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南宋中期政治史研究 学位論文内容の要旨

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南宋中期政治史研究 学位論文内容の要旨
博 士 ( 文 学 ) 小 林
晃
学 位 論文題名
南宋中期政治史研究
学位論文内容の要旨
本 論 文 は、 12世紀 前 半 から 13世紀 後 半 まで 、 淮 河以 南 の 華 中・ 華 南 地域 に 存在し
た中 国 南 宋 朝に お け る中 央政治 の展開 を、特に “中期” といわ れる韓健 冑・史 彌遠政
権期 を 中 心 とし て 考 察し たもの である 。序論で は、本論 文の問 題意識、 研究史 の総括
と 課 題 の 設 定 、 各 章 で 取 り 扱 う 主 題 の 範 囲 に っ い て 論 じ てい る。
第 1章 「南 宋 孝 宗朝 に お ける 太 上 皇帝 と 皇 帝側 近 政治 」は、主 題のーっ である 韓侘
冑専 権 の 前 史と し て 、南 宋 第 2
代 の 孝 宗朝 初 期 に韜 ける 宋・金 和平の締 結過程 と当該
期の 宰 執 ( 宰相 ・ 執 政) の人事 とを検 討し、孝 宗による 側近政 治導入の 事由解 明を目
指し た も の であ る 。 本章 では、 対金強 硬論の立 場にいた 孝宗が 和平を主 張して 宰執人
事に 介 入 す る太 上 皇 帝高 宗を政 策決定 過程から 排除する ために 、自らの 側近武 臣を重
用し 、 宰 執 の掣 肘 を 受け ない「 独断」 的政治運 営を追求 してい たことが 解明さ れてい
る。
第 2章 「南 宋 中 期に お け る韓 健 冑 専権 の 確 立過 」 で は、 南 宋 第 4
代 の 寧 宗期 に中 央
政治 を 支 配 した 韓 傭 冑の 専権確 立の過 程を、右 丞相趙汝 愚との 抗争を媒 介とし て検討
して い る 。 ここ で は まず 、具体 的に政 治が執り 行われる “場” としての 政治空 間に対
する 視 座 が 注目 さ れ る。 寧宗が 即位直 後の半年 間、宮城 の北に 位置する 重華宮 を行宮
とし て 使 用 し、 常 住 して いたと いう新 説が提示 されると ともに 、該宮が 宰執の 執務場
所か ら 遠 く 離れ て い たこ とで、 皇帝側 近の武臣 として寧 宗に近 侍する立 場にあ った韓
健冑 が 自 ら の優 位 性 を利 用して 実権を 掌握した ことが、 きわめ て説得的 に主張 されて
いる 。
第 3章 「南 宋 寧 宗朝 に お ける 史 彌 遠政 権 の 成立 と その 意」は、 韓侘冑の 暗殺直 後に
おけ る 史 彌 遠政 権 成 立の 背景を 、南宋 官界に見 られた政 治的変 化との関 連で検 討した
もの で あ る 。当 時 の 官界 では、 韓侘冑 による専 権をもた らした 孝宗の政 治路線 、すな
わち 皇 帝 の 「独 断 」 的運 営に対 する批 判が渦巻 いており 、そう した状況 のもと で皇太
子の 政 治 参 与を 容 認 する “嘉定 資善堂 会議”が 設置され 、また 枢密院承 旨司の 宰相直
轄化 が 推 進 され た 。 史彌 遠の26
年 にも及 ぶ長期政 権は、 政策決定 をめぐる 皇帝の 「独
断」 に 対 す る歯 止 め と宰 相権限 の強化 とが図ら れるとい う政治 的状況の もとで 実現し
たと い う 。
第 4章 「鄭 真 輯 『四 明 文 献』 の 史 料価 値 と その 編 纂目 的」は、 従来、南 宋政治 史研
究の 最 大 の “弱 点 ” とさ れてき た史料 の欠如と いう“常 識”に 対して一 石を投 じたも
ので あ り 、 斯界 で は 全く 注目さ れるこ とのなか った鄭真 『四明 文献』の 史料的 価値を
―3
6ー
再 発見し 、かっそ の編纂目 的にっ いて詳細 な検討 を加えた もので ある。『四明文献』に
は これま で知られ ることが なく、 また近年 の中国 で編纂・ 出版さ れた『全宋文』『全元
文 』 に も収 録 さ れて い な い 、宋 元 時 代の政治 史に関 する大量 の史料が 含まれ ていた。
こ こ で は現 存 す る5種 類 の テキ ス ト の精 緻 な 分析 を 通 じて 、 『 四明文 献』所 収のもの
