草坡、草山、灌木地が約 500 亩,その他は全て岩だらけ。全隊員の平均耕 地は 3 亩程度。红旗は交通が不便で現金収入は無く外で職もない。そのほか何もない。 その夜、陈队长の家の庭に五人の村人が集まり、酒を酌み交わしながら、蔡家人の古い 文化について話が弾んだ。 「春秋時期、蔡国は楚国に滅ぼされ、蔡国公(蔡候齐)は殺され、宗祠は断絶され、蔡 国人は逃れられる者は逃げたが、逃げられなかった者は軍隊に加えられ、現在の柳州一带 に送られた。その内、西阳县(現在湖北黄冈の東・下蔡より直線距離で約 300 キロ)に押し 込められた者は 48 船に乗り 1400 余人だった、しかし、途中で 8 船が沈没し、残った 1200 人は(西阳县近傍の)金竹林、大水井、柴家街口などに住み着いた。 」 余談ですが、 1 西阳县は現在の光山县の西方に位置している。西晋が西阳国を統治する役所を置いた。 役所は現在の湖北黄冈の东である。东晋、南北朝の時代には西阳郡および戈州治所となっ た。隋代になって廃止された。 东晋咸和四年(公元 329 年)に西阳郡が設置されて、黄冈が省、县の一级行政区となり、す でに 1670 余年の歴史がある。 2 蔡国が楚に滅ぼされたのは下蔡である。西阳县までの距離は直線距離で 300 キロであ る。どの水路を経過したか不明である。また 1400 人が 48 船に分乗すると、一船あたり 30 人程度が乗船したことになる。どんな船であったかは全く不明である。 この伝承は中国の史書に記載がない。当事者のみが伝えている伝承であろう。現実味を 8 帯びている。 22 日 星期三 晴 村人との話は続く。 「戦国時代、楚の武将庄跷が西に遠征し貴州に来た。蔡家人の青年男子は捉えられ、兵 士となったが、最後には牂牁に流された。 」 牂牁:古夜郎国を指す。現在の贵州西区、北区,云南东部および广西西北部一带地区。汉 武帝の時代牂牁郡を置く。 「明朝の時代、洪武祖が雲南の梁王の反乱を治めるために戦乱(太祖平滇)が続き、ま たもや多くの湖广地方の蔡家人は軍隊に取られ、黑羊大箐に送られた。 」 太祖平滇:朱元璋は、1381 年に雲南の梁王が起こした反乱の際に、傅友徳を派遣し、30 万の大軍を率いて梁王を討伐させた。 黑羊大箐:明代以前の贵阳市以西の地区をさす。当時は雲南に属していた。原始林が深 く、ほとんど太陽が地面に届かなかったので黑羊大箐(黒い羊に巨大な竹林)の土地と称 された。 「戦乱後水西に住み着く。水西は彝族の土地である。現在の黔西北地区,および現在の 织金、黔西、纳雍、水城、威宁、赫章、大方の一带である。 」 水西:明朝時代、贵州の彝族土官が管轄した地区の一つ。また贵州宣慰司の俗称でもある。 彝族社会に入って、蔡家一族は一項の掟を定めた。 「“永不改变自己宗族姓氏, 禁绝与外族通婚” 自己の宗族姓を永久に変えてはならない、 外族との通婚を禁絶する。 必ず子子孫孫とも遵守し、違反する者は九族を罰する。擀毡(の技術)を外に出して はいけない。郷に入ればその俗に従え、ただし融合しても同化してはならない。 」 蔡家人たちの血脈を守る団結力が高いことが伺われるとともに、生き抜く苦労が偲ばれ る。 老人たちの話は続く、 「我々は红旗の王姓蔡家である。祖上天が桥圆宝山を生んだとき、この地には漢族が多 く苗族は少なかった。全家族は漢礼を習い、漢衣を着て、漢語を話した。金钟に移ってか ら、金钟彝が多く漢族は少なかった。全家族は彝礼を習い、彝衣を着て、彝語を話した。 我々が红旗に来たら周辺は皆彝族だった。