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人 権 だ よ り

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人 権 だ よ り
人 権 だ よ り(第4号)
人権・福祉教育係
~オスカー=シンドラー・ユダヤ人を救った人
オスカー=シンドラー・ユダヤ人を救った人(上)
・ユダヤ人を救った人(上)~
(上)~ 2012.12.7
年に数回、人権意識を高めてもらうことを目的として人権だよりを発行しています。
今回と次回は、多数のユダヤ人を救ったことで知られるオスカー=シンドラーについて
取り上げます。彼の生き方をどう思うか、学校や家庭で話題にしてもらえれば幸いです。
1.クラクフでの衝撃
オスカー=シンドラーは1908(明治41)年、オーストリア=ハンガリー帝国領
だったツヴィタウ(現、チェコのスヴィタヴィ)に生まれました。1918(大正7)
年にチェコスロヴァキアが独立、兵役をつとめた後、会社員をしていました。1933
(昭和8)年、ドイツではヒトラーを中心としたナチス党による一党独裁制が成立、1
939年3月にチェコスロヴァキアを解体させて勢力下に収めます。シンドラーはズデ
ーテン・ドイツ党に入党、ドイツ防諜部の一員として活動しました。同年9月1日、ド
イツ軍がポーランドに侵攻(第二次世界大戦の始まり)
、17日にはソ連軍も侵攻し、約
1ヵ月後に分割占領します。シンドラーは、ドイツの東部企業総合代理局(ユダヤ人の
企業を接収し、経営に当たるところです。
)から情報を仕入れ、ひと儲けできると目論ん
で、ドイツが占領していたポーランドのクラクフにやってきました。地元の商事会社の
会計主任で、クラクフの製造業者に親戚や友人が多数いるユダヤ人を訪ね、彼のアドバ
イスを得て倒産した工場を買い取り、市内のリポヴァ通りにドイツ・エナメル容器工場
を設立、1940年にはドイツ軍と初の契約を締結し、工場も拡張しました。冬になる
と、シンドラーは毎日60人以上のユダヤ人従業員が欠勤していることに気づきました。
出勤途中でナチスの親衛隊につかまり、道路などの雪かきをさせられていたのです。司
令部に苦情を言いましたが、受けつけてもらえませんでした。この年の5月には、クラ
クフ総督からユダヤ人の居住者数を制限する命令が出されており、少なくとも4万人の
ユダヤ人が退去させられていました。
1941年になると、シンドラーは兵器部門を設置、対戦車砲弾の外殻の製造を開始
し、大きな富を築きました。一方、ユダヤ人弾圧は厳しさを増していきます。3月、総
督府から布告でクラクフ市内のポドグジェ地区に、壁で囲まれたユダヤ人地区=ゲット
ーが設置されることになり、約1万8千人のユダヤ人は約600m×400mのゲット
ー内への居住を義務づけられました。6月、シンドラーのもとに10人余りのユダヤ人
従業員が貨物駅に連行されたという連絡が入りました。急いで行ってみると、ユダヤ人
が家畜用の貨車にぎっしりと入れられているのを見ました。驚いたシンドラーは、輸送
業務にあたっている親衛隊員に、
「うちの会社は軍と契約している枢要産業であり、その
従業員がいるので出してほしい。
」などと掛け合い、従業員を救い出しました。その翌日、
馬の遠乗りの途中でゲットーの南にある丘に行きました。丘の上から壁越しに見たゲッ
トー内では、衝撃的な光景が広がっていました。犬を連れた親衛隊員が通りの両側の家
に押し入って住人を追い出し、中を荒らしまわっています。抵抗する者は警棒で殴られ、
女性や少年が射殺されていきます。シンドラーは衝撃のあまり、馬からすべり落ち、よ
ろめいて膝をついてしまいました。
「この日以降、ものを考えられることのできる人間な
ら、将来どんなことが起こるかを見て取れないはずはない。俺は全力を尽くして、あの
組織を打ち負かしてやる。
」
こうして、ユダヤ人を救うための、シンドラーのたたかいが始まりました。
2.
「第二収容所」の設置
1942年になると、6月にはゲットーから約6000人がアウシュビッツ収容所(ポ
ーランド)へ送られます。10月には7000人がベウジェッツ(ポーランド)とアウ
シュビッツの収容所に送られ、600人がゲットー内で射殺されました。さらにゲット
ーを縮小して二分割し、軍の雇用者、市の従業員、重要産業の労働者などはA地区、そ
れ以外、つまり労働力にならないとされた者はB地区に住まわされました。秋には、シ
ンドラーの工場から東に行ったところにあるプワシュフに、収容所の建設が始まります。
1943年3月、再びゲットーの解体が行われ、A地区の住民はブワシュフ収容所へ
移され、シンドラーの工場の従業員はここから出勤することになりました。B地区の住
民のうち、約2300人がアウシュビッツへ送られ、約700人はゲットー内で射殺、
収容所の裏側の森に埋められました。この頃、工場に異変が起きていました。従業員の
交代要員の到着が何時間も遅れるのです。調べてみると、囚人を集合場所に集めて点呼
をとる際、ささいなことでむち打たれたり、最初から点呼をやり直したりしていたから
だとわかりました。なおかつ、それによって従業員は精神的なショックをこうむってき
ます。そこで、シンドラーは、収容所のアーモン=ゲート所長に、工場のすぐ近くにも
う一つの収容所を作り、そこから工場に通わせてはどうか、と提案し、所長は許可しま
した。すでに1941年、シンドラーは従業員の仮宿舎を建てており、これをうまく利
用したのでしょう。そして、警備のために来ている親衛隊員を中に入れさせないよう要
請したため、囚人たちが残酷な扱いをされることはありませんでした。
3.ブワシュフ収容所の解体、シンドラーの工場移転
1941年6月に始まったドイツとソ連との戦いは、43年2月にドイツ軍が撤退を
開始、ソ連軍の反撃が始まりました。44年、プワシュフ収容所では、大量殺害の発覚
をおそれ、森の中に埋めた遺体を掘り出して焼却する作業が囚人を動員して行われまし
た。同年夏には陸軍最高司令部からの命令が出ました。プワシュフ収容所は解体する、
男性の囚人はグレス=ローゼン(ポーランド)
、女性はアウシュビッツの収容所へ移送す
る、というものです。夏の終わり、シンドラーはゲート所長に、「工場を移転させるつも
りでいる。その際、プワシュフ収容所の囚人の熟練工が必要になるので、連れて行きた
い。」と提案します。所長は、シンドラー自身が関係当局と交渉することを条件に、連れ
て行く囚人のリストを作成することを許可しました。その後、ブリンリッツ(現、チェ
コのブルニェネツ。シンドラーの故郷であるツヴィタウの近くにあります。
)のはずれに
ある織物工場の別棟を割り当てられることになり、移転先と決まりました。こうした話
が、いつの間にか噂として工場内にも広がりました。
「シンドラー社長が、移転先の工場
へ連れて行く従業員のリストを作るらしい。それに載れば、命は助かるのではないか・・・」
事実、移転の目的は、ユダヤ人の命を救うためでもあったのです。
(第5号に続きます。
)
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