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༬ἿἛὉἮ
MIZUUMI NO OHESO
白い霧がいつも立ち込めているその湖は、霧の湖と呼ばれていました。
濃いベールに包まれた神秘的な光景は妖しい気配を感じさせて、人間たちはちっとも寄り付
きません。けれど、不思議が満ちるその場所は、妖精たちの格好の遊び場なのでした。
今も、耳を澄ませばきゃらきゃらと少女のはしゃぐ声が聞こえます。妖しい霧の中から聞こ
える笑い声に、人間たちは怖気をふるうのですが、なんてことはない、妖精が夏の熱気にあて
そういうわけで、霧の湖にいるのは妖精たちくらい。あとは人魚がひとりいるだけでした。
られて、湖に水遊びをしに来ているだけなのでした。
人魚は名前をわかさぎ姫といいました。上半身は美しい娘の姿で、波頭を宝石で洗ったよう
に綺麗な青色の髪をしています。下半身はすべすべした鱗が並び良く、そして銀雪のように美
しい魚の姿でした。
霧の湖にはおへそがあります。湖の真ん中あたりに一本だけ、水面からにょろりと木が生え
夏の暑さの中、湖に立ち込めた霧に日差しは陰っており、いくぶん肌が冷えるような空気の
中にきれいな歌声が聞こえま す 。
7 湖のおへそ
ているのです。その低い枝に腰掛けて、尾ひれで湖の水をばちゃり、ぱちゃり、遊びながら、
わかさぎ姫が歌っておりまし た 。
﹁ら、らー⋮⋮﹂
﹁あ∼れ∼。ちょっとみんな落ち着いて﹂わかさぎ姫はくるくる目を回して言いましたが、陽
しまいました。
がわかさぎ姫に飛びつくと、われもわれもと妖精たちが集まって、まるで毛玉みたいになって
らの妖精がみんな集まって来てるよ﹂
。
﹁姫、姫、私と握手してください﹂と桃色の小鳥の妖精
もんだよ﹂と黄色い蝶の妖精が言います。
﹁どうして?﹂
﹁だって君、姫の歌声を聞いてそこい
﹁ああ、なんてきれいな歌なんだろ﹂と赤い花の妖精が言えば、﹁いやいや実際、おそろしい
ぱちぱち、ぱちぱち拍手しながら、みんな目を輝かせて、うっとりしていたのが一斉にお喋
りを始めます。
歌声は続き、やがてわかさぎ姫がほっぺたを膨らまして、ぷうと歌い終え、震えていた湖の
水面も静かになりますと、代わりに妖精たちがワッとはしゃぎ出しました。
とっては美味しいパイの様なものでした。
その傍らや周りを妖精たちが囲み、うっとりと背の羽を歌のリズムで揺らして、聞き惚れて
いました。人魚の歌声は、人間にとっては毒になる﹁うみ﹂の魔力がありますけれど、妖精に
8
気な妖精たちのこと、おしくらまんじゅうに夢中になって、誰も聞いちゃくれないのです。
ところが、ひとりだけ、その輪の中に入れないでいる妖精がいました。
緑の髪の大妖精でした。彼女はわかさぎ姫の歌を聞いていたのに、ちっとも楽しそうな顔を
せず、それどころかまるでお八つを盗られたとでもいう風にわかさぎ姫のことを睨みつけてい
たのです。
それは大妖精にとっては本当のことで、大好きなものをわかさぎ姫は独り占めしてしまって
いるのです。それが悔しくって、彼女のやることなすこと全部が気に入らないのでした。美し
い歌声も、きれいな容姿も、優しい性格も、そして大好きなものも、大妖精にはとても手に入
りませんから、陽気な妖精らしくない嫉妬心がぐるぐると小さな胸の中を掻き乱しても、どう
したら良いのか分かりません 。
だから、大妖精は他の妖精たちに囲まれるわかさぎ姫を見ながら、
﹁嫌いっ﹂とひとり呟い
たのでした。
﹁お∼い﹂
青い氷の妖精、名前はチルノといいます。湖のおへそに向かって一直線に向かって来ます。
大きな声が聞こえました。その無邪気な声に一番に振り向いたのは大妖精で、霧の中をひと
りの妖精が飛んで来るのが見えました。
9 湖のおへそ
チルノは大妖精の前まで来ると、急ブレーキ、へへ、と満面の笑みでした。それを見て大妖精
もさっきまでの落ち込んだ気分が晴れて、思わず口元が緩みました。
﹁チルノちゃん。どうしたの ? ﹂
﹁うん、素敵なものを見つけたから、見せてあげようと思って!﹂
精はいるだけで冷気を振り撒くので、あまり好かれないのでした。
無くなりましたが、みんな恐れをなして逃げたか、とチルノは空威張りして笑います。氷の妖
﹁わあっチルノが来たー!﹂﹁さむいーさむいー﹂
﹁大寒波だ! 恐竜たちは絶滅だー﹂ひゅー
と一人が逃げ出すと、たちまちみんな面白がってあっちこっち飛び去ってしまい、急に陽気は
大妖精はぷんと不機嫌にほっぺたを膨らましたものの、チルノのあとを追いかけました。
﹁お∼い! 姫ー﹂
木の枝に腰かけているわかさぎ姫に向かってチルノが元気よく挨拶をしますと、とたんに、
彼女の周りに集まっていた妖精たちが騒ぎ出しました。
﹁わあ⋮⋮そうなんだ! ねえなに? なに?﹂
﹁大ちゃんには特別に見せてあげようかな∼。⋮⋮あっ! そうだ。わかさぎ姫いる?﹂
チルノが聞くのに、大妖精はちょっと嫌な顔をしました。けれど何か答える前にチルノは自
分で向こうにいるわかさぎ姫に気が付いて、手をふりふり、そちらへ行ってしまいました。
10
突然、しん、と静けさの底に落ち込んだ空気の中に、わかさぎ姫とチルノが残されました。
チルノはそのまま真直ぐ湖のおへそまで来ると、木の枝に止まります。
わかさぎ姫の頬を、彼女の氷の羽から出た冷気がひやりと撫でました。それが気持ち良く、
わかさぎ姫はふうと嬉しく笑いながら挨拶します。
﹁こんにちは、チルノ。今日も元気ね﹂
﹁うん! あたいはいつだって元気だもん。わかさぎ姫だって今日もきれいだね!﹂
﹁あら、ありがとう﹂
わかさぎ姫がチルノの頭を撫でてやると、幸せな雰囲気があふれました。チルノはわかさぎ
姫のことを好きだと思っていましたし、わかさぎ姫の方だって、チルノに恋をしていました。
純粋で元気の良い、けれどどこか繊細なチルノを思うと、わかさぎ姫の心はとくん、とくん
と恋のメロディーを奏でるのでした。
﹁ねえ、これを見てよ!﹂
﹁まあ、チルノ。この花はなあに?﹂
か土の上から摘んできたらしいこの花に感動しました。それは鮮やかに過ぎる花。
チルノが差し出した手に、光り輝く氷漬けの花が握られていました。わかさぎ姫はそれを受
け取り、その美しさに見惚れます。人魚であるわかさぎ姫は水場から離れられないから、どこ
11 湖のおへそ
︱
ありがとう、チル ノ ﹂
﹁えへっ。その花、綺麗でしょう。わかさぎ姫。あのね⋮⋮﹂
﹁どういたしまして!﹂
﹁うん
わかさぎ姫は浮ついた気分のまま、花の名前なんてそれでいいのだ、と思いました。それで
うん、この花の名前は﹃チルノ﹄にしよう。透き通った氷の中に鮮やかな花。日の光にき
﹁なに? 遊ぶ? 遊ぼう! 今日は何しよっかあ⋮⋮﹂
と、そのとき二人きりで幸せそうにしているのを我慢できない者がおりまして、二人の間に
そんなことを考えて、ひとりくすくすとおかしくって笑うのでした。
氷漬けの花をくるくると手の中で回して楽しみながら、わかさぎ姫は呟きます。
﹁チルノはかわいいね﹂
らきらとまぶしい⋮⋮本当に彼女みたい。
︱
﹁そうね、あたいもそう思うわ!﹂
﹁うーん。なんでもいっか。きれいだもの﹂
﹁その花はね、えーと、な、なんだっけ?⋮⋮﹂
それだけで二人の間ではお互いの気持ちが伝わるのでした。
﹁ねえ、この花はなんていう花なの?﹂
12
割って入って来るのです。
﹁チルノちゃん! 今日は私と遊ぶ約束をしていたじゃないかしら﹂
大妖精はチルノのあとに付いて来た後、ずっと二人の様子を窺っていたのですが、ついに見
ているのに飽きてしまって声をかけました。
そしてわかさぎ姫から引きはがす様にチルノの腕をひっぱって離れるのです。
﹁そうだったっけ?﹂
チルノは疑問に思いましたが、そうだよ、と言われるとそうだったかもしれないと思いまし
た。なので、うん、とひとつ頷いて見せました。
﹁そうだ。大ちゃんと今日は遊ぶ約束していたんだった﹂
﹁そうだよ!﹂
﹁そっか! ごめん、姫。遊ぶのはまた今度!﹂
屈託なく笑うチルノに、わかさぎ姫も笑顔を返します。今日は﹃チルノ﹄の花を貰ったから
十分に満足しました。なにより、彼女が元気な笑顔でいるのが、なにより幸せなのです。
﹁ええ、また今度遊びましょう。チルノ﹂それから、わかさぎ姫はチルノの腕を掴んでいる大
大妖精は拗ねたように口を尖らせますと、
﹁はぁい﹂と気の無い返事を寄越します。
妖精を見て、﹁大ちゃんも今度一緒に⋮⋮﹂と微笑みました。
13 湖のおへそ
あっ!﹂
﹁どうしたの、チルノちゃん ? ﹂
︱
﹁
﹁そういえば、大ちゃんもきれいなの、持っているよね!﹂
﹁え⋮⋮ああ、この前見つけたきれいな石のこと?﹂
﹁そうそう!﹂
﹁わかさぎ姫には、私の宝物、見せてあげないもん﹂
ってみると、やっぱり彼女は笑っていましたので、大妖精はちょっと意地悪に言いました。
﹁うん。じゃあ今度遊ぶときに! よし、じゃあ早く行こう!﹂
もう忘れ物はないとばかりに、チルノは元気よく手を振って湖の霧から飛び出して行きまし
た。大妖精はすぐに後を追いかけようとしました、しかしその前にちらとわかさぎ姫に振り返
けれど、他の誰にも見せるのは嫌でした。だから、ううんと唸って、それから、
﹁また今度
ね﹂と言いました。本当はスカートのポケットに入っているのですけれど⋮⋮。
﹁えっ﹂
﹁あれ、わかさぎ姫にも見せてあげてよ!﹂
大妖精が森の奥で遊んでいるときに見つけた、琥珀色をしたきれいな石。あんまりきれいだ
ったので、大妖精は宝物にしていましたが、チルノにだけは見せてあげたのでした。
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﹁そう⋮⋮残念。きれいな石、みて見たかったな﹂
﹁宝物だからチルノちゃんにだけ見せてあげるんだもん﹂
ちょっとだけしょんぼりしたわかさぎ姫の顔を見て、大妖精は胸がすく思いでした。けれど、
彼女の手にある氷の花が目に入るとやっぱり悔しい気がして、急いでチルノの後を追って湖か
ら飛び去って行きました。
﹁待ってよチルノちゃん! 今日は、お花畑に行ってみない⋮⋮﹂などと、言いながら⋮⋮。
あとには、湖のおへそにわかさぎ姫だけが残されました。
湖は相変わらず濃い霧が立ち込めていて、ちょっと離れて見てみれば、中に何がいるのかも
さっぱり分かりません。
その霧の中から、妖しい歌声がさんしゃらりん、さんしゃらりん、聞こえては消えていきま
したが、聞いているものは誰もいませんでした。
湖にちゃぷんちゃぷんと波の立つ音が聞こえているのは、わかさぎ姫が泳いでいるからでし
夜の湖はとても静かです。陽気な妖精たちは昼間元気に遊び回って、夜は寝ているからです。
×
×
×
15 湖のおへそ
た。夜は妖怪の時間ですから、ぷかりぷかりと湖を周回したり、霧の薄いところから月夜を見
上げたり、夜の歌を歌って過ごしたりしているのでした。
﹁あのね、チルノが私にお花をプレゼントしてくれたのよ。素敵でしょう。わざわざ私のため
ぼーっと釣り糸を見ているばかりの赤蛮奇は、わかさぎ姫の話を聞いていませんでしたが、
構わず会話を続けました。
﹁そんなことよりも、聞いてよバンキちゃん﹂
赤蛮奇は今日も文句を言っていました。
月の綺麗な晩、妖怪が誘われて出て来そうな良い夜です。わかさぎ姫は湖面にぷかぷか浮き
ながら、石に腰かけて釣りしている赤蛮奇とお喋りをしていました。
﹁だからさ、姫の魚影が大きすぎて魚が近づいて来ないんだって⋮⋮﹂
はそれ、これはこれ。
名前を赤蛮奇といいました。赤い髪に赤いマントが特徴的なろくろ首の少女です。
彼女はたまに霧の湖に釣りに来るので、糸を湖面に垂らしている間、わかさぎ姫とお喋りし
て過ごしてくれるのでした。もっぱら、そのせいで魚が釣れないと彼女は嘆くのですが、それ
わかさぎ姫は水場から離れないので友だちが多くないのですが、今日はひとりが遊びに来て
いました。
16
に摘んできてくれたの。私、とってもドキドキしちゃった。恋よね。これって。間違いなく、
恋だわ!﹂
わかさぎ姫がきゃあきゃあ興奮し、ヒレで湖面をばしゃばしゃ叩くので、飛び散った飛沫が
赤蛮奇のマントを濡らして迷惑そうでした。それに、これでは魚も逃げてしまって全く釣りに
はなりません。
﹁⋮⋮今日はボウズだなー﹂
赤蛮奇はあきらめた、という風にろくろ首をかっくり、体から転げ落とすと、そのままコロ
