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藤棚 - 狭山ヶ丘高等学校
藤 棚 狭山ヶ丘学園 学校通信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/js/ 目 次 第 222 号 学ぶことの意義(H21.3.24 発行) 第 221 号 平成 20 年度卒業式辞(H21.3.3 発行) 第 220 号 風邪の予防についてもう一度(H21.1.31 発行) 第 219 号 明日に生きよう!明日に望みを託して(H21.1.8 発行) 第 218 号 風邪に備えよ(H20.12.20 発行) 第 217 号 高校生の勉強する権利 第 216 号 精神の自己管理の知恵(H20.11.1 発行) 第 215 号 明窓浄机(H20.10.1 発行) 第 214 号 読書の秋に(H20.9.1 発行) 第 213 号 騙されぬ賢さを(H20.7.19 発行) 第 212 号 高い目標 第 211 号 これでは「孝の心」など育てられない(H20.6.2 発行) 第 210 号 「少年に死刑判決」の正当性と必要性(H20.5.1 発行) 第 209 号 挨拶できる人間に育て(入学式辞)(H20.4.10 発行) 勉強しない権利(H20.12.1 発行) 正しい学習方法(H20.7.3 発行) 平成21年3月24日(火) 藤 棚 第222号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 学ぶことの意義 校長 小川 義男 平成 20 年度も今日で終わる。3年生は卒業していったし、在校生諸君もそれぞれ進級する。とり わけ2年生、すなわち「新3年生」には、心に決するところがあろう。 昔、私の高校の同級生に鎌田君という秀才がいた。旧制から通して中高6年間同じ学校で学んだの だが、ハンサムで全校に鳴り響くような人物であった。彼は難なく北大理類に進み、卒業後は高校の 理科の教師になった。誰にも好かれる素敵な人柄であった。 高校卒業後何年も経ってからだが、親友の沼田が、 「鎌田にはひとつの問題があってな」と語った。 沼田は後年小樽商科大学の有名教授になった男である。男が見ても惚れ惚れするようなあの美青年の どこに問題があるのかと、私の興味はそそられたが、鎌田の母は、彼を他人との競争、葛藤に関心を 抱かぬ人間に育てたらしいというのである。そう言えば鎌田は、私に対してばかりでなく、誰に対し ても敵対的、競争的態度を示すということがなかった。頭脳の優秀性もあって、高校までは、他人と の葛藤を必要とすることなく育ったのでもあろう。鎌田の優秀性は北大入学後にも遺憾なく発揮され た。教授は彼を大学に残したがったというのであるから、その優秀性の程も察せられる。だが鎌田は、 そのように激しい葛藤が求められる分野には進まなかった。彼は平凡な高校教師の道を選び、管理職 に進むこともなく一高校教師として生涯を全うしたのである。不摂生などとは無縁の人だったと思う のだが、数年前に世を去った。 ちまた 男であれ女であれ、人は世に処してどのように生きるべきであろうか。葛藤の 巷に身を置き、身 をすり削るようにして生きるのも人生なら、争いを避け、ひたすら心穏やかに生きるのもまた人生で ある。そのいずれが正しいか、誰にも言い切ることはできまい。 この鎌田に関して私にひとつの疑問がある。あれほどの男が、ひたすら他人との葛藤に関心を抱か ずに人生を過ごして、疑念が湧いてくるなどということは、絶対になかったのであろうか。 競争心は人間にとり本能的とも言える属性である。小学校1年生でも、駆けっこになれば、死にも のぐるいの表情をして真剣に走る。体育祭で西武ドームを走るリレーの選手の表情には、「死んでも 勝ちたい」との思いが溢れている。人前で涙を見せたことのない私だが、あの時だけは取り乱しがち になる。 「君はそれほど負けたくないのか」と思うからである。諸君は、この葛藤という面に関して、 どのような感じ方をしておられるであろうか。大学進学に無理をしなくとも良い、と考えているのな ら、無理をしてこれほど難しい高等学校に進学してくる必要はない。世の中には、もっともっと楽に 進級卒業して行ける学校が沢山ある。そうした中で、あえて難関である本校を選んだというのは、諸 君なりに心中深く決する所があったはずではなかろうか。 総合進学コースに在籍したA組(山崎学級 早稲田特講)山本康太君は、早稲田大学の教育学部に合 さとし 格した。またE組(樋口学級)の石原 怜 君は、社会科学、文化構想、教育の3つの学部に合格した。 早稲田に合格するには必ずしも特進コースに在籍する必要はないという事実を、両君の実績は物語っ ている。また特進コースに在籍したからと言って、安易に難関を突破できるものではないことを、こ れは物語ってもいよう。 これは「新3年」だけの問題ではない。「新2年」も、この春休みから長期的展望を持ち、大きな 希望を抱いて努力を開始して頂きたい。 特に「新3年生」は不退転の決意を固めて前進を開始することだ。 大学に入ること自体は少しも難しくない時代だ。入るだけならば誰しも大学に入れる「大学全入時 代」が始まっている。しかし、大学の勉学環境や教授の質的水準等は必ずしも同一ではない。社会的 評価も然りである。 大学の4年間は、学生として平等である。付与される資格にも甲乙はない。しかし社会的威信や信 望は、諸君の気づかぬ所に深く存在している。名門大学とその他の大学を、ことさら差別して扱う愚 か者はこの世に存在しないだろうが、実際に卒業して社会に飛び立っていこうとするとき、その違い は歴然となる。また実際に本校のケースでも、教員採用試験をしてみると、その実力の違いは如実に あらわれてくる。 私は大学格差に、露骨なほど不快感を抱いている人間だから、採用試験に際し、出身大学で差別を するようなことは決してない。しかし「無名大学」の出身者で、採用試験に抜群の成績を示した人物 に、これまで遭遇したことがない。結局、これ以上の公平さは求められないほど公平な18歳段階時 の入学試験に頑張れなかったという場合には、その後に特段の頑張りを期待することがかなり難しい のではないかと私は思うのである。その意味でも、諸君は来るべき大学入試を絶対に軽視してはなら ない。 この春休みには、既に戦闘が開始されていると思わなくてはならぬ。部活動の引退を前にしている 期間は、勉強一本というわけには行かぬだろうが、それでも毎日2時間程度の学習時間は作り出して 行きたい。勉強には即効性の効くものと、少しの勉強を永く続けておかねばならぬ特殊なものとがあ る。ワインにも、どんなに優れた葡萄でも、少なくとも1、2年は寝かせて置かなくてはならないの と同じ理屈である。 国立大学に挑戦する人は、それぞれの教科の先生の意見、進路指導部の助言等に学び慎重に準備を 進めてもらいたい。私立大学は英語が中心科目となる。他は僅か2科目なのだから英語さえマスター すれば何とでもなる。難関私立大学と恐れたりするな。それはすべて「3科目大学」だと思え。 さて鎌田君、思い出すだにさわやかな人柄の、彼のような平穏なコースを選ぶか、あえて葛藤の巷 に駒を進めて、陣頭に明け暮れて人生を過ごすか、それは諸君自身の判断である。 しかし私はあえて、葛藤の巷に生きることを諸君に求めたい。どちらの道を選ぶにせよ、鎌田自身 が勉学の手を少しも緩めることのない大変な努力家であったことは忘れないで欲しい。彼は私などが 背伸びしても到底達することのできない天下の秀才だったのである。 平成21年3月3日(火) 藤 棚 第221号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 平成 20 年度卒業式辞 校長 小川 義男 ご卒業おめでとう。これまで様々な苦労があったことと思います。諸君は、それに耐えて今日の良 き日を迎えました。これは諸君の努力の成果であると共に、ご家族の皆様のご支援あってのことであ ります。その厚恩を忘れずこの後も精進して下さい。 高等学校卒業という資格は、現在諸君が考えておられる以上に大きな意味を持つものであります。 我が国は現在世界最高の工業水準を維持しつつも、世界経済の影響を受けて大きな困難に直面して おります。メディアはこれを百年に一度の経済危機などと伝え、政府もこれを肯定しておりますが、 私はこれは間違っていると思います。1929 年のパニックは、これと比較できぬほど深刻でありまし た。1945 年、アメリカとの戦争に敗れた直後の経済危機、食糧難も、こんなものではありませんで した。我が国民の持つ資質的優秀さ、勤勉性、我が国経済の持つ“ファンダメンタルズ(一国の経済 状態を判断するための基礎的指標)”の強さから考え、日本はごく近い将来、必ずや不滅のバイタリ ティーを発揮するものと確信します。明るい展望を以て新しい人生に突入して行って下さい。 我が国は食糧自給率 30 パーセント台の輸入大国であります。フランスの 130% アメリカの 119% ドイツの 91% イギリスの 74% オーストラリアの 230% カナダの 120% 等に比べ大変な違いであ ります。遠からぬ将来我が国には必ず食糧危機が到来するでありましょう。その一方で、田んぼを初 めとする広大な農地が荒れるままになっております。このような事実を前にして、さしたる危機も感 じない我が国為政者の、無為、無策は驚くべきものであります。 学校給食は、パン食を全面的に改め、ご飯中心の物に変更すべきでありましょう。主食は民族性そ のものに直結する問題でもあり、米の消費量を高めることによって、自給率6割程度までは持ってい かなければならないと思います。 