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おける炭鉱労働災害史概説 じE

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おける炭鉱労働災害史概説 じE
労働科学 4
2巻 1
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イギリス・フランス・アメリカ合衆国に
おける炭鉱労働災害史概説
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はしがき
わが国の労働災害問題のなかで,もっとも問題点の多
亡率を示じ,とくに数十人, 4
0
0人をこえる大爆発が,
ぼとぼとと発生するという状態は,こういう諸国では戦
後ほとんどみられない。ーわが国の安全対策K,何か大き
いのは,石炭鉱業についてである。そのことは,製造業
ぐ欠けたところがあるといわねばならない。というのは
については,わが国の災害死亡率は中の下位のととろに
かりにわが国の自然的条件が悪いとしても,それなりの
あり,西ドイツの如きはわが国よりも高いが,炭鉱につ
対策が考えられる筈であること,さらに,先進諸国でも
いては,ヨーロッパの先進諸国り 5
;
∼10倍程度の高い死
以前にはずい分災害が多かったが,それが安全対策の前
*労働科学研究所・経済学研究部よ産業労働研究室
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(770)
進によって,現状程度にへってきたという事実があるか
らである。
まことに戦傑すべき危険な方法がとられていたところか
らも明らかである。
本稿の目的は,先進諸国の炭鉱労働災害の歴史を概説
(
注
)
1
7
,1
8世紀当時のガス処理は,まことに危険きわ
すること,さらに可能ならばそれを規定した諸要因を分
まりないものであった。平生から照明はローソクによ
析し,安全対策の前進の歴史についてもふれることにあ
ってえられたが,
ガスが存在することは,「ゅう霊」
った。もっとも,とりあげたのは,イギリス,フランス
(
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)がローソクの尖端に現われることによって見
アメリカ合衆国の 3カ国に限られ,しかもフランスにつ
分けられた。とのガスの存在が,竪坑や坑の底部にお
いては資料の不足から安全対策の歴史についてはほとん
いて確認される左,ローソクの火や火をみたした鉄製
ど明らかにできなかった。何れも概説にすぎないが,そ
のバスケットを底におろした。こういう仕事をするの
れでも日本の炭鉱災害を考えるばあいに参考になる点が
は,特別のガス係(金巴man
)の仕事であって,彼は水
含まれているにちがいない。なお,現状の安全対策につ
に浸したボロギレを頭からつま先までまとい,点火し
いては,拙著「各国の労働安全対策」のなかでややくわ
たローソクをその一端にくくりつけた長い梓をもち,
しくふれているので,それとの重複をさけて,意識して
坑道を這いながら進む。爆発がおきると,床に向け顔
簡素化したところがある。したがって,それをあわせ読
をふせる。幸運なばあいには彼の上の天盤にそって突
まれることを希望したい。
進する焔からのがれることができる。これがイギリス
なお,本稿は, 1
9
6
4年度の文部省科学研究費の助成を
の1
7世紀の半ば頃のやり方だったが, 1
8世紀に入る
うけたことを記し,感謝の意を表したい。
1
9
6
6年 9月 藤 本 武
と,それを若干改めて使用していた。ガス係は,ロー
ソクを粘土でもって板に固定し,ガスのない場所でそ
れに点火し,その板にひもをつける。このひものもう
目次
一方の端をもち,人同の入れる位の小さい穴をつくっ
はしがき
I
てそのなかに入 •IJj 自分の身をまもるために頭に材木
1ギリス
ガえ爆発がおきるまで自分の方
をひきよせておいて, i
(
1)第 1次大戦前
にひっぱるのである。
(
2
)第 1次大戦後から第 2次大戦に杢る時期
.
(
3
)第 2次大戦後
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I フランス
1
I
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I ァヌリカ合衆国
ζ のガス係は,こんな危険な作
業盈するので,その賃金は高かヲたというが,まさに
生命がけのガス処理だった。のちになって,すこしは
安全な方法が考案されたが,裸火で発火,爆発させる
という方法は同じだった。むろん,こういう処理を行
W 総括
I イギリス
なうときは,他のすべての労働者は待避していた。
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A. 第 1次大戦前
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.
)
左の国をとっても石炭鉱業はもっとも災害の多い産業
鉱業における手工業時代には,労働災害はおきても小
であって,炭鉱の歴史は災害の歴史といっても過言では
規模だった。技術的にも深層を採掘することもなかった
ない。
ので, ガス爆発といったものも余りおこらなかった。
もともと,炭鉱は工場とちがって,ナペての生涯諸条
「初期世紀の横坑や小竪坑で,鉱夫をなやましたのは,
件を予め完全に制禦できないという特質をもっている。
おもに炭酸ガス(chokedamp
)であった。しかし,竪坑
もっと具体的にいうと,地下という,一部無知の要素を
なって〈ると,爆発
が大きくなり,適切な通気が困難ι
含む自然的条件のなかで生産が行なわれるので,落盤や
ガス(五redump) (メタンガス)が第一の敵となってき
ガス爆発などからの安全確保には,完全な制禦のし難い
た。炭酸ガスは窒息によって鉱夫を死に至らしめるが,
「自然との闘い」が必要となってくる。とくに,科学技
それは先ず彼のローソクを消すということで来襲の警告
術の水準の低い時代には,ガス爆発な!
}の災害を防止す
を与えてくれるめが常であった。恐るべき爆発ガスは,
る技術そのものの発達が不十分だったということが加わ
警告なしにあらわれ,ローソクの炎により爆発しs 炭坑
った。しかし,最大の問題は,炭鉱経営が利潤追求の下
全体に死と破壊をもたらすものであったJDo
に行なわれ,利潤をえるためには労働者の生命を犠牲に
マニュフナ’クチュア時代になると,次第に深層が採掘
してもいい,あるいは巳むをえないという資本の立場が
されるようになるが,同時に利潤追求という資本の論理
貫かれたことにある。とのことは,注に示したように,
がより強く生産そのものを掌握するようになってきた。
イギリスの 1
7
,1
8世紀において, ガス処理のために,
ガス爆発の科学的分析が明らかでないまま,したがって
(771)
それにたいする適切な対策がとられないまま,簡単な防
につみこむ仕事,炭車を押す仕事などであったが,タラ
止方法をこうじるだ砂で,どんどん採掘が進んで行った
ップ戸の仕事には 5歳から 8歳の子供が従事していた。
のである。
またときには少女がこういった仕事をやっていた。
「ガス爆発は,早くから記録されていた。し
かし,その変災が 1
8世紀の間次第に重大化してきたこ
とは明らかであったJ
2
¥
「
労
働者を上げ下げするための装置の操縦に子供を使うのが
ふつうであった炭田地帯もあった。こういう責任ある仕
産業革命は,この炭鉱へも機械の使用をもたらし,以
前よりさらに深部の採掘を可能にしたが,大規模化した
事に小さい子供をつけたために災害が発生した例は決し
。
)
て少なくはなかった j7
にもかかわらず,適切な災害防止対策がとられなかった
明治,大正期の日本ほど広くは使用されなかったが,
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ため,災害はふえる一方であった。デイヴィス卿(S
婦人の雇用もみられた。
HumphryD
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)の発明した安全燈は, 1
8
1
6年に使用が
これらの少年たちの労働時間は,最低で 1
2時間だっ
たが, 8歳のタラッフ。手の少女で、朝 4時ときには 3時
開始され,まもなく多くの炭坑で使用されるようになっ
たのであるが(彼は,この安全燈をできる限り普及させ
鉱夫の生命の安全をはかろうとして,特許をとらなかっ
半に入り,(午後) 5時半に上ってくる M という例さえみ
られた的。
ダーゼーシャでは労働時聞は, 1
3∼1
6時間で,ある会
た),彼の意図したように, 災害事故はへらなかった。
「博愛の大義に奉仕する彼自身の目的は,多くのばあい
社では朝 6時に坑内に入り,夜 9時に出てくるのはまれ
利潤の大義に奉仕するために使用された。JS)o むしろそ
であったといわれている。公式には食事時聞は 1時間で
の効果は,より深川より爆発し易い炭層での作業を促
あったが,政府の調査委員会は許される食事休憩時聞が
進し,これまで襟火をもって接近するには余りにも危険
3
0分
, 20分あるいは 1
5分でさえあったという,事実を
であったところから炭柱を除去するのを可能にしたので
8
4
0年頃) o ただ,ダーピーシ ヤでは,婦
発見している(1
あったペむろん, これと同時に,以前の足踏王誌に伐っ
人の坑内労働はなかったが,前記の幼児は,一般男子と
i
て蒸気ポンプ。が用いられ,深坑の開発が可能となったた
同じく長い労働時間だったととも忘れてはならない。幼
めでもあるが,それはまたガス爆発の危険性を高めただ
少からこういう劣悪な労働条件で働らく坑内夫は,早老
けでなく,地圧の増大による落盤の危険をも高めるもの
になり, 40歳までに年寄りの風貌をもつのがふつうであ
った。こういう労働条件は,他の環境諸条件と相まって
であった。
この産業革命期のイギリス労働者階級の状態を目のあ
労働災害を激増させたことは指摘するまでもない9
。
)
J
.
L
.ウィリアムズによると,「初期の労働組合は,安全
たり調査したエンゲルスは,その著書のなかで当時の炭
鉱の労働災害についてふれ,
「マイニング・ジャーナ1レ
問題について関心がうすく,彼らの要求は,組織の自由
,
4
0
0もの人命を奪っている」とし
紙によれば,年々約 1
賃金,労働時聞に集中化され,工場安全立法については
「マンチェスター・ j
fーディア ン紙は,ランカシャだけ
組織労働者からは左りあげられなかった」ω と指摘して
から,毎週すくなくとも 2, 3件の事故を報じている J
いるが,炭鉱の安全立法については決してそうではなか
「爆発がほとんど毎日のようにあちこちにおこってい
8日には,ハズウェ Jレ炭鉱(ダラムチト|)
る
。 1844年 9月 2
った。このことは,ウェップも指摘している通りである
)の著書のなか
が11),ページ・アーノット(PageArnot
l
に爆発がおこり, 9
6人が死んだ。・・・・さらにしょっちゅ
う横坑全体またはその一部が落盤して,労働者を生き埋
にくわしい。
一
1
8
2
9年に,国会に鉱山保安についての委員会(S
e
l
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めにしたり,おしつぶしたりする。・・・・労働者が竪坑に
Committee
)がもうけられているが, 1
8
3
5年にもさらに
おりるときにつかう綱が粗悪で,こなどなになってしま
同委員会が設置され,災害原因とその対策について審議
う」と指摘していたの。
している。ただ,この委員会は,立法措置に関しては何
「いい通気のところはなかった。黒い霧によってひど
らの勧告もしていない。つまり,炭鉱労働者がとりあげ
く悩ませられた。決して安全燈を使ったことがなかっ
るまでは,保安立法についての何らの試みもなかったの
た。炭坑は裸のローソクをもって行く男たちによって試
である。 1
8
4
0∼42年に本問題についての王立委員会が
されていた0 ・・・・ある坑夫は, ときにはストーブのよう
もうけられたのも,炭鉱労働組合運動の最初の高揚とチ
に熱い炭坑を見出したことがあるとのべている」目。
もっとも,労働災害が続発したのは,単に安全施設が
不備だったからではない。どの炭鉱でも多数の少年が使
ャーテイスト運動の高まりをも反映していた。この王立
8
4
2年の立法であったが,それによっ
委員会の成果が 1
て,始めて鉱山労働への国家の介入が始まった12\ た だ
用され,それが重要な仕事についていたo 少年の仕事・立
これはまことに微温的な立法で,婦人と 1
0歳未満の男
通気調節のタラップ戸を上げ下げする仕事,石炭を炭車
子の坑内労働の禁止,竪坑の運転に使用される蒸気機関
(
7
'
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2
)
その他の機械には 15歳以半のものがつかねばならぬこ
れてから, 1862年法によって,各炭鉱は, 2つの竪坑を
の
とi 監督官の任命をきめた位で,鉱山保安の一般原則j
もうけるべきことが定められた。その後も,鉱夫組合の
記載はなく,監督官も坑内に自由に立入る権限は与えら
しつような運動が継続されるが,それはまた,大災害の
続発した時期でもあった。 1866年には 361名の死亡をみ
れていなかった。 それも,鉱山主たちの反対が強かった
ために他ならない。
炭鉱労働者は,この主法にあきたらず,国会にたいし
l
たオーク炭鉱の爆発, 67年にはファンダエイルで 176名
の生命をうばった爆発がおきている d かくて, 1872年に
ι
て,数々の請願を行なっている。この請願の中心におか
改正法が成立するのである。
れたのは,、監督官の任命であったが, 40年代を通じるイ
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)
ギリス鉱夫組合(M
3
1にふやし,一定の資格をもった支配人の設置を定め
の運動は,科学者の勧告や官庁ならびに国会の委員会の
報告などと相まって, .