コロと宙を転がってわかさぎ姫の前まで首を伸ばしました。
﹁きゃっ! びっくりした﹂
﹁あのさぁ、わかさぎ姫⋮⋮﹂赤蛮奇は心底呆れた、という風に溜め息を吐きました。
﹁一体、
まあ!﹂
どれだけ恋をすれば気が済むわけ?﹂
﹁
︱
わかさぎ姫はその質問にびっくりして声をあげました。
確かにチルノの前は、オオカミ女の影狼に恋をしていました。
その前は鳥の妖怪に恋をしていましたし、その前はたまたま釣りに来た人間の男に恋をしま
したし、その前はメイドの少女に恋をしていましたし、その前は偶然出会った幽霊さんに恋を
17 湖のおへそ
していましたし、その前は⋮⋮そろそろ覚えていませんが、誰かに恋をしていました。
﹁童貞キラー、だってさ﹂
﹁あら、なにかしら﹂
﹁⋮⋮わかさぎ姫、人里だと何て言われてるか知ってる?﹂
結局、また新しく恋が出来るひとを探さなければなりません。そうやって、人魚はずっと誰
かに恋し、恋され続ける妖怪なのです。
ることが出来なくなってしまうからです。
そして、もしも恋した人がわかさぎ姫のことを好きになってしまえば、その人のことはもう
興味が無くなってしまいます。相手の〝恋〟の感情を食べて満腹になると、もうその人に恋す
〝恋〟をする妖怪なのです。
人魚は
恋する妖怪なのです。
偶然助けた王子様に一目ぼれしてしまうように、きっかけがあればその人に恋してしまうの
が、人魚という妖怪なのでした。しかし自分から告白をすることはありません。あくまでも、
︱
けれども、どれだけ恋をしても気が済むなんてことはありません。
わかさぎ姫は照れ臭そうに頬を染め、ぷくぷくと湖を漂いながら答えました。
﹁私は人魚なのだから、いつでも、いつも恋する乙女なのだもん﹂
18
﹁あらまあ。それは困ったわー。私、食べるのも食べられるのもゴメンだもの﹂
﹁だからさ、もうちょっと大人しくしてなよ⋮⋮。まあ、妖精相手なら別にとやかく言うつも
りもないけど﹂
わかさぎ姫の上にふわふわと浮いていた赤蛮奇の生首は、するりと宙を滑って少女の体に合
体すると、再び釣りを始めました。
わかさぎ姫は、ぱちゃぱちゃと湖畔を泳ぎながら月を見上げて考えました。頭に浮かんだの
は、やっぱりチルノのことでした。
﹁⋮⋮もしかしてバンキちゃん、チルノのこと好きなの?﹂
﹁いや、私妖精とか無理だから⋮⋮うるさいじゃん、あれ﹂
﹁そうよねえ。恋してるバンキちゃんとか想像つかないもの﹂
はあ、とわかさぎ姫は恋する乙女の溜め息を吐きました。赤蛮奇の竿を握る拳に力が入って
いましたが、それには気が付きませんでした。
﹁それは
︱
あの子が、馬鹿だからさ﹂
﹁あらどうして?﹂
その仕返しという訳ではありませんが、赤蛮奇はフフンと笑うと意味深に言います。
﹁っていうかさ、わかさぎ姫だって無理だと思うよ。あれを相手にするのは⋮⋮﹂
19 湖のおへそ
ᕩಆैἿӡ
BOUGETUAN NO HUYU
1
ほうっと吐く息は白く、赤いほっぺたを撫でた。それがくすぐったくて、少女は笑いながら
駆けた。空には雪がちらつきそうな雲が重く乗っかっていたが、商店街の寒さを吹き飛ばすほ
ど賑やかな人波に飛び込んでゆく。
﹁おばちゃん、これと、あとこれもちょうだい!﹂
﹁はいはい。カゲロウちゃん、今日はすごい荷物ね﹂
﹁ん、ちょっとね!﹂
今泉影狼。長く艶やかな黒髪の美しい少女であった。その細腕に似合わない荷物を両手いっ
ぱいに抱えて、あっちこっち酔っ払いみたいに歩いては入った店で買い物し、どんどん荷物を
増やしていく。
まるで冬眠前のクマだが、実際そのようなものだ。影狼はクマではなく、ちょっと特異なだ
重い荷物を抱えているにも関わらず、それでも足りない、とばかりに影狼は笑顔だ。
﹁しばらく来られないから、いっぱい買い溜めしておかないとね﹂
47 佄月庵の冬
︱
けの
人間だけれど。
再度バランスを崩した影狼を支えて、少年は苦笑する。
﹁あ⋮⋮ありがとう! と、と、わっ⋮⋮!﹂
﹁あーあんまり動かない方が ﹂
少年は影狼の体を引き寄せ、危なげないように立たせてくれる。その腕の中で、助けてもら
ったことに気が付いた影狼は、あわてて彼から離れると頭を下げた。
﹁っと、危なかった﹂おそるおそる目を開いた少女の腕を、少年が掴んでいた。
﹁よっと﹂
あわや大惨事⋮⋮。覚悟した影狼。
しかし、予期した衝撃も、荷物が崩れ落ちる音も、聞こえない。
﹁⋮⋮?﹂
ーっ!﹂
︱
影狼が身を屈めてそれを拾おうとすると、がっくんと積もった荷物が影狼の体を引っ張る。
﹁お
おおっ?﹂一瞬持ちこたえたが、たちまちバランスを崩してしまう。
﹁ふぬ⋮⋮、ああ
﹁よっ⋮⋮﹂と、荷物を背負い直したところで、コロリとミカンが道に転がり落ちた。
だから、少女の腕に両手いっぱいの荷物を抱えているのは、とても辛い。冬なのに、汗がた
らたら、たらたら額を流れた 。
48
腕を放してもらって赤面する影狼の前に、ミカンが差し出された。
﹁はい。落し物﹂
﹁あ、どうも⋮⋮。良かったら、お礼に差し上げます。それ﹂
﹁いらないよ﹂
俯いたまま言った影狼の言葉に、少年は見る間に不機嫌な表情になった。
﹁プライドがある。ボクにだって⋮⋮﹂
怖い声にびっくりして、そこで初めて、少年のことを正面から見た。
身長は影狼よりも低く、甲虫︽かぶとむし︾に似た不思議なデザインの帽子を目深に被って
おり、陰に隠れた顔は幼く見えた。質素な着物との組み合わせがアンバランスで、あまり清潔
でない感じはもしや宿無しなのか、と影狼に思わせた。だとしたら、今の言葉も頷ける。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁やあ、カゲロウちゃんじゃないか﹂
﹁棚端の御主人。ちょうどさっき、お店に寄らせてもらっていたのよ﹂
影狼が甲虫帽子の少年に改めて声を掛けようとしたそのとき、横合いから声が掛けられた。
見ると、身形正しい青年がにこにことして歩いて来る。後ろに小間使いを一人連れており、
甲虫帽子の少年も彼に気が付くとその後ろへと控えた。どうやら、彼の丁稚だったらしい。
49 佄月庵の冬
﹁おや、そうだったのか。丁度買い付けで留守にしていてね⋮⋮﹂
茶化して影狼が言ってやるが、次郎は真面目な表情を崩さない。
﹁いや、そんなこたあ良いんだ。なあ、カゲロウちゃん﹂と、不意に二人の距離が詰まる。
は大変でしょう﹂
﹁ごめんなさいね、しばらくはお店で買い物も出来ないわ。ふふ、お得意様が減っちゃあ正月
気持ち沈んだような声を次郎が出したのに、もしかして自分が顔を出さなくなるのが残念な
のかしらんと影狼は胸を逸らせる。しかし、すぐにそんなことあるまいと頭を振った。
﹁ああ、それで大荷物だったのか⋮⋮﹂
ないから﹂
﹁いつもの冷やかしかい? それにしては、今日は随分と大荷物に見えるけれど?﹂
﹁ああ、これは⋮⋮﹂影狼はちょっと迷ったが、正直に言う事にした。
﹁しばらく里に来られ
﹁御主人にわざわざ相手してもらうほど、大した買い物じゃなかったのよ﹂
知の仲だった。
使用人が抱えている袋に、商品が入っているのだろう。青年はちらと視線をやって言った。
青年は棚端次郎。人里にある、小間物を主に扱う商店﹃棚端屋﹄の若き主人であった。影狼
はよく店を覗いては、少女らしくきゃあきゃあはしゃいでみたりするので、すっかり彼とも既
50
﹁え、な、なに?﹂
﹁良かったら、この冬はおれの所で過ごさないかい?﹂
今にも手をとられるのじゃないかという距離で、その口の動きがはっきりと見えた。思わず
ふらりとくる。荷物の重さから⋮⋮だと思いたかった。次郎の顔が近い。
﹁親御さんの言いつけだ、ってのは判っているけれど⋮⋮。冬のあいだ、里の外にある家に女
の子ひとりっきりってのは、やっぱりどうかと思って﹂
﹁話はありがたいけれど⋮⋮ ﹂
言いたい事はたくさんある、が、言えない事ばかりだった。嘘を塗り固める事も出来ず、影
狼は口ごもってしまう。
幸い、次郎は察してくれたようだった。努めて明るく、ほんの冗談だったと笑ってくれる。
﹁いや、はっは、困らせるつもりじゃなかった。まぁ冬のあいだ、何か不足があったら遠慮な
く頼ってくれよ。カゲロウちゃんはウチのお得意様だから、な!﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
二人して、思わずはにかむ 。
ふと影狼は、次郎の後ろに使用人の男と少年が控えているのを思い出し、今のやりとりが気
恥ずかしくなる。影狼の視線を追って振り向いた次郎は、思い出したように声を上げた。
51 佄月庵の冬
﹁ちょうど良かった。カゲロウちゃん⋮⋮﹂
あいだ寂しくないように﹂
次郎がにっこりと笑った。
﹁けど、どうして? せっかく今日仕入れて来たのでしょう﹂
﹁ウチの商品はお客様に笑顔になってもらうためのものだ。だから、カゲロウちゃんが、冬の
﹁差し上げますよ﹂
﹁あの、これ⋮⋮﹂
少女の名前は﹃影狼﹄であるけれど、音韻しか使わないからといってそんな風に思われてい
たなんて、思いも寄らなかった。カゲロウの髪飾りを手にして、少女は戸惑う。
の羽の様に美しい髪飾りは、とても作られたと思えないほど秀美で、影狼は見惚れた。
包みを解いて現れたのは、綺麗な一本の髪飾り。
﹁カゲロウ⋮⋮君の名前にぴったりだ﹂しっとりとした次郎の声が聞こえる。陽に透ける蜻蛉
﹁わっ⋮⋮﹂
﹁?﹂疑問に思いながらも影狼は受け取り、次郎と視線を交わすと、包みを開いた。
次郎は使用人に指示して荷物の中身を確かめると、そこから一つ、包みを取り出した。それ
を影狼に向かって差し出す。
52
事無げに言ってみせる青年の顔をまともに見る事が出来ず、影狼は髪飾りを手に、視線を下
げたまま、コクリと頷いた。
﹁⋮⋮あ、あの。私そろそろ行きます﹂
﹁うん。気を付けて﹂
﹁はい。また⋮⋮春になったら、絶対に、里に来ますから!﹂
﹁うん。じゃあ、また春に会おう﹂
影狼はそのまま次郎の顔を見る余裕も無く、いそいそと大荷物を抱えると脇目もふらずに走
った。ついさっきまで商店街の店という店を見て回っていたのが嘘みたいに、まっすぐ里の通
りを歩いてその場から立ち去った。
﹁⋮⋮﹂
びくっと肩を竦めて目を逸らす少年に、次郎は体をかがめ、顔を近づけて詰め寄った。
そうからかうのを、次郎はギロリと睨みつける。﹁おい、丁稚のくせに、主人に向かって何
だその口の利き方は?﹂
あとには、次郎と使用人の男、甲虫帽子の少年が残される。
くっと少年が笑った。
﹁フられたね、旦那様﹂
53 佄月庵の冬
﹁⋮⋮お前、彼女に何をしていた。悪戯は大概にしろ。いいな?﹂
﹁別に、助けてやっただけだよ⋮⋮﹂
ざっと地面を蹴って少年は歩き出した。冬の空気はまだ肌を刺す様に寒い。
﹁くそ野郎⋮⋮、冬が明けたら、覚えてろよ⋮⋮﹂
少年だけが、痛む腕を抑えて二人の背中をじっと睨みつけて、立っている。
﹁おい! 早く来い!﹂と、次郎が振り向く前に、被っている帽子をさらに目深にしてその顔
を隠した。陰になったその顔の中、二つの眼が爛々と灯っている。
﹁そうかね。しかし、嫌われたくないからねえ⋮⋮﹂
﹁次郎さんはお優し過ぎるんでさ﹂次郎に続いて、荷物を背負った使用人の男も歩き出した。
はあ、はあ、と荒い呼吸をする少年には構わずに、次郎は歩き出す。
﹁帰るぞ。ったく、うまくいかねえもんだなあ﹂
それも一瞬の事。少年が気付いた時にはすでに男は離れていて、周りを歩いている人間の誰
も今少年の腕が捻り上げられたのを見ていなかった。
フン、と次郎は離れると、使用人の男に目配せする。
不意に少年の腕が締め上げられ、その顔が苦痛にゆがんだ。
﹁ぐあっ⋮⋮いぃっ!﹂
54
2
これから、ますます寒くなるだろう。
竹林は雪帽子を被り、薄緑色の光彩に覆われ、静寂な空気が満ちていた。時折、ざす、と枝
葉から雪の落ちる音が聞こえ る 。
厳冬の中、迷いの竹林と呼ばれるこの場所に好んで外より訪れる者もない。それであるが故
にここに居を構えている者もいる。影狼もそのひとりであった。
竹林の一角に庵があった。元々あった母屋は過去に失われ、小ぢんまりとした平屋の庵だけ
が人目を忍ぶように建っている。そこに、影狼は住んでいた。
少女一人きりの生活で、寂しい、という感情を抱かないでもない。が、当然人間の集まる人
里を避けて生活するのには理由がある。
冬になると住処からあまり外出出来なくなるのが、嫌なのだ。別に寒いのは嫌では無い。室
