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素手で米機動部隊に立ち向った海の男たち: 太平洋戦
Kobe University Repository : Kernel Title 素手で米機動部隊に立ち向った海の男たち : 太平洋戦 争中,知られざる「黒潮部隊」の活躍(The so-called "Japanese Kuroshio Fleet" who fought against American Task Forces with bare hands during the WW II : Retrospect of the Doolittle's first Tokyo air raids on April 18, 1942) Author(s) 半澤, 正男 Citation 海事資料館研究年報,22:8-16 Issue date 1994 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005672 Create Date: 2017-04-01 素手で米機動部隊に立ち向った海の男たち 一太平洋戦争中、知られざる「黒潮部隊」の活躍一 半津正男 Masao Hanzawa: The s o c a l l e d" Japanese Kuroshio F l e et "who fought a gainst American Task Forces with bare hands during t h eW W1 Retrospect o ft h eD o o l i t t l e' sf i r s t Tokyo 8,1 9 4 2 a i rr a i d s On A p r i l1 ミッドウェ 一攻略を図る無理な作戦が発動され 緒言 る様になり 、戦局に於ける日米の立場が逆転す 1 9 4 2 (昭和 1 7 ) 年 4月 1 8日、土曜日正午頃、 る端緒となる O 極めて運命的なものであった。 当時「帝都」と謂われた東京は全く突然、米軍 米軍の双発爆撃機は 、 わが方の推測とは全く異 双発爆撃機の超低空からする空襲を受けた 。被 なり関東東方洋上の米機動部隊空母から発進し 害 は 警 視 庁 の 調 査 (一 般には勿論公表されず〉 たものであったが、 これを早期に発見、東京に 9名、重傷者 7 3名 、 軽 傷 によれば、都内の死者 3 打電していた旧日本海軍の哨戒艇隊があった。 高2 3 4名 、家屋全焼百数十戸 、 半 焼 数 十 戸 と 意 その名は「黒潮部隊」。東経 1 5 5度線上、距 岸 約 29による本 外に大 きいものであった D 後の B- 7 00 浬の洋上に南北に展開し 、 米 軍 の 来 襲 を 逸 格的な宅襲の被害と比較すれば 「軽 微 J(当時 早く発見、通報するのが任務の特殊部隊であっ 令部発表)なものではあったが、 こ の東部軍訂l 0 0ト た。哨戒艇とは 言 うものの 、 実 質 は 最 大 1 の'空襲を契機にしてアメリカでは市民の士気が ン程度の木造漁船。乗組員も本職の軍人が数名、 高揚、 それまでの守勢が攻勢に転じた。 一方 、 他 はその漁船に乗っていた漁師をそのまま「軍 わが方は 、防衛線を 一段と東方 に進めようと、 属」 にした、いわば人も船も丸抱えの即席、速 第 1図 空母ホーネットから発進、東京空襲に向う 8 2 5 黒潮系の暖水域に位置していたのと、移動性高気圧前面に入ったため海霧が発 、 。 生しているのがわかる O また、発艦にカタパル卜が使用されていな L (当時の米側報道写真による) -8- 「黒潮部隊」は、わが国防衛の文字通りの第一 成のものであった。 この米機による東京初空襲は、早期の被発見 線を形成していたのである。 によりアメリカ側のシナリオが全く狂ってしま い、夜間一払暁奇襲の想定が昼間の強襲へと変 更を余儀無くされた。一方、わが方もこの機動 2 . 