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メディア・スポーツの「批判的」検討 - Kyushu University Library

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メディア・スポーツの「批判的」検討 - Kyushu University Library
 健 康 科 学 Vol.36, 2014 年 3 月 -原 著-
メディア・スポーツの「批判的」検討
大橋充典 1),西村秀樹 2)* Critical Discussion of Media Sports 1)
Mitsunori OHHASHI , Hideki NISHIMURA2)* Abstract The purpose of this study was to understand the current conditions of the recent media sports studies and to discuss the necessity for the media literacy education. Specifically, in this study, the contents of the media messages during sports coverage were analyzed. The analysis revealed that the sports events focus on the “sports community” as a human social community rather than on the essence of the game being covered, and sports documentaries are constructed so that they will cause a sensation as a “narrative”. Devaluing the nature of the game, which should be the essence of the sport, means that “sports are regarded as just entertainment”, and this has become a problem that must not be overlooked. This study identified that it was important for the viewers to understand the message from the “the nature of entertainment” which are focused on by the media senders. Furthermore, it was suggested that the media literacy is effective for the development of the ability to understand the media messages. In the education system of Japan, the media literacy is mainly taught in the Japanese class, but media literacy is not only effective in Japanese class. Media literacy is a concept which helps people to develop their “understanding” and their “critical ability to think” about the media on the subject of sports. The future issues are implementation of a thorough media literacy education, where media sports are the focus, and continuation of the practical effects, which are obtained through the implementation of the thorough media literacy education, on activity and the nature of criticism by viewers of the media messages. Key Words: mass media, media messages, content analysis, audience (Journal of Health Science, Kyushu University, 36: 27­33, 2014) 1) 九州大学大学院人間環境学府, Graduate School of Human­Environment Studies, Kyushu University, Kasuga, Japan. 