庵の室内、影狼は憂鬱な面持ちで溜息を吐いた。
﹁⋮⋮はあ﹂
55 佄月庵の冬
った。
内に、ぱちり、ぱちり、と囲炉裏の炭が爆ぜる音が鳴っていた。
﹁⋮⋮﹂おもむろに、影狼は着ている服の袖を
影狼は〝オオカミ女〟だ 。
﹁あーあ⋮⋮。早く暖かくならないかしらね⋮⋮﹂
は自分の庵に閉じ籠もってしまうことにしているのだった。
普段は人間と変わらない影狼にとって、これは恥ずべき姿だった。乙女の毛深い肌なんて、
人前にさらしたくない。いわんや殿方の前においてをや。それで毎年、冬の時期になると影狼
影狼にはニホンオオカミの血統が継がれている。そのせいか、冬になると換毛して冬毛にな
るらしく、少女の姿であっても、もこもこと毛深くなってしまうのだった。
普段は人間の少女の姿で、見た目も中身もそれと変わらないが、満月の夜になるとオオカミ
の耳と尻尾が生えて獣に変身する様になる。半人半獣、という奴だ。
︱
﹁はあ⋮⋮。やっぱり寒くなると毛深くなっちゃう⋮⋮。冬毛なんて、ならなくっていいのに﹂
今度は腹の辺りを探ってみる。そこにも、獣の毛がもうもうと絨毯の様に生えている感触が
合って、一層影狼はがっくりきた顔になる。
露わになった少女の腕に、ぞろりと黒灰色の獣の毛並みが生えそろっている。
﹁⋮⋮むぅ﹂
56
うんざりして呟きいた影狼は、気を取り直すようにそれを大切に取り出すと、見つめた。
棚端の主人から貰った、カゲロウの羽に似て美しい髪飾り。影狼は鏡台の前に移動して座り、
そっと自分の髪に着けてみる 。
よく、わからないけれど⋮ ⋮ 。
﹁似合ってる、のかな﹂きっとそうだろうと思えて、影狼は鏡の中の自分にはにかんだ。
しかし服から覗いた肌は、やっぱり毛深くって⋮⋮。
﹁⋮⋮あーあ﹂
満月の夜は出歩いてはいけない。妖怪に食われてしまうからだ。
3
冬の寒さは嫌いではないのだ。ただ、毛深いのが嫌なだけで。
影狼は髪飾りを外すと、そっと布に包んで鏡台の引き出しの中に仕舞った。
ぱちり、ぱちり、囲炉裏の炭がやわらかく、爆ぜている。影狼はじっとそれを見ながら考え
ていた。
57 佄月庵の冬
だけれど、出歩くのが妖怪であるなら何てことは無い。月の魔力で、良い酔い宵。と良い気
分になるばかりだからだ。
人間に見られたら面倒だ。妖怪だと知られたら、人里に行きにくくなる。
けれど、半人半獣の性なのだろう。満月の夜は外に出たくなる。
影狼は星々に囲まれて、ぽっかりと浮かぶ満月をくい、と見上げつつ、酒を
の雪道を歩いていた。だから、気が付かなかった。
りつつで、夜
妖怪らしく、尻から生えたオオカミの尾を揺らしながら歩く。今は人間であるときの少女の
姿に、オオカミの耳と尻尾が生えて妖気を持っただけの姿だから、
〝カゲロウ〟を知っている
﹁いけないとは分かっているけど⋮⋮ついつい、浮かれて出てきちゃうのよねえ⋮⋮﹂
酒の入った徳利を手に、影狼は雪景色の中をのらりくらりと歩いていた。久し振りに迷いの
竹林から足を伸ばして、霧の湖の辺りまで雪見がてら散歩をしようと思ったのだ。
﹁ふう。今日は晴れてるし、雪見酒よー﹂
閉じ籠もりっぱなしだったから、逆に妖怪としておおっぴらに歩けるのが愉快だった。
この日ばかりは、影狼も機嫌が良かった。
普段であれば⋮⋮満月の日こそ、オオカミの耳が生え、尻尾が生え、毛深くなってしまって、
機嫌が悪くなり遠吠えのひとつやふたつ、不満を月にぶつけてやるのだが、最近はずっと庵に
58
︱
﹁
た、助けてっ!﹂
﹁
うわ、にっ、人間 ﹂
横合いから突然人影が飛び出してきたのだ。
﹁うわ、本当に人間に会うなんて⋮⋮私ってホント、バカ﹂あうあうと影狼は取り乱す。
!?
⋮⋮!⋮⋮!
﹁アンタ、もしかして⋮⋮﹂
殺されちゃう!﹂
甲虫みたいな帽子を目深に被った、みすぼらしい身形の少年。眼の奥に奇しき光がゆらりと
宿り、影狼は気が付いた。
いきなり素っ頓狂な事を言い出した人間に面食らった影狼は、月明かりに照らされたその顔
を見て既視感を覚えた。
﹁は、はあ?﹂
﹁助けて⋮⋮あいつら、ボクを殺すつもりで追いかけて来ているんだ。
︱
人影は足をもつれさせると、影狼の目の前にどしゃっと倒れ込んで雪を弾けさせた。すぐに
顔を上げ、再び声を上げる。
!?
影狼の耳がピクリと反応した。吠える声が聞こえた、獣ではなく人間の男の胴間声だ。
﹁逃げなきゃ⋮⋮﹂弱々しく少年が呟く。
︱
59 佄月庵の冬
アオォォ
︱
ン。
影狼は近場にあった木の陰に少年をしゃがませると、自分は声のした方へと駆け出した。
その肩を影狼が掴んではっと振り向かせ、視線を合わせた。
﹁この辺りで隠れていなさい!﹂と、手に持っていた酒の徳利を押し付けて持たせる。
︱
アオォォ
︱
ン。
彼らを見下ろせる枝の上に立つ。
雪を蹴る、サンッと軽やかな音を残して、体は宙を駆けた。林立する木々の枝を蹴って蹴っ
て、遠く思えた距離はたちまちに詰まり、影狼は人間たちの懐近くに迫っていた。
スン、と鳴らした鼻を突く火薬の臭いに、冷たい声音が出た。
駆け行く先の林の中、視界の向こうに男が四人、居るのが視えた。
リーダーらしき男が一人と、それ以外の三人の手には猟銃が握られている。距離はまだ遠い。
熟練の猟師でも狙えない距離だ。しかし影狼はただの獣ではない、オオカミの妖怪だ。
﹁⋮⋮胸糞悪いったら﹂
天に架かる満月に向かって影狼が吠える。
ほとんど少女の姿だったその姿が⋮⋮妖気をまとい、駆けるシルエットは四足の獣になり、
ついに完全にオオカミの姿に変わる。身の丈五尺程度の流線型の獣が、駆ける。
︱
60
おい。お前ら、ここは⋮⋮妖怪の縄張りだ﹂
と唸り声で威嚇しながら、影狼は告げる。
ようやっと気が付いた男たちは、オオカミの妖獣を見上げて、戦いた。
︱
﹁
︱
何時の間か接近されていた彼らは、銃を上げることも出来ずに棒立ちになっている。
﹁聞こえてる? 出て行け。って言っているんだ。さもないと
﹂
﹁ま、待ってくれ!﹂
リーダーらしき男が、一歩進み出た。
その顔を見て、影狼ははっとなる。そして、あの少年を見て抱いた既視感に確信を持った。
﹁俺達は、罪ある妖怪を追っているだけだ! 貴方を害するつもりは無い! この辺りに、侵
入して来なかっただろうか⋮⋮!﹂
﹁そ、そうだ。見た目は、人間の少年の恰好をした妖怪なんだが⋮⋮﹂
影狼が逡巡したのもつかの間、次郎と使用人の後ろに控えていた男二人の内、一人が矢を構
たか。
は彼の使用人の男だ。やはり先程逃げてきた少年は、棚端の旦那の丁稚をやっていた少年だっ
︱
影狼はじろりと、進み出た二人の男を見た。
﹁⋮⋮﹂間違いない。リーダーの男は
棚端次郎。棚端の旦那さん。もうひとり傍に居るの
61 佄月庵の冬
えているのに気が付いた。
!?
そのためには、殺したって構いやしないと思っている。
男たちは夜の林の中、再び行軍を始める。彼らの目的はただひとつ、あの少年を捕まえて
⋮⋮盗られた物を取り返す事 だ 。
﹁ええ、分かってますよ⋮⋮棚端の旦那﹂
先だ。見つけられなければ、君達への報酬も無いぞ﹂
﹁放っておきなさい﹂その後ろから、次郎が声を掛けた。﹁それよりも、あの子供を捜す方が
ダーン、と響く鉄砲の音を置き去りにして影狼は全速で駆けた。当たるようなヘマはしない。
影狼の姿は男たちの前からあっという間に消え去った。
残された男たち、まだ手にした銃が煙っている男が悪態を吐く。
﹁くそ⋮⋮﹂
︱
瞬間、矢が放たれる。咄嗟に首を振って躱した。
しかし肩口の辺りをちょっと掠めた途端、体が痺れたようになって、足がよろめく。
! 対妖怪用の呪術 ﹂
﹁
危うく木の上から落ちそうになる体を持ち堪えて、影狼は力を振り絞り、跳んだ。
﹁待ちやがれ!﹂
62
×
×
×
﹁ちょっと、対魔師がいるなんて聞いてないわよ!﹂
影狼は少年の隠れている木陰まで駆けて来るなりそう叫んだ。
﹁だから危ないって言ったじゃないか!﹂
焦る影狼の声に呼応するように少年も叫ぶが、ガルル、と唸るオオカミを目の前に、ビクッ
と震えた。
﹁逃げるわよ! つかまって ! ﹂
﹁あ、あんた⋮⋮さっきのお姉さん?﹂
﹁そうよ。ほら早く!﹂
満月で妖力の満ちている今夜ならば、多少の荷物を抱えたところで問題無い。影狼は矢の様
途端に影狼が雪を蹴散らして走り出す。
﹁アンタに預けた私のお酒、落とさないでよね!﹂
影狼が顎で自分の背中を指し示すと、少年は腕を伸ばして後ろから抱きかかえる様にして影
狼の背にしがみついた。
63 佄月庵の冬
に駆けた。
﹁もっとゆっくり走ってくれよ!﹂
﹁死にたいんだったらいいけど⋮⋮跳ぶわよ、下を走ると雪で足跡が残るから!﹂
︱
︱
ン。
満月の夜は、獣の血が騒ぐ 。
アオオ
︱
影狼は逸る鼓動を抱えて吼える。
いつだって逃げているのは自分だ。⋮⋮逃げるのは慣れてしまった。
その言葉は影狼のおまじないだった。
﹁大丈夫﹂
﹁⋮⋮﹂少年の体は震えてい た 。
その背中の感触に気が付いて、影狼は上下する呼吸の合間に、言い聞かせるように呟く。
﹁大丈夫よ﹂
目まぐるしく展開されて行く景色、影狼の背の上でがくがくと揺さぶられながら必死で少年
はしがみついている。
と、影狼は木を蹴って飛び上がり、枝の上を駆けて行く。
﹁⋮⋮!﹂
64
×
×
×
少し後、二人は迷いの竹林を歩いていた。影狼は少女の姿に戻っており、隠しきれない耳と
尻尾だけがピンと体から生えている。それを気にする様子もなく、先の怯えた顔はどこへ行っ
たのか、少年が嬉しそうに影狼に話しかけてくる。
﹁本当にありがとう。感謝してるよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それにしても、お姉さんがオオカミだったとはね。満月の夜を選んで正解だったよ﹂
影狼が足を止めると、後ろを着いて来る少年もぴたりと止まる。迷いの竹林は、こんな夜で
も静かだ。影狼は振り返り、じろりと少年を睨んだ。
﹁もう逃げ切ったでしょ? どこへでも行けば?﹂
﹁そんなつれないこと言わないでよ∼﹂
﹁ふんっ﹂と、少年が袖を掴もうとするのを振り払う。先程からずっとこの調子なのだった。
教えていない名前を呼ばれ、影狼の獣耳がピクリと揺れる。
﹁ねえ?〝カゲロウ〟のお姉さん﹂
65 佄月庵の冬
ৱ៦ẩ ᾝᾷᾝᾷ࢈௡
KAIDAN BENBEN YASHIKI
八橋の独白 ①
︱
正確に言えば、私という存在の元になるものは、家の蔵に仕舞い込
付喪神になる前、私
まれたまま忘れ去られた、一個の古琴だった。
なぜなら、その古琴は〝私〟を知らなかったからだ。
り、獣の遠吠え、そして人の声。
古琴が付喪神になったのは何時だか知れない。初めは自分に意識がある事すら判らなかった。
蔵の真っ暗闇の中で、耳だけがひっそりと生きていた。
屋根を叩く雨風の音や、家鳴り。微かに聴こえる、鳥の
生きものらしい感覚は一つも無く、体と弦に伝わる音だけを感じていた。
そこには何も無く、音だけがあった。
閉じられた暗闇は何も見えやしない。
器物の体は動かす事が出来やしない。
古琴は音だけの世界に住んでいた。昔々⋮⋮といっても百年と少しの昔から、私が目覚める
までの百年間。
109 怪談、ベンベン屋敷
何も見えず、動く事もできず、世界は独りで完結していた。
〝私〟が世界に〝在る〟事を知ったのは、自分と違う誰かが〝在る〟のに気が付いたからだ。
だから私の記憶は、姉さんの声を聞いたところから、始まる。
1
羊水に浮かぶ意識の周囲に、波紋がいくつもいくつも生じては弦を揺らす。
声がいつから聞こえていたのか、たった今なのか、ずっと昔なのか。八橋には分からない。
﹁誰か⋮⋮ああ、誰か⋮⋮﹂
それは音だった。
またか、と思う。⋮⋮同時に、そんな覚え無い、とも思った。そのとき、意識はあれど、八
橋の自我はまだ生まれていなかった。
閉じられた暗闇の中。八橋はぼんやりした意識で、何かが沁み入ってくるのを感じた。
﹁ああ⋮⋮悔しい⋮⋮悔しい ﹂
︱
110
琴の音。
美しい奏であった。
母親だろうか。人間の女が、八橋の体を爪弾いていた。畳の上で柔らかく音がはねる。
けれど、確かに知っている声だった。
母親の胎内にいる赤ん坊が、聞いた音を覚えていた⋮⋮。そんな気分だった。
まどろみの中、意識を声に傾ける。
オギャア、オギャア⋮⋮。
微かな赤子の泣き声⋮⋮。
オギャア、オギャア⋮⋮。
ぼんやりと思い出される光景⋮⋮あれはいつの事だろう?