黒潮部隊の初戦果一一米機動部隊の発見と 通報 部隊からする単発の艦上機による夜間空襲を想 定、予期したため日米双方に大誤算が生じた珍 7年 太平洋戦争の開戦から約 4ヶ月後の昭和 1 しい作戦のーっとなった。私事に亙り恐縮であ 4月 1 8日 0 6 : 3 0 (日本時間)、この黒潮部隊は るが、筆者は当時、四月に入学したばかりの旧 辛苦の甲斐があって初の大戦果をあげた。米機 制高等学校生徒。水戸沖から超低空で侵入して 動部隊の発見である。場所は 来た米爆撃機を実見しているので、その体験を 5 0浬の地点であった。この目、 土からの距離約6 織り混ぜながら「黒潮部隊」の活躍と、米機に 早朝から任務についていた黒潮部隊中の一艇 よる東京初空襲とを記述して見たい。 3日東丸J(もと底曳漁船)は、東 hに異様 「 第2 3 60 N, 1 5 20 E, 本 な艦影を発見した。わが艦隊がこの海域で東方 1 .I 黒潮部隊」とは から現れるという公算は先ず無 L、。また、艦影 。 、 も日本艦のそれではな L 「黒潮部隊」とは、言うまでもなく通称で正 「敵艦隊だ」と確認するや、この時早く、こ 式名称は第五艦隊第て十二戦隊。洋上の対空、 の時遅く「敵隊、敵艦隊発見」の報は直ちに緊 対艦監視を専門とする部隊で、司令部は横浜山 急、発信された。それと同時に、或は引換えの様 下公園に臨玉旧英国総領事館を接収したもので に米艦からの激しい集中砲火と、 l 白:衛艦上機か あった。対空監視といっても、今の様なレーダ を主とするものでなく、洋上の小さい船 kで肉 m旧式砲を始め、わが方 らの機銃掃射。例の 5c の機銃も間髪を入れず一斉に火蓋を切ったが、 眼と双眼鏡とで四六時中、空と水平線を眺め、 勝負は余りにも明白であった。第 2 3円東丸は不 敵機、敵艦を発見すれば即座に無線で通報する 幸にも殆ど即時に撃沈されてしまったのである。 もの O 部隊の主力は乗組員とも徴用された漁船 ここで、米機動部隊がなぜこの時期に現れた で、船員も漁師が大部分であった。艇には l隻 のか、その背景を考察してみよう。太平洋戦争 に約 2 0名が乗り組んでいたが、艇長以下若干名 開戦から数ヶ月間は、ハワイ=マレー沖海空戦、 の軍人が敵監視と戦闘、船長、機関長、通信長 シンガポールや南方の征圧と、わが方は連戦連 等が軍属として徴用された漁師で、この人々は 勝、向うところ敵なしといった勢であった。こ 操船に当っていた。船長の身分は「嘱託」で、 れはアメリカ側にすれば、連戦連敗と言うこと 部内限判任官待遇であった。武装はと言えば、 になる O ここに於て、米最高首脳部は乾坤一榔 2 5 m mの機銃若干・と小銃、それに 5c m砲という当 の大作戦を企図するに至った O 日く、「日本の 時でもあまり聞いた事のない「大砲」とがあっ 心臓部、東京、名古屋、阪神地区に直接、飛行 た。これは何と日露戦役時(大正期?)の代物 機による奇襲攻撃をかけ、戦勢挽回の一助とす で、いわば無防備に等しく敵機、敵艦が来襲す る」。勿論、この作戦は大戦果を狙ったもので ればひとたまりも無いもの O 要は、敵に撃沈さ はなく、心理戦的なものであり、また多分に投 れぬうちに、一刻でも早く本部(軍令部)に 機的要素を内包していた。作戦の発想が誰によっ 「敵発見」を通報するのが最大の使命であった。 たのかは、今となっては分らないが形としては また、この様な時以外は一切の電波放射が許さ ルーズベルト大統領自身の指令により合衆国艦 れないと言う、重要にして苛酷な任務を課せら 隊司令長官キング大将が立案した事になってい れていたのである。これら哨戒艦隊の展開は、 る。時期は意外に早く、「員珠湾」から 1ヶ月 5 5度を南北に行われ、東方から進攻 ほぼ東経 1 9 4 2 (昭和 1 7 ) 年 1月だったの もたっていない 1 して来る敵機、敵艦隊は、この線つまり「網」 は注目されよう O のどこかで捕捉される仕組みになっていた O しかし、問題は飛行機であった。