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明治の近代建築 - 国立国会図書館国際子ども図書館

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明治の近代建築 - 国立国会図書館国際子ども図書館
旧帝国図書館建築 100 周年記念セミナー
第 1 部「明治の近代建築」
平成 18 年 9 月 30 日
講師:米山
勇
こんにちは。米山でございます。よろしくお
導入されたのかというと、現在も残るもので最も
願いいたします。今日のセミナーのメインのお
古いものに「グラバー邸」が挙げられます。スコ
話は、この後の坂本勝比古先生のご講演だと
ットランド出身のトーマス・グラバーの邸宅とし
思いますけれど、私はそれにつなげるお話とし
て建てられたものです。長崎にあります。建っ
て、旧帝国図書館という非常にすばらしい、明
たのが幕末なので、最初期の近代建築、洋風
治建築の集大成と言っても過言ではない建物
建築の姿を今に伝えています。重要なのは、こ
がどのような経緯をたどってできたか、私は常
の「グラバー邸」の母屋といいますか、居室の
日頃、この建物を「栄光の建築」と称している
周りに、ベランダといわれる空間が回っている
わけですが、どうしてそのように呼ぶのかという
ことです。今ではベランダは、マンションにもあ
お話は後ほどするとして、その栄光の建築にど
ります。物干しという形で少し意味が変わって
のようにして至ったか、明治という時代の建物
きていますが、本来は建物の中と外の間に、
の変遷といったお話をさせていただきたいと思
緩衝地帯のような形で設けて、そこでお茶を飲
います。
んだり、場合によってはお昼寝をしたりする。
西洋からやって来た外国人たちが、日本のよう
グラバー邸
な暑い、湿気の多い地域で暮らす中で生み出
明治の近代建築というテーマです。近代建
された知恵がベランダです。これを取り入れる
築というのは、世界的な視点で見ますと、非常
ことから、日本の近代建築の歩みが始まりま
に難しい意味を孕んでいる言葉ですが、通常
す。
日本において近代建築といわれているのは明
リンガー邸
治以降の建物です。正確には幕末から、明治、
大正、昭和、戦前までということができますが、
同じく長崎にある「リンガー邸」は、「グラバー
今日は、幕末から明治の建築を、今日いうとこ
邸」の建っている高台の後方に建っています。
ろの近代建築と呼びたいと思います。近代建
これも幕末から明治初期の建物と考えられて
築というのは、それまでの、近世以前の建築に
います。やはりここでもベランダが回っていま
対して、近代建築というわけですが、これは端
す。一つずつ、西洋の建物の造り方、形を学
的に言うと、西洋の建築、洋風建築であったと
び取っていく。「グラバー邸」にしても「リンガー
いっても大方間違いはないと思います。では
邸」にしても設計を手がけたのは、おそらく外
近代建築、洋風建築はどのような形で最初に
国人。住み手のグラバーさんやリンガーさんの
1
意向が多分にあったと思いますが、そういった
能をもった装置であり、明治初期の近代建築
ものから一つずつ学んでいく。最初はまずベラ
の最初の段階の重要なポイントです。逆に言う
ンダを回すということ。まだ屋根などは、日本の
と、このベランダが 1 階 2 階に回されている洋
伝統的な瓦で造っています。しかし、少しずつ
館があったら、おおむね明治のものであると考
西洋に近づいていく。明治初期の段階では、
えて差し支えないと思います。縁側とは共通す
このように試行錯誤といいますか、見よう見ま
るものがあります。ベランダは、なにも日本で発
ねで、江戸以前の伝統的な建築から、その後
明されたものではなく、ヨーロッパの植民地(ア
近代建築といわれるようになる西洋式の建築
フリカやインド、オーストラリアなどの暑い地域)
へと、歩みを一歩一歩進めていきました。それ
を経て、日本にもやってくるわけです。そういう
が明治初期の段階の建築の歩みでした。
暑い地域で暮らす中で生み出されたものです
から、日本で生まれたものではありません。け
西郷従道邸
れど、日本には縁側が伝統的にあったので、
同じく明治初期の外国人の関与した邸宅と
受け入れる日本にとっても違和感なく定着した
して、レスカスの設計といわれている「西郷従
と考えることができるかもしれません。今映した
道邸」があります。もともとは、東京の上目黒に
縁側の映像は、「漱石、鴎外の家」で、これも
建っていたものですが、現在は愛知県犬山市
明治村に移築されています。夏目漱石と森鴎
の明治村に移築されています。西郷隆盛の弟
外が、一緒には住んでいませんが、それぞれ
の従道の邸宅の中の迎賓館として造られたと
時期を変えて住んだ住宅の写真でした。これ
いわれていますが、邸宅と言っていいと思いま
まで 3 点ほど、洋風建築をご覧いただきました
す。ここでも同様に、1 階 2 階にベランダが配さ
が、それらはいずれも、造り手は西洋の方でし
れています。その後明治後期に至るまで、ある
た。
建築家はベランダというものを好み、自らの邸
築地ホテル館
宅作品に使用しました。その建築家は、ジョサ
イア・コンドルです。この国際子ども図書館から
しかしすでに、明治元年に日本人の手によ
もさほど遠くない、重要文化財である旧岩崎久
る洋風建築が、この東京に造られています。
弥邸の設計者でもあります。コンドルという人は、
「築地ホテル館」です。これはおそらく、日本人
日本の文化と風土をこよなく愛し、理解してい
の手によるいち早い洋風建築と言って差し支
た建築家でしたので、日本のような気候の中で、
えないと思います。築地というのは、居留地が
ベランダがいかに大事かを熟知し、そして終生
あった場所です。江戸から明治という時代の流
好んだわけです。このようにベランダは建物の
れの中で、日本が門戸を開いていく。それに
外と中の間にあるもので、言ってみれば、日本
伴って入ってくる外国人のために旅館が必要
の伝統的な縁側に近い役割を果たしたわけで
となり、そして造られたのがこの「築地ホテル
す。縁側と違う点は、ベランダの場合は、1 階と
館」です。日本で初めてのホテルということがで
2 階の両方に配されるという点です。これによ
きます。重要なのは、この「築地ホテル館」は、
って、直射日光を防げ、真夏の暑い、厳しい日
清水喜助という日本人の手によって造られて
差しを避けながら心地よい生活をするという機