八橋は意識をさらに声へと傾けた。
白く、白く、目蓋に射す光に、意識が晴れていく。
昼の日差しのあふれる室内。八橋は緑の畳の上に居た。オギャア、オギャア⋮⋮。赤子の声
が聞こえる。
︱
111 怪談、ベンベン屋敷
の向こうで、赤子が泣いている。彼方より、オギャア⋮⋮と聞こえる。
赤子の声。
ハッとして、この時ようやっと八橋の意識は覚醒した。
世界に顕在化した。
視界を開く。
⋮⋮何も見えない、と思ったがそれは当然だと知っていた。八橋が居るのは、窓は無く扉も
閉め切られた蔵の中だ。年に数度も開かれる事がなく、空気は常に澱んでいる。要らない道具
泣く子を捨て置く女の顔を見て、ひどく辛い気持ちになった。
ビン、と音が外れて、
八橋は暗闇に落ちる。
﹁誰か⋮⋮誰か⋮⋮﹂
奏者の女は見向きもしなかった。一定の調子で、可憐な指が琴にささやく。
彼の子を慰めるために琴を撫でているのか⋮⋮しかし、それにしては、随分と物悲しい奏だ
⋮⋮。
︱
112
ばかり、ごみごみと積層した無名の島。古琴の八橋は随分長い間使われず、蔵の端っこに体を
埋めている。
⋮⋮そうであったなあ。ぼんやりと、思った。
どこから湧いて来た知識かも分からないが、不思議なことに言葉と思考は器物の体に宿って
おり、なるほど付喪神とはこうして成るのかと、八橋は納得した。
けれど分かったのはそれだけで、成ったことに感慨も無く、ただただ退屈に違いないという
確信だけがある。
﹁⋮⋮悔しい⋮⋮悔しい﹂
声がした。
﹁誰かいるの ﹂八橋は思わず叫んでいた。そのとき初めて、八橋は自分自身の声を聞いた。
﹁いるのね ﹂
!?
!?
八橋の声は暗闇に響かず消えて、蔵の中はしんと静まり返っている。
そうだ。聞こえていたはずなのだ。
起きたてでぼんやりしていたが、八橋を起こしたのは声だった。
先ほどまで聞こえていた声⋮⋮。
﹁⋮⋮﹂
113 怪談、ベンベン屋敷
無音。
︱
無音。
ベ ン 、
気が狂う程に静寂。
︱ ︱
八橋は次第に心細くなってきた。体を震わせる自分の声は、喋る端から暗闇の中に吸い込ま
れた。埃に埋もれて、響かず消えた。
耐えかね、八橋は再び声を上げた。
﹁ねえ! 私、今目が覚めたの。貴方の声で気がついたのよ⋮⋮。
⋮⋮ねえ。いるのよね? いるんなら⋮⋮声を⋮⋮。
声を聞かせて⋮⋮声を⋮⋮﹂
︱
114
﹁⋮⋮驚いた。私のほかに妖怪が居たなんて﹂
その時、声が返って来たのを聞いて、八橋の体は壊れんばかりに跳ねた。
それは初めて聞いた意味のある言葉で、心を打ち震わせた。あわてて八橋は虚空に向かって
答える。
﹁あ⋮⋮あの、貴方も付喪神なの?﹂
真っ暗闇の蔵の中、声だけのやり取りが続けられた。
﹁そうよ。琵琶の付喪神。弁々。と、そう云う名前﹂
﹁わ、私も! あの、琵琶じゃないんだけど⋮⋮﹂
﹁付喪神なのでしょう?﹂
﹁そうそう、そう! あの、同んなじ楽器!﹂
シャン。
音の世界で、楽は何よりも明瞭に意思を伝えた。
ここに居る自分を主張するため、八橋は思うまま奏でる。
♪ 最初はぎこちなく。この古琴から音の流れ出るのは何十年ぶりだろう。
八橋は体を震わして音色を出した。
﹁私は琴の付喪神なのよ!﹂
︱
115 怪談、ベンベン屋敷
116
♪ 動かない体がもどかしくて頭をカッカさせる内、徐々に柔らかく零れ出す。
♪ 収まりきらない音が琴から れ、体が覚えている旋律へと音が近づいて行く。
♪ 次第に気持ち良くなって来て、リズムが生まれとうとう、奔流は奏に到達した。
♪ そこに新しい音色が交わ る 。
♪
琵琶の、
♪
刻む旋律が、
♪
奔流に追いついて 、
♪
するすると琴の旋律に絡み合ってくる。
♪
八橋から れ出す音の奔流を優しく支える。
♪
ほら、行き過ぎている。ベン、ベン、と、こう。
♪
光の導きが見える。あたたかい方へ案内される。
♪
八橋は弁々の音色に惹かれて一層奔放に走る。
♪
琵琶の力強さが、奏を押し上げていく。
♪
さあ、真直ぐ進めば良い。聞こえる。
♪
精神が、身体が、全部覚えている。
♪
琵琶と琴の奏がどんどん高まる。
︱
︱
余韻。
無音の幕。
残響。
♪
幻想へと至る、アンサンブル。
♪ 琵琶の最後の一指の残響 。
♪ 琴の震える終局の刻。
︱
付喪神になったことで、体は動かせなくても本分の勤めだけは出来るようで、八橋は古琴の
体でついに一曲演じきった。
﹁⋮⋮ふう、ふう。なんだか、疲れちゃった。でも、ああ、なんだか楽しかった﹂
八橋は記憶を
ろうとした 。
腹が満たされる様な満足感を得て、蔵に居る唯一の話相手が楽器の付喪神とは、なんて幸運
だと思った。もしかしたら妖怪になる以前、弁々と共に演じたこともあったのかもしれない。
117 怪談、ベンベン屋敷
しかし、自分が蔵に入れられる前のことは、靄がかかったように何も思い出すことは出来な
かった。
﹁うーん⋮⋮﹂八橋がひとり唸っていると、声がかかる。
﹁ねえ。琴の妖怪さん﹂
やつはし。八橋。私の名前⋮⋮。
﹁こちらこそ﹂
﹁そうよ。私は八橋。よろしく。弁々﹂
︱
﹁うん。⋮⋮そう、﹂この時初めて、付喪神として成った名前を呼ばれた。
﹁そう。貴女、八橋と云うの ﹂
思わず、ビィんと間抜けな音を立てた八橋を笑う声が聞こえ、ムッとして声を荒げた。
﹁八橋。琴の付喪神、八橋よ ! ﹂
﹁あっ﹂
涼やかで清涼な声。八橋は少し羨ましさを覚える。
﹁何? 弁々﹂自分の声はなんだか鼻にかかっていて、子供っぽかったから。
くすり、と笑う吐息も弁々のそれは何だか大人っぽい。
﹁ね、そろそろ貴女の名前を教えてくれない?﹂
118
﹁⋮⋮ねえ、弁々。私⋮⋮私、初めて名前を呼ばれた。私、八橋っていうのね﹂
﹁ふふ、変なの。貴女が自分でそう名乗ったんじゃないかしら﹂
﹁そう、そうなんだけど﹂
﹁あのね。八橋﹂
﹁なに?﹂
﹁私も初めて。弁々って呼ばれたの⋮⋮。ありがとう、八橋﹂
︱
互いの声と
それを聞いて、ああこの妖怪も私と全く同じなのだ、と八橋は思った。初めて、他者に名前
を呼ばれたのだ。
うんっ!﹂
弁々もこの蔵の中で、ひとりぼっちだったのだ。
︱
﹁
弁々の独白 ①
こうして八橋と弁々は、互いの姿も見えない暗闇の蔵の中、音だけの世界で
音色だけを頼りに繋がった。
119 怪談、ベンベン屋敷
初めて会話をしたその時、私たちはすでに家族の様なものでした。
何せ、音の世界の中に、二人きりしかいなかったのですから。
八橋が自意識を顕在化させたのは、私の声が聞こえたからだと聞きました。
他者である私の声を聞くことによって、八橋自身が〝私〟を認め、付喪神として成り立つこ
とが出来たのです。
その世界に変化があったのは、私と八橋が知り合ってから、初めて蔵の闇が暴かれた時のこ
っておりました。そして愚痴も無くなると、二人して体を震わせて奏を流してばかりいました。
蔵の中で、二人きりで、夜毎私たちはお喋りをしました。最も、八橋は目覚めるより前の記
憶が殆ど無かったので、日毎に鳥がうるさいだとか、埃がひどいだとか、そんなことばかり言
何と言っても、私は暗い蔵の中で長い長い間独りきりでいたものですから、やはり飢えてい
たのです。八橋が、初めて私の名前を呼んでくれたのです。
私は確りとした意志を持っていたが故に妖怪になったものですから。
その目的はといえば、大よそ夢見ごとであったので、私は八橋と時間を過ごす内にそんなこ
とすっかり忘れてしまいまし た 。
私は、彼女が目覚めるよりもずっと前から、〝私〟というものを知っていました。八橋は気
が付いていないようでしたが、私と彼女は同じ付喪神であっても、成り立ちが違うのです。
120
とでした。
2
それが外の光だとは知らなかった。
暖かいような、むず痒いような、初めて受ける刺激に、八橋は戸惑った。
蔵中の黴臭い空気が動き、はさと古琴の体の伱間を抜け、八橋は咽返るようになって目が覚
めた。
なに⋮⋮これ?