全家族は彝礼を習い・・・こんなことがずっと 現在まで続いているのさ」 9 「擀毡は蔡家人が数千年の間、羊毛から多くの寒用品を作ってきた絶妙の技さ。蔡家人 はみんな擀毡を作って生業の一部にしたのだ。現在、羊毛は少なくなったので、棉花が多 くなった。さらに国家化纤纺织品が多くなり、人も少なくなり、商売にならないよ。擀毡 手艺はやがて失われるよ、 ・・・・」 陈洪顺老人は深く嘆いている。明日、陳老人が擀毡(ガンザン)造りを実演してくれる ことになった。 23 日 星期四 晴 早朝、陈家の老人も子供も早起きした。陈兴国は水汲みに、陈洪顺老人は擀毡工具を 点検している。婦人は朝食の仕度に忙しい。 擀毡の製造方法 ガンザンの製法にはいくつかの行程があり、かなり熟練を必要とするようだ。その工程 を示すと、 1弓で羊毛をほぐす。 2竹簾の上に敷き詰める。大きさは4尺6尺であるから、畳一枚より大きい。 3巻いて円柱にする。 4熱水を掛ける。 5両手両足で揉む。 先ずは、出来上がったガンザンを見てください。 写真 03 擀毡で作った衣服(左)と工芸品(右) 10 故事: ガンザンは苏武が開発したとされており、その苦労話が伝説として残っている。 漢武帝の時代(紀元前 156 年-前 87 年)北に遊牧民族の匈奴が勢力を強めていた。武帝 は中郎将の苏武を使者に出して懐柔策を取ろうとしたが、苏武は捉えられた。そして、寒 い草原に放逐される。苏武は寒い草原で羊毛から布を作る技術を開発する。布は擀毡と呼 ばれ周囲の匈奴民族を始め、遊牧民族に喜ばれた。苏武は擀毡の祖として尊ばれている。 昭帝が即位すると、漢朝と匈奴との関係は友好な状況に変化し、苏武は漢朝に帰ってき た。19 年の歳月が経過していた。苏武は白髪の老人となり、歳も 59 才となっていた。 陈洪顺老人は言う。 「蔡家人は原来游牧民族であり、苏武の擀毡を二千年以上に渡って伝えて来た。苏武は 蔡家人の擀毡の祖师である。苏武祖师菩萨と称して、供養し、神棚に祀り、香火を絶やし たことがない。 」 ・・・周人のルーツが伺われ、興味深い伝承である。 陸さんは質問する。 「貴方たちは何時、何故、何処からこの紅旗に来たのかね?」 陈洪顺老人は答える。 「我が家は清朝末年に威宁底那沟から来た。祖父夫妻二人がここに来た時、人家はなかっ た。二人は木を伐り、家を建てた。荒れ地を切り開き、既に五代目、82年が過ぎた。」 李绍华老人が記憶を語る。 「わが屋は民国 3 年(1914)に威宁黑戛から来た。祖父が 21 才の時、単身で陈家へ婿入り したのさ。既に3代62年になる。 」 王作良さんは言う。 「我が家は民国 35 年(1946)赫章で擀毡を作るとき、陈洪顺さんと李绍华さんと知り合い、 金钟から一族郎党を引き連れてやってきた。現在既に二代目で 36 年になる。 」 楊さんは言う。 「わたしたち張、楊の両家は 1952 年、比德箐头から擀毡を手伝いに来た。紅旗で土地を借 りて以後ずっと住んでいる。現在親子二代です。 」 王さんが質問する。 「現在紅旗では何人が擀毡を造れるのかね?」 老人が小さな声で答えた。 「我々数人の老人以外は、50 才前後の中青年はみんな擀毡を学ぼうとしない。 」 陸さんは質問する。 「ガンダンの弓を大切にしているかね?」 「大切にしているさ、大変なんだ」 11 陈洪顺老人は幾分興奮している。 「二種類あるんだ。平原弓と和羲弓さ。平原弓にも二種類あり、大弓と小弓がある。大弓 の長さは 7 尺、立てれば人の背丈より高く、形も優美で、弓力は强く、手では動かせない。 