ひと頃「武器が平和を保護する時代は終わった」とのキャッチフレーズが流行致しました。しかし 残念ながら今日においても、国境線を維持するものは軍事力であるという悲しい現実を認めないわけ にはいきません。我が国は現在、歯舞 色丹 国後 択捉の北方領土をロシアに不法占領されており ます。その面積は沖縄本島の 4.2 倍に及ぶ広大なものであります。また韓国は我が領土である竹島を 占領し、そこに官憲を常駐させております。軍事力を急速に増大させた中国が、尖閣諸島に対し領土 的野心を抱いている気配もあります。中国の年間 12 パーセントに及ぶ軍事力の急速な増大、原子力 航空母艦2隻建設の計画等は、我が国にとっても無関心ではいられない問題であります。その意味で、 国家主権の維持、国境の保全ということについても諸君の注意を喚起したいのであります。 永く生きてきてしみじみ感ずるのでありますが、人生には引き潮の時と満ち潮の時があります。引 き潮の時は何をやってもうまくいきません。満ち潮の時は、やることなす事うまくいきます。しかし 満ち潮だけの人生がないように、引き潮だけの人生もありません。失敗続きの時期が長引こうとも、 あせ 必ず潮の満ちてくる時があります。引き潮の時は、浅瀬でばちゃばちゃと焦ってはなりません。次に 大きな潮が迎えに来ることを確信し、自らの内面蓄積に努めることが大切であります。やがて潮が満 ちてきます。世の中は、真に力量ある者を見捨てたりはしません。大いなる明日の訪れを信じ、力を 蓄積していただきたいのであります。 主体的判断力を持つことは青年知識人の責任であります。今しきりに温暖化の危険が叫ばれており ますが、人類はこれまでも数度の温暖化を経験しております。産業革命以前にグリーンランドに農場 が存在した事実もあるのであります。温暖化の原因は、二酸化炭素ではなく宇宙的原因に基づくもの だと東京工業大学のある教授は述べております。また東京大学のある教授は、二酸化炭素含有率の増 大は、むしろ好ましいことであり、植物の生育を増進し、砂漠を緑化するに至るであろうと指摘して くみ おります。私は必ずしもお二人の見解に与するものではありませんが、世の通説に対して、常に批判 精神を失わないことも大切である事を指摘しておきたいのであります。 なだれ 先の大東亜戦争は、隣邦にも我が国にも重大な損害をもたらしました。それが、時代の動向に雪崩 を打って賛成していった個人やマスメディアの動きにもよるものであったことを忘れてはなりませ ん。温暖化のような問題にも、あるいは意外な政治的背景が潜んでいるかも知れません。常に主体的 判断力を持って時勢に対処していって頂きたいのであります。 間もなく有権者となる諸君であります。 立派な主権者になって下さい。 かたじけ 本日は、入間市長木下博氏をはじめ、多数のご来賓の皆様のご来駕を 忝 のうしております。ご多 忙の中ご列席下さり、卒業生の前途に祝福を賜りましたことに、深く感謝申し上げます。 保護者の皆様、ご覧の通りお子さまは見事に成長されました。ここに謹んでお返し申し上げます。 こた 彼らはやがて国家の指導者として、必ずや国民の期待に応えてくれるでありましょう。おめでとうご ざいます。また校長として、皆様の 3 年間のご協力に、深く感謝申し上げます。 名残は尽きませんが、卒業生諸君、いよいよ別れの時となりました。最後に一言、諸君、親を大切 にしてください。親は、今は元気であっても、やがて年老い、衰え、諸君より先に世を去っていくも ゆだ もっぱ のであります。昨今、国家による介護の名の下に、施設に老人の世話を委ねる気風が 専 らでありま すが、他人が行き届いた世話を老人に施せるものではありません。親の老後に対する第一の責任は、 その子供にあるのであります。 子が親を大切にする気風は、やがて国民の伝統となり、将来諸君の子供が老人となった時にも、彼 らを守ってくれるでありましょう。親を大切にし、諸君自身は、 「若さとは未熟さである」と心得て、 これからの人生を生きていって下さい。諸君、サヨナラ。 平成21年1月31日(土) 藤 棚 第220号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 風邪の予防についてもう一度 校長 小川 義男 「風邪は万病のもと」と言う。しかし諸君は若いから、そんな古い諺など意に介さないだろう。だ が、今は命取りになったりしなくとも、若いときの無理は後に様々な障害となって姿を現すものであ る。まして高校生は、将来のための極めて大切な基礎作りの時期である。当面の大学入試や平素の学 習に備えるばかりでなく、生涯を貫く健康の基礎作りという意味でも、風邪に冒されないよう、科学 的な生活態度を維持して貰いたい。 一番大切なのは睡眠と生活サイクルの維持である。共に高校生が最も不得意とするところだ。植物 でさえ夜は眠るそうである。最近は樹木に色電球をくくりつけて、夜通し「世の中を明るく」保つ輩 と かく が少なくないが、自分たちの楽しみは兎も角、眠りたい植物の気持ちも酌み取ってやれないものだろ うか。光は確かに美しいが、闇も光に負けないくらい美しいと私は思う。年寄りのセンスの古さなの だろうか。 夜はリズム正しく眠ることだ。睡眠時間を多少短くするのは良いが、サイクルだけはしっかり守る ことにしたい。若者には難しいだろうが、やって出来ないことではない。 次に大切なのは陽光だ。私は、日照100パーセントの今の校長室に移るようになって、風邪を引 かなくなった。陽光はインフルエンザのウイルスに対して、決定的な力を有するものらしいのである。 しかし関東地方の太陽は、冬でもどぎつい。どうしてもカーテンを閉めがちになる。せめて部屋を空 けるときだけでも、部屋の奥まで日光が入り込むようにしたい。私は校長室を空ける時には、必ずブ ラインドを一番上まで上げ、日光を充分取り込むようにしている。 忘れてならないのは湿度だ。私の医学知識だからあるいは間違っているのかも知れぬが、風邪のウ イルスは咽頭部でしか増殖できないものなのだそうである。だから空気が乾燥して、咽頭がカサカサ になってくると、ウイルスが増殖しやすい。ウイルスは、咽頭が適度に乾燥しているあたりが、一番 増殖しやすいのであろうか。 部屋の湿度を保つこと、これがなかなか難しい。市販の加湿器には、熱を用いず、いわゆるジェッ ト式噴射によって水を気化する装置もある。つまり、加圧して狭いところから一気に水を噴射し、そ れによって水を霧状にして気化させるのである。だがこの場合は、気化装置の部分に雑菌が増殖しや すいという危険がある。このため、かえって別の病菌に冒される危険がある。 やかん 一番原始的な、電気コンロやガスレンジの上に薬缶を置いて沸騰させるというのが一番効果的なよ じゃっき うである。だがこの場合は、水の補充を忘れてしまうと危険を惹起する可能性もある。なかなか良い 方法がない。 私は風呂場を開け放ち、シャワーの熱湯を上から放射するという方法をとっている。また湯船に蓄 えた湯を、使用後も捨てないで朝まで戸を開け放ったまま放置しておく。 “メルクマール(目印)”は、ドアのガラスに水滴が付着しているかどうかである。これは物理で は露点現象と言うのだが、窓外の冷たさを伝えるガラスが露点に達し、水滴が付着しているようなら、 湿度は先ず充分だと言える。 私は、夜中も湿度を保つことが出来るように、ある工夫をした。流し(今はシンクなどという変な 名前が付いているが)の上に、水を充たしたボウルを置き、そこからバスタオルを流しまで垂らして 置いた。毛細管現象、或いは毛管現象と呼ばれる原理を諸君は覚えていよう。水の表面張力によって、 水は水面より少し高くまで上がってくる、あの現象である。あの原理とサイフォンの原理が絡み合っ て、ボウルの中の水は、どしどし流しまで垂れ落ちてくる。そのスピードは意外に速い。 いたずらに、風呂のバスタブに水を一杯に張り、タオルをタブの中と外にまたがせて垂らして見給 え。翌朝、水は確実に、中と外のタオルの長さと同じ部分まで流出してしまっている。サイフォンと 毛管現象が絡み合って生ずる現象である。 私は、いい歳をしてこんないたずらを繰り返すほど、冬の乾燥ということには気を遣っている。そ れほどに空気の乾燥は、風邪の蔓延と深い関わりを有しているのである。 若い頃、「慢性腎臓炎」と診断されたことがあった。医者が、「もう生涯治らないかも知れない」と 言ったのである。19歳の時であった。原因は扁桃腺から発した高熱である。若さの勢いで、中学生 に協力して貰ってプールを造った。細い山川をせき止めて完成したものである。嬉しくなって、朝の 8時から夕方の5時までプールに入っていた。「先生、もう上がらなければ駄目よ。唇が紫色になっ ているじゃない。」おしゃまな女生徒にそう叱られても、私はプールから上がらなかった。結局この 腎臓炎も、ある種の風邪から発したものだったと見ることが出来よう。但し「生涯治らない」という たやす のは事実ではなかった。以来私は、医者の言葉ですら容易く信用しない人間になった。しかし「風邪 は万病のもと」というのは、確かにその通りだと思うのである。 3年生は勝負の季節である。1、2年生にとっても、かけがえのない貴重な時間であることには変 わりはない。科学的な態度で健康を維持し、それぞれの目標に向かって前進を続けて貰いたい。 平成21年1月8日(木) 藤 棚 第219号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 明るく生きよう! 明日に望みを託して 校長 小川 義男 アメリカ発の不況に端を発して、我が国は今、空前の不況に見舞われている。新卒の内定取り消し の報道に接すると、4年前に本校を卒業して行った生徒達の将来が憂慮される。