当時、「空 -9- 第二十三日東丸 (当時の報道写真) の要塞」 と言われた 四発のボ ーイング B -1 7 重爆 ある事が、研究、実験の結果判明 した。 この 目 は既に実用化 され、常j I 式機となっていた 。長距 的のために 、 陸軍のノ ースアメリカン (North 離用爆撃機 である O そうは 言っ ても 、 この「空 の要寒」 を使用してさ え、中国の重慶政権域か Ameri c an)B 2 5双発中距離用高速爆 撃 機 が 最 適機として白羽の矢を立てられ た o r 中 爆」 と らはせいぜい九州爆撃がやっとで、東京、大阪 は言 うものの、 当時のわが国の感覚では 「 重爆」 等心臓部への一撃は望むべくもなかった。 空母 で、陸軍なら双発の 9 7重、海軍では中攻が相 当 艦載機に よ る案も検討されたが、 当時、米の大 機である O また、 アメ リカでも当 時 は空軍が独 型空母でも搭載機は 単発の艦攻、艦爆等に限ら 立して屑らず、航空隊は降、海に 分 れていた。 れ、都市の戦略爆撃には全く不適のものであっ 従って、 日本空襲は 、海軍の機動部隊の空母に、 た。 更に 、米艦上機群が、 わが方の零戦(し 1わ ドウリ y 卜ル陸軍中佐指揮の陸軍機を搭載して ゆるゼロ 戦 、 レイ戦が正式呼称)の敵ではなかっ 行われると 言う、米国でも異例づくめの姿とな っ たのも要因 のーっとされている O た。 陸軍機が空母の短い飛行甲板から発艦する ここに 至 って奇想天外の案が提出された。陸 ため 、陸上に狭い 、空母飛行甲板を想定した猛 D o o l it t l e, L i eut. 軍航空隊のドウリ yトノレ中佐 ( 訓練と 、米南部の原野に東京の模擬都市まで作っ Gen.James" Jimmy" H. 1896) 註(1)の発想とも て爆撃演習 を繰りかえしたといわれる O 言 われるが、大型空母の飛行甲板上に双発機を 露天繋止し 、 この状態 で陰密樫に日本本土に接 近、東京 に出 来るだ け近 いところ で これを急速 機動部隊の編成はわか り易く する為、表にす ると次の如くであった 。 当初の 作戦計画は 、夜陰に乗 じて 関東地 庄 の 発進させようと 言 うもの O 東京等を焼夷攻撃し ごく近くまで接近、双発の全機を発進させる O た後は 、中国に散在する非占領地域の重慶側基 一番機であるド中佐の指揮官機は、 4月 1 8H佼 地 に文字通 り飛び込 む とするものであっ た。 こ か、翌払暁、東京を焼夷攻撃して 火災を発生 さ の飛行場としては漸江省の麗水基地が選ばれた。 せ、 それを目標に後続機が爆撃すると 言 うもの 双発機なら 、単発の艦爆と異なり相当 量 の地 1".攻撃用 爆 弾、焼夷弾を搭載できる O また 、無 理をすれば双発機でも空母からの発進が可能で - 10- であった 。 - 艦 隊 名 ・ 第1 6機動部隊 ・司令長官・ハルゼー(米ではホルシーと発音)海軍中将 ・爆撃隊長 ドウリットル陸軍中佐 -空母 2隻 ホーネット(初代), H ornet, CV-8 ( 註 2) B 2 5, 1 6機搭載、 1 9, 9 0 0トン n t e r p r i s e, CV-6 エンタープライズ(初代), E ヨークタウン級空母で、ホーネットと同型。哨戒、 上空直衛用の艦機 2 7 機、艦攻 1 8 機、艦爆3 6 機搭載、 1 9, 8 0 0トン ・重巡 3隻、軽巡 l隻、駆逐艦 8隻、他に補給部隊の油送 船等。 3 . わが方の誤算一空襲は 4月 1 8日、夜と判断 早期被発見によりアメリカ慨が作戦遂行に組 断を来した様に、わが方も米機動部隊を発見は て御覧になれば御理解いただけると思われる O 4 . 超低空で飛び去った芥子(からし)色の米 機一水戸での情景 したものの、迎撃の時期判断に大きな誤まりを 犯してしまった。わが方の判断は、「アメリカ 前述の様に筆者は昭和 1 7年 4月、旧制水戸高 側は、このまま機動部隊を西進させ、本土のご 等学校に入学した。