白い光が見えていた。他にも、蔵の中の埃に塗れた様子や、体をくすぐる風、緑の匂い、生
の獣の声⋮⋮それらがいっぺんに意識に飛び込んできた。
︱
逆光の中、人影が二つ立っていた。男だ。彼らが蔵の扉を開けて入って来たのだろう。
﹁⋮⋮おい、この琵琶じゃないか﹂
意識が白黒と混乱している内に、ようやっと、蔵の扉が開いたのだと理解した。
﹁⋮⋮見ててもわからねえか ﹂
121 怪談、ベンベン屋敷
すっかり八橋たちを忘れたと思っていた人間たちが、何の用事か蔵の扉を開けて入って来た
のだ。
﹁おい﹂とうとう、八橋の目の前に立った。二人組の男は、一人は禿頭で、もう一人は狐顔の
に、男たちはどんどん近づいて来る。
男達のやり取りに何やら不穏なものが混じる。
八橋は驚いた。琴の音。まさか⋮⋮。
蔵の入り口付近をうろうろしていた男たちが奥へと踏み込んで来た。みしり、と板の軋む音
が八橋の鼓動を逸らせる。⋮⋮来るな。⋮⋮来るな。しかし、その思いに引き寄せられるよう
﹁おい。あれじゃないのか﹂
﹁夜中に音がするのは確かだ⋮⋮﹂
﹁あの人に琵琶も琴も聞き分けが出来るのかね﹂
八橋は彼らの会話に聞き耳を立てた。
﹁⋮⋮琴の音だって話だぞ﹂
は無い。どうしたらよいのか分からず、ただ戸惑ったのだ。
理解して、八橋は体を強張らせる。彼らの目に、八橋は埃を被った古琴としか見えていない
だろう。妖怪になっているなんて思いも寄らない筈だ。しかし、そんなことに気を回したので
122
コン、コン。
痩身だった。﹁ああ﹂その狐顔の方の手が埃を被った古琴にぬっと伸びる。
︱
思わず悲鳴を上げそうになるのを、八橋は堪えた。
古琴を叩いた狐顔の男は、もう一人に振り返って言う。
﹁ほら。琴だ﹂
﹁すげえ埃⋮⋮。こんなの、まともに音も出ないのじゃないか? 弦だって張ってない﹂
男二人は八橋の体をじろじろ見ながら、ああでもない、こうでもないとぶつくさ喋った。
﹁面倒くせえなあ。別に変わったところなんて無いだろう﹂
﹁とにかく、お札でも貼っておけばいいんじゃないか﹂
﹁いいんだよ。何も無かったと言っておけば⋮⋮﹂
﹁いや、そういう訳にも⋮⋮だって悪霊だったらまずいじゃないか⋮⋮﹂
ご、ごん。⋮⋮。
やがて、男たちは結局何もせずに蔵から出て、再び扉を封印して去って行った。八橋の視界
で光は筋となり、そして重い音を立てて扉が閉まる。
その間、八橋は体が緊張して熱いような、人間との対面に肝が冷えるような、混乱状態で、
結局男達がどれだけの間そこに居たのかも分からない。
123 怪談、ベンベン屋敷
静寂。
﹁は? 女の幽霊? 弁々、会ったことある?﹂八橋も苦笑しながら乗っかった。
﹁いいえ。私は蔵の中に居る妖怪は八橋しか知らない。うふふ、八橋が実は幽霊だっていうん
の幽霊の仕業なんじゃないかって﹂
いる最中に小さく噴き出した。﹁でも可笑しいのよ。夜な夜な音がするのは、蔵の中に居る女
﹁人間たちにも聞こえていたのね。私たちが夜な夜な演奏しているのが⋮⋮﹂と弁々が語って
﹁げっ⋮⋮。本当に?﹂
八橋の呟きに、弁々が答え る 。
﹁私たちのことが気付かれたみたい﹂
﹁⋮⋮なんだったの、今の﹂
よって、舞い込んだのだ。
蔵の中は再び何も見えない暗闇に包まれていた。
八橋は自分を取り戻した気になって大きく安 する。緊張ゆえ、まるで頭に入ってこない経
験だった。だが夢ではなかった証に、紅葉が一枚、八橋の体にくっついている。人間の侵入に
︱
124
なら、別だけれど⋮⋮﹂
♪ ヒュ∼⋮⋮
♪ どろどろ、どろどろ⋮⋮
♪ ヒュ∼⋮⋮ヒュゥ⋮⋮
二人は不気味な音を演奏し、どちらともなく笑い出した。
﹁あははっ、それじゃ、私たちに気付いていないんじゃない!﹂
﹁人間は不可解なものに恐怖するからねえ﹂
﹁だったら、もっとおどろおどろしい曲でおどろかしてやろうかしら⋮⋮!﹂
﹁いけないわ、八橋。私たちが付喪神になっていると知れたら、本当に退治されてしまうわよ。
今日のところは何も無く過ぎたけれど⋮⋮﹂
﹁だけれど弁々、﹂
ベ ン 。
﹁⋮⋮﹂
﹁お願いよ八橋、今は大人しくしていましょう﹂
︱ 125 怪談、ベンベン屋敷
八橋としては、付喪神になって初めて人間を恐怖に陥れる機会が巡ってきたわけで、妖怪の
本能が琴の調べに乗せて、もっと人間を脅かすべきだと囁いていた。
蔵の壁越しに染み入る、風のざわつく音を聞きながら、八橋は眠りについた。
八橋は意識を閉ざしていった。いつでも真っ暗闇の蔵の中だが、不思議と付喪神のこの体は
夜でないと本調子が出ないの だ 。
﹁ええ⋮⋮夜に⋮⋮﹂
﹁おやすみ。八橋。また、夜 に ﹂
寝るわね⋮⋮。おやすみ、弁 々 ﹂
﹁ねえ、良いでしょう。大丈夫よ。きっと。⋮⋮ふああ。昼間っから起こされて眠いわ。私、
﹁うーん⋮⋮﹂
﹁けど、お喋りくらいは良いでしょう?﹂
八橋は頷いた。
﹁ありがとう、八橋﹂
だがしかし、弁々の琵琶の音が、一刀両断に八橋の胸を梳いていった。
ふつふつと湧いていたほの暗い感情はどこかへ霧散して、落ち着いた気分が戻って来る。
﹁⋮⋮分かったわ、弁々﹂
126
弁々の独白 ②
八橋に比べて、私は人間の声に敏感でした。
昼間二人とも眠っているときでも、蔵の近くで人間の声がすれば目を覚まし、じっと何を言
っているのか聞き取ろうと耳を澄ましていました。
蔵の中で少しばかり長い孤独を過ごしてきた私にとってそれは癖で、何よりも執着でした。
白状すると私は人間が憎かったのです。
最近になって、このひっそりした蔵の周りで人間の話し声の聞こえることが増えました。
どうやら私たちが夜になるとお喋りをし、音を奏でていることが原因らしかったのです。
閉め切りの蔵の中から、夜な夜な聞こえる女の声と演奏。
琵琶や琴が付喪神になっていると知らない人間たちは、それが女の幽霊の仕業だと実しやか
に囁きました。そのような 話を、しきりに蔵の近くでしているのです。
これには私も苦笑を堪えきれず、八橋に盗み聞いたことを話しては二人で笑いました。この
笑い声が、また幽霊の仕業だと勘違いされるのかと思うと、一層可笑しいことでした。
127 怪談、ベンベン屋敷
しかし同時に私は戸惑っていました。人間たちが する、女の幽霊。それを耳にする度、ほ
の暗い感情が私の内側で燃えるのです。日に日に、その感情が強くなっていくのに気が付いた
のです。
はっとしました。
そう。女の幽霊とは⋮⋮私 。
蔵の持ち主である家の主人に追いやられ、恨み辛みを血反吐と吐いて死んだ、哀れな女。
それが私でした。
八橋の独白 ②
付喪神の生活はのん気で楽しいものだった。
八橋が目覚める以前の孤独を思い出しました。私がどんな思いで付喪神になったのかを。
そして、あるとき分かりました。
いつもの様に人間の話を聞いていた⋮⋮そのとき、彼らが する幽霊の、女の名前がその口
より漏れたのです。
128
ᢝ୦࿇Ἷ‫ޣ‬ἠ᝵὜ὓἿ
AKATYOUTIN NO GOTOKU MIRUMONO
人里の色街から、くらりと人目を避けて歩き出でた⋮⋮その人影は⋮⋮賑やかだが濃い暗闇
から、しじまだからこそ薄い暗がりへと、事物の影を通る⋮⋮夜色を紅に溶いた色⋮⋮赤い外
套に身を包んだ少女。
赤蛮奇であった。
﹁夜に飽いたから﹂夜を抜け出して、青いリボンを風にゆらして歩く。昂ぶった気持ちが落ち
着くまで洋々と里を回遊し、やがて暗闇から歩き出た。
目を閉じて、開いて、空を見上げる。仄かな光が赤蛮奇の頬に触れた。
目に映る星月が白い。その当たり前の色を見て、安心して再び歩き出した。
﹁帰ろう﹂夜の散歩を終えて 。
﹁フム﹂と赤蛮奇は歩きながら考える。
ぼんやりと赤い灯りが行先に見える。
帰り道をぷらぷら行く途中のことだ、蕎麦屋がある。赤提灯を軒に吊るして、ボロ⋮⋮もと
い年季の入った風格の佇まいの店は、彼女の行きつけだ。
193 赤提灯の如く見るもの
狭い店内、カウンター席で軋む椅子に座り、丼にざっと入れた蕎麦と、酒を軽く腹に入れる。
うまそうだ。
赤蛮奇はひとり、ウンウンと頷きながら道を行く。
﹁でも、蕎麦食いたいなァ⋮ ⋮ ﹂
赤提灯の灯る蕎麦屋に背を向け、いそいそと小銭を片付けながら店の前を通り過ぎた。
⋮⋮入る前に気付いて良かった。
赤蛮奇はさみしい懐事情を覚えていた自分の頭に感謝する。
いくら赤蛮奇が人里に溶け込んでいるといっても、こちとら妖怪様だ。勘定代わりにニコニ
コと皿洗いをさせられる程腐ってはいない。かと言って食い逃げってのも情が無いってもんだ。
﹁ありゃりゃ、赤っ恥かくところだった﹂
案の定、嫌な予感に懐を確認してみると、薄っぺらい小銭があるばかりであった。試しにと
財布をひっくり返して振ってみても、手の平に手応えが無い。
ところが、だ。ふと気になって躊躇する。
﹁ゲェ⋮⋮。こいつぁ、堪らんぜ﹂
急にお腹が空いた気がして、口の端で笑う。八重歯を輝かせて舌舐めずりひとつ、赤蛮奇は
勢い店に入ろうと思った。
194
ぴたり、その足を止めて振り返った。まだ提灯はすぐそこで誘っている。
もう、今日は蕎麦って気分だったのだ。
夜の終着駅だったのだ。赤提灯。蕎麦と酒。親父たちの下らん会話を冷ややかに笑い、丼を
空け、ごっつぉさんと一言だけ残して店を出る。ちょいといい気分で帰れたら、今日は花マル
だ。
﹁考えるだに、後髪引かれるな⋮⋮﹂
じっと見ていると蕎麦屋の戸ががらりと開いて、客のひとりが外に出てきた。若い女だ。
﹁あっ﹂
﹁⋮⋮ん? おや、お前さん は ﹂
その女の名前はマミゾウといった。化け狸の妖怪で、人里でたまに見かけることがあり、赤
蛮奇が一方的に知っているだけだった。
素直に認めるのも癪で、すっとぼけてみた。けれどやっぱりにこやかに、
﹁儂はマミゾウ、
化け狸じゃ。人里の外れに寺があるじゃろう。あそこで世話になっておる﹂
﹁⋮⋮なんだい、あんた?﹂
ところが、それがにこやかに話しかけてくる。
﹁やあ、ろくろっ首の娘さんじゃな。こんばんは。奇遇じゃのう﹂
195 赤提灯の如く見るもの
マミゾウはぽん、と木の葉を一枚煙に包むと、名刺を差し出した。赤蛮奇は受け取って見る。
﹃二ツ岩 マミゾウ
御連絡・御相談は人里、命蓮寺までお気軽に﹄
﹁お前さんのことは﹂とマミゾウが言うのに顔を上げる。﹁人づてに聞いておった⋮⋮といっ
ても、ついさっき、そこの主人からじゃ﹂
ぎょっとして、赤蛮奇は立ち止まった。懐に手をやる。ない。振り向く。マミゾウが笑顔で
手にしているその財布。あれは赤蛮奇のものだ。
﹁おおい、財布を落としとる ぞ ﹂
言って赤蛮奇はくるりと踵を返して背を向ける、その後ろから、マミゾウの声が追いかけて
くる。
興味なく、赤蛮奇はその場を去ろうとしたが、マミゾウは気付かず会話を続けた。
﹁お前さんも蕎麦を食いに来たのかい? ここであったのも何か縁だ、一杯、一緒にどうじゃ﹂
﹁⋮⋮悪いけど、もう帰るところだ。残念だけど﹂
﹁ああ、そう﹂
ぽっと灯る赤提灯を指してマミゾウは言った。蕎麦屋の主人は大層無口なのだが、狸の話術
か、それとも彼女の口が巧いのか。
196
﹁⋮⋮﹂つかつかと歩み寄り、財布を取り返した。
ほうっとマミゾウが息を吐く。わずかに、出汁の香りがした。
﹁なんじゃ。お礼のひとつも言えんのか﹂
マミゾウは言うが、どうせさっき名刺を渡したときにでも盗んだに違いない。確かに仕舞っ
ていたのだから。
﹁しっかし軽い財布じゃなあ。もしかして、それで蕎麦屋に入るのをやめたのか?﹂
﹁⋮⋮うるさいな﹂