全身で使い、木槌で打ち、弾く羊毛は白くてきれいで柔らかくて、擀毡の毛布の品質は最 高さ。 小弓は長さ 4 尺,力は弱いので、手に牛筋を巻き付けて弾くのさ。平原弓は苏武祖师が 伝えたもので、その後は蔡家が伝えてきたのだ。だから、蔡家は苏武の内弟子で直伝なの だ。‘门以师’とよんでいる。和羲弓も大小二種類ある。しかし、和羲弓を使うのは苏武の小 さなものに使い、手芸用さ。‘门外师’と呼んでいる。 」 写真 04 平原弓を使う老人 王作良老人が続けて言う。 「我々紅旗蔡家が用いるのは大小一組の平原弓さ。正二八経の糸を使った‘門以師’さ。 (門以 は蔡家人の自称名、門以師は蔡家人の師匠の意味である:筆者注)残念だが現在見るのは 陈洪顺さんが使うもののみが保藏してきた小平原弓だ。その他古くから伝わっている大小 平原弓、簾子、木锤および皮手圈は文革時代全部紅衛兵にすべて壊され焼かれた。」 王作良は目の前の竹簾を見ながら言う。 「今日まで使っている擀毡のこの竹簾は陈洪顺さんが 1978 年、 文革が終結後補充したのだ。 記念にしたのさ。 この古い平原弓は我々が数十代に亘って伝えてきた宝物だったのさ。それを束にして焼 かれた。哀しいものだ。 焼かれたのは一件や二件の擀毡工具ではないのだ。一民族、一国家の歴史文化をみんな 12 焼かれてしまったのだ。 」 王作良さんの顔の皺は一層深く見えた。 余談ですが 伝来の擀毡(gan3 zhan1 、ガンザン、一種のフェルト)は遊牧民独特の工芸品であり、 二千年以上の歴史がある。最近ではこれを作る人も少なく、消滅寸前の状態である。原来 は遊牧民族が育てた技術であり、現在では北方の遊牧民族、および貴州一帯の遊牧民族の 流れをくむ少数民族の中に細々と受け継がれている。 技術的には羊毛から糸を造って織るのではなく、羊毛の繊維を絡めて布に仕上げるもの であり、織布技術が開発される以前の方法である。現代風に言えば不織布であり、基本的 な技術は製紙方法と似ている。 陸さんは話題を替えて質問する。 「貴方達の名称は蔡家人以外にどんな呼び方がありますか?」 「呼び名は大変多い。自称、他称、蔑称など。自称では “蔡家”、“門以”、;“史以”は苗族が 呼ぶ言葉;“阿伍那”は彝族が呼ぶ言葉。それから、“蔡家子”、“阿伍子”は蔑称だ。“苗子”、“回 子”、“仲家子”、“倮杆子”、“老巴子”は皆同じようなものだ。 」 「我々の祖先は言ったものだ、天は五子を生んだ。第一子は蔡家、その他は “倮杆子”、“白 儿子”、“仲家子”、“苗子”でみんな親族なんだ。 」 陈洪顺老人は幾分興奮しながら自慢した。 明清代に入ると、漢族は蔡家人を蔡家、蔡家苗、蔡家子、蔡人などと呼称する記述が有 るという。 蔡家人の習俗 蔡家人は独自の言語である蔡語を話している。蔡家話は貴州西部の主要部に分布してお いる独特の言語である。30 ケの声母音、10 ケの单元音、四ケの声調を持っているが中国語 の声調とは異なる。古漢語と同源の語句が多くあるが、壮侗语族、藏缅语族、苗瑶语族の 言語とは大きく異なっている。漢蔵語系の言語であるとされている。正しく話すものは千 人ほどで、絶滅寸前の状態だと言う。 上の訪問記は 30 年前の記事である。したがって現在は大きく変わっている可能性がある。 紅旗という地名も現在は無いかもしれないし、住民もいないかも知れない。しかし、20 世 紀末の蔡家人の生活実態を知る他に例のない訪問記であることは事実である。 20世紀初頭あるいはそれ以前の蔡家人の状況をよく伝えているものに百苗図がある。 