旧制高校は全寮制だったの く近くで艦よ機を発進せしめ東京を夜間二払暁 で、入学と同時に入寮、学校の構内にあづた寮 空襲するであろう」と言うものであった。つま 8日は土曜日。当時、 からの通学となった。 4月1 り、偶然にも、わが方の判断は、時間に関する c a 水校は東京出身者が多かったのでいわゆる a 限り米側の当初計画と完全に一致するという皮 は、「米側は単発の艦上機で空襲を行うため、 d e m i cq u a r t e rという教官各位の御配慮からか、 1 2時何分かの上野行きに間に合うよう、 4時間 日の授業は 1 1時4 5分頃には了ってしまっていた。 0 0浬位ま 機動部隊は艦上機の行動半径である 3 lて米て昼食のため 各教室からは生徒が一斉に t 4 5度線位まで接近するであろ で、即ち、東経 1 寮へ急ぐ。筆者も校舎と寮との中間あたりを歩 う」とした事による。 いていたが、何気なく校庭の、満聞をやや過ぎ 肉な結果になってしまったのである。その理由 上記の大本営の状況判断は、それ自身は極め た棲並木の方を見た方角は南にあたる。この時、 て当をえたものではあったが、米側の使用する 突然、パリパリという今まで聞いた事もない であろう機種の推定に大きな誤りを犯してしまっ 「爆音」が、校庭一杯に轟きわたった。 1 '攻級の双発機を空母から発進させる ていた。 ' 何事かと見上げると同時に、棲花のすぐ上を 事など、わが方は夢にも思って居なかったので 超低空で芥子色迷彩の双発大型機がィ日子の方、 ある O 勿論、敵機動部隊の発見と共に海軍では つまり西の東京の方角へ矢の様に飛ひ、去って行っ 全軍に警戒を下令、米空母の再発見とその撃壌 た。二枚の垂直尾翼の聞にはガ、ラス張りの大き に努めたのは賛言を要しないところであった。 な銃座があり、真黒い機関砲の砲身が無気味だっ 即ち、連合艦隊司令部(連司)は、横須賀入港 た。胴体にはハッキリ米軍の標識が…。「米機 中の第二艦隊旗艦「愛宕」に緊急出動を、呉軍 だ」、「空襲だぞ」と、戦時下とは言え、戦争を 港柱島沖の第一艦隊、台湾パシー海峡所在の第 未だ遠い「南方」だけのものと、至極暢然構え 一航空艦隊、木更津の第二十六航ヤ戦隊に出撃 ていた我々は、いきなり眼前を飛び去っていっ が下令された。この辺の事情は、第 3図を併せ た怪烏の様な機影に大きな衝撃を受けた。今ま のんびり -11一 自本側の予想 発 見 地 当』 第2 3日東丸 」晶画, 152"E 本土初空襲の作戦計画 主 L 干 ijag- 綿一 B25行動図 tail-- 1 2 4慨 第 3図 ⋮ 右'品 6 5 0 7 1イリ アメリ力機の東京空襲計画。(よ)米機動部隊発見時点での日本側の予想。(中)米側の 当初の空襲計画。(下) 8-25の実際の行動。 で飛行機の爆音というと「ブーン」で表わされ 6 . 東条首相搭乗機説もあった 8 2 5 る至って長閑なものと思っていた我々は、ライ トサイクロン 2, 0 0 0馬力二基の爆音を至近距離 この碇氏の文章からも窺われるが、高等学校 できいた訳で、それは「爆音」の文字そのまま 生徒だった筆者も含めて、当時の米軍機を見た の想像もつかぬ程大きく、又、荒々しいもので 人の大部分は、初め、この空襲を「本物」とは あった。 信じられなかったのである。これにはてつの理 分、後戻りさせて、水 ここで、時間を 5-10 由があって、前出の荒蒔大尉等の様に米機を南 戸陸軍航空通信学校の情景に目を転じてみよう。 方で歯穫したものと思った専門家もあるが、も 航通校は水高の南、{皆楽園や常磐線のさらに南 う一つの大きな訳は当時の水戸の人々に拡がっ 方十数キロの所に新設されたもの。この陸軍飛 ていた或る噂による。それは、 4月1 8日当日、 行場に於ける 1 1時3 0分過ぎの様子である。 権勢並びなかった時の総理大臣東条英機大将が、 新設の航通機を視察に訪れるというものであっ 5 . 水戸市南方、陸軍航空通信学校における情 た。