・
1
8
5
0年の立法を成立させることに
鉱に雇用される労働者に,ときどき作業場を点検する権
なる 1由。この立法によって,監督官は鉱山に立ち入り,
安全に関するあらゆる事項について質問する権限を与え
限を与えて,作業の安全状態を維持することを規定した
のである。また最低年齢を 10歳とし,年少者の労働時
られたが,このばあいでも,もし彼が危険な状態を発見
間を 10時間とした則。いまから考えると, まことに立
したとしても,単に道徳的な勧告を行なうこ左ができる
ちおくれた規定であるが; '
1
8
4
7年に成立した工場の 1
0
との 1872年法は,
さらに規制をつよめ,一般原則を
た。この』とき i現在もある労働者監督の制度,つまり炭
,
む
ろi
ん,こんな立法は,鉱夫たちを満
にすぎなかったQ:
時間労働法に対応するものであった。この規定内容の不
足させるものではなかった。ー
十分さは,安全諸規定についてもあてはまる。
.1
1
8
5
0年以降 1
9
1
0年に至る 6
0年間は,
よりよい炭鉱
この国で労働運動のかなりの発展がみられるようにな
法のための闘いの長い歴史として年とった鉱夫の記憶の
るのは, 1824・25年に行なわれた団結禁止法の徹廃以降
1
0 といわれるほど,安全立法の発展
なかに残っている J
のこ:とである。 1841年には,各地で結成されていた諸
,
8
5
5年にほ,さら
には,炭鉱夫の闘いが影響している。 1
組合があつまって,イギリス・アイルランド炭鉱夫組合
ζ
t新たな立法が成立しているが,ここに始めて簡単なが
ら安全につ川て 7つの一般原則が定められ,その他,特
(
M
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)
°
が
殊の規定をもラける権限が政府伝与えられた。この一般
原則によって,経営側の責任が一応定められ,炭鉱を安
結成され, 1
8
4
3
.年の大会に怯 7万人の鉱夫を代表する代
議員が出席している。ただ,この MAG
BIは
, 1848年
、までに勢力を失うが,各地の組合が潰減じたがけでは決
全状態におくことが義務づけられたのである 15)。ここに
して沿い。その後再び全国組織の結成がところみられ,
近代鉱山立法の体裁がととのったわけであるが,しかし,
1
8
6
3年には,全国鉱夫組合(MinersN
a
t
i
o
n
a
lUnion)
この特殊規定については,鉱山主の同意を要するとな今
が成立する杭これが結局, 1889年のイギリス鉱夫連合
(
M
i
n
e
r
s’F巴d
e
r
a
t
i
o
no
fG
r
e
a
tB
r
i
t
a
i
n
)に発展して行く
のである。
ていたし,
ζ の立法全体は臨時立法にすぎなかった。
1
8
6
0年法によって,始めて恒久立法として発展し,さ
らにくわしし 15の一般原則がもりこまれた。また,ハ
t
ート νー炭鉱の大爆発によって, 204名の生命が失なわ
1-1表
イギリスの労働災害の歴史的概観
石炭
産出量
被用者マンシフト 死亡災害
100万トン 1000人
1
0
0
0
259.5
1
0
1
2
.
7
1
.
5
.
1
8
5
3
→1862
重大災者傷害合計
1
0
0
0
人あたり率
死亡重大災害傷害計
3.90
王1
3
.
5
340.8
.
1
0
6
9
3.14
,1
5
2
.5
1
8
2
.
6
215.8
503.8
.
5
7
1
.
7
732.4
957.
8
1
1
2
9
1
0
3
2
1
0
1
5
1
2
7
5
5
7
2
9
2•.2
4
・
1
.
8
1
1.39
1
5
4
,
2
9
3 1.33
5.5
1
4
8
.
1
1
2
9
8
1064
8
7
.
7
!
;
>
3
8
4692
4
1
9
τ‘
3
1
2
3
2293
1
5
1
,
2
5
4
1
7
0
,
0
5
6
1
4
0
,
2
9
7、
1
9
8
,
3
8
1
4.2
4
.
1
4.0
3.
.
1
1
3
0
.
7
1
6
6
.
8
1
8
1
.
3
2
7
0
.
9
1863-1872
、
1
8
7
3 1
8
8
2.
1883-1892
l
!
l
9
3 1
9
0
2
°
1903-1912
とのような諸施策の発展の下に,災害率は次表に示し
たように低下して行った。炭鉱夫の数はふえたにもかか
1913-1922.
1
9
2
3
.
:
1
9
3
2
1933-1942’ :
1943-1952
2
6
7
/
t
'
'
260.7 1085.5
252.1 •: 1019.5
2
2
7
.
7
・
7
7
7
.
0
201.2
73Z
.
.3
2
.
7
9
8
2
0
5
4
(
>
2
.
0
4
7
1
.
8
4
3
1.20
1.04
1.13.
0.73
ReportoLHM,,.ChieLinspectoro
fMinesand9ua!1
恰ョ f
o
r.
1
9
6
3
.
.p. 40
三
(773)
わらず,災害死亡件数は 1012-ll29件マあったので,
いて特殊の規則をもうける権限を与えた。 1900年法によ
1
最低年齢はさらに HI歳に引上げられた2
0
¥
;
つで, J
100()人率は 1850年代の 3.9から, 70年代の 2
.
2
4
,80年
代の 1
.
.81へと低下してきた。 しかじ,へったといつで
、イギリスの労働運動は,今世紀初頭一つの高揚期に入
も
, 1000人をこえる死亡は相当なもので,第 2次大戦後
っている。 1900年には既に労働組合員は 200万と!なって
l
の最近では 250人にすぎないのに対して 4倍をこえてい
いたし,労働者階級のための政治的活動を行なうため
た。との当時なお,大爆発による事故がひんぴんとおき
1900年に労働代表委員会(LabourR
e
p
r
e
s
e
n
t
a
t
i
o
nCom-
ており, 1870年代には,アパカーシ炭鉱で 268人,ブラ
m
i
t
t
e
e
)がもうけられ,と れがのち(1906年)に労働党に
シタイヤで 207人という大事故があり, 80年代にはシー
発展しで行くのである。労働者の社会改良への要求が高
l
ハムで 164人,クリ フトンホールで 178人の大事故が発
まり, 1906年の TUC大会では,数々の要求項目が決
生している。むろんこれ以外にも,死亡 100人をこえる
議されでいるが,このなかには 8時間労働日,災害補償
事故がぼこぼこと発生している 17)0 災害死亡率がへった
法
, トラックシステム禁止法などが含まれていた。この
といつでも以前にはひどく高かったものが,若干低下し
1906年の総選挙では労働党は一躍 30名を確保し, 労働
たにすぎなかったのである。
とのように大災害がひん発したのは,保安立法の発展
運動の前途に新らしい展望をひらくが,このとき成立じ
にもかかわらず,その水準が低かったと三と,炭鉱業の技
多く',の紅会立法をもろげた。労働争議法( 1906),老齢年
i
た自由党政権は,労働者階級にたいする譲歩として,数
術的発展にともなつで,安全対策がそれにふさわしレ、程
9
(
)
8
),賃金局法(1909
),職業紹介法(1909),,国民
金法(1
度でとり入れられなかったこと,資本家たちは,いぜん
保険法(191i)な’どはそれであるが,とくに炭鉱夫に関係
として保安をないがしろにい保安立法を十分にまもら
),炭鉱災害
のあるちのとしては,炭鉱 8時間法(1908
なかったこと,さらに,監督官の数が余りにも少なし
適切に監督する体制がつくられでいなかったことなどを
(救護)法.(
1
9
1
0
),炭鉱法(1911),炭鉱(最低賃金)法
あげることができる。監督についていうと,, 1865年に
実施をみたのはj 労働者の政治的勢力が強大になったこ
:
3
2
1
7鉱山が存在していたが, わずか 12名の監督官がい
ただけで, 10年に 1回位しか監督に主われないという実
と,当時ストライキが続発したことにおうているが,炭
鉱についていえば,鉱夫連合の勢力がのび, 1912年には
ー状であったし18',監督官の増員はその後長期間行なわれ
80万に達していた。つまり,当時最有力組合の一つ左な
(
1
9
1
2
)があったo 'とのように,次今に社会改良の政策が
、
なかった。
と乙ろで,注意すべきは,火薬の使用, 電化, 機械化
づていたのである。
が新たに災害の危険を増大させることになった 点であ
王立委員会がもう抄られているが,これには,鉱夫連合
1
v
f
J
l
とのようななかで, 1906年,鉱夫の安全衛生に関する
る。当時の労働組合は,電気の坑内での使用に反対した。
の代表も参加している。との委員会での第ーの問題は,
F
それはわれわれに真の危険を生み出すにちがいない故
われわれは電気機械にたいして反対である。J「人間の生
監督の適切さについてであったが, 当時なお 12名の監
督官しかおら cf,ただサンプfレとして監督するにすぎな
命 は ,安価の祭壇の犠牲にされるべきではない」という
か勺た。しかし,鉱山主と経営者は,サシフ。Jレ監督(i
n
s
-
のであった。機械化は,作業の速度を早め,災害の危険
p
e
c
t
_
i
o
nbyS
(
i
J
i
i
p
l
e
)がただーでつの実行可能な方法であ
l
まことにおど δ くべき態
ち倍化した。ロールカッターによって多くの災害が発生
,
り 十分に効果的だという,
した。それを運転する労働者は電気の知識をもたなかっ
度であった。 この委員会は,監替官の増員とその資格の
:たので,禁止されているにもかかわらず内部をいじって
改善について勧告じたにとどまったが, 3人の鉱夫代表
は,フランスの鉱夫委員の制度をとることを要求した。
A
災害をひきおこした。機械の騒音は,経験によって天磐
J
i
I
が不安全であると示しでくれる f
音J
をきくのをさまたげ
このフランスの制度は,のちにのベるように,国家から給
るようになった問。
労働組合は当然のこととして,監替官の増員を要求じ
料がでて,坑内を点検する権限を与えられるものであっ
お。 1~86 年に王立委員会の答申がでた杭そのなかでガ
フランスとぷノレギーに比ベイギリスの死亡率が高いこと
た。この王立委員会は,当時他国の災害率と比較して',
ス,炭じんの危険を指摘し,点火のためのガシパウダー
を発見していた。 結局,,,この王立委員会の勧告がもとと
(gunpowder)よりも,高価な爆薬の使用芦勧告した。
なって, 当時とすると,
1887年に炭鉱規制法が成立し, 7
2年法の原則を 改訂し
法が成立するのであるが, それが 1911年の鉱業法であ
た。 坑内労働の最低年齢は 12,歳となり, 昇降機の運転
る21¥
I
I
t
l
もっとも進歩した鉱山保安立
については最低 22歳となった。 1896年の改正訟は内務
もっとも,鉱夫連合は,その原案にすべて賛成したわ
大臣にたいして,ー火薬ならびに安全燈などの諸事項につ
けでは なかったd ダービーシャの鉱夫組合は, 婦人の就
ι
l
(774)
労禁止,年少者の制限,強制的浴場の設置,その他につ
いては賛成したが,照明の目的を除いて炭鉱から電気を
排除すること,死亡事故の調査の審査員 (
j
u
r
y
)の 3分の
1は,かつて鉱夫であったものまたは現に鉱夫であるも
,
0
0
0人率は増大して行った。 1
9
1
4年の 1.15
災害死亡 1
から 1
9
1
5
-年以降, 1
.3
6
,1
.3
2
,1
.3
4
,1
.3
9と増大した
のであった。むろん,戦争になって災害のふえたのは炭
鉱だけではない。工場でも同様,災害がふえている。こ
のにすること,この法律にもとづいて特殊規則をもうけ
れはいうまでもなく,労働時間の延長,労働密度の強化
るばあいには,それをとりあっかうあらゆる委員会に鉱
動員にもとづく不習熟労働者の増大,さらに生産第一の
夫が含まるべきことなどを要求したω。
これらの諸要求は法案のなかにはもりこまれなかった
傾向がつよまり,安全が無視されるようになったこと,
9
1
1年法(C
o
a
lMihesActo
f1
9
1
1
)
が,法律化された 1
は
, 1
9
5
4年の鉱山採石場法が成立するまでもっとも重要
て労働組合を禁圧するといったことはなかったが,何れ
にせよ,戦争が災害をふやす傾向をもっていることは,
な安全立法として実施されてきたものであった。例えば
洋の東西を間わない。
炭鉱支配人・副支配人の資格条件,施業案の国家への報
B
. 第 1次大戦後から第 2次大戦に至る時期
ヨーロッパ諸国では,第 1次大戦後には労働運動の高
揚期を迎えるが,このイギりスでも同様であった。労働
組合運動は未曾有の高まりを示し,多くの組合は 8時 間
労働制を確立し,実質賃金の上昇をみている。炭鉱夫に
9
2
0年には約 9
0万人を組織し,組織率
ついていえば, 1
は 80%をこえており,鉄道労働組合,運輸労働組合と
三角同盟を結成して,力強い闘争を展開したのである。
その成果の一つは,炭鉱夫の労働時間を 7時聞にする
立法を獲得したととである(組合は 6時間を要求してい
た)>これは,鉱夫の労働時間の短縮を通じて, その災
害の減少をもたらしたことは指摘するまでもない。しか
も,時間延長は,労働者の疲労を累進的に高め,したが
って災害を累進的に高める傾向をもっていたので,この
8分の 7への時間短縮は,災害を 8分の 1以上少くさせ
た筈であった。さきの表によると, 1913-1922年平均は
告
, 通気,安全燈,竪坑,運搬,支保,機械,電気,火
1
薬などの技術的安全規定,衛生,職業病の規定,災害報
告と調査,応急措置と救護サービス, 14歳の最低年齢,
監督官の権限と義務の強化などである Q :また,労働者監
督の制度も強化されたし,国の大臣は,規則によって安
, 2重要な点を
全規定を改訂する権限が与えられた。 1
指摘しておくと,爆発その他の危険を発見したときには
鉱山の担当者は労働者を退避させ,危険がなくなるまで
通常の作業をさせていけないこと,労働者がガスを発見
したときには,直ちにそこから退避し,職長等に報告す
ること,鉱山主の点検の義務づけ,などがある。なお,
1
9
1
0年に炭鉱災害(救護)法が成立したが,この法律に
9
2
8年に中央救護暑の設置の命令が出され
もとづいて, 1
ている。この規定は,現行規則とそれほどちがったもの
9
1
0年頃か
ではないが,こういう中央救護署の制度は, 1
ら自主的にもうけられ始めていたことに注意する必要が
ある 23)
。
などにもとづく。もっとも,こ固ではストの制限を除い
1
.
2の災害率だが, 14-18年を除くと残りの年は 1
.
0
9
となる。したがって,戦時中の 1
.
3
7から 0
.
2
8ポインだ
この法律の準備段階中にも,数々の爆発がおきてい
けつまり約 2割方災害率を低めたことになる。また,戦
9
0
9年にはウエストスタン νーで 1
6!
!
て
入
, 1
9
1
0年
る
。 1
前に比ペても,ーそう低いことは,さきに示した数値か
3
6
, ハノレトンで .