受験を目前にした3 年生も、将来に思いを馳せれば、不安に襲われることがあるのではないだろうか。 アメリカとの戦争に敗れた 1945 年当時、私達の中学校長(当時中学は5年制のエリートスクールで あった)は、朝礼の折、 「夜明け前が一番暗い」と私達を励ました。明けない夜はないし、止まなかっ た雨もない。「山より大きな猪は出ない」というユーモラスな諺もある。気を大きく持ち、明日に望 みを託して、この1年を明るく生きていこう。 3年生は今一番気が立っている頃であろう。しかし、親や家族に八つ当たりしたりしてはならない。 気が立っているからと言って、周りに当たり散らすくらい心貧しき振る舞いはない。自戒して、平素 以上に周囲の人々を大切にすることだ。修羅場の中でこそ、「乱にいて治を忘れぬ」冷静さを学び取 るべきなのである。 1、2年生にも聞いて貰いたいことだが、受験もこの時期になると、どうしても「易きに」つきた くなる。推薦入試で、仲間の進学先が決まったというようなことを耳にすると、実力以下の大学で良 いから、早く自らの進路を決定してしまいたいとの衝動に駆られる。それではいけない。敗北を恐れ てはならぬ。「挫折とは新しい可能性の出現である」とは、私が常々強調することだが、若者はむし ろ、易き勝利よりは敗北を賭けても、困難な挑戦をこそ選ぶべきなのである。 戦って敗れるのは敗北ではない。本当の敗北とは、戦わずして敗れることなのだ。戦えば人間は必 ず成長できる。戦わざる敗北、目標を切り下げての「実感を持てぬ勝利」をこそ、私は本当の敗北と 呼ぶのである。 ともあれ新年である。1年、2年、3年、それぞれ諸君は、今年をどう生きようとしておられるで あろうか。年頭に当たり私は、 「常に何かを見つめて生きよ」と呼びかけたい。 生き甲斐とは、一つの目当てを持ち、その達成に向かって努力する中でこそ獲得できるものである。 私は「幸福」とは、生き甲斐の別名であると信ずる。 私はすでにかなりの年齢であるが、今も何かを見つめて生きる姿勢は失っていない。 2学期が終わってから、イベリア半島を旅行した。そしてスペイン、ポルトガルが中南米諸国に対 して、どれほどの略奪、暴虐を繰り返してきたかを痛感させられた。 また思ったのは、現代の常識なるものに対する底深い疑問である。たとえば第二次「世界大戦」と いう言葉がある。この言葉を聞けば、あたかも世界中の国が、戦いに参加していたような錯覚に陥る。 だがスペイン、ポルトガル、中南米の国々は、第二次世界大戦には参加していない。だから「世界大 戦」という言葉、“World War”は、決して正確な概念ではないのである。 スぺインの豪華絢爛たる伽藍は、そのほとんどがコロンブス以後、中南米を搾取、略奪することに よってもたらされたものである。その延長上から考えれば、我が国で聖人とたたえられたフランシス コ=ザビエルでさえ、実はアジアに対する植民地支配達成の尖兵だったのではないかと考えられるの である。ザビエルの人格的気高さと、彼に本国が期待したものとは、全く異質だったのではないだろ うか。 私は社会科学の学徒として、絢爛たる伽藍の中に立って、このあたりを徹底的に研究していかなけ ればならないと痛感したのである。 生徒諸君は、何を見つめてこの1年、これからの人生を歩んでいかれるであろうか。帰国して久々 に我が国のテレビに接した。チャンネルをどこまで変えてみても、その文化的低劣さ、愚昧さには、 すっかり暗い気持ちになってしまった。NHK でさえ、不必要に大衆迎合の傾向を帯びてきているよ うに思われてならない。まさに「一億総白痴化」と言うべき文化様相である。 諸君は青年知識人である。このような低俗番組を、疑念もなく楽しんだり、笑い転げたりしていて はならない。もしかすると、日本のテレビは、世界でも一番、愚劣低劣であるかも知れないのである。 英字紙を読めるようにするのも良い。読解力を養い、優れた古典に接するのも良い。世界史、日本 史に精通すべく努力するのも良い。スポーツや音楽に青春を燃焼させるのも良い。すでに若くない私 は、諸君の有する無限の可能性を羨みつつ、新年に当たって諸君にこれからの人生に常に何かを見つ めて歩んでいく姿勢を堅持することを願ってやまないのである。 平成20年12月20日(土) 藤 棚 第218号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 風邪に備えよ 校長 小川義男 「朝日と共に起きてきて、夕陽と共に寝てしまう。 」 新型インフルエンザの爆発的流行が心配されている。本来は鳥だけに流行するものらしいのだが、 直接人間にも感染するように突然変異することがある。その可能性が今年は著しく強まると憂慮され ているのである。死亡率が極めて高いし、特効薬もない。万一に備え、学校としていかに対処するか、 目下検討中である。具体策が決まり次第、諸君や保護者にお知らせする。今日は私なりに風邪に対す る予防策を述べてみたい。 一番大切なのは睡眠を適正に取ることである。欧米の青少年は、夜10時には就寝する習慣が確立 しているそうである。私も10時過ぎに起きていることはない。そもそも、その頃になると、眠くて 起きていられないのである。だが諸君の相当部分はそうではない。夜中の12時に寝たり、中には朝 方の2時3時に眠りにつくという人も多少いるようである。これでは健康は維持できない。若いから 無理をしても、直ぐ病気になるようなことはないが、長い間にこれが影響してくる。私が高齢である のに心身の衰えを全く感じていない理由は3つあると私は思っている。それは酒を飲まないこと、タ バコを吸わないこと、よく眠ることの3つである。この3つは諸君も真似できるのではないか。 兎に角、夜10時には眠るという習慣をつけて貰いたい。翌朝早起きするのはよい。要するに太陽 と一緒に行動するのがよいのだ。「南の島の大王 カメハメハ」は「朝日と共に起きてきて、夕陽と 共に寝てしまう。」このように生活するのが、心身の健康のため最も望ましいと思われるのである。 どうだろう、「夜の孤独」を愛する夜更かし小僧諸君、何とか生活を切り替えて貰えないものだろう か。 陽光と湿度 次に、これから大切なのは陽光と湿度である。湿度を保つことはなかなかに難しい。加湿器などと いうものもあるが、雑菌が入りやすかったり、良質なものを手に入れるのは容易ではないが工夫して 欲しい。一番良いのは、常に湯を沸かしておくことなのだが、安全の面で心配もある。昔は家に火鉢 があり、鉄瓶がチンチンと音を立てていたのだが、あれを再び取り戻すことは難しかろう。私は風邪 を引く危険が迫ったなと思うときには、バスタブに湯を張り、朝まで風呂場のドアを開け放っておく ことにしている。 陽光は風邪の黴菌(ウイルス)を殺すため、何よりも有効である。関東の光はきついから、常に陽光 を取り入れることは難しいのだが、私は留守にするときにはカーテンを全開しておく。校長室もでき るだけ開け放って陽光を注ぎ込ませるようにしている。 昔若者の相当数は結核で死んだ。「三軒長屋の真ん中には死人が出る」と言い伝えられ、事実その ようなケースが少なくなかったのだが、それは、三軒長屋の真ん中の家には陽光を取り入れにくかっ たためである。そのため結核菌が殺菌されず、多くの人が肺結核で死んだのだ。平均寿命が延びた大 きな原因のひとつは、医学の進歩により、若者が結核で死ぬことがほとんどなくなった事である。陽 わきま 光と湿度の大切さ、これをしっかりと 弁えておいて欲しい。 栄養も大切だ。好き嫌いはいけない。これも努力次第でかなり改善できるものだ。野菜嫌いが一番 いけない。これは自分で努力して直せ。さもなければ君は、長生きできないぞ。ビタミンの問題もあ るが、私は繊維質が腸の体調を整えるのだと思っている。先日スーパー行ったら長芋が売られていた。 急にこれが食べたくなり、買って帰り早速食べたのだが、おそらく長芋に含まれている微量な無機質 を身体が求めていたのではないかと思う。 肉は控え魚を食べるようにしろという医学者が多い。あれは嘘だと思う。私の経験では医学者は案 外いい加減なことを言うこともある。肉の消費量と我が国での寿命との間には相関関係があるくらい だから、魚も大切だが肉も大切なのである。私も肥満防止のため肉を控えて魚ばかり食べようとした おとな ことがあるが、どうも魚ばかり食べていると人間が温和しくなってしまうように思う。学問も職業も、 所詮は戦いなのだから温和しくなってしまってはおしまいなのである。スポーツも勉強もそうではな いだろうか。 しょうけつ いずれ新型インフルエンザが 猖獗を極める時期が到来するかも知れぬ。学校は学校で最善の措置 を取るが、要は体力である。昔スペイン風邪が流行し、莫大な人が死んだと伝えられるが、その時に も身体強健な人々の多くは罹患を免れた。病気や伝染病に負けぬ身体を作っておくことが大切なので ある。 良い年末年始を 間もなく大晦日、そして新年。誰もが新しい日記を買い、来るべき一年を有意義に過ごそうと決意 する。カレンダーも新しくなる。 真似をして貰っては困るが、私は元日の早朝は、車で都心、特に皇居の周囲をドライブすることに している。人がほとんどいないから、都心もまるで別な世界のように変貌するのである。 初詣でなどというのも、我が国古来の伝統である。美しい娘が和服に着飾って破魔矢を手に持って いたりするのを見ると、何とも幸せそうで嬉しい。昔、元日の電車で、結婚した友人が、破魔矢を手 にした新妻を伴っているのに出会ったことがあるが。幸せそうで羨ましかった。彼も、 「自慢の新妻」 を私に見せることができて嬉しそうだった。私は、あのような「驕り」を味わうことなく人生を過ご してきたが、それだけに、あの2人は今どうしているかなあと懐かしまれる。