大将は当時、よく宣伝されていた如く、仲々 e c c e n t n cにして、 f l a m b o y a n tな性格であった 景 らしい。 これについては、航空評論家の碇義朗氏がか 従って、私共がすぐ考えたのは大将が自己の つて東氏タイムズに連載された「ドキュメンタ 威光を顕示させる為、南方で函穫された米軍機 戦 闘 機 飛 燕 キ6 1に総力を」の一節とし にわざわざ搭乗、航通機を空から訪問しついで て刻明に活写されているので、梢長くなるが引 に水戸上空を超低空で飛行したものではな L、 か リ という事であった。筆省自身は、飛行機が好き 用させていただこう O n星のマーク...敵機だ!J だったので、 B 1 7や、ハドソン機が我が方の手 ・・たまたま水戸にあった陸軍射爆場に新 に陥ち、立川や福生(共に陸軍の飛行場)で調 型1 1 2 . 7ミリ弾丸の発射テストのためキ 6 1試 作 機 査されていたのを知っていた。それで、眼前を ( 註 3) 2機が来ていたが、空襲警報発令で、 矢の様に飛び去って行ったのは、その「東条大 ほかの戦闘機といっしょに迎撃待機となった。 将座乗の歯穫ハドソン機Jではないかと、一瞬 このテストのため審査部から出張していた荒蒔 思ったのも事実である O 校舎から寮までの僅か (義次)大尉と梅川亮三郎准尉は、午前中の発 らO m程の聞に、「空襲だぞ」の叫び声と共に、 4)で、とりと 「英機が米機に乗ってやって来た、アハハハ…」 5 吉をしていたが、ちょうどひるごろ海 めもな L、 等と当時即妙の軽口を叩く者もあったのはこの 岸線に並行して飛ぶ双発機を発見した。そのう 様な背景による。 射テストを終わってピスト(註 ち 5機首をめぐらせてこちらに向って来たのを 見ると、垂直尾翼が二つあるではないか。 時間にすれば僅か 3 0秒か 1分位の間であった が、寮の玄関に着く頃、遠くの水戸の街から 「梅川、ありゃ何だ。雫直尾翼が二枚の双発機 「空襲警報」の発令を告げるサイレンや、古風 というと、南方で分捕ったロッキード“ハドソ な半鐘の乱打がきこえて来た。誠に長閑りした ン"爆撃機かな?J ものであった。尚、当日午前の授業中は警戒警 荒蒔がたずねると梅川准尉も首をかしげた。 報も、空襲警報も発令されず、前記の航通校に 「変ですな。 “ハドソン"は立川にあるはずで、 於ける警報発令の時刻と前後するが、これは陸 今ごろこんなところを飛ぶはずがないし… J 軍部内限のものだったのかも知れない。いずれ なおも近づいて米る双発機を注意していた梅川 にしても、若かった我々は、「腹が減ってはい がすっとんきょうな声で叫んだ。 くさが出来ない」等と言い乍ら寮の食堂に殺到 「あッ、星のマークがついている…敵機だ。敵 機ですぜ J(以下略) I 筆者が水高校庭から米機を見たのは、このあ と 5-10 分たった時の事になる O した。空襲といっても、後年のような防空壕も 未だ無く、生徒の方も一体何をしたらよいのか、 どうしたらよいのか、何の i n s t r u c t i o n sも守え られていなかった程、それまで戦争は遠い彼方 -13 の出来事だったのである O に飛び込んだ黒潮部隊の勇士は、助かるために 海に飛び込んだのではなく、敵機動部隊のスク 7 . 悲壮な黒潮部隊の戦歴 リューに自ら巻き込まれる為であ った。監視艇、 長渡丸の信号長だった中村末吉氏は泳いでいる 4月1 8日、黒潮部隊の被害 は、第 二 十三 日東 うちに米側のボートに発見され、米兵になぐら 丸だけに止まらなかった。 日東丸の場合は交代 れて気絶、捕虜となって戦後帰国した。中村氏 のため横須賀に向いつつあったので、その最期 は言 う「五人いっせいに飛び込み、エンタープ 5 5度の の地点はわが方の警戒線であった東経 1 ライズのスクリューに向いました 。 それに巻き やや商の 3 6 N, 15 2 Eであ ったO これは 三 重の 込まれれば、わたしたちは死にますが、スクリュー 不幸 を費してしまった。米側が、わが方の警戒 は止まります、云々 」。 