いる。清水喜助は、代表的な建設会社である
2
第一国立銀行
清水建設の前身の清水組の二代目です。この
清水喜助が、ブリジェンスという外国人技師と
同じく清水喜助が、今度は一人で造り上げ
組んでというか、ブリジェンスに協力をして造っ
たのが「第一国立銀行」です。これは現在の兜
たのが、「築地ホテル館」です。これは、当時と
町に建っていたものです。海運橋のほとりに建
しては洋風建築、西洋建築と言ってもいい存
っていたので、海運橋三井組とも呼ばれた建
在だと思います。中央に塔が立って、左右対
物です。これは、今まで見てきた幕末から明治
称で、水平性の強められた全体像。こういった
初期の洋風建築とまた一味も二味も違ってい
性格は、ヨーロッパにおけるルネサンス様式の
る。というのは、先ほどの「築地ホテル館」も和
系譜にあると言っていいと思います。もちろん
洋折衷でした。左官技術のなまこ壁や瓦屋根、
清水喜助は、ルネサンス様式をきちんと知って
あるいは、細部に、火灯窓などもありました。一
いたわけではありません。ブリジェンスがルネ
方で、先ほどから何度も申し上げている左右
サンス建築の形を知っていて、清水喜助という
対称性と水平線の強調、塔の配置、そういった
大工の棟梁が、実際に具体的な設計と施工を
西洋建築の形を織り交ぜて造っていました。そ
行って造り上げたのが、「築地ホテル館」です。
こには多分に外国人をターゲットにしたホテル
ここにもやはりベランダがあります。これは住宅
であるということも関わっていたと思います。つ
ではありませんが、外国人のための旅館です。
まり、日本のエキゾチズムというと言い過ぎかも
南側にはベランダを回し、暑さをしのぐ工夫を
しれませんが、日本らしさというものを、ある部
しています。同時に、水平性が強められ、両側
分では意図的に挿入することによって、外国
を手前に出すような形、そして中央に塔を立て
人の旅情を高める狙いが、少なからずあったと
るといった細かい操作が左右対称性とあいま
思います。現在でも残る「富士屋ホテル」「金谷
って、それまでにない、当時としては斬新な西
ホテル」といった古いホテルのほとんどは、実
洋建築の形を示したわけです。しかし興味深
は外国人のために造られたものです。ですか
いのは、先ほどの「リンガー邸」や「グラバー
ら、ほとんどが、どこかしら和洋折衷になってい
邸」にしても、技術的には日本の伝統的な技
て、伝統的な装飾などが織り交ぜられているの
術の延長上に造られていることです。「築地ホ
は、同じような観点で建てられたホテルだから
テル館」も、実際に建物を築いていくのは、清
なのです。「築地ホテル館」の場合は、経営上
水喜助率いる日本の大工たちでした。たとえ
の思惑もあったと思います。
ば、屋根の構造などはそれまでと全く同じで、
しかしこの「第一国立銀行」は、何より日本
瓦屋根によって造られているし、壁もよく見ると
人の清水喜助という人物が、独力で仕上げた
斜めの線が入っていて、なまこ壁という日本の
ところが大きなポイントです。先ほどから、少し
伝統的な左官技術です。こういったすでにある
ずつ学んでいくと申し上げておりますけれど、
伝統的な技術を用いながら、少しずつ新たな
少しずつ、それも自分の目、あるいは、手もあ
造形に近づいていくという明治初期の建築の
りますが、それによって独自に学び取っていく
あり方を、東京という都市で最初に示したのが
しかやり方がない時代です。もちろん、この帝
「築地ホテル館」です。
国図書館を手がけた久留正道や真水英夫と
いう人々は、きちんとした建築教育を受けて、
3
設計に臨んでいるわけですけれど、まだこの
そのまま敷地として引き継ぎ、建物だけ変えた
時代には、そういう教育システムは全くできて
ようなものがほとんどでした。その中で、「大審
いないので、一人で、自分の力で、自発的に
院」という建物も、工部省営繕局の設計により
学び取っていくしかありませんでした。そういう
ますが、実際に設計を行う技師は、やはり大工
方法で培った西洋建築の形を、ここで、清水
棟梁の出身、系譜を継ぐ人たちでした。「大審
喜助は実践しているのです。ですから、これは
院」も、全体として、先ほどの「築地ホテル館」
狙ったというよりも、もしかしたら、図らずもこの
のような水平性の強い、総 2 階の建物で、また、
ような形になってしまったのかもしれません。
この帝国図書館のようにアーチなどがあります。
ここでは、洋と和というものが、全く大胆にも
このへんは西洋の建物と同じです。アーチ窓
下と上で分れていて、1、2 階は西洋、そこから
も、ガラス窓の外にガラリ戸、よろい戸ともいう
上は日本という、思い切った和洋折衷ぶりです。
木製の戸があり二重の構成になっていて、これ
1、2 階だけを切って見ると、さほど違和感はあ
も本格的な西洋建築の形です。しかし一方で、
りません。洋館と言っても差し支えないかもし
屋根を見ると、入母屋型の瓦です。この屋根の
れないのに、その上に日本のお城を乗せてし
存在感はとても強く、軒から下の西洋建築の
まうということです。こういった建物は、日本人
形に対して、この伝統的な入母屋型の大屋根
建築家が誕生すると姿を消していきます。明治
が、日本の伝統的な建築の性格を際だたせて
初期の和洋折衷の建物は、擬洋風建築とも呼
いる。やはり、和と洋の折衷が、明治 12 年に日
ばれますが、今東京にこうした擬洋風建築が
本人の建築家が世に出るまでは、日本の都市
いくつあるかと言いますと、正確に私が言える
を彩っていたのです。
ものとしては、東京大学旧医学部の小石川に
泉布観
移築されている校舎で、今は植物園の建物と、
慶応義塾大学の中にある三田演説館の二つ
少し時代を遡り、日本に本格的な西洋建築
しかありません。もちろん、関東大震災によっ
がどのように導入されたかというと、それは、い
て焼けたものも多いですが、それと同じくらい、
わゆる「お雇い外国人」たちの手によるもので
東京という開発の激しい都市では、こうした明
した。建築だけではなく、数多いお雇い外国人
治初期の擬洋風建築はわざと壊されて、その
が日本にやって来ますが、建築の世界でいち
後、石やれんがの建物、当時としては本格的
早く大きな役割を果たした人に、アイルランド
な西洋建築に置き換えられていったのです。
出身のトーマス・J.ウォートルスがいました。ウォ
ートルスの造った建築は、東京には残っていま
大審院
せんが、大阪に、造幣寮の応接所として建てら
大工棟梁の清水喜助の建築を二つお見せ
れた「泉布観」という建物が残っています。「泉