「驕り」には、色々な 意味がある。与謝野晶子の次の歌を紹介しておこう。 は た ち その子二十歳 くし 櫛に流るる黒髪の 驕りの春の 美しきかな では諸君、よいお歳を。 平成20年12月1日(月) 藤 棚 第217号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 高校生の勉強する権利 勉強しない権利 校長 小川 義男 高等学校は義務教育ではないから、勉強する権利もあるが勉強しない権利もある。私はそう思って いる。それどころか、学校に来ない権利だってある。 先生方は、学校に来なくなった生徒がいると、夢中になって家庭訪問をしたり、電話を掛けたり、 あらゆる努力を重ねる。見ていて目頭が熱くなる。しかし考えてみれば、これも無理に学校に連れて くる必要はない。「どうしても出てこい」ではなく、「どうなさいますか」が原則だと私は思うのであ る。学校に来ようが来まいが、それは自己責任だ。教師や学校がやきもきする問題ではない。 しかしそうは言っても、事はそれほど簡単ではない。私自身、中学高等学校の6年間に、学校を辞 めたいと真剣に考えたことが2度ある。1度目は中学3年の時、2度目は高校2年の時だ。2度目は 相当真剣に考えたが、担任がどうしても納得しなかった。井出という本当に素晴らしい先生であった。 彼の存在がなければ、今日の私はなかったかも知れない。 諸君の誰かが学校を辞めたいと言い出したとき、建前はどうであろうと、結局私も必死になって辞 めないよう説得するのではないかと苦笑する。 しかし高校生に「勉強しない権利」もあることを、教師は胸中深く刻み込んでいなければならぬ。 生徒は、ほかに何か夢中になりたいものを持っているかも知れぬし、ここしばらくは遊んでいたいと いう気持ちになるかも知れぬ。だから、今勉強していないからと言って、その生徒が、学校生活から 疎外されるようなことがあってはならないのである。 特進コースにも「さぼりたい奴」が時折出現する。厳しく勉強する約束ではなかったのかと、教師 は「頭に来る」。しかしそれは、どのコースの生徒だって同じだ。もともと、しっかり勉強しますと 約束して入学して来た諸君である点で変わりはない。 私自身は、文学、哲学に熱中して高校生活を過ごした。その方面の知識、識見は、既に当時の教師 りょうが 達を凌駕していたかも知れない。しかし数学の実力は、からきし駄目だった。よくあれで国立大学の 8科目入試を突破できたものだと思う。 部活、趣味、その他様々な理由で、勉強したくない生徒も、真面目に生活する限りそれで良い。高 校生には「勉強しない権利」もあるからだ。 だが、青春のこの3年を、勉強せずに過ごしたツケは相当高くつく。これからは、特に好むのでな い限り専門学校に進学する必要はない。えり好みさえしなければ、大学に進学すること自体は確実に 可能だからである。 しかしその後が大変だ。勉強を手抜きして遊んで暮らせば、いわゆる難関大学に進学することは難 しい。入りやすい大学だって、そこで真剣に勉強さえすれば、人生の先頭を切って突き進むことが可 能である。 だが、これ以上の公平さは望みようがないほど公平な、18歳の時の入学試験に、充分努力しなか った者が、大学入学後に、果たして本当に真剣に勉強することが可能であろうか。 先日、英語と数学の教師を採用すべく「採用試験」を行った。大変な倍率であったが、点数がほと んど取れていない人が大多数であった。ごく少数、極めて優秀な人々がいた。その人々は採用され、 4月から諸君を指導することになる。 だが、このように優秀な人々は極めて少ない。「今の大学生は、大学で一体何を学んでいるのか」 まことに慨嘆久しい思いを味わわされたのである。「世の中に足りないものはポストではなく人であ る」とは、常々私が語っていることであるが、採用試験の折に私は、いつもこのことを痛感する。 高校生に勉強しない権利はある。勉強したくなければしなくとも良い。何なら学校を辞めて行って も良い。だが、その諸君は、腹の底深く刻み込んでおけ。勉強しない人間は「知的な分野」で職業に つくことは出来ないということを。 「なあんだ。結局先生は、『高校生は勉強しろ』と言っているだけじゃないか。」諸君はそう思うか も知れない。「ばれたか」と言いたいところだが、必ずしもそうではない。知的な職業だけが尊いわ けではないし、世の中で下積みの仕事を支えていくことにも、また生き甲斐があるからである。 但し、知的な職業に就きたいと言うのであれば、勉強もせずに、それを望むというのは虫が良すぎ る話である。このことだけは、はっきり申し上げておこう。 年の瀬も近い。大晦日は、人それぞれが、来し方行く末に思いを馳せるところに、その本当の意義 がある。諸君それぞれが、その高校生活をいかに展開するか、しみじみと考えて貰いたいと願うので ある。 平成20年11月1日(土) 藤 棚 第216号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 精神の自己管理の知恵 校長 小川義男 鬱病とはどんな病気か、よく分からないが、毎日の生活に生き甲斐や喜びを感じず、憂鬱になって しまう病気であるらしい。もし自分がそうなったら、どんなに辛いことであろうか。 そのほか「登校拒否」とか「引きこもり」等という問題もある。「登校拒否」という言葉は最近で はあまり用いられない。「不登校」と呼ぶのだそうである。これであれば、学校に来ていないという 事実を示すだけなのであって、そこに非難の要素は感じられない。小学校の教頭を務めていた頃、 「私 達の子どもは登校できないのではなく、学校に行かないことを選択しているに過ぎないのだ」と述べ た保護者がいた。「そんなことを言えば、俺だって出勤しないことを選択したい日は、幾らもあるわ なあ」と思ったものである。 ある意味でこれは、豊かな時代が生み出したものかも知れない。今日食べる米が家にあるのかどう かが心配だった私の少年時代には、食事にありつけるだけで、それはもう大変な喜びであった。憂鬱 になったり、部屋に引きこもっていたりする余裕はなかったのである。 「昭和30年代の生活に戻ろう」と呼びかける文章を最近読んだ。生徒諸君や保護者の皆様には、 それは大変な昔であるように感じられるだろう。だが私にとっては、昭和30年とは、ちょうど大学 を卒業する頃、22歳の頃である。 ご飯にみそ汁、魚の一切れか目刺しの二匹、それに漬け物、というのが当時の食生活であった。諸 君も実際に、そのような生活を数日続けてみたら良い。これがなかなかに、おいしく快適な食生活な のである。食べ過ぎず、少し食い足りないかなあと思うくらいで辛抱しておくのが、「昭和30年代 の食生活」である。 三度三度の食事が本当に楽しみであった。もしかすると本当の豊かさとは、適度の貧しさの中にこ そ存在するものなのかも知れない。 最近の「引きこもり」は、学校を卒業した後にも、そのまま続けられ、最近では30歳、40歳の 引きこもりもあると聞く。そのような家庭の親は、悩み苦しむのであろうが、何よりも心配なのは、 「この子を遺して、この子よりも先に死なねばならない」事であろう。人は「愛に生きる生き物」で ある。子の親に対する愛は、親孝行の教育をしっかり教えておかなければ、子が親を必要としなくな った段階で「終了」する。だが親の愛はそうではない。 それだから親は、自分たちが死んだ後にも、我が子がしっかりとその人生を歩いて行ってくれるこ とを切に願うのである。その我が子が「引きこもり」になってしまったら、どれほどに辛く悲しいこ とか、誰にも理解できるであろう。 だから、親ばかりでなく本人も、若者ばかりでなく、我々のような大人達も、人生に生き甲斐を感 じなくなったりせぬよう、自らの精神の自己管理に、叡智ある姿勢を保たなくてはならないのである。 ひと月ほど前、私は悪夢に悩まされた。様々な種類の悪夢だが、私のように、本来世間に怖い物な どないはずの年齢になっても、生きることは相当に難しい、それは中々の重荷なのである。最近また、 楽しい夢を見るようになった。あるいは気づかぬまま、身体のどこかが不調になっていたのかも知れ ない。 人間は、常に科学的な姿勢で精神を自己管理しなくてはならないと思う。どうも人が健康を維持す ることができるかどうかは、精神の自己管理に直結しているように思われるのである。 ひとつは、適切な目当てを持って毎日を生きることである。幸福とは、目標を持ち、その実現に向 かって努力するプロセスにのみ存在する情緒なのではないだろうか。友情とは、互いが希望を持ち、 その実現に向かって努力する間のみに成立する。老人間に友情が芽生えにくいのは、また、これまで の友情を維持し続けにくいのは、老人が前途に希望を失いやすいからではないかと私は思うのである。 今ひとつ、身体を使うこと、汗を流すことである。女子バレーボール部の生徒達が、下校時間が迫 る頃、洗面所で汗をぬぐったり、床の段差に腰掛けたりして談笑しているのをしばしば目にする。何 と健康な姿だろうと、私は畏敬の念を抱く。あのように身体を完全燃焼させている人々には、鬱病な ど無縁な存在なのではないだろうか。 その点で運動部とは本当に素晴らしいものだと思う。また文化系統の部活であっても、顧問は部活 動の前、あるいは後に、市内を駆け足させるくらいの知恵を持ったら良いのではないだろうか。部に 属さない生徒は、歩行の絶対距離を伸ばすとか、休日には小登山に出かけるとか、様々な工夫を凝ら すと良い。 また、生き甲斐を失わないようにするためには、断食も良いと私は思う。私は贅沢になりがちな自 分を戒めるために時々断食する。三食は無理だが、二食くらい抜いても、強健な私の身体はびくとも するものではない。お勧めするわけには行かないが参考になさってみてはどうか。