0 0 5 5 Eに あ る こ と を 識 っ て し ま っ た 事 で 線が 1 0 戦局の激化にともない 黒潮部隊の被害 も急速 2 5を発進させたあと、急速反転東航に ある o 8 に増大していった 。 今日調べられる限りでは昭 移 った米機動部隊とその艦載機は、近くに展開 7、 1 8年で 2 0 隻沈没、昭和 1 9年、 1 2隻沈没、 和1 していた黒潮部隊の哨戒艇に次々と襲し 1かかっ 0年 5 0隻沈没、合計8 2隻であるが実数はこ 昭和 2 2隻に被害 が てい った。結果は、 第 二旭丸など 1 , 0 0 0人は の 2倍にのぼるといわれる O 最 盛 期 4 あり、第 二 十三丸日東丸の撃沈、中村盛作艇長 いたと言われる黒潮部隊の隊員のうち、半数か 以下 1 4名の 全員戦死をはじめ戦死者 3 3名、戦傷 ら2 /3 1こ及ぶ海の男たちが、この様にして還ら 3名、沈没した艇 5隻の貴 い犠牲を出すに至っ 者2 ぬ人となってしまった。当時も、戦後も新聞な た。アメリカ 側がこの時の報道として「海に投 とにあまり報道される事もなく、彼等は黙々と げだされた日東丸の乗組員 は敵(アメリカ側) し死地についたのであった。 に救助されるのを拒否して亡くなった 」 と、そ の壮烈な最期を伝えている O 今となっては想像 8 . 東京初空襲余聞 も出来ないが、更に悲にして壮だったのは、海 昭和 1 7年 4月1 8日iE,It 二ごろ、水戸、東京地;えi は雲 一つない快晴であった 。 当時は、厳重 な気 象管制が行われていたた め、天気予報、天気閃 の一般への発表は一切禁止とな っていた。いま、 6: 0 0の 天 気 当時の中央気象 台 ( 現 気 象 庁 ) の 0 図(12 : 0 0の も の は 作 成 さ れ ず ) を 見 る と 、 関 0 2 3 . 9 h P aの 大 き な 移 動 件 東地万には内ーからの 1 高気圧 に覆われようとして 居り 、1E午凶にはこ れが震上に来ていたものと推測される O また、 ちょうど 昼休み時とあって低空飛行の米機を見 た人は多か った 。 当 日午後 2時、東部軍司令部 . . .現 はこの空襲について次の様に発表した o 1 在マデニ判明セル敵機撃墜数ノ ¥9機ニシテ、我 ガ方ノ損害ハ 軽微ナル模様。皇室ハ御安泰ニ瓦 ラセラル J 。 前述の様に、好天であった為、米 機を見た人は多かったが、撃墜されるところを 見た人は l人も居なかった 。 それで、巷の声と --...~下、見‘ ぷ、 ‘ ~・ー 第 4図 1 4- 9機」ではなくて、 して、撃墜されたのは 1 ー ・ι 銃撃をうけ炎上する第二十三日東丸 (当時の米側報道写真) 「空気」だ ろう等が嘱かれた 。 「皇室ハ御安泰ニ亙ラセラル」の文言から逆 にこの空襲により当局の受けた衝撃の大きさ、 第 5図 最初の東京空襲約 6時間前の昭和 1 7年 4月 1 8日0 6 : 0 0 (日本時間)天気図 (中央気象台天気図) 言外の不安感が推定できょう O 之はやがて対米 にあるとされる 一種の理想郷、桃源郷のことで 哨戒線を更に点へ前進させようというミッドウェ一 ある O ジョーク好きのアメリカ人らしい人をくっ 作戦、泥沼の長期消耗戦となって行く た話である O もう一つ筆者等が だまされた事。 D この時、 米側の発表で面白いのは、爆撃隊の発進基地を、 B 2 5の後部銃座の機関砲は、見た瞬間恐怖を感 何と 「シ ャングリラ、(S h a n g r ila ) と したこ じたが、何と木製の擬砲(ダミー)だったとい とO これはポーの作品や、ヒルトンの「失われ うO 勿論、一滴でも多く航空燃料を搭載する為 た地平線」 等 に出てくる架空 の地名。中 国奥地 であ った。米機側に御苦労様であったのは無理 -15 をして長低空の飛行に終始したこと。いうまで 註2 . CVとは米海軍の略号で空母のこと。 