3
4
'
4名の死亡を
にはホワイトヘヴンで 1
らわかる筈である。もっとも,この闘争で,炭鉱夫連合
もたらした爆発が発!生している。とくに, 1910年には,
は炭鉱の国有化をもあわせ要求していたが,それは政府
8
1
8名にも達しており, 1
8
7
2年以
鉱夫の死亡者計は, 1
によって拒否された。
1
9
2
1年の恐慌によって,イギリス産業は苦境に立つが
降最高の数字であった。これらの大災害の発生が,法案
その影響をもっとも強くうけたのは石炭鉱業であった。
の成立に寄与したことは確実であるが,それは,わが国
と同様この国でも, 「議会において,鉱山における安全
措置を導入する数歩をふみ出させたのは,日々の死亡,
何より賃金切下げの攻撃であったが,形は,戦時中から
負傷事件よりもむしろこれらの大災害であったJからで
定にうっそうというものであった。鉱夫連合はロックア
引きついだ全国賃金局と全国プール制を廃止し,地域協
ある 24)。しかし何より,強大となった鉱夫組合が,積極
ウトをうげ,政府の攻撃の前に,三角同盟は崩壊じ,終
的運動を展開したことが,安全立法の推進に最大のカと
なったことは,指摘するまでもない。ただし,この新立
に敗北に終った。あと,歴史上最大の賃下げをうけてい
る。このあと,合理化政策が進行するが,それへの反対
9
1
3年には,セングンニイドにお
法の成立後まもない 1
いて, 4
3
9名の死亡をまねいた大災害が発生したのは,
た。くわしくはのぺないが,このとき,鉱業主は,大~ii
この法律内容の不十分さを物語るものであった。
ととろで, 1914年から始った世界大戦の下で,炭鉱の
9
2
6年のゼネ・ストであっ
が集中化して現われたのは,' 1
な賃下げj最低賃金原則の廃止,ならびに地域協定につ
いての完全な破棄を要求してきた。 むろん,鉱夫連合は
l
(775)
それに真向から反対し,今度は TUCの“完全な支持”
発と竪坑事故の二つで,運搬事故は大差なく,落盤は若
をえて, 1
9
2
6年のゼネストに突入するのである。しかし
干減少した程度である。またとれを 1
8
7
3
一8
2年と比べ
このストライキはわずか 9日間しかつづかなかった。と
ると,落盤止運搬事故の二つはふえているが,爆発は 5
いうのは,ゼネストが開始される前から TUC総評議会
分の 1に,竪坑事故は 3分の 1へと激減している。坑外
事故については, 大差ない。
の支持は消極的であって,まもなく総評議会はそのスト
l
ライキの終結をはかったのであった。鉱夫連合はとのス
この数字から,爆発事故の死亡者数が,どんどん低下
トの中止に同意せず,孤立して闘ったが,結局敗北に終
し,第 1次大戦後には,年間平均 52人に減少していた
っている。この敗北によって,賃金の切下げが行われ,
ことがわかる。これは三池爆発前の日本の爆発件数に近
7時間法は 8時間法に改められ,さらに一般労働組合運
動にたいする抑制をふくむ労働争議法の大改正が行なわ
れている。このあと,労資協調のモンド主義がイギリス
労働運動に広まって行ったのである量的。
い値である。しか!し, l大きな爆発がなかったわげではな
亡者をみた大爆発が, 1
9
3
4年にはグレスフォード炭鉱で
ととろで,その後の労働災害率は,むしろふえる傾向
2
6
1人の死亡をみた大事故が発生している。それはとも
があった。 I-2表によってみると,災害死亡率は 1
9
2
4
一
かく,このように爆発事故伝よる死亡者をへらせたのも,
I-2表戦前イギリスの炭鉱における災害死亡率
爆発のメカニズムが明らかとなるにしたがって,適切な
1
0
0
0人あたり 年間シフト数により修正
1895-1903
1904-1908
1909-1914
1915-1923
1924-1932
1933-1939
1
.
3
4
1
.
3
0
1
.3
6
1
.
1
2
1
.
0
5
1
.
0
6
1
,
3
4
L28
1
.3
2
1
.06
1
.
1
1
1
.
1
4
い
。1
0年簡を平均すると以前に比べ少なくはなったが,
1
9
1
3年には,前述したセングンニイド炭鉱で 4
3
9人の死
対策が立て易くなったこと,さらに安全対策が前進した
ために外ならない。
これに比べると,落盤や運搬事故は,採炭が深部に進
むとともに,危険発生の可能性がいよいよ高まり,さら
にそめ範囲が増大するという問題点をもっているだけに
それの減少は爆発事故に比べて一層困難だったどみられ
る
。 コ{ルカッターは急速に導入され,その使用範囲は
i
J
u
r
g
e
nK
u
c
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u
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,B
d
.2
5
;S
.1
0
0
.
1
1で
, 1915-23年の 1
.
0
6
32年にはシフトあたりで 1
よ り 高 し さ ら に 33-39年には i
.
1
4へと高まってい
ま
た
,
るo'
1
9
1
3年には 8 %にすぎなかったものが, 1
9
3
4年には 47
%を上廻るに至っている。この機械化の進展は,戦後の
わが国でもみられるように,労働者の災害を増加させる
傾向をもっていた。
I-1表によると,傷害率は 1
9
1
3一22年の
「不幸にして,機械の運転によって生じる騒音比 ま
1
3
0
.
7から, 23-32年の 1
6
6
.
8
, 33-42年の 1
8
1
.3
,へと
さにおとらんと守る大地の動きを予告するひびき宕炭鉱
l
高まっている。ふつうならば,恐慌期には災害率が低下
夫がきくことを一層困難にさせており,ときには災害増
する筈であるが,それがそうはならなかったのである。
加にみちびく」傾向があった。また,機械化によって切
ζ れはいうまでもなく,労働時聞が以前より約 1時間延
羽の前進テンポが進み,それが災害率を低める傾向をも
長されたとと,労働組合のカが弱まり,労働密度も高ま
ってはいたが,(例えば,年間 1
2
1ヤードより少ない切
ったことなどに起因するものと考えていい。
羽の前進速度のばあいは,災害率(1
0万マンシフト)は
次表 (I-3表)は,この間どういう死亡災害がとくに
63だったが, 1
2
1∼1
6
0ヤードでは 5
2
,3
8
0ヤ{ドでは
9
2
3
減少したかを示したものである。 1903-1912年と 1
45
),他方,次のような事実もあった。それは機械化は
-32年とを比べてみると,とくに減少の著しいのは, 爆
作業テンポを早め,労働者の疲労を高め,この面から災
l
一 1~3 表炭鉱労働災害死亡件数(年平均)(イギリス)
坑内
1
8
7
3
」 1
9
8
2
1883-1892
1893-1902
1903-1912
1913-1922
1
9
2
3一1
9
3
2
務ばん
運搬
爆発
竪坑
4
5
3
4
6
0
4
4
8
5
7
3
6
0
7
5
3
6
1
2
8
1
5
1
1
6
8
2
3
5
2
4
9
2
3
9
2
6
3
1
4
7
1
0
4
1
3
3
88
52
1
3
0
88
79
8
1
5
3
42
その他合計坑外
1
0
3
7
9
2
6
8
9
5
1
1
3
0
1
1
1
3
9
8
4
92
1
0
6
1
2
0
1
4
5
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3
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9
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1
1
2
9
1
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3
2
1
0
1
5
1
2
7
5
1
2
4
3
1
0
7
9
災害率(1
0万人あたり)
224
1
8
1
1
3
9
1
3
3
1
1
5
1
0
5
(776)
害の危険を増大さるものであったが,それだけでなく,
年のポッドモァーホール(155名)だけで, 1件にすぎな
機械化が運搬の速度を著しく高めるために, また,複雑
かったが,このことは現場でのガス対策が以前に比ぺは
i
な機械の移動と運転の困難さなどの諸原因によって,災
るかに進歩したことを物語るものであった。 しかし,
。
)
害の重大な増加をもたらしたことであ 9た27
1
9
3
4年ダービーシャのグレスフォードにおいて,一挙に
I-1表の災害死亡率は, 1923-32年を底として, 3
3
2
.
6
5名の鉱夫の生命を奪うという大事故が, また, 1938
,
4
2年には上昇しているが,後者の時期には戦争が含ま
年,第 2次大戦を直前にして, マーカムにおいて 7
9名
オもている。それで, 1-2表によってみると, 24 32年
の死亡者をみた大爆発が発生しているのである紛。
.
.
05は 33-39年の 1
.
0
6に変っただけで大差がない
の1
之のグレスフォードの大災害の発生は,世論の関心を
高め,直ちにその原因調査が行なわれ,国会でも度々問
が,,マンシフトあたりでみると, 1.11から 1
.
1
4
.
へと上
昇の傾向がはっきりで℃くる;ところが, I1表の傷害
題にされた。 Lかし,そこで明らかとなったのは,炭鉱
に働らく人たちを保護するためにつくられた法律と規則
全体とすると,第 2次大戦にかけて確実に増加の傾向が
うかがわれる(1923-32年の・
1
6
6
.
8から 1933-42年の
の数多くの違反が行なわれ,監督機構の態度は悲しむべ
き状態にあったとと,ただ形式的な臨検(v
i
s
i
t
)がおとな
われ,多くのばあい坑外だけを検査し,災害が発生した
181.3へJ
。もつ止も,軽傷を含む災害統計のばあいに
は,統計のとり方によって動き易いこと,さらに労働者
ときにも坑内の監督は予め準備された形で行なわれたに
すぎず,監替は完全に道化芝居(f
a
r
c
e
)であったことが
の民主的権利の主張が強くなるとそれが災害負傷率を増
大させる傾向があるので,実際の値の変化を知る乙左は
できないが,前記の数値の変化から,合理化の進行が,
明包かとなった。かくて, 1935年に王立委員会がもうけ
られ,その最終勧告は 1938年 12月に公刊された。この
労働者の作業の密度を高め,傷害を増大させたとみるこ
とはあえて不当ではない。いま,マンシフトあたりの出
炭量をみると, 1913-22年の 0.93 トンから,. 1923-32
勧告は多方面にわたるが,それに従って,まもなく,数
々の「規則Jの改正が行なわれた。もっとも,との勧告
年のり .
9
9ト
シ
, 1933-42年の 1.16トーンへと増大し, と
は,鉱業法そのものの改正を企図したものであったが,
まもなく戦争が始まったので,法自体の改正は見送られ
たの である。それが,改正法となるには, 1954年の鉱山
くに 33年以降の値の上昇が著しいととは, それを示し
l
でいる 0 :
との問,安全運動の前進のあったことは事実である。
l
採石場法の成立をまたねばならなかった加。
アメリカ合衆国に始まった“安全第一”という考え方は
この固にもとり入れられた。全国安全第 1協会(S
a
f
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y
C
. 第 2次大戦後
第 2次大戦後のイギリスの炭鉱災害をみるばあいには
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o
n
);,産業福利協会(I
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lWelfare
炭鉱の固有化という事実を忘れてはならない。この国の
),王立災害防止協会(RoyalSod
巴t
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坑夫連合は,久しく炭鉱固有化を主張し,そのために数
,
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no
fA
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c
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n
t
)の活動がつよまり,数々のカン
J
X
大戦後の労働
々の運動を展開しできたが,それが第 Z
バニアが組織されーるようになった。 Lかし当時の鉱山監
党攻府の下でやっと達成をみてたのである。もっとも,
督官の報告によれば,「安全運動は,熱狂的に展開され
ζ めどき固有化されたのば,単に炭鉱だけでなく,ガス
, ヨークシャでは,「安全第一J
たとはみえなかったjじ
について何も見聞きしなかうた。といわれている 2由。当
電気,鉄鋼,鉄道,道路交通などであったが,鉄鋼と道
l
激烈な闘争を展開しており》雇主の側もそれの対応策に
路交通はのちに民有化にうつされた。ただ,炭鉱の国営
化も,全炭鉱にわたるものでなく, 1964年末でみると,
922炭鉱のうち,国営炭鉱は 5
8
1であって,残りの 341
熱中して,安全運動に関心が少おかったとみるととがで
は私営化されている Sl)o
時鉱夫連合は, 1926年に至るまでは三角同盟を結んで,
きる。また 1929年恐慌以降になると,労働組合の方は,
もちろん,との固有化をもって,一部の人たちの主張
どうして失業問題に対処するかに関心をうばわれ,安全
闘争を強力に展開する余裕も少なかった。しかし,安全
対策のーっとして若い労働者にたいする安全教育がこの
するように社会主義佑とみなす?ととはできない。固有イじ
企業の管理局のメンパーの 88%は資本家階級の代表者
であるし,固有化にさいして所有者に有利な有償買上の
期に広まったことは指摘しておかねばならないし,また’
2つの大戦の間に安全燈の設計がひじように改善され,
原則がつらぬかれ,結果としては,破産ないし半分破産
..した産業の以前の所有者に賠償として巨額の金を与えた
l
携帯用の電燈がつくられで能率的になり,その使用が広
まった。しかし,法律の違反も多く,災害は決して少なく
はなかった。たしかに, 1914年以降 1933年までは,大
!ことを意味していたω。とくに炭鉱のぼあい, 1930年代
0
0人以上の死亡をまねくといった事故は 1
9
1
8
災害で 1
を再たび民有化されたのである)。つま!り国家資本主義
に殆んど配当さえしなかった炭鉱が含まれていたことに
留意する必要がある。 (鉄鋼は利潤の多い産業だからこ
(777)
(
S
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l
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s
m
)であっても, 決して「社会主義化j
重の監督である。また,以前に比べ,労働者の安全教育
でも,「混合経済化jでもなかった。、
が車国裁的に行なわれるようになった。これまでいくたの
ことの本質は以上の通りであるが,炭鉱国有化のあと
法律のな かにばらばらに含まれていた鉱山保安関係の諸
l
全国石炭局によって運営されるようになってから,炭鉱
規定は, 1954年の鉱山採石場法(MinesandQ
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s
'
の労働条件が以前に比べるとよくなったことは否定でき
)として統合化され,内容的には一歩前進した。
Act
ないようである。戦前,炭鉱の賃金は産業の順位からい
i
しかしj他面,石炭合理化政策の下で,近年労働密度
うと相当下位にあったが,戦後その水準は大幅に上昇し
の高まりがみられるようである。 1
9
5
7年に 73.4万人だ
た。それは,イギリス産業の発展のために必要な石炭鉱
った従業員数は, 1
9
6
3年には 5
4
.