しましたが、ほぼ同時期の官公庁建築も、おお
布観」の観という字は、変換ミスではなく、この
むね同じようなスタイルで造られていました。一
ように書きます。ここで注意してもらいたいのは、
つだけお見せするならば、「大審院」です。当
建物の形です。まず、1 階、2 階が全てつなが
時の官公庁建築は、ほぼ全てが丸の内周辺
っていて、ベランダが三方に回っている。総 2
に建っていて、それも江戸時代の大名邸宅を
階の三方ベランダ形式です。屋根は相変わら
4
ず瓦屋根です。このへんは、今まで見てきた
すが、雨に濡れずに商店街、煉瓦街を歩くこと
初期の西洋建築と同じです。見ていただきた
ができるような道です。その道に、全て列柱が
いのは、三角型の破風という部分があり、それ
並んでいます。この柱の一つ一つの頭に、お
を 2 本束ねた柱が受けている。そして、柱の頭
皿が付いています。これは先ほどの「泉布観」
にお皿形の装飾がある。これは非常に重要な
と同じです。こういったお皿型の頭、あるいは、
点です。その後の日本の近代建築の流れの
「泉布観」でいえば、三角型の破風は、日本人
中でも、重要な位置を占めていく一つの要素
の擬洋風建築にはないとは言えないものの、
です。このお皿形の柱の頭と三角型の破風に
徹底して用いられるものではありませんでした
注目しておいてください。
が、やがて、近代建築の一つの厳密なルール
の中心になっていきます。それが明治の近代
銀座煉瓦街
建築の第 2 段階になるわけです。
同じくウォートルスが手がけた西洋建築で、
パルテノン神殿
もう少し大規模なものは、銀座一体をれんがの
街にするという「銀座煉瓦街」計画です。この
その第 2 段階というのは、どこに源泉がある
「銀座煉瓦街」は、日本の都市計画の上でも非
かというと、これは、ギリシャです。ギリシャ建築、
常に先駆的で重要なものでした。江戸東京は、
ギリシャ文明は、紀元前の 9 世紀から 1 世紀に
なんと言っても火事の都でした。しかし、近代
かけて発展した文化で、西洋の建築で言えば、
の幕が開いたのに、火事が起きるたびにまた
ギリシャ、その後に続くローマが全ての源泉に
建て直すという時代ではないし、特に銀座は、
なっていると言っても差し支えないと思います。
築地に居留地もできて近代の中核の都市にな
そのギリシャ建築の中でも、殿堂といわれるの
るということで、日本政府が、銀座一体をれん
が、アクロポリスに建つパルテノン神殿です。こ
がの街並みにしようと思い立ち、そこでアイル
のアクロポリスを、建築を志す人間は誰でも 1
ランド出身のウォートルスに白羽の矢が立った
度は訪れるといわれています。このアクロポリス
のです。ウォートルスが設計して、実際に築か
の丘の中で、最もアテネの中心街区から目立
れたこの街並みは、建物全部がれんがで造ら
つ部分にパルテノン神殿は建っています。この
れているので、火事にも強い街並みが出来上
パルテノン神殿は、その後ほぼ二千年におよ
がります。道路は、非常に広い道路をさらに車
ぶ西洋建築の歴史を決定付け、道筋を決める
道と歩道に分けること、今では歩車道分離とい
建築であったと言っても過言ではないと思いま
う当たり前のことを、いち早く明治 10 年に実現
す。ちなみにこれは、ル・コルビジェというスイ
しています。街路樹は、これも今では当たり前
ス生まれのフランス人建築家で、国立西洋美
ですが、当時初めて生まれましたし、街灯も同
術館の設計者です。彼は、モダニズムの牽引
様です。こういった、都市の街路や道路の礎が、
者であり、ある意味 20 世紀建築を決定付けた
この「銀座煉瓦街」によって示されたことが、日
巨匠中の巨匠ということができます。彼の拠り
本の近代建築史を考える上で大きな出来事で
所もやはり、パルテノン神殿だったのです。そ
あります。道路に沿って、柱がたくさん並んで
れほどに、このパルテノン神殿は、西洋建築の
います。これは、いわゆるアーケードとも言いま
流れを考える上では、源と言える重要な建物
5
でした。紀元前の 447 年から 432 年、大体この
いっても柱です。その柱には、オーダーといわ
時代に建ったといわれています。重要なのは
れるルールがあって、このオーダーを知ってい
形です。非常に横長で、野太い柱が何本も並
るのと、知らないとでは大違いです。先ほど申
んで、柱の頭にお皿が付いています。先ほど
し上げたように、明治 12 年に、辰野金吾、ある
のウォートルスの「泉布観」や「銀座煉瓦街」の
いは、片山東熊といった日本の建築家が誕生
柱にあったお皿も、元をたどればここに至るわ
しますが、彼らはこうしたギリシャ、ローマ建築
けです。このギリシャの神殿建築、それに続く
のオーダーをきちんと学んでいるので、彼らが
ローマの建築が、日本の近代建築を考える上
造り出す建築にはこうしたルールが生きていま
で、その源泉になっていたということです。それ
す。しかし、それ以前のいわゆる擬洋風建築
から、今ではこのパルテノン神殿の屋根は朽ち
には、こういったルールは適応されませんでし
ていますが、ギリシャ建築は石の文化と考えら
た。それは、知らなかったからです。このオー
れ、実際間違いはないのですが、早い時期の
ダーが、きちんと使われているかいないかによ
ギリシャ建築の屋根は、木で造られていました
って、明治の第 1 段階と第 2 段階を、はっきりと
し、パルテノン神殿もおそらく小屋組みなどは
分けることができます。オーダーというのは、柱
木で造られていたと思われます。従って、耐久
の寸法、あるいは形に基づいた構成原理です。
性の面から石の方が圧倒的に強いので、パル
オーダーには 3 種類あり、ドリス式、イオニア式、
テノン神殿の場合、屋根は落ちてしまっていま
コリント式です。明治期から昭和初期までに全
すが、当初は三角型の屋根が乗っていました。
国的に建てられた銀行建築など、重厚な柱の
そう考えてみた時に思い出されるのが、「泉布
並ぶ近代建築が、今でも残っています。とくに
観」です。2 本ずつ束ねた柱が三角型の破風
地方などに行くと、数多く現存している。それら
を受けていました。その源泉もやはりギリシャ神
の柱の頭を見ていただくと、必ずどれかになり
殿にあるわけです。つまり、日本の最初の段階
ます。それほどこれは厳格なルールです。ロー
の造り手である清水喜助といった人々は、見よ
マ時代になると、ドリス式の系譜にあるトスカー
う見まねで試行錯誤しながら一歩一歩進んで
ナ式もあみ出されますが、これは一緒くたに考