Cはc a もなく、日本側のレーダー網に捕捉されない為 rnerの略であるが、 V はv e s s e lでなく、飛 であったが、これは彼等の思いすごしで、当時、 行機を表わす米海軍の象形文字。旧日本陸 わが右のレーダはそれ程高性能でもなく、又、 海軍でも飛行機を表わすのに漢字の「人」 組織的な展開もなされていなかった。あれこれ のさかさの烏を象った象形文字を使った。 後になって見ると、戦争、戦闘は L、かに過誤、 .I キ」は旧陸軍の試作機一連番号で「機体」 註3 錯誤の連続であるかがわかるものである。 の「キ J oI キ6 1Jは川崎製の単座戦闘機。 結語 J となった。 「三式戦(通称飛燕 ) 紀元 2 6 0 3年(昭和 1 8年)市J I式採用となり 1 9 4 7 (昭和 1 7 ) 年 4月1 8日、アメリカの機動 註4 . フランス語の l ap i s t 巴「滑走路」に出来。 6機の双発陸爆による東京、 部隊から発進した 1 旧陸軍航空隊でよく使われ、滑走路わきの 名古屋、阪神地区に対する初雫襲について、そ 野外待機所、休想所の意に使用。陸軍航空 の背景、経過、戦局に及ぼした影響等について、 隊が草創期フランス空軍の指導を受けた名 筆者の体験も混えて記述した。この機動部隊を 残りであろう。 本州東方洋上で逸早く発見、報告した海軍の徴 用船による監視、哨戒艇隊の敢闘ぶりを紹介し 謝辞 た。なお、各地を分散攻撃後の米機は大部分が 本報を草するにあたり神戸商船大学附属図書 中国非占領地区に着陸したものの、中国沖に不 館の中川、松下両係長、神戸海洋気象台の瀧本 時着水や、落下傘降下した搭乗員もあり旧ソ連 図書係長、神戸山手女子短期大学図書館の新国 のウラジオストックに着いた機もあった。 主任に資料、文献等について御協力を賜わった。 いわば素手で米機動部隊に立ち向った海の男 記して感謝申上げる次第である O たちが、海に飛び込んだのは敵に後を見せぬ為 であり、又、敵艦のスクリューに巻き込まれ少 しでもその行動を回害しようという崇高な目的 のためでもあった。我々が今日、平和な生活を 参考文献 ・CarpenterI I I, J.W.T. ( 19 7 0 ) i n E n c y c l o p e d i α Americ α n α ,Vo1 .9, 2 9 2 送れるのも、このような人々の隠れた献身の結 ・橋本裕次(編) ( 19 8 2 ) 。 、 世相の観察か 果であるのを忘れてはならな L 日本本土に接近す らだけ言う極めて短絡的な見方ではあるが、終 0 年、わが国もアメリカと│百jじく戦後の興 戦後 5 " D o o l i t t l e " 緊急発進 敵空母 7年、歴史への招 昭和 1 待 ( 2 2 )、 2 0 1~227、日本放送出版協会 ・碇義朗(19 7 6 ) ・ドキュメンタリ一 戦闘機 隆、絶頂期は既に過ぎ、或いは過ぎ去ろうとし 飛燕「キ 6 1に総力を」、昭和 5 1年 7月 1 4日 ている。「勇気」、「献身」、「気迫」といった言 付東京タイムズ紙、同社 葉が死語、療後になろうとしているこの安穏な 大国で、国運を転落と衰亡とから救う途は、 8 3 ) :2 0世紀全記録、 ・小松左京他(企画) ( 19 講談社 「黒潮部隊」の人々が身を以て示してくれた教 ・桑田悦、前原透(19 8 2 ) 訓を今一度、考え直すあたりから始めるしかな とデー夕、原書房 い様な気がする。 ・早乙女勝元(19 8 7 ) 日本の戦争一図解 最初の空襲(東京大空 襲)、江戸東京事典、 884~885、三省堂 註1.アメリカの空軍中将。陸軍航空部隊の初期 のパイロット出身。軍縮時代は飛行機のス なお、本報は平成 7年 1月1 7日の兵庫県地震 見ずの飛行家の様に伝えられたが、マサチュー による阪神大震災の前、 1月1 0日頃、脱稿した セソツ工科大て、 Ph.D.を取得した学究肌で、 ものである。 戦時中、米の巨大な自動車 I業を航空機 I 業に転換するに際し功績があった。 1 6 追記 ピードレーサーとして釘名であった。向う