2万へと約 20万人減少
業の確立のために,落大な国家資金が投入され,有能な
し,マン・シフトあたりの生産量は,.1.27トンから 1.60
労働者を確保するためにその賃金を引上げた乙とによる
トンへと約 36%上昇しでいる。つまり, 人員はへって
が,戦後労働者階級の発言権も強まり,それが政策決定
も,総生産量は大差なかったのである。このような短期
t
こ一部反映されたことも無視できない。もっとも,戦後
間にこれだザの生産能率の増加がみられたのは,未だか
の固有化企業のすべての運営が,労働者階級の要望する
つてみられなかった ζ とである。この間労働密度が著し
線にそって進行したという意味では決してない。近年,
く高まったとみて間違いない。
石炭合理化政策の下で,労働者の反対にもかかわらず,
一部の非能率炭鉱の閉鎖がうづいていることなどはそれ
を物語っている o
では,次に戦後の労働災害の動きをみてみよう。
0
0人を下廻り, 1
9
6
1年以
死亡者の数は,戦後は大体 5
0
0人を下廻り, 1
9
6
4年には 1
9
8人と,歴史
降はさらに 3
しかし,安全対策の面では,たしかに若干の前進はみ
i
られた。別著Sのにおいてのべたように,地方安全局(D
上最低の水準になうている。従業員数も減少したので,
死亡率はその割に低下したわけでないが,戦前 1
0
0
0人あ
s
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)がもうけられ,そこに労働組合に
たり :
l.
.
1
3だったのが, 43-52年の平均で 0
.
7
3
,5
6年以
よってえらばれた監管員(技師)がいて,監督の一翼をに
1年以降はすべ℃ 0
.
5を下廻
降は 0.4台の年がふえ, 6
なうという新らしい制度が,既存の国家監督ならびに労
!
)
,6
4年には 0
.
3
8で
,
働者監督とならんでとられるようになっだ。つまり,三
0
'
6
4
)を平均すると, 0.44
で
いる。かりに最近 5年間(6
これも歴史上最低の値となって
.
I-4表 戦 後 イ ギ Pスの労働災害
従業者マンシフト
出炭量
1
0
0万トン 1000人
1
0方
1933-42
1943-52
1
9
4
7
1
9
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1
9
4
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1
9
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1
9
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1
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1
9
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1954'
1
9
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1
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6
1
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死亡者
人
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3
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6
1
8
468
460
493
487
420
392
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7
1
425
、330
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2
8
3
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2
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2
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6
1
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、
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0
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0人あたり)
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重傷
1
8
1
.
3
2
2
3
.
0・
(776)
100年前の 3
.
9
0の大体 9分の lに,今世紀初頭の(1
9
0
3
-1912)1
.
3
3に比べると大体 3分の lに,戦前に比べ約
40%に低下したことになる。これは, 労働時間の短縮
と相まって安全対策が進んだことを物語るものである。
この死亡災害の内訳を 1923-32年と比べてみると,
坑外より坑内の低下率の方が著しく,落盤は 5分の lに
竪坑も大体それに近く低下し,運搬の減少率はやや少な
し爆発事故は 3分の 1に低下している。もっともとの
9
6
0年に 49人の死亡をみたためにこうなった
爆発も, 1
もので,この年を除くと, 4年間の合計でわずかに 37名
.
9
3が 2
.
1
4へと
もに報告した事業場だけをとっても, 1
増加している 300 しかし,炭鉱ほどのみえ方ではない。
炭鉱における傷害の激増は,わが国と同様,炭鉱の合
理化におうところが大きい。このことは,従業員 1人あ
たりの生産高が急速にのびているのに対応するもので,
災害対策によって死亡は減少させえたが,とくに軽傷に
ついては防止できず,ふえつづけているのである。前述
7 6
4年の聞で 26%
したように, 1人あたり生産高が 5
上昇し,他方災害率は 43%もふえているが, これは他
の条件を同じとして,労働密度が高まると,災害率は累
進的に高まる傾向をもっているからである。
I 5表災害種別の変化(イギ Pス
)
1923-32(A) 1960-64(B) BIA
5
3
6
2
3
9
5
2
42
1
1
5
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1
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.
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.
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2
.
7
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1
.
4
9
その{也
.
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2
.
6
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2
2
.
9
坑内計
2~5
27
2
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.
4
坑
外
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口
'
2
5
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3
.
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9
6
4
,p
p
. 52∼5
5
盤
落
運
搬
爆
発
シャフト
ノ
うち 6
1年長ロ, 62年 2
9
,6
3年 3
,64年 5となっている。
いまやイギリスマは,爆発による事故はほとんど問題に
9
4
7年には
ならなくなっている。(もっとも終戦直後の 1
168人の爆発死亡があった)。 わが国と雲泥の差である。
1
とこるが,死亡以外については,これと大分おもむき
が異色。
.
6にへ勺ているが, i
成り
重傷は,戦前の 4.0に比ぺ 2
に比べて, (
J
O
方は少なく, しかも 1953-57年の耳.,1
-64年は 2
.
6でかえって増加している。さらに全傷害率
(
1
0
0
0人あたり)をとると,戦前の 1
8
1から, 43-52年
7
f
f
.
9へふえ, 5
3年以降低下したものの, 5
7年を底
の2
として増加に転じ,とくに最近の増加は著しい。数値を
示すと,: .
5
7年の 2
6
9から 64年の 3
8
7へと大体 100ポイ
ントの増加であり, 1933-42年の 2倍をこえている。前
述のように死亡はへったが,とくに軽傷が激増している
のである。
最近負傷災害のふえているのは, イギリス産業全体
t
の傾向でもある。工業についてみるど j ここ 1
0年ばか
りの死亡率は 0.04 0.05で大差はない杭傷害率だと,
1962年の 1
.
6
6から 64年の 2
.
.
2
1へふえている。之れは
一つには,届出を怠った事業場があって,それが報告す
るようになったこともー因ながら,ち4年と 63年とにと
以上,イギリスの炭鉱災害の歴史を概説してきたが,
0
0年の聞で災害死亡
これによって, 長期的にみると, 1
率は著減してきたこと,それは何より安全立法の発展,
監督組織の発展,拡充におうところが大きいこと,労働
運動が安全対策の充実を要求し,それがもとになって,
安全対策がすすみ,災害率が低下してきたこと,などが
明らかとなった答である。現状についてくわしくのぺな
J
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著において論じたので省略したためであ
かったのは, 5
るが, ζのイギリスの災害率は,ヨーロッパ諸国のなか
でも敏い方に属している。これは,この闘の安全対策が
他国に比ぺすぐれていること,労働運動が長い歴史をも
ち,永年にわたって安全問題をとりあげ,安全確保の体
制が一般に充実していることの反映である。いうまでも
なく,この固め安全対策が理想的であるという意味では
決してない。そこには幾多の問題がある。だが,それに
ついては別著はゆずりこ ζではふれな I
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3)藤本武:各国の労働安全対策, 45-46ページ.
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1表から 1
0
0
0人率を算出すると, 3
.
4
3人
になる。またこの前の 1
0年間の平均は 3
.
5
9人である。
もっとも,とれには坑外に含まれていないので,やや不
正確だが, 当時イギリス坑内外で 3
.
9
3人だったのに比
べると, 幾分高かったものと考えられる。むろん, 産
業革命のピークをとつで対比したとすれば,フランスの
方が低かったにちがいない。こういう事実がみられたの
も一つはフランスでは既に 1
8
.
j
.
O年の鉱業法(1
8
1
3年の
命令)のなかに監督官の制度がもうけられ,行政命令に
違反する鉱業主にたいじでは,鉱山の稼働を中止させる
か,または処罰するという規定を含んでいたことが,一
理由と考光られるであろう九
このあと,災害率は J
.
9
0
0年にかけて急速に低下して
2
.
4と
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8
5
0年代の 3分の 1
行き, 1891-1900年には 1
に低下している。この低下のテンポはイギリスと大差な
この間ドイツでは低下せず, むしろ 1
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6
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をピーク(3.04
)とする上昇を示し, 1
9
0
0年頃に 1
0
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フランスはイギリスに比べ資本主義の発展が立ちお
生産量(千トン)
低い。フランスで産業革命の行なわれた時期は大体 1
9
世紀の前半と考えられるが,ここで災害率が示されてい
るのは, 1
8
4
1年以降である。
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くれたが,表示した如く,その石炭生産量は今に至るも
5
0
0
0万トン台であって,イギリスに比ぺ石炭業の比重は
率でやっと 2.41におちたものの, 1821-40年代(2
.
3
5
)
フランス炭鉱の生産量,!労働者,死亡災害件数
労働者
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3
1
.
4
1
.
9
2.4
2.2
2
.
3
2
.
2
1
.
7
1
.
0
1
.
0
1
.
3
0
.
9
1
.
0
?(
1
)
2
.
3
2.3
1
.9
2
.
8
2.4
2
.
3
1
.
8
2.6
坑陶
2
6
.
2
5
1
9
.
2
0
1
3
.
1
3
8
.
4
9
4
.
9
3
7.54
5
.
1
5
4
.
7
4
7.06
4
.
7
1
3
.
0
5
5
.
8
0
4
.
5
5
2
.
i
n
2
.
4
0
1
.
6
6
、
一
ー
一
坑
一
一
外
、
一
0.54
0
.
5
2
0.73
0
.
8
3
1
.
0
4
0.93
1
.
3
6
1
.
5
7
1
.
2
6
0.64
0.98
1
.
1
6
0
.
5
1
0.38
0.30
堅
一
−
坑
とほぼ同じ水準にあったのと対照的である 2
¥
は一時的に同法の適用を除外するという規定をもち,尻
1
8
7
0年以前には,鉄鉱山などの鉱夫は一般に季節的労
抜けになっていたのであった。しかし,やっと, 1913年
働で,農閑期にのみ従事するものから構成されていたが
に改正をみて,地下労働者にすべて適用をみることとな
ったの。一第 1次大戦前め 1900-1910年には,それ以前に
炭鉱夫についてはそうではなく,年中炭鉱で働らき,そ
の仕事しかついていなかったといわれている叱
比べて災害率が逆に上昇していたが,もし,真当の 8時
当時の労働時間については,正確には分っていない。
間制が確立していたならば,災害率はもっと低まってい
たにちがいない。
19世紀半ばだと j地域や鉱山の種類に孟ってちがいがあ
るが,地下労働では,実働 7∼ 9時間の 9∼12の時間だっ
また, 1890年には,鉱夫代表の監替制度(d
e
l
e
g
u
e
s
たといわれている目。 1
8
6
1年サンテェティエーヌの鉱夫 .,r
n
i
n
e
u
r
s
)を法律化している。このフランスの制度は,
は,ふつう 10時間の実働で坑内時間 12時間だったが,
イギリスに比べて時期的におくれているが,それは一つ
ある鉱山では坑内に 14時間いなければならなかったと
;
l
乙は,パリコミュンの敗北以降久しく労働運動が沈滞し,
いう。(もっとも, この当時の勤務は比較的ルーズだっ
とういった,労働者のための制度をもうける力強い運動
たらしい)。 しかし, 1880年代になると,労働時間も短
を展開する力量を蓄積することができなかったからであ
0時間のところが多かったようである民
くなり,大体 1
この頃から,
8時間労働運動が〕般的に高まってき
た
。 8時間労働制や最低賃金制を要求する労働者の一大
デモが行なわれたのも, 1
8
8
9年以降のことであるが,ょ
うやく, 1902年法によって 1
1時間, 1904年からそれが
10時聞になるようになり,後者は鉱山にも適用をみた。
さらに炭鉱については, 1905年の法律によって,坑内
労働 8時間の制限がもうけられた。炭鉱夫だけにその労
る。とのフランスの制度は,国家から給与がでるもので
ベルギーと同じ形をとっているが,鉱夫代表の権限は大
l
1
きし当時のイギリスの労働者監督の制度よりすぐれて
いた。これが労働災害の発生率を低める上に役立ったに
ちがいない。もともと,この制度は,ロアール炭坑にお
{いて,災害が多発した結果,鉱夫組合が国家監督の不充
分さを強烈に攻撃し,労働者自らの監督機関の確立を要
1
求した結果もう 砂られたものであって,その権限は,現
l
J
だけ少くするために,適用について種々の制限をもうけ
在のものと決定的なもがいはないοP.ピックは,この鉱
夫代表(委員)の制度のもうけられる以前の 8
年間とその
後の 8年間の災害死亡率を比較じて,ガス爆発t
己よるも
た。すなわち同法は,特殊の事情に応じて,永久的また
2
.
<
l
のは 7.0から 0.7へ,その他の原因によるものは 1
働時間を短縮する立法を獲得したのはイギリスと同じだ
が,雇主はこの法律の適用によっでうける損失をできる
(781)
から 10.5へ減少し,合計で 19.0から 11.2へ激減した
事実から,
対策が立ちおくれたのである。もっとも, 1910年には,
I
「鉱夫委員制度は,当初経営会社より疑問視
鉱山保安規則の改正をみているが,これは,大災害の勃
されていたが,今日においては,此の機関を設置した結
発が政府をしてそれをとりあげざるをえなくしたのであ
果,鉱山の衛生設備並びに事業の安全の見地よりみて,
る。次いで, 1911年には労働法典がつくられ,これまで
イギリスにおけるが如く,極めて良好なることが証明さ
の諸法令は集大成されている。しかし,まもなく,世界
れたJ
りとしている。 1900年頃に視点をおくと,
大戦に突入するのである。
フラン
スの炭鉱災害率がイギリスに比べて低かったのも,一つ
第 1次大戦中には,フランスでも,労働災害率は高ま
はこういう鉱夫監督の制度がもうけられていたためと考
った。 次に, I
I
3表を示したが, 1000人あたりの率と
えていい。
1
8
9
3年に,労働者の衛生ならびに安全についての法律
l
I
l
'
3表災害率ゐ変化(1910-1929年)(フランス)
が成立したが(その前年の 1892年には,婦人・年少者に
ついて法律がでて,その第 5節に労働者の衛生および安
全に関する節がもうけられていた)この法律は,鉱山の
地下労働にたいして適用されないが,地上の鉱山附属場
にたいしては適用された。もっとも,国家監督は,労働
監督官ではなくで,鉱山技術官が担当した叱
また,婦人, 年少労働者への保護もすすんだ。 1841年
l
に幼少年労働者の労働時間制限の法律がでているが,こ
れは鉱山へは適用がなかった。鉱山へも一括適用をみた
2歳と定めら
法律は, 1874年法であるが,最低年齢は 1
5
.歳未満の労働時間を 6時間として,他の年少者は
れ
, 1
12時間に制限され,さらに, 1
8
9
2年法で,婦人と 1
3歳
未満の男子の地下労働が禁止をうけることとなった。ま
た
, 13∼18
歳の若年者は支柱の取外し,取附け,掘さく
などの狭義の鉱山労働に従事することは禁じられ,危険
および苦痛の少ない選鉱,積込,小貨車の運搬だけが許
、1
0
0
0人率
1910-1914
1
9
1
5
1
9
1
6
1
9
1
7
.