2) 九州大学大学院人間環境学研究院, Faculty of Human­Environment Stuides, Kyushu University, Kasuga, Japan *連絡先:九州大学大学院人間環境学研究院 〒816­8580 福岡県春日市春日公園 6­1 Tel & Fax:092­583­7847 *Correspondence to: Faculty of Human-Environment Studies, Kyushu University, 6­1 Kasuga­koen, Kasuga City, 816­8580, Japan. Tel & Fax: +81­92­583­7847 E­mail: [email protected]­u.ac.jp 健 康 科 学 第 36 巻
28
はじめに
なっている。 本研究の目的は,近年の日本におけるメディア・ス
一方,小玉
ポーツにおけるメディア・メッセージとその受け手へ
け手に与えるインパクトは異なり,特にテレビ・メデ
の影響に着目し,何が問題とされてきているのか研究
ィアはチャンネルを変えない限り同じ番組をいやでも
動向を明らかにすることである。そしてこの作業を踏
見続けることになると同時に,映像によるインパクト
まえ,新たなメディア・スポーツ研究における課題を
によって出来事を視聴者に伝える効果を持っていると
析出するとともに,メッセージの受け手による読み解
いう。その上,情報量が増加することによって,正し
きの必要性について検討することである。 い情報が同様に増加しているとも限らないのである。
1) 4) によると,メディアによって情報の受
は様々なジャンルが存在するテレビ番組にお
つまり,不必要な情報が無秩序に溢れているとも考え
いて,ニュースやドラマだけを分析対象にするのでは
られる。近年,新たなメディアとしてインターネット
なく,各ジャンル毎に分析方法を考えていく必要性を
が世界中で普及しているものの,機器の操作能力に左
指摘する。近年,番組スタイルが細分化されるメディ
右されることのないテレビ・メディアは,依然として
ア・スポーツにおいても例外とはいえず,分化される
幅広い世代において見られ続けていることもまた事実
番組ごとの問題について検討していく必要がある。本
である。したがって,本研究ではメディア・スポーツ
研究では,過去 2000 年以降の日本におけるメディア・
をテレビ・スポーツに限定することによって論を進め
スポーツに関する論文および文献を収集した。2000 年
る。 藤田
2) は,郵政省(現総務省) によってメディア・リテラ
シーに関する調査研究会による報告書が出された年で
類型化に基づいた番組別の記述
あり,とりわけこの時期からメディアに関わる活動は
荒川
活発になっている。それ以前のメディア・スポーツに
年の1年間のテレビ・スポーツ・プログラムを調査し,
3) 4)
は,アテネオリンピックが開催された 2004
がその動向について明らかにし
それらの類型化を試みている(表 1 参照)。以下ではこ
ている。山本によれば,メディア・スポーツに関する
の類型に基づき,制作過程や番組の構造が異なるスポ
は,1. メッセージの制作に関する研究,2. メッセージ
ーツ・プログラムにおけるメディア・メッセージとそ
の内容に関する研究,3. メッセージの受け手に関する
の受け手との関わり方に焦点をあて,先行研究で指摘
研究,にわけられるという。さらに,メディア・メッ
されている問題に関して検討する。 関する研究は,山本
セージは「特定の社会的状況に身をおく受け手が読み
取るもの」であり,そうした解釈という実践の方法論
をどのように確立していくかが課題である,と述べる。
この山本の論文は,メディア・スポーツ研究の動向を
調査したものであるが,その中心はアメリカのメディ
表 テレビ・スポーツ・プログラムの類型
項目
内容
スポーツ実況
国際競技会,各種スポーツ競技会,その他実況中継および録画放送
スポーツ・ニュース
スポーツ・ドキュメント