節食あるいは絶食 の後に食べる食事の中から、諸君は、これまで経験したことのない生き甲斐、生きる喜びを感じ取る のではないだろうか。 私は物不足の時代に育ったせいか、食べる物に贅沢になりがちである。旨い物ばかり食いたがるの で、山崎教頭などは、心の中で私を軽蔑しているかも知れない。もしそうなら、健康なのは彼の感覚 である。旨い物は空腹と背中合わせにしか存在しない。汗まみれになって、たどり着いた頂上で食う 握り飯がどれほど旨いものか。 豊かさとは貧しさと共にしか存在しないものであることを、今我々は改めて認識しなければならな いと思うのである。 あとひとつ。人と語り合う事である。良き聞き役に徹することだ。人は聞き手よりは語り手に回る ことを好む。少し自分を抑制して、相手の語りたいことに耳を傾けるならば、必ず諸君の回りには、 沢山の優れた友人が集まってくる。譲ること、愛することが、愛されることにも直結するのである。 平成20年10月1日(水) 藤 棚 第215号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ め い そ う じ ょ う き 明窓浄机 校長 小川義男 明るい窓の所に机を備え、その上をきれいに拭いて座り、「さあ、これから読むぞ」と書物を開い たときが、中国の知識人の至福の時だったという。私はこの「明窓浄机」という言葉が好きである。 したん 良い机が欲しくて、外国を訪ねるごとに物色を重ねた。紫檀の机が欲しかったのである。「まあ贅沢 な」と笑われるだろうが、一点くらいの贅沢は許されても良いのではないか。 夏休みにバンコックを訪ねたとき探し回ったが、紫檀の机はどこにもない。紫檀は Rosewood だと 思って尋ねたが、店の人が出してくるのはすべてカリンの机ばかりであった。カリンも美しいが、私 はどうしても紫檀が欲しい。しかし、結局どこを訪ねても紫檀の机を手に入れることはできなかった。 特注するにしても、今は中国の雲南省くらいにしか原木がないのだそうである。 小学校時代の教科書に、明治陛下のご使用になった家具の説明が書かれてあった。その中に、陛下 がお使いになった机のことが登場する。 「そは、紫檀にも黒檀にもあらずして、ただ黒き塗り机なり」 もんごん との文言である。紫檀の机を探し回りながら、私はその一文を思い出して恥ずかしくなった。「貧乏 人が何を贅沢な」と思ったのである。しかしまた、質素に暮らしている自分なのだから、ひとつくら いの贅沢は許されて良いのではないかとも思った。洋机が駄目なら、座り机でも良い。畳の上にそれ を据え、正座して孫子など読んだら、どれほど素晴らしかろうと思う。 酒が飲めない私だ。健康が許さないのではない。酒を旨いとは思わないのだ。だから、バーやキャ こうとうのちまた バレー等「紅灯の巷」には何の関心もない。たまに「都会」に出たくなって銀座を歩いたりするが、 私には行きたいところが全くない。書店を歩いて少し疲れ、後は回転寿司を食べて帰ると言うような 「生活スタイル」なのだ。我ながら愛想が尽きてしまう。何と世間を狭く生きている人間なのだろう。 これでは人間に幅が出てくる筈もない。人が好きになってくれるはずもない。それを慨嘆しながらレ ッドアローに揺られて帰るというのが、私の休日の過ごし方なのである。 生徒諸君は男子にせよ女子にせよ、将来もっと幅広く豊かな人生を送られるのであろうと思う。そ れはそれで素晴らしいことだ。私は自分にはできない、そのように豊かな人生の過ごし方を羨ましく 思う。 きょうがい しかしまたその一方で、若い諸君にも、この 「明窓浄机」の境 涯をそれぞれの人生に取り入れて 頂きたいとも願う。 しょか できれば書架も備えて欲しい。そこに文学、歴史、思想、哲学等の書籍を備え付けて欲しいのであ る。文学史、思想史等の本も忘れぬことだ。今読むのでなくとも、手を伸ばせば届くという所に書籍 を備え付けておくことは、その背表紙を見ているだけで、諸君の思想的奥行きは広がるのである。 長い人生だ。人は孤立することもある。讃美歌にも「世の友 我らを 捨て去るときも」との一節 があった。しかし、どのような孤独にも耐えて生き抜いて行かねばならないのが人生だ。 どのような孤独、孤立の中に身を置こうとも、千古の思想、哲学が諸君を見捨てることはない。世 人は我々を見捨てようとも、時代を超えて天才と交わることはできる。それが読書なのである。 「明窓浄机」の心を保ち、書物の中にもう一つの人生を確保できる者が知識人である。月清い秋の き 夜長を、読書に浸り、来し方行く末に思いを馳せてみよう。深みのある成年知識人こそ、諸君の明日 の姿でなくてはならない。 平成20年9月1日(月) 藤 棚 第214号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 読書の秋に 校長 小川義男 初秋だと言うのに、快晴の空とは行かない。連日の長雨だが、せめて新学期初めの9月1日だけで も晴れてほしいと願っている。ともあれ、諸君の誰もが元気に新学期を迎えられたことを喜びたい。 但し、中には事情があって学校をやめた人もいる。その人の明日に、一層の幸せが訪れるよう祈りた い。 また、1年A組の林誠太朗君は、この休みの間にお父様を病気で失われた。私は旅行中の事とて、 ご葬儀にも出席できなかったが、諸君と共に、ここに深くお悔やみを申し上げる。若くして父親を失 うことは、耐え難いことであろうとは思うが、同君が悲しみを乗りこえ、ご家族と共に、しっかりと 人生を歩んでいってくださることを切望する。 し な 「天高く馬肥ゆる秋」と言う。但しこれは一般に使われているのとは意味の異なる言葉である。支那 (China)の言葉なのだが、秋になり気候も良く馬が肥えて元気になる季節になると、その元気な馬に 乗って隣国が攻め込んでくるから、これに対して用心深く備えよ、という意味なのだそうである。言 葉の持つ面白さと言えようか。 こく てい それにしても天高く澄み切り、「たたけばカンカン音のする空」(昔の国定国語教科書に登場した 詩の一節) を見上げたいものである。 3年生は、それぞれの進路に向け努力している頃と思う。一般入試に向けて全力を尽くしている人 が多いことであろう。大いに頑張って欲しい。準備が不十分だと思う人も少なくないと思うが、入試 に完璧な準備などと言うことはない。みんな合格してから「あの程度の準備で良かったんだなあ」と 思うものなのである。まだ半年ある。半年あれば大抵の大学には合格できる。どうか全力を尽くして 欲しい。但し、これからの期間は、少しでも気を緩めてはならない。目標を切り下げたいとの衝動に 襲われるのもこれからの時期だが、自己内面の弱さと戦い、大いなる目標に向け全力を尽くしてもら いたい。 私はどういうものか、高校3年の一年間は遊んでしまった。振り返って考えてみれば、まことに惜 しいことであったと思う。但し、これにはプラスもあった。あの怠惰性、辛いことは先送りしようと いうあの図太さには、精神的なずるさ、強靱性も隠されていたように思うからである。その後私は、 教師としては異常とも言えるほど波乱に富んだ人生を歩んできたが、その前後を通じて精神的に参っ てしまわなかったのは、あのような野太さがあったからだと思う。怠惰も決して、短所であるに終始 するだけのものではないのである。 だが、どこの大学に進むかということは極めて重要だ。人は教師からも多くを学ぶが、最も大切な のは、仲間の思考方法や発想から学ぶことである。若者に取り、優れた仲間の中で青春を過ごすこと おもは は極めて大切なのである。また誇りを持てるような大学の学生として過ごす青春は、面映ゆいほどの 喜びを諸君にもたらすはずである。「力を尽くして狭き門から入る」それが3年生にとっての最大の 目標であろう。 今春本校を卒業した水村君が東大に合格した後、ある先生が、「水村君、東大にも合格したけど、 あなたはこれから入学までの日をどのように過ごしたいですか」と聞いたそうである。彼は「ゆっく り数学の問題を解きたいと思います」と答えたというから、秀才とはやっぱり大変なものである。し かし彼は、入試を離れてしみじみと大好きな数学に浸っていたかったのであろう。本校生徒のある団 体への入選川柳に「数学め、一体おまえは何なんだ」と言うのがあったが、これはこれで味わい深い。 並の作品ではないから、彼も相当の人物なのであろう。まさにそれぞれの青春と言うところであろう か。3年生全員が、所期の進路目標を達成されるよう願って止まない。 2年、1年は長期戦に備えることができる。今忘れてならないのは読書であろう。その段取りにつ いてはここに触れないが、人が成長するのは読書と思索、そしてそれを可能にする孤独の中において である。 青春である。諸君はこの後十年間くらいの間に配偶者を獲得しなくてはならない。だから、その第 一段階として友人との結びつきを求めることは私も理解できる。しかし私の経験では、友から得たも のは意外に少ないようである。人は孤独の中においてこそ大きく成長するものなのだ。携帯でのコミ げ げ ュニケーションに大きく時間を割かれるなどは、「下の下」である。孤独を恐れず、むしろそれを愛 して読書と思索を深めて欲しい。 やがて快晴の秋が訪れる。友人と山登りに出かけるのも一つの方法であろう。危険な山でさえなけ れば、男子なら一人で出かけても良い。山中に深く己を見つめるのも味わい深い人生ではないだろう か。 各学年の諸君が、その時期でなければ果たし得ない課題に挑戦してくださることを切望する。 平成20年7月19日(土) 藤 棚 第213号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 騙されぬ賢さを 校長 小川義男 フィリピンで海老を養殖すると大金が儲かるとの話で、莫大な金を騙し取った男がいる。