1
9
1
8
1
9
1
9
1
9
2
0
1
9
2
1
1
9
2
2
1
9
2
3
1924
1
9
2
5
1
9
2
6
1
9
2
7
1
9
2
8
1
9
2
9
100万シフトあたり
1
.
1
1
5
1
.
6
7
4
1
.
5
9
5
2.470
2.157
1
.
2
4
1
1
.
0
7
0
,・
0
.
8
0
4
0
.
8
.
3
3
0.846
0.924
0.875
1
.
1
2
0
0.854
0
.
8
9
8
0
.
9
2
9
3.742
5
.
1
8
7
4.997
7.649
6
.
9
6
3
4.520
3.904
3
.
1
7
8
3
.
2
6
8
3
.
2
1
9
3
.
1
2
8
3
.
0
3
6
3
;
7
2
3・
3
.
0
0
1
3.665
I
n
t
e
r
n
a
t
i
o
n
a
lLabourR
e
v
i
e
w
,V
o
l
.2
2
,p
.29
容され, 16∼1
8歳未満の男子については 1日5時間を限
し
て
,
・ .
1
9
1
1
十1
4年には,年平均 1
.
1
1
5だったが, 1915-
って,助手叉は見習として採掘に従事することがみとめ
1
6年には,} .
6
3
5
;,さらに 1
7
ーで1
8年には 2.314へと激増
られた叱つまり,大体において, 1900年の前後に,労
し,後者では,戦前の 2倍に達している。これを, 100
働者保護の体系が一応確立されたといっていい。このこ
万シフトあた
とが, 1900年にかけて,災害率を低下させたー要因であ
熟練労働者の欠乏, 新入鉱員の増加,労働時間の延長,
った。
Pについてみても,同様である。戦争は,
l
労働密度の増加,坑内環境諸条件の悪他などを通じて,
ところが, 1900年代に入ると,反転して災害死亡率は
上昇している。 1906年には, 1300人の被災者を生じた
労働災害の増加をもたらしたのである。ただし,この戦
メリクール炭鉱の一大事故が発生しているが,それは,
時下の災害死亡率の高まりは, イギリスに比べて著しく
高いが,それは一つには,この国が戦揚となったこと,
トレーズの自伝“人民の子”の最初の部分に記載されて
イギリスに比べると労働者階級の勢力は相対的に低かっ
年分に匹敵する大災害の勃発が,
いる問。この 1
この
L
たζ どが関係しているにちがいえtい
。
期の災害率を高めたことは疑いない。当時は労働運動が
第 1次大戦後の革命的高揚期には,遇 48時間への労
e
l
l
e匂 oque
)といわ
発展し,いわゆる“よき時代”(Lab
働時間の短縮を規定した法律が成立しているが,これは
れたときにあたるが,当時,労働総同盟(CGT
)の主流
以前の所定時間内の賃金を 8時間労働に短縮し℃支払う
は,アナル=手・サ:〆ディカリズムであって,闘争を激発
という規定をあわせもっていたので,所得をへらさな
し,ゼネストにもって行くことを主目的とし,社会政策
いs 労働者にとって有利な時間低縮立法であった。炭鉱
の諸要求は,むしろ社会改良主義として排撃された。労
坑内夫はそれ以前に 8時間制を獲得じていたが,この法
働災害の危険の増大にもかかわらず,一ーもっとも,鉱
律によって坑外労働者にも 8時間制が確立されたこと,
夫 1人あたり出炭量は 1891
一1900年の 719kgから 1901
さらに戦時中の悪条件の解消によって,労働災害率は低
-1910年の 686kg'
へ
色
,
下し, 1
9
1
9
,2
0年は戦前水準とほぼ同じだが,それ以降
4 %余り減少しているが一一
.
(
7
8
2
)
その 1つは,大恐慌下の時期であり,もう 1つは 1
9
3
6
はむしろ戦前を下廻るようになる。しか,し,プランスの
ばあい, 1925年に至るまでインフレーションでなやみ,
年以降の人民戦線(社会党,急進社会党,共産党が中心
労働者の生活条件が悪化したこと,さらに合理化政策が
l
にもとづく,大幅な労働条件改善の時期
のもの)の勝手j
開始されたことに留意せねばならない。
である。この 2つの時期を分けた値を示しえないが, H
北部盆地では, 1
9
2
3年には石炭の 2
1%が機械的方法
-4表から推測すると,あとの時期の災害率の方がはるか
によって採掘されていたが, 1
9
2
6年には 53%になり,
に低いことがわかる。というのは, 1941~44 年の戦争中
1928年には北部とパ・ド・カレーでは既に 85%がこの
に比べると, 1931-38年の災害率は 67%にすぎないが
9
2
7年の
方法によっていた。一人あたり労働生産性は, 1
1936-38年に限定すると,坑内では 54%,坑外では 49
1シフトあたり 6
0
6キロから, 1
9
2
8年の最初の四半期に
%で,その平均では 52%と考えられるからである(1
9
3
5
は 635キロに高まった。しかも,生産の増大は機械化だ
-38年と 31-34年の就業者数をかりに等しいとみる
けによるものでなく,同時に労働密度も高まったとみる
と
, 31 34年の値は,戦争中の災害率の 80%の水準に
9
2
8年には,炭鉱主たちは違法に労働時間
べきである。 1
あったと考えられる。 左すると,人民戦線下では少な
を延長さえしている。かくて,賃金切下げとあいまって
くとも災害率はそれ以前の 60%
程後におちたことにな
る
)
。
そのトンあたりの労働費用は, 1
9
2
7年の坑内 4
5
:
8
4フラ
l
ンから, 28年第 1.4半期には 4
3
.
4
1フランに低下し,坑
外では 1
2
.
8
4フランから 1
2
.
4
3フランに減少した1
1
¥
このような急激な災害率の低下は,人民戦線下で,労
働争議が激発して,数々の労働条件の改善をかちとった
また,かかげた表でいうと,シフトあたりの出炭量は
こと,週 48時間を賃金を切り下げずに週,40時聞に短縮
1919-20年の 489kg から, 1921-30年の 588kgへと
する労働立法, 2週間の有給休暇法ならびに国体協約の
約 2割方増大している。合理化は着々と進行したわけで
効力拡張をもっ団体協約法の改正法などが成立したこ
ある。
これらの合理化の結果,災害の死亡件数は, 1919-20
と,組織人員が飛躍的に増大し,協約数も激増したこ
年の 206人から 1921-30年の 275人へと 3割以上もふ
と,などにおうている。鉱業花ついていうと,組織人員
5
.
8万から 2
7万h と激増しているが12),"労働時間の
は・
0
0
0人率は (I-3表
)1
9
2
1
'
2
5年の 0
.
8
5
6から 1
9
2
焔
え
, 1
ー率 40時間への短絡が,災害率を 20%以上減少させる
-29年の 0
.
9
5
0へと 1割以上1
ゐ増加を示している, o これ
土に大きく寄与したどとは,災害が労働疲労の増大にと
は,労働強化を中心とする労働条件の悪化がもたらした
結果であることはいうまでもない。
もなって累進的に増加する傾向をもっているところから
このような変化は, 労働組合運動の消長と深い関係を
l
0年は,
もっている。 1918年∼ 2
この固で労働運動が未
も明らかである。なお,この左きの労働時間の短縮は,
原則として残業をきびしく制限し,実際に週 40時聞に
規制する内容をもっていたことに留意する必要がある。
曾有に発展した時期にあたり, ・
.
1
9
1
9年にはゼネストが行
第 2次大戦に入る と,労働災害は再び増加した。災害
なわれるなど,異常に高揚し,これが前記の諸立法の成
l
立を!うながしたのであった。しかるに,全般的危機の相
死亡率でいうと, 300万方あたりで, 1931-38年の 9.0
は 1941-44年 の 1
3
.
5へと 1
.
5
,
f
i
吾に高まっているし,
対的安定期を迎九た 1
9
2
1年には,改良主義者が多数を
(
I
I
2表),死亡以外を含んだ坑内夫 1万方あたりでみる
)は左派組合を除名し,後
占めていた労働総同盟(CGT
と
, 1935-38年の 1
9
,
lから 41-44年の 3
3
.
7へと 1
.
8
6
者は統一労働総同盟(CGTU)をつくって,第 1回の分裂
倍へと激増している。第 1次大戦のときとほぼ同じであ
期を迎えている。之の分裂後,労働組合の組織人員は総
体として低下し,一般的にいっても,ストライキの成功
る
。
いうまでもなく,このときは,国土の大半はナチスド
率は低下する傾向を強めでいる。このことが,合理化政
イツによって占領され,非占領地帯には売国的なグィシ
策を比較的容易に実施させる結果をまねいたのであっ
←政権がつくられていた。第 1次大戦時とちがって,労
たコ
働組合はすべて解散を命ぜられ, (単位組合一一サンデ
y
n
:
d
i
c
a
t
−ーは一応残されたが),ヴィシー政権の
ィカ S
1929年恐慌のぼっ発は,生産活動を低下させ,災害発
Fでもファシズム体制がつくられた。また,有能な労働
生件数も,災害率も減少させた。 300万シフト あたりで
で
いうと, 1921-30年の 1
0
.
5から, 1931-38年には 9
.
0
カはドイツ本国へ徴用され,食糧その他の物資は欠乏し
へと約 16%減少した。死亡件数は 275人から 1
7
6人へ
賃金統制の下で労働者の実質賃金ならびに実質生活水準
l
と 36%へっているが,労働者数も 1
4
,
3,%へったので,
は極端に悪化した。とくに,鉱夫賃金は相対的にーそう
死亡率は 25%の減少にと♂まる 0 .しかし, この聞を 2
悪化したことが報告されている 1由。また労働時間法も命
の時期を分けて考える必要がある'
1
)
o
(
I
"
'
;i
令に '
1
:
.って改悪されて,週 40時聞は 48時聞に延長され
(783)
連続作業の 3交替制では週 56時間までみとめられ,若
干の時間の残業さえ許可されるようになったU )。坑内の
諸条件が悪化したことはいうまでもない。もっとも,
物である。
もっとも,安全対策はスムースに進行してわけでもな
かった。生産復興を急ぐこととなって,労働時間は,週
1941年には,法令によって,安全委員会(comted
es
三
c
-
40時間をこえて働らくことが公にみとめられ,最大週
)なるものが強制設置となったが15),形の上では,
u
r
i
t
e
20時間までの延長が許されることになり,炭鉱の労働
戦後の衛生安全委員会に似て、いるものの,労働組合の存
時間も 45時間をこえた。 1947年には右派であるF・
O(
労
在が本質的に許されないファシズム体制下で,それが安
働者のカ)が CGTから分裂し,フランスの労働組合の
全の確保にどれだけ役立ったか疑わしい。
統ーは再びやぶられ,労働組合の団体交渉力は弱め包れ
なお,炭鉱の災害死亡率が第一次大戦当時の増加率に
とどまったのは,一つは 1人あたり生産量の太幅な低下
た
。
戦後の労働災害率をみると,こうである。死亡災害率
がみられたことによるもので,( I
I
1表によると, 3
9
は,戦時中の 13.5から, 1945-50年の 1
1
.
0
,51-55年
40年の 829kg から 41-44年の 666kgへ減少),食料
の 9.5へと低下したが, その何れも 1931-38年の水準
や生産資材の欠乏の外,反ナチスのためのサボタージュ
が広まっていたためと考えられよう。
災害率でいうと,坑内夫では 45 50年は 36.7で,戦時
第 2次大戦の終了とともに,フランスでは安全対策に
ついて大幅な変化が生じた。
レディスタンス運動にもっとも熱心だったフランス共
よりやや高かった。また,傷害を含めた 1万方あたりの
中の 33.7をかえって主廻り, 1951-55年には 26.4で低
下しているものの, 1935-38年つまり,人民戦線下の
1
8
.
1よりも高かった。後者の水準を下廻るのは, 1
9
6
.
1
産党の勢力はのび,その幹部の大半がナチスに協力した
年以降のことで, 61-62年は .