いった。それと平行して、招かれた外国人とい
えても差し支えないと思います。先ほどの「泉
うのは、きちんとした西洋建築の流れを知って
布観」や「銀座煉瓦街」のシンプルなお皿の頭
いて、その源がギリシャ、ローマにあることがわ
というのは、ドリス式あるいはトスカーナ式を採
かっていたので、早い段階から柱が並ぶ列柱
用していました。ウォートルスは、そのへんはさ
や、柱頭の飾り、あるいは、三角型の破風とい
すがにわかっていて、これに従って建物を造っ
ったものを造ることができたということです。
たのです。一方で、同時代の日本人は、それ
を知らないので、日本人が手がけたユニーク
古典建築のオーダー
な洋風建築の柱の頭というのは、非常に個性
そして、ギリシャ、ローマ建築が、西洋の建
的で、逆に言うと面白いです。建物によって一
築の源であることはおわかりいただけたと思い
つ一つの違う装飾が魅力です。どちらがいいと
ますが、その源であるギリシャ、ローマの建築
いうのではなく、それぞれの味わい、見方があ
をつかさどるルールがあります。それはなんと
るということです。やはり、ギリシャの神殿で、ア
6
水準原点標庫
テネ・ニケ神殿の柱の頭は、渦巻き型のイオニ
ア式です。一方、こちらの部分の柱はドリス式
こうしたギリシャ、ローマの建築文化が西洋
です。建物によってオーダーを使い分けるとい
建築のその後を決定づけるのですが、ギリシャ、
うやり方が、西洋建築のギリシャ、ローマから、
ローマの建築がそのまま日本に入ってくるかと
そしてルネサンス、バロックという近世の建築に
いうと、それはそんな単純なものではありませ
至るまでの長い歴史の中で、一貫して流れる、
ん。まず、時代が違います。ローマ時代は紀元
最も重要な原理です。
前で、日本に西洋建築が入ってくるのは 19 世
紀ですから、その間 1800 年近い時代がありま
古代ローマの建築
す。ギリシャ、ローマが、その後の西洋建築の
ギリシャの建築を見てきましたが、この帝国
流れの中で展開していったものを、19 世紀に
図書館を考える上では、ローマという時代が、
日本は受け入れます。このギリシャ、ローマの
おそらく重要な意味を持つのではないかと考
建築を直接援用したものは本当に珍しく、日
えます。ローマはギリシャを征服しましたが、ギ
本では「水準原点標庫」が永田町にあります。
リシャ建築という先駆的な文化を滅ぼそうとは
これは、ローマ神殿をそのまま縮小したような
せずに、むしろ受け継いだのです。ローマとい
非常に珍しいものです。ここは列柱ではなく 2
う時代は、そのすばらしい建築文化を継承し、
本の柱ですが、このまま柱が並んでいけば神
さらに発展させました。そして圧倒的な英知と
殿になります。そしてそれが三角型の屋根を受
技術の結集によって、世界の建築史上、飛躍
け、柱の頭はドリス式のシンプルなお皿である
的な展開を果たしました。ローマがギリシャの
ということです。これが、ギリシャ、ローマをその
建築を、基本的には受け継いでいるというのは、
まま輸入、採用という非常に珍しい例です。
メゾン・カレという、南フランスのニームというロ
ルネサンス様式
ーマの植民都市に造られた神殿をご覧いただ
くとおわかりになると思います。基本的には先
日本の近代建築への影響といいますか、日
ほどのパルテノン神殿のような造りです。非常
本で採用された様式というのは、もっと後のも
に水平性が強く、列柱が立っていて、柱の頭
のです。明治の建築の基本となったのは、大き
には、3 種類のオーダーのうちコリント式が乗っ
くはまずルネサンス様式です。ルネサンス様式
ています。また、三角の大屋根を受けるという
とは、15、16 世紀にイタリアを中心に広まった
形式やギリシャ神殿の形式そのものを受け継
様式で、古典復興という性格を持っています。
いでいます。そして、ローマという建築文化は、
古典というのは、ギリシャ、ローマのことです。
装飾をより豊かにして、柱ももっと腰高のか細
復興というからには断絶期があったわけです。
い柱に少しずつ変化させて、全体も、大きな基
それは中世です。ヨーロッパでは、ギリシャ、ロ
壇の上に乗せて、地に這うようなどっしりとした
ーマという偉大な古代の建築文化があったの
ギリシャ建築から、少し上昇性を持った繊細な
ですが、その後途絶えます。その途絶えた中
形に変えています。しかし、構成の原理として
で生まれた様式が、ゴシック様式です。その前
は一緒です。
に、ロマネスク、ビザンチンがありますが、世界
的に趨勢を振るって、大きな影響力を持った
7
のが、ゴシック様式です。それまでのギリシャ、
て何本も立っていましたが、ルネサンス建築に
ローマの神殿建築は非常に強い厳格な規範、
なると、柱と一体化した付け柱やピラスターと
オーダーのように厳しいルールによって建築
呼ばれるような、壁であるけれど形は柱である
の形が決められる。そして、なんといっても、水
という要素が重要視されるようになります。
平の美学が、ギリシャ、ローマの建築の中枢に
日本の明治の建築は、これをモデルにした
あったわけです。それに対して中世のゴシック
と言ってもいいと思います。この帝国図書館に
様式は、垂直の美を求めていきます。柱の装
しても基本的にはそうです。この壮大な全体像、
飾にしても、オーダーというルールに縛られる
外観を見ますと、非常に巨大な柱が並んでい
のではなく、それぞれの石工、建物を一緒に
てアーチを築いているけれど、柱は独立してい
造り上げていく職人が自らの創意で決めていく
ません。壁と一体化しています。それは、ルネ
ような彫刻を理想としました。ですから、フラン
サンス様式の系譜にあるからです。このパラッ
スのノートルダムやシャルトルやランス、あるい
ツォ・ピッコロミーニは、典型的なルネサンス様
は、最終的に完成したのは近代ですが、ドイツ
式の邸宅で、れんがで造られた大きな壁の中
のケルン大聖堂といったゴシックの教会を実際
に柱が幾つも埋め込まれて、取り付いている。
に訪れてみると、彫刻の多様さに驚きます。そ
そして、柱の頭は、ドリス(トスカーナ)式、ある
れは、それまでのギリシャ、ローマが徹底的に
いはイオニア式、あるいはコリント式というような、
厳守してきた規範に対する、アンチテーゼの
三つのオーダーを使い分けて重ねているので
表れです。
す。ギリシャ、ローマの偉大な建築文化を呼び
しかし、ルネサンスという時代が、もう一度ギ
戻しながら、壁による多層構造の建築という形
リシャ、ローマの規範を呼び戻すのです。あま