テレビで 見る限り容貌もまことに醜く、「この男ならそれくらいのことをやるかも知れない」と思わせるよう な不快な顔つきをしている。騙し取った金は数百億、一部は押し入れなどに隠していたというのだか ら、腹を立てる気にもならない。 この件でテレビに登場した被害者達の弁護士が言っていた。「18%もの利益配当ができるくらいな ら、銀行が金を貸すでしょう。銀行から低金利の金を借りれば、もっともっと儲かる訳なのだから、 銀行から借りれば良いのです。それを高配当で一般の人から金を集めると言うのだから、それだけで おかしいと気づく筈なのですがねえ。」 騙されたのは、小金を蓄えている年金生活者が多かったようである。知性乏しきままに大儲けを夢 見て、すってんてんにされてしまったと言うのだから、笑うに笑えない。さりとて同情する気にもな れぬ。全く馬鹿げた被害事件である。 しかし高校生にも、この手合いに騙される人間が少なくない。東京の街を歩いていると、「アンケ ート調査」なるものにしばしば行き会う。声を掛け、少し離れたビルの中かどこかでアンケートに答 えて貰いたいと言うのである。その後半では、先ず例外なく物品購入を勧められることになる。多く の場合、半ば強制的である。もともと育ちの良い高校生達だから、人を疑うと言うことを知らない。 言葉巧みに、大儲けができるとか、一夜にして目を見張るような美人に変貌するなどと勧められ、投 資話や化粧品の購入を押しつけられたりするのである。 そのような場合、必ずローンの契約書の締結を求められる。未成年の法律行為は法定代理人の同意 がなければ取り消すことができるのだが、彼らはその当たりも心得ていて、上手に契約上の責任に「被 害者」を追い込んでいく。忘れてならないのは、締結されたローンは、個人の借金として長く「被害 者」の生涯につきまとうものだと言うことである。 しかし、人はどうしてこれほどまでに騙されやすい存在なのであろうか。人間はそれほど人を信じ やすいものだと言うことなのであろう。悪いことではない。むしろ人間の素晴らしさと言うものであ やから ろう。それだけに、そのように善良な人間を騙す 輩 を許すことが出来ないのである。 「振り込み詐欺」というものが未だ存在する。この頃ではこれを「振り込め詐欺」とよぶのだそう だが、この点も頭に来る。どうして民族伝来の言葉に、これほど軽々しく変更を加えるのであろうか。 このような軽薄さ、思想の薄っぺらさは、世の中の随所に見受けられる。買春は「バイシュン」と呼 ぶのが正しい。しかし売春、買春を区別するためとかで、これを「バイシュン」、「カイシュン」の 二つに分ける傾向が流行している。「カイシュン」では音訓混交でもある。まことに情けない文化の 軽薄さぶりだと言うべきであろう。「大蔵省」を「財務省」にしたり、「文部省」を「文部科学省」 にしたりと言うのも同根である。とんでもない枝葉で憤慨して失礼した。 その「振り込み詐欺」だが、これなどは、家族の安否に冷静さを失った人間の取る行動であるだけ に、気持ちも分かる。犯人を憎む気持ちもひとしおである。政治はこれに厳罰を以て報いる姿勢を確 立して貰いたい。 高校生諸君は、とにかく騙されない賢さを身につけることだ。騙されない賢さを私は知性と呼ぶ。 ところで諸君は、世の中で最も騙されやすい職業は何だと思うか。ある無責任な資料によると、そ れは医者だそうである。金がたっぷりあるせいでもあるまい。医者が騙されやすいとすれば、おそら くそれは育ちの良さに由来するものであろう。 二番目は何だと思うか。笑ってはいけないよ。それは警察官なのだそうだ。その理由は、ここには 省略しよう。三番目が教師である。中でも校長は最も騙されやすいというのだから、いやはや何とも コメントのしようがない。教師の詐欺被害事件の場合、加害者の多くは教え子だというのだから恐れ 入る。諸君、よろしく頼む。 夏である。被害は金銭問題だけではない。特に女生徒に思いがけぬ災難が降りかかりやすいのもこ の時期だ。夜間の外出を控えるなどは当たり前の話。服装も性犯罪を誘発しない程度に抑制するのが 当然の知恵、知性というものであろう。 騙されぬ賢さを身につけ、秋風の立つ頃、互いに元気な姿を見せ合おうではないか。 平成20年7月3日(月) 藤 棚 第212号 狭山ケ丘高等学校 学校通信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 高い目標 正しい学習方法 校長 小川 義男 戦って敗れることは敗北ではない。敗北を恐れて戦いを展開することは出来ないし、 真剣に戦って敗れる場合には、敗北の中から新しい教訓に到達することができる。諸君 は若いし、その教訓を次の戦いに生かせば、次の偉大なる勝利に繋げることができる。 「あの葡萄はすっぱい」と逃げた狐があったが、イソップ物語の愚を繰り返してはなら ぬ。この大学と定めたら、絶対にそれを変更せず、最後まで力を尽くし続けることだ。 聖書にも「激しく攻める者は天国をも奪う」とあるではないか。 一、二年生は、小さな目標を抱いてはならぬ。大きな志を持って進め。「人生は卑小 に過ごすには短すぎる」と語ったのは、イギリスの大宰相ディスレリーである。 三年生はどうしても目標を切り下げ「もうこのあたりで安住したい」との気持ちにな りがちである。私はある時、本校の青年教師に尋ねた。平素から私が畏敬の念を抱いて いる教師である。「東大に合格するため大切なのは先天的能力ですか、それとも努力で すか。 」彼は答えた。「強いて言うとすれば、それは『こつこつ努力し続ける』という才 能ではないでしょうか。」『こつこつ努力し続ける』ことを才能と捉えた点に、彼の答え の絶妙さがある。 「そう言えば東大に現役合格した水村もそうだったかも知れないなあ」 と私は思った。 しかし彼の説に従うとしても、『こつこつ努力し続ける』才能なら、頑張り方によっ ては誰にも身につけることができるのではないだろうか。 三年生は、必ず所期の目 標に立って努力し続けよ。夏休み前である。時間は充分にある。指定校や推薦に逃げよ うとしたり考えるな。厳しく自らを鞭打って『こつこつ努力し続ける』才能を身につけ るのだ。 大切なのは学習方法である。県内屈指の進学校である本校の場合は、先輩から後輩 への「勉強方法の継承」も行われているに違いない。優れた先輩の知恵や経験に学び、 自らに適した効率的な学習方法を確立することだ。 「英語は単語だ」ということがしばしば語られる。しかしそれは間違いである。単語 習得のみを重視して学べば必ず失敗する。単語は長文読解を進める中で、結果的に身に つけていくべきものなのである。 クラウンリーダーの三冊を徹底的に読み返して見たまえ。これを反復音読し、すら すら暗唱できるようにすれば、構文も単語も英文法も確実に身につけることができる。 その際に単語集を活用することは無駄ではない。(但しあまり役には立たぬ) 英文法も 第一ページから読み進むのではなく、リーダーを読んでいて理解しにくいところにぶつ かったら、その部分だけを集中的に読んでみることである。そうすれば、第一、インタ レストが違うし、英文法を深く理解することができる。 いわゆる「英頻」が隆盛を極める本校である。あれは下級大学の受験には役立つが、 難関大学の場合は、後に参考程度に目を通すくらいでよい。あのように微細な点に深入 りしていたのでは、長文読解の底力を養うことができない。先ずクラウンを徹底的に理 解することだ。その上で更に他の参考書に手を伸ばすのであれば、できるだけ素材に長 文を扱っているものを選ぶと良い。入試に大切なのは語彙ではなく構文把握力である。 そしてこの構文が把握できるまで長文に親しんでいれば、必ず語彙も身に付いてくるも のなのである。 但し問題集に当たってみるのは良い。英文法、英作文等は問題集でこそ実力を身に つけることができる。 進路選定に限らず、英語の学習方法についても気軽に校長室を訪れて貰いたい。 国語力に必須なものは読書である。一、二年生は今のうちに大いに読書に親しんで 貰いたい。「あらすじで読む日本の名著」は読みやすい上に、文学史の入門書としても 格好である。我が国には、易しく読める文学史の本があまり見当たらない。私はいずれ 「肩が凝らずに読める日本文学史」のような本を執筆したいと考えているが、諸君は直 接書店に赴いて、比較的読みやすい日本文学史を手に入れる事である。 三年ともなれば、ゆっくり読書している暇はあるまい。そのためのひとつの方法が ある。読書を英書に切り替える事である。ある程度英語力がある人の場合は、平易な英 書を手に入れ、それを大量に読むことである。英語力が身につくと共に、平素の読書量 の不足を補うことができる。 読書量の蓄積がどれだけあるかは格別、国語に関しては問題集に当たり、熟慮の末、 問題を解いていくことで文章読解力を身につけることができる。国語で最も効果的なの は数多くの問題集に当たることかも知れない。 作文、小論文については、次号で詳しく論ずることにする。 ともあれ夏を無駄に過ごしてはならぬ。一年生にとっても僅か三回しかない高等学 校の夏休みだ。大いに努力し悔いのない、シミひとつ残らない美しい夏休みを過ごして 貰いたい。私自身の経験では、高校二年生の夏休みが一番強烈に印象の残る夏休みであ った。青春まっただ中の夏休み、それが二年生の夏である。大きな志を抱き、美しく充 実した夏を過ごすことだ。三年生にとっては、文字通り決戦の夏である。自己内面の弱 さと戦い、悔いのない高校最後の夏に完全燃焼してもらいたい。 私は、この夏は外国に出かけたりせず、車で北海道を「当てもなき旅」に出かける 予定である。先生方もそれぞれに予定を立てておられることであろう。