1
3
.7で
,
社会党の勢力はおち,再統一された労働総同盟では前者
となっている。
の影響力が決定的だった。共産党は 1947年まで閣内に
これまでの最低
終戦直後,災害率が高かったのは,坑内諸条件の悪化
とどまり,フランスの再建に協力したが,そのとき労働
がなおつづいていたこと,労働時間が長かったことの外
r
o
i
s
a
)
社会保障大臣の地位にあった共産党員クロッザ(C
労働者の民主的自覚が高まり,以前なら災害として処理
の下で,数々の安全に関係する立法がつくられている。
されなかったかも知れないものも,災害として統計に入
鉱業に関係するものについていえば,法令によって,衛
o
m
i
t
ed’
h
y
g
i
色n
ee
ts
b
c
u
r
i
t
e
)(
1
9
4
7),企
生安全委員会(c
るようになったことがあげられる。あとのことは,戦後
労災の最終認定を行なう社会保障金庫の理事会における
業委員会(c
o
m
i
t
ed’
e
n
t
r
e
p
r
i
s
e
)(
1
9
4
5
),従業員代表(dふ
代表委員が,使用者 1にたいして労組が 3の割合で選出
Jegu
色 d
up
e
r
P
o
n
n
e
l
)(
1
6
4
6
)などが強制設置となり,鉱
される制度に改められたことが大きく寄与している。
夫代表が,坑内だけでなく,坑外にももうけられるよう
になった(d副
長g
uedel
as
u
r
f
a
c
e
)(
1
9
4
9
)。有給休暇法は
I
I
4表
1
9
0
1年以降の災害件数と災害率
(年平均)(フランス)
改正されて(1959
)最低 3週間となり,いまでは多くの労
働組合は団体協約によって 4週間を確保している 1目。労
件数
坑
,
−
ー
内
一
一
一
一
ー
【
、
一
一
坑
一
一
一
、
外
『
働者の要求にもとづいて,重要産業が固有化されたが,
石炭鉱業もそのーっとして固有化をみ,その管理機構と
して,石炭公社(CharbonnagesdeFrance
)がもうけら
れた。もっとも, H
. クロードによると, 国有化も初期
a
t
i
o
n
a
l
i
s
a
t
i
o
nだ
には労働者の民主的権利をみとめた N
ったが,のちその運営がまったく独占資本の手にうつり
"
E
t
a
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nに変化したとみているが,これは労働総同盟
の考え方でもある 17)。つまり,イギリスと同様,それは
:国家独古資本主義のー形態に他ならないのである。しか
し,安全について,まったく何らの影響がみられなかっ
た,というわけではない。安全についての諸法令とあい
まって,炭鉱における安全教育は強化され,施設の安全
1901-1910 2
6
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6
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0
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1951-1955 1
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3.4
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イ乙はすすんだ。もっとも,最近になって明らかになった
重大災害の件数もぐっとベり, 5人以上の死亡をみた
ように,炭鉱夫の賃金上昇が他に比べ立ちおくれてきた
災害件数は,戦後 20年の問で, 30件で,最高の事故は
2
7人の死亡をみたもの i
ごとどまっている 1目
。
ことからみても,プラスの面を過大に評価することは禁
(784)
戦後の合理化政策の下で,労働者 1人あたりの生産量
I
I
5表最近の災害率(死傷)(フランス
はどんどんふえている白戦時中 666kgにおちたものが,
一
(
1
9
6
2年 4月),なお長い 0' J
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ミくて死亡災害率は,イギリ
司
かし, イギリスでは,戦後ひきつづいて災害負傷率が増
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守
力日しつづけてきたのに比べると,少なくともこの国では
司
そういうことはなし戦前比で低下するに至ったことは
は明らかに高まってきている。さきのものは 5年単位だ
ったから, 61-62年が低くでたのだが, 59-60年と 62
−
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T5表)によあと,近年,災害
ととろで,別の資料( I
慌
て 1959 60年を底として頻度率はやや高まり,強度率
9
0
凸
(
1
9
6
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1年)注目すべき点である。やはり,諸法令の
大幅改正をみた影響であろう。
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5
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スやオランダよりも高い,という結果となっている。じ
強度率
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る。しかも,労働時間は現場労働者では 44.7時間で
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, 61-62年の 1330kgへといまや 2倍に達してい
率は上昇ぎみである。燃料土石業が一本どなったものだ
頻度率
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45-50年の 642kgから, 5
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1年以降では
1861-1910年の聞では 25%だったが, 1
-63年を比べると,頻度率は 78と79.5
,強度率は 7.02
7.%にすぎなくなっている。出水はずっと以前には大き
と7
.
5
6で
, あとの方が高い。生産性向上の影響があき
らかにでできているのである。
8
7
1年以降はあってもごく小さい被
いものがあったが, 1
害のものばかりである。この 2つはわが国と大変ちがう
最後に,死亡事故の内容について,以前のものと比べ
ておこう。
点である。多いのはやはり落盤だが, 1
8
6
1
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0年にはそ
I
I
6表は,災害死亡の実数(年平均ではない)を示した
の比重が高まり,竪坑・運搬は以前の 26%から 20%へ
れが 35%を占めたものが, 1956-62年では 38%で,そ
9
1
0年までにはガス炭じん
ものである。これによると, 1
と低下している。以前には,シャフトの事故が相当多か
爆発の大きいものが発生しているが,それをすぎるとさ
9
5
6
ほど大きいものはみられないこと,イギリスに比べ 1
ったのが,最近はかなり減少しているのである r 主要項
年以降のガス爆発死亡者は大差ないことがわかる。なお
8
8
1年以降p 低下の著しいのは,爆発,竪坑
これだと 1
ガス炭じん爆発が全体のなかで占める割合をみると,
の 2つで,運搬はあまり成果があがらず,落盤は若干低
目別にその災害率の変化を示した表は I
I
1表であるが,
I
I
6表炭鉱災害死亡の実数(但し,年平均ではない) (.7ランス)
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火災
(785)
下した程度である。
ところで,炭鉱の災害率については,ずっと以前から
以上,フランスの炭鉱災害の歴史を概観したが,この
比較的高く,いまでも 1,000人あたり死亡率だと,ヨー
国でも災害死亡率は,産業革命期に比べると格段に低ま
ロッパ諸国の数倍という高い率を示している。もっとも
り,いまでは大爆発といったものは殆んどみられなくな
有利な自然的条件とすすんだ機械化にもとづいて,労働
っている。安全対策の歴史をあわせ記述することができ
者 1人あたりの生産性は高いので,出炭 100万トンあた
なかったが,イギリスと同様,この国の地下産業労働組
りの災害率につい は低い方に属するが。
τ
合の運動が安全対策の前進,発展に大きく寄与したとみ
次表は, 1878-97年の災害死亡率(1000人あたり)を
て間違いない。もっとも,現状についてなお多くの問題
示したものであるが,年によってデコボコがある。これ
点をもっているが,それについては,別著19)を参考にさ
止もたい。
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,協調会, 各国の社会政策, 682ぺ
ーシ.
7)ポール・ピック,労働法,邦訳,上巻, 641-642
m-1表
1878-97年の災害死亡率(1000
人あたり)
ーアメリカー
1878
1879
1880
1881
1882
1883
1884
1885
1886
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3.3
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2.8
3.3
2.8
2.6
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1888
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1891
1892
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1894
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8)ポール・ピック,前掲書, 625ページ.
9)ポール・ピック,前掲書, 640ページ.
1
0
) M.トレーズ,人民の子,邦訳, 8
1
3ページ.
11)有沢,阿部:産業合理化, 3
14-317ページ.
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16)藤本武:各国の労働安全対策,第 1部 2第編(フ
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)藤本武:各国の労働安全対策, 1
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l→アメリカ合衆国
この国は,イギリスやフランスに比べると,おくれて
資本主義が発達した国であるが,封建制はほとんどなく
を整理してみると, 1878-85年は平均して 2
.
8
, 188697年は 2.7でほとんど変化はみられない。ただ,との当
時の災害統計は,後述する州の「独立性」をみとめてい
る連邦制という性格にもとづいて,著しく不備だったの
で,実際はもっと高かったとみた方があたっている。当
時,イギリスやブラシスでは災害率が低下してきている
のに,この国では停滞していたことは一つの特質であっ
た。また, 1893 1902年のイギリスが 1.39であったの
に比べると,アメリカの災害率は実に 2倍に近かったこ
とも忘れてはならない。
労働災害の続発によって, 1870年代に入って鉱山立法
の発展がみられるが,その先頭を切ったのは,ペンシル
ヴァニア州でその前年 200余名の炭鉱夫が爆発事故で死
+
1に
亡する惨事が発生したためである。とのあと主要な1
おいてこれに似た立法がもうけられるが,このことから
この国の鉱山安全立法はイギリスより約 20年立ちおく
れて出発したといえるであろう。したがって,当時,災
害死亡の多かったのは,当然ともいえる。
しかも広大な土地と資源があったため,海外からえた落
このペンシルグァニアの立法制定のあと, 1874年にオ
大な移民労働力を基礎として急速に発展し,いまでは世
界最大の工業国となっていることは周知の通りである。
ハイオにおいて大部分の炭鉱諸外l
の代表者があつまって
鉱業コードを決定している。これは,この国が連邦国家
:石炭鉱業についても同様で,その生産額は 4.3億トン
である関係上,連邦法では州、l
際商業関係の諸問題しかあ
(
1
9
6
3年)に達し,これにほぼ匹敵するのはソグェトと中
っかえないことを理由として,安全立法はすべて州に委
|国位なものである。
されていたため,各州の立法内容を少しでも統「化に近
(786)
づけようとしたものであった。このとき決定されたゴー
しかしこ
m2表今世紀初頭の炭鉱生産能率と
災害死亡率一アメ Pカー
もろうとしなかった。 「検屍の陪審官は,鉱山や工場に
おける労働者の死亡にたいして,次のようお説明をした
ものである。“死を招いた死亡者は彼の怠慢による屯の
1890-1897 2
.
7
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1897-1908 3
.
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2
5
.
1
2
害
あなかったし,まもなく時代おくれになってしまう代物
だった。加えるに,鉱業主たちは,これらの規定さえま
量へ率
生一一増
の最低限度の基準もとのコード通りに実施されたわけで
死一増
ドは,ペンシルヴァニアのものに近かった九
24
8
って死をまねいた”と。一般に,安全措置の欠如につい
J
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Iの法典や監督官の勧告に従うことを会社が拒絶し
かかわらず,このように災害率が高かったのは, {
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である。”あるいは,“死亡者は不可避であった事故によ
て
,
たことについて,これらの監督官が彼らの勧告を実施さ
一つは,この国の炭鉱資本の食欲さである。)般的に
せる上の失敗について,仕事の信じ難いほどのスピード
いってアメリカ合衆国の資本家たちは,労働保護立法に
について,危険な状態について不満をもったり,危険な
ついて強い反対的態度をとりつづけてきたが,炭鉱資本
工場や鉱山で働くことを拒否した労働者が解雇され,ブ
についても同様で,労働者の要求ならびに世論の高まり
ラ y クリストにのせられたという事実について,何も語
によってやっと生ぬるい規制j
をうけ u
、れるという態度で
らなかった J
2
)というのが実状だった。
あった。 1870年代,ペンシルヴァニアでは, 8歳か 9歳
1
9
0
0年代に入ると,労働災害はさらに増加の傾向を示
の少年が 1日1
0∼1
2時間働らき,大人も場所によって
し始めた。 30万方あたりの死亡率だが, 1890-97年の
は 11312∼18時間働らき,通気は実にひどく,二つの
3.81から 1897-1908年の 4
.
7
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,1
9
0
8一1
9
1
4年の 5.12
坑口もない,といったひどい実情が報告されているがへ
へと増加の傾向は顕著であった。ペンシルヴァニア外l
で
このあと,労働安全立法が漸次発展したとはいえ,その
は
, 1902年にジョンストンで 112名
, 1904年ハーヴィ
テンポは著しくにぶかった。また,労働組合運動に反対
ックで 1
7
9名
, 1907年ダーノレで 239名,イリノイ州では
する攻撃は,!ヨーロッパ諸国にみられないくらい無慈悲
1909年にチェリで 259名の死亡をみる大災害が発生し
であったことも,労働者の生命と健康との確保について
ているのである由。 この独占段階の確立期には,イギリ
まったく無視する態度をとりつづけたことの一面を示す
スでもフランスでも災害率が高まっているが,この国で
ものである。この一端はさきにも示した通りである。こ
はとくにその傾向が強かったことが注目される。この理
れは一つには,当時のアメリカ資本主義は,イギりスや
由は,あとでもふれるが,東南ヨーロツノ切ミらの移民労
フランスのように,収奪すべき強大な植民地を領有して
いなかったことと無関係ではない。
働者の増加,急速な機械化の進展,深部採掘の発展にも
かかわらず,適切な安全対策がたてられなかったこと,
さらにそれを通じる労働強化におうものといえる。ペン
当時アメリカの労働運動は,イギリスなどに比べると
ひどくひ弱であった。労働組合員数は 1897年にはわず
シノレグァニアの渥青炭についてみると, 1886-1910年の
か 44万にすぎず,今世紀に入ってから 1905年に 198万
従業員 1人あたり出炭量(年間)の 6.3 トンから, 1906-
1
9
1
3年に 213万へと増大し,その力量を強めて行くが,
1910年には 7.4トンへと 17%以上も高まっており,イ
周知のように,当時の労働運動の中心にあった A FLは
リノイ州のばあいにも, 1
8
9
1 95年の 4.9 トンから
原則として労働条件は団体交渉によって確保すべきもの
1906 1
0年の 6.8 トンへと 39%も増加している。また
であるという立場をとっており,労働時間立法,最低賃
東南ヨーロッノfカミらの移民労働者の比重は,ペンシyレヴ
金法,社会保険法などの確立運動を展開せず,婦人年少
アニアでは, 1880年には 2037人で全炭鉱夫の約 2 %に
者保護法についても積極的な態度をとらなかった。これ
すぎなかったのが, 1890年には 58008人で 33%, 1
9
0
1
は
, A FLに結集した労働組合の多くが,古いクラフト
年には 153973人で 61%もふえてきていた的。
ユニオンであって,せまいクラフトの利害をまもること
この当時の災害死亡率を国際的に比ベてみると,フラ
)の 0
.
9
1
, イギリス(1902 6)の 1
.
3
8に
ンス(1901-05
,
たいして,アメリカ合衆国は( 1902-06)実に 3.39で
フランスの 3.7倍,イギリスの 2,5倍に達していた。
に終始したために他ならない。もっとも,安全立法につ
いては必らずしもそうではなかったが。
ところで,炭鉱労働者の労働組合は, 1
8
7
0
, 80年代か・
ら発生しているが,その当時から安全問題には関心がつ
「世界中でアメリカにおけるほど石炭の安全採掘に有利
よく,安全立法確立のための鉱夫たちの運動は,主要炭
な自然条件のあるところはないJ
のといわれているにも
鉱州における安全立法の州議会通過について無視できな
(787)
い役割をはた Lてきた。しかし,そのカは微弱であって
者を出す大爆発がイリノ ,,
(
1
,
刊におきたが,これを契機に
前述した食欲な資本の反対をおさえることはできなかっ
1
9
1
0年連邦に鉱山局がもうけられるに至っている。この
た
。 1889年,統一炭鉱労組(U M W
)が成立するが結成時
年についての災害死亡率を比較したものによると jアメ
わずかに 2万にすぎなかったし, 1896年には 1万を下廻
リカは 3;74で,日本の 2‘
92に比べでも多かった12
。
》
るに至っている。これが 1900年以降発展し始め, 1900
年 12
万
, 1905年 26万
; 1910年 2
3万
, 1921年 44万と
しかし, t合衆国憲法の制約もあり,一部の人々から安
全立法の統一化についての要求があったにもかかわら
増大しているがη, ニューディ−,レ以降 UMW.が展開
ず,連邦鉱山局は,衛生状態を改善し,安全と能率を向
したような強力な運動}は組織しえなかった。 しかし,
上させる目的をもって,鉱業に関して科学的技術的調査
1910年頃になると,その結果は現われ,労働条件の改善
を行なうことが任務であって,調査,報告の出版ならび
のあともみられるようになる。例えば 1909年の調査で
与えられていなかった1目。鉱山保安
に助言以外の権限はi
は,一般産業では 80∼90%が週 54時間だったのに,鉱
立法の統ーのためには, 1952年の炭鉱保安法の成立をま
山では 48.2%が 8時間制をとっており,残りが 9時間
たねばならなかったのである。
その後第 1次大戦を迎えるが,他の諸国と異ヴてiそ
または 10時間だった6
。
)
当時 AFLは,労働安全問越については,特殊の危険
のある産業として鉱山,鉄道における労働者保護のため
の期間の労働災害率は増加せず,むしろ逆に低下してい
る。次表の数値を整理すると, 1911 14年は 1.61だっ
の安全措置,災害統計の整備,より適切な監督の必要,
たのが, 1915-18年は 1.38に低下しているのである。
組合のものが監督の地位につけるようにすること,安全
f
i
l
'
3表
博物館の設置などを要求していた叱具体的な運動はい
うまでもなく,当該産業の労働組合が中心に立たねばな
が安全問題を重視していた
らなかったが,当時の U M W
ことは,その規約前文の目的のなかで,第 3∼第 5の 3
カ条が安全衛生に関するものであったことからも知られ
る10)0 このことは, ILOの文書でもみとめていること
の勢力は
で,のちにも関説する 11)。しかし,当時 U M W
弱く,適切な安全立法をくまなく確立させるだけの力量
は欠いでいたことを記しておかねばならない。
かくて,この国では,多くの社会立法の発展は立ちお
くれるが, 1900年代に入ると,婦人,年少者保護立法が
各州でもうけられるようになり,労災補償法も 1909年
から若干の州にひろまって行った。(1902年にそれをも
1
9
1
02
7年の災害率一アメリカ
100万トジあたり
~一一ー..Lーーー干、
,,.頻度率死亡率
I
I
1
0
0万トンあたり
f 一
一
ー
−
'
−
ー
ー
ー
ー
ー
、
、
頻度率死亡率
.