で昇華させる。これがルネサンス様式の特徴と
りにも自由になりすぎた建築に対して、もう一
言っていいと思います。ミケランジェロのパラッ
度ギリシャ、ローマの厳しく、しかしすばらしい
ツォ・ファルネーゼという建築も、やはりルネサ
規範に則った建築文化を復興しようとしたのが、
ンス様式です。このパラッツォ・ファルネーゼの
ルネサンスです。ですから、美意識は、ギリシ
外観には、柱型は並んでいません。この点は、
ャ、ローマそのものです。それは、水平性の強
先ほどのパラッツォ・ピッコロミーニという典型
調と柱に基づく全体構成です。先に述べたよう
的なルネサンス様式の住宅とは少し違ってい
に、ギリシャ、ローマの基本原理は、オーダー
ます。通常であればここに柱が並んでいてもい
と呼ばれる柱にありました。柱が並んでいくこと
い。しかし、その代わりに一つ一つの窓に柱が
で、建築は成り立っていました。ルネサンスは、
あります。これは何を意味しているかというと、
ゴシックという時代を経て、建築の技術が発展
この窓一つ一つが神殿であるということができ
しているので、基本的に、壁によって建物を構
るわけです。ギリシャ、ローマの建築の中枢で
成するところはゴシックと変わりませんが、そこ
あった神殿を、凝縮して一つの窓にしたので
にギリシャ、ローマの柱の美学、文化を入れ込
す。ですから、ルネサンス様式の窓には必ずと
んで、もう一度復興させるので、ルネサンス建
言っていいほど三角の屋根のような形が付くの
築には、壁の中に柱が現れてきます。より具体
です。これは、ギリシャ、ローマの神殿の屋根
的に言うと、ギリシャ、ローマでは、柱が独立し
を意味しています。これは、構造的にはなくて
8
もいいのですが、それを柱が支えます。こういう
本の明治の近代建築を考える上で、まず頭に
付け柱というものが、ギリシャ、ローマの系譜に
置かなければいけないのは、ルネサンスである
ある。この三角の部分を、正しくは、ペディメン
ということ。そのルネサンスの元には、ギリシャ、
トといいます。日本語では、破風と訳されます。
ローマがあったということです。
このペディメントを持つというのが、ルネサンス
ゴシック様式
様式、あるいは、それに続くバロック様式の重
要な特徴です。同じパラッツォ・ファルネーゼ
実はもう一つ明治の重要な様式として、建築
の中庭に面したところを見ますと、先ほどの建
家たちが学んだのが、ゴシック様式です。つま
物と同様に、柱が出てきます。これは典型的な
り、西洋の流れで言えば、ギリシャ、ローマから
ルネサンス様式の構成です。壁と一体化した
一回流れを断ち切って独自の展開を遂げたゴ
柱が規則正しく並んでいく。この規則正しくと
シック様式。12 世紀から 15 世紀まで栄える様
いうところが重要で、規則を外してしまうと、ギリ
式です。それを当時の、明治 12 年に卒業する
シャ、ローマが怒るわけです。ギリシャ、ローマ
日本の建築家たちは学びました。誰を通じて
というのは、徹底的な規範ですから、規則正し
かというと、ジョサイア・コンドルです。ジョサイ
く並んでいく、等間隔で並んでいくということが、
ア・コンドルが工部大学校造家学科という今の
ルネサンス様式の重要なポイントです。
東大建築学科の前身で教えた様式は、ルネサ
ンスとゴシックでした。同時代のヨーロッパでは、
ルネサンス様式の建物は、たくさんあります
が、最もお馴染みのものは、東京駅です。丸の
もちろん、ルネサンス様式も過去の様式です。
内の方から見ると、非常に水平性が強く(世界
ゴシック様式はさらに過去の様式ですから、そ
一水平性が強い駅なのですが)、その壁には
れをそのままコンドルが、同時代のものとして
柱が等間隔に並んでいます。記憶にない方は、
教えたのではなく、19 世紀当時は、ヨーロッパ
帰りに寄っていただければ簡単にわかると思
では過去の様式であるルネサンスやゴシック、
います。特に、2 階の部分に柱が規則正しく並
その他のスタイルを混ぜこぜにした折衷様式と
んでいます。東京駅は大正初期の建物ですが、
いう時代でしたので、正確にはその折衷様式
性格的には明治建築に含めても問題はないと
をコンドルは体現していて、それを日本人に教
思っています。そういった明治の近代建築は、
えたのです。コンドルから教えを受けた建築家
ルネサンス様式が非常に大きな力を持って影
たちの設計した建物は、ルネサンスと、時にゴ
響しました。ヨーロッパ経由で伝わったというこ
シック的な要素が混ざったりする、あるいはバ
とです。有名なものとしては、ローマのサン・ピ
ロック様式が混ざったりしますけれど、やはり中
エトロ大聖堂です。これは、巨大なドームが特
心的な骨格となったのはルネサンス様式だっ
徴で、この巨大なドームを好んで用いるのは、
たといえます。
ルネサンス様式の次の時代のバロック様式で
そして、ルネサンス様式と平行して重要なも
すが、性格的に、先ほどのルネサンスの形を
のとして、明治に輸入されたスタイルが、先ほ
受け継いで、柱が並んでいて、そしてその間を
ど少しお話した垂直線を重んじるゴシック様式
規則正しく同じ形の窓が埋めていきます。やは
です。フランスのランス大聖堂というゴシックの
り、規則正しさが、ルネサンスの特徴です。日
教会は、天を指すような垂直性を持っています。
9
凌雲閣
それから、アーチもヨーロッパで生まれた建築
の要素ですが、このアーチを飛躍的に発展さ
日本に戻りますが、先ほど言ったように、ル
せたのがローマです。ゴシック様式もローマの
ネサンス様式がまず大事で、そしてゴシックも
アーチは受け継ぎます。しかし、ゴシック様式
学んだと言いましたが、ゴシック様式本来の、
ならではの形に変えてしまいます。尖ったアー
天を指すような垂直に延びていく建築が、明治
チに変えるのです。垂直性を重んじるゴシック
に建ったかというと、それはほとんどなかったと
は、ローマの半円型のアーチを尖らせたので
言えます。なぜかと考えると、それは技術だと
す。全部のアーチが尖っているのがおわかり
思います。ゴシック建築は、あのような巨大な
になるでしょうか。これはわりと見分けやすいで
空間が全て石、れんがで造られている。つまり、
す。尖ったアーチがあったら、ゴシック様式的
「積み木細工」であれだけの吹き抜け空間を造
だと言って、間違いはありません。そして、吹き
るということです。しかし、明治という時代は、西
抜けの大空間も、ゴシック様式の大きな特徴で
洋建築が始まって間もないので、無理なので
す。上へ、上へと延びていく空間構成が、それ