お互い美しく充 実した夏を過ごそうではないか。 平成20年5月31日(土) 藤 棚 第211号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ これでは「孝の心」など育てられない 「後期高齢者医療制度」に見る政治の貧困 校長 小川義男 これは小泉内閣の時代に定められていたものなのだから、福田総理には気の毒だと言わねばならな い。それにしても「老人医療の切り捨て」とは、本当にひどい話である。このように世代間の断絶が 深められて行く中で、「親孝行の教育」など、不可能になってしまうのでではないだろうか。 75 歳以上の人間を、一般の保険から切り離して「隔離」するのだそうである。「後期高齢者」は、 国民保険から切り離されて老人独自の保険に「収容」される。中には働いている高齢者もいるのだが、 この場合も職場の共済組合等から切り離されて、後期高齢者グループにひとまとめにされてしまう。 高齢者からも組合費を徴収するのだが、その金額はこれまでに比べて特に高くなるというわけでは ない。国や若い人々の保険から相当額の金が「寄付」されるという構造らしい。それなら、これまで 通り国民健康保険や共済組合に加入させたまま、「ゆりかごから墓場まで」という社会福祉の原則を 貫けばよいではないか。働き続けている「後期高齢者」などは、元気だから働いているのであって、 それを排除して「高齢グループ」に組み込む必要など少しもない。 どうやら「小泉哲学」の狙いは別な所にあったらしい。つまり年寄りは病院に通いすぎるから、通 いにくくして、高齢者医療費を極力削減させたいというのが、本当の狙いらしい。 確かにそれにも一理ある。老人の中には、さしたる病気でもないのに医者通いをしているという人 間も少なくはない。私などは、高校生が近づいてきてくれるから、幸福な老人だと言える。だが一般 の老人にとり、若者と未来を語るなどということは不可能に近い。勢い病院に通い、そこを社交の場 にするというような傾向も絶無とは言えないのである。 しかし、高齢者と若い世代を(もっとも 74 歳未満だから若いとも言えないのだが)相互に対立する ような政策をとる以外に、医療費問題を解決する道はないものであろうか。 こんな非人間的な、心貧しき政策をとる以外に、医療費を削減する道はなかったのであろうか。 最近知ったのだが、マッサージにも健康保険が利くものらしい。マッサージもきわめて優れた治療 法ではあろうが、やらねば死ぬというものではあるまい。金がだぶついているのならともかく、こん な無理をせねばならぬほどに財政が逼迫しているのなら、マッサージ、指圧の類は、保険の対象から 取り除いてはどうか。同業者団体からの政治圧力のせいなのかも知れないが、このような圧力が幅を 利かせると言うこと自体、政権与党の賞味期限が切れていることを示している。 私はすべての医療について、初診料を 1 万円くらいにしたらどうかと思う。つまらぬ病気で医者に かかるというようなケースは激減するであろう。私は 36 歳の時、盲腸の手術を受けてから、薬を飲 んだことがない。医者にもかかっていない。風邪をひいたりしたことはあるが、自然治癒力を信ずる 私は病院には近づかない。健康食品とやらにも全く無縁である。もしかすると、私がいつまでも元気 であるのは、医者や薬に頼らないからであるのかも知れない。 また現在は、どんな高額の医療も保険で可能なようである。これも一定の制限を設けたらよいので はないかと私は思う。もちろんすべて保険でやるに越したことはないが、保険制度の維持そのものが 難しくなってきているのだから、きれい事ばかりは言っていられない。「ここから先は個人持ち」と いう限界を作ってでも、国民医療の全体像は守り通すことができる。 「年寄りは医療費を無駄に使う」と若者は思うかも知れない。私のような健康きわまりない老人も 同じ思いである。しかし、「世は情け、相身互い」というのが人間の美しい姿ではないか。若者もや がては年老いる。元気な老人も病に倒れるときがあるかも知れない。だから、国家の無駄を少しでも 省いて、国民全体をひとつにまるめた医療保険を守り抜いて行かなければならないと思うのである。 そもそも国の政治に無駄はないのか。老人いじめをしなければならないほど我が国は貧しい国家な のか。 最近児童生徒の数は著しく減少してきている。しかるに何ぞ、文部科学省は教員を二万四千人増員 するというのである。気は確かなのか。これで生ずる財政出増は 2,500 億である。これが無駄でなく て何が無駄だと言うのか。私は教育支出は、およそ一兆円削減することが可能だと考えている。 いわゆる「道路族」も、莫大な国費を浪費している。談合坂のサービスエリアは、まさに金殿玉楼 に近い。あの豪華さの陰に一体どれほどの利権が動いているのであろうか。 政治家は、もっと真面目でなくてはならぬ。この思いをまとめて私は「我が国の政治は日増しに悪 くなっている」という本を秋に出版したいと考えている。 若者と老人を分裂させては駄目だ。国家こそ、政治こそ、ひとりでに親孝行の子供が育つような環 境作りを進めなくてはならないと思うのである。 ここまで書いたところで、四川省の被害に悩む中国が、救援物資の輸送に自衛隊の飛行機を出して はもらえぬかと要請してきたという報道に接した。何と大胆な、何と素直な要請であろうか。一国が 他国の軍用機の支援を要請してくるなど、歴史にもまれな傾向である。数千年の友好関係を貫いてき た隣邦だからこそ、彼らも要請してくれたのであろう。私は中国人の懐の深さに驚いている。 ためらってはならぬ。四川省の民衆は今も生命の危険にさらされている。福田総理は、直ちに自衛 隊機を中国に赴かしめよ。そして日中千年の友好の基盤を確立したとすれば、たとえサミット直後に 総辞職しても、歴史に残る業績を果たしたことになる。「一内閣一政策」と言うではないか。私は心 から福田総理の決断に期待する。四川省の被災難民の皆様が、一日も早く立ち直ってくださいますよ うに。 平成20年5月1日(木) 藤 棚 第210号 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 学 校 通 信 http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/ 「少年に死刑判決」の正当性と必要性 校長 小川義男 犯行当時 18 歳だった、現在 27 歳の男に広島高裁は死刑の判決を下した。この問題に触れることは、 生徒諸君の思考を深めるためにも役立つと思う。また保護者各位、ネットで「藤棚」を読んでくださ る全国の皆様にも、参考にして頂けるのではないかと思う。 被害者の人妻は 23 歳であった。言うもおぞましい目的で、犯人は彼女を殺害した。生後 11 ヶ月の 幼児を床にたたきつけた後に絞殺した。死後の性的加害行為は「復活の儀式」であったなどと、荒唐 無稽なたわ言を今も繰り返している。当時同じ 23 歳だった若き夫の、嘆き、怒り、苦しみ、悲しみ は、どれほどのものであろうか。死を以て償うどころか、犯人は最高裁に上告した。反省する心は皆 無である。 最高裁は上告を棄却するものと確信する。裁判所は、被害者の無念、遺された遺族の悲しみと恨み を、国家と国民の名の下に、刑罰の形で、毅然として報復しなければならぬ。 かつて「女子高校生拉致、監禁、輪姦、殺害、コンクリート詰め事件」というのがあった。全く見 も知らぬ女子高校生にバイクをぶつけ、脅迫して某所に連れ込み、電話して友人達を集めて陵辱の限 りを尽くしたというケースである。犯人共は、41 日間、監禁、虐待、陵辱を続けた。トイレにも自 由には行かせてもらえぬ状態の末、この美人の女子高校生は絶命するのだが、犯人共は、彼女をコン クリート詰めにして遺棄した。犯人には高校生も混じっている。 主犯は 19 歳であった。少年法に照らしても確実に死刑に処して然るべきケースであった。このよ うに凶悪な犯人を死刑にできないのであれば、死刑制度は何のために存在するのか。殺害された女子 いしゃ 高校生の無念、怒り、悲しみはいかにして慰藉されるのか。彼女は今も成仏できていないかも知れぬ。 判決は確か懲役 12 年であった。おそらく今頃は、大手を振って社会の一角に棲息しているであろう。 少年であるが故に、その名前も顔も知る者はいない。彼らが今後、この種犯罪を再発させる可能性も 否定できない。 かくして少年は、いかに残忍な犯罪を行おうとも、絶対に死刑に処せられる事はないという確信が、 犯罪少年の間に定着したのである。 少年には未来があるから、更生、教育のために死刑は避けるべきであるとの見解がある。一概に否 定すべきではない。しかし間違いなく言えることは、今回の広島高裁の判決によって、今後、少年に よる、この種残虐な殺害事件は、確実に減少するだろうということである。考えてみれば、前記「女 子高校生コンクリート詰め事件」に際し、主犯を死刑に処していれば、今回のような事件は回避でき たかも知れないのである。少年だからと甘やかし続けた我が国裁判の精神衰弱が、その後の凶悪犯罪 を誘発したとすれば、その後の犯罪事件における被害者のみでなく、加害者に対しても申し訳ない次 第だと私は思うのである。 少年犯罪の八割以上は窃盗、特に万引きだと言われている。教師としての経験からも、万引きは淋 しい状態に放置されたときに発生しやすい。「つい、うっかり」というような可哀想なケースが万引 き事件には少なくないのである。そのような少年に対しては、取り締まることも大切だが、何よりも 彼らの再起、更生が重視されなくてはならない。だから少年法は、少年犯罪に対して極めて寛大な姿 勢で臨もうとするし、その更生に対しても最大限の考慮を払っているのである。