4
2 4
1
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1
9 1
:
1
8
1
9
1
0 1
.
7
7 5.62
.
2
6 3
.
4
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1
9
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.
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5
1
9
1
1 1
.
6
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:
9
2
1
.
4
0 3
1
9
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1
1
9
1
2 1
.
4
9 ,4.53
.
6
3 4.15
1
9
2
2 1
1
9
1
3
, 1
.
5
7 、 •4.89
.
4
6 3」74
1914 1
1
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.
5
5 4.78
.
1
7
.
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8 :
,
4
,
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1
9
2
4 1.59 ,4
1
9
1
5
, 1
1925 1.55 3.84
1
9
1
9 1
.
3
1 3.77
.
5
0 3.83
1
9
2
6 1
1
9
1
7 1.42 ,4.14
.
7
3
1
9
2
7 1.48 3
.
3
1 3
.
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.3
0
7
うけた州があったが,違憲判決をうけている)。この労
1
0
0万トンあたりについてみても同様である。 これは,
働者補償原則の確立の立ちおくれは,この固における災
他国とちがって,戦争にじかに参加したのは最後の 1年
害対策立法の発展の立ちおくれに対応するものであった
位にすぎなかったこと,当時労働運動は発展して,労働
が,それはまた現場における安全対策確立の推進テンポ
をおくらせる結果をまねいた。なお,東南ヨーロツノ切ミ
条件の改善も進んだこと,さらに安全措置がおそまきな
がらとりあげられるようになったためである。最後の点
らの移民の増加は, 英仏などに比べ災害を高める傾向を
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)の前身であ
は全国安全協会(N
もったこともあげておかねばならない。というのは,言
る全国産業安全協会(N
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語の不自由さは,安全教育についても障害となるし,協
S
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y
)が設立されたのは 1912年であることからも推定
同作業のばあいには,とくに災害発生の誘因となあばあ
できるとごろである。
l
l
いが多いからである。
ところで,第 1次大戦中低下した災害死亡率は,大戦
余りにも労働災害が続発するので,連邦政府は 1908
後はむしろ増大し, 1919年から 27年に至る期間の平均
年に炭鉱爆発の調査のために委員会をもうけ,さらにヨ
は 1.48で,戦時中の 1.38に比ぺて 7 %
余り上昇したこ
ーロッパ諸国から専門家を招いて,教えを乞う ¥
lいる。
とになっている。このときイギリスでもフランスでも一
つまり,当時の合衆国の労働安全対策ならびにその研究
時的に災害率が低下したのに,逆の動きである。ただ,
は,明らかにヨーロッバ諸国に比べて劣っていたのであ
100万トンあたりの死亡率は, 3
.
9
9から 3.89へと激減
った。さらに,前述したように, 1909年には 259名の死
しているが,機械化,合理化によって,労働者 1人あた
(
7
8
8
.
)
りの産出量が増大したために他ならない。
である。いわゆる合理化が典型的にすすめられたのはこ
やや正確きを欠くデータだが, l人 1日あたりの出炭
量は 1910 1914年を 100t•.l.; て,
1920-24 年 119.8,
1
9
2
5
'
2
9年には, 1
2
9
.
0へと高まっているい 1
9
1
0年の
3.46 トンは 1
9
2
9年には 4
.
8
5トンにふえ, 40%
'
の
増
加
の国であって,災害がふえたのも当然ともいえるであろ
う
。
ところが,このあと勃発した 1
9
叫年大恐慌は, 1932
年にかけ・ては災害死亡率をふやしている。 100万時間あ
となっている。この間,「生産性j 三高め光最大の要因
たり κついての値だが, 1927
一2
9年の 1
.
8
7から 1
9
3
0ー
は動力装置であって,カッダー,パウア F ドリル,電動
32年の 1
.
9
3へと高まったのである。しかし,恐慌が底
ポンプ,メティームショベル.ローグー,三ンベヤー,
9
3
3
:
3
4年には 1.54で 2割方低下し,
をついたあとの 1
電動車などであり,低能率鉱山の整理,労働の合理化な
あと再び増加して, 1935-38年には 1
.
7
lに高まってい
どがある H)。むろん,これに労働強化が!ともなった ζ と
!
t
丸戦後わが国の現状からみても明らかである。
の災害率については,・ Max D.K
o
s
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i
o
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sと J
. Kuczyn
i
るが,なお,恐慌前よりは低かった。この恐慌期の一般
戸
ski,tの聞で論争があった。 K
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s
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iは,恐慌期には,
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4表
1
9
1
9−四年の災害(死亡 l
率一デメリカー
最近に採用になったものが織首されること,人員に比ペ
1
0億労働時間
雇用
械を採用するが,それはもっとも安全な機械であること
l
1
9
1
9
1
9
2
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1
9
2
1
1922
1
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2
3
1924
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1
1932
1
9
3
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1934
1
9
3
5
1
9
3
6
1937
1
9
3
8
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9
3
9
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1
4
5
1
1
1
4
6
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1
3
5
6
1207
1160
1
3
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3
1
2
1
9
1
1
3
6
1
1
6
9
1
0
0
3
804
636
719
769
733
826
811
6
2
1
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100万時間あたり死亡率
死亡率
1.77
1
.
5
7
,
1.74
2.03
1.82
1.99
1.93
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.
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1.55
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.Kuczynski, A ShortHistoryofLabour
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.2
32
作業量の減少の方が先行すること,経営側は能率的な機
不況が深まると,軽いケガは統計からぬける傾向がある
ととなどをあげて,労働災害率が低下すると主張した。
これにたいして,クチンスキーは,恐慌湖には,雇主は
労働密度を高めようとするので,かえって労働災害がふ
えると反ばくしたのである 16),,,しかいこの時期の炭鉱
災害については,次のように考えることが?できる。
1
9
2
9年の恐慌は,石炭鉱業にたいして打撃を与えたが
それの対策としてとられたのが,人員の思い切った大削
減(約半分への切下げ),労働強化,賃金の切下げであっ
て,安全化への努力も低下したにちがいない。じたがっ
て,労働災害率は増加せざるをえなかった。
(1人あた
り出炭量は, 1
9
2
9年から 3
0年にかけて, 4.3%増加し
ている) 17)
しか し
, 1
9
3
3年には産業復興法が成立し,所定労働時
i
間の大幅な短縮(40時間への)がみられ,最低賃金も引
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上げられた。 1932年のノリス・ラガーディア法(N
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・ Act)ならひ舎に産業復興法にもとづいて労働
組合の勢力はのぴ, その傾向は 1935年のワグナ一法の
成立によって一層促進された。労働者の発言権は急速に
高まり,炭鉱労働組合についても労働条件改善の闘争は
この国では,第 1次大戦直後?とくにいうべき労働運;
全国的にまき起った。このようななかで,漉青炭鉱では
動の高揚はみられなかった。この当時,炭鉱では大体に
実働時間の若干の短縮がみられ, 33年 6月から 34年 6
おいて遇 48時間制が確立していたが(フルタイムの平均、
月の簡で,一 4.4%,賃金の方は 1時間あたりで 52.<l%
で 1914年の 51.8時聞が 1919年には 48.4時間とな!2
,
.
週収入は 50.8%の増加であった1
8
)。実働時間の短縮が
あとこれがつづく), 1924年の調査では 1日平均在坑時
案外に少ないのは,当時短時間就業が一般化していたた
聞は 8時間をこえ,平均では 9時間前後のところが多か
めでi所定労働時間の短縮は,最低賃金の大幅賃上げと
日。一般的に 1920年代は5 労働組合への攻撃が高
った1
結びついて,実収入の大幅増加をもたらしたのでゐっ
まった時期で,資本 ならびに官憲のきびしい弾圧をう
た。これは,各州における安全立法の前進ど相まって,
け,戦時ならびに戦前にかくとくした若干の社会立法
労働災害の減少をもたらした,とみることができる。恐
(例えば最低賃金制〉は違憲判決をうけるなど,労働条
慌は 32年に底をっき, 37年にかけて漸次回復に向うの
件の改善はとまり,むしろ逆行する面の方が強かったの
マ,句通常なら労働災害率が高まるのがそうならなかった
(789)
m-5表 1
9
3
2
6
2年の災害件数と災害率
(
1
0
0万時間あたり, 死亡と重傷のみ)
ーアメリカー
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7
9
49
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死亡
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6表重大災害件数と死亡者ーアメリカ
ω二っとも鉱山保安法制定以前に発生
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1
災害死亡率を比べてみ』ると,フランスの 0.95
,イギリス
の 1.35
,ドイツの 1.80にたいして 3.94でずばぬけて高
かった1町。これは,アメ Pカの資本が労働者の生命にた
いする関心がうすかったこと,適切な安全対策をとろう
としなかったこと,さらに鉱山保安立法の立ちおくれな
ど記もとづくものに他ならない。
i
当時高野外|のうち, 鉱山保安関係の立法をもっている
4
0州であるが.
のは .
うち労働局が主主督権をもつものが
2
3州,鉱山局がもつのが 1
7であった。残りの 8
1
'
!
Iには
この種の立法を欠いていたが, その一部は対象となる鉱
J
山自体がほとんど存在しないためだといわれている。
ところが,これらの諸立法は,多くの欠陥をもってい
た。効果的な労働立法では,使用者がその規定を知る,
知らないにかかわらず違反事項があれば違反として処罰
すべきであるにもかかわらず,多くの州の立法ではこう
いう基本原則が無視されていた。つまり,監督官が命令
を下してそれがまもられないときに初めて違反として追
のは,主として前述の諸要因におうものである。
求されるのである。また,当時の立法規定の多くは,職
ここでヲ注意すべきは,重大災害( 5人以上の死亡を
長左労働者にのみ法律上の義務を課し,多くの州の鉱業
みたもの)が著減していることである。 i
l
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s
6表に示 Lた
経営者(o
p
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r
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t
o
r
)は自分の鉱山の安全操業のための責任
ように, 1919-29年では,重大災害分だけの死亡率は
の重要な部分からまぬがれていた。また,規定の内容も
仏2
1
,3
0
, 32年では 0.18であったが, 1
9
3
3 3
9年では
現状に適合してはいなかった。技術はつねに発展し,新
0
.
0
6へと,実に大恐慌前の 3分の 1以下, NIRA以前
たな災害発生の危険が増大しているにもかかわらず,そ
の恐慌期の 3分の 1にすぎない。これは,時間短縮,そ
れに適切にマッチする体制が欠けていた。また,新らし
の他労働条件の改善,安全対策の前進等が重大災害の減
い安全措置の基準がすぐに規則のなかにとりこめるよう
になっていない法律が多かった20)
少に寄与する面がとくにつよいことを示すものであろ
フ
。
0
監督官については, 5州では,
‘般投票によって, 2-
しかし,それにもかかわらず,アメリカ合衆国の炭鉱
4年の期間任命されるという制度をもっていたが,この
労働災害はヨーロッパ諸国に比べて多かった o1
9
3
5年の
任期を数年t
乙制限しているところが相当あった。多くの
(790)
州では任命された職員の意志で勝手に監督官をやめさせ
M Wのノレイスと連邦内務長官のクラック’(Krug)との聞
ることもできた。こういうことでは,適切な鉱山監督の
で,労働条件に関する協定が締結されている。このうち
できないことは明らかである。
安全に関するものについては,鉱山局長はU M Wの代表
当時鉱山安全課をもっている 3
1の州にわずか 2
3
3名
者その他彼が適当と考えるものに諮問したあと,鉱山に
の監督官がいただけだった。(ペンシルヴァニアの 58名
おける安全状態と安全措置とに関する合理的な基準規約
が最高だが) 21>。この国の石炭生産が 1
9
3
5年で 4.2億ト
ならびに規則を発令することを規定していた。さらに,
ンだったこと,鉱山労働者が 3
1万に達していたことを
ローカル組合によってえらばれた鉱山安全委員会を各鉱
考えると,決して多いとはいえなかった。
山において任命すること,
このように,戦前この国の鉱山保安立法は幾多の問題
点をもっていたが,これが炭鉱資本の非人間性と結びつ
いて炭鉱災害を続発させていたのであった。
その後第 2次世界大戦を迎えるが,この国では再び戦
争下に労働災害死亡率は減少し,
(但し,そのものの給与は組
合の負担),もしこの委員会が,危険な状態を発見した
ときには,その発見と勧告とを経営側に報告すること,
もし危険がさしせまり,委員会がとの不安全個所からす
べての鉱夫の退避を経営側に勧告したときにはJ支配人
さらに重傷率も減少
ならびその部下は,炭鉱行政機関がそれを廃棄しない限
している。 1
9
3
3 3
9年と 1940-45年とを比べると,死
り,その勧告に従わねばならない,と定めていた。連邦
亡率は 1
.