この一例を紹介しよう。 13 百苗图 黔苗図とも呼ばれ、清代貴州の少数民族の人物風俗を描いた画集である。彩色で描かれ、 行草字体で簡単な説明書きがあり、貴重な民族資料である。 百苗图は多種類が存在し、図書館、博物馆また個人の収蔵によるものなど 10 数種をくだ らないであろう。古くは元代の作品があり、清代に多く最新のものでは清代末期(1911 年) に及ぶ。創作者や収蔵家の署名がなく創作年代を正確に断定できないものが多い。しかし、 画中の説明文字から民族名やその民族の所在地などが明らかである。極めて貴重な資料と なっている。 この画集の中に蔡家人が描かれているものがある。その一つを紹介しよう。 写真 05 百苗图中の蔡家人:左の女性 図中の女性の頭には牛の角のような飾りがあり民族衣装を着ている。男性は頭に丸い帽 子をかぶり、傘を持ち、雨合羽のような外套を身に着けている。どちらも裸足である。 説明文によると、 貴筑、修文などに住む蔡家苗人:蔡家苗は原来春秋二代の蔡人の末裔である。蔡は楚に 攻められ、その俘虜となり南に流された。明代に貴筑、修文、清平、清鎮、威寧、大定、 平遠等の州縣に隷属した。苗族と雜居し、耕地を計り年貢を支払った。男子は毡で衣を作 り、婦人は髻を高くしている、長い簪でこれをとめている。衣は短くスカートは長い。老 14 人と婦人は言葉が通じず、異った苗族である。 実際には居住地域により服装や習俗は少しずつ異なっている。白蔡、黑蔡などの支系が ある。衣服の色による区別であろう。 蔡家人は新中国成立後ずっと他の民族と共に暮らして来た。1983 年の民族識別統計によ ると、貴州を中心とする地方に 2.8~3 万人前後であり、その後の人口増加を見込んで現在 約 3.5 万人と推計されている。 民族区分の問題は残されているようだが、多くの者は漢族、苗族、回族、彝族等に登録 している。ただし、現在大部分の者は彝族として登録している。 彝族は言わば地主階級の少数民族であり、蔡家人は彝族として登録することで、かつて の栄光を満足させているのであろうか。 彝族については 北京スナップ写真集>少数民族の歴史ロマン>阿修羅観音・第二章 をご覧ください。 15 第三章 世界に散った蔡家人 さて蔡家出身の有名人を拾い上げてみよう。実に多才である。 蔡邕、蔡伦、蔡襄、蔡京、蔡锷、蔡畅、蔡文姬、蔡元定、蔡元培、蔡和森、蔡廷锴 蔡锡勇、蔡雄、蔡仪、蔡斌、蔡騄、蔡敦、蔡俊、蔡振华、蔡赟、 ・・切りがないのでこのくらいにしよう。 この中から、蔡邕(後漢の議郎)と蔡文姫を紹介しよう。 蔡邕(さいゆう・紀元 133 年~紀元 192 年) 、字は伯喈、陈留圉(現在河南省开封市杞县 圉镇)の人,漢代の文学家、書道家として活躍している。時の権力者董卓(?-192 年)よ り左中郎将に序せられる。後に蔡中郎と呼ばれた。三国時代に著名な才女·蔡琰(蔡文姬) の父としても有名である。音楽にも通じ、多才ぶりを発揮する。 すこし後になるが、唐代の散官(さんかん 階位)の議郎は四階級ある。その一番上は 文官30階級の 15 番目の正六品上、朝議郎である。現代風に言えば、文系国家公務員の中 級クラスでしょう。もちろんこの時代国家公務員になることは大変な出世であったのです。 その出世ゆえに他人から中傷を受け、不幸な最後をとげる。 写真 06 蔡邕:出典 百度百科(左)と互动百科(右) 余談ですが、 右図の蔡邕はなかなか個性的に描かれていますね。よく見ると、髭の状態は左右よく似 ていますが、右図は口を大きく開けて、 ・・・舌が二枚見えますね。