は 史 料 と し て の 信 憑 性 ・ 有 用 性 が き わ め て 高 い こ と を 実 証 し て い る。
第5
章 「 南 宋理 宗 朝 前 期に お け るニ つ の 政治 抗 争 」は 、 上 記『 四明 文献』所 収の史
料 を 活 用し 、 史 彌速 政 権 末 期か ら 南 宋第 5代 皇帝 理 宗 親政 期 に 至る政 治過程 の解明を
企 図 し た も の で あ る 。 従 来 、 理 宗 の 親 政 開始 時 期 につ い て は紹 定 3年( 123
0)と 同6
年 ( 12
33)の二 説 が 対 峙し て い たが 、 こ こで は 『 四明 文 献 』等 の 分析を 通じて、 宰相
鄭 清 之 が 罷 免さ れ た 端平 3年 (1236)
を 当 該 時期 と す る全 く 新 たな 説 が 提示 さ れ てお
り 、 理 宗親 政 の もと で 一 元 化さ れ た 国防政策 によっ て、南宋 ・モンゴ ルの南 北対立と
い う 大 状 況 が 出 現 し 、 以 後 、 40年 に わ た っ て 持 続 し た こ と が 論 じ ら れ て い る 。
第6
章 「 史 彌堅 墓 誌 銘 と史 彌 遠 神道 碑 」 では 、 明 州の 名 家 出身 で長 期政権を 維持し
た 宰 相 史彌 遠 と その 弟 史 彌 堅と に 関 する 伝 記 史料 2種 、史 彌 堅 墓誌銘 および 史彌遠神
道 碑 を 紹介 し 、 南宋 中 後 期 政治 史 に 関する新 たな史 実が解明 されてい る。す なわち、
前 者 に は史 彌 堅 の韓 侘 冑 暗 殺事 件 へ の関与等 が明示 されて韜 り、従来 の史氏 兄弟間の
政 治 的 対立 と い う通 説 は 否 定さ れ る べきこと 、また 後者では 自らの即 位をめ ぐる錯雑
な 事 情 の隠 蔽 を 図る 理 宗 と 擁立 の 功 績を誇示 しよう とする宰 相鄭清之 との間 に明確な
緊 張関係 が存在し たことが 指摘さ れている 。
以 上の 考 察 の後 、 結 語 では 各 章 の内 容の総括 が行わ れるとと もに、 今後の研 究に向
け て課題 ・展望が 述べられ ている 。南宋政 治史の 展開は、 皇帝、 或いは宰相への権力・
権 限の集 中という 事態に特徴づけられ、“専権宰相”の登場として表象化されていたが、
そ の目的 は本質的 には国家 の意思 決定のプ ロセス を一元化 するこ とにあったのであり、
換 言 す れぱ 、 そ れは 恒 常 的 に存 在 す る金・元 という 北の脅威 に対して 、きわ めて迅速
な 意 思 決 定 が求 め ら れる こ と の必 然 的 な 帰結 で あ った 、 と いう 結 論 に達 し て いる 。
以上
― 37―
学位論文審査の要旨
主査 教 授 三木 聰
副査 准教授 吉開将人
副査 准教授 橋本 雄
学 位 論 文 題 名
南宋中期政治史研究
本 論 文 は 、 12世 紀 前 半 か ら 13世 紀 後半 まで 、淮 河以 南の 華中 ・ 華南 地域 に存 在し
た中 国南 宋朝 にお ける 中央 政 治の 展開 を、 特に “中 期” とい われ る韓侘冑・史彌遠政
権期 を中 心と して 考察 した も ので ある 。
中 国近 世史 研究 のな かで も 、特 に南 宋の 政治 史は 史料 の質 ・量 両面における限界も
あっ て、 これ までさほど活発な議論 が展開されるという状況にはなかったといえよう。
当該 研究 史の 理解 も、 南宋 初 期の 秦檜 に始 まり 、韓 健冑 ・史 彌遠 を経て、賈似道に至
る 4人 の “ 専権 宰相 ”が 登場 し、 長き にわ たっ て中 央政 治を “独 裁 ”し たこ とを 時代
の特 徴と して おり 、政 治の 動 きを 単な る“ デス ポッ トの 再生 産” と看倣す傾向にあっ
た。
こ うし た南 宋政 治史 研究 の 動向 を踏 まえ なが ら、 本論 文は 南宋 中期の政治史の展開
をよ り細 緻に 、か つ立 体的 に 描き 出す こと を目 的と して いる が、 その方法上の特徴を
挙 げ る な らば 、次 の4点 にな る。 第一 に、 “南 宋中 期政 治史 ”を 韓 健冑 ・史 彌遠 両政