4
7から 1
.
3
8へと減少し, 44-45年だけだと
鉱山安全規約(F
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yCode
)は 1946年 7
月に発令となっている。
1.11におちている。また,重傷率をとると, 7
3
.
3
8から
63.58へ減少している。もっとも重大災害( 5人以上死
9
4
7年には,全国濯青炭賃金協定が締結さ
さらに; 1
亡)の死亡者数は,年平均で 4
5人から 1
3
6人へと 3倍
れ,そのなかでさきの連邦鉱山安全規約とクラゲグ・ノレ
に増加している。これによると,戦争で無理が生じ,重
イス協定の安全についての諸条項がとり入れられた。こ
大災害だけは増加したが,それらを含めた合計災害率で
れは,!その後も更新されている。また,無煙炭分野でも
は減少がつづいたとみることができる。これは一つには
同様の協定が締結された23)。これらは,正に劃期的な前
進であった。
この闘では,戦争開始前から落大な失業者をもっていた
ので,労働時間の極端な延長は余り必要なかったこと,
かくて, 1
9
4
6 5
0年の災害死亡率はさらに低下し,
9
3
9年の 2
8
.
1時 間 失 業 の 関 係
(実際の遇労働時聞は 1
1
.
0
5になった。歴史上最低の率であった。また,重大災
であるーは 1
9
4
4年には 4
3
.
4時聞にふえている:) ,.炭鉱
, 5
0年にはゼロとなり,災
害も表示したように, 49年
労働組合がいよいよ強大となり,無理な不安全作業が基
害死亡率は, 1950年には 0.90に下った。また,重傷件
本的には減少したことを示すものである。また, 1
9
4
1年
8
,
1
3で,これも戦時中よりも低下していた。これ
数も 5
には,前年に重大災害が多発したことにかんがみ,始め
らはすべて, U M W
の闘いの成果であったといわねばな
らない。
て連邦法として,「炭鉱における保健,安全,災害,職
業病に関する報告をとるための調査に関する法律」によ
ところが,朝鮮戦争がぽつ発してから,様相は再び変
って連邦政府が炭鉱の監督に関与する制度がもうけられ
9
5
1年には, 5件の重大災害が発生し,死亡者
化する。 1
たが(現行法一炭鉱保安法ーの第 1部にあたる),もうけ
はこれだけで 1
5
7名に上った。これはいうまでもなく,
られる連邦監督官は単に勧告を行なう権限しか与えられ
なかった。ただ, 1
9
4
1年の労資問の賃金協定(wage
朝鮮戦争ブームを反映して,生産が急増し,労働密度が
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g
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t
)のなかで鉱山安全委員会委員の任務につ
でもって,炭鉱保安を強める必要が生じたのである。む
いての規定をもっていたことを記しておかねばならな
し
、 22
。
)
の統一炭鉱労働組合は,ずっと以前からそれを要求しつ
第 2次大戦直後の 1
9
4
5
, 46年は,合衆国とすると,
9
5
2年に,さきの連邦法の第
づけてきていた。かくて, 1
とっとも大規模な労働争議が続発した年にあたり,スト
2部として,「炭鉱における重大災害の防止Jというも
4
7万と 460万に達した。このなかで
参加者はそれぞれ 3
炭鉱労働組合はジゴン・ルイスの指導の下にもっとも果
のが加えられ,名称も,炭鉱保安法と改められた。この
法律の詳細については別著U )において,くわしくのべた
敢な闘争を展開している。この労働運動の革命化をおそ
ので,ここでは省略するが,ここにおいて初めて連邦の
れた独占資本は,労働組合の活動を制限する,タフト・
鉱山監督官が命令を出す権限を与えられたのであった。
ハートレ一法をもってむくいたことは周知の通りであ
もっとも, 1
5人以上の州際商業関係の炭鉱に限定される
が
。
る
。
9
4
6年 U
ところで, この労働運動の高揚のなかで, 1
高まり,危険が増大したためであった。ここに,連邦法
ろん,それをつよく要求したのは U M W
であったが,こ
この法律の制定によってであろうがs たしかに重大災
i
(7
9
1)
害はへってきたo I
I
I
6表にある 1
9
5
2年におきた 2件は
この法律の制定以前だからこれを除くと,法制定後 1956
年に至る約 5年間で 2件しか重大災害は発生せず,死t
者も 21名にすぎない。その後重大災害件数がふえてい
るが, 57-62年では年平均 2
.
3件,死亡 35
.
.
7人で,法制
定前の 46-51年の 3.2件
, 6
8
.
7人に比べると大分へっ
ている。しかし,死亡災害全体でみるとその災害率が
1.0を下廻ったのは, 5
2
,5
3
;5
9年の 3カ年にすぎず,
5
2
,5
3年を一つの大きな底として,上昇してきており,
60-62年には,平均 1
.
1
9で,今次大戦後のピークに近
いものである。ただ,重傷の方は,終戦直後の 60台に
比べると低いとはいうものの,戦後低下して 1
9
5
9年に
41.1におちたあと,再び上昇して, 46.1に高まってき
ている。
これらの変化をみてみると,たしかに戦前に比べて低
下したことは事実だが,その死亡率についての低下率は
ヨーロッパ諸国に比べて少ないことは忘れてはならな
い。いま, 60-62年をとって, 1932 3
9年と比べてみ
ると,..1
.
5
0から 1
.
1
9へわずか 2割方切下げられたにす
ぎないし,戦時中をとると,約 1割の減少にとどまる。
0
0
0人率), 1
.
1
3が 0
.
4
3(
1
9
6
1
しかし,イギ Pス では(1
i
-64)へと 60%近く減少しているし,
フランスでは戦
前に比べると 13%の減少にすぎないが,戦時中をとる
と42.%の減少をみたことになる。
このことは,以前から災害率が高かったのが,いまな
お,さほど改善されていないことを示すものに他ならな
い。所定労働時間は 40時間で,他国に比べて少ないに
もかかわらず, 1000人率で比べてみると(1959-63年
)
この国の死亡災害率は 2.67で
, イギリスの 0
.
6
3
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.
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1,オランダの 0
.
3
6に比べると大幅なちがい
がある 25)。したがって,この国の労働災害対策には,何
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,Vol. 3, 1964, p.22.
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3)神代和欣:アメリカ産、業民主制の研究, 1
9
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,
1
9
1ページ.
4)前掲書, 1
9
0
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1
2ページ.
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.Eastman: Work-AccidentsandLaw, 1
9
1
6
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7
.
6)神代和欣:前掲書, 1
7
81
7
9ページ.
7)前掲書, 1
3
8ページ.
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)神代:前掲書, 104ページ
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3
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2
3
6ページ.
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4
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。
。
。
24
)藤本武:各国の労働安全対策,第 1部第 4編
.
2
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) ILO, S
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9
6
5
.
か重大な問題点をもっているととを示すものと考える他
IV 総 括
はない。
最大の問題は,炭鉱における合理化が急速に進行して
J
. クチンスキー(J
i
.
i
r
g
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u
c
z
y
n
s
k
i
)は,労働者階級
いること,なお,この国の安全立法が基本的には州法に
の状態史を研究する落大な著書を次々に発表しているが
依存しており,それについて大きなアンバランスがみら
彼は「状態Jを示す重要指標のーっとして,労働災害を
れること,つまり,ヨーロッパ的水準の州と,日本の明
左りあげている。彼は,産業革命期以降の災害の歴史を
治末期に近い州法をもっている州とが同ーの国の内部に
区分して, 1760-1850年の聞は増大し, 1850-1900年
併存していること,この国の資本のパターナリズムにも
頃にかけて減少し, 1900年以降の資本主義の最高段階と
とづいて,労働者との合同で安全問題をとりあげようと
全般的危機の時期には,変化なしとみている。もっとも
するアプローチに欠けているとと,労働組合が存在の権
最後の時期のものは,労働時間の短縮を考慮して,時間
利をみとめられてから日が浅く,安全確保の体制が企業
あたりの災害率についてはまったく変化なしとみるので
の内部に真当に根を生していない企業が少なくないこ
ある。。この最後の災害率のとりあっかいについては,
と,念日こ起因する。しかし,これらの問題については
筆者の考えはちがうが, 1
9
0
0年以降は変化の多い時期な
別著でくわしく検討したので,それをみてもらいたい。
ので,それを区分して炭鉱災害の変化をみると,次のよ
うに怠る。
じ792)
炭鉱災害は,産業革命にかけて増大した。
イギリスについてややくわしく指摘したように,労働運
このあと,アメリカ合衆国とイギ Pス,フランスで動
動の発展であり,それをうけた労働保護立法ならびに鉱
きがちがうが,あとの 2固についてのべれば,死亡災害
1000人率は次のように変化した。
山保安立法の前進,発展である。
以前には坑内時聞が 1
2時間前後であったのが, いま
産業革命後, 1
9
0
0年にかけ減少
1900 1
9
1
0年中増加
では 8時間以下となっている。労働者の教育水準も著し
第 1次大戦中増加
の義務とみなされるようになった。労働組合が発達し,
第 1次大戦直後減少
安全問題は組合との協議の上で対処されるようになって
1920年代増大
おり,組合の発言権は,安全立法ならびに安全管理につ
いで相当程度みとめられてきている oガス爆発について
1929年恐慌後減少
く向上した。労働者を安全に働かせることが雇主の当然
第 2次大戦中増加
の研究がすすみ,その対策もすすんだので,いまではこ
第 2次大戦後減少
れら 3固に関する限り,何十人という労働者の生命をう
但し,ごく最近漸増傾向,イギ Pスでは,戦後負傷率
は激増の傾向がある。
ただ,アメリカ合衆国は,とれと大分ちがうところが
ある。そのちがいだけを示すと,
ばうようなガス爆発は殆んどなく,イギ Pスではガス爆
発による 1人の死亡もみない年もみられるようになって
いる。
しかし,炭鉱ではいまなお災害が多いといわねばなら
1870-1900年,変化なし。
ない。イギリスについていえば, 1964年,工場関係では
第 1次大戦,第 2次大戦中は,むしろ災害率は減少
このように,炭鉱災害は,常に一定の方向に向って働
全部で, 292人の死亡をみたにとどまるが,炭鉱だけで
1
9
8人が死亡しており, 1
0
0
0人あたりの災害率は 0.043
いてきたわけではなく,増加と減少をくり返している。
にたいして 0.38で 9倍に達している 2)0 また,アメリカ
培加は,アメリカ合衆国を別にすると,何れも戦争中に
),工場では 0
.
1
1であるが,炭鉱
合衆国では(1961-62
9
2
0年代のいわゆる産業合理化の時代にも
生じており, 1
は 2.43で,実に 22倍の高い率を示している 3)。いぜん
同様災害率の増加が生じている。むろん低下の時期が多
として,炭鉱はいまなお災害多発産業があることは疑い
0
0年前に比べると,災害の死亡率は
い。したがって, 1
ない。たしかに,炭鉱労働は自然的条件という,人間の
イギリスでは約 1
0分の 1へ
, フランスでは約 5分の 1
制禦が完全には行なえない条件の下での労働であるから
に減少し,アメリカ合衆国でのみ,その減少率は著しく
災害が他産業より多くなるのは己むをえないとしても,
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0年代
低く,推定では 30%程度である。もっとも, 1
余りにも災害率が高い。ソグエトではほとんど大災害は
のアメリカの災害統計は,不正確であったから i 実際に
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0人率も 3∼4人
なく,死亡率も少なく,全体の災害 1
0
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0人
はもっと低下したとみるべきだが,少なくとも, 1
といわれるが,これに比べると,多くの資本主義諸国で
あたりの死亡率については,アメリカ合衆国の減少率が
はその数十倍に達しているのである。別著で指摘したよ
他の 2固に比べ著しく劣ることは否定できないところで
うに,ソヴエトは社会主義だから安全対策がすすみ,資
本主義とちがって災害が少ないのであるが叫,そうだか
ある。
また,今世紀初めの 1900-1910年頃に比ぺると,イ
らといって,われわれはこのままにすますことはできな
ギリスは約 3分の 1に,フラソスでは約 2分の 1に,ア
い。ことは,労働者の生命に関することである o 資本主
メリカ合衆国では約 3分の 2の水準に減少しており,こ
義を前提としてもなお,なすべきことは多く残されてい
こでも,アメリカ合衆国の減少率はすくない。しかし,
るといっていい。
大勢的にいうと,炭鉱災害は減少め方向が強かったとい
えよう。
この炭鉱災害率の低下を規定したのは,多くの要因が
ある。
直接的な要因としては,労働時間の短縮,少年婦人労
働の禁止,賃金,生活水準の上昇など,労働条件の改善
ところで,もう一つの問題は,とりあげた 3国のうち
アメリカ合衆国では,災害率の低下が余りにも少なく,
現在について国際比較を行なうと,ずばぬけて 1000人
あたりの死亡率が高いことである。極端ないい方をすれ
ば,この国では,実効ある災害対策の前進があったこと
が疑わしい位である。
がすすんだこと,安全教育,安全組織の発展,坑内の安
この理由をくまなく検討する余裕はないが,確実にい
全化についての技術的研究が相当進歩し,それがある程
えることは,この国では安全対策が立ちおくれているこ
度具体的に実施されるようになったこと,つまり,安全
と,労働密度が著しく高いことの 2点である。この国が
常置の発展である。そして,これらを実現させたのは,
連邦制であるため,安全立法はすべて州法によってきた
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が,州議会には地方資本の発言権がつよく, f
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こよると
すすんだ安全立法を推進することは比較的困難である。
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2年には連邦炭鉱保安法が成立したが, それは重大
災害を防止することに重点があり,日々のこまかい災害
防止は州監督官の行なうところである。この国の鉱夫 1
人あたりの出炭量は他の 2国を引きはなしているが,自
然的条件の有利色機械化の発展水準が著しく高いこと
などが大きく寄与しているとはいえ,その労働密度の高
いことも疑いえないであろう。しかしこれらの問題につ
いては,拙著を参照してもらいたい。
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9伊年 8月 2
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)
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