﹁あ、図星? なに、金なら心配するな、だから一緒に酒でもどうじゃ。おごるぞい? まあ、
葉っぱのお金じゃが﹂
﹁私はそこの常連でね、不義理なことはしたくない﹂
﹁つまらんのう﹂
赤蛮奇は思わぬ出会いにちょっと苛つきながら夜道を進み、途中でピタリと足を止めた。
人知れず、ぐーっとお腹が鳴ったけれど知ったことか。他人に奢られる様な安いプライドは
持っていないのだ。蕎麦は食べたいが、飯代は自分で稼ぐ。
振り向かないままひらりと手を振って、マントをふりふり赤蛮奇は蕎麦屋の前から立ち去っ
た。
197 赤提灯の如く見るもの
ちょうど、 だった。
右に進めば、ぐるり回って寝床に入る。夜道の散歩にゃ適当で、まあまあ具合が良い。
左に進めば、ぐるり戻って蕎麦屋の裏に出る。そして、そこは⋮⋮たまの仕事場だ。
八重歯を見せて笑う。クク、と喉で笑うと踏み出した。腕が鳴るぜと、無造作に歩き出す。
この先には、柳の道がある 。
話であり⋮⋮どれもが真実、でもある。かつてはもっと少なかったそうだ。
その中でも、柳の道の幽霊話は、昔から長く語られてきた怪談のひとつだ。
けれど、ここ数十年で数が増えた。それだけ人妖の距離が近くなった証左なのだろう。
どれもが
人里には、怪談奇談合わせて百八つの化物話がある。
季節や年により、話が増減したり入れ替わったり改変したりするが、平均して大体百八つ程
度、常に話として存在する。
×
×
×
妖怪の仕事と言えば、人間を恐怖に落とし入れることだ。
﹁腹が減ったら戦も出来るってなァ﹂
198
夜道を歩いていると、ふと見られている気配を感じた。立ち止まると生ぬるい風が吹いた。
柳が揺れていた。その葉陰より死人が恨めしそうに自分を見ていた⋮⋮。うんぬん。
︱
時々により、幽霊の性別が違ったり、近親の幽霊だったりするが、大筋は同じだ。
夜道を歩いていると、柳の下に化物がいた、ということ。
その の路を、カンカラ足音鳴らして赤蛮奇が歩く。先までの通りに比べて人影は無く、灯
りも乏しい。川面に映る半分の月が、足元から影を朧に浮かび上がらせていた。
ざわざわ、柳の葉が擦れる。輪郭も朧で、ゆらぎがお化けに見える。
﹁良い風ね⋮⋮﹂
赤蛮奇はマントの襟元をゆるめると〝ゴロリ〟と首を回した。
人間が見たらさぞ驚いたであろう。
そして彼女の後ろを歩いていたなら、彼女と目が合ったに違いない。
赤蛮奇の頭は、きっちりと一回転、胴体の上で回ったからだ。首が繋がっている人間には真
似が出来ない。
クク、と声を漏らして赤蛮奇は笑んだ。思い出したのだ。
彼女はそういう妖怪だった。端的に言うと、首が取れるし、首が増える。ろくろ首、と呼ば
れることもある。
199 赤提灯の如く見るもの
見た目は人間の少女である赤蛮奇が夜道に立っていると、人間が声をかけてくる。
もし、と肩を叩くと首が落ちる。恐怖で逃げ出した人間をその生首がフワフワと追いかける
のだ。
﹁うぅ∼ら∼め∼しぃやぁ∼⋮⋮﹂
仕事場まで来たところで、柳の下に人影が見えた。
草葉の陰に、傘を肩に携えて円く広がったシルエットが座り込んでいた。どうやら、少女だ。
思わず赤蛮奇は手のひらを空に向けて確かめるが、雨粒なんぞは降りていない。
ああ、どうやら阿呆がいるぞ。そう独りごちて溜息を吐く。
雨も無いのに番傘を差す少女。独特の紫色の傘は、どうやら知り合いのそれである。
顔は見えないが、あいつに違いない。というかあいつ以外にいるわけがない。
ざく、ざく、足音を立てて赤蛮奇は進む。やがて近づくと、少女は傘を傾けて、ゆうらりと
振り向いた。
最近の柳の下の怪談では⋮⋮生首と鬼火が飛ぶという話だから。
﹁⋮⋮あら?﹂
思い出すだに、口の中に甘い味が漂った。人間の恐怖は蜜の味だ。脅かしついでに、金を置
いてけと脅すのもやぶさかではない。
200
傘の妖怪、小傘。彼女が脅かそうとした相手は⋮⋮首が無かった。
﹁えっ⋮⋮﹂
小傘は恐怖に後ずさり、ふと気配を感じて見ると⋮⋮
生首が傍らに浮かんでいる 。
﹁みぎゃああああ!﹂
×
×
×
今宵の柳の下は賑やかだっ た 。
呆れ顔の赤蛮奇と、膨れっ面の小傘がやいやいと会話しているからだ。
小傘は驚かそうとしたところを逆襲されて、半べそかきかき文句を垂れていた。
﹁ひどいじゃない! バンキちゃん!﹂
﹁⋮⋮人のナワバリで待ち伏せするのやめなさいよ﹂
それに気付かずに小傘はぷんすか怒っていた。
赤蛮奇だって柳に先客がいた上、下手くそな仕事を見せられて不服ったらありゃしない。愚
痴だって漏れる。
201 赤提灯の如く見るもの
﹁まったくもう、こんなことしてる場合じゃないんだよー。私だって忙しいんだからね!﹂
﹁⋮⋮﹂
やれやれ厄介者に絡まれたと赤蛮奇は呆れるが、新たに三人目がやって来る。
﹁夜更けに騒がしいじゃない か ﹂
﹁それなら丁度良かった! 暇なんでしょ? お願い、手伝ってよ∼﹂
じろりと小傘を睨んだが、両手を合わせて懇願し、片目はウインク、ぺろりと舌を出した愛
嬌のある顔は、空気が読めないマヌケ顔。
しかし赤蛮奇にも意地があ る 。
﹁知らないよ。私は今日は帰って寝る﹂
ところが小傘が引き止める 。
﹁待って待って! 私は忙しいって言ったでしょ?﹂服の裾をぐいと引き、憐れ駄々をこねる
子供のように﹁待って待って﹂と叫ぶのだ。
﹁⋮⋮帰るわ﹂そう決めた。
﹁聞いてる? バンキちゃん! もう、驚いちゃって驚いちゃって大変なんだから﹂
小傘が見せる百面相⋮⋮を置いて、赤蛮奇は踵を返した。今夜の仕事は諦めて、蕎麦もおじ
ゃんで不貞寝する。
202
かんらかんらとやって来たのは、さっき蕎麦屋の前で会ったマミゾウだ。
追いかけて来たのかしらんと疑ったが、なんてことはない、この路、命蓮寺への通り道であ
る。そういえば、小傘も寺へはよく行っていたなあと赤蛮奇がぼんやりするうちに、小傘とマ
ミゾウがこんばんはと挨拶している。
﹁ねえ、マミゾウ聞いてよ∼ ﹂
﹁どうした。半べそなんぞかいて﹂
﹁その事なんだけど、バンキちゃんが手伝ってくれないの﹂
って二人、じらっと赤蛮奇を見るが、一体なんの話をしているんだか。ちょっと怯んだが
虚勢を張って、睨み返す。
﹁⋮⋮なんだよ﹂
﹁金も無ければ暇なんじゃろ? 手伝ってやればいいじゃないか﹂
﹁嫌だよ。面倒だ﹂
﹁小傘、知っとるー? こやつ先程、蕎麦屋でな、財布の中身がな、
﹂
赤蛮奇はプライドが高い。
小傘の手伝いだか知らないが、マヌケな妖怪に付き合うつもりはない。程度が同じと見られ
ちゃぁ困るのだ。
203 赤提灯の如く見るもの
﹁あーあーうるさいっ!﹂
どうやら今晩はやっぱり、厄日みたいだった。
×
×
×
傷つくくらいなら諦める。孤高は孤独を生まないらしい。
﹁⋮⋮好きにして頂戴﹂
赤蛮奇はふぅと溜め息吐いて夜空を見上げる、そうすれば半月がまるで彼女を笑っているみ
たいだし、ざわざわと柳の葉は夜風に揺れて彼女をからかっている。
﹁なに勝手に話を進めているのよ﹂
﹁うん!﹂
くふふと笑ったマミゾウは、赤蛮奇の肩を抱き寄せ、まあまあ、と慰める。
﹁立ち話もなんじゃ、場所を移そうじゃないか。なあ、小傘﹂
だから、素寒貧だなんて言い触らされたら格好つかないのだ。
﹁くそっ、今晩は厄日だ! なんなんだよー﹂
すかした顔した赤蛮奇がついに顔を真っ赤にすると、マミゾウはにやにや笑い、その横で小
傘は二人をきょとんとして見ていた。
204
赤蛮奇の家はうらびれた路地裏にあり、三軒も並んでいない長屋の一室だった。
手狭で奥に伸びた部屋は、居間の床面積が六畳もなく、三人も入ると窮屈だ。
出すお茶も無い、と赤蛮奇は精一杯の抵抗したけれど、マミゾウが葉っぱを出してチンカラ
ホイと唱えれば三人分のお茶がもてなされ、あれよと赤蛮奇はマミゾウと小傘と車座になって
いた。
右にはマミゾウ、左は小傘。赤蛮奇は自宅の狭さをこんな呪ったことはない。
﹁ねえ。その傘、邪魔だから畳んでよ﹂
茄子色の傘に言うと、小傘はおずおずと足を曲げて三角座りになった。
﹁いや、あんたじゃなくて、傘⋮⋮﹂
﹁えっ﹂
﹁こやつは付喪神じゃからの。勘弁しておくれ﹂
﹁フン﹂
悪意はなかったのだが、マミゾウに諌められた。言うだけ無駄と分かっただけだ。
さて、とマミゾウが音頭を取る。
﹁小傘、一体どうしたと言うんじゃ。こやつに絡まれていたみたいじゃが⋮⋮﹂
205 赤提灯の如く見るもの
赤蛮奇は不満気になり、小傘は真面目な顔して頷くと、そんな彼女をじっと見つめる。
﹁バンキちゃんに頼みごとがあって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁子供を捜して欲しいの。お寺で面倒をみていたんだけど、いなくなっちゃって﹂
マミゾウの言葉にさらにツンとそっぽ向いたらついに首が一回転、目の前にはキスでもする
のかってほど近い小傘の顔。
てやったらどうじゃ﹂
﹁ろくろっ首よ、仕事が忙しいんだと言っていたが、どうせ嘘なんじゃろう。小傘の話を聞い
﹁興味ないね﹂
﹁だって、探偵をやっているんだって聞いたよ。えーと、誰から聞いたんだっけな⋮⋮﹂
回して赤蛮奇はぶーたれた。﹁手伝わなくちゃいけないの﹂
ほう、とマミゾウは驚く一方、赤蛮奇は聞きたくないとばかりにそっぽを向いた。
しかし小傘は諦めず、体を乗り出してずいと赤蛮奇に迫る。
﹁お願い、バンキちゃん! 子供を捜すのを手伝ってよ∼﹂
﹁⋮⋮なんで私が﹂ずずいと迫る小傘⋮⋮からそっぽ向き、普通じゃありえない角度まで首を
206
迫る彼女の体を押し退けた。
﹁あーれー﹂
転がっていく傘は無視して、マミゾウに向かって弁明する。
﹁嘘じゃない。貧乏暇なし、多忙で過労死。今だって、私は仕事中さ﹂
﹁さっすが探偵さん!灰色のノーサイボー!﹂傘は無視する。
﹁ほうほう。どんな仕事じゃ ? ﹂
﹁⋮⋮なんであんたに教える必要が?﹂
﹁守秘義務は守っとるようじゃな﹂
﹁⋮⋮﹂
行灯の光が、ぼうと赤蛮奇と小傘の顔を照らしていた。
ポン、と拍手。
!?
何時の間にやら煙管をふかしたマミゾウが、眼鏡の奥からちろりと覗くと、おずおずと二人元
︱
と頭を揺らして二人は睨み合 う 。
と、再び小傘がずずずいっと迫って来て、思わず体を仰け反らせる赤蛮奇。
﹁だからさー。お願い! 今も、どこかで迷子が泣いてるかもしれないんだよ ﹂
﹁⋮⋮﹂あんまり仰け反ったもんで、頭が体からぽろりと零れ、そのまま、のらり、くらり、
207 赤提灯の如く見るもの
の場所に座りなおした。
﹁ホント ﹂
マミゾウは制して小傘を座らせ、不敵な笑みを浮かべてみせた。ふう、と吐き出す煙草の煙。
﹁儂が子供探しに協力してや る ﹂
﹁まあ、慌てずともよい﹂
小傘は不意にきょとんとし、﹁⋮⋮あっ!﹂とあわてて立ち上がった。﹁私みんなに知らせて
くる!﹂
﹁小傘以外に、誰か寺の者でその事を知っておるのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
ンキちゃんと会ったから⋮⋮ ﹂
﹁ほんの少し前よ。子供がいなくなったのに気がついて、あわててお寺を出たあと、すぐにバ
そんな視線はいざ知らず、マミゾウはにこりと笑って小傘に訪ねる。
﹁小傘よ、子供がいなくなったのはいつ頃なんじゃ?﹂
この化け狸、一部の妖怪からは親分と呼ばれるだけあって、狼きどりの赤蛮奇にしてやりに
くい相手だ、と思わせる。
208
小傘の顔は狸に化かされたみたいに一変、曇り顔から晴れ顏なり、赤蛮奇はうっとおしくそ
!?