す。しかしそんな中でも、ある意味ゴシック的な
までの横へ、横へと延びていくギリシャ、ローマ
建物と言えるのは、浅草十二階と呼ばれた「凌
の建築の美意識に対して、全く対照的なもの
雲閣」(写真資料あり)です。浅草に建った 12
でしたが、その両方が、ヨーロッパでは過去の
階建ての高層ビルで、れんがで造られました。
様式として成熟し、混在していて、それを日本
これは、当時としては画期的も画期的です。雲
人はよく受け継ぎます。余談ですが、ケルン大
をつくような高さなので「凌雲閣」です。おそら
聖堂は、1248 年に建設が始まり、出来上がっ
く、垂直性に基づくゴシック的な建物というのは
たのが 1880 年です。この間 640 年です。です
これくらいしかないと思います。でも、やはり無
から、着工から竣工まで 600 年以上かかった、
理があって、この「凌雲閣」は壊れてしまいます。
世界的にも例のない建築、恐るべき建築です。
それは言うまでもなく、日本は地震国だからで
中世のゴシック様式によって建てはじめられな
す。関東大震災という、すさまじい破壊力を持
がら、最終的には近代建築であるという、非常
った地震によって、このれんがによる楼閣は崩
に面白い建物です。途中、長きにわたって建
れ去って、解体されます。しかし、一時期であ
築が中断されていたこともあって、再開されて
れ東京に建っていたゴシック的な明治の建物
出来上がったのが 19 世紀です。中断期は、な
を挙げろといわれれば、この「凌雲閣」がそれ
んと 300 年にも及びました。その間、計画が立
に当たるかもしれません。参考ですが、大正末
ち消えにならずに、持続したところがすばらし
から昭和にかけて、やっとゴシックのゴシックた
いところです。近代になって完成されたケルン
る建物が生まれます。大正 14 年の東大の安田
大聖堂ですが、ゴシック様式の特徴である天を
講堂は、まさにゴシック様式の垂直の美学を端
指すような外観と、高く伸びていく吹き抜け空
的に表現しています。だんだんと稜線が上が
間、そして尖りアーチというゴシック様式の特徴
っていって、中央で天を指すような、典型的な
を見事に伝えています。
ゴシックスタイルです。しかし、時代は大正 14
年を待たなければならなかったということです。
関東大震災を経て、鉄筋コンクリート造、ある
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いは、さらにそれを強化した、鉄骨鉄筋コンクリ
ネサンス様式の明治時代のものとして貴重で
ート造という構造が普及して、やっとこうした巨
す。同時に「官庁集中計画」という壮大な計画
大建築が日本でも可能になるということです。
の生き残りでもあるということです。やはり同様
大隈講堂も同様です。余談ですが、有名な近
に柱が並んで、ここではベランダ部分が独立
代建築家ガウディのサグラダファミリアもやはり
柱になっていますが、両翼の 2 階部分ではア
ゴシック様式です。都庁もゴシック様式の美を
ーチ型のペディメントを持った柱が並んでいま
現代的にアレンジしたデザインです。
す。
新橋停車場
ニコライ堂
ルネサンス様式が、明治の建築を統括する
明治に建ったもので、少し変わり物が「ニコ
重要な要素であるという例を見ていきます。い
ライ堂」です。こういったものも造られて今に残
ち早いものは、ブリジェンスの「新橋停車場」で
っています。これは、今まで言っていた系譜と
す。これは、日本最初の駅舎です。一つ一つ
は少し違い、ビザンチン様式といって、ヨーロッ
の窓が、ルネサンス建築に見られたような神殿
パでいうとゴシックより昔の様式を基本にして
のような形をしています。ペディメントという破
造られたものです。これは、今まで言ってきた
風の部分を、2 階の部分は全部三角に、1 階
ギリシャ、ローマに端を発して日本に来て、そ
部分はくし型にしています。1 階と 2 階で、ペデ
して帝国図書館に至るルネサンスを基本とした
ィメントの形を分けていますが、基本的には一
流れとは少し外れる様式で、ロシア正教の教
つ一つの窓が「神殿」を構成しています。現在
会です。ロシア人が元設計を行って、コンドル
は、汐留駅として復元されました。ブリジェンス
が具体的な設計を行ったものです。関東大震
は、先ほどの「築地ホテル館」を造った外国人
災で、ドーム部分が焼けてしまい、今では少し
です。それから、お雇い外国人が、東京を中
形が変わっています。この建築はルネサンス
心に次々に建築を造っていきますが、そういっ
様式ではありません。コンドルのいち早いルネ
た建築のいずれもがルネサンス様式の壮大な
サンス様式としては「上野博物館」という建築が
ものでありました。ドイツの建築家であるエン
あります。これは、坂本先生のお話にも出てく
デ・ベックマンたちが、東京に計画した「官庁
ると思いますが、現在の東京国立博物館の本
集中計画」は、皇居から幹線道路を延ばして、
館の位置に建っていたもので、まさに水平性
そこに諸官庁を集中して置いて、壮大な、パリ
の強い全体像と、規則正しくアーチ窓が並ん
のような都市を形作るという計画です。先ほど
でいく、柱が壁と一体化して並んでいくような、
の「銀座煉瓦街」と同じく、井上馨という外務大
ルネサンス様式の典型的なものです。
臣が中心になって計画を進めたものですが、
鹿鳴館
井上馨自身が失脚し、この「官庁集中計画」は
ほとんど実現されずに終わりますが、そのうち
「鹿鳴館」という有名な建物も、やはりコンド
の二つの建物が実現して、建てられて、現在
ルのルネサンスです。柱が並んで、アーチが
一つ残っています。それは法務省です。当時
その間を埋めていく。「鹿鳴館」で、面白く、興
は司法省という建物です。これは、ドイツのル
味深いのは、ベランダが回っているということで
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す。このへんがコンドルらしいところです。最初
分をイオニア式にしています。きちんとしたヨー
に申し上げたように、明治最初期から日本で
ロッパの古典のルールに則りながら、それを 1
普及するベランダを、コンドルは重要視して、
階部と 2 階部とに分けて、柱の形も 2 階の部分
自分の作品にずっと使っていく。この欧化政策
には輪っかを巻くなどして、細かい操作を加え
の象徴である「鹿鳴館」も同様でした。余談で
ながら、この「岩崎久弥邸」を構成しています。
すが、「鹿鳴館」の門は和風だったというのは、
開東閣