犯罪少年の名前を、 犯行当時のみでなく、少年が成年に達した後も、氏名、容貌を公表することを禁じているのはそのた めである。 だが殺人、強姦というようなケースにおいても、少年をそこまで保護する必要はあるであろうか。 少年が高度の「犯罪能力」を示すようになった現代においては、私は殺人と強姦に関しては、少年法 の適用を除外すべきだと考えている。我が刑法は殺人の場合においても「死刑または無期、若しくは 三年以上の懲役」と幅広く裁量範囲を定めている。少年法に依存しなくとも、充分情状を酌量した判 決を下す事ができるのである。従って凶悪、極悪な殺害行為を行った場合は、少年法の適用を排除し、 例え十五歳であっても死刑に処す可能性を残すべきだと私は考えるのである。 世に「死刑廃止論」なるものが存在する。刑法学会では、この方が多数派であるかも知れぬ。深い かいり 研究と思索に基づくものではあろうが、国民大多数の傾向を著しく乖離している。学会多数派の傾向 と、国民大多数の傾向が極端に違うというのは、戦後日本の思想状況として、興味ある現象だと言う べきであろう。 私は死刑廃止論の底に潜んでいるものは、やはりある種の精神衰弱だと考えている。厳しさによっ てヒューマニズムを貫徹するのではなく、直接無媒介に、べたべた、優しくすることによってこそ人 間性は貫徹されるという、衰弱した精神の表れだと思うのである。 死刑廃止論を唱える学者に対して、「あなたの若妻が、侵入した暴漢に暴行凌虐の限りを尽くされ た後に殺害された。そのような事実を前にしても、あなたは死刑廃止論を貫くことができますか」と 尋ねてみたい。 えんざい 但し、冤罪であった場合は大変である。死刑執行の後では取り返しがつかないからだ。その意味で、 死刑を制度として廃止するのもひとつの考えではある。但しその代わり、「終身刑」の制度を設けな くてはならぬ。死刑に値する程の極悪犯罪を犯した人間は、その全生涯を刑務所に拘禁し、健康であ る限り労働に従事させるのである。もしかするとこれは、死刑より過酷な刑罰であるかも知れない。 近頃、囚人の待遇改善を主張する人々が少なくない。刑務所に暖房を入れ、食事を改善し、テレビ も設置せよと主張するような傾向である。「気は確かなのか」と言いたい。刑罰の本質は害悪を加え ることである。教育的側面はなくてはならぬが、あくまでもその本質は応報、報復だという事実を見 失ってはならない。 国家が犯人に、適正な報復を行うことができないようになれば、世間には仇討ちやリンチが行われ るようになる。社会秩序は、優しさと共に、悪に対する断固たる処罰、それを可能にする国民の強靱 な意志なしには、守り抜くことができないのである。 平成20年4月10日(木) 藤 棚 狭 山 ケ 丘 高 等 学 校 挨拶できる人間に育て 第209号 学 校 通 信 (入学式辞要旨) 校長 小川義男 ただ今 502 名の諸君の入学を許可致しました。今年の本校入学試験は、特段に合格が難しいもので ありました。諸君が様々な困難を乗り越え、本日の入学を迎えられたことに心から敬意を表します。 中学校卒業生の著しい減少、アメリカ経済に端を発する経済不況等の中で、私立高等学校は存亡の 危機にさらされております。そのような逆風の時代にもかかわらず、諸君並びに保護者の皆様は、命 より大切な我が子の進学先として本校を選んで下さいました。502 名という数は、本校の歴史上最高 の数字であります。そのご期待に応えねばなりません。私ども教職員一同、責任の重大さに、胸を締 め付けられるような緊張を覚えております。私たちは全力を尽くして諸君の指導に当たります。諸君 の満足を獲得できるよう、命がけで職務を遂行する決意であります。 本校は県下屈指の進学校でありますが、大学進学以上に重大なのは「挨拶できる人間」に育つこと であります。挨拶は、己の我が儘を抑制し、相手の人格を尊重することを端的な形式に結実させたも のであります。挨拶できぬ人間にはろくな奴がいません。目線が合ったときだけでなく、後ろ姿にも 「おはよう」と声を掛けられるような、懐の深い人間に育って下さい。声を出さず、目線を合わせて 黙礼する、「会釈」の作法も身につけて頂きたいものであります。私をはじめ、本校の教職員は、決 して諸君を無視して通り過ぎることはありません。一期一会、互いにこの学舎に結んだ縁の重さを受 け止め、真心込めて挨拶を交わし合うことに致しましょう。 既に諸君は、一日八時間、七日間連続という「入学前特別指導」に耐えて、本日の入学式を迎えま した。また諸君のほぼ全員は、この七日間に、クラウンリーダⅠ全体の予習を終わりました。 私自身が参加する、朝ゼミでは、希望する諸君全員を対象に、一年生の間にクラウンリーダⅠⅡの 徹底学習を行います。参加は自由であり、脱落も自由ですが、遅刻しての参加は認めません。理由な き欠席が続いた場合は除籍致します。辛いとは思いますが、これをやり遂げた場合は、二年生の四月 からは英字新聞を読めるようになります。厳しさに耐えて自らの新しい未来を切り開いて下さい。 厳しい学習指導に明け暮れる本校ではありますが、最初の一年間は、勉強よりは、むしろ豊かな人 間性を養うことに重点を置いて下さい。何よりも先ず、鋭い感性を養って頂きたいと思います。公園 に行ったようなときも、ベンチにばかり座っているのではなく、芝生に直接触り、頬を青草に触れて、 その感触をつかみ取ってもらいたいのです。素足を夜露に濡らすことなども、是非経験して頂きたい と思います。月の美しい夜は、散歩に出て夜気に触れたり、夏の日は、山に登って峠の風に吹かれて 下さい。このようにして培われた鋭い感性があって初めて、徒然草や枕草子の本当の意味をつかみ取 ることができるのであります。ゴールドスミスそのほか、外国の作家や思想家の精神に触れるために も、このような鋭い感性はなくてはならないものであります。 また、この一年間は、努めて読書に励んでください。読書は時代を離れて天才と交わり、淋しいと きには孤独を慰める、人生最高の友であります。英語の難しさも、間もなく思想そのものの難しさに 変わってきます。時を大切にし、大いに読書に励んでください。 本校教育の根本理念は「自己観察教育」であります。本学園創立者近藤ちよ先生が創案なさった「自 己観察教育」とは、黙想を通じて深く己を見つめ、自分の生き方を自分で発見させようとする教育、 言わば「自分の中に自分の先生を見つけさせる」教育であります。諸君自身が己を深く見つめ、「何 のために学ぶのか」ということを深く考えて頂きたいのであります。 さて諸君、人間の幸せとは、何だと思われますか。私はそれは、愛する者のために生きることだと 考えております。人は誰でも愛する人を持っております。諸君の父であれ、母であれ、妹や弟であれ、 その愛する者に危難が迫ったとき、諸君は、我が身の危険を忘れて、救出のため戦うでありましょう。 人は、愛する者のためには、我が命すら惜しまぬ特別な生き物なのであります。どうか家族、特に諸 君の父、母を大切にすることを諸君の人生の拠り所と心得てください。さらにその愛の対象を、家族 から友人へ、友人から社会や国家へと拡大して行って頂きたいのであります。英雄とは、自らに対す る愛が、国家、社会への愛と完全に融合している人間を言うのであります。 諸君は疑いもなく優秀な方々でありますから、将来社会的に必ず大成されるでありましょう。しか し、自らの優れた資質を、自分の出世や蓄財のためにのみ用いる「醜い日本人」になってはなりませ ん。フランス語にノブレスオブリージュという言葉があります。優れた人間には、自らの資質を、民 衆や国家のために役立てる義務があるという意味であります。どうか生涯を通じて、このノブレスオ ブリージュを貫いてくださることを期待致します。 すべての集団がそうであるように、本校には、諸君が守らなければならぬ校則があります。諸君の 人間性を向上させ、学校生活を楽しく、充実させるための最低限度の決まりであります。本校はこれ について、ゼロトレランス、すなわち違反には容赦をしないという姿勢で臨みます。今日は、言い張 りさえすれば、若者のどのような我が儘も押し通すことができる、社会精神、国民精神が衰弱した時 代であります。だが本校は、そのように甘い学校ではないことを理解してください。諸君の人権を尊 重し、諸君の成長のためにはどのような努力も惜しみませんが、反面本校は、校則違反を断じて許さ ない学校であることも肝に銘じておいて頂きたいのであります。この点、保護者の皆様にも、ご理解 のほどよろしくお願い申し上げます。理不尽な我が儘に対し、本校は絶対に妥協するものではないこ とをご承知おき頂きたいのであります。 昨今、学校は楽しいところでなければならないとの見解が支配的であります。しかし、学校は遊園 地ではありません。確かに若さ溢れる諸君が集う学校は、楽しいところでありますが、それは、苦し みと共にでなければ存在できない、そのような種類の楽しさであることを理解して頂きたいのであり ます。 保護者の皆様、お子さまは確かにお預かり致しました。私ども教職員一同、全力を尽くし、三年後、 見事に成長した姿でお返しすることを約束致します。ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。 本日は、ご多忙の中、木下入間市長様をはじめ多くのご来賓の皆様のご来駕を忝のうしております。 ご多忙の中、ご臨席賜り、入学生の前途に祝福を賜りましたことに、深く感謝申し上げます。 さて、新入生諸君、前途は洋々としております。決意も新たに、躍進狭山ヶ丘の新しい担い手とし て、我々の戦列に加わってください。力を尽くして諸君の成長のため努力することは我々教職員の最 大の喜びであります。手を携えて前進して参りましょう。