スポーツ情報
スポーツ科学・教養
スポーツ・バラエティ
「スポーツ」というタイトルニュースのみ
スポーツやアスリートの記録,歴史に関するもの
スポーツに関する話題を中心とするもの
スポーツ科学,文化,教養に関するもの
正式な競技とは異なった娯楽的な趣向で行われる競技
スポーツ対談
対談やインタビューを中心とするもの
ア・スポーツ研究となっている。しかしながら,日本
(荒川,)を参考に作成
におけるメディア・スポーツ研究は,多くの場合,商
スポーツ実況
業主義的なアメリカのそれを踏襲しているため,メデ
「スポーツ実況」は文字通り,スポーツの大会ある
ィア・メッセージを受け手がどのように読み取る必要
いは試合の実況中継番組である。 があるのかについて検討することは日本社会において
小椋
も,重要な課題であるといえる。山本の論文が発表さ
れる言説の特徴を述べている。コーチや選手,監督と
れてからおおよそ 10 年間で,大幅にメディア環境が変
いったスポーツのゲームに関わる人間の社会的集団を
化したことに伴い,メディア・スポーツに関するメデ
「スポーツ共同体」と定義し,その一員であることが
ィア・メッセージの内容を再度検討すること,さらに
日本において重要とされるものであり,スポーツ中継
その受け手の関わり方について検討することは急務と
においては,スポーツのゲームとしての本質よりも「ス
5) は,甲子園野球を例にスポーツ中継で用いら
29
メディア・スポーツの「批判的」検討 ポーツ共同体」に関する言説が繰り返されていると指
るという。つまり,種目やチーム,個人に対するイメ
摘する。つまり,スポーツの本質である競技の偶然性
ージは制作側の意向によって操作可能であり,またメ
や賭けの性質は無視され,新鮮味のない固定的な,
「ス
ディア・メッセージの受け手である視聴者はこのよう
ポーツによる人間形成」,「教育の一環」,「チームのた
な放送を無意識に受け入れる傾向があることが示され
めの犠牲」,「純真さ」,「郷土の誇り」などといった言
ている。 説が中心となっているという。 さらにスポーツ番組の司会に携わっていた遥
6) 9) は,
もまた甲子園野球観戦者を対象として調査を
15 年にわたる野球番組担当の経験から,スポーツ番組
行っており,関西出身者以外の人々が関西出身者と比
における女性の役割について論じている。レポーター
べて地元の代表チームを応援する傾向にあると述べる。
やスポーツ・キャスターには,各局とも「若く,可愛
さらに,「NHK や朝日放送の高校野球中継では,負け
い」女性がスポーツの知識とは無関係に担当させられ
ている学校を懸命にフォローするような姿勢がしばし
ているという。元スポーツ・アナウンサー(女性)の
ばみられる。このような放送のあり方は,怪物的な高
「女性は知ることを期待されていない」といったコメ
校球児を全面的に押し出すような放送よりも,地方出
ントを取り上げている。問題なのは女性がスポーツ番
身の視聴者には非常に受けがいいと推測される」と述
組の中でおかれている状況だけではなく,日常的に視
べ,高校野球は「郷土アイデンティティ」を強く喚起
聴者がテレビで見るスポーツ番組やスポーツコーナー
させる特徴があると結論づけている。このように,国
が,キャスターは女性,解説は当該スポーツ経験者や
内のスポーツ・イベントに関してもオリンピックやワ
OB の男性,というように決められている商業スポーツ
ールドカップなどといった世界大会と同様,特定の視
の構造自体であると述べる。このような指摘は,スポ
聴者に焦点化された偏重するメディア・メッセージを
ーツの世界に蔓延するステレオタイプを自明のことと
視聴者は疑いなく視聴していると考えられる。 して受け入れている実情に対する問題提起だと考えら
スポーツ・ニュース/スポーツ情報
れる。現在のスポーツ放送における決められた形式の
「スポーツ・ニュース/スポーツ情報」は,スポー
中に存在するステレオタイプは,放送の多様性の欠如
ツ実況が番組内で一部のコーナーとして扱われている
を示し,さらにそれはメディア制作や視聴者に与える
もの,あるいはスポーツ実況が素材となって番組が構
影響だけの問題ではなく,スポーツのあり方を,そし
成されているものである。 てスポーツの持つ多様な価値を矮小化して伝えてしま
高井
向田ら
7) は,アトランタ・オリンピックにおける報
う可能性もある。 道が視聴者に与えた影響について大学生を対象に調査
スポーツ・ドキュメント/スポーツ科学・教養
を行っている。テレビや新聞といったメディアを通し
「スポーツ・ドキュメント/スポーツ科学・教養」