意外に知られていません。江戸時代の大名邸
宅、旧島津家上屋敷門をそのまま使って造ら
コンドルの作品で明治の洋館は、比較的東
れていた。ですから、「鹿鳴館」というのは、欧
京に残っています。「開東閣」は、品川駅近く
化政策の象徴で純ヨーロッパだと思い込みが
にある三菱の倶楽部です。日常的に公開はさ
ちですが、実はけっこう考え抜かれていて、門
れていませんが、現存しています。やはり「岩
は大名屋敷の門で、そこから和洋折衷の庭を
崎久弥邸」と同様に、柱が並ぶルネサンス様
通って、ルネサンスの洋館に至るという巧みな
式で、ベランダを持ち、そこに塔屋を加えてア
演出がされていました。日本からだんだん西洋
クセントとする。塔の感じがゴシック的なアクセ
へという演出がされていました。残念ながら現
ントになっています。日本の明治の建築の骨
存していません。
格であるルネサンスとゴシックを巧みに混ぜて
構成しています。
岩崎久弥邸
日本最初の建築家たち
今あるもので、コンドルが一人で手がけた最
も古いものは、「岩崎久弥邸」です。この国際
そして、明治 12 年に日本人建築家が生まれ
子ども図書館からさほど遠くない邸宅なので、
ています。辰野金吾、曾禰達蔵、佐立七次郎、
講演が終わってから行かれても間に合うかもし
片山東熊という 4 名の建築家が、コンドルの教
れません。コンドルの「岩崎久弥邸」は、イギリ
えを受けて卒業します。彼らは、コンドルから
スの初期ルネサンスであるジャコビアン様式で
学んだルネサンスを基本とするヨーロッパの建
す。柱が壁にくっついて並び、ペディメントを持
築の造り方を、自分の腕で試みて、世に問うて
った窓が埋めていく。そこにコンドルは、ゴシッ
いきます。しかし、それとは少し違う流れの人も
ク様式の塔を付ける。これは、コンドルの得意
いて、山口半六という人は、独自にフランスに
技です。ルネサンス様式だけでは終わらずに、
渡って、建築を学び、帰ってきます。そして手
ゴシック様式の塔を立てていくことをアクセント
がけたのが、「旧東京音楽学校奏楽堂」です。
にする。コンドルが生きた 19 世紀のヨーロッパ
この国際子ども図書館のすぐ近くにあります。
の、一つの潮流でもあったし、コンドルが好ん
学んだ経緯は違うにしても、やはり、建物の骨
で発揮した手法でもあります。南側にはベラン
格となるのは、横に伸びる全体像と左右対称
ダが回っています。コンドルは、非常に優秀な
の形、そして一つ一つの窓に屋根が乗る。ギリ
建築家として、イギリス時代から名をはせてい
シャ神殿に端を発するルネサンスであることに
ましたから、オーダーの使い方も巧みです。1
は変わりはありません。「日本銀行本店」を代
階部分をトスカーナ式、ドリス式にして、2 階部
表とする明治建築の骨格というのは、そういうも
12
のです。厳格な左右対称性です。列柱が並び、
はヨーロッパの教会のような、天を指すようなゴ
窓も、何度も言っているのと同じことです。中央
シックではなく、どちらかというと、まだ水平性
にドームを乗せるのは、いわばルネサンスに続
が強いです。そこに、垂直性を持った塔を、非
くバロック様式の感じを少し出しているからで
常に強いアクセントとして与えて、そしてアーチ
す。
も尖らせます。このようにしてゴシック様式の特
徴を巧みに表現しているものとして、この「慶応
バロック様式
義塾図書館」を明治の近代建築として挙げて
明治の建築は基本的にルネサンス。そして
おきます。
そこに、ヨーロッパではルネサンスの後に流行
赤坂離宮
するバロックという様式があります。基本的な骨
格はルネサンスと変わりませんが、巨大なドー
なんといっても、誰もが、明治建築の集大成
ムや、柱をさらに巨大にして、3 階建てであれ
として褒めたたえるのは、「赤坂離宮(現迎賓
ば、3 階分の柱をぶち抜くとか、あるいは柱を 2
館)」です。明治という時代が、清水喜助という
本束ねるといった手法を用いて、よりダイナミッ
棟梁が手がけた「築地ホテル館」から始まって、
クな効果を生もうとしたのがバロック様式です。
たかだか 40 年で、この本格的な宮殿建築を日
この明治の建築家たちに教えられた様式の中
本人の手によって造り上げるに至るわけです。
には、バロック様式も含まれていました。それ
これは本当に想像を越える、恐るべき集中力、
に学んだ日本人建築家も、時にバロック的な
凝縮力だと思います。「赤坂離宮」は、ルネサ
手法を試みます。先ほどの「日本銀行本店」も
ンス様式の特徴である列柱とペディメントを持
より なか
同様で、同じことを妻木頼 黄 という建築家は
った規則正しい窓、それに加えて両側を曲線
「横浜正金銀行本店」(写真資料あり)という、
状に手前に伸ばす、これはルネサンスの後の
今の神奈川県立歴史博物館という横浜にある
バロック様式が好んだ手法ですが、こういう手
建物で試みています。柱を 2 本束ねて伸ばす、
法を、非常にダイナミックに織り交ぜて、スケー
ドームを乗せるといったことをしています。「横
ルの大きな宮殿に仕上げられています。
より なか
浜正金銀行本店」を設計した妻木頼黄 は、辰
東京駅
野金吾の宿命のライバルといわれた建築家で
す。彼は、工部大学校からアメリカへ行き、帰
先ほどちょっと触れた「東京駅」は、全長が
ってきてからはドイツへ行き、建築を学んで帰
443 メートルで、世界最長の駅です。全体は、
ってきたので、辰野金吾らの流れとは、少し違
やはり横に伸びていくルネサンス様式です。そ
った建築を造り、特にこのバロック様式の壮大
して、コンドル譲りの垂直線のアクセント、「岩
なドームや大オーダーと呼ばれる長い柱の効
崎久弥邸」に見られたものと同じですが、それ
果を巧みに発揮しました。
を小気味よく効果的に入れています。おそらく
これは、これだけの壮大な駅を全部ルネサンス
慶応義塾図書館
だけでやってしまうと、あまりにも退屈になるの
明治のゴシック様式の例を挙げるなら、東京
で、要所要所にゴシックのような垂直線を加え
に「慶応義塾図書館」があります。しかし、これ
ていくという、非常に上手いやり方です。
13
先ほどの「日本銀行本店」の時点では、辰
左右対称であるという共通性を持っています。
野金吾はまだ硬いです。ほぼ同時代の「横浜
しかし、この帝国図書館は、そういう中にあって
正金銀行本店」に比べて、やはり「日本銀行本
も特徴が少し違う感じがします。それは何かと
店」の造形というのは、あまりにも重々しく、堅
いうことを考えたいわけです。細かい特徴につ
苦しいです。辰野金吾が晩年に手がけた「東