ὀἡ὜὏
HAGURUMA
249 はぐるま
少名針妙丸は道具屋を生業にしていた。
自らそう名乗ったことは無いので、屋号は無い。
ただ、あちらで道具が壊れたと聞けば伺って修理し、道具が欲しいと要望があれば見繕うか、
簡単な物なら作ってみせた 。
集落の中ではまだ幼い少女だったが、その働きは大人たちに認められ、重宝された。何より、
子は宝と言う様に可愛がられていた。
百人も数えない集落。みんなが家族であり、針妙丸も道具のやり取りで金銭の要求をしない。
ただ、食事や嗜好品を、御駄賃に貰う。何か欲しいと思った時は、自分と同じ様に食べ物や服
飾を生業にしている者に声をかける。
だから、集落に商いらしいものはない。持ちつ持たれつ、人と人とが縁で繋がれて出来た輪。
その閉じられた集落こそ、小人族の世界だった。
小人族は、忘れられて久しい種族である。
その小さな体は、鳥や獣、昆虫にすらも脅かされる。彼らは小さい体をさらに目立たぬよう、
小さく小さく暮らすことを余儀なくされた。
250
強者に見つからぬよう⋮⋮ちいさく、ちいさく⋮⋮。
その願いは叶い、いつしか小人族は人間たちに忘れられた。
しかし、彼らは生きていた。自分たちの世界を守り、幻想郷の片隅の集落で暮らしていた。
針妙丸は、その小人族の末流の少女である。
集落から一歩外に出れば、たちまち強者に害される。そう教えられて育った。
しかし針妙丸は、時に儚さを覚えるこの世界が嫌いではなかったのだ。
﹁ありがとうー﹂
それが針妙丸の口癖だっ た 。
人から何かを貰った時はもちろん、仕事を依頼されては﹁ありがとうー﹂
。道具をあげる時
にも﹁ありがとうー﹂、おっちょこちょいにも、挨拶されて﹁ありがとうー﹂と返してしまうこ
ともあって、流石にその時は笑い者になり、針妙丸も赤面してしまった。
朗らかに笑い、健気で少しだけ背伸びしがちな彼女を、みんなは何かと世話してくれた。
針妙丸は人との繋がりが嬉しかったのだ。
小さい世界だからこそ、自分でも役に立てる。小さな少女にはそれが嬉しかった。
自分が大した奴ではないことを自覚していた。他人に認められて感謝するのは、自分自身が
小さな輪の、縁を飾るちっぽけな存在に過ぎないと知っていたからだ。
251 はぐるま
もちろん針妙丸にも両親はいた。
しかし、七を数える頃には今のように暮らしていたと思う。
自身はよく覚えていないが、周りの者が言うには、両親はブラウニー︵小人族の間で一時流
行った言葉。人間の手伝いをする小人のことをそう呼ぶ︶になると言って集落を出たという。
きっと、もう死んだだろ う 。
小人族は弱い種族だ。集落が結界で守られているのも、無闇に外へ出てはいけないのも、あ
らゆる生き物に抗う術がないからだ。
針妙丸は、小人族では珍しいことだが、その事も知っていた。
そして、機械の歯車がそうである様に、その世界の横ではまた別の歯車が回っている。
そうやって、閉じられた小人族の世界は小さな歯車のように、くるくると回っていた。
わざわざ、その輪から出て行った両親の事が、針妙丸には理解出来なかった。
小さな世界で暮らしていくことは、こんなにも喜ばしいことであるのに⋮⋮。
ちっぽけな生き物だ。外では生きられない。
集落を出た者はすぐ死体になったと された。
針妙丸は両親の事を考えると不思議な気分になる。何故そんなものになりたがったのか、ち
いとも分からなかったのだ 。
252
なぜなら針妙丸には、神 宝
打ち出の小
×
×
×
を扱う能力があったからだ。
青空に、ぽこぽこと雲が浮かんでいる。
生ぬるい風は、涼の気配を潜ませていて、また甘い匂いを孕んでいた。
時期に秋。
黄金色の収穫の予感に里は活気立っていた。
その雰囲気を感じて、針妙丸はふくりとした頬を持ち上げる。
﹁うふ、良い季節になったわねー﹂
敷いた茣蓙︽ござ︾に座り、人行きを眺めながら呟いた。
通りがかった団子売りから買った、もちもちの団子を頬張る。噛むほど甘みが出て、よだれ
と格闘しながら堪能する。
すかさず針妙丸が﹁良かったら見て行ってー﹂と声を掛ければ、何人かが足を止め、広げた
かわいらしい少女がほふほふと団子を食べてるのは微笑ましく、往来の人も笑顔になった。
﹁んー美味しいー﹂
茣蓙に並ぶ商品を見て行ってくれる。
椀が二つほど売れ、代金を手にして﹁ありがとうー﹂と針妙丸は笑った。
もういっちょ、﹁ありがとうー!﹂とすでに遠ざかった団子売りにも声をあげた。
団子、団子、と張り上げながら歩いていく団子売りの背中には、日本一、と幟︽のぼり︾が
立っていて、なるほどきび団子だったのね、と針妙丸は妙に納得する。
ここは、人里だった。
今日は里で月に一度開かれる市の日だった。
人間、妖怪が交じって多種多様な物が売られるこの日、針妙丸はそっと端に交じって、作っ
た物や修理した道具を売る 。
小人族の体を、人間と同じ大きさに出来る
︱
打ち出の小
の魔力だった。
小人族にとって、外の世 界 。
死地に等しい、大きな世界だ。
何気なく歩く人間も、ほがらかに話す妖怪も、小人族にとっては強大な鬼に等しい。
針妙丸が店を開いて笑っていられるのは、ひとえに 打ち出の小
の魔力のおかげだ。
この小 に﹁おおきくなあれ、おおきくなあれ﹂と願えば、小人族である針妙丸の体はみる
みる大きくなり、見た目に人間の少女と変わらなくなる。
︱
253 はぐるま
針妙丸は月に一度この道具を使い、こっそり人間に紛れて銭を稼ぐ。そして人里で食料や道
具を仕入れると、集落へ帰る。これは危険な役目だったが、限られた所で暮らす小人族にとっ
て、外からの仕入れは必要な仕事だ。
針妙丸は率先して働いた。それは思惑あってのことだ。
打ち出の小 を使わせてもらいたかったのだ。針妙丸は大きくなった広い視界が好きだった。
小人族は草の葉一枚で何も見えなくなってしまう大きさだ。けれど、人間は違う。
人の往来も、建物も、足元にじゃれつく犬も、みんなちょうど良い大きさで、優しい。
みんなは外が怖いと言うけれど、打ち出の小 を使えば、こんなに良き世界を見られるのだ。
⋮⋮いや、もちろん怖いお兄さんや妖怪に半べそをかかされた経験だってあるのだが。
しかし、それも含めて外の世界の酸いも甘いも知っているのが、小人族では自分だけだとい
う自負が針妙丸にはあったし、誇りに思っていた。
どこか楽観的に、針妙丸はそう考えていた。
いざってときは、逃げれば良いもん。
もちろん、針妙丸が小人族だということは隠し通さなければならないが⋮⋮。
だから、人里の市に参加し、ささやかに人間たちと交流を持つことは、仕事という以上に針
妙丸の心をときめかせるものなのだ。
︱
254
255 はぐるま
市は昼を過ぎ、ゆるゆるした午後の陽射しに当てられて、のんびりしていた。
ぼうっと針妙丸も往来を眺めていると、声が掛かる。
﹁あら、スクナ。こんなところに居た﹂
人通りから離れ、いつの間にかひとりの少女が店の前に立っていた。
見知った顔だ。針妙丸は自然と明るい声が出る。
﹁こんにちはー﹂
﹁ええ﹂
来たのは、毎度店を見ていってくれる少女だった。
くすんだ赤毛を揺らして、いつも斜に構えた態度の少女は、商品を見るでもなくどっかと店
の前にしゃがみ込むと、呟 く 。
﹁まったく、人間が多すぎる⋮⋮﹂
少女が人嫌いらしいことを知っていて、針妙丸は苦笑する。
﹁だって市ですから。まあいつもより、賑わっている感じもするけどねー﹂
﹁もう秋だもの。すぐに冬。脆弱な人間が遊んでいられるのは、今の内だけなのよ﹂
針妙丸が茶化して言うと、赤蛮奇のいつも澄ました表情が、ムッとなる。
﹁赤蛮奇さんだって人間じゃないですかー。あんまり遊んでちゃあダメですよ?﹂
256
﹁うぐ。誰が人間⋮⋮あ、いや、私はいいのよっ﹂
﹁?﹂
﹁⋮⋮き、鍛えてるから! スクナこそ、そんなちみっこい体で大丈夫なの?﹂
赤蛮奇がにやりと言うと、針妙丸のいつも朗らかな表情が、ムッとなる。
﹁ち、ちっちゃくないもん! 小 の力でこんなに大きく⋮⋮、あ、いや、大丈夫﹂
﹁?﹂
﹁⋮⋮き、鍛えてますから ! ﹂
﹁だ、だよねえ?﹂
二人そろって、何かをごまかしにかかって笑い飛ばす。
あははは⋮⋮。
初秋の高い空に、乾いた笑いが立ち上った。
﹁人間なのよ﹂/﹁人間ですからー﹂
笑い声の幕が下り、危ういところであった、と針妙丸は胸を撫で下ろした。
赤蛮奇も一息吐いて、小気味よく針妙丸に尋ねる。
﹁なんか新しい物はあるかしら?﹂
﹁んー。興味ありそうなものですとー⋮⋮﹂
257 はぐるま
それから二人は長々と雑談をし、赤蛮奇が﹁荷物を減らしてやろう﹂と言って端から端まで
品を見てから、結局 を一本と箱入りの茶碗を買った。
を手に、膝上に乗せたものを撫でる真似をしていたから、ペットでも飼っているのかもし
れない。
また来月の市に来ることを約束して、赤蛮奇は一足で人波に消えた。颯爽とした立ち振る舞
いの彼女は、少しだけ針妙丸の憧れであったりもする。
そいつの名前は、鬼人正邪という。
そいつが、針妙丸と赤蛮奇が会話を始める、ずっと前から彼女を見張ってたことにも。
その呟きを聞き止めた者がいることに、針妙丸は気が付かなかった。
何気なく口にした思い。
自分が小人族だという負い目がある以上、叶わぬとは思うのだけれど。
一人になると喧騒が少し遠のいて、針妙丸はまたぼんやりと人行きを眺めた。
﹁人間かぁ⋮⋮﹂
×
×
×
時は少し進み、幻想郷の秋が深まった頃。
針妙丸と正邪は、程なくして同じ光景を見ることになる。
空に浮かぶ逆さまの城から、頭上に広がる幻想郷を足元にひっくり返すために立つ。
我々はレジスタンスだ、と!
自分たちのことを二人は呼んだ。
小人族にとって雲上の視界など、夢にもなかった山紫水明、見るに飽きることがなかった。
もう何時間も、針妙丸は刻々と流れる空の下に広がる美景を眺めていた。
夏は最後の雨に流されて、すっかり秋。
山の端に日が昇り、明星光る空の下、赤橙に色付いた紅葉は優美に濡れて輝いている。それ
が幾重に連なり、幻想郷を豊かに彩るのが輝針城からだとはっきりと見渡せる。
針妙丸は呟く。
輝針城から外を見渡せる部屋。手すりにもたれていると、風がよく当たった。昨晩の雨降り
で、大気は湿っていた。
その拠点こそ、小人族の伝説、輝針城と呼ばれる逆さまの城であった。
その城にあって、針妙丸と正邪は自分たちにとっての幻想郷を見た。
﹁ちょっと、寒いな⋮⋮﹂
︱
258
この景色を、皆の手に取り戻す。
﹁きれいだな⋮⋮﹂
厳しく睨みつける視線など何処吹く風と、正邪は腹をこすり、ニヤリとした。
正邪が、大言垂れる割に自堕落であることを、針妙丸は短い付き合いの間に感じていた。
ぼさぼさの寝癖顔で部屋から出てきた正邪に、あきれて針妙丸は言った。昨日の昼から今ま
で、彼女はずっと寝過ごしていたのだ。
﹁⋮⋮正邪はもうちょっとしっかりしたら?﹂
﹁はあん。気合い十分だな ﹂
小 が震えた。先ほど針妙丸が震えたのとは違う。熱くて、強い力。
そうしてひとり黄昏ていると、針妙丸の心持ちと真逆に、弛緩するような甘い香のにおいが
背後から漂った。
剣とは逆の手に携えた小 を見る。
﹁そのための力を、私は持っている!﹂
ふるりと針妙丸は体を震わせた。
携えた輝針剣をぎゅっと握る。剣の鋭い意思に鼓舞されて、心が昂った。
﹁今の私は、何だって叶えられる﹂
︱
259 はぐるま
260
﹁腹が減っては戦は出来ぬ⋮⋮って言葉があるだろ?﹂
﹁あるね? それが⋮⋮ああ、お腹空いたの、正邪?﹂
﹁ばぁか。天邪鬼の私が格言なんて使うもんか﹂
﹁でも空腹じゃ、力が出ないわ﹂
﹁そんな言葉、ありゃあ嘘だ⋮⋮﹂
グウッと正邪の腹が鳴った。昨晩から何も食べていないのだ。
腹を押さえて、正邪は獣みたいに口を開く。
﹁針妙丸。戦いってのは⋮⋮腹が減ってるから出来るのさ﹂
どっかりと正邪は腰を下ろし、外を見る。
﹁いいなぁ。里の方じゃ豊作だ。きっとあいつらも、美味いもん食ってるんだろう。でもさぁ。
私らみたいな弱い連中は、奴らの肥やしにされて終わりだ。見返り求めて近づいても、踏みつ
ぶされて泣いてばっかりだ。そうだろ? 飢えて飢えて恨んで恨んで⋮⋮あいつらの足元から
見上げてばかりで﹂
針妙丸は見上げた。空は、まだ暗い。
ダンッと正邪が足を踏み鳴らして城の床を叩く。
﹁ついには、これだ﹂
ハハハ、ハハハ⋮⋮。
︱
。
捻くれ者が、まっすぐに伸ばしてきたその手を見て、針妙丸は戸惑った。
そして、思い出していた 。
この鬼人正邪と出会ったその日に起こった、数々のことを
×
×
×
針妙丸はそれを横目に、店を畳んでいた。
その一方で、新しく荷物を担いで来る商人も見られる。どれも怪しい風体の者が多い。
人里は夕暮れ色に染まり、もうじき日が沈む。市は人も物も、今朝の半分に減っていた。
﹁正邪⋮⋮﹂
正邪は、手を差し出した 。
﹁やろう。針妙丸。お前の力が必要だ﹂
そがレジスタンスだ!﹂
笑い声が黒い空に響き渡った。
﹁私は、この逆さまの城をひっくり返す。そしてあいつらを足元に見下ろしてやる。私たちこ
︱
261 はぐるま
ाἜ὚‫ݹ‬ΜἼؐἡ
SOKOKARA TENJOU NI TUGU
真っ昼間に目を覚ますと、仰向けになったあたしの胸の谷間で針妙丸が寝て居やがった。
﹁ふぇぇ、正邪のお乳でおぼれちゃうよぉぉ⋮⋮ムニャムニャ﹂
幸せな顔した寝言だが、不快極まりない。
﹁おい。起きろ﹂というか死 ね 。
部屋の隅っこでガタガタ震えながら黒い悪魔に襲われて、視界に入らない所であっさりと埃
に塗れて死ね。
まったく、人の懐で安らかな顔をしてるんじゃない、ボケ丸が。
﹁針妙丸。朝だぞ﹂昼だが。
うへぇ。なんかベタベタするのは、汗かよだれか?