た外国人選手に接する機会の増加が,当該国に対する
では,
「物語」調,あるいは特集のように,スポーツの
好意度を上昇させていたことを明らかにし,好意度の
場面によって番組全体が占められていないものを取り
上昇は単なるメディア接触頻度の増加であると同時に,
上げた。 努力や勇気などといったポジティブな側面が強調され
阿部
る報道が,オリンピックを見る人々に少なからず感動
「
『物語』としてスポーツを取り上げることで人びとに
を与えているのではないか,と述べる。 感動を引き起こすメディア言説」である。スポーツ・
また神原
8) は,スポーツ放送を視聴する個人間で,
10) のスポーツ・ドキュメンタリーの定義は,
ドキュメンタリーは,
「栄光→挫折→努力→再起」のよ
「プレーに関する評価」がどのような要因によって影
うな「感動の文法」を含み,競技者の勝敗や結果より
響を受けるか,実際にハンドボールの試合を用いて検
も,過程である「生きざま」が重視されているという。
討している。その結果,アップ映像の挿入によって関
また,競技の内容において必ずしも「物語」の主人公
連するプレーの評価が高くなるが,当該競技に関する
になりえないスポーツ実況中継とは対照的に,
「スポー
知識や経験が少ない場合,より顕著にその影響が現れ
ツが引き起こす感動をあらかじめ構造化することが比
健 康 科 学 第 36 巻
30
較的に容易である」という。つまり実況中継と比べて,
婚=引退」という「伝統的性役割」に縛られていると
テーマをある程度設定した上で「どのような感動を引
指摘する。しかしながら,日本では女性選手は結婚す
き起こすか」を想定しているドキュメンタリーは,実
ることによって競技を引退しなければならなくなる,
況中継と密接に関連し合いながらメディア・スポーツ
という考えが流布している一方で,今回の番組の内容
を作り上げているといえる。とりわけスポーツ実況中
分析からは選手たち自身がこの問題についてどう考え
継においては,
「筋書きのないドラマ」などといったフ
ているのかが読み取れなかったという。つまり,マス・
レーズが用いられ,ノンフィクションとして視聴者に
メディアが選手にこのような問題に関する意見を求め
消費されるが,スポーツ実況中継を「物語」という枠
なかったことも含め,
「スポーツを通して人生を二者択
組みの中で制作するスポーツ・ドキュメンタリーに関
一にしか選択できない価値観が構築されるとするなら
していえば,少なくともノンフィクションではない。
ば,スポーツの文化程度が高いとはいえない」と,批
したがって,ノンフィクションであるスポーツの競技
判している。さらに,メディア側が「視聴者の質」を
や試合そのものが,マス・メディアの「物語化」によ
変える必要性についても言及している。これまで話題
ってスポーツ・ドキュメンタリーとして再生産されて
性の先に視聴率を見据えた形で番組制作がなされてき
いるのである。 ていたが,制作側が視聴によってスポーツに関わる価
さらに阿部は,シドニー・オリンピックでの北朝鮮
値観に影響を与えるということに対する問題提起だと
と韓国による「南北合同行進」
(南北合同行進の映像+
いえる。これに関して永井 12) は,スポーツ放送におい
『サンデーモーニング』開会式特集)の映像を用いて,
て,送り手が受け手に対して行う「わかりやすい」番
大学生および大学院生を対象にグループ・ディスカッ
組制作や映像制作こそが,まさにスポーツ放送におけ
ションを実施している。ビデオ視聴後のディスカッシ
るステレオタイプをつくるのだと批判する。つまり,
ョンにおいて学生たちは,
「南北合同行進」の伝えられ
そのような番組制作は情報の多様性を欠如させるきっ
方や視られ方を,日本のマス・メディアによって語ら
かけをつくりかねない上に,
「送り手が,受け手側を見
れる「民族」や「在日」といった言葉の中には「巧妙
くびって『わかりやすさ』を設定するとき,それは送
なダブル・スタンダード」が含まれていると指摘し,
り手がすべき努力を放棄することにつながる」という。 メディア・メッセージを多様に解釈していたという。 スポーツ・バラエティ/スポーツ対談
.メディア・スポーツ研究の新たな方向性
「スポーツ・バラエティ/スポーツ対談」は,
「スポ
テレビ制作に携わる三雲 13) は,オリンピックや世界
ーツ」という用語が使用されているものの,番組の構
大会のような日本代表戦の場合に視聴者目線の実況に
成上,ほとんどスポーツの場面は現れず,大部分が選
ならざるを得ないという。三雲によると,視聴者目線
手のインタビューや単に選手が出演している多ジャン
の実況とは日本のスポーツ中継における文化的な傾向
ルの番組である。 を示しており,またその目的は中継の中立性よりも視
2011 年女子サッカーワールドカップで優勝をはたし
聴者との思いを共有することだという。このようにメ
たサッカー女子日本代表選手による 1 時間のインタビ
ディア制作側の思惑は,スポーツ中継やスポーツ番組
11) は,女性選手への
の中立や公平性といったあり方よりも,いかに視聴者
接し方が独特であることを明らかにしている。インタ
を巻き込んでメディア・イベントを盛り上げるかを意
ビューの内容は,オフの過ごし方や監督が異性(男性)
識しているようである。 であることなどに向けられた質問が多く,男子選手の
また岡本
場合には取り上げられにくいことが質問項目に含まれ
に無防備に一体感を感じて酔うのではなく,さりとて,
ているという。また,
「女性が結婚するのは当たり前で
それらを安易に権力側のイデオロギーが伝達されつつ
あり,出産後のスポーツ継続は難しいという社会通念
行使されるものとして批判し排除するのでもなく,メ
がある」ため,恋愛や結婚,出産といった質問は「結
ディアに能動的,主体的に関わっていく姿勢が必要で
ュー番組の内容分析を行った梅津
14) は,
「メディアスポーツの創り出す物語
メディア・スポーツの「批判的」検討 31
ある」と述べる。さらに先述の神原も,制作者側が映
「賢い視聴者」
「学習主体」の育成に焦点を当てた実践
像制作の段階から多様性を保つ必要性と同時に,視聴
が存在する一方で,
「メディアとの関わりの中に潜むイ
者自身も「メディア・リテラシー」のようなメディア・
デオロギー,ヘゲモニー,権力などを批判的に読み取
メッセージを読み解く能力を高める責任が問われるよ
り,政治・社会問題へ挑んでいく民主的・社会的主体
うになってきていると述べている。これらの指摘は,
の育成」にはほとんど着手されていないと述べる。ス
前節で示したスポーツ番組のメディア・メッセージと
ポーツにおけるメディア・リテラシー教育の位置づけ
その受け手に関わる言説におけるメディア・メッセー
を検討することは非常に重要な課題となる。スポーツ
ジを主体的に読み解こうとする視聴態度の必要性と一
に孕む「ナショナルな」問題や球団とマス・メディア
致する。つまり,話題にあがる選手ばかりが選択的に
の系列関係を読み解くことは,先の小柳の指摘を補完
取り上げられることや人気タレントやアイドルの起用
することも可能だと考えられる。つまり,日本におけ
によって過度に「バラエティ化」する番組,あるいは
るメディア・リテラシー教育の実践事例としてスポー
国際大会にみられる「メダル報道」や「日本人言説」
ツを取り上げることは単にスポーツの問題にとどまら
などといった歪曲化されたメディア・メッセージに対
ない意義を有しているのである。 して主体的に読み解く力が求められているのである。 さらに日本における 180 のメディア・リテラシー教
育の実践事例を整理した砂川 19) によると,今後必要と
メディア・スポーツの読み解きの意味
されるメディア・リテラシー教育のあり方として,1. 森田 15) が指摘するように,スポーツ番組の視聴者に
テキストの社会的文脈を扱うこと,2. メディアとこと
は,スポーツが発するイデオロギーに毎日触れること
ばの関係の究明,3. デジタル・リテラシーの観点から
によって,知らず知らずのうちにマス・メディアの作
の実践の開発,を指摘している。1. についてはスポー
り上げる「現実」が刷り込まれているである。メディ
ツにおけるメディア・リテラシー教育の実践を考える
ア・メッセージの読み解きには先述の神原が示唆する
上で重要な視座を与えるものだと考えられる。砂川に
ように,メディア・リテラシー教育が参考になると考
よると,事実テキストに関する実践は,内容の妥当性
えられる。 を吟味することに焦点化されてしまっているという。
メディア・リテラシー教育に関して,先進的な取り
例えば,先に述べたメディア・スポーツにおいてみら
組みを行っているカナダのオンタリオ州教育省
16) は,
れる感動を引き起こす物語や「なでしこジャパン」の
メディア・リテラシーを世界で初めてカリキュラムに
インタビューのような,ジェンダーに関わるメディ
取り入れたことで有名である。しかしながら菅谷 17) に
ア・メッセージに対して,その社会的文脈や背景など
よれば,現代社会において,活字から映像へのシフト,
を理解し,読み解くことこそが重要だということであ
メディアの商業化,言論の多様性の欠如などといった
る。またスポーツにおける実践を報告している加藤
問題に対して,メディアの理解が重要であるという基
は,メディア・スポーツの視方を育成する取り組みに
本的な認識は世界中で一致しているものの,各国でメ
ついて,メディアや文化社会学を専門とする大学生を
ディア・リテラシーが取り入れられる目的や定義,実
対象とした,スポーツ番組で取り上げられるスポー
践などは異なっているという。つまり,諸外国のメデ
ツ・ダイジェストがどのような「語り口/切り口」で
ィア教育やメディア・リテラシー教育のコンセプトや
「筋書きのないドラマ」や「物語性」を語っているの
取り組みの例をそのまま受け入れるのではなく,日本
か,を分析するための授業を提案している。先の阿部
の社会やスポーツ環境といった背景を考慮した上で実
によるグループ・ディスカッションを用いた実践と同
践を考えていく必要があることは言うまでもない。 様,今後スポーツのメディア・リテラシー教育を発達
18) 20) はメディア・リテラシー教育で頻繁に
させる上で参考とすることができる。ディスカッショ
扱われる「批判」の意味の再考を試みている。その際,
ンにおける多様な解釈や批判的な眼差しは,まさにメ
現在の日本におけるメディア・リテラシー教育では,
ディア・リテラシーの理念に重なる部分である。 また,小柳
32
健 康 科 学
おわりに
第 36 巻
こしかねないという意味において,受け手が「批判的」
本研究では,メディア・スポーツにおける新たな研
また「能動的」に接することによって歯止めをかける
究視座として,メディア・メッセージの受け手とメデ
可能性が示されているのである。あらゆるメディア環
ィア・メッセージの内容に関わる研究上の問題点につ
境が変化し,また情報発信が多様となる社会状況であ
いて検討してきた。その結果,メディア・スポーツの
るからこそ,情報の受け手であるわれわれは様々な形
受け手によるメッセージの読み解き能力の重要性につ
に変化するスポーツに対してメディア・リテラシーを
いて確認された。また,日本国内におけるメディア・
鍛える必要があり,また今後そのような実践の場を増
スポーツとメディア・リテラシー教育の重なる研究領
やしていくことが重要なのである。
域について検討した結果,現在このような研究はほと
参考文献
んど見当たらない。考えられる理由については,カナ
ダやイギリスなどの諸外国では早期からメディア・リ
1)
藤田真文(1999) : 序章 テレビを分析するという
テラシー教育やメディア教育を取り入れているが,日
こと,伊藤守,藤田真文編,テレビジョン・ポリ
本を含めた多くの国においてこのような実践的研究の
フォニー
蓄積が不十分であるということがあげられる。また,
pp.1-14.
一般的に「娯楽」として位置づけられているスポーツ
2)
番組・視聴者分析の試み.世界思想社,
総務省は,旧郵政省期に,「放送分野における青
を「批判的」に読み解く必要性について,懐疑の目が
少年とメディア・リテラシーに関する調査研究会
向けられる可能性も少なからず存在する。しかしなが
報告書」をまとめている。
ら,単なる「娯楽」として位置づけられているからこ
<http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/to
そ,視聴者は無批判にスポーツの情報を受け入れてし
p/hoso/kyouzai.html> (参照 2013年1月30日)
まっていることも理解しておくべき事実である。現代
3)
山本は,過去10年ほどのメディア・スポーツに関
社会における人々のスポーツに対する関心は高く,そ
する国内外の文献を渉猟し,近年のメディア・ス
れに伴うメディア・メッセージが偏向しているのだと
ポーツの動向,及び特徴を論じている。詳しい内
すれば看過することのできない問題である。したがっ
容については論文を参照されたい。
て,日本においても近年研究が進められるようになっ
山本教人(2000) : 国内外のメディア・スポーツの
たメディア・リテラシー教育は,まさにこうしたメデ
動向.九州体育・スポーツ学研究14(1):1-10.
ィア・メッセージの読み解きには不可欠の概念なので
4)
小玉美意子(2008) : 第1章 ニュース・リテラシー
ある。ただし,あくまでメディア・メッセージの読み
と内容分析,小玉美意子編,テレビニュースの解
解きについては,受け手の多様な読み解きに重点をお
剖学 映像時代のメディア・リテラシー.新曜社,
くことが求められるのであり,実践者の考える「正し
pp.14-23.
い」解釈を一方的に教えることではない。また「批判」
5)
荒川勝彦(2008) : テレビスポーツプログラム提
の意味についても,認識を改める必要があるのかもし
供に関する研究. スポーツ方法学研究, 22(1):
れない。単にメディア・メッセージを否定するように
41-44.
捉え,一方的にマス・メディアを批判するような番組
6)
小椋博(2000) : 「甲子園野球の功罪」.青弓者編
を無条件に受け入れるのではなく,”critical” の持つ本
集部編,こんなスポーツ中継は,いらない!.青
来の意味を理解することが重要である。スポーツにお
弓社,pp.27-43.
けるメディア・リテラシー教育の意義は,メディアに
7)
高井昌史(2005) : 第2章2
関西発メディアイベン
よって発信されるメディア・メッセージを鵜呑みにす
トの視聴者像
る受け手を増加させないための取り組みでもある。つ
して,黒田勇編,送り手のメディアリテラシー.
まり,スポーツにおけるメディア・メッセージの無批
世界思想社,pp.102-128.
判な受容は,スポーツそのものの文化的衰退を引き起
8)
高校野球の女性視聴者を事例と
向田久美子,坂元章,村田光二,高木栄作(2001) :
33
メディア・スポーツの「批判的」検討
アトランタ・オリンピックと外国イメージの変化.
社会心理学研究,16(3): 159-169.
9)
10)
11)
12)
込まれる〈日本人〉.日本放送出版協会.
17)
神原直幸(2001) : メディアスポーツの視点—疑似
1987年,国語(英語)のカリキュラムにメディア・
環境の中のスポーツと人.学文社.
リテラシーを取り入れており,1995年以降,小学
遥洋子(2005) : 2章3
1年生から高校3年生までの国語の授業で取り入
スポーツ番組における“女
性”の役割,黒田勇編,送り手のメディアリテラ
れられているという。メディアに対する能力につ
シー.世界思想社,pp.129-138.
いては,
「口頭と映像によるコミュニケーション」
阿部潔(2008) : スポーツの魅力とメディアの誘惑
のパートに該当する。これが日本のメディア・リ
身体/国家のカルチュラルスタディーズ.世界思
テラシーの実践の多くが国語科で行われている
想社.
理由の一つであると考えられる。
梅津柚子(2012) : マスメディアにおけるスポーツ
18)
観の公正と偏向.聖学院大学論叢24(2): 135-150.
13)
永井良和(2005) : 第2章1
無定見
プロ野球報道の偏りと
19)
関西,パ・リーグ,南海ホークスという
ー.世界思想社,pp.84-101.
12: 11-20.
20)
15)
リーガー松井秀喜
16)
研究科紀要2(58): 113-122.
21)
岡本能里子(2004) : メディアが創るヒーロー
大
イチローとの比較を通して,
砂川誠司(2009) : 国語科でメディア・リテラシー
を教えることについての一考察.広島大学大学院
2008夏.日本放送出版協
会,pp.32-35.
小柳和喜雄(2003) : 批判的思考と批判的教育学の
「批判」概念の検討.教育実践総合センター紀要,
三雲薫(2008) : スポーツ番組へのスタンスと戦略,
小林玉樹編,放送文化
菅谷明子(2000) : メディア・リテラシー.岩波
書店.
立場から,黒田勇編,送り手のメディアリテラシ
14)
菅谷(2000)によると,カナダ・オンタリオ州は
加藤徹郎(2009) : 第2章 筋書きのないドラマの
「語り」を探る—スポーツダイジェスト番組「熱
闘甲子園」における物語論—,藤田真文・岡井崇
三宅和子,岡本能里子,佐藤彰編,メディアとこ
之編,プロセスが見えるメディア分析入門
とば1.ひつじ書房,pp.196-233.
テンツから問い直す.世界思想社,pp.11-36.
森田浩之(2007) : スポーツニュースは恐い
刷り
コン
Fly UP