どちらが本人に似てい るか?・・は見る人の感性によります。 蔡邕の娘・蔡文姫(177 年(熹平 6 年)~249 年(嘉平元年) )の生涯はあまりにも有名 16 ですね。才色兼備で父と同様、詩人で音楽を愛したのだがその生涯が非凡であったことか ら、三国志の花として扱われている。 董卓死後に匈奴にとらわれ、敵の子供を二人まで生む。ある意味ではたくましく生きた 母でもある。時代が流れ、そして子と別れ中原に戻り、戦乱の中で父の大業を後世に引き 継ぐ役目を背負う。波乱に満ちた人生を送った。 写真 07 清代華岩絵《文姫帰漢の図》 蔡家人の活躍 現在も蔡家人はあらゆる分野で活躍している。しかも国外に散らばった蔡家人も多い。 南海島へ、沖縄(琉球)へ、華僑として国際的に、多才多能である。 国内に散らばった多くの蔡家人、すなわち皇家の牂牁郡への避難行から離れて独自の道 を歩んだ蔡家人も多く居る。その内、進士を多数出した村がよく知られている。浙江省麗 水市蓮都区曳嶺脚村である。 处州曳岭脚村 曳岭脚村は处州(現在の浙江省丽水市)の西北方向 34 キロに位置している。村には現 在約 700 余人が住んでいて姓は蔡の人が多い。五代吴越の時代、蔡氏の先祖が州城に移住 して来た。蔡氏は非常に教育を重視し、求学の気風が強かったので英才を多く輩出した。 宋代には最盛期となった。 《处州府志》および《宣平县志》によれば、北宋時代以来、曳岭脚村は状元一人、進士 13 人、挙人 12 人、征辟 11 人、貢生 9 人を輩出し、進士村の名を中原に輝かせた。状元、 17 進士、挙人、征辟、貢生は科挙に及第(合格)した者の内、成績順位のようなもの。もち ろん勤めの地位や報酬も成績の順になる。 地図 04 曳岭脚村 彼らは故郷に錦を飾ると、村の開発に乗り出す。莲都区の文物を調査すると、12 か所の 古民家を完全保存し、1 か所の宗祠、3 か所の橋梁と古道、そして古墓などを改修保存した。 この中でも古民家は明清時代の歴史的建築物に指定されている。 曳岭脚村内の蔡氏祠堂は宋代に創建され、明万歴三十年(1603 年)に改修されている。清 末民国時期に重修され、その建筑主体は大躍進時代および文革時代に大打撃を受け破壊さ れた。現在、蔡氏族の人たちは改修資金を募り、既に 80 余万元の改修工事を進めている。 写真 08 曳岭脚村の一角 18 一つの村が栄えると、道路が四方の村や町へと延びる。そして一つの文化圏が形成され る。曳岭脚村に通ずる古道は隋唐以前に開削されているという。曳岭古道は明景泰三年に 宣平县が設置されて以降、ずっと处州府城(現在の浙江省麗水市)と宣平县を結ぶ街道で あった。この街道は丽水城の西北门(通称惠门あるいは左渠门)を起点に、经溪口、桃山、芦 湾、白善(即今路湾村至白前)、官桥、张村街、茭坑(今名高坑)から木杓坛、界牌村に至る約 40 キロ。界牌村を過ぎて、古道は原宣平县に入り、越槁岭,下周坦,经破桥、老竹、曳岭 脚から岭头に至る 30 キロ、さらに北に進んで武义县に入る。全行程 70 キロである。 この他多くの古道が残っており、丽水市内には曳岭(丽宣)古道(莲都∕武义)を含む 13 条の古道があり、現在は多くの若者のハイキングコースとなっている。 写真 08 曳岭古道(左)と名産品(右) この街道沿いでは雪花ビールが有名である。老舗の銘柄で特に美味である。・・と言って も筆者は酒屋の回し者ではありません。日本のビールとは一味違い、アルコール度12度 ですから要注意ですよ! 完 19