谷が出来るほど、あたしのおっぱいは山ってない。
谷間⋮⋮いや、正確には胸と服の伱間で寝そべっている頭を小突く。
寝起きにゃ辛い、昼の日差しに吐き気を催しながら体を揺らす。
手のひら程度の大きさのガキを、起き掛けに見るのは、なんだか現実感がない。
﹁おい。チビ﹂
291 底から天井に告ぐ
﹁ぼ、ぼにゅうぅぅ⋮⋮。ぼにうー﹂
年期が入ってボロいし、台所と風呂が広いくせに部屋が狭い、オマケで立地が悪いのも、と
勝手知ったる我が家だ。
火だの鍋だのをチャキチャキ用意して、何か朝食になりそうな物を探して、ついでに漁る。
背中に針妙丸の声を聞き、あたしは台所に立つと木のお椀を取り出した。
﹁んー⋮⋮﹂
針妙丸がぐしぐしと肌に擦りつく。ぐしぐしすんな。虫に いずり回られている気分だ。
つーか、あたしが大人しくしてるから悪いのか。
胸元の小動物をヒョイと摘み上げると、適当に放り投げた。
まずは⋮⋮飯でも食うか。
﹁ぎゃっ! うごぉ﹂
蚊の鳴くような悲鳴が聞こえたが、気のせいだ。
天邪鬼はウソつけない。
だからあたしが、聞こえた、って言ったらそれは間違いない。気のせいだ。
それよりも腹が減った。
﹁起きたなら、湯を沸かすから、風呂の準備でもしてなあ﹂
292
っくに慣れた。隠れ家なんてそんな物だ。外観だけは気に入っている。文句無し。
しかし、なんで家にあの、針妙丸のちびが居るのだろう。文句有り。
﹁おうい。ちび丸子﹂
﹁あたしゃ許さないよ!﹂
﹁針妙丸﹂針妙丸は名前でからかうと怒る。
﹁なんでここで寝てたんだ?﹂
﹁貴方に攫われたんだけど。わたし﹂
﹁あっそう﹂
そういや、酒の肴が足りなかったから連れ出したんだ。
打ち出の小 を振らせて出て来た魚貝の、うまい事と言ったら。
対価に針妙丸の身長が0.1 縮んだらしいが、知らん。あたしから見たらそんなの誤差だ。
本人は泣いていた。
mm
あたしは天邪鬼であって、鬼じゃあないから美味しく頂けるしな。
くつくつ、くつくつと、湯の沸く音と、白い湯気。
幸いに、昨夜に二人で食べた酒のつまみが残っていたので、全部鍋の中にぶち込む。
適当に出汁が取れたら、醤油なり味 なりで味つけときゃ食べられるだろう。豆の力は偉大
だ。
293 底から天井に告ぐ
﹁あれれ∼? もう昼間じゃないの。朝に起きるって決めてたじゃない﹂
針妙丸がすっとぼけた声を出した。あたしは忙しなく料理している振りをして、鍋をぐーる
ぐる混ぜる。
﹁馬鹿だなあ。お日様も今起きたところさ。あわてて、空に上って行くのを見たぜ。まだ朝な
んだよ﹂
﹁うっそだあ。わたしたち、寝過ごしたのね﹂
﹁朝飯を食うんだから、朝だろう。そら、出来た﹂
味 で味付けたごった煮を、椀によそる。
ああ、湯気があたたかい、良い香り。ゆるりと波立つ汁が黄金色に見える。
ぐうっーとお腹が鳴るのも、今なら許してやれるってもんだ。
あたしは上機嫌で味 汁を持って行った。
ちゃぶ台の上では針妙丸が待っていて、そのワクワクした顔の前に、コトリと椀を置いた。
なんでだか、針妙丸は、素っ裸の格好だ。
着物をきちんと畳んで脇に置いている。
しかし服を着てないと、ますますガキにしか見えんな、コイツ。
﹁ねえ、正邪。なにこれ?﹂
294
﹁味
汁﹂あたしは言い切っ た 。
﹁お湯沸かすから、風呂の準備しろって言わなかった?﹂
汁が出てくるのー!?﹂
﹁言った﹂あたしは言い切る 。
﹁なんで味
﹁そりゃあ、お前、朝飯だからだろう﹂当然だ。
針妙丸はお椀のお風呂が大好きだ。
見た目には五右衛門風呂とでも言いたいが、小人族の間では一寸法師にあやかって、ボウシ
風呂と呼ぶらしい。
最近のトレンド、目玉商品は酒をお湯に入れるらしい。あたしからすれば親父くさい気がす
る。目玉の親父風呂、なんて な 。
つまり何が言いたいかって 、
﹁正邪は⋮⋮わたしのお出汁が欲しいのね﹂ドキドキと興奮した表情で針妙丸がしなを作る。
ぱっ、と叫んだ顔は薄桃色に染まり、全てを受け入れるように大きく広げた姿は生まれたま
まですがすがしい。
の!﹂
﹁ い い よ。 わ た し、 正 邪 に な ら、 食 べ ら れ て も ⋮⋮。 う う ん。 初 め て は 正 邪 っ て 決 め て い た
295 底から天井に告ぐ
ああ、傍らの味 汁が冷めてゆく。
﹁阿呆か! 嫌がらせだよ。お前の阿呆面で阿呆な事言うと阿呆を露呈するだけだから阿呆な
事言ってないで黙ってろ阿呆 ! ﹂
﹁にゅうん⋮⋮﹂
﹁まったく、面白くない﹂少しはしょんぼりした針妙丸の顔を見て、あたしはニヤリと笑う。
うふふ、と笑うがゾッとしねえ。小人が腹の肉を破って中から出てくる想像をして、思わず
腹に手をやった。
﹁初めては正邪って決めてたの。初めての、貫通式﹂
﹁おいおい。あたしの腹を針で刺すつもりか?﹂
﹁わたしの晴れ舞台ね﹂
相変わらず、からかいがいのない奴。思わず笑ってしまう。
いっそ本当に出汁をとって食ってやろうか。多少はたんぱく質とかになるかも知れん。
栄養は無さそうだがな。ちびだし。阿呆だし。腹壊しそうだし。
ふと、あたしは気が付く。
⋮⋮っていうか。
﹁それじゃ、本当に一寸法師じゃねーか﹂
296
ぐ∼っと腹がなる。
﹁くそ。お前が阿呆言ってるから味
﹁一緒に入る?﹂
汁が冷めちまった。風呂は後にしな﹂
﹁わかったわかった﹂まあ、お椀に入れる訳ないが。
﹁じゃあ、朝ごはんにしよう。今、おっきくなるからね﹂
﹁わかったわかった﹂
さて飯だ。
いい加減あたしのお腹ちゃんも待ちかねて泣いてるよ。
いい香りだ。
お椀を持つと黄金の汁がゆらめいて鼻をくすぐる。それごとかぶり付く様に、スズぅと頂く。
﹁んー。悪くなくなくない!﹂というか、美味い。
あの、願いを叶える打ち出 の 小
は、針妙丸のような小人族にしか扱えない。
一寸法師の本領発揮という感じだ。
みるみる小人サイズだった針妙丸が、あたしと変わらない背丈まで大きくなる。
さて針妙丸はというと、その辺に酒瓶と一緒に転がっていた打ち出の小 を振るって﹁おお
きくなあ∼れ∼、おおきくなあれ∼﹂不思議な踊りを披露していた。
297 底から天井に告ぐ
それを使って小人から一般人になって、何をするかと思えば、台所に行って自分の分の飯を
よそってきた。
汁が美味いだなんて、野良犬と変わらんぜ﹂
小人だったときに比べて、視界の占有率が高い。大きいってことは、その分だけ存在感があ
るってことだ。
ほへら、と表情をだらしなくして針妙丸は笑う。
﹁ふん。味音痴﹂あたしはずずゥと食事に集中する。
﹁だって美味しいもの﹂
﹁嫌みか。こんな適当に余り物ぶち込んだ味
﹁ずずーっ。⋮⋮美味しい! ﹂
同じ目線になった分、表情がよく見えてことさらうっとおしい。
﹁うふふ。おいしそ∼﹂
﹁なんでいちいち、大きくなるんだよ﹂
味 汁の椀が二つに増える 。
あたしはモグモグ食べながら、不服な視線でそれを見る。
対して横に座る針妙丸は終始笑顔だ。
﹁いっただきまーす﹂
298
うっとおしいことこの上な い 。
﹁あのね。元のまんまだと、﹂針妙丸は人差し指と親指で︵ちょびっと︶を示す伱間を作る。
﹁これっぽっちしか食べられないでしょ?﹂
ふふん、と得意げな表情だ 。
﹁⋮⋮でも大きくなると、こ∼んなに食べられるの!﹂
恭しく両手でお椀を持つと、ズズぃっと汁を飲む。
﹁すっごいお得でしょ!﹂
﹁⋮⋮あたしがな﹂やっぱ阿呆だ、こいつ。
ちっこいまま食事した方が、針妙丸的には浴びるほど飲み食い出来るだろうに。
あたしとしては、でかい方が残飯処理出来て都合がいい。
﹁それに、ねえ。正邪。正邪 ﹂
﹁なんじゃ﹂
ちろり、と見たが最後だっ た 。
阿呆みたいに満開の笑顔をした針妙丸に見惚れてしまったのだ。
フウッと思わず息が止まっ た 。
﹁︵針妙丸の口が動いている。だけどあたしの耳には言葉が入ってこない。
︶
﹂
299 底から天井に告ぐ
ああ。認めよう。あたしは素直じゃない。
﹁うるさいな。そんなの、同んなじだ﹂
﹁本当に ∼﹂
﹁嘘言ったことあるか?﹂
!
〝正↓邪〟あたしの名前。
誰かを映す事でしか、私を表現出来ない。
︵あたしは鏡。ひねくれた鏡 ︶
ひねくれ者の住人は、皆が右を向けば左を向き、楽しんでいれば落ち込んで、正実な事には
嘘を吐く。
天邪鬼が恋をするとしたら、何に恋するだろう。
あたしは、人から嫌われた い 。
嫌がらせが大好きだ。喜ばれるのは死んでも嫌だ。
︵独りでは生きられない︶
﹁ない! いやん。照れちゃ う ﹂
言い切りやがった。やっぱ阿呆だ。
︵だとしたら、本当の愚か者はあたし︶
300
正しい者を、あたしは愛す る 。
正しければ正しい程、強ければ強い程。それを映す鏡も、明るく輝いて魅せるからだ。
︵憧れる妖怪と云ってもいいかも知れない︶
神話の中の英雄。おとぎ話の主人公。ヒーロー。
ああ、こいつらをギャフンと言わせてやりたい。悔しがる顔が見たい。辛酸を舐めさせて、
痛い目に合わせて、あたしの顔と名前を心に刻み付けてやりたい。
︱
汁には、毒を入れていたんだがー﹂
それが出来たら、死んだってかまわない。あはは、あはは、と笑うぞ。
幸せな顔してあたしは死んでやろう。
天邪鬼は正しい者を愛するんだ。
したな!/偽ったな!/裏切ったな!
英雄たちの珠のような心に、ちょっぴりの傷を
つけるために。
﹁ごちそうさま!﹂
﹁ふぇっ!?﹂
﹁そいつは良かった。⋮⋮ところで、針妙丸よ。今の味
無邪気な顔して、針妙丸が言った。
﹁ふう。お腹いっぱいよ。正邪は料理がうまいねえ﹂
301 底から天井に告ぐ
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