いては坂本先生にお話いただくことになると思
京駅」において、明治 12 年以来、自分の中で
いますが、私は、最後に、明治の建築の流れ
展開させてきたルネサンスにゴシックを織り交
の中で帝国図書館の持つ特色を考えます。ま
ぜて建築を造り上げるという基本は引き続き守
ず、この帝国図書館を私が初めて見たのは、
りながらも、外観に赤レンガと白い石を織り交
恥ずかしいことに大学に入ってからです。東京
ぜて華やかな対照をもたらすという、辰野式と
国立博物館からこちらへ来る用事がほとんどな
呼ばれる独自の作風を取り込みつつ、非常に
かったので引き返していましたが、何かの機会
華やかな、退屈感のない駅舎に仕上げていま
にこちらへ歩いて来る時があり、この帝国図書
す。ですから、スタイルとしては明治時代の系
館の外観を見て圧倒されました。それは、一言
譜にあって、つまりルネサンスを骨格としながら
で言うとスケールの大きさです。アウトスケール
時にゴシックも混ぜるという系譜上にあるので、
という言葉がありますが、本当に大きすぎるくら
大正 3 年の建築でありながら、性格的には明
い大きい。巨大な感じがします。圧倒的な存在
治建築の集大成、あるいは、辰野金吾という建
感です。それは、ルネサンスの系譜の中にあ
築家の集大成と言えるかもしれません。当初、
っても、特殊な形式だと思います。ではその源
「東京駅」は 3 階建てでしたが、大戦の空襲で
泉は何かといいますと、ローマに建てられた凱
燃えて、2 階建てに変わり、現在はドーム型の
旋門に至るということができると思います。凱旋
天井で親しまれています。それが近い将来、も
門というのは、戦勝を記念して建てられる記念
う一度 3 階建てに戻されます。内部も建築当初
的な建物ですが、このローマ時代の凱旋門の
の天井に戻されます。逆に言うと、このドーム
スタイルがヨーロッパで復興する時があります。
型の天井は、そろそろ見納めです。今のうちに
ナポレオンの時代です。19 世紀初頭に「カル
ご覧いただいていた方がいいと思います。
ーゼルの凱旋門」という建築が、パリに建ちま
すが、これは何を基本にしたかというと、先ほど
帝国図書館の特色
のローマの凱旋門です。ここで、ローマが再び
そして、栄光の建築にようやく至るわけです。
呼び戻されます。はるか、ルネサンス、バロック
今まで長々と西洋建築の話をしてきたわけで
を経たローマではなく、ローマそのものが呼び
すが、おわかりいただいたように、日本人が、
戻されたのです。これを、建築様式では、アン
基本として学ぶべき対象としたヨーロッパの建
ピール様式や帝政様式という言い方をします。
築は、ギリシャがあって、ローマがあって、ゴシ
ローマの巨大な建築スケールと華麗な装飾を、
ックを経てルネサンスがもう一度甦るという流れ
再び直接的な形で復興する。その大きな特徴
です。具体的な手法としては、柱があって、そ
は、なんといっても巨大なアーチにあります。
の間にペディメント、あるいはアーチを持った
アーチというのは、ローマという偉大な英知と
窓がある形式でした。そして、水平性が強く、
技術力の象徴でありました。偉大な文化の象
14
徴であるローマのさらに象徴がアーチであり、
ば、この帝国図書館は、まさに栄光の建築とい
それを呼び戻したのがアンピール様式です。
うことができます。つまり、凱旋門に課せられた
「エトワールの凱旋門」も同様です。
ものは、栄光の建築としての役割だったのです
この帝国図書館において採用されたルネサ
が、それと同様の思いが、この帝国図書館に
ンスは、特にアンピール様式といわれています
おけるアンピール様式の採用の背景にあった
が、どこにその由縁があるかというと、やはりこ
かもしれない。
の巨大なアーチです。アーチの中でも、半円
さらに重要なのは、「現代性」だと思います。
でもなく尖りアーチでもない、セグメンタルアー
この国際子ども図書館の再生については、近
チというもので、半円の下の方で切るようなア
代建築保存の金字塔と呼んでいい。それは、
ーチです。そのセグメンタルアーチが、1 階か
過去の明治建築を継承しつつ、最新の建築文
ら 3 階までを通して突き抜けるという圧倒的な
化をそこに織り交ぜて、未来へと継承していく
スケール感を与えるのです。通常のルネサン
ということです。ただ、古いものをそのまま残す
ス様式であれば、3 階建てであったら、1 階の
のではなく、また、古いものを放棄、破棄して、
アーチがあって、2 階のアーチがあって、3 階
全く新しいものに変えてしまうのでもない。古い
のアーチがあるはずですが、ここでは 1 階から
ものを摂取しながら、敬意をはらって継承しな
3 階までを巨大なアーチにして並べています。
がら展開していくということです。まさに、これま
なぜ、アンピール様式が採用されたかというと、
でにない再生のあり方が、この国際子ども図書
全くの推論ですが、ローマというのは英知の象
館によって示されました。それもまた、ローマの
徴です。そして、ギリシャという偉大な過去の先
偉大な建築文化が思い起こされる感じがしま
達の文化を吸収して、それに終わることなく自
す。明治時代という恐るべき集中力で西洋建
らの文化としてさらに高めていった、それがロ
築の摂取と展開に臨んだ時代の到達点を示
ーマという時代の偉大さです。フランスにおい
す金字塔として、少なくともこの帝国図書館は
て、ローマが復興するのは、そういった背景が
存在します。また、今回の再生も近代建築保
あったからだと思われます。つまり、この帝国
存の金字塔として、今後も語り継がれていくで
図書館が担うものは、その古きものの偉大な文
あろうと私は思います。それが「栄光の建築」と
化であり、そして、それをさらに高めていくとい
呼ぶ由縁です。
ゆ え ん
う発展の象徴としてアンピール様式が採用され
時間がきましたので、これで私の話を終わら
たとするならば、この建築は、まさに明治建築
の、偉大な時代の集中力の構図そのものです。
つまり、江戸から明治というのは、あまりにも激
しい展開で、全く別の文化を取り入れた。しか
しそれを、40 年余という短い時代の中で、瞬く
間に摂取し、しかも独自にその後に展開して
いくような時代です。その象徴であり、また、図
書館という機能が、今後担うべき偉大な過去の
文化の摂取と展開の象徴であったとするなら
15
せていただきます。ありがとうございました。
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