権の 時代 と看 做す とと もに 、 単純 な“ 専権 宰相 ”の 交替 とし て捉 えるのではなく、両
政権 の性 格の 違い に着 目し 、 政権 移行 のダ イナ ミズ ムを 仔細 に検 討していることであ
る。 第二 に、 個々 の政 治過 程 を“ 南宋 中央 ”と いう 抽象 的な 概念 のもとで描くのでは
なく 、宮 城・ 宮殿 ・議 堂等 、 政治 主体 の意 思決 定に 関わ る“ 場” を重視し、そうした
政治 空間 のも つ意 味を 具体 的 な政 治の 展開 に反 映さ せて いる こと である。第三に、も
はや 新史 料は 存在しなぃという宋代 史の“常識”に抗い、未知の史料の博捜を通じて、
新し い政 治史 を紡 ぎ出 して い るこ とで ある 。そ して 第四 に、 北に 存在する金・元とい
う非 漠民 族王 朝に よっ て南 に 押し 込め られ 、そ の不 安定 な国 際関 係のゆえに北宋とは
異質 の王 朝と して 、南 宋政 権 の“ 歴史 的個 性” を中 国史 上に 、さ らには東アジア史全
体の 中に 位置 づけ よう と試 み てい るこ とで ある 。
こ うし た方 法的 特徴 に基 づ ぃて 、全 六章 に及 ぶ本 論の 考察 が行 われている。南宋政
治史 の展 開は 、皇 帝、 或い は 宰相 への 権力 ・権 限の 集中 とい う事 態に特徴づけられ、
“専 権宰 相” の登 場と して 表 象化 され てい たが 、そ の目 的は 本質 的には国家の意思決
定の プロ セス を一 元化 する こ とに あり 、換 言す れば 、恒 常的 に存 在する金・元という
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北の脅威に対して、きわめて迅速な意思決定が求められることの必然的社帰結であっ
た、という結論に達している。
本論文は、史料の博捜と史料への沈潜とによって、南宋中期における中央政治の展
開をきわめて精緻に、かつ鮮やかに論述したものと評価することができる。一見、単
純な‘‘専権宰相”の交替劇に終始しがちな南宋の政治史に対して、個カの政治主体の
思惑や相互の関係性、或いは具体的な政治空間への目配りなど、歴史の細やかな“襞”
にまで入り込んで史実を解き明かすことで、華北に存在する金・元という非漢民族王
朝に対峙した南宋政治の“歴史的個性”を浮かび上がらせることに成功しているとい
えよう。まさに、これまでの通説に対して大幅な書き換えがなされており、ここに南
宋政治史に関する新たなスタンダードが提供されたと看倣すことができる。今後は、
秦檜を中心とした南宋前期と賈似道を中心とした南宋後期の政治史を独自の視座から
解 明 する こ と で 、 通 史とし ての 南宋 政治史 を物 する こと に期待 した い。
本論文の成果はこれに止まるものではない。もうーつの特筆すべき点は、ほぼ出尽
くされたといわれる宋代史関係の史料状況にあって、第一級の新史料ともいうべき『四
明文献』を事実上、自らの手で発掘・紹介し、それに精緻な分析を加えたことである。
本論文が従来の研究と大きく異なり、きわめてオリジナリティのある、高水準の研究
となりえた理由の一端は、まさにここに在ったといえよう。今後、南宋政治史という
分 野 に お い て 、 当 該 史 料 を め ぐ る 豊 か な 議 論 の 展 開 が 大 い に 期 待 さ れる 。
なお、本論文は1本の書き下ろしを除いて、『史学雑誌』等の査読付き学術雑誌に
掲載された4本の個別論文とその他1本の論文とから成っているが、既発表の個別論
文 は 斯 界 に おい て き わ め て 高 い 評 価 を 得 て いる こと も附 け加 えて おき たい 。
他方、本論文に瑕疵が見られないわけではなぃ。結語で展開された南宋から初期明
朝までの政治史を対北方民族との関連で一体化して考えようとする議論に些か上滑り
感を禁じ得ない点や、南宋政治史の特質という大きな議論を行う際に対外的側面のみ
を偏重する嫌いがある点などが挙げられる。しかしながら、これらの点が本論文の価
値を全く損なうものでないことは言うまでもない。
以上から、本審査担当者は全員一致で本学位申請論文を、博士(文学)